望月城(もちづきじょう)

望月城の基本情報

通称・別名

(天神城)

所在地

長野県佐久市望月

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

望月氏

築城年

鎌倉時代

主な改修者

主な城主

望月氏

廃城年

天正10年(1582)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

岩尾城(長野県佐久市)[5.9km]
小諸城(長野県小諸市)[8.0km]
根井氏館(長野県佐久市)[8.1km]
長窪城(長野県小県郡)[8.6km]
御影陣屋(長野県小諸市)[10.5km]
伴野城(長野県佐久市)[10.6km]
大井城(長野県佐久市)[10.6km]
平賀城(長野県佐久市)[13.8km]
龍岡城(長野県佐久市)[14.7km]
志賀城(長野県佐久市)[15.0km]

望月城の解説文



望月城(もちづきじょう)は、長野県佐久市にあった日本の城。

概要 

戦国時代、信濃国の佐久郡望月地方の豪族望月氏の山城だった。

城主郭部の標高は780m、市街地の標高が670m程度であるため、比高は110mほど。主郭部の東側は浅い谷津であり、比高は30m程度に過ぎない。

城主郭部(山頂)から南西2kmほどの広さに、主郭から三の郭までが構築され、南方の支城には五の郭までは確認できている。雄大にして堅固な山城で、腰曲輪や帯曲輪、空堀など整然と構築され、比較的保存状態も良い。

歴史・沿革 

歴史は古く、最初の築城は鎌倉時代頃であり、滋野氏の流れを汲む滋野三家の望月氏が本拠地として天神城として築城された。中先代の乱(1335年)8月に、信濃守護の小笠原貞宗が経氏に命令し攻撃・落城したとあるが、望月氏は滅亡せず室町時代に新たに望月城をして築城された。

天文12年(1543年)に、武田信玄の猛攻によって陥落するが、望月氏が武田氏の支配下となることで城は存続した。武田氏滅亡後、後北条氏と一年も籠城戦を行い大軍を動員していた後北条方が兵糧等の戦費が負担になり望月氏と和睦をするも、天正10年(1582年)に徳川軍の依田信蕃によって佐久の諸城は攻略され、望月城も一ヶ月半の籠城戦の後に落城した。

望月山城光院 

望月城麓に位置する曹洞宗の寺。甲州北巨摩郡大八田村清光寺。

文明7年(1475年)、望月城主望月遠江守光恒の開基で、望月氏代々の菩提寺。

本堂は享和期(江戸後期)の建築であるが、本尊阿弥陀如来坐像は室町初期の作。望月氏の祖と称せられる善淵王像は、江戸中期安永の造像。本堂裏に室町末期永正年間の宝筐印塔2基がある。

アクセス 

城麓(望月山城光院)まで

  • 北陸新幹線佐久平駅より、バス(千曲バス中仙道線佐久平駅前より支所入口で下車)で約24分、バス下車後徒歩で4分
  • 北陸新幹線佐久平駅より、中山道11km/車で約30分
  • 上信越自動車道佐久IC、小諸ICより、車で約40分
城主郭部まで
  • 麓より350m。約20分 - 30分。(階段など整備されておらず、獣道のみ)

参考文献 

  • 南原公平 著『信州の城と古城』 しなのき書房 2009年
  • 佐久市(旧望月町)教育委員会 望月城跡設置建案内

望月城の口コミ情報

2022年03月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
鍋蓋曲輪[望月城  周辺城郭]



鍋蓋曲輪は望月城の北西約7.5km、標高約679mの台地上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。「鍋蓋砦跡」の名称で登録されています。該地には説明板が立っているのでもやっとしないでしょう。車は適当そこら辺に捨てられます。ちなみに自分は名称を信濃のお城の神本(信濃の山城と館3、上田・小県編)に準じました。信者だからね。

築城年代、築城者は不明です。武田勢がこの地に陣を敷いて出立の際、鍋蓋を置き忘れた事から鍋蓋の地名が付いたそうなんですが…別に徳川勢が陣を敷いて同様の事案が発生した伝承も伝えられていますので余程鍋蓋を忘れ易い土地柄なんでしょう。もし武田勢の滞陣が事実としたら天文十年(西暦1541年)五月の海野平の戦いにおけるものになる(そうなると武田信虎の陣跡という事になるが…)と思います。

もはや城でもなく砦でもなく曲輪ですわ…はっきり言って現地に赴いてもただの平場の集落で一つも面白くない…しかしっ!騙されたと思ってリア攻めマップを航空写真にして俯瞰して見て下さいましっ!どうでしょか、耕作地の中に浮かび上がるその姿は正に鍋蓋(草履虫とも言う。)じゃないすかっ!その集落の形は往時と殆ど変化が無いと推測され、誰それの陣跡と言うよりは在地土豪の居館を中心とした町割がそのまま残っていると考えるのが自然だと思います。集落の周囲は舗装路によって囲われていて堀跡とも考えられるし、何れにせよその形を意識したものではあるんでしょう。もし伝承にあるように何れかの陣跡とするのならその場所を利用して軍勢を留めたに過ぎないと思います。

