望月城(もちづきじょう)

望月城の基本情報

通称・別名

(天神城)

所在地

長野県佐久市望月

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

望月氏

築城年

鎌倉時代

主な改修者

主な城主

望月氏

廃城年

天正10年(1582)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

岩尾城(長野県佐久市)[5.9km]
小諸城(長野県小諸市)[8.0km]
根井氏館(長野県佐久市)[8.1km]
長窪城(長野県小県郡)[8.6km]
御影陣屋(長野県小諸市)[10.5km]
伴野城(長野県佐久市)[10.6km]
大井城(長野県佐久市)[10.6km]
平賀城(長野県佐久市)[13.8km]
龍岡城(長野県佐久市)[14.7km]
志賀城(長野県佐久市)[15.0km]

望月城の解説文



望月城(もちづきじょう)は、長野県佐久市にあった日本の城。

概要 

戦国時代、信濃国の佐久郡望月地方の豪族望月氏の山城だった。

城主郭部の標高は780m、市街地の標高が670m程度であるため、比高は110mほど。主郭部の東側は浅い谷津であり、比高は30m程度に過ぎない。

城主郭部(山頂)から南西2kmほどの広さに、主郭から三の郭までが構築され、南方の支城には五の郭までは確認できている。雄大にして堅固な山城で、腰曲輪や帯曲輪、空堀など整然と構築され、比較的保存状態も良い。

歴史・沿革 

歴史は古く、最初の築城は鎌倉時代頃であり、滋野氏の流れを汲む滋野三家の望月氏が本拠地として天神城として築城された。中先代の乱(1335年)8月に、信濃守護の小笠原貞宗が経氏に命令し攻撃・落城したとあるが、望月氏は滅亡せず室町時代に新たに望月城をして築城された。

天文12年(1543年)に、武田信玄の猛攻によって陥落するが、望月氏が武田氏の支配下となることで城は存続した。武田氏滅亡後、後北条氏と一年も籠城戦を行い大軍を動員していた後北条方が兵糧等の戦費が負担になり望月氏と和睦をするも、天正10年(1582年)に徳川軍の依田信蕃によって佐久の諸城は攻略され、望月城も一ヶ月半の籠城戦の後に落城した。

望月山城光院 

望月城麓に位置する曹洞宗の寺。甲州北巨摩郡大八田村清光寺。

文明7年(1475年)、望月城主望月遠江守光恒の開基で、望月氏代々の菩提寺。

本堂は享和期(江戸後期)の建築であるが、本尊阿弥陀如来坐像は室町初期の作。望月氏の祖と称せられる善淵王像は、江戸中期安永の造像。本堂裏に室町末期永正年間の宝筐印塔2基がある。

アクセス 

城麓(望月山城光院)まで

  • 北陸新幹線佐久平駅より、バス(千曲バス中仙道線佐久平駅前より支所入口で下車)で約24分、バス下車後徒歩で4分
  • 北陸新幹線佐久平駅より、中山道11km/車で約30分
  • 上信越自動車道佐久IC、小諸ICより、車で約40分
城主郭部まで
  • 麓より350m。約20分 - 30分。(階段など整備されておらず、獣道のみ)

参考文献 

  • 南原公平 著『信州の城と古城』 しなのき書房 2009年
  • 佐久市(旧望月町)教育委員会 望月城跡設置建案内

望月城の口コミ情報

2022年09月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
机の城(政所城)[望月城  周辺城郭]



机の城(政所城)は望月城の北西約6.5km、番屋川北岸(左岸)、蛇行する番屋川に南方へ張り出す標高約564mの河岸台地上平場に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は東御市ふれあい体育館の駐車場に捨てられます。捨て場所によっては既に城域内なんでお城に車でダイレクトインする事が可能ですね。

築城年代は不明、築城者は望月氏と推測されています。望月氏については望月氏城光院館等を参照して下さい。推測の根拠はこの地が番屋川北岸にありながら望月氏がかつて本拠を置いた下之城村(現東御市)に属していた事にあるんだそう。何れにせよはっきりした事は不明です。

別称にある政所城て言うからにはこの場所に何らかの行政機関置かれていた(鎌倉、室町幕府が開設する政所とは意味合いを異にする。)と思うんですが、せいぜい地頭政所の類いでしょう。机の城は地元の方が机を立てた様な近景からそう呼んでいた事に因むらしい。

お城の現況は雑木林、駐車場、テニスコート、プール、北御牧村味の研究会加工施設等となっていて旧態は全く失われています。改変でなければ物置に変貌した堀形が確認出来る事ぐらい。謂わゆる番屋川の浸食によって形成された崖地南縁端部上に築かれた崖端城ですが、信濃のお城の神が古い国土地理院地図を基にして描いた縄張図と現況がどうしても合致しない…縄張図には番屋川に沿った形で城域が展開するけど、現況は城域外南側の下段に広大な平場が存在する。城域外とはいえどう考えても縄張図に誤りがあるとしか思えないし、この平場を無視して城域を考えるのはやはり無理が生じる…神は平成九年に刊行された北御牧村誌に掲載された「政所城跡 推定図」を基にして作図しているけど、削平等の改変があるとはいえ何れにせよ疑問には感じる。

お城の改変は地上部分にだけ留まらない。城域の直下を北陸新幹線のトンネルが貫通する。撮り鉄でもあるお城マニアは是非、ちなみに城域内には見せる気10%以下の標柱と説明板も立っています。御城印の購入はしなの鉄道線田中駅前の東御市観光情報ステーションでお願いしやす。まぁ誰も買わんやろ…

2022年09月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
下之城居館[望月城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

下之城居館は望月城の北西約5.3km、鹿曲川東岸(右岸)、蛇行する鹿曲川に短冊状に張り出す標高約577mの河岸台地上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は自身の責任においてそこら辺に捨てましょう。

築城年代は不明、お住まいになられていたのは滋野三家の一つ、望月氏です。同氏が同じ望月城のリア攻めマップにある望月氏城光院館に住する以前の城館、本拠だったと推測されています。望月氏については望月氏城光院館等を参照して下さい。武田信玄の同母弟、典厩信繁の庶子にして長男である信頼(生母は望月氏当主、盛昌の娘でした。)が養子に入る程の名族でありました。

居館は謂わゆる単なる屋敷跡とは違うもので、要害地形を充分意識した選地、東は諸沢の流れが北から南へと斜行し鹿曲川へと流れ込み「御前淵」の淵となり、西南北は崖地を介して鹿曲川を臨む。地形図を見れば一目瞭然だけど河岸の独立した低台地で、城域東端は横堀状の堀切を介して馬出様の郭を持つ。城域である「城」の地名を残す台地上は耕作地、耕作放棄地、墓地、一般住宅とその敷地等となっていて細部は失われているけど、土塁の一部が今も健在、土塁上には標柱と説明板が立っていますが見に来る人の事を全く考えていません。

改変はされてるんだけど居館城の縄張を今によく残していると思います。信濃十六牧の筆頭だった望月牧を支配した望月氏、木曽義仲の挙兵はこうした信濃の国人領主抜きにしては到底成し得なかった事でしょう、望月氏はその中核の一つ(木曽義仲四天王の一人、宇治川の戦いで先陣を焦った畠山重忠の馬を射たとされる根井行親は望月氏の一族でした。)でした。何も残って無いじゃんとか言わないでくれ…居館城故、その土台は往時と大して変わりが無い。望月の駒が繋がれたであろう城館の面影を今に垣間見る事が出来ます。

2022年09月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
一丁田城[望月城  周辺城郭]



一丁田城は望月城の北西約5.7km、鹿曲川東岸(右岸)、標高約575mの河岸段丘台地緩斜面上平場に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地に建つ八反田地区集落センターに捨てられます。

築城年代、築城者は不明です。立地から滋野三家の一つ、望月氏に関係するものと推測されています。同じ望月城のリア攻めマップにある望月氏初期の城館、下之城居館から北方へ距離にして僅か約0.6kmの位置に存しています。

