小諸城(こもろじょう)

小諸城の基本情報

通称・別名

酔月城、穴城、白鶴城、鍋蓋城

所在地

長野県小諸市丁311

旧国名

信濃国

分類・構造

平山城

天守構造

型式不明[3重/1590年頃/焼失(落雷)]

築城主

武田信玄

築城年

天文23年(1554)

主な改修者

仙石秀久

主な城主

武田氏、仙石氏、牧野氏

廃城年

遺構

曲輪、大手門、三之門、天守台、石垣、横堀(空堀)

指定文化財

国重要文化財(大手門、三之門)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

御影陣屋(長野県小諸市)[5.7km]
望月城(長野県佐久市)[8.0km]
根井氏館(長野県佐久市)[8.2km]
岩尾城(長野県佐久市)[8.2km]
大井城(長野県佐久市)[8.3km]
伴野城(長野県佐久市)[12.2km]
志賀城(長野県佐久市)[13.1km]
平賀城(長野県佐久市)[13.9km]
真田氏館(長野県上田市)[14.7km]
長窪城(長野県小県郡)[14.8km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

28 小諸城

設置場所

懐古園事務所入口[地図

小諸城の解説文

小諸城の起源は、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎光兼(木曽義仲の武将)が、現城址の東側に築いた館(宇頭坂城)に始まる。

やがて小室氏は南北朝時代に衰退し、大井氏が勃興して小諸佐久地方を支配することとなるが、戦国時代に入り、佐久地方も戦国の騒乱に巻き込まれ、大井宗家 は滅亡し、大井家の一部は小諸に逃れ、中沢川のほとりに小諸城の前身である鍋蓋城を築城し、さらに激化する乱世に備え、その子孫が乙女城、別名白鶴城を現 在の二の丸付近に築城し、周辺の要地には支城を配置して外敵に備えた。

山本勘助の縄張り 

天文23年(1554年)、甲斐の武田信玄の侵攻で鍋蓋城以下は武田氏の手中に落ち、以後約30年間、武田氏の城代によって支配される。

信玄は、この地の重要性にかんがみ、重臣の山本勘助と馬場信房に命じて鍋蓋・乙女城を取り込んだ新たな縄張りをして城郭を整備し、総合的な大城としたのが小諸城の原型である。

武田氏の滅亡後は、織田、徳川と支配が移ることとなる。

仙石秀久の大改修 

天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、小田原攻めの軍功により再起を果たした仙石秀久が5万石で小諸に封ぜられる。秀久は城の大改修と城下町の整備に取り掛かり、今日遺構の残る天下に類のない堅固な城とした。

世は徳川による天下泰平の時代となり、仙石氏は秀久の子忠政のとき上田城に移り、小諸城は徳川家光の弟の忠長の領有するところとなり、城代が置かれた。そ の後もめまぐるしく城主が変わり、石高も5万石から2万石へと減らされてきたが、極めて要衝な藩領のため、歴代藩主には徳川譜代が配されていた。

牧野氏10代の居城 

元禄15年(1702年)、越後国与板藩より牧野康重が1万5千石で入封すると、版籍奉還まで約170年間、牧野氏が10代にわたって居城とした。

明治4年(1872年)の廃藩置県で小諸城は役割を終え、明治13年(1880年)に城郭は払い下げられ、小諸藩の旧士族の手により本丸跡に神社が祀られ、「懐古園」と名付けられた。

その後、大正15年(1926年)に、造園の権威である本多静六の設計により、近代的な公園に生まれ変わった。

島崎藤村と小諸 

明治32年、かつての恩師木村熊二に招かれて、小諸義塾の英語と国語の教師として赴任。函館の網問屋秦慶治の三 女冬子と結婚。小諸町馬場裏の士族屋敷跡に新家庭をもつ。以降、小諸で過ごした6年余の間に「雲」「千曲川のスケッチ」「旧主人」などが生まれ、大作「破 戒」が起稿された。

昭和2年には、有島生馬の発案により、藤村の友人や門下生によって懐古園内に「千曲川旅情のうた」の詩碑が建てられた。詩碑の詩は藤村の自書、鋳造は高村豊周による。

アクセス 

・しなの鉄道又はJR小海線、小諸駅下車、徒歩3分
・信越道小諸インターより10分
・乗用車・バス駐車場(懐古園大駐車場)

情報提供:小諸市商工観光課


小諸城の口コミ情報

2022年09月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
布下氏居館[小諸城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

布下氏居館は小諸城の西方約5.0km、千曲川南岸(左岸)、標高約542mの河岸段丘台地緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は自身の責任においてそこら辺に捨てましょう。

築城年代は不明、お住まいになられていたのは布下氏です。布下氏の出自は不明ですが、東信の小さな在地土豪としては比較的名が知られているんじゃないでしょか。天文十七年(西暦1548年)八月、有名な釈尊寺(布引観音)南方に位置する楽厳寺城を武田勢が落とした際、布下氏の要害である布引城も落城、布下仁兵衛雅友と楽厳寺雅方(「雅」の通字から望月氏の被官であった可能性が高い。又、雅友を当時の望月氏当主、信雅の弟、望月新六に比定する向きもある。)は村上氏を頼ります。謂わゆる「砥石崩れ」として知られる武田勢による砥石城攻めにおいて両名は奮戦、城を守り抜く事に成功しますが、村上氏の信濃退去後は武田氏の被官となり、永禄十年(西暦1567年)八月に提出された生島足島神社文書中に残る依田長門守頼房等連署起請文中に両名の名が見られる他、天正壬午の乱の際には布下伊勢が依田氏に従い功があったと伝えられています。ちなみに布下、楽厳寺の両名は天文二十三年(西暦1554年)、越後長尾氏への内通を疑われ成敗されたと甲陽軍鑑に記述があるそうですが完全な誤り。

居館の現況は耕作地等となっています。北御牧村(廃村、現東御市)遺跡詳細分布調査報告書によると260m×210mの規模と報告されていますが、在地土豪の居館跡としては広大に過ぎる事から信濃のお城の神は疑問を呈しています。居館の正確な位置は判明していませんが、神は3つの堀形(現況は段丘台地下段へ下る道と水路になっている。)の残る段丘台地東縁上に答えを見い出そうとしたようです。

永禄元年(西暦1558年)三月七日、望月信雅が兵火により焼失した釈尊寺を再興した際の棟札には布下民部少輔の名が見られるそう。布下氏居館はどうでもよいけど、小諸市随一の名勝(城好きだが決して小諸城ではないと思う…)、釈尊寺(布引観音)は人生一度は訪ねてみなけりゃならない名刹です。

2022年09月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
別府城[小諸城  周辺城郭]



別府城(屋敷)は小諸城の西北約5.5km、西沢川西岸(右岸)、標高約692mの平野部緩斜面上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は自身の責任においてそこら辺に捨てましょう。

築城年代は不明、築城者は別府氏と推測されています。同氏は滋野三家の一つ、禰津氏の一族、大塔物語には大塔合戦に参陣した禰津氏一族の名が記されており、桜井、別府、小田中、実田(真田氏の文書上の初見とされる。)、横尾、曲尾等の諸氏は禰津越後守遠光に従い大塔古城(比定地は複数ある。)の大手門に攻め寄りました。又、望月城のリア攻めマップにある善正城の口コミでも書きましたが、永享八年(西暦1436年)、芦田氏征討の為に小県郡へ押し出した信濃守護小笠原政康は芦田氏に与する滋野氏一党と戦い、芝生田、別府の両城を屠りました。信濃資料中の永享八年三月六日条によれば、時の将軍足利義教はこの際の功を賞して太刀を政康に賜っています。ちなみに信濃守護としての小笠原氏が最盛期を迎えたのがこの政康の代で、威令は信濃全土を覆い室町幕府への対抗意識を強める鎌倉公方への備えとして将軍家から直に相談に預かる程の重用を受けていました。

お城の現況ですが、別称にあるとおり居館城の類いで、大正十一年に編纂された小県郡誌では既に「…今平坦なる畑地となる。…」とあります。写真にある耕作地の中の激藪が城域のほぼ中心地、此処には祠があるらしいのですが、信濃のお城の神も「ものすごい藪で、…」と著述しており調査自体を諦めています。おいらも李下に冠を正さずの格言に従い、果樹園の前を抜けて激藪に挑むような阿保な真似はよう致しませんわ…

歴史的には地味ながらターニングポイントの一つとなった戦いの舞台でもありました。鎌倉公方を後楯とした村上氏は芝生田、別府の両城が落城、芦田氏が降った翌年の永享九年(西暦1437年)、小笠原氏に服します。これにより信濃守護としての小笠原氏による信濃全土の一円支配は名実共に一応の完成を見る事となります。

