御影陣屋(みかげじんや)

御影陣屋の基本情報

通称・別名

所在地

長野県小諸市御影新田屋敷894

旧国名

信濃国

分類・構造

陣屋

天守構造

なし

築城主

徳川幕府

築城年

元禄12年(1699)

主な改修者

主な城主

徳川幕府(天領)

廃城年

慶応4年(1868)

遺構

代官宿舎、移築門

指定文化財

県史跡(御影陣屋跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

大井城(長野県佐久市)[3.3km]
根井氏館(長野県佐久市)[5.1km]
小諸城(長野県小諸市)[5.7km]
岩尾城(長野県佐久市)[6.8km]
志賀城(長野県佐久市)[7.6km]
伴野城(長野県佐久市)[8.6km]
平賀城(長野県佐久市)[9.2km]
望月城(長野県佐久市)[10.5km]
龍岡城(長野県佐久市)[12.2km]
長窪城(長野県小県郡)[18.7km]

御影陣屋の解説文

幕府直轄領を支配し、中之条代官の出張陣屋(陣屋:旗本や代官の支配地における役宅や屋敷で、代官所ともよばれる。陣屋には郡代・代官の居宅である本陣、公務を行う役所、家臣の住宅、土蔵などがあった。)であった御影陣屋が置かれていた所で、面積は3,365平米である。

代官は幕府の勘定奉行の下に属し、江戸に常住(江戸詰)し、年に一、二度任地に出張して、現地に常駐する手附や手代(江戸時代、郡代・代官・奉行などに雇用され、収税その他の雑務をつかさどった小吏)を監督するだけであった。手附や手代は資格が違うだけで執務はまったく同じであり、これも幕臣が任命されるのが普通であった。

開発人柏木家の屋敷内に設けられた御影陣屋は、天和2年(1682年)に平賀村に陣屋が置かれて後、佐久郡内を変転しながら、寛延2年(1749年)、中之条陣屋(埴科郡坂城町)の出張陣屋として御影陣屋がふたたび置かれ、以後、明治維新まで存続した。

御影陣屋の定員は支配役人4人と追分宿の貫目改所(江戸時代、荷物の重量を検査するため、幕府が宿駅の問屋場に置いた機関)詰一人で、寛延(1748~1750年)以降、佐久郡の天領(江戸時代の直轄地)八十七ヶ村三万石余の年貢、出納、戸籍、土木、警備、裁判などを取り扱っていた。

最初は元禄12年(1699年)に臨時的なものが設置されていたようである。その後、臼田、高野町等を転々とし、代官島三郎左衛門の時(寛延2年、1749年)再び御影新田村に陣屋が開かれた。この時、陣屋の建物が開発人柏木小右衛門の屋敷内に三十両の資金で建てられたという。文政10年(1827年)、御影陣屋を廃止し、中之条陣屋支配下に編成されるという風聞が出たので、柏木小右衛門等が江戸へ出府し、御影陣屋の存続を勘定奉行へ訴えたという。

なお、柏木氏のご厚意により、御影陣屋代官宿所資料館が整備され、一般に開放されている。また、市は指定地全体を史跡公園として整備し、隣接地に「市立天領の里・御影用水史料館」を建設し、関係資料を展示している

交通 

・上信越自動車道佐久インターから自動車で15分
・小諸駅より自動車で20分
・佐久平駅より自動車で15分

情報提供:小諸市商工観光課


御影陣屋の口コミ情報

2023年03月15日 治部卿あっぱれ
御影陣屋



御影陣屋は江戸幕府の代官所です。併設? の御影用水資料館にはココが天領となり陣屋が置かれる事となる史料が見学出来ます。

2021年12月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
繰矢川城[御影陣屋  周辺城郭]



繰矢川城は御影陣屋の西北約3.1km、北川北岸にして蛇行点の一つ、標高約704mの河岸台地上平場に主郭が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