お城の現況は城域内を長野県道166号線、東部望月線の旧道が南北に貫通、旧態は失われています。城域外南側にはすもも沢と称する沢が流れ、自然の堀形を形成している。城域は主郭が一般住宅とその敷地、通称2郭は前述の公共施設とその敷地、通称3郭は物置等となっています。リア攻め中、八反田地区の区長を務めた事もある近在の方とお話しましたが、此処がお城であった事は認識の内にありませんでした。

一丁田城は立科町に存するものかと思ってましたが、東御市下之城に立地する事にこれ書いてて気付きました。今まで長々と立科町の城館を口コミで紹介してきましたが、立科町(長野県では珍しい山城不毛の行政区である。)の城館は比定地も含めて全部で15箇所になりますね。遺構は薄いかほぼ消滅しているのでやる気があれば1日で平定出来るでしょう。が、自分の立科町の城館口コミは全部で14箇所…実は1箇所、場所を間違えて全く関係無い所を探索してしまい事実上リア攻め出来ていない事に帰宅してから気付きました。今おいらの頭の中でこの1箇所が喉奥の魚の小骨のように引っ掛かっています。しゃ〜ない、しょうもない物件だけど再訪しよう…

2022年09月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
陣場[望月城  周辺城郭]



陣場は望月城の西南約4.4km、標高946mの山塊山頂から北方へ延びる尾根上、標高約929mのピークの一つを中心に城域が存します。北麓の芦田城主郭からの比高は120m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている立科ゴルフ倶楽部を目標に設定して下さい。クラブハウス駐車場の北側山林が該地です。構内は関係者以外立入禁止なのでゴルフパックとか担いで関係者を装いましょう。

信濃のお城の神本、信濃の山城と館1、佐久編に記載があるので訪ねてみましたが、その名称のとおり芦田城攻めで利用された陣城の類いと推測されています。陣城と言うのも憚れる地山のレベルなので悪しからず…

口コミは以上となりますが、それだけではあんまりなので芦田氏について解る範囲で…

芦田氏の歴史を調べているとガチに混乱しまくり、その主な要因は地理的なものと芦田姓を名乗ったとされる氏族が複数に及ぶ事にあると思います。芦田姓を名乗った氏族は大別すると二氏となり以下のとおり。素人の阿保が理解しようと努力したものなので間違ってたらごめんなさい。

・鎌倉時代から永享八年(西暦1436年)までの滋野氏系芦田氏、信濃守護小笠原政康の征討を受けた芦田下野守を依田氏の一族とせず、単純に芦田郷に拠った滋野氏の分流とすれば話はすっきりする。ちなみに依田氏の系図、系譜に下野守は存在しない。

・永享八年以降の依田氏系芦田氏、信濃守護小笠原政康に従って共に滋野氏系芦田氏を滅ぼし、隣接する甕(茂田井)郷を恩賞に受けた米持氏と同様に、依田氏が芦田郷をこの際の恩賞として得たものとすれば話はすっきりする。在府で室町幕府の評定衆、奉行衆を歴任した依田氏だが、当時幕府に恭順の姿勢を示す守護方、大井氏の被官化(一族は室町時代には佐久郡平原等に所領を得ていた。)が進んでいた事実を考慮すれば、箱山城、善正城を築いて将軍家の不興を買ってまで大井氏との対抗姿勢を強めた芦田下野守を依田氏の一族とするのは無理がある。従って同じ望月城のリア攻めマップにある善正城の伝承等も何らかの誤伝である可能性が高い。

何れにせよ各資料等では決着を見ない。芦田氏に関する事柄は誤記や誤伝、混同が多いようで、解釈がその都度変化するように思える。芦田氏の歴史なんて多くの方にとってはどうでもよい事だけど信濃の地方史はおいらの趣味なんで。

2022年09月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
倉見城(茂田井城)[望月城  周辺城郭]



倉見城(茂田井城)は望月城の西方約2.5km、標高約729mの台地丘陵地緩斜面上平場に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は自身の責任においてそこら辺に捨てましょう。

築城年代は不明、築城者は米持氏とされています。同氏は現地の説明板によると、信濃国高井郡井上氏の井上三郎満実の子、三郎五郎家老が高井郡米持に移り住み米持氏を名乗り、その子孫が佐久郡に来住して倉見城を築いたんだそう。その後、芦田二郎光遠の代に倉見「木の宮」に築城し芦田庄司となり、甕(もたい)氏を名乗ったそうです。

が、高井郡井上氏の一族が単純に佐久郡へ進出する事が出来るとはとても考えられない。信濃守護小笠原政康による永享八年(西暦1436年)の芦田(古)城攻めは依田右衛門尉経光、米持二郎光遠が主攻で、芦田氏滅亡後に芦田郷に隣接する甕(茂田井)郷を恩賞に受けたものと考えるのが自然でしょう。

お城の縄張はほぼ独立した短冊状の丘陵全体を活用しており、コンパクトながらも10の郭を持つ。が、夏場は人類が到達出来ない激藪が大部分を占めていて、それを確認するのは不可能に近い。信濃のお城の神も3、8.、9郭の調査を諦めています。城域南端に堀切が1条、現況舗装農道として残ってるのがせめてもの救いだった…ちなみに城域は後世耕作地としてフル活用、今も一部分において耕作が続けられています。

倉見城の存する茂田井の地は、近世に中山道が整備されると茂田井間宿(もたいあいのしゅく、間宿は宿場間に発達した休息用の宿場、宿泊は禁じられた。幕府公認の宿駅制度からは外れる。)として発展しました。何でも映画、たそがれ清兵衛に使われたオープンセットは此処の武重本家酒造の裏手に造られたんだそう。真田広之ファンは是非…

2022年09月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
善正城[望月城  周辺城郭]



善正城は望月城の西北約7.2km、標高約696mの台地丘陵地緩斜面上平場に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨ててOK♪レベルです。

築城年代、築城者は不明です。地元の古老の伝えるところによると、小県郡丸子の城主、箱山判官国正の弟、太郎善正の居城だそう。小県郡依田庄、丸子郷を支配領域とした依田氏は箱山城、善正城を築いて佐久郡への進出を図り、芦田古城を築いて同郡芦田郷への進出も図る。この事実は佐久郡の大半を支配領域とする大井持光を刺激し、大井氏と芦田(依田)氏の争いに発展する。信濃資料によれば、永享七年(西暦1435年)一月二十九日条、時の将軍足利義教は召し出していた信濃守護小笠原政康を帰国させ、越後守護代長尾邦景と共に大井持光を援けて芦田下野守を討伐させたが、同年二月十七日条では和睦を命じている。翌年三月六日条、小笠原政康は芦田氏討伐のため小県郡祢津に攻め寄せ、芝生田、別府の両城を落とし、同年八月三日条では芦田下野守はこれに服している。一連の流れは将軍家と鎌倉公方(万人恐怖足利義教VSいきり公方足利持氏て感ぢ?)の対立にも影響されているようだ。

お城の現況は土地の構造改革によってすっかり改変されてしまっているようで、長野県町村誌にある「丘の尾先に作られた城で…」は主郭の周辺に僅かに面影を残すのみとなっている。主郭は現況微高地を形成していて墓地となり、主郭の三面に残っていたていう土塁も確認出来ない。又、縄張図にある堀形が現況水路となって残っているけど、周辺はこれもそうならあれもそうじゃない?みたいな感じで水路だらけなのが悩ましいところ…

ネガティブな事書きましたが、此処がお城だったてのは充分理解出来る。遠目から「あそこでしょ〜」と思っていた場所がそこでした。リア攻め中は果樹園の鳥獣駆除装置の出す7種類の警告音が頭の中で常にリフレイン、「あっ。危ない!爆弾だ〜どーんっ!」…2週間経つけど完全に刷り込まれていますわ…

2022年09月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
大城[望月城  周辺城郭]