2022年09月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
大石城[小諸城  周辺城郭]



大石城は小諸城の西北約5.3km、西沢川西岸(右岸)、標高約621mの平野部緩斜面上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は大石公民館の駐車場に捨てましょう。

築城年代は不明、築城者は大石氏と推測されています。同氏については不明、明治時代、滋野村の字地名には既に大石が見られるので在地土豪の一氏でしょか。佐久郡大石郷を出自とする関東管領四宿老の一氏、武蔵守護代を歴任した大石氏とは何の関係も無いでしょう。

長野県町村誌には里老の伝えるところとして「大石太郎なる者、住して祢津氏の為に滅ぶと、其伝承ならず。長禄中(西暦1457〜1459年)祢津宮内少輔代官岡村四郎兵衛居住す。文政(西暦1466年〜1467年)の頃岡村四郎左衛門時則あり。」とある。領主ではなく代官の名が伝わるのは珍しいし、代官て事から当地は禰津氏の直接支配を受けていたて感じなんでしょか。又、大正十一年(西暦1922年)に編纂された小県郡誌には「…居館の址にて城塞にはあらざるべし。」と切り捨てられまくり…

お城の現況は耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっていて何も語れない感じっす。長野県町村誌にある「…四方石塁存し、堀の形跡あり。少しく高地にして、城畑と称し、北に外城の名あり。…」てあるんすけど石塁は崩れてばらばらになっちゃったんすかね、石の集積は所々で見掛けますが形にはなっていないし、この手の石積み自体を周辺地域ではよく見掛けるので後世のものなのかもしれない。堀形は消滅、城域の中心部には天神社と称する小社が鎮座、てか無造作に積まれた石の上でどこか不安気です。又、西沢川は天然の堀の役割を担っていた事でしょう。

謂わゆる街中遺構ハントとなります。が、何にも無いに等しいので悪しからず…ハイパーマニア向け、沼から抜け出せない方のみ。

2022年09月04日 RED副将軍✳️
小諸城



主郭へ登る城は多いですが、主郭へは降る珍しい城跡
石垣も良いですが、険しい天然の要害に注目して欲しい名城

木曽義仲の家臣である小室光兼が居館を築いたのが始まりとされます。
1487年に小室氏を追放した大井光忠が鍋蓋城を築城。
1554年に武田信玄により本格的に改修。武田信玄の甥で武田信繁の次男である武田信豊を入城させたと云われます。
1582年、織田・徳川連合軍の甲州征伐に際して、武田信豊は小諸城に逃れましたが、城代の下曾根浄喜に裏切られ自害。
武田氏が滅亡すると、織田信長家臣の滝川一益の所領となり、その家臣の道家正栄が入城。
しかし、3ヵ月後には本能寺の変にて織田信長が没すると後北条氏が侵攻してきます。滝川一益は後北条氏との神流川の戦いで敗退し、小諸城を経由して伊勢国へと退去しました。
北条氏重臣の大導寺政繁が佐久の押えとして入城し、旧武田領の支配を徳川家康と争います。しかし、武田氏の旧臣で徳川家康に付いた依田信蕃によって糧道を断たれたことで北条氏は徳川氏と和議を締結。
この功績により依田信蕃は小諸城を任され、その後も佐久平定のため対抗勢力と争うも岩尾城攻めで討死。
徳川家康は、依田信蕃の功績から嫡男の依田康国には松平姓と小諸城六万石を与えます。
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐で松平康国は上野国石倉城攻めで討死。依田氏は弟の康勝が家督を継承。小田原征伐の後は関東に転封となった徳川家康に従って依田氏も上野国藤岡に転封。
代わって小田原征伐で功績を残した仙石秀久が五万石で大名として入封。近世城郭として大改修を行い、1622年に2代忠政が上田城へ転封となるまで居城としました。
江戸時代には小諸藩の藩庁が置かれ、その後は松平氏、青山氏、酒井氏などが入封。
1702年に牧野康重が移封された後は明治まで牧野氏が藩主を続けました。

見所
千曲川の河岸段丘に築かれ、背後に当たる西側は千曲川の断崖を利用しています。南側と北側は深い谷に挟まれている天然の横堀。地獄谷と呼ばれ、垂直な崖の高さは約20mもある田切地形。穴城とも呼ばれる周辺よりも低い天然の要害こそが小諸城の一番の見所と思います。
現在は、本丸は懐古園として整備され天守台や石垣が残存。
懐古園の入口には三之門、大手門公園には大手門がが現存し重要文化財に指定されています。

2022年06月26日 龍獅子【宮内丞
小諸城

ほぼ全てリア攻めマップに載っている、小諸城関連の遺跡を巡りましたが、特に印象に残っているのは、巨大な石垣です。力強く、また天守台は算木積がわかりやすいです。

2022年06月13日 尼崎城大膳大夫一口城主
小諸城



5月5日、長い間宿泊していた上田をついに出立し😭しなの鉄道で小諸に移動。小諸駅から懐古園の三の門までは徒歩ですぐでした。100名城のスタンプ帳を確認すると7年ぶり2度目の登城でした。

関ヶ原の戦いで徳川秀忠公が上田攻めをした際に小諸城を本陣にしたということで駅から三の門に向かう道中に秀忠公の憩石(いこいいし)というものがありました。

小諸城散策では共通券(園内散策、小諸義塾記念館、徴古園、藤村記念館、小山敬三美術館)¥500を購入して城址を散策した。史跡、動物、資料、絵画🖼など見れて楽しめました。

城内を散策していると天然の要害の深い堀(谷間)、ほぼ垂直の崖が見受けられ、攻めるのは大変だなと感じました😰戦の時は三の門さえしっかり守ればあとは天然の要害があるので大丈夫とのことでした。

懐古神社前の黒門橋には紅葉谷とも書かれて(料金所側の橋の柱)いました。当日のような清々しい気候の下での青紅葉も良かったですが、いつの日か紅葉🍁の季節にも訪れてみたいなと目標が出来ました。

懐古園を出て7年前に見落としていた大手門(四の門/瓦門)の上にも上がり資料を見てきました。その後、小諸善光寺の大雄寺にお参りしてきましたが道中の坂道がしんどかったです😅そのご褒美なのか浅間山が良く見えました⛰穴城と言われるのが体感的にもわかりました。参拝後、小海線に乗り龍岡城を目指しました。

余談の鉄道ネタですがかつて小諸駅は高崎〜直江津〜新潟とつなぐ旧信越本線が走っていたと教えてもらい鉄道ファンとしてなぜか嬉しくなってきました😆

2022年05月30日 丸
武田信繁の墓碑[小諸城  碑・説明板]



元々の墓碑は布引山釈尊寺に寄託され、今の墓碑は明治20年に建立されたものですが、信繁の首級は今も往時の陣鍋に収められたままここにあると考えられているそうです。

2022年05月30日 丸
手城塚城[小諸城  周辺城郭]



築城年代が定かではない中世の城跡。手代塚とも手白塚とも記述されるようです。主郭は稲荷神社とお墓、二の丸は畑になっています。主郭に登ったところ野生の雉が逃げていきました。

2022年04月26日 梨栗桃
小諸城



駅の直ぐ側で行きやすいお城です。桜の名所でもあり、桜の時期なら花見がてら行くのも良いと思います。ゴールデンウイーク直前でも、八重桜や枝垂れ桜は綺麗に咲いていましたよ。

2022年04月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
外山城[小諸城  周辺城郭]



外山城は小諸城の東方約7.2km、千曲川西岸(左岸)、標高約683mの台地北東辺端部緩斜面上に主郭が存します。東麓の長野県道422号線、羽毛山大日向線からの比高は155m位ですが、謂わゆる崖端城なので八重原の台地上からの比高はむしろマイナスです。

行き方はGoogle マップに位置登録されているのでダイレクト設定してください。お城は公園化されているので小さな駐車場所が付いてます。

築城年代、築城者は不明です。信濃のお城の神本(信濃の山城と館3、上田・小県編)に記載があるのですが、信濃のお城の神にしては珍しくあっさりした城歴っす。村上氏の佐久進出に伴うものかと現地説明板には記述があるけどちょと無理があるんじゃないでしょか。天正壬午の乱の際には依田信蕃の臣、依田十良左衛門が入ったらしいので、既存のお城であった外山城が武田氏時代においても引き続き何らかの形で利用されたと考える事は自然だと思います。