築城年代、築城者は不明です。規模からして支城の一つとして整備されたと思うのですが、どのお城に属するのかは判りません。城域外東側には北国街道、森山道が走り、南方からは甲州往還が入る交通の要衝に立地します。

さてさて、駅として城域が利用されているお城と言えば誰でも広島県の三原城を思い起こす事でしょう。しかしっ!長野県にもそんなお城が存在するのですっ!そう、それがこの繰矢川城なのれすっ!三原城は高架によってお城が分断されているそうですが、このお城は掘削によって完全分断、軌道敷設に余程邪魔だったのでしょう。おまけに城域には乙女駅て呼ばれる駅まで造られました。言ってみれば辿った運命は兄弟みたいなもんですかね、三原城は東海道・山陽新幹線らしいですが、こっちは「しなてつ」の愛称で無理矢理親しまれるしなの鉄道ですので、どっちが兄貴かは皆様の御判断にお任せしますけど…

お城の現況は改変著しいのですが、一般住宅の敷地内に立派な堀形が残っています。又、城域北端部はコンクリートの打ちっぱなし(屋根付きで雨の日も安心♪)でその形が明瞭に判ります…ちなみに石垣はありません…が、お城は南辺を城域外から眺める事でその要害性が理解出来ます。繰矢川の支流、北川の蛇行点に向けて張り出す通称3郭は断崖で天然の切岸を形成していて、天然の水堀と相まってその選地が極めて適切だった事を見せつけてくれるでしょう。

乙女駅は自由過ぎる駅でして、入場券が無くても出入り出来ます…駅を介せば城域の全てを楽に廻れるのも魅力でしょう。しなてつに乗ってリア攻めなんてのもたまにはどうでしょうか。

2021年12月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
糠塚山狼煙台[御影陣屋  周辺城郭]



凄まじくつまらない狼煙台口コミ〜

糠塚山狼煙台は御影陣屋の西方約3.5km、標高746mの独立峰、糠塚山山頂部に城域が存します…て言いたいところなんですが、信濃のお城の神本(信濃の山城と館1、佐久編)によると「佐久地方を通る武田氏の仮説飛脚かがり図(定本 佐久の城)」からこの狼煙台の存在が引っ張り出されたらしく、あくまで立地から見た比定地に過ぎません。信濃のお城の神は「まず間違いはないように思われる。」と著述しているので間違い無いんでしょう(信者だからね。)。ちなみに北麓の乙女湖公園からの比高は65m位ですが車で行けるのでどうでもよい情報ですわ…

行き方はGoogleマップに位置登録されている信濃仏舎利塔を目標に設定して下さい。塔の建つ場所が比定地です。

当たり前だけど築城年代、築城者は不明です。狼煙台の北東麓には繰矢川城が存しており、付近は乙女(大遠見)の地名が残っている事から、此処に大遠見の場が設けられていたのではと推測出来るらしいです。が、狼煙台の北西約1.6kmには別に大遠見城(乙女城)てのが存していてこちらの立つ瀬が無くなるし、分業制を取っていたとしても両者の位置は離れ過ぎ(両者を狼煙台とした場合には近過ぎる。)なのでまぁ答えなんか永遠に出る訳も無いて感じでしょかね。

狼煙台の現況は「もぅ何も言わん…」てレベルです。独立峰なので佐久平北部を一望出来る展望は流石らしいですが、雑木が邪魔して今はとても難しい…又、山頂部は信濃佛舎利塔の建設に伴ってすっかり削平されているので遺構がどうとか言う話じゃありません。まぁ贔屓目に見て佛舎利塔を造りたくなるような立地ではあるんでしょう。狼煙台が存在しても不思議じゃないです。