大城(おおしろ)は望月城の西北約3.3km、芦田川北岸(左岸)、標高約683mの台地丘陵地上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されている公園、Oshiro Parkを目標に設定して下さい。該地はその周辺となっています。ちなみに「おしろパーク」ではなく「おおしろパーク」て読むと思います。

築城年代、築城者は不明です。信濃のお城の神は、「たてしなの地名」て本の芦田村の項に「大城」の地名が記載されている事から調査したみたいっすね。偉い先生によると、地名において「城」は敷代、田代の意味を持ち、一般的には水田と解釈されるそうなんですが、該地は丘陵上である事からその線は薄く、単純に城のあった場所と解釈してよいそうです。周辺に残る「細丸」、「見戸」、「番馬」等の地名はこれを補強するものなんだとか。ちなみに文献、資料等に登場する事も一切無いけど、古老の伝えるところによると「岩下氏居城の跡」らしいっす。芦田五十騎には岩下甚左衛門の名があるらしい(群馬県の藤岡市誌に芦田五十騎、芦田五十騎連名対比て項がある…お持ちの方がいらっしゃいましたら伝言下さいまし。)けど…

お城の現況は…前述のとおり比定地て事になる。該地周辺は大城団地て言う住宅地となって大幅に開発されており、かつてお城が存していたていう痕跡を見付ける事は不可能っす。丘陵北縁を探索すれば何かあるかなとか思いましたが、墓地の中に小社が建っている事ぐらいでやっぱり難しい…徒労てやつですわ…団地は住むにはちょと買い物に不便な場所ではありますね。

信濃のお城の神もまともな調査を諦めた事でしょう。「大城」て言うからには大きなお城だったんでしょうけど、守る意識は希薄なので居館城の類いだったとも仰られています(「じょう」と読まずに「しろ」と読ませる事にも疑問を呈している。)。個人的にはかなり古い時代の城館だったように思えます。岩下氏が居したとすればその二次利用に留まったものと考えます。ハイパーマニア向け、そもそもはっきりした事は判らないし訪ねる必要は全くありません。

2022年09月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
武居屋敷[望月城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

武居屋敷は望月城の北西約5.9km、番屋川西岸(左岸)、蛇行する番屋川に半月状に東方へ張り出す標高約585mの河岸台地東縁端部上平場に存した居館です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…長野県道40号線、諏訪白樺湖小諸線から旧道(現農道)を下ると直ぐそこですよみたいな感じっす。

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方は武居河内守栄長とされています。明治時代初期に編纂された長野県町村誌には「…天正中武居河内守栄長、占館の址にして、望月町金井氏に其知行の分限帳存せり。…」とあります。武居河内守栄長は不明ですが、武居屋敷が天正年間(西暦1573年〜1592年)の居館跡て事は在地国人領主の被官衆の一人だったような気がするけど、誰の被官衆だったのかは天正十年(西暦1582年)三月(説明しなくても御存知の筈…)を境にして変わってくると思います。

居館の現況は耕作地、耕作放棄地、空地、終末処理場(何だかこの名前を見ると自分が処理されそうな気がしません?)とその敷地等となっています。武居屋敷も同じ望月城のリア攻めマップにある逸見屋敷と同様の問題を抱えていて、番屋川の蛇行点に張り出す低台地に立地しています。信濃川水系に属する番屋川が往時も静かな流れだったとはとても思えないのですが…遺構としては長野県町村誌にも「西に堀切あり、」と記述される堀形が旧道沿いに確認出来ます。

崖下の平場でもあります。今年度の防災週間は終わりましたが、武居河内守栄長は防災意識のかなり低い方だったとは思います。

2022年09月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
逸見屋敷[望月城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

逸見屋敷は望月城の北西約5.4km、番屋川東岸(右岸)、蛇行する番屋川に半月状に西方へ張り出す標高約596mの河岸台地西縁端部上平場に存した居館です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…長野県道40号線、諏訪白樺湖小諸線から農道に入り、番屋川に掛かる小さな橋を渡ったら直ぐそこですよみたいな感じっす。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。明治時代初期に編纂された長野県町村誌には同じ望月城のリア攻めマップにある武居屋敷の項におまけ感覚で記載があり、「又逸見屋敷、入道窪、出城、矢崎、矢ノ沢、矢ノ原の字あり。皆此地に隣れり。」とある。逸見屋敷の他も城館に関わる地名だけど位置も含めてちょと此処では何を言っているのか解らない。周辺には「二軒屋」の地名もあり井戸跡も残っている(ビニールシートで覆われているのがそうなのかな。)そうだけど、これは明治時代頃まで家屋が2軒建っていた事に因むんだそう。又、長野県町村誌お馴染みの難し過ぎる絵図も添付されていたりもしますね。ちなみに逸見氏も不明ですが、まさか甲斐源氏の逸見氏と関係があったりするんでしょか。

居館の現況はほぼ果樹園で、これを貫通する農道は敷地外東側御塚山へ登る林道でもあります。御塚山には藤沢氏の墳墓とされる塚が残っているそうなので、逸見氏は藤沢氏と関係のある氏族なのかもしれません。ただ立地について気になる点が一つ…番屋川の流れは往時とほぼ変わっていないと思うのですが、蛇行点に張り出す河岸の低台地は水の影響を激しく受けるとは思わないでしょか。要害地形を選択したと言われればそれまでですが、住するには不安でしかないような…

番屋川西岸(左岸)沿いを南北に走る旧道は小諸藩の巡見道として使われた道で、逸見屋敷の存した近世以前にも古道が走っていた事でしょう。周辺は八重原の台地から番屋川を渡り御牧原の台地へ至る東西に走る間道の存在を意識させる場所ではありますね。

2022年09月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
蟹原城(小城)[望月城  周辺城郭]



蟹原城(小城)は望月城の北西約6.5km、蟹原川北岸(左岸)、標高約648mの河岸台地南縁端部上平場に城域が存します。

行き方は…同じ望月城のリア攻めマップにある蟹原の夕日長者屋敷(夏屋敷)を参照して下さい。此処から直ぐの場所に位置しています。

築城年代、築城者は不明です。同じ望月城のリア攻めマップにある蟹原城の支城だったんでしょか。が、地元の方にとって蟹原城とはこの蟹原小城の事を指すようで、むしろ蟹原城の事は認識の外にあるらしい…位置的には同じ望月城のリア攻めマップにある蟹原の夕日長者屋敷(夏屋敷)から鞍部を挟んだ東側の台地で事実上隣接しています。

お城の現況は台地上、短冊状の緩斜面上平場全体を活用し、城域は東側の堀形と西側の鞍部で独立した小台地(「城の畑」の地名を残す。)を形成している。が、城域南側の削平地には一般住宅とその敷地、その他は人類が到達出来ない激藪となっていて何がどうなっているのかはさっぱり不明…逆に苦労する事無くすっぱり諦められるので潔いと言えば潔いです。

信濃のお城の神本(信濃の山城と館1、佐久編)では蟹原城、蟹原の夕日長者屋敷(夏屋敷)のおまけ扱い、たぶん神もまともな調査を諦めた事でしょう。行ってもしょうもない代物ですが、蟹原集落を中心とした半径0.3km圏内には4つの城館が集中するので一つ行ったら結局全部訪ねる事にはなるとは思います。

2022年09月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
蟹原城[望月城  周辺城郭]