お城は前述のとおり公園化されているんですが、崖端の為か出来る事は限られたらしく概ねで基本形を良く残しています。連続する台地上をぶった斬る大堀切と現況櫓台状の大土塁はこのお城のハイライトでしょう、思わず滑ったり寝転んだり撫で撫でしたくなるぐらいの整備ぶりです。城域にはプリミティブな桝形虎口なんかも確認出来たりしますね。又、眺望が大変素晴らしく千曲川北岸を眼下に佐久方面まで見渡せるロケーションです。ちなみに現況ほっこりした印象のお城ですが、城域東側は断崖で落ちたら死ぬレベル、注意です。

東御市観光協会さんが昨年から禰津城、外山城、政所城(机の城…ほぼ体育館、テニスコートとその駐車場だぞ…)の御城印を1枚300円で販売しています。御城印とはすっかり無縁の信濃のお城ですが大丈夫なんでしょか。この3城の名称にぴんと来るのはマニアの方だけだと思うので総売上枚数を聞きたいところ…自分は御城印に一つも興味が無いので永遠に買う事はありませんが、興味がありましたら田中駅前の東御市観光情報ステーションを訪ねてみて下さいまし。お城も楽にリア攻め出来ます。

2022年03月21日 牧 大宰大弐 隼人
小諸城

城そのものとは関係ないですが、二の丸に上がるところにある「古城軒」のそばがおいしかったです。丼ギリギリまで麺と出汁が入ってました♪

廃城後は俳句の句会がよく催されたようで、島崎藤村をはじめ、高浜虚子も小諸城がお気に入りだったようです。その他にも渋沢栄一、川端康成(写真あり)、渥美清、倍賞千恵子…などなど多くの文化人に愛された名城だそうです。
「古城軒」に行かれたら、三の門を入って右に行ったお土産屋さんにも是非入ってみてください。お店のおばちゃんは昔二の丸に住んでたそうで、今も本籍はそこにあるとのことです!
色々お話して下さる明るい方でした☆

2022年01月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
七五三掛城(駐連掛城)[小諸城  周辺城郭]



七五三掛城(駐連掛城)は小諸城の南東約0.5km、千曲川に注ぐ松井川南岸(左岸)、標高約652mの河岸台地南辺端部上平場に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ただし城域外南側に位置する小諸市総合体育館側からは取り付けないのでGoogleマップに位置登録されている〆掛墓地(小諸藩主牧野家霊廟、現在も旧藩士関係者でないと墓地の利用は認められない。墓石に刻まれた姓を見れば徳川マニアは唸る筈…)を目標に設定するのが判り易いでしょう。墓地は既に城域です。

築城年代、築城者は不明ですが、鍋蓋城(乙女城と共に小諸城の前身であった。)を本拠とした小諸大井氏によって築かれた支城の一つと推測されています。が、お城の規模は広大で本拠にも近い事から当主、もしくはそれに匹敵する人物が城主だったと考えられているそうです。

お城は猪之丸、物見曲輪、駐連掛と呼ばれる3つの郭で構成されます。縄張は郭間を何れも深く幅広な堀で区画したアイランド形式、主郭は駐連掛で此処には帯郭状の腰郭に開口する空堀が確認出来る他、物見曲輪との郭間を隔てる空堀には繋ぎの土橋が用いられています。又、墓地と化した猪之丸は見るべきものは特にありませんが、物見曲輪の落ちたら死ぬレベルのワイルドさにはびっくりするかもしれません。

お城自体が断崖の台地上で周囲と隔絶しています。後世耕作地としての利用があったようですが、元々細かな遺構は無かったようなので縄張の基本形をよく残していると思います。

お城は城域外南側から眺める事をお勧めします。呆れ返るような場所に立地している事に驚愕する事でしょう。この断崖(後世にやや削られたらしいけど…)の上に長大な腰郭を介して主郭が置かれています。が、果たしてこの腰郭必要なんでしょか?心配しなくても誰も登って来れないぞ…

鍋蓋城、乙女城は小諸大井氏の本拠、七五三掛城はその支城群の中核だった事でしょう。幕藩体制成立以前の小諸城の歴史の一端を肌で感じてみるのも楽しいかもしれませんね。

※七五三掛城(しめかけじょう)て読みます。

2021年12月30日 野花南左衛門佐
小諸城



小諸城は駅近の優良物件。駅横の跨線橋を渡れば直ぐに三ノ門です。懐古園休園日でも、園内に入ることはできます。人がいない分、遺構の観察には適していると言えるかも。城好きなら大手門も忘れずに。

2021年11月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
丸山[小諸城  周辺城郭]



丸山は小諸城の北東約1.8km、中沢川西岸、河岸台地上標高約815mの丘陵頂部に城域が存します。南麓の舗装路からの比高は30m位でしょか。

行き方は…誰も行かないと思うので、これ読んでやる気の出た方はリア攻めマップを参照して下さい。

築城年代、築城者は不明です。何でもこの丸山の南麓約0.3kmに鍋蓋城(小諸城の前身です。)の出城が存していたとの里伝があり、信濃のお城の神はこの出城に関係する砦や物見台であった可能性を指摘しています。ただ出城の正確な位置が判らないし、そもそも論で本当にあったのかも判らないので真相は闇の中って感じです。それよりは位置関係から同じ小諸城のリア攻めマップにある富士見城や高津屋城、東沢城の支城と見る方が自然だと思います。

さて、実はこの丸山も実在したのかどうか不明ですw大体にして城とも砦とも台とも館とも呼ばれないw現況から実情が判断出来ないんです。周囲から見ると本当に丸い小山でして、物見台にはぴったりの立地なんですが…城域とされる南端には寛延元年(西暦1748年)建立の丸山薬師の石像と宝暦元年(西暦1751年)建立のなんちゃら像が鎮座していて何となく何かがあった雰囲気は醸し出しています。ただ城域の殆どは頑張れない藪(この時期は痛いのさ〜)なので縄張がどうだとか言えるレベルじゃない事は間違いありません。

簡単に行けると思って最初は城域北側から取り付きましたが、前述の藪が現れて断念…でも何だか敗北感が凄まじかったので諦め切れずに城域南東側の一般住宅の裏手から再度挑戦しました。後世の改変と思われる土留めの石積みの付いた段々地形を抜けて丘陵頂部を目指しましたが、そもそも論で城域北側から取り付いた方が遥かに楽でしたわ…それでも城域に残る2体の石像を見付けた時は嬉しかったです。

南東麓の一般住宅の家人が教えてくれたんですが、数ヶ月前に小諸市教育委員会の方数名が調査に入った(藪でぼろぼろになって下りて来たらしいw)そうです。ただ教育委員会では丸山は古墳としか認識されていないそうなので、此処が城跡であったか確かめる機会は当分、もしくは永遠に訪れないでしょう。マニア向け。

※小諸市には平原にも丸山城と呼ばれるお城があるので混同に注意です。

2021年11月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
旦田城[小諸城  周辺城郭]



旦田城は小諸城の北西約3.6km、深沢川西岸、標高約835mの台地東辺端部上平場に主郭が存します。謂わゆる崖端城の一つとなりますね。

行き方は…同じ小諸城のリア攻めマップにある刈屋城(三宅城)を参照して下さい。刈屋城から崖端の舗装路を約0.4km北方へ進めば辿り着きます。

築城年代、築城者は不明ですが、東向きのお城である事から禰津氏に関わるものと推測され、刈屋城と同じ様な目的で築かれたと思います。

お城は…現地に赴いても城域の特定すら難しい…縄張図を見ると城域の大半は崖端の頑張れない藪でして藪漕ぎする気にはとてもなれませんわ…写真はそれっぼく撮れているものもありますがたぶん違います…

東側崖下を流れる深沢川は、寛保二年(西暦1742年)八月、俗に言う寛保の水害により満水し、崖端が側壁と共に水平方向にかなり削られたらしく、お城はこの際に主郭が部分的に崩落したと考えられています。信濃のお城の神が描く縄張図はあくまで現況を元にしているので、そのままだとお城の縄張として成立しない不安定さを抱えています。又、城域北端を何処に設定するかでも悩む(神は北側民家南側の舗装路を堀型との可能性を考えたのかな。)ところだと思います。ハードコアに藪漕ぎ出来る方は神の領域に近づいてみるのも一興でしょう。

2021年11月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
刈屋城(三宅城)[小諸城  周辺城郭]