信濃佛舎利塔は正式名称を「世界平和本尊信濃佛舎利塔」…と言いまして、名前そのまんまで世界平和を祈っているらしいです。佛舎利塔は仏教建築としては日本の歴史、風土に合わないと個人的に思っています(何だかホワイトハウスの上の部分感が強いのさ〜)が、間違って来ちゃう事がありましたら罰当たりな自分に習わず皆様は平和を祈って下さいまし。ハイパーマニア向け、訪ねる必要無し。おいらも頑張ったけど無理っす。

2021年12月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
祝堂城(三公坊山城)[御影陣屋  周辺城郭]



祝堂城(三公坊山城)は御影陣屋の北方約1.0km、繰矢川南岸、標高約756mの河岸台地端部上平場に主郭が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車で横付け出来ます。

築城年代、築城者は不明ですが、祝堂城の存する平原の地は大井光長の六男、六郎光盛が領し、お城の南側一段低い所に位置する「タテ」と呼ばれる地籍に住したとする説があるそうです(祝堂城の東方約1.0kmには西屋敷の地名も残る。)。又、昭和五十三年(西暦1978年)に城域西側付近の採土の際に古石垣が列状に出土したそうで、居館跡の存在を裏付けるものの一つとも言えそうですが、発掘調査自体は残念ながら行われていません。

お城は地形図を見ると狭小な台地上端部を活用しており、堀切で区画された3つの郭を持つ連郭式の縄張だったようです。が、現況は過去の大幅な採土により通称2郭と通称3郭は事実上消滅していて、すっかり削平された跡地にはグラウンドが整備されています。通称1郭(信濃のお城の神は通称2郭を主郭とする。)はかつて共楽園と呼ばれる公園だったようですが、今は公園に上がる階段部分を倒木が塞いでおり入園者を拒んでいます。まぁ公園自体は既に放棄されて久しく藪塗れですが…

見るべきものが何も無いようなので帰ろうとしたら城域東端の藪の中に怪しい地形が…行ってみたらびっくり、田切地形の北側断崖部分にぽっかり口を開ける立派な堀切が残っているじゃないすか。そう、ポカリスウェットですわ…これが見れただけでも御の字、ネットで検索してもお城の紹介例は唯一つですが、実際に自身で訪ねてみなけりゃ判らない事ってあるものですね。お城はマニア向け、堀切は一級品という悩ましい物件ですわ…

2021年11月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
上三田原城(城畑)[御影陣屋  周辺城郭]



上三田原城(城畑)は御影陣屋の北東約2.3km、繰矢川北岸、標高約800mの台地南辺端部上平場に主郭が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ただ佐久平のお城の大半に当てはまる事でもありますが、明確な目標が無い以上現地でその位置を再確認する必要があるかと思います。

築城年代、築城者は不明ですが、平原城を居城とした依田氏(平原氏、芦田系とは別系統である。)の支城として機能していたと推測されています。南東約0.2kmは田切地形の凹部を挟んで同じ御影陣屋のリア攻めマップにある十石城が存しています。

お城の現況は雑木林、耕作地、資材置場?等となっています。所謂崖端城であり、縄張図を見ると連続する台地上を空堀で分断していますが、北東辺では意外にも良好に残っていました。又、主郭には低目の土塁が残っているらしいのですが、何やら作業中の人がいるし、見ても藪で判別出来ないだろうと考え断念しちゃいました。

上三田原城は十石城の目と鼻の先に位置していますが、車で行くと両城を纏めて廻る事は出来ません(一応出来るけどねぇ…)ので個別訪問を推奨します。マニア向け。

2021年11月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
十石城[御影陣屋  周辺城郭]



十石城(じっこくじょう)は御影陣屋の北東約2.0km、繰矢川北岸、標高約786mの河岸台地南辺端部上平場に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ただ城域は東西に広大です。

築城年代、築城者は不明ですが、平原城を居城とした依田氏(平原氏、芦田系とは別系統である。)の支城として機能していたと推測されています。城域外北側には小諸、上田へ抜ける北国街道開通以前の古道が通っていたらしく、お城はこの古道を監視下に置いていた事でしょう。