駿河の田中城は縄張の名残りを残す町割で有名ですが、信濃にもそんな集落があるのれすっ!まぁこっちはただの曲輪ですし、元々何があったのかははっきりしていませんが…マニア向けだけど武田信玄乗馬の蹄跡の残る…大石…とか武田信玄を祀ったとされる…石祠…なんかがあるらしい(未見っす。)ので武田ファンは是非…田中城に萌えまくる地形段差マニアも楽しめるかもしれません。

2021年11月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
式部城[望月城  周辺城郭]



I'M PROUD TO INTRODUCE THIS CITADEL TO YOU!!!

式部城は望月城の南東約3.6km、布施川の西岸、小諸沢の谷筋に沿って北東へ延びる山塊尾根端部上、標高約806mのピークの一つに主郭が存します。北麓の舗装路からの比高は65m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは城域外北側の山裾に沿って延びる林道を進み、墓地を抜ける山側へ入る道を登るのが判り易いと思います。改変で無ければこの墓地の途中から既に城域だと思います。

築城年代、築城者は不明です。築城者としては式部氏とか布施氏の名が挙がったりしますが、お城は戦国時代に短期間で築かれたと思われる縄張で纏まりが良く、古いお城を改修したとも考えられないので疑問です。地元の方が伝えるように阿江木依田氏、相木氏の手によるものだと自分は推測します。

お城は大変素晴らしいっす。尾根筋を多段の段郭で守り、主郭には高土塁、主郭南側山側背後を4重堀切+竪堀でぶった斬り、この堀切+竪堀が素敵極まりなく、ただの堀切+竪堀に終わっていません。中土塁端部には多段の小郭が設けられたり、特に竪堀は東側で複雑(ピンボール台みたい。)に集合し最終的には1条の大竪堀に集約されたりして極めて技巧的…しかし!このお城におけるかずり推しは尾根筋の多段の段郭でして、そのエッジの立ちまくった切岸の美しさは信濃でも屈指でしょう。又、主郭の大土塁は竪土塁となり通称2郭の南側山側背後を堀切と共にカバー、主郭部には石積みなんかも部分的に付いていたようです。

実はこのお城、自分が現況佐久No.1の山城と信じて疑わない日向城に規模やコンセプトがそっくり。信濃における武田氏被官時代の依田(蘆田)氏や相木氏の所領は完全に特定(武田氏は国人領主に諸事情から替地をよく与えている。)する事が難しく何れも本領から距離が離れているんですが、蘆田氏と伴野氏の横沢を巡る所領訴訟問題が文書で確認出来たりする事から、日向城、式部城の両城が蘆田氏や相木氏と関係するお城である可能性が無いとは言えないと思います。

色々面倒な事書きましたが、答えの出ない事を考える必要も特に無いのでお城を純粋に楽しむのが正解でしょう。望月城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年11月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
式部の館(布施式部館・坪ノ内)[望月城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

式部の館(布施式部館・坪ノ内)は望月城の南東約3.4km、布施川の西岸、標高約730mの山間部河岸段丘上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、ピンは2つあって、「布施式部館跡」、「式部居館跡」とそれぞれ違う名称が付与されています。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは望月氏の一族、布施氏と推測されています。布施氏は系図上、望月氏の祖となった望月則重(則広)の曾孫(布施惟俊)の代からその姓が見られるようになるので、望月氏の中でも矢嶋氏と共に最初期の庶流であったようです。これにより居館は鎌倉時代には既に存していたと推測されてもいますが、自分は少なくとも居館の存在時期は二期に分かれ、館の主もそれぞれ違っていると考えます。

この地域の勢力関係を伺い知り得る資料は皆無に等しいのですが、自分が考えている二期とは、鎌倉時代から少なくとも南北朝時代〜室町時代前期の布施氏、そして中先代の乱後、望月氏が衰退した室町時代前期から戦国時代(もしくは武田氏による佐久攻め以降でしょか。)までの依田氏〜阿江木依田氏、相木(あいき)氏の二つです。

理由はたぶんこの居館の詰城として機能していたと思われる式部城(佐久じゃ現況No.2の素晴らしさ…山城好きならきっと感動するよ〜)の存在でして、戦国時代後期まで利用が続けられたと想像出来る縄張は少なくとも望月氏一族の築くお城じゃないぜ〜