刈屋城(三宅城)は小諸城の北西約3.4km、深沢川西岸、標高約806mの台地東辺端部上平場に主郭が存します。謂わゆる崖端城の一つとなりますね。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南側の小林スプリング製作所・小諸工場を目標に設定して下さい。お城はこの工場の北側空地(以前は駐車場だったらしいのですが、今は整地中でした。)に立地しています。

築城年代、築城者は不明ですが、東向きのお城である事から禰津氏に関わるものとされ、禰津小次郎直家の後裔、三宅惣右衛門康貞が詰めていたらしいです。又、第一次上田合戦の際に徳川勢の陣城の一つとして利用があった可能性を指摘されています。

お城は単郭で砦といった雰囲気です。付近は滋野方面から滝原、菱野、小諸方面に抜ける古道が通っていたらしく、その監視のために築かれたのでしょう。現況は周囲より一段高い場所にある削平地って感じで遺構は消滅しています。ただ主郭周囲をなぞる舗装路によって主郭の平面形だけは十分理解出来ます。

東側の崖下を流れる深沢川までは落差は約35m、現地に赴くと此処に古道が通っていたとはとても考えられないのですが…往時はどんなだったのかなと想像を巡らせてもたぶん無理なのでとっとと次へ向かいましょう。

2021年11月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
川窪氏邸(川久保新十郎邸)[小諸城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

川窪氏邸(川久保新十郎邸)は小諸城の北西約4.3km、標高約763mの台地上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北西約0.3kmに位置する寺ノ浦石器時代住居跡を目標に設定して下さい。後は…リア攻めマップを参照しましょう。他の目標は見事にありませんし、おいらも現地で悩みました。周辺は少なくとも石器時代から人々の営みがあった地域だったようですね。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは元美濃斎藤氏の家臣、川久保八郎です。主家を離れて流浪し当地の一の城戸に館を構えました。その後、安則、川久保新十郎正信と続き、真言宗派の修験堂を開いたり武芸に励んでいたらしいです。又、新十郎は武田氏に仕えたとも。

もはや館とも屋敷とも呼ばれず邸ですわ…佐久平では石原豊後守邸とかも邸で呼ばれてるんですが、せめて屋敷にしてくれよ…渡辺篤史の建もの探訪になっちゃうじゃん…当然建物は残って無いので「ん〜いいお家ですね〜」みたいな感じにはとてもならないんすけど…

居館の敷地は舗装路で分断されていますが、旧道はこの舗装路の南側一段低い所を走っていて、此処には一の城戸(写真4枚目の舗装路奥の場所となります。)の地名を残している場所があります。他には外屋敷の地名を残している場所もあり、居館の概ねの位置を特定する手掛かりとなっています。が、現況はほぼ住宅地か耕作地となっていますので、特定したからといって誰からも褒められる事は無いでしょう。

八郎さんとか新十郎さんとか何だかほっこりしますよね。ほっこりし過ぎて写真撮影中にクラクションを派手に鳴らされないよう注意です。

2021年11月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
宇賀山砦[小諸城  周辺城郭]



宇賀山砦は小諸城の北西約3.7km、標高約682mの丘陵緩斜面上平場に主郭が存します。南麓からの比高は20m位でしょか。丘陵は地元の方から宇賀山と呼ばれてはいますが、少なくとも山じゃ無い事は間違いありません。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西麓の東漸寺を目標に設定して下さい。砦はこのお寺さんの敷地内に存し、主郭には関東大震災慰霊塔が立っています。

築城年代、築城者は不明ですが、位置関係から同じ小諸城のリア攻めマップにある芝生田館(柴生田城)の要害、もしくは物見台だったと推測されています。

砦には全く期待していなかったのですが、縄張図のとおりしっかりとコの字形の空堀と土塁が残っている…ちょっと感動しましたが、多くの方にとっては砦全体も含めてなんじゃこりゃレベルだと思います。又、北側城域外とされる箇所に土塁様の高まりが付いてますが、これが往時のものなのかは判断出来ません。

ほぼ単郭の縄張ですが、一見すれば確かに砦だったんだなと思わせてくれる雰囲気を十分残しています。遺構が残っているだけでも御の字と言うべきでしょう。

2021年11月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
芝生田館(柴生田城)[小諸城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

芝生田館(柴生田城)は小諸城の西北約3.7km、標高約637mの台地上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。耕作地の中なので付近に目標となるものはありません。強いて言えば2棟のビニールハウスが目印です。

築かれた年代は不明です。ただ戦歴がありまして、永享八年(西暦1436年)、室町幕府に抗した芦田下野守を討伐するために幕府方の小笠原政康が芦田氏に与した禰津氏の支城、柴生田城と別府城を攻略したそうで、政康は時の将軍足利義教から感状と太刀一腰を与えられたとの記録が残ります。又、お住まいになられていた方として柴生田氏(柴生田石見守光信、伊豆守直光等)が挙げられますが、同氏は少なくとも三代に渡り同地の領主として居館の主だったようです。

居館の現況は耕作地の中の空地となっています。東辺と南辺に水路が付いてますが、どうやら堀の名残りのようです。所々で見られる土留めの石積みはやっぱり後世のものでしょう。又、敷地内には「小笠原常盤外記長武之碑」と伝わる石碑が立っているんですが、長野県町村誌に「三面に文字あれども磨磨して読みがたし…」とあるそうなので既に読めなくなって久しい(内容も不明です。)のでしょう。まぁどうせ難しくって読めないだろうし読む気もありませんけど…

付近には城東、城西の腰、馬場、坪屋敷等の地名が残っているそうです。現況からはとてもじゃないけど判定出来ませんが、想像よりも大きな居館だったかもしれませんね。

2021年11月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
東沢城[小諸城  周辺城郭]



東沢城は小諸城の東北約2.0km、中沢川東岸、南北に伸びる山塊尾根上、標高約795mのピークの一つに城域が存します。東麓からの比高は25m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東麓の秀建構造設計事務所を目標に設定して下さい。取り付きは城域北端の堀型とされる舗装路からが楽だと思います(車両の通行は不可能です。)。

築城年代、築城者は不明です。位置関係のみで言うならば同じ小諸城のリア攻めマップにある高津屋城の前衛となりますが、お城の印象は在地土豪の要害城といった趣きです。

お城は全山改変を受けているらしく、正直どれが遺構なのか判別する事は凄く難しいと思います。段郭や腰郭の様なそれっぽい地形もあるにはあるんですが、総じて改変でなければ…と言う枕詞が付くと思います。

「後で」気付きましたが、お城は完全私有地です。帰り際に犬の散歩をしている近所の方に挨拶をしましたが、「寒いですね〜この辺りは何にも無いでしょう。」と言われました。たぶんOK♪なんだと解釈しましたw

2021年11月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
宇当坂の館[小諸城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

宇当坂の館は小諸城の東北約1.3km、中沢川西岸、標高約735mの河岸台地上平場に存したとされる居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南西側に建つ飲食店、龍苑を目標に設定して下さい。又、リア攻めマップでも迷わず行けるでしょう、簡単に言えば国道18号線の北側台地上でもあります。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは大井氏です。鎌倉時代に滋野氏の庶流とされる小室氏の居館もこの付近に存していたらしいのですが詳細は不明です。文明十六年(西暦1482年)二月、村上政清、顕国(義清の実父っす。)父子が大井氏宗家を滅ぼすと、一族の大井光為は小諸に入り当地に館を構えたとされています。

居館の正確な位置は特定されておらず、その現況は概ね住宅地となっています。中沢川西岸の崖端に立地していますが要害感はそんなに感じられません。付近は古宿の地名を残しており、居館はこの周辺に存したとされています。居館の名残りは敷地外東側崖下に大井氏一族の物とされる五輪塔、台地上南辺に意味ありげな道見大明神と称する祠が建つのみとなっています。

写真撮影でこんなに苦労したのも久しぶりでした。付近住民が数人集まって来て遠巻きにしてこちらを見ている…祠の写真が欲しかったけど辛くなって諦めちゃいました。趣味なんて関係無い人から見りゃどうでもいいものである事を痛感しましたわ…

※写真は住宅地しか写ってないけど勘弁してくらさい…これでも30分位は頑張りました…

2021年11月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
高津屋城[小諸城  周辺城郭]



高津屋城は小諸城の北東約2.8km、南北に延びる標高913.74mの山塊山頂に主郭が存します。南麓の上信越自動車道からの比高は100m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、周辺は山塊中腹から山頂まで別荘地だったらしく、それぞれ各戸に通じる舗装路が複雑に入り組んでいて、案内されるままでは辿り着けないと思います。自分も結局方向性を失い現在位置さえ不明になり、車を捨てて徒歩で高みを目指す始末…はっきり言って説明出来ません。ちなみに上手に事が進めば城域直下まで車で行けます。