蟹原城は望月城の北西約6.9km、蟹原川北岸(左岸)、標高約667mの河岸台地南縁上平場に城域が存します。

行き方は…同じ望月城のリア攻めマップにある蟹原の夕日長者屋敷(夏屋敷)を参照して下さい。此処から直ぐの場所に位置しています。

築城年代、築城者は不明です。明治時代初期に編纂された長野県町村誌には「…南面は藤沢川(現蟹原川)に臨み、東西北に堀を繞(巡)らし、北は原野に接続す。滋野氏の族、蟹原四郎幸重、又藤沢氏と称して代々住する由、里老の伝記にあり。用水は召水(めしみず)と称して大旱にも滅する事なく、郭内へ引用せる跡あり。」とあり、周辺の色物物件3件と合わせて難し過ぎる絵図が添付されています。蟹原四郎幸重〜藤沢氏は不明ですが、虚空蔵山城のリア攻めマップにある唐鳥屋城の築城者に滋野三家の一つ、海野氏の庶流である藤沢帯刀の名が伝えられています。が、この藤沢帯刀の出自をこの藤沢氏に求めるのは難しいんでしょう。

お城の現況は台地上の微高地を活用してるんでしょか。ファジー過ぎてはっきりした城域の範囲が判らない。東辺、北辺には農道が通っていますが、これを堀形と見る事も可能でしょう。長野県町村誌にある召水の場所は郭外とされているので、この東側の微高地周辺が城域だったんでしょかね。一応削平されていますが、たぶん過去には耕作されていたと思われます。召水は今も水が湧いていて城域外南側の水田に導水されている他、円形の土塁様の小さな堤の中へ引き込まれ集落の用水としても使われていたようです。ちなみに城域の大部分は入る気も失せる激藪なんで断片だけのリア攻めとなりました。

要害てよりは居館城の類いだったと思います。立科町の近世以前の歴史は資料が少なく調べるのも一苦労…平成七年から平成九年に掛けて刊行された立科町誌はセット(全5巻)売りしかしておらず総額2万円…お願いだから歴史編だけバラ売りして下さい…

2022年09月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
蟹原の朝日長者屋敷(冬屋敷)[望月城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

蟹原の朝日長者屋敷(冬屋敷)は望月城の北西約6.7km、蟹原川北岸(左岸)、標高約654mの河岸台地南縁上平場に存した居館です。

行き方は…同じ望月城のリア攻めマップにある蟹原の夕日長者屋敷(夏屋敷)を参照して下さい。此処から直ぐの場所に位置しています。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。明治時代初期に編纂された長野県町村誌には「…南面は藤沢川(現蟹原川)に臨み、三面に土塁、堀あり、東西は一重、北は二重あり、原野に連なる。」とあり、周辺の色物物件3件と合わせて難し過ぎる絵図が添付されています。長者の名を冠する事からある程度の分限者が居していたと思われますが、過剰な守りから推測するに在地土豪の居館だったと考えてよいんでしょう。

居館の現況は雑木林、廃家屋とその敷地等となっています。雑木林の中に土塁様の高まりが確認出来たり、敷地の東辺、西辺の一部に堀形が残っているのが確認出来ます。蟹原に居した分限者が夏場は風通しのよい夏屋敷に住し、冬場は暖かい冬屋敷に住したものなんでしょう。

小さな蟹原集落をうろちょろしてたら完全な異邦人と化してしまい辛いリア攻めに…農作業に従事している方々が鋏とか包丁を手に持って遠巻きにしてこちらをじろじろ見ている…目が合うと農作業に戻って行く…緊張で唾を飲み込む、様々な妄想が脳裏に浮かぶ…

村人1「この土地の秘密を知ったからには生かしちゃおけねぃっ!」

かずり「誤解ですっ、何も見ていません!僕はかなり脱線した山城好きの城めぐら〜なだけなんですっ!信じて下さいっ!」

村人2「いいや、信じる訳にはいかねぃっ!お前はアレを見ちまったんだろうっ!」

村の衆「んだっ、そうに違いねぃっ!それっ!この男前を埋めちまえっ!」

かずり「あぁっ!僕の為にお花を摘んでくれたそこの娘さん!どうか助けて下さいっ!」

村の娘「男前さん、許しておくれ…掟を違える訳にはいかないの…およょ…泣」

かずり「くっ、来るなっ!うっ、うわあぁぁ〜ぐふっ!」

しかし怒られるでほんまに…

2022年09月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
蟹原の夕日長者屋敷(夏屋敷)[望月城  周辺城郭]



蟹原の夕日長者屋敷(夏屋敷)は望月城の北西約6.6km、蟹原川南岸(右岸)、標高約658mの河岸台地北縁端部上平場に存した居館です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…Googleマップに位置登録されている南方のcarraria houseを目標に設定すれば近くまでは辿り着けます。車の捨て場所はどうにでもなるでしょう。ちなみにこの目標が何なのかは現地でもよく解らないです。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。明治時代初期に編纂された長野県町村誌も伝承すら不明な事を嘆いています。又、土器、鉄器、矢ノ根、農具、古銭等が出土したとあり、周辺の色物物件3件と合わせて難し過ぎる絵図が添付されています。長者の名を冠する事からある程度の分限者が居していたんでしょうけど、それが武士なのかも判らない…

居館の現況は耕作地、雑木林、墓地、一般住宅とその敷地等となっています。該地には不動池と呼ばれる池があって、この周辺に「夏屋敷」の地名が残ります。所詮崖端に築かれた居館なんですが、一般住宅の敷地を縦断する事になるのでこの不動池を見る事が出来ませんでした。まぁ見てもしょうもないとは思いますけど…ちなみにお宅訪問(最近は躊躇無く訪ねる事が出来ます。居館マニアには必須のテクニックだと思う。)もしましたが全力で留守…近所の犬に吠えまくられやした。

蟹原の夕日長者屋敷(夏屋敷)ていうと漫画、後にはドラマにもなった「ゆうひが丘の総理大臣」を思い起こすおいらですが、この名称にもしや?と思われる方がいらっしゃいましたら相当勘の良いお方でしょう。そう、実は直近には蟹原の朝日長者屋敷(冬屋敷)ていう別の居館が存していました。そしてこの冬屋敷で蟹原集落でのおいらの地味な戦いは佳境を迎える事となります。

※ドラマのゆうひが丘の総理大臣は今思えば信じられないぐらいのスーパー豪華キャストだなぁ…

2022年08月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
新城峯[望月城  周辺城郭]



新城峯は望月城の西方約6.2km、標高約800mの丘陵地頂部の一つに城域が存します。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…該地周辺は目標も無くファジーな地形が連続しています。自分も特定に30分位費やしました。ちなみに同じ望月城のリア攻めマップにある芦田の番屋から国道254号線(芦田宿入口交差点)を長窪方面に2分位進んで集落に入ると辿り着く事が出来ます。

築城年代、築城者は不明です…何でこんなの訪ねるの?と聞かれれば信濃のお城の神本、信濃の山城と館1、佐久編に記載があるからっす。信濃のお城の神は、「たてしなの地名」て本の山部村の項に「新城」の地名が記載されている事から調査したみたいっすね。「新城」は新しい城の意味ではなく、簡素な城、急造の城を意味する「荒城」で、直近には「新城峯」の地名も残っている。信濃のお城の神はこの「新城峯」の場所を城館の適地として調査していて、切岸や土塁様の地形を確認したものの城郭遺構とは判断出来ないと著述しています。

つまりは地名を元にした比定地っす。資料、文献、伝承等も無い事から存在すらはっきりしない。近くには「狭間口」、「矢原」等の城館に関わる字地名も残っているらしいけど、それが何処なのかはちょと判らなかったです。

信濃のお城の神に倣って新城峯を探索しましたが藪が酷くて難し過ぎました。又、城館が存在していたと仮定しても中世より以前のものと推測されるみたいです。

信濃のお城の神は写真を掲載する事が殆どありません。が、この新城峯の項には1枚のモノクロ写真が掲載されており、この写真が該地を特定する決め手となりました。折角なんで同じ場所に立ち、似たような写真を撮って敬意を表する事にしときます。ハイパーマニア向け、誰が行っても徒労でしかないと思います。

2022年08月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
芦田の番屋(山部の番屋)[望月城  周辺城郭]