居館は土塁囲みで方形だったと思います。一枚岩をくり抜いた井戸跡が残ってるらしいのですが、下草が生い茂っていて探せませんでした。土塁は北辺でしっかり残っています。

式部の館と式部城を訪ねると頼んでもないのにガイドが付いて来ますw居館の西側にお住まいの農家の方なんですが、作業を中断して式部城の段郭まで案内してくれました。凄く優しいおっさんですw自分だけかと思ったら先日遠州の城友さんも案内を受けたし、先人様のブログにも記述がありましたのできっとこの方の楽しみなんでしょう。お陰様で気持ちよくリア攻め出来ました。この方の家伝によると式部城の城主は相木氏だったとの事…又、式部の館の西辺には堀跡と判る窪みが幼少期まで残っていたそうです。お話ありがとう。

2021年10月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
虚空蔵城(台城)[望月城  周辺城郭]



虚空蔵城(台城)は望月城の東南約1.5km、標高771.8mの山塊山頂に主郭が存します。西麓の長野県道150号線からの比高は80m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きはお城の南側に山塊を東西に走る浅望ふれあいロードてのが延びていますので車で此処まで来れます。目標が無くて山に入る場所が判り難いと思いますが、概ねでこの道の最高点の場所、方位的には標高771.8mピークの真南となります。まともな道はありませんが、踏み跡程度なら付いてますし、要所でピンクリボン(純粋にお城へ行く為の物ではない。)が目印となっています。又、途中には馬場と言ってよいぐらいの平場なんかもあったりしますね。

築城年代、築城者は不明です。武田氏の狼煙台との伝承がある事からその実績があるのかもしれません。望月町誌によると矢嶋大井氏の管下にあって、岩村田、布施、矢嶋を繋ぐものではないかと推測しています。

お城は純粋に狼煙台規模の縄張です。主郭(びっくりする事に標柱が立ってます。)は円形土塁囲みで東側に虎口が付いてます。ただこの狼煙台は生意気にも腰郭を3つも持っていて、その一つには立派な土塁なんかも付いてます。明らかにオーバースペックですわ…又、別称で台城と呼ばれますが、お城を見たら「あ〜台城だわ〜」ときっと呟く事でしょう。

狼煙台としては実に素晴らしい残存度だと思います。廃城からほぼそのままと思われ、自分が求めている物見台、狼煙台が此処にあると言っても過言ではありません(他の人が見たら何じゃこりゃレベルかもしれませんが…)。地域によっては信じられない高所、難所に築かれる事が多い信濃のこの手の台ですが、比較的楽に訪ねる事(車を捨てて約10分の好物件っす。)が出来るのも魅力ですね。望月城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

※佐久市には根岸にも虚空蔵山狼煙台てのがありますので混同に注意です。

2021年10月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
天神城(天神林城・高呂城)[望月城  周辺城郭]



天神城(天神林城・高呂城)は望月城の南西約1.4km、鹿曲川と八丁地川に挟まれ、その合流点に向けて緩やかに南北に延びる標高約738mの舌状台地北辺端部上平場に主郭が存します。北西麓の長野県道151号線からの比高は25m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

築城年代、築城者は不明ですが、存在時期は大きく二期に分けられていたと推測されており、一期を文明十一年(西暦1475年)、伴野氏が大井氏との戦いに勝利し舌状台地上最端部に城郭を構築した時期、二期を天文十八年(西暦1549年)武田氏被官として依田信次が春日の城を再興した時期とし、この春日の城が天神城に比定されています。又、城主としては依田小隼人の名が挙げられていますが、伴野氏からの改姓があった人物だったそうです。

信濃のお城の神本(信濃の山城と館)はマジックを持っていて、読者は信濃のお城の神が描いた縄張図と俯瞰図に誘発されて抜け出せない道を突き進むのですが、逆のマジックも当然持っています。それはこれらの素晴らしさと現況がしっくり来ない事でして、天神城はこの範疇に入る代表的なお城なんです。往時の縄張は凄い(11条の堀切と竪堀が舌状台地をぶった斬る。)けど、北端を除く元々幅広で広範な南向きの舌状台地上は耕作地にぴったり…城域には他に雑木林、墓地、農作業用倉庫、菅公神社等に有効活用されてたりしてお城が全然入って来ない!改変を多く含んでいるんです。残っている堀切はそのまんま墓地に利用されてたり、雑木林は人が入って行けない密度の藪だし…全体的な印象はただの畑地です。

…ネガティブな事書きましたが、その雑木林の北側、城域北端には実に素晴らしい堀切+竪堀、堀切1条が残ってます。お城の西北麓、長野県道151号線側から簡単に直登出来るのでこれだけはお願いしたいところです。

2021年10月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
胡桃沢嶺砦[望月城  周辺城郭]