築城年代、築城者は不明です。雲之助(姓が不明w里伝でしょう。)て土豪が居住していた詰城、要害城とも狼煙台だったとも。又、武田信虎の命により甲州から安田義知なる人物が在番していたらしいです。里伝から川中島の戦いの際に狼煙を上げた実績もあるらしいのですが、周辺地形から想像すると単なる狼煙台とは言えない感じもあります。

お城の現況は山頂の削平地に放棄された公園、そこに大浅間大神の石碑が立っています。明治の初頭までは大浅間大観の御利益を求めて掛茶屋が建つ程参拝客で賑わったそうですが、今は社屋は無く訪れる者もありません。主郭と副郭で構成され、そのどちらにも土塁が付いていた縄張だったようですが、熊笹の群生率が酷くて確認出来ませんでした。

雲之助て名前が素敵ですよね。実はこの方、周辺諸城で度々その名が登場します。それなりの身分の方だったとは思うのですが…せめて姓ぐらいは伝えておいてくれよ…等と放棄されまくった別荘地(雰囲気はちょっと怖いっす。)で感慨に耽るのでありました。マニア向け。

2021年11月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
成就寺[小諸城  寺社・史跡]



成就寺は小諸城の東北約1.1km、中沢川東岸、標高約699mの河岸台地上平場に位置する寺院です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

成就寺の山号は天国山、院号は吉祥院です。もともと城に就く寺という意味で城就寺であったものが、江戸時代に城就寺から離れたため、現在の成就寺になったと伝えられています。

長享元年(西暦1487年)、大井伊賀守光忠が鍋蓋城(小諸城の前身です。)を築き、明応年間(西暦1492年〜1501年)に鬼門除けとして丑寅(北東)の方角に観音堂及び当山を建て、永正元年(西暦1504年)に城就寺と称しました。

寛保二年(西暦1742年)八月、俗に言う寛保の水害により寺院は現本堂の位置にあった観音堂以外全て流出、再建は二十年の歳月を必要としましたが、この際に中沢川に面する西辺を石垣により築堤、その後本堂等は火災により焼失、明治四十五年(西暦1912年)に再建され寺院はほぼ今に残る姿となりました。

何でおいらがお寺さんを口コミするのか不思議に思うかもしれませんが、それには理由がありまして、信濃のお城の神本(信濃の山城と館1、佐久編)に記載があるからなんです。信濃のお城の神も寺院として鍋蓋城外城の一角を兼務していたんじゃないかとの考えで著述しただけで城館とは見なしていません。ただお寺さんとしては面白い造りである事は間違い無く、本堂裏手の墓地の一部は櫓台か物見台の様な高まりとなっています。

小諸市内では最も有名なお寺さんの一つです。ここは変な気を起こさないで寺院として訪ねるのがやっぱり正解でしょう。

※お寺さんは太平洋戦争中に有名な作曲家、小林亜星さんの疎開先でもありました。

2021年11月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
与良氏館[小諸城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

与良氏館は小諸城の東方約1.2km、小諸市立野岸小学校北側、標高約715mの段丘台地上平場に位置する八幡宮敷地内に存したとされる居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている居館南側の小諸市立野岸小学校を目標に設定して下さい。八幡宮だと面倒っす。

築かれた年代は弘治元年(西暦1555年)から永禄十年(西暦1567年)と推測され、お住まいになられていたのは与良氏です。

与良氏の元の姓は安田で、安田氏は甲斐国山梨郡安田郷を出自とし、甲斐を出た後は代々海ノ口城主、義知なる人物の代に埴科郡坂城郷の村上氏に備えるために武田信虎の命により高津屋城、その後、在地土豪の小林氏の要害城であったとされる下河原城に入り同地に南城を新たに築きました。下河原城は北城と南城の二つが存したとされ、安田氏は下河原城を拡張した形になるんでしょか。又、同氏は郷に入れば郷に従えの感覚なのか、安田の姓は当地では目立つという理由でこの際に姓を郷名を取って与良に改めています。ちなみに下河原城は現在南城公園として市民に親しまれ、城跡としては与良城の名称で呼ばれています。

義知の三代後の当主長勝の代に与良氏は小諸城下の町割りに従い、与良郷の郷民に先んじて自ら与良松井の地に入り館を構えました。与良氏館はこの際に築かれたものと推測されています。

居館の現況は神社です。敷地内には八幡宮の他、熊野神社なんかも鎮座してますね。正確な居館の位置は特定されていませんが、たぶん此処でしょう。遺構は消滅していますが、居館の雰囲気は多分に残している方だと思います。

与良氏(安田氏)の事を調べていてちょっとびっくりしたのが、信虎の代に佐久郡に甲州の影響があった事です。確かに佐久郡や小県郡にまで兵を出していた信虎ですが、武田氏が佐久郡に着実に勢力を拡大し始めるのは天文年間の事だったと思うんすけど…武田晴信の初陣とされる海ノ口城攻めは天文五年(西暦1536年)、それ以前の甲信国境は閉ざされてるんじゃないかなと…この間の与良氏の立ち位置が不明ですわ…

2021年11月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
菱形城(城)[小諸城  周辺城郭]



菱形城(城)は小諸城の北東約2.7km、栃木川西岸、標高約834mの舌状台地緩斜面上平場に城域が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

築城年代、築城者は不明です。昭和53年(西暦1978年)に発掘調査が行われており、出土品から南北朝時代の古いお城であろうと推測されています。

お城の現況は雑木林、耕作地、放棄された公園、一般住宅、新海三社神社等となっています。城域の大部分を占める耕作地の殆どには現在大量のソーラーパネルが設置されています。城域は長野県道80号線によって南北に分断され、此処には菱形城橋と称する橋が掛けられています。この橋にはスズメバチの巣が3つ程作られていましたので毎年注意が必要になりますね。お城は現況堀跡にはとても見えない空堀以外に何かを見出すのはとても困難です。てかソーラーパネルしか頭に入って来ない…もう浅間山を眺めましょうよ…

菱形城なのに菱形じゃないところが腹立ちますが、「菱」の字は地名の菱野からだと思います。南北朝時代の信濃は混乱激しく、当時の情勢と複雑な勢力関係を背景にその多くが騒乱の場となりました。その痕跡を確かめに来るのも一興だと思いますが、視界に入って来るのはきっとソーラーパネルだけだと思います。

2021年11月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
城の峯館(館ヶ峯)[小諸城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

城の峯館(館ヶ峯)は小諸城の北東約3.5km、標高2104mの高峯山から南方へ長く延びる支尾根の一つ、標高約934mの端部上平場に主郭?が存します。西麓の舗装路からの比高は30m位でしょか。

行き方は…近くに目標となるものが一切無いのでリア攻めマップのみでお願いしやす。城域の一部は墓地になっていて西麓から此処まで車で登れます。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。

居館の存する菱野は古くは菱野牧と呼ばれた左馬寮(馬寮は唐名で典厩を意味する。馬寮の職は当時の武士にとって憧れの的だった。)の管轄下にあった官制の牧場が置かれた地域でした。木曽義仲の挙兵に従った大室氏、小室(小諸の由来はこれ。)氏といった諸氏はこの菱野を基盤に発展していった土豪であったと考えられています。後に菱野は大井氏の支配領域に組み込まれますが、菱野地頭の存在が文書によって確認出来る他、大井氏の者(一人として大井兼光か。)がそれであったと推測されており、大井氏と菱野地頭の関係性は不確実なところですが、大井氏の勢力拡大の背景の一つには地頭職を得る事によってその担保を得ていたと考える事はむしろ自然だと思います。

居館は尾根上に築かれていて上の館と呼ばれています。じゃぁ下の方はどうなんだと言うと、西麓に建つ一般住宅の敷地内に下屋敷の地名が残っており、その周辺からは多数の五輪塔が発掘されたそうです。上の館は居館てよりは山城のそれに近く、下屋敷を根小屋とする砦の雰囲気があります。現況は開田による改変を多く含み、建物の存在を伺わせるような削平地も僅かですが、尾根上には多段の小郭を連ねていたと想像出来る削平地や高まりなんかが確認出来ます。

城域外北側には女堰と呼ばれる水源があり、その水路が尾根を横切る場所(小さな橋が掛かる。)が城域の北辺とされています。里伝では女堰の歴史は室町時代にまで遡るらしく、少なくとも浅間山から湧き出す水源(牧場経営には必須だ。)の存在は古くから人々に認知されていたと考えられます。その水源の南側に立地する城の峯館…何か意味あるのかと考えましたが、結局卵が先か、鶏が先かの話になってくるので考えないのが正解です。