※暫くの間、おいらの口コミは城めぐ的にびっくり物件が続きます。びっくりしないようにお願いします。びっくりしたくない方は読まなくてよいです。

芦田の番屋(山部の番屋)は望月城の西方約5.3km、標高約748mの丘陵地端部緩斜面上平場に存した番所です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている母娘・道祖神(芦田)を目標に設定して下さい。芦田宿入口交差点の南西側空地が概ねの該地となっています。車はそこら辺に捨ててOK♪レベルです。

築かれた年代は不明、どの時代に番所として機能していたのかも不明です。該地は近世の中山道沿い、笠取峠口に当たり、中世には筑摩郡深志から小県郡を抜けて佐久郡に至る大内道(おおないど、小笠原道とも。)が長窪と芦田の間を結ぶ交通の要衝でした。現在も国道142号線と国道254号線が重複区間を芦田宿入口交差点で終えて分岐しています。

番所ですわ番所…居館ですらない…何でこんなの訪ねるの?と訊かれれば信濃のお城の神本、信濃の山城と館1、佐久編に記載があるからっす。信濃のお城の神は「たてしなの地名」て本の山部村の項に「番屋」の地名が記載されている事から調査したみたいっすね。街道筋の通行、物流を監視する番所、周辺の官林を監督する山番所の類いですが、そもそも論で近世以前のものなのかも判らない…番所の現況はただの空地(草むらとも言う…)となっています。

北西約0.2kmの丘陵ピークの一つには愛宕神社が鎮座しています。中世の砦跡や狼煙台跡には火伏せの神を祀る秋葉社や愛宕社が建てられる事が多いそう。なるへそ〜と思ってこの愛宕神社を訪ねてみましたが、確かに砦や狼煙台を想起させる地形の上に鎮座していて妙に説得力を持っていました。佐久郡と小県郡の郡境近くでもあるし、これ等が存在していたとしても立地的に全く違和が無い。番屋の地名に近世以前の番所が存在していた事はほぼ確実(近世以降だと中山道芦田宿に集約されると思う。)であるとは思います。

リア攻め時間は写真も含めて30秒位、これ書くのに1時間30分位、やっぱり阿保なんでしょか。趣味として個人的には同一線上に並べる事が出来るのですが、近世城郭を見慣れた方はたぶん失笑した後に失神するとは思います。

※Googleマップの3Dで誰でも仮想リア攻めが出来ます…

2022年08月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
芦田城(木の宮城・倉見高井城)[望月城  周辺城郭]



芦田城(木の宮城・倉見高井城)は望月城の西方約4.1km、芦田川東岸(右岸)、河岸台地上、標高806mの丘陵頂部の一つに主郭が存します。山塊北方裾野を形成する幅の広い丘陵地のピークの一つですが、地形図を見るとほぼ独立丘陵と言ってもよいと思います。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。丘陵中腹には駐車場所も付いてます。

築城年代は不明、築城者は芦田氏です。同じ望月城のリア攻めマップにある芦田氏館でも書きましたが、芦田氏は小県郡依田庄を出自とする依田氏の一族とされています。が、室町時代とその前後における同氏の在地(一族は室町幕府評定衆、奉行衆等を在府において輩出している。)での動向ははっきりしておらず、佐久郡芦田郷への入部も時期や経緯に不明な点があり多くの資料でも決着を見ない。小事を除いてはっきりしているのは依田右衛門経光の子備前守光徳が芦田姓を称し、光徳の曾孫が武田氏において信濃先方衆として活躍が見られる芦田備前守信守ていう系譜のみ。

天文十年(西暦1541年)五月、武田信虎に呼応して小県郡に侵入した諏訪頼重は、海野氏を打ち破りますが、その帰路に芦田城を攻めて幼少の信守を捕らえて連れ帰りこれを従えます。諏訪氏は翌年七月、武田氏によって滅ぼされますが、これ以降の芦田氏は長窪城城主の大井貞隆に従っていたらしく、天文十二年の武田勢による長窪城攻めは相木昌朝、芦田信守が内応した事によりこれに降りました。

結構知られたお城だと思うんですが、山城不毛の地である立科町に存する事から自分は今回が初訪問、信濃の山城とは一線を画す堀切を持たない要害です。堀切を要さないのはほぼ独立丘陵の小山だから、主郭から全周、雛壇状に腰郭を連ねます。主郭の切岸は北面で切れまくり。又、主郭にはコの字形に土塁が残っています。藪な所も多いけど通称2郭の水平器を使ったら0°が出そうな削平具合には感動しました。

後年編纂された依田記(信憑性に欠ける。)には真田昌幸が徳川氏に従うに当たって芦田郷に直接足を運び依田信蕃等と話に及んだ事の記述があります。コアな六文銭ファンは是非…又、主郭には「木宮大神」と称するお城の鎮守が祀られています。芦田雑記によれば、この神に祈れば人に遅れを取る事は無くなるそうなので足の遅い人や遅刻が多い方も是非…

2022年08月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
芦田氏館[望月城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

芦田氏館は望月城の西方約4.3km、芦田川東岸(右岸)、標高約729mの河岸台地緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている芦田城跡を目標に設定して下さい。立地は芦田城の西北麓、登城路の途中に位置します。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは芦田氏です。同氏の出自は清和源氏満快流(他説有り。)、依田氏(依田氏の出自、系譜自体が諸説有り。ちなみに信濃の山城と館1、佐久編の記述も誤認がある。)の一族とされています。芦田氏は信守の子とされる信蕃(依田氏を名乗る。かずり大好きなお方、当時の情勢から一概には言えないけど、天正壬午の乱に際しての活躍は真田昌幸も及ばない…)の事跡で特に有名ですが、子孫は最終的に越前福井藩の家老として存続しています。

…芦田氏館の前で草写真を撮ってると軽ワゴンに乗ったお爺さんから「芦田城に行って来たのかい?」と声を掛けられました。聞けばこの居館跡に建つお家にお住まいの方、路上で話し込む事小1時間、もっとお話したいけどこの後の予定があるおいらは夕飯時を狙って再訪問する事と相成りました。

そこで聞いたお話しによれば越前福井藩に仕えた依田氏に縁の方で、時代不明なるも当地に還住して来た家系なんだとか、しかもびっくりする事に伊予西条藩の一柳家から養子を迎えているそうでその血を今に伝えているんだそう。更には近在の分家の方は福岡藩黒田家から妻を迎えている家系らしい…意識が遠のきそうな眉唾物な話に疑いを持ち始めましたが、黒田官兵衛没後400年なんちゃらへの招待状をお持ちだったりするんで冗談ともとても思えんわ…このお爺さん決して只者じゃなくて、おいらのマニアック信濃地方史にもしっかり受け答え…初耳も多く関心する事しきり…正直なところ眠過ぎて早く帰りたかったんですが、再び訪ねる事を約束して今回はお暇させて頂きました。次は古文書も出してくれるみたいだし、しっかり事前勉強して整合性を求めたいと思います。ちなみに古文書とかは全く読めないです。

※写真4枚目、背後の小山が芦田城っす。

2022年03月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
鍋蓋曲輪[望月城  周辺城郭]



鍋蓋曲輪は望月城の北西約7.5km、標高約679mの台地上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。「鍋蓋砦跡」の名称で登録されています。該地には説明板が立っているのでもやっとしないでしょう。車は適当そこら辺に捨てられます。ちなみに自分は名称を信濃のお城の神本(信濃の山城と館3、上田・小県編)に準じました。信者だからね。

築城年代、築城者は不明です。武田勢がこの地に陣を敷いて出立の際、鍋蓋を置き忘れた事から鍋蓋の地名が付いたそうなんですが…別に徳川勢が陣を敷いて同様の事案が発生した伝承も伝えられていますので余程鍋蓋を忘れ易い土地柄なんでしょう。もし武田勢の滞陣が事実としたら天文十年(西暦1541年)五月の海野平の戦いにおけるものになる(そうなると武田信虎の陣跡という事になるが…)と思います。