胡桃沢嶺砦(望月城砦群)は望月城の南東約1.1km、南北に延びる山塊尾根上、標高790.2mのピークの一つに主郭が存します。北西麓の中山道瓜生坂からの比高は55m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。その後は誰も行かないと思うのでパス…同じ望月城のリア攻めマップにある瓜生嶺砦、瓜生嶺南砦、松明山砦へ通じるトレッキングコースを更に南方へ進むと辿り着きます。

砦はしっかりした造りで望月城砦群の中では最も楽しめます。信濃のお城の神本(信濃の山城と館1、佐久編)では生意気にもAとBに分けられていますが、概ね4つの郭を持つ単一の砦でよいと思います。望月城砦群は基本的に望月城と山塊最南に存するこの胡桃沢嶺砦を尾根稜線上で結ぶ警戒線であると思います(大軍が来たら逃げるのだ。)。

…望月氏のお話はこれでおしまい…

望月氏は天正壬午の乱に際して佐久郡に侵攻して来た北条氏に抵抗しますが、攻めあぐねた北条氏と和睦しこれに服します。その後、徳川氏の支援を受けた依田信蕃に望月氏本拠である望月城を攻囲され一ヶ月に及ぶ籠城戦を絶え抜きますが、遂には落城(望月城は三度落城した事になる。)、望月氏当主の昌頼は真田氏を頼って落ち延びて行く途中、土民一揆に襲われて自刃し国人領主としての望月氏は滅亡しました。

依田氏は小県郡の国人領主として木曽義仲の挙兵を助けた最大の功労者です。望月氏は佐久郡の国人領主として義仲の軍事的中核の一翼(木曽義仲四天王の一人、根井行親は望月氏庶流でした。)を担いました。時勢の変化に伴い立場を変えて敵味方となる厳しい戦国時代、常に大勢力に翻弄される小さな国人領主が生き残るのは至難の業であり最後の輝きでもありました。望月城砦群なんて近世城郭を前にして比べたら吹いて飛んで行ってしまうような小さな砦跡に過ぎませんが、自分が無視せず丁寧に…時間を割いて訪ねるのにはそうした理由があるからです。

2021年10月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
松明山砦[望月城  周辺城郭]



あんまし面白くないお城口コミ〜望月城編その3(寛大な気持ちでお付き合い下さい。)

松明山砦(望月城砦群)は望月城の南東約1.0km、南北に延びる山塊尾根上、標高約776mのピークの一つに主郭?が存します。北西麓の中山道瓜生坂からの比高は40m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。その後は誰も行かないと思うのでパス…同じ望月城のリア攻めマップにある瓜生嶺砦、瓜生嶺南砦へ通じるトレッキングコースを更に南方へ進むと辿り着きます。

砦は尾根稜線上、松明山山頂にある小郭程度の完全単郭の縄張なのかな。トレッキングコース脇に存し、現地に赴いてもただの削平地です。展望台とか建ってますが真剣に見れるレベルではないのでさっさと次へ向かいましょう。

…これだけではあんまりな口コミなので望月氏関連のお話を少しづつ…

望月氏は戦国時代には武田氏に従う事で家名を存続させました。天文十二年(西暦1543年)、望月氏当主昌頼は武田氏に抵抗、望月城は落城し昌頼は退去しますが、布引城にて抵抗を続けていた一族の望月信雅とその弟新六は天文十七年(西暦1548年)、武田氏に出仕してその被官となり、実質的な望月氏の当主となりました。みんな大好き武田典厩信繁の妻の一人は望月氏の娘であり、庶子である長男信頼(義勝)は望月氏を名乗り(家督は相続していない。)、信頼の死後は同母の三男、信永が望月氏当主信雅の養子となり家督を継ぎました。武田氏による信濃の名族懐柔策であり、望月氏は御親類衆として六十騎を率いたそうです。

信頼は早世(第四次川中島の戦いにおける戦傷が遠因とも。)、望月氏の家督を継いだ信永も長篠の戦いで討死、結局、養父の信雅が再び当主となりました。信雅は昌頼(同名に注意っす。)なる望月氏の一族と推測される者を養子に迎え家督を継がせますが、この昌頼の代で武家としての望月氏は終焉を迎えます。

続く…

2021年10月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
瓜生嶺南砦[望月城  周辺城郭]



あんまし面白くないお城口コミ〜望月城編その2(寛大な気持ちでお付き合い下さい。)

瓜生嶺南砦(望月城砦群)は望月城の東南約0.8km、南北に延びる山塊尾根上、標高約767mの平場に主郭?が存します。北西麓の中山道瓜生坂からの比高は30m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。その後は誰も行かないと思うのでパス…同じ望月城のリア攻めマップにある瓜生嶺砦へ通じるトレッキングコースを更に南方へ進むと辿り着きます。ただこの砦は位置を特定出来る目標がありまして、平場の南側に土塁様の高まりがあり、その上に小さな祠が2つ道に背を向けて鎮座しています。