2021年11月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
桃野城(新城)[小諸城  周辺城郭]



桃野城(新城)は小諸城の北東約3.6km、中沢川と栃木川に挟まれた南北に長く伸びる標高約927mの河岸台地緩斜面上平場に主郭が存します。謂わゆる佐久を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。可愛い名称ですよね〜ピーチですわ…

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ただピンの位置は城域から北側に若干ずれています。

築城年代、築城者は不明です。雲之助城(矢留城)に拠った雲之助の父、大之助が築いたとの里伝があるそうですが、雲之助さえ何処の誰だか判らないのに遂にはその親父まで登場するという…まぁ永遠に答えが出ないと思いますので無視して大丈夫です。

お城は台地上に広大な縄張を持っており、各郭間は段や空堀等で区画されていたようです。ただ現況は耕作地、住宅地、ごみ焼却施設であるグリーンヒルこもろ等となっており、空堀の残滓等が確認出来ますが、全体的にはファジー過ぎる印象です。

別称で新城(あらじょう)と呼ばれますが、何に対して新しいのかよく解らない…ただお城はその規模、籠城軍役人数等から推測しても在地土豪が独力で築けるレベルを遥かに超えていて、いくら親父の大之助でも無理なような気がします。根拠は全く無いのですが、縄張は西方を意識していると思われますので、大井氏が村上氏に備える為に新たに築いたお城と想像しましたが如何でしょうか。ちなみに信濃のお城の神は神本(信濃の山城と館1、佐久編)において未完成だったとの推測を記述しています。

それにしても天気の良い日は実に爽快な気分に浸れるお城です。つまんない事考えてないで台地から一望出来る浅間山と佐久平を眺めて疲れた心をリフレッシュしましょう。むかつく上司とのやり取りも野郎をぶっ飛ばす前に焼却出来ます。

2021年11月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
雲之助城(矢留城)[小諸城  周辺城郭]



雲之助城(矢留城)は小諸城の北東約4.8km、標高2104mの高峯山から南方へ長く延びる支尾根の一つ、標高約1052mの端部上ピークの一つに主郭が存します。東麓の菱野温泉中心部からの比高は35m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは南東麓の舗装路から林道が付いてます。

築城年代、築城者は不明です。名称がそうなんで雲之助て土豪が拠ったとか築いたとか簡単に決められそうなんですが、事はそう単純には運ばないらしいですね。

お城は楕円形の主郭で全周土塁囲み、それに数段の腰郭を持っていたようです。主郭北側山側背後は幅広の堀切で切られていたようですが、現況かなり広めの林道となっているので正直よく判らん…主郭の土塁はほぼ健在で、東側に虎口の様な開口部が付いてますが、どうやら後世の改変のようです。ちなみに主郭の現況は建設会社の資材置場となっています。又、城域外北側にも郭跡を想起させる高まりや横堀跡と思われる窪みなんかも確認出来ますが、こちらも後世の改変の可能性が高く城域と判定するのは難しいでしょう。

雲之助城は浅間山の火口に最も近い佐久郡のお城でした。現在も現役ばりばりの活火山である浅間山は天正十年(西暦1582年)二月十一日、甲州征伐が始まってまもなくの際にも遠く離れた京都から噴煙を観測出来る程の噴火を記録しています。下世話な話になりますが、噴火が起きた時に雲之助城はどうしたんだろ?等と考えると夜も眠れなくなりますわ…

同じ小諸城のリア攻めマップにある高津屋城に続いて登場する雲之助の名前ですが、一体何処の誰の事なんだよ…菱野温泉の展望露天風呂にもその名が冠される雲之助…後世の変態達を今も悩ませ続けます。

2021年11月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
小諸城銭倉[小諸城  遺構・復元物]



小諸城銭倉は小諸城の東方約1.3kmに位置する小諸高濱虚子記念館敷地内に移築された倉です。

小諸市の重要有形文化財の指定を受けており、享保十一年(西暦1726年)、小諸牧野家二代藩主、牧野康周時代の建築だそうです。明治五年(西暦1872年)に他の小諸城関連建築物と共に民間に入札払い下げられ、小諸市与良町に移築されました。現在は街なみ環境整備事業の名の元、市の所有となっています。

建築物はど素人の自分ですが、小諸城の銭倉と聞けば反応する小諸城ファンのめぐら〜の方も多いのでは…流石に銭はもう入っていないと思いますが、小諸城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月30日 赤かぶ【】
霧久保城[小諸城  周辺城郭]



霧久保城(霧窪城)は小諸城の西 押出地区にある山城です。Googleマップで検索すると出てきます。登城口は東側(押出公民館)と西側(押出公園)にありますが西側はかなりの薮になっていますので東側からのが良いかと思います。

登城口から主郭までは10分くらいで行けます!主郭には鉄塔がドデーンと祠が祀ってあります。城郭全域にかなりの数の石積みが見られるんですが、麓の石積みは後世耕作のための石積みと言われております。主郭周辺の石積みは当時の物かなと思われます。似たような石積みが見られるお城が同じ小諸市内にある富士見城があります!

富士見城と比較すると、ほとんど整備はされておらず薮に被われ、遺構を確認するにはちょっと大変⤵︎北側の堀もがっちり薮の中。。。全体的にちょっぴり残念かなと思っちゃいました!

2021年10月11日 ビン太
小諸城



小諸駅目の前、駐車場・バイク置き場有り(有料)とアクセスは良好です。入口前には蕎麦屋、ホテル(日帰り入浴もあるみたいですがコロナ禍により中止)があり敷地内は遊園地と動物園(現在は改修工事中の為閉園中)となんだかスゴイことになってます(笑)
敷地内にも老舗の蕎麦屋さん(甘味処兼)もありました。人気があるようで14:30頃の段階で既に蕎麦は売切れで甘味のみだったので此処での食事込みでの散策は午前中がベターですね。(駅前の蕎麦屋さんは普通に午後もやってます、念の為)

2021年08月29日 サードマン勘解由次官
小諸城

駐車場代500円、城内散策するのに200円かかります。

2021年05月28日 つか征夷大将軍
富士見城 案内板[小諸城  碑・説明板]



こちらで説明資料も貰えます。駐車も出来ます。

2021年05月08日 VTR美濃守シゲ花粉は辛い
小諸城



しなの鉄道小諸駅前より南西に三の丸から本丸、北西側に大手門有ります、駅目の前で訪れやすい100名城です

車、バイクは三の丸の西側に駐車場有バイク200円、乗用車500円で最大12時間おじさんが集めてます

トイレは園内に多く有りますので困らないでしょう

車、バイクの場合最初に三の丸に入ります
大手門より見たい方はガード下潜り小諸駅の方に、こちらにもコインパーキング有りました

100名城スタンプは三の丸の徴古館内に
入って直ぐ右に、スタンプだけなら入場料要らないと思います、私は中を見学、施設全て拝観できるものを購入しまし400円

虎口好きな私は三の丸から二の丸への導線
右側二の丸、左側堀、自ずと虎口に向かうしかなく二の丸上からの攻撃を受け続ける仕組みに

左側本丸で進む訳ですが南の丸北の丸が両側に、正面の堀に架かる黒門橋を渡りようやく本丸、本丸の石垣も高い

先に水の手へ千曲川を天然の堀とした事がよくわかります、眺めも良い

戻って本丸に、入るのも曲げを伴う虎口に
正面に懐古神社水野殿が祀られています
左手に社務所、ここで御朱印、御城印頂けます両方共に書置きです

神社右手に天守台有り南側の眺め良しです

戻って大手門に仙石秀久殿が築いたもの
私の隣町生誕の秀久殿凄い立派なものを建てられたと感慨にふけって来ました

2021年04月04日 クルス秋田城介トッツィー
小諸城



石垣と三の門、大手門が見応えあります。文学好きな方にも、藤村や虛子ゆかりの場所等が多くお勧めです。時間があれば駅前のやきとり相さんへ。美人の親子孫三代女将にメロメロです。もちろんやきとりも美味しいですよ。

2021年02月24日 赤かぶ【】
堀之内城 [小諸城  周辺城郭]



