御影陣屋(みかげじんや)
御影陣屋の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長野県小諸市御影新田屋敷894
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 徳川幕府
築城年
- 元禄12年(1699)
主な改修者
- -
主な城主
- 徳川幕府(天領)
廃城年
- 慶応4年(1868)
遺構
- 代官宿舎、移築門
指定文化財
- 県史跡(御影陣屋跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
大井城(長野県佐久市)[3.3km]
根井氏館(長野県佐久市)[5.1km]
小諸城(長野県小諸市)[5.6km]
岩尾城(長野県佐久市)[6.9km]
志賀城(長野県佐久市)[7.6km]
伴野城(長野県佐久市)[8.7km]
平賀城(長野県佐久市)[9.3km]
望月城(長野県佐久市)[10.5km]
龍岡城(長野県佐久市)[12.2km]
長窪城(長野県小県郡)[18.7km]
御影陣屋の解説文
御影陣屋の口コミ情報
2023年03月15日 式部卿あっぱれ
御影陣屋
御影陣屋は江戸幕府の代官所です。併設? の御影用水資料館にはココが天領となり陣屋が置かれる事となる史料が見学出来ます。
2021年12月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
祝堂城(三公坊山城)[御影陣屋 周辺城郭]
祝堂城(三公坊山城)は御影陣屋の北方約1.0km、繰矢川南岸、標高約756mの河岸台地端部上平場に主郭が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車で横付け出来ます。
築城年代、築城者は不明ですが、祝堂城の存する平原の地は大井光長の六男、六郎光盛が領し、お城の南側一段低い所に位置する「タテ」と呼ばれる地籍に住したとする説があるそうです(祝堂城の東方約1.0kmには西屋敷の地名も残る。)。又、昭和五十三年(西暦1978年)に城域西側付近の採土の際に古石垣が列状に出土したそうで、居館跡の存在を裏付けるものの一つとも言えそうですが、発掘調査自体は残念ながら行われていません。
お城は地形図を見ると狭小な台地上端部を活用しており、堀切で区画された3つの郭を持つ連郭式の縄張だったようです。が、現況は過去の大幅な採土により通称2郭と通称3郭は事実上消滅していて、すっかり削平された跡地にはグラウンドが整備されています。通称1郭(信濃のお城の神は通称2郭を主郭とする。)はかつて共楽園と呼ばれる公園だったようですが、今は公園に上がる階段部分を倒木が塞いでおり入園者を拒んでいます。まぁ公園自体は既に放棄されて久しく藪塗れですが…
見るべきものが何も無いようなので帰ろうとしたら城域東端の藪の中に怪しい地形が…行ってみたらびっくり、田切地形の北側断崖部分にぽっかり口を開ける立派な堀切が残っているじゃないすか。そう、ポカリスウェットですわ…これが見れただけでも御の字、ネットで検索してもお城の紹介例は唯一つですが、実際に自身で訪ねてみなけりゃ判らない事ってあるものですね。お城はマニア向け、堀切は一級品という悩ましい物件ですわ…
2020年09月30日 まー刑部卿
御影陣屋
隣接する御影コミュニティーセンター駐車場を利用。陣屋前の道路は速度制限以上の速さでとばしてくるためご注意を。敷地内は自由に行動出来ます。建物内はインターホンで呼び出せば見学出来るようです。
なお移築門は小諸市森山にあります。
御影陣屋の周辺スポット情報
野火附城(狐っ原)(周辺城郭)
祝堂城(三公坊山城)(周辺城郭)
曽根城(周辺城郭)
金井城(周辺城郭)
備前屋敷館(備前林城)(周辺城郭)
馬瀬口城(周辺城郭)
針木沢城(周辺城郭)
塩野城(周辺城郭)
梶原城・西城(周辺城郭)
たて茂沢城(周辺城郭)
小田井城(周辺城郭)
長倉城(周辺城郭)
戸谷城(周辺城郭)
谷地城(周辺城郭)
除沢砦(周辺城郭)
宮平城(猿之介城)(周辺城郭)
向城(古城・依田城)(周辺城郭)
権沢城(周辺城郭)
広戸城(武者城・民者城)(周辺城郭)
頭槌城(周辺城郭)
十石城(周辺城郭)
上三田原城(城畑)(周辺城郭)
宮崎城(城の山)(周辺城郭)
丸山城(小田切城)(周辺城郭)
平原城(有利小屋城)(周辺城郭)
梨沢城館(周辺城郭)
天神山砦(周辺城郭)
久能の物見(周辺城郭)
代官は幕府の勘定奉行の下に属し、江戸に常住(江戸詰)し、年に一、二度任地に出張して、現地に常駐する手附や手代(江戸時代、郡代・代官・奉行などに雇用され、収税その他の雑務をつかさどった小吏)を監督するだけであった。手附や手代は資格が違うだけで執務はまったく同じであり、これも幕臣が任命されるのが普通であった。
開発人柏木家の屋敷内に設けられた御影陣屋は、天和2年(1682年)に平賀村に陣屋が置かれて後、佐久郡内を変転しながら、寛延2年(1749年)、中之条陣屋(埴科郡坂城町)の出張陣屋として御影陣屋がふたたび置かれ、以後、明治維新まで存続した。
御影陣屋の定員は支配役人4人と追分宿の貫目改所(江戸時代、荷物の重量を検査するため、幕府が宿駅の問屋場に置いた機関)詰一人で、寛延(1748~1750年)以降、佐久郡の天領(江戸時代の直轄地)八十七ヶ村三万石余の年貢、出納、戸籍、土木、警備、裁判などを取り扱っていた。
最初は元禄12年(1699年)に臨時的なものが設置されていたようである。その後、臼田、高野町等を転々とし、代官島三郎左衛門の時(寛延2年、1749年)再び御影新田村に陣屋が開かれた。この時、陣屋の建物が開発人柏木小右衛門の屋敷内に三十両の資金で建てられたという。文政10年(1827年)、御影陣屋を廃止し、中之条陣屋支配下に編成されるという風聞が出たので、柏木小右衛門等が江戸へ出府し、御影陣屋の存続を勘定奉行へ訴えたという。
なお、柏木氏のご厚意により、御影陣屋代官宿所資料館が整備され、一般に開放されている。また、市は指定地全体を史跡公園として整備し、隣接地に「市立天領の里・御影用水史料館」を建設し、関係資料を展示している
交通
・上信越自動車道佐久インターから自動車で15分・小諸駅より自動車で20分
・佐久平駅より自動車で15分