砦は尾根稜線上の平場の一つにある小郭程度の完全単郭の縄張なのかな。トレッキングコース脇に存し、現地に赴いてもただの平場です。てか真剣に見れるレベルではないのでさっさと次へ向かいましょう。ちなみに写真1枚目、遠くのお山が望月城遠景となります。

…これだけではあんまりな口コミなので望月氏関連のお話を少しづつ…

望月氏は鎌倉時代に絶頂期を迎えます。佐久郡南部と小県郡の一部に所領を持ち、当時の滋野三家の軍事的中核でした。鎌倉幕府滅亡後の建武二年(西暦1335年)、鎌倉幕府執権北条高時の遺児、時行を擁立して鎌倉幕府の再興を目指した中仙台の乱では時行方となり、信濃守護小笠原貞宗によって望月城は落城、その後再興しますが、威勢に陰りが見え始めます。そして南北朝時代に望月氏は衰退を迎えます。滋野三家は一貫して南朝方に与した事がその最大の一因ですが、動乱の時期を背景に東信において北朝方の他勢力の台頭を招いた事も主な一因でしょう。

続く…

2021年10月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
瓜生嶺砦[望月城  周辺城郭]



あんまし面白くないお城口コミ〜望月城編その1(寛大な気持ちでお付き合い下さい。)

瓜生嶺砦(望月城砦群)は望月城の東南約0.6km、南北に延びる山塊尾根上、標高約775mのピークの一つに主郭?が存します。西北麓の中山道瓜生坂からの比高は40m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。その後は説明しても通り過ぎると思うのでパス…ちゃんとした資料と現在地を把握出来る地図等で確認しないと気付かないです。ちなみに長野県道166号線の望月トンネルの直上、尾根稜線上が概ねの位置となります。

自分のお城に対する生涯目標は信濃のお城の全制覇ですが、信濃のお城は興味の無い方にはどうでもよいものも多分に含んでいます。つまりはこれらをクリアしなきゃならないんですが、いざとなると中々重い腰を上げる事が出来ないものです。

砦はピークてよりは尾根稜線上の高まりの一つにある小郭程度の完全単郭の縄張なのかな。トレッキングコース上に存し、郭と思しき削平地を分断、掘り下げて道を造っているので現地に赴いてもただの道です。てか真剣に見れるレベルではないのでさっさと次へ向かいましょう。

…これだけではあんまりな口コミなので望月氏関連のお話を少しづつ…

講談で有名な真田十勇士は総じて架空の人物ですが、海野六郎、望月六郎、根津甚八の3名の姓は突拍子も無いものではなく真田氏に所縁のあるものです。真田氏は江戸時代に源姓を名乗りましたが、最近の研究では滋野姓禰津氏の庶流の可能性が最も高いそうです。海野氏、望月氏、禰津氏は滋野三家と称され、嫡流に近い方を尊いとするならば真田氏よりも遥かに家格が高い事になりますね。

真田氏は外向きには源姓でしたが、内向きには滋野姓である事を自覚していたように思えます。そして江戸時代になるとこの惣領家であるかのような振る舞いも見られます。即ち家臣である丸子氏に海野姓を与える等、厳しい戦国時代を大名として生き残った勝者の一つとはいえ末流としては少し僭越なんじゃないでしょか。

望月氏は戦国時代に嫡流家が絶えてしまいました。現在望月姓を名乗る方は静岡県、山梨県に多く見られるそうです。離散した望月姓の者の多くは信濃を去って九曜星の家紋を今に伝える事となりました。

続く…

2021年10月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
望月氏城光院館[望月城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

望月氏城光院館は望月城の西方約0.2km、望月城の西麓、標高約674mの山間部平場に位置する曹洞宗の寺院、城光院境内周辺に存したとされる居館です。城光院は歴代望月氏の菩提寺で、文明七年(西暦1475年)、当時の当主である望月光恒が開基となりました。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。駐車場も付いてます。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは望月氏当主だった事でしょう。望月氏は系図上、本姓滋野氏で滋野則重(則広)を祖とし、信濃国佐久郡望月邑に住し望月太郎を称した事に始まるとされています。その後、則重の孫に当たる広道が海野氏を称し、広重が望月氏を継承、道直が禰津氏を称し、三家は滋野嫡流家として特に滋野三家と呼ばれました。望月氏は官制の牧場、御牧の内、信濃十六牧の筆頭である望月牧を支配して有力な武士団として発展、木曽義仲の挙兵に際しては重要なパトロン(望月牧は常時1500頭の馬を放牧していたらしい。)の一つとなりました。義仲滅亡後には源頼朝に出仕、鎌倉幕府において御家人として活躍する事となります。