小諸布引観音の南方面、楽厳寺城から西へ500mほど行った位置にあるお城です!
城域中心部は宅地や畑・道路になっているので遺構はほとんど分かりません⤵︎
分かりやすい遺構とすれば、諏訪神社の周辺にある二重の三日月堀♪丸馬出し♬︎土塁☀︎堀切でしょうか!
なお外側の三日月堀は湿地帯になっておりうっかり踏み込み過ぎると沼にハマりますのでご注意を!!
自分はハマり片足が泥まみれになりました(笑)
車は三日月堀の横の路肩が唯一少し広くなっているので停めるが可能です。
楽厳寺城とセットでどうぞ☀︎
① 二重の三日月堀(外側)
② 土塁
③ 諏訪神社
④ 堀切
⑤ 曲輪(二重の三日月堀の中間地点)

2021年01月11日 赤かぶ【】
外山城[小諸城  周辺城郭]



千曲川の断崖の上に築かれたお城です!
東御市の田中駅南口の交差点から県道167を下八重原方面へ進み約2.8km地点に「史跡外山城跡」の石碑がある所を左折、民家・ぶどう畑の中の農道を400m走ると駐車場・トイレ・城跡案内板に着きます。
駐車場から数十m北側に下ると城郭に入ります!浅間山を目印に下ってくださいませ。
城は公園として整備されており東屋やベンチ数台が設置されておりました。
東屋の北側にプチ土塁と堀切、堀切に架かる橋を渡ると高さ7mほどの烽火台がありますが、主郭を隠す大土塁ともいわれております!
大土塁・主郭・二の郭と北側へ構成されています。
二の郭から先下方へ道が続いておりますが、現在台風の影響で崩れているため通行止めになっていますのでご注意下さい!
車で訪れる事が出来き浅間山・千曲川の眺望も楽しめる城郭かと思います♪

2020年12月31日 赤かぶ【】
楽厳寺城[小諸城  周辺城郭]



行き方としては氷風穴から林道布引線を通って行くのが分かりやすいと思います。道は狭いですご注意下さいませ!城跡には数件の別荘が建てられおり住んでる方もいる様子でしたので見学の際は駐車も含めてご配慮下さい。

遺構は城郭南側に血の池と称される水堀状の部分も見られます。丸馬出・三日月堀も☽︎‪︎.*·̩͙‬郭の南側には土塁が盛られております。堀切など見る事が出来ますよ♪

2020年11月09日 龍馬備中守【】
富士見城[小諸城  周辺城郭]



長野県の小諸市にある富士見城♪

富士見城の歴史詳細は不明な点が多いです☆
小諸、佐久を侵攻して来た武田信玄が小諸城の支城として築いたのでは無いか☆というのが有力な説となります♪

武田氏が滅亡した後はこの地域は真田氏と徳川氏の争う地点となります♪徳川氏はこの地域を制圧する為に上田城まで攻め込んで行くのですがその際に徳川方の柴田康忠がこの城に入城していた様です☆

城としては街道を望め小諸を一望出来る要衝に位置します☆巨大な船に似た様な形をしていて特に街道側(南側)は石を使い小刻みに郭を造り込みます☆郭側面に築かれてる石積みは信濃エリアに多い積み方で小さな鋭角鋭い石を粗く積んでます☆石の加工も中々出来ない時代に築かれている正に戦国に生きた証を今に残してます♪

2020年09月02日 橙百姓
小諸城

小諸城 大手門は無料で見学する事が出来ます。

2020年08月16日 中務少輔たろさ
小諸城



今日は午前中箕輪城を攻め、午後は小諸城を攻めました。小諸城の見所は懐古園から離れた大手門、園内では天守台からの眺め、展望台からの千曲川を見下ろす絶景です。

そして自分がこの平山城を見て感じたことは、急な山の斜面が天然の石垣の役割をしている所だということです。その自然の地形を巧みに利用した城の全容は、さすが信玄が築城した城であると納得してしまいます。

また、園内には藤村記念館、美術館、動物園、そば処、茶屋などなど1日楽しめる施設でした。今日は8月15日。終戦記念日の猛暑の中でしたが、充実した1日を送ることができました。小諸城に感謝です。

余談ですが、入場券売り場で「大人2枚お願いします」と言うと「園内探索のみで良いですね」と返されます。つい釣られて「はい!」と答えてしまったのですが、初めて来られる方は共通券をお求めになった方がいいかと思います。園内探索のみでも城は素晴らしいし、動物園も見学できて十分だと思いますが、共通券は藤村記念館や美術館など様々な施設が見学できます。金額は一人300円と500円の違いだけです。時間のある方は共通券がオススメです。帰りには、車で15分程度の所にある布施音泉に寄ったのですが、これがまた大当たり。浅間山を望む露天風呂が最高でした。

2020年08月14日 ティル
小諸城



2020年8月14日現在
園内社務所にて御城印購入できました‼️

2020年07月05日 山下隼人正正成
徳川秀忠公憩石[小諸城  寺社・史跡]

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦出陣途中、徳川本隊は真田氏(上田城主)攻略の為小諸城を本陣としました。その在陣中秀忠公ご床几(腰をおろした)石と伝えられています。ーー説明板より

2020年05月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
富士見城[小諸城  周辺城郭]



富士見城は小諸城の北方約2.0km、高峰山の裾野にある独立丘陵、標高853.6mの飯綱山の山頂部北西側に主郭が存します。小諸城なんて築かなくても此処でいいんじゃないみたいな感じですが、飯綱山の南麓からは比高約145mに対して北麓からの比高は約30m、守りに不安を感じたのでしょうか、四方に敵を受け易い立地でもあります。

築城者は不明なんですが、大井氏が滋野氏に対する境目の城として築いたとか、大室氏という土豪が鎌倉時代に築城(別名大室城とも。)したとか言われてます。戦国時代には鍋蓋城(小諸城の前身っす。)の支城として武田氏によって利用されたらしく、第一次上田合戦(神川合戦)の際には徳川方の柴田康忠(甲州奉行、依田信蕃の軍監等を務めた。岩尾城の大井行吉を依田と供に攻めた際、依田兄弟討死後に岩尾城を説得により開城させた。娘さんは大井政吉室と伝わるが行吉の子なんでしょうか?)が在城しました。

行き方はGoogleマップに位置登録されている小諸高原美術館を目標に設定して下さい。徒歩で登ることはないです。飯綱山は飯綱山公園として整備されており、お城はこの一部分となっています。

個人的に変態城です。段郭を多数連ねていますが、その殆ど全てに霞城なんかを思い起こす石積みがデコレートされています。見たら誰でも「うっそ〜ん!」とか呟くでしょう。飯綱山は後世に耕作地として開墾されたらしく、山自体が大きく改変されています。近年発掘調査が飯綱山の北東部分で実施され、十段の石垣(石積みではない。)が検出されたようですが、全て耕作地の土留めのものと結論されました。が、城域内にある石積みは明らかにそれらとは違っていますし、耕作地にもならない帯郭程度の場所にわざわざ後世に石を積みまくる必要も無いことから、こちらは往時のものと考えてよいと思います。

とにかく信濃のお城としても全国的に見ても珍しいお城(石垣じゃないのさ〜)だと思います。公園化にともなう改変も含んでいて、心眼で見極める必要もありますが、気楽にサンダルで行けるので、小諸城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2019年08月23日 山下隼人正正成
藤村記念館[小諸城  関連施設]

小諸城趾の懐古園内にある藤村記念館は、長野県とゆかりの深い詩人・小説家の島崎藤村の小諸時代の作品・資料・遺品が展示されている資料館です。『千曲川旅情の歌』の掛け軸などの販売もしています。家族や生徒との写真、手紙、『破戒』の初版本などがあり、シンプルでフラットなスペースで、資料が見やすいのがうれしいです。ーー「信州とっておき情報」より

2019年05月26日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
小諸城



定番の大手門です!
419年前第2次上田合戦が勃発、徳川秀忠公は小諸城二の丸を本陣とする、大手門より入城した秀忠公は桜馬場を通り、三の門を通り二の丸に着陣した!

2019年05月25日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
小諸城



お見逃しなく、秀忠公憩石!
第2次上田合戦の本陣となった小諸城、大手門より入城した秀忠公が三の丸入り口の三の門入り口脇の石に腰掛けて、長旅の疲れをとり二の丸に入城したとされている!
山本勘助が縄張りした小諸城
素敵なお城でした!

2019年05月19日 あおっち図書助
小諸城



小諸駅を出て大手門を見学、その後反対側の懐古園へ。
小諸城ではGWだったので人出が多めでした。石垣の上に柵がなく、すぐ下を見下ろすことが出来て面白かったけれど、小さい子連れの方は十分に注意を!