もはや城でもなく砦でもなく曲輪ですわ…はっきり言って現地に赴いてもただの平場の集落で一つも面白くない…しかしっ!騙されたと思ってリア攻めマップを航空写真にして俯瞰して見て下さいましっ!どうでしょか、耕作地の中に浮かび上がるその姿は正に鍋蓋(草履虫とも言う。)じゃないすかっ!その集落の形は往時と殆ど変化が無いと推測され、誰それの陣跡と言うよりは在地土豪の居館を中心とした町割がそのまま残っていると考えるのが自然だと思います。集落の周囲は舗装路によって囲われていて堀跡とも考えられるし、何れにせよその形を意識したものではあるんでしょう。もし伝承にあるように何れかの陣跡とするのならその場所を利用して軍勢を留めたに過ぎないと思います。

駿河の田中城は縄張の名残りを残す町割で有名ですが、信濃にもそんな集落があるのれすっ!まぁこっちはただの曲輪ですし、元々何があったのかははっきりしていませんが…マニア向けだけど武田信玄乗馬の蹄跡の残る…大石…とか武田信玄を祀ったとされる…石祠…なんかがあるらしい(未見っす。)ので武田ファンは是非…田中城に萌えまくる地形段差マニアも楽しめるかもしれません。

2021年11月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
式部城[望月城  周辺城郭]



I'M PROUD TO INTRODUCE THIS CITADEL TO YOU!!!

式部城は望月城の南東約3.6km、布施川の西岸、小諸沢の谷筋に沿って北東へ延びる山塊尾根端部上、標高約806mのピークの一つに主郭が存します。北麓の舗装路からの比高は65m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは城域外北側の山裾に沿って延びる林道を進み、墓地を抜ける山側へ入る道を登るのが判り易いと思います。改変で無ければこの墓地の途中から既に城域だと思います。

築城年代、築城者は不明です。築城者としては式部氏とか布施氏の名が挙がったりしますが、お城は戦国時代に短期間で築かれたと思われる縄張で纏まりが良く、古いお城を改修したとも考えられないので疑問です。地元の方が伝えるように阿江木依田氏、相木氏の手によるものだと自分は推測します。

お城は大変素晴らしいっす。尾根筋を多段の段郭で守り、主郭には高土塁、主郭南側山側背後を4重堀切+竪堀でぶった斬り、この堀切+竪堀が素敵極まりなく、ただの堀切+竪堀に終わっていません。中土塁端部には多段の小郭が設けられたり、特に竪堀は東側で複雑(ピンボール台みたい。)に集合し最終的には1条の大竪堀に集約されたりして極めて技巧的…しかし!このお城におけるかずり推しは尾根筋の多段の段郭でして、そのエッジの立ちまくった切岸の美しさは信濃でも屈指でしょう。又、主郭の大土塁は竪土塁となり通称2郭の南側山側背後を堀切と共にカバー、主郭部には石積みなんかも部分的に付いていたようです。

実はこのお城、自分が現況佐久No.1の山城と信じて疑わない日向城に規模やコンセプトがそっくり。信濃における武田氏被官時代の依田(蘆田)氏や相木氏の所領は完全に特定(武田氏は国人領主に諸事情から替地をよく与えている。)する事が難しく何れも本領から距離が離れているんですが、蘆田氏と伴野氏の横沢を巡る所領訴訟問題が文書で確認出来たりする事から、日向城、式部城の両城が蘆田氏や相木氏と関係するお城である可能性が無いとは言えないと思います。

色々面倒な事書きましたが、答えの出ない事を考える必要も特に無いのでお城を純粋に楽しむのが正解でしょう。望月城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年11月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
式部の館(布施式部館・坪ノ内)[望月城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

式部の館(布施式部館・坪ノ内)は望月城の南東約3.4km、布施川の西岸、標高約730mの山間部河岸段丘上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、ピンは2つあって、「布施式部館跡」、「式部居館跡」とそれぞれ違う名称が付与されています。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは望月氏の一族、布施氏と推測されています。布施氏は系図上、望月氏の祖となった望月則重(則広)の曾孫(布施惟俊)の代からその姓が見られるようになるので、望月氏の中でも矢嶋氏と共に最初期の庶流であったようです。これにより居館は鎌倉時代には既に存していたと推測されてもいますが、自分は少なくとも居館の存在時期は二期に分かれ、館の主もそれぞれ違っていると考えます。

この地域の勢力関係を伺い知り得る資料は皆無に等しいのですが、自分が考えている二期とは、鎌倉時代から少なくとも南北朝時代〜室町時代前期の布施氏、そして中先代の乱後、望月氏が衰退した室町時代前期から戦国時代(もしくは武田氏による佐久攻め以降でしょか。)までの依田氏〜阿江木依田氏、相木(あいき)氏の二つです。

理由はたぶんこの居館の詰城として機能していたと思われる式部城(佐久じゃ現況No.2の素晴らしさ…山城好きならきっと感動するよ〜)の存在でして、戦国時代後期まで利用が続けられたと想像出来る縄張は少なくとも望月氏一族の築くお城じゃないぜ〜

居館は土塁囲みで方形だったと思います。一枚岩をくり抜いた井戸跡が残ってるらしいのですが、下草が生い茂っていて探せませんでした。土塁は北辺でしっかり残っています。

式部の館と式部城を訪ねると頼んでもないのにガイドが付いて来ますw居館の西側にお住まいの農家の方なんですが、作業を中断して式部城の段郭まで案内してくれました。凄く優しいおっさんですw自分だけかと思ったら先日遠州の城友さんも案内を受けたし、先人様のブログにも記述がありましたのできっとこの方の楽しみなんでしょう。お陰様で気持ちよくリア攻め出来ました。この方の家伝によると式部城の城主は相木氏だったとの事…又、式部の館の西辺には堀跡と判る窪みが幼少期まで残っていたそうです。お話ありがとう。

2021年10月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
虚空蔵城(台城)[望月城  周辺城郭]



虚空蔵城(台城)は望月城の東南約1.5km、標高771.8mの山塊山頂に主郭が存します。西麓の長野県道150号線からの比高は80m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きはお城の南側に山塊を東西に走る浅望ふれあいロードてのが延びていますので車で此処まで来れます。目標が無くて山に入る場所が判り難いと思いますが、概ねでこの道の最高点の場所、方位的には標高771.8mピークの真南となります。まともな道はありませんが、踏み跡程度なら付いてますし、要所でピンクリボン(純粋にお城へ行く為の物ではない。)が目印となっています。又、途中には馬場と言ってよいぐらいの平場なんかもあったりしますね。

築城年代、築城者は不明です。武田氏の狼煙台との伝承がある事からその実績があるのかもしれません。望月町誌によると矢嶋大井氏の管下にあって、岩村田、布施、矢嶋を繋ぐものではないかと推測しています。

お城は純粋に狼煙台規模の縄張です。主郭(びっくりする事に標柱が立ってます。)は円形土塁囲みで東側に虎口が付いてます。ただこの狼煙台は生意気にも腰郭を3つも持っていて、その一つには立派な土塁なんかも付いてます。明らかにオーバースペックですわ…又、別称で台城と呼ばれますが、お城を見たら「あ〜台城だわ〜」ときっと呟く事でしょう。

狼煙台としては実に素晴らしい残存度だと思います。廃城からほぼそのままと思われ、自分が求めている物見台、狼煙台が此処にあると言っても過言ではありません(他の人が見たら何じゃこりゃレベルかもしれませんが…)。地域によっては信じられない高所、難所に築かれる事が多い信濃のこの手の台ですが、比較的楽に訪ねる事(車を捨てて約10分の好物件っす。)が出来るのも魅力ですね。望月城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

※佐久市には根岸にも虚空蔵山狼煙台てのがありますので混同に注意です。

2021年10月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
天神城(天神林城・高呂城)[望月城  周辺城郭]