望月氏は弓馬に優れた一族だったようで、頼朝が武蔵国入間野で狩を催した際には望月太郎重義、藤沢次郎清親の二人が将軍から褒められまくり。又、重義の子である重隆は傑出した人物で、文治四年(西暦1188年)の奥州藤原氏討伐に望月氏一党を率いて参陣、建久五年(西暦1194年)には幕府に坑した安田義定、義資父子を討伐しました。又、建保元年(西暦1213年)和田合戦に際し重隆の子、盛重は和田義氏の子、次郎太郎義光を討ち取る功を立て信濃国和田の地を恩賞に賜りました。重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手にも選ばれ、弓の上手として弓馬四天王(他に海野幸氏、小笠原長清、武田信光)の一人にも挙げられています。

居館の正確な位置は特定されておらず現地で想像するしかありませんが、城光院の南側に望月城への登城路が付いており、この付近が何となくそれっぽい…てかお寺さん自体が素晴らしいので楽しむならこっちでしょう。

望月の地は歌川広重の「木曽街道六十九次・望月」にも描かれる宿場町です。今は旅籠も少ないようですが、望月城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
布施城[望月城  周辺城郭]



布施城は望月城の南東約2.1km、布施川の西岸、南北に緩やかに延びる標高約727mの舌状台地北辺端部上に主郭が存します。西麓の長野県道150号線からの比高は20m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ピンの位置が主郭と推測されています。

築城年代、築城者は不明ですが、古図には城主として望月氏庶流の布施大和守なる人物が挙げられているそうです。ただこの布施氏は歴史的に事跡を追えない氏族でして色々調べたけど布施の布の字も出て来ない…

お城は南北に細長く延びる山間平野部河岸段丘最上段上に立地しているとも考えられ、この平野部に対して南北に平行する比較的長い縄張を持っています。従ってそれぞれの郭の担当正面が長大で本当に守れんのかみたいな印象ですが、これは当事者にしか解らない事情というものでしょか。ただ城域の北辺から西辺は急崖となっているので相応の守りは意識していたようです。

お城の現況は雑木林、耕作地、住宅地、布施小学校(廃校)等となっています。主郭には小さな工場が建ち、城域北端には秋葉社が鎮座、お城の南側にある寺院、梅渓院は居館跡と推測されています。改変を多く含む他、色んな物がとっ散らかっていて城域内に入っても此処がお城だったなんて俄に信じられませんが、舗装路となった堀跡等、よく目を凝らせばそこかしこにお城の名残りが感じられます。

想像力がかなり必要なお城ですが、佐久ならではの縄張はある意味新鮮、付近には牧布施の地名も残っている事から官制の牧場、御牧の内、信濃十六牧の筆頭だった望月牧を構成する地域だったのかもしれません。布施温泉に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢嶋城[望月城  周辺城郭]



矢嶋城は望月城の東南約2.4km、南北に延びる標高約695mの舌状台地北辺端部上に主郭が存します。北麓の舗装路からの比高は20m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北麓のカードック志賀を目標に設定して下さい。が、登城路…いや、主郭まで行ける農道は舌状台地下東側から付いてます。

築城年代は不明ですが、築城者は望月氏庶流の矢嶋氏と推測されています。矢嶋氏は養和元年(西暦1181年)、八島四郎行忠が木曽義仲に従い横田河原の合戦に参陣している他、平家物語にも八嶋四郎行綱の名が見られたりなんかもします。色々すっ飛ばして戦国時代に入ると永禄初年まで武田氏に抵抗していたようですが、後に調略を受けてこれに従う事となりました。この際に本領矢嶋の地は望月氏当主の望月信雅に与えられ、矢嶋氏には別の所領が宛がわれたようです。又、望月氏最後の当主、昌頼が土民一揆に襲われ自刃した際、奮戦した一行の中に矢嶋兵内の名があります。

お城は文字通りの舌状台地端部上に築かれ、縄張図なんかを見ると階郭式の縄張で結構凄いんですが、現況城域の殆どは耕作地か住宅地となっています。ただ耕作地は概ね郭や腰郭の削平地をそのまま利用している感じなので畑であっても気にならないし藪より遥かにましな気がします。主郭にはじゃが芋や長葱が…別の郭ではトマトなんかが栽培されてました。ちなみに日当たりも良いし本当に野菜栽培には適したお城だと思います。又、お城は主郭が浅望ふれあいロードて名称の自動車道によって分断され切通しを形成していますが、当初から堀切は無く城域は更に南側に続いていたようです。

城域内に入ると畑ばかり気になってしょうがないんですが、このお城は離れた場所から全景を愛でる事を推奨します。階郭式の段々、帯郭状の腰郭の段々がはっきり確認出来て往時を簡単に想像出来ます。雑木林の藪よりも畑にしてくれて逆に良かったよと誰もが思う事でしょう。