お城の現況は雑木林、耕作地等となっています。城域南側を流れる繰矢川を天然の堀とし、城域北側を流れる平原用水で台地上を分断しています。同じ御影陣屋のリア攻めマップにある針木沢城もそうですが、このお城も平原用水の存在が無ければ縄張として不安を抱える事になるでしょう。

北東側に隣接する針木沢城には明瞭な遺構と呼べるものが無きに等しいのですが、この十石城では所々で見る事が出来ると思います。特に通称5郭と通称6郭を隔てる巨大な堀切には誰でも驚かされる事でしょう。ただ全体としては城域が広大な事、遺構が藪化してる事も手伝ってファジーな印象…そして何と言っても耕作地のパワーに完全に敗北してる感じです。

隣接する針木沢城も含めてどうにも要害城以前に何か別の目的を持って築かれているように思えてしょうがない…針木沢城と十石城を合わせた総延長距離は台地上に約1.0kmにも及ぶ…支城でこの広大さはどうしたものか…城内で馬でも育てていたんじゃないかとか真剣に考えてしまいますわ…まぁ当事者にしか解らない往時の事情と言うものなんでしょう。

2021年11月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
針木沢城[御影陣屋  周辺城郭]



針木沢城は御影陣屋の北東約2.4km、針木沢西岸、標高約796mの河岸台地東辺端部上平場に主郭が存します。城域は長野県道134号線によって南北に分断されています。

行き方は…Googleマップに位置登録されている沢を渡った東側に建つ(有)古越物産を目標に設定して下さい。後は…リア攻めマップを参照して下さいまし。

築城年代、築城者は不明です。塩原牧の守りのために近在土豪と付近住民によって築かれたのがその始まりとされ、その後は平原城を居城とした依田氏(平原氏、蘆田系とは別系統である。)の支城として機能していたと推測されています。ちなみに以前は大井城のリア攻めマップにある馬瀬口城と混同視されていたようです。

お城の現況は雑木林、耕作地、住宅地となっています。東側を流れる針木沢を天然の堀とし、西側を流れる平原用水で台地上を分断しています。この平原用水がいつの時代に成立したのかは調べても解りませんでしたが、古い形式を持つ用水である事は間違い無く殆ど水堀の趣き、何れにせよこの用水の成立が築城より先行していないと縄張として成立しない(城域は広大で台地上との連続性を長大に保ったままである。)と考えます。

写真を見れば理解出来ると思いますが、本当に長閑過ぎる…縄張図にある空堀とか探しましたが、ただの畑としか見えなかったです。又、この針木沢城の南西には平沢用水に沿う形で十石城と呼ばれる同じ様に広大なお城がほぼ隣接しています。

佐久平のお城を訪ねて毎回感じる事は郭の面積が広大過ぎて本当に守れんのか…て印象ですが、改変も多く含んでいるのでしょう。ここはやっぱり往時の地形を知りたいところではありますね。現地に赴いても何も浮かんで来ませんが…

2021年11月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
大遠見城(乙女城)[御影陣屋  周辺城郭]



大遠見城(乙女城)は御影陣屋の西北約3.6km、標高約759mの台地上平場に主郭が存します。

行き方は…誰も行かないと思うし、概ねの位置を把握してても現地で正確な場所を特定するのは非常に困難(40分位うろちょろしたよ…)です。どうしても訪ねてみたいという方はリア攻めマップを参照して下さいまし。説明出来るような目標は一切ありません。

築城年代、築城者は不明です。高台に物見台として築かれたようで要害性は全く持っておらず、それ以外の用途はとても考えられません。ちなみに守る気も全く感じられない(攻められたら逃げるのだ。)です。