天神城(天神林城・高呂城)は望月城の南西約1.4km、鹿曲川と八丁地川に挟まれ、その合流点に向けて緩やかに南北に延びる標高約738mの舌状台地北辺端部上平場に主郭が存します。北西麓の長野県道151号線からの比高は25m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

築城年代、築城者は不明ですが、存在時期は大きく二期に分けられていたと推測されており、一期を文明十一年(西暦1475年)、伴野氏が大井氏との戦いに勝利し舌状台地上最端部に城郭を構築した時期、二期を天文十八年(西暦1549年)武田氏被官として依田信次が春日の城を再興した時期とし、この春日の城が天神城に比定されています。又、城主としては依田小隼人の名が挙げられていますが、伴野氏からの改姓があった人物だったそうです。

信濃のお城の神本(信濃の山城と館)はマジックを持っていて、読者は信濃のお城の神が描いた縄張図と俯瞰図に誘発されて抜け出せない道を突き進むのですが、逆のマジックも当然持っています。それはこれらの素晴らしさと現況がしっくり来ない事でして、天神城はこの範疇に入る代表的なお城なんです。往時の縄張は凄い(11条の堀切と竪堀が舌状台地をぶった斬る。)けど、北端を除く元々幅広で広範な南向きの舌状台地上は耕作地にぴったり…城域には他に雑木林、墓地、農作業用倉庫、菅公神社等に有効活用されてたりしてお城が全然入って来ない!改変を多く含んでいるんです。残っている堀切はそのまんま墓地に利用されてたり、雑木林は人が入って行けない密度の藪だし…全体的な印象はただの畑地です。

…ネガティブな事書きましたが、その雑木林の北側、城域北端には実に素晴らしい堀切+竪堀、堀切1条が残ってます。お城の西北麓、長野県道151号線側から簡単に直登出来るのでこれだけはお願いしたいところです。

2021年10月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
胡桃沢嶺砦[望月城  周辺城郭]



胡桃沢嶺砦(望月城砦群)は望月城の南東約1.1km、南北に延びる山塊尾根上、標高790.2mのピークの一つに主郭が存します。北西麓の中山道瓜生坂からの比高は55m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。その後は誰も行かないと思うのでパス…同じ望月城のリア攻めマップにある瓜生嶺砦、瓜生嶺南砦、松明山砦へ通じるトレッキングコースを更に南方へ進むと辿り着きます。

砦はしっかりした造りで望月城砦群の中では最も楽しめます。信濃のお城の神本(信濃の山城と館1、佐久編)では生意気にもAとBに分けられていますが、概ね4つの郭を持つ単一の砦でよいと思います。望月城砦群は基本的に望月城と山塊最南に存するこの胡桃沢嶺砦を尾根稜線上で結ぶ警戒線であると思います(大軍が来たら逃げるのだ。)。

…望月氏のお話はこれでおしまい…

望月氏は天正壬午の乱に際して佐久郡に侵攻して来た北条氏に抵抗しますが、攻めあぐねた北条氏と和睦しこれに服します。その後、徳川氏の支援を受けた依田信蕃に望月氏本拠である望月城を攻囲され一ヶ月に及ぶ籠城戦を絶え抜きますが、遂には落城(望月城は三度落城した事になる。)、望月氏当主の昌頼は真田氏を頼って落ち延びて行く途中、土民一揆に襲われて自刃し国人領主としての望月氏は滅亡しました。

依田氏は小県郡の国人領主として木曽義仲の挙兵を助けた最大の功労者です。望月氏は佐久郡の国人領主として義仲の軍事的中核の一翼(木曽義仲四天王の一人、根井行親は望月氏庶流でした。)を担いました。時勢の変化に伴い立場を変えて敵味方となる厳しい戦国時代、常に大勢力に翻弄される小さな国人領主が生き残るのは至難の業であり最後の輝きでもありました。望月城砦群なんて近世城郭を前にして比べたら吹いて飛んで行ってしまうような小さな砦跡に過ぎませんが、自分が無視せず丁寧に…時間を割いて訪ねるのにはそうした理由があるからです。

2021年10月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
松明山砦[望月城  周辺城郭]



あんまし面白くないお城口コミ〜望月城編その3(寛大な気持ちでお付き合い下さい。)

松明山砦(望月城砦群)は望月城の南東約1.0km、南北に延びる山塊尾根上、標高約776mのピークの一つに主郭?が存します。北西麓の中山道瓜生坂からの比高は40m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。その後は誰も行かないと思うのでパス…同じ望月城のリア攻めマップにある瓜生嶺砦、瓜生嶺南砦へ通じるトレッキングコースを更に南方へ進むと辿り着きます。

砦は尾根稜線上、松明山山頂にある小郭程度の完全単郭の縄張なのかな。トレッキングコース脇に存し、現地に赴いてもただの削平地です。展望台とか建ってますが真剣に見れるレベルではないのでさっさと次へ向かいましょう。

…これだけではあんまりな口コミなので望月氏関連のお話を少しづつ…

望月氏は戦国時代には武田氏に従う事で家名を存続させました。天文十二年(西暦1543年)、望月氏当主昌頼は武田氏に抵抗、望月城は落城し昌頼は退去しますが、布引城にて抵抗を続けていた一族の望月信雅とその弟新六は天文十七年(西暦1548年)、武田氏に出仕してその被官となり、実質的な望月氏の当主となりました。みんな大好き武田典厩信繁の妻の一人は望月氏の娘であり、庶子である長男信頼(義勝)は望月氏を名乗り(家督は相続していない。)、信頼の死後は同母の三男、信永が望月氏当主信雅の養子となり家督を継ぎました。武田氏による信濃の名族懐柔策であり、望月氏は御親類衆として六十騎を率いたそうです。

信頼は早世(第四次川中島の戦いにおける戦傷が遠因とも。)、望月氏の家督を継いだ信永も長篠の戦いで討死、結局、養父の信雅が再び当主となりました。信雅は昌頼(同名に注意っす。)なる望月氏の一族と推測される者を養子に迎え家督を継がせますが、この昌頼の代で武家としての望月氏は終焉を迎えます。

続く…

2021年10月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
瓜生嶺南砦[望月城  周辺城郭]



あんまし面白くないお城口コミ〜望月城編その2(寛大な気持ちでお付き合い下さい。)

瓜生嶺南砦(望月城砦群)は望月城の東南約0.8km、南北に延びる山塊尾根上、標高約767mの平場に主郭?が存します。北西麓の中山道瓜生坂からの比高は30m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。その後は誰も行かないと思うのでパス…同じ望月城のリア攻めマップにある瓜生嶺砦へ通じるトレッキングコースを更に南方へ進むと辿り着きます。ただこの砦は位置を特定出来る目標がありまして、平場の南側に土塁様の高まりがあり、その上に小さな祠が2つ道に背を向けて鎮座しています。

砦は尾根稜線上の平場の一つにある小郭程度の完全単郭の縄張なのかな。トレッキングコース脇に存し、現地に赴いてもただの平場です。てか真剣に見れるレベルではないのでさっさと次へ向かいましょう。ちなみに写真1枚目、遠くのお山が望月城遠景となります。

…これだけではあんまりな口コミなので望月氏関連のお話を少しづつ…

望月氏は鎌倉時代に絶頂期を迎えます。佐久郡南部と小県郡の一部に所領を持ち、当時の滋野三家の軍事的中核でした。鎌倉幕府滅亡後の建武二年(西暦1335年)、鎌倉幕府執権北条高時の遺児、時行を擁立して鎌倉幕府の再興を目指した中仙台の乱では時行方となり、信濃守護小笠原貞宗によって望月城は落城、その後再興しますが、威勢に陰りが見え始めます。そして南北朝時代に望月氏は衰退を迎えます。滋野三家は一貫して南朝方に与した事がその最大の一因ですが、動乱の時期を背景に東信において北朝方の他勢力の台頭を招いた事も主な一因でしょう。

続く…

2021年10月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
瓜生嶺砦[望月城  周辺城郭]