佐久以外ではあまり目にする事が出来ないお城だとも思います。望月城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
天徳城[望月城  周辺城郭]



天徳城は望月城の東南約2.9km、南北に延びる丘陵上、標高約710mの頂部の一つに主郭が存します。南西麓の宝泉寺からの比高は30m位でしょか。

お城の直近には国際灌漑排水委員会(ICID)…に世界灌漑排水施設遺産…として登録されている五郎兵衛用水が存します。何でも市川五郎兵衛て方が不毛の土地だったこの地域に私財を投じて水源を探し用水を引いて肥沃な土地に変え、五郎兵衛新田と称する穀倉地帯に発展させたらしいです。ちなみに五郎兵衛米なるブランド米もあるそうですが食べた事も見た事もありません。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、案内に従うと通り過ぎると思うのでやっぱり南西麓の宝泉寺を目標に設定しましょう。お寺さんから道が付いてます。

築城年代は不明ですが、築城者は位置関係から望月氏の一族、矢嶋氏と推測されます。同じ望月城のリア攻めマップにある矢嶋城の支城、若しくは矢嶋城築城までの矢嶋氏の本城と考えられています。

信濃のお城の神本(信濃の山城と館1、佐久編)に掲載されていますが、信濃のお城の神が描いた想像図も心無しか薄いし縄張図を見ても本当に薄い…そして現地に赴いてもやっぱり薄い…どれぐらい薄いかを味噌汁に例えて言うと、ぬるま湯2ℓに出汁を入れずに小さじ一杯の味噌を溶かして水分多めの豆腐を入れた様な…ドジな新婚さんでもやらない感じです。真剣にお城を散策しましたが、どうしても想像図や縄張図のイメージと結び付かない…遺構としては空堀が何とか確認出来る程度です。又、主郭は概ね墓地となっていて所々土塁様の土盛りで区画されていますが、やはりこれは後世の削平残土かと思います。マニア向け。

ネガティブな事書きましたが、最近の自分のリア攻めはお城を選ばず片っ端から訪ねる事を信条としています。結果的に解っちゃいたけど結構楽しいじゃん♪みたいな気分に浸れるので満足しています。お城が存した土地に足を運び、お城を通してその地域の歴史を振り返る…我ながらいい趣味持ったなぁ…

※写真は1枚のみ…見返したらお墓の写真か丘陵斜面(見事な藪…)の写真しか撮れなかったっす。

2021年10月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
細久保物見[望月城  周辺城郭]



細久保物見は望月城の東南約1.8km、南北に延びる山塊、標高約785mのピークの一つに主郭?が存します。西麓の長野県道150号線からの比高は80m位でしょか。

行き方は誰も行かないと思うのでパス…興味を持った変態の方はリア攻めマップを参照して下さいまし。林道が物見台の直下まで延びていますので軽自動車ならそこまで頑張れますが腹を擦るかもしれません。墓地が見えたらそこから適当直登です。

信濃のお城の神本(信濃の山城と館1、佐久編)に掲載されていますが、信濃のお城の神はその存在も含めて検証が必要と書いてます。付近一帯はちょっと現況からは信じられないけど耕作地だったらしく改変されている可能性が指摘されています。

従って築かれた年代、築いた方も不明ですが、位置関係からか望月氏の庶流の布施氏、矢嶋氏の名前が挙げられています。まぁ昔の事なんでよく判らねぃよて感じですかね。

物見台は山頂部を削平しただけの簡素極まりない縄張です。細長い土壇があるように思えますが、自然地形なんだか耕作地に伴う改変なんだかは全く判らない…てか普通の方なら通り過ぎる事間違い無しでしょう。又、改変で無ければ小郭が幾つか付いていたように思えます。そして現況は物見台のくせに展望は全くありません…真剣に此処で何かを見出そうとしている自分が恥ずかしくなったわ…

甲信地方には多く見られるジャンルである物見台…他ではあんまし聞かないとは思いますが、狼煙台と共に貧乏な信濃のお城を際立たせる代表例のようなジャンルですね。究極例は「旗塚」てジャンルですが、こちらの方は世界が終わる日の前日になったら皆様に紹介したいと思います。マニア向け、二度と行かねぃ。

2021年01月31日 赤かぶ【】
春日城[望月城  周辺城郭]