さて、全国各地には「乙女」て地名が結構ありますよね。地名に関わる乙女伝承、伝説なんかも沢山残っている事でしょう。ただ浪漫のかけらも無いですが、これらは後付けのものが殆どらしいっす。「乙」は「崖」に通じ、「女」は「目」に通じるそうで、つまりは崖端の境目を意味するものなんだそうです。このお城は乙女城の名称で里伝として伝えられてきたそうで、大遠見城の場合はと言うと…「おおとおみ」→「おおとおめ」→「おおとめ」→「おとめ♪」…もぅどうでもええわ…

お城の現況は雑木林、耕作地となっています。信濃のお城の神は城域北辺を現地に残る堀形(藪で写真は無理っす。)とした可能性を指摘していますが、確認してみてもやっぱり難しい…物見台規模の縄張のくせに一応副郭(通称2郭)を持ってたりもしますが、こちらもいずれはただの斜面になる事は明白でとても厳しい感じです…

通称2郭の東側には旭の鏡石なる名石(長野県町村誌の主観…)が小屋掛けされて鎮座しています。丸石の真ん中に円形の鏡様の形が浮き出ている物なんですが、興味が無ければ写真を撮り忘れても全然後悔しないレベルです。

2021年11月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
長張城[御影陣屋  周辺城郭]



長張城は御影陣屋の北西約3.8km、標高約852mの台地緩斜面上の高まりに主郭?が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。主郭?の現況は駒形神社となっています。

築城年代、築城者は不明です。長野県の中世城館跡・分布調査報告書に縄張図の記載があるのですが意味不明です。現況は東西約150m、南北約500mの耕作地の中にアイランド形式で概ね5つ郭が点在していますが、各郭間の連絡が殆ど取れておらず、信濃のお城の神の言葉を借りれば「城としての縄張りが見えてこない。」って感じです。整地に伴う改変があったのかは知らんけど、主郭?以外は難し過ぎるお城である事は間違い無いところです。

〜佐久平のお城について〜その3

佐久平の地形は概ね平坦な高原性の台地です。国人領主や土豪の多くはその所領内に山地を持たず、必然的に田切地形の台地上を活用して城館を築いていたと考えられます。田切地形の凹部を自然の障壁とし、これに面した、もしくは囲われた台地上の端部等が縄張として利用され、その城域面積は台地上の総面積に比例して広大となります。

山城と比較して跡地の利用は後世必然的に盛んとなりますが、平坦な台地上である事、元来人々の生活圏に密着している事も手伝って改変が著しいものが大多数を占めます。複雑な縄張を元々必要としない(土塁すら必要としないものが多い、連続する台地上を空堀で切れば事足りる。)のも事実でしょうが、確実に遺構と呼べるものが確認出来ない事が多く城域の判定にさえ困難を伴います。

佐久平のお城は城域内に足を踏み入れるよりは周囲から田切地形の要害感を愛でるのが正解だと思います。耕作地や住宅地を見たってしょうがないでしょう。皆様もいつもとは違うお城の楽しみ方を是非味わって下さいまし。

おしまい。

2021年10月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
柏木城[御影陣屋  周辺城郭]



柏木城は御影陣屋の北西約2.8km、標高約741mの台地上平場を中心に城域が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、ピンの位置は西方に50m位ずれています。

築城年代は不明ですが、築城者は大井氏と推測されており、後に城主として柏木氏の名が伝わります。同氏は小林氏(詳細不明っす。)の出自と推測されており、柏木六郎なる人物が天正壬午の乱に際して依田信蕃に服し、信蕃の死後はその嫡男康国の家臣となりました。ちなみに小諸城の柏木曲輪にその名が残ります。

お城の現況は雑木林、耕作地、住宅地等となっています。このお城は明確な目標が無い事(佐久、小諸のお城は本当に苦労する。)から現地に赴いても城域の判定が難しく、確かめようにも様々な情報が錯綜してしまい混乱、結果的に肝心な場所をスルーしていましたわ…城域は南城、北城、遠見平、古屋敷、東前畑城塞に区分される大きなお城だったようですね。すっきりしないので再訪しますわ…