2019年05月12日 くっきー若狭守
市営大手門公園駐車場[小諸城  駐車場]



小諸城に行くならこちらに2時間無料の駐車場がありました。懐古園の方には地下道で繋がっています。

2019年05月11日 まさある美濃守
無料駐車場[小諸城  駐車場]



停めちゃいました!奥の鳥居の前に酔月料金所(城址入口)があります!

2019年04月23日 余語出羽守
徴古館[小諸城  スタンプ]

スタンプは入口入ってすぐ右側にあります。

2018年05月11日 織田上総介晃司
小諸城

懐古園の駐車場(1回500円)と大手門公園の駐車場(1時間ごと100円)があります。小諸城の滞在時間に応じて選んだほうがよいでしょう。

三之門から地下道を通ると大手門にいけます。見落としのないように。

城下町より小諸城のほうが低いと聞いた覚えがあります。

2018年05月10日 ひとりもん
小諸城

市営大手門公園駐車場ができていました。
入庫後30分無料、1時間まで100円。
以降1時間毎100円、1日最大料金1000円。

2017年05月21日 田上陸奥守久兵衛
小諸城

最初に駅を東に抜けて、大手門公園に行く事をオススメします

櫓門の中に展示資料が有り
ボランティアの人から遺構の話や城郭の地形の話など聞けます

話を聞いてから
大手門付近の石垣や、駅の地下道の東西の階段の数を確認するとニヤリとするかもしれませんw

駅の西に行くと三の門の先に石垣が見えますがここからは有料
二の丸跡から橋を渡った黒門痕までは
バリアフリー化で折れや、石段によるアップダウンが無くなったそう…優しさですw

本丸は神社になってますが
参拝の後は裏手から天守台に上がれます
そのまま石垣の上を武者走り沿いに南に歩いて行けますが、東国では珍しく柵が無いので楽しくて転落しないように注意w

南から本丸を抜けると深い谷があります
おそらく山城好きならここでテンションが上がると思いますw

そのまま崖沿いに南西に歩いていけば
動物園への橋を横目に見晴らし台があります、武田氏時代は狼煙を上げていたとか
ここから北に行けば展望台があり千曲川を一望出来ます

山城好きな方は北側の階段から麓まで降りて、戻られるとココの要害さが更に良くわかるかと

2017年05月05日 ギア右近衛大将
小諸城

堀と石垣がかなり残っていました。一部動物園や遊園地になっていましたので、子連れやデートで行く時でも最適かも。桜が有名な所みたいなので、桜の季節に行きたいかも。

2016年07月21日 まるき〜
小諸城

すっかり公園化されていて和やかな雰囲気の城跡

いびつな形の石垣や天守台が気になる…
東屋付近の橋、階段を降りると断崖に切り立った堀があって見応えがありまーす。
本丸南側の東屋では毎週日曜の13時〜15時まで草笛を教えてくれるボランティアの方がおられます(誰でも参加OK)

線路の向こう側にある大手門二階櫓内では資料の展示が無料

SL機関車の展示や動物園もあり
駅からも近いし、小さなお子さんが居ても楽しめるお城跡かなアップダウンも少なくて楽チンだし(^◇^;)
売店、トイレあり、甘味処は石垣と石垣の間に…(=゚ω゚)ノ

駐車場が500円の所と300円の所がありますが500円の駐車場に入れて駐車券を城の券売所に提示すると1人分の入城(城の探索券大人300円)が無料になりまーす。

2016年04月05日 埴輪武者上野介
小諸城

聞きしに勝る名城なのに、曲輪の一部が動物園になっています。城跡散策好きとしては何でこのような余計なものを、と遺憾に思っていたのですが、迂闊にも堪能してしまいました。(^_^;)



2015年12月20日 永眠武蔵守釋 葱進
小諸城

1.百名城スタンプ
徴古館内の事務所にありますが、かなり状態が悪いです。
インクが薄い上にまだら、誰がやらかしたかスタンプ(シャチハタ形式)の縁部分にインクがついており、もれなく縁もスタンプ帳にうつってしまいます。

2.本丸跡に鎮座する懐古神社
こちらの御朱印は通常墨で書いて頂く部分が何とスタンプです(受付時にその旨説明はある)

3.蕎麦屋
三の門近くの有名店「草笛」本店は28年春まで改築工事のためお休みです。第一駐車場そばの別館(通常冬季休業)が冬季も営業しています。
蕎麦もいけますが、くるみおはぎもなかなか美味しいです。

2011年07月15日 太政大臣M三郎
小諸城

小諸城は、西側の重火器による攻撃の届き難い最奥部に、千曲川に向け落ち込む断崖を後堅固の要害として本丸を置き、段丘上に刻まれた赤褐色の深い谷を郭の区画、防御に用いた、他に類をみない特異な立地、構造の城です。また、三の門から本丸までは直線的に登城路を左右の小さな郭が挟み込み、横矢を掛けて敵の攻撃力を削ぐ、安土城の大手道に似た独特の防御構造を持ちます。この城の独創的な選地と縄張を観るとき、山本勘助とも言われる築城者の城づくりに対する、並々ならぬ深い造詣を感じます。古風な寄棟の城門も素敵です

2010年10月07日 tomm加賀守
小諸城

追伸。。。
あまり大きな声では言えませんが、寅さん記念館に駐車しても無料です

2010年10月07日 tomm加賀守
小諸城

鹿島神社前に駐車すれば無料です。
大手門は地下道をくぐってすぐにあるので必ず見ましょう
また大手門近くにある「小諸観光交流館」には小諸城のスタンプや割引券があり、お蕎麦屋も紹介してもらえます

それにしても天守台の石垣は中の土が抜けて危ない感じだなぁ〜

2010年09月25日 まったり丹波守
小諸城

山城好きの方は千曲川側の柵外を見るとニンマリする事間違いなし本丸は旅館が有ってビックリした。

2010年09月11日 天神
小諸城

小諸に来ると蕎麦が食べたくなるなあ

2010年06月09日 虎丸@信州
小諸城

小諸城(懐古園)の隣に建つ「小諸グランドキャッスルホテル」のロビーにダイヤブロックで作った見事な「三の門」がありますので是非ご覧くださいませ。(2010.06.08.現在)

2010年06月08日 傾奇揚げ仙兵衛
小諸城

小諸駅下車1分

小諸城の周辺スポット情報

 大手門(遺構・復元物)

 三之門(遺構・復元物)

 天守台(遺構・復元物)

 本丸跡(遺構・復元物)

 紅葉谷(遺構・復元物)

 地獄谷(遺構・復元物)

 水の手不明御門跡(遺構・復元物)

 黒門橋(遺構・復元物)

 黒門跡(遺構・復元物)

 南の丸跡(遺構・復元物)

 二の丸跡(遺構・復元物)

 小諸城銭倉(遺構・復元物)

 藤村碑(碑・説明板)

 富士見城 案内板(碑・説明板)

 手代(城・白)城址 手城塚稲荷 案内図(碑・説明板)

 武田信繁の墓碑(碑・説明板)

 富士見城(周辺城郭)

 与良城(周辺城郭)

 楽厳寺城(周辺城郭)

 外山城(周辺城郭)

 堀之内城 (周辺城郭)

 霧久保城(周辺城郭)

 雲之助城(矢留城)(周辺城郭)

 桃野城(新城)(周辺城郭)

 城の峯館(館ヶ峯)(周辺城郭)

 菱形城(城)(周辺城郭)

 与良氏館(周辺城郭)

 宇当坂の館(周辺城郭)

 高津屋城(周辺城郭)

 東沢城(周辺城郭)

 丸山(周辺城郭)

 宇賀山砦(周辺城郭)

 芝生田館(柴生田城)(周辺城郭)

 刈屋城(三宅城)(周辺城郭)

 川窪氏邸(川久保新十郎邸)(周辺城郭)

 旦田城(周辺城郭)

 七五三掛城(駐連掛城)(周辺城郭)

 手城塚城(周辺城郭)

 布下氏居館(周辺城郭)

 別府城(周辺城郭)

 大石城(周辺城郭)

 懐古神社(寺社・史跡)

 稲荷神社(寺社・史跡)

 徳川秀忠公憩石(寺社・史跡)

 成就寺(寺社・史跡)

 小諸藩主牧野家墓所(寺社・史跡)

 懐古神社社務所(御城印)

 徴古館(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 無料駐車場(駐車場)

 市営大手門公園駐車場(駐車場)

 懐古園駐車場(駐車場)

 藤村記念館(関連施設)

 水の手展望台(関連施設)

 懐古射院(関連施設)

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