佐久市春日にある康国寺の後方の山がお城になっております!
いくつか登城口があるようですが今回は教会脇から登城しました。車は登城口から数十mの所にある公会堂をお借りしました<(_ _٥)>
秋葉社の鳥居を潜るとすぐに急勾配な坂が目の前に!この日は積雪もあり滑って登れないんじゃと思うほどの急坂…少しためらってしまいました‪w
5分ほど登って行くとごく小規模な削平地が複数とプチ堀切などの遺構が見えて来ます。
プチ堀切を過ぎると三の郭に出ます。
三の郭東側には舞台が建てられています。だいぶ壊れていました。東側には小さな祠としめ縄?が架けられおり、この先が二の郭へ続く道になります!
堀切・土橋を目でながら二の郭への斜面を登って行きます。
二の郭には秋葉神社が祀らています。
秋葉社の南側にはプチ土塁からの2条の堀切を経て主郭へ辿り着きます!
主郭南側には土塁♪土塁の上には三角点がありますので目印になるかと!
主郭背後(南側)三重堀切が出迎えてくれますよ♬︎
主郭直後の1条目は深さ10mほどの大堀切!
隣接する2条目・3条目の堀切も深さ5~6mほどで見ていて圧巻されました!
更に小規模な郭を経て南へ進むともう1条堀切が現れます♪
さて帰りはあの急坂を避ける為三の郭から康国寺への道を行きましたが、途中雪の重み?!で竹が倒れ全く通れず!結局はあの急坂へ⤵︎やはり滑ってコケました1回ですが‪w
このお城は主郭背後の深い三重堀切がとても印象的でした☀︎
① 登城口
② 三の郭
③ 三の郭西側の堀切
④ 二の郭 秋葉神社
⑤ 主郭南側の土塁
⑥ 主郭背後の大堀切
⑦ 三重堀切の2条目
⑧ 城郭南端の堀切

2021年01月31日 赤かぶ【】
式部居館[望月城  遺構・復元物]



式部公民館の真向かいにあり、説明板・土塁を見る事が出来ます。
土塁の内側は一般の方の住居になっておりますのでご注意下さいませ!

2021年01月30日 赤かぶ【】
式部城[望月城  周辺城郭]



式部城の行き方として中部横断自動車道佐久南ICから国道142号を諏訪・白樺湖方面へ約7.2km走って行くと布施温泉入口の交差点があります、そこから県道150号に入って下さい。道なりに約3.5km先右側に入った所に式部公民館がありますのでそこを目的地にすると分かりやすいです!式部公民館はGoogleマップにも登録はされております。
今回車は公民館の駐車場をお借りしました。
公民館の向かいには式部氏居館の案内板・土塁・土塁の上に祠が住宅地の中にひっそりと残っています。
登城口ですが式部氏居館西側の路地を南側に歩いて行きます、しばらく行くと白い物置小屋が見えます、その脇が登城口になっています!
登城口からパッと見竪堀?!って思う山道を上がって行きます。上がりきると墓地に出ます、山側へ登って行くと切岸が見えて来ます。ここから本格的な城域に入ったな~と感じます!
主郭まで段々の郭で構築されております。
各切岸も鋭い上に高さがあるので登り易そうな所を見つける為に郭中を歩きまくりました(笑)
二の郭は特徴的で主郭をコの字で囲んで形成されてます。また主郭方向の切岸周辺には大量の石がありました。石積みの名残りか投擲用の石かもしれません。
二の郭を登ると主郭です☀︎北側に祠・南側には土塁を見る事が出来ます!
さらに主郭背後(南側)にはこのお城の最大の見せ場 四重堀切を見る事が出来ます♬︎
四条それぞれ深さは異なりますが、しっかりと残っていますので時が経つのを忘れ見入ってしまったほどです♬︎
お城の近くには日帰り温泉施設もありますので、寒い季節は冷えきった身体を温め♪暑い季節は汗を流して♪行かれるのも良いかと思います☀︎
① 登城口
② 最初に現れる切岸
③ 主郭北側の祠
④ 主郭南側の土塁
⑤ 2条目の堀切
⑥ 3条目の堀切
⑦ 4条目の堀切
⑧ 主郭側の堀切

2012年05月20日 傾奇揚げ仙兵衛
望月城

中仙道の宿場町望月宿
地元名産の雁喰豆を使用した駒月みそかつ丼が名物
サクサクいけちゃうとか

望月城の周辺スポット情報

 式部居館(遺構・復元物)

 式部城(周辺城郭)

 春日城(周辺城郭)

 細久保物見(周辺城郭)

 天徳城(周辺城郭)

 矢嶋城(周辺城郭)

 布施城(周辺城郭)

 望月氏城光院館(周辺城郭)

 瓜生嶺砦(周辺城郭)

 瓜生嶺南砦(周辺城郭)

 松明山砦(周辺城郭)

 胡桃沢嶺砦(周辺城郭)

 天神城(天神林城・高呂城)(周辺城郭)

 虚空蔵城(台城)(周辺城郭)

 式部の館(布施式部館・坪ノ内)(周辺城郭)

 鍋蓋曲輪(周辺城郭)

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