〜佐久平のお城について〜その2

佐久、小諸のお城について調べると「田切地形」て言葉が頻繁に現れます。簡単に言えば帯状台地と帯状低地の交互地形なのですが、その成立は浅間山と密接な関係を持っています。浅間山の噴火がもたらした火山灰層、軽石層は佐久平の大地上に多層に重なり、その比較的脆い地層は河川等の流入により容易に削られて垂直方向に侵食されていきます。侵食は元の地層には及ばず水平方向への侵食に変わり、その上部地層の崩落を招きます。河岸段丘の侵食と違って段丘を形成せず、ほぼ垂直の断崖を形成するのが特徴です。こういった田切地形が、河川等水流入量、河川存続時期等に影響されて無数に形成され、大小様々な田切地形が佐久平に存在する事となりました。

続く…

2021年10月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
加増城[御影陣屋  周辺城郭]



加増城(かますじょう)は御影陣屋の西北約3.8km、標高約704mの狭小な独立丘陵台地上に主郭が存します。北麓の舗装路からの比高は10m位でしょか。謂わゆる佐久平における代表的な地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。振り仮名とか付けさせて頂きましたが、現地に赴くまでは「かぞうじょう」と読んでいました。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

築城年代、築城者は不明です。平氏の絶頂期に後白河天皇の第三皇子、以仁親王が全国各地の源氏に挙兵を促した「以仁親王の令旨」を受けて朝皇なる人物がこのお城に拠ったらしいのですが、何の事やら…

お城の現況は要害地形である事以外は難し過ぎてよく判らない…主郭は極最近まで耕作地だったらしいのですが放棄されたらしく、3種類程の迷惑な種子散布様式を持つ植物の聖地になっていました。そう、ひっつき虫ですわ…土塁とか残っているらしいのですが藪で判別不能、てかそれ以前に前進を諦めましたが…又、城域の東端部は採土によりざっくり失われていてお城の断面が確認出来ます。見たってしょうがないけど…

…字数が余るし折角なんで…

〜佐久平のお城について〜その1

佐久平の地形は全国的に見ても特異なもので、この地方におけるお城の成立に決定的な影響を与えていると思います。佐久平は北に浅間山連峰、東南に関東山地を形成する佐久山塊、南に蓼科山を含む八ヶ岳連峰が三方を囲む高原性の段丘台地です。この地形に特に大きな影響を与えたのが約二万三千年前〜約二万四千三百年前の浅間山外輪山の一山、黒斑山のブリニー式噴火による山体崩壊です。佐久平を覆った土石流は特に塚原土石流れと呼ばれ、浅間山周辺麓に緩やか且つ平坦な台地状地形を形成しました。その後は断続的な浅間山噴火に伴う火砕流、千曲川、その他河川等の浸食により高原性の段丘台地上に典型的な大小の田切地形を形成する事となりました。

続く…

2020年09月30日 まー刑部卿
御影陣屋

隣接する御影コミュニティーセンター駐車場を利用。陣屋前の道路は速度制限以上の速さでとばしてくるためご注意を。敷地内は自由に行動出来ます。建物内はインターホンで呼び出せば見学出来るようです。
なお移築門は小諸市森山にあります。

御影陣屋の周辺スポット情報

 加増城(周辺城郭)

 柏木城(周辺城郭)

 長張城(周辺城郭)

 宮崎城(周辺城郭)

 大遠見城(乙女城)(周辺城郭)

 針木沢城(周辺城郭)

 十石城(周辺城郭)

 上三田原城(城畑)(周辺城郭)

 野火附城(狐っ原)(周辺城郭)

 祝堂城(三公坊山城)(周辺城郭)

 糠塚山狼煙台(周辺城郭)

 繰矢川城(周辺城郭)

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