あんまし面白くないお城口コミ〜望月城編その1(寛大な気持ちでお付き合い下さい。)

瓜生嶺砦(望月城砦群)は望月城の東南約0.6km、南北に延びる山塊尾根上、標高約775mのピークの一つに主郭?が存します。西北麓の中山道瓜生坂からの比高は40m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。その後は説明しても通り過ぎると思うのでパス…ちゃんとした資料と現在地を把握出来る地図等で確認しないと気付かないです。ちなみに長野県道166号線の望月トンネルの直上、尾根稜線上が概ねの位置となります。

自分のお城に対する生涯目標は信濃のお城の全制覇ですが、信濃のお城は興味の無い方にはどうでもよいものも多分に含んでいます。つまりはこれ等をクリアしなきゃならないんですが、いざとなると中々重い腰を上げる事が出来ないものです。

砦はピークてよりは尾根稜線上の高まりの一つにある小郭程度の完全単郭の縄張なのかな。トレッキングコース上に存し、郭と思しき削平地を分断、掘り下げて道を造っているので現地に赴いてもただの道です。てか真剣に見れるレベルではないのでさっさと次へ向かいましょう。

…これだけではあんまりな口コミなので望月氏関連のお話を少しづつ…

講談で有名な真田十勇士は総じて架空の人物ですが、海野六郎、望月六郎、根津甚八の3名の姓は突拍子も無いものではなく真田氏に所縁のあるものです。真田氏は江戸時代に源姓を名乗りましたが、最近の研究では滋野姓禰津氏の庶流の可能性が最も高いそうです。海野氏、望月氏、禰津氏は滋野三家と称され、嫡流に近い方を尊いとするならば真田氏よりも遥かに家格が高い事になりますね。

真田氏は外向きには源姓でしたが、内向きには滋野姓である事を自覚していたように思えます。そして江戸時代になるとこの惣領家であるかのような振る舞いも見られます。即ち家臣である丸子氏に海野姓を与える等、厳しい戦国時代を大名として生き残った勝者の一つとはいえ末流としては少し僭越なんじゃないでしょか。

望月氏は戦国時代に嫡流家が絶えてしまいました。現在望月姓を名乗る方は静岡県、山梨県に多く見られるそうです。離散した望月姓の者の多くは信濃を去って九曜星の家紋を今に伝える事となりました。

続く…

2021年10月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
望月氏城光院館[望月城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

望月氏城光院館は望月城の西方約0.2km、望月城の西麓、標高約674mの山間部平場に位置する曹洞宗の寺院、城光院境内周辺に存したとされる居館です。城光院は歴代望月氏の菩提寺で、文明七年(西暦1475年)、当時の当主である望月光恒が開基となりました。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。駐車場も付いてます。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは望月氏当主だった事でしょう。望月氏は系図上、本姓滋野氏で滋野則重(則広)を祖とし、信濃国佐久郡望月邑に住し望月太郎を称した事に始まるとされています。その後、則重の孫に当たる広道が海野氏を称し、広重が望月氏を継承、道直が禰津氏を称し、三家は滋野嫡流家として特に滋野三家と呼ばれました。望月氏は官制の牧場、御牧の内、信濃十六牧の筆頭である望月牧を支配して有力な武士団として発展、木曽義仲の挙兵に際しては重要なパトロン(望月牧は常時1500頭の馬を放牧していたらしい。)の一つとなりました。義仲滅亡後には源頼朝に出仕、鎌倉幕府において御家人として活躍する事となります。

望月氏は弓馬に優れた一族だったようで、頼朝が武蔵国入間野で狩を催した際には望月太郎重義、藤沢次郎清親の二人が将軍から褒められまくり。又、重義の子である重隆は傑出した人物で、文治四年(西暦1188年)の奥州藤原氏討伐に望月氏一党を率いて参陣、建久五年(西暦1194年)には幕府に坑した安田義定、義資父子を討伐しました。又、建保元年(西暦1213年)和田合戦に際し重隆の子、盛重は和田義氏の子、次郎太郎義光を討ち取る功を立て信濃国和田の地を恩賞に賜りました。重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手にも選ばれ、弓の上手として弓馬四天王(他に海野幸氏、小笠原長清、武田信光)の一人にも挙げられています。

居館の正確な位置は特定されておらず現地で想像するしかありませんが、城光院の南側に望月城への登城路が付いており、この付近が何となくそれっぽい…てかお寺さん自体が素晴らしいので楽しむならこっちでしょう。

望月の地は歌川広重の「木曽街道六十九次・望月」にも描かれる宿場町です。今は旅籠も少ないようですが、望月城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
布施城[望月城  周辺城郭]



布施城は望月城の南東約2.1km、布施川の西岸、南北に緩やかに延びる標高約727mの舌状台地北辺端部上に主郭が存します。西麓の長野県道150号線からの比高は20m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ピンの位置が主郭と推測されています。

築城年代、築城者は不明ですが、古図には城主として望月氏庶流の布施大和守なる人物が挙げられているそうです。ただこの布施氏は歴史的に事跡を追えない氏族でして色々調べたけど布施の布の字も出て来ない…

お城は南北に細長く延びる山間平野部河岸段丘最上段上に立地しているとも考えられ、この平野部に対して南北に平行する比較的長い縄張を持っています。従ってそれぞれの郭の担当正面が長大で本当に守れんのかみたいな印象ですが、これは当事者にしか解らない事情というものでしょか。ただ城域の北辺から西辺は急崖となっているので相応の守りは意識していたようです。

お城の現況は雑木林、耕作地、住宅地、布施小学校(廃校)等となっています。主郭には小さな工場が建ち、城域北端には秋葉社が鎮座、お城の南側にある寺院、梅渓院は居館跡と推測されています。改変を多く含む他、色んな物がとっ散らかっていて城域内に入っても此処がお城だったなんて俄に信じられませんが、舗装路となった堀跡等、よく目を凝らせばそこかしこにお城の名残りが感じられます。

想像力がかなり必要なお城ですが、佐久ならではの縄張はある意味新鮮、付近には牧布施の地名も残っている事から官制の牧場、御牧の内、信濃十六牧の筆頭だった望月牧を構成する地域だったのかもしれません。布施温泉に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢嶋城[望月城  周辺城郭]



矢嶋城は望月城の東南約2.4km、南北に延びる標高約695mの舌状台地北辺端部上に主郭が存します。北麓の舗装路からの比高は20m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北麓のカードック志賀を目標に設定して下さい。が、登城路…いや、主郭まで行ける農道は舌状台地下東側から付いてます。

築城年代は不明ですが、築城者は望月氏庶流の矢嶋氏と推測されています。矢嶋氏は養和元年(西暦1181年)、八島四郎行忠が木曽義仲に従い横田河原の合戦に参陣している他、平家物語にも八嶋四郎行綱の名が見られたりなんかもします。色々すっ飛ばして戦国時代に入ると永禄初年まで武田氏に抵抗していたようですが、後に調略を受けてこれに従う事となりました。この際に本領矢嶋の地は望月氏当主の望月信雅に与えられ、矢嶋氏には別の所領が宛がわれたようです。又、望月氏最後の当主、昌頼が土民一揆に襲われ自刃した際、奮戦した一行の中に矢嶋兵内の名があります。

お城は文字通りの舌状台地端部上に築かれ、縄張図なんかを見ると階郭式の縄張で結構凄いんですが、現況城域の殆どは耕作地か住宅地となっています。ただ耕作地は概ね郭や腰郭の削平地をそのまま利用している感じなので畑であっても気にならないし藪より遥かにましな気がします。主郭にはじゃが芋や長葱が…別の郭ではトマトなんかが栽培されてました。ちなみに日当たりも良いし本当に野菜栽培には適したお城だと思います。又、お城は主郭が浅望ふれあいロードて名称の自動車道によって分断され切通しを形成していますが、当初から堀切は無く城域は更に南側に続いていたようです。

城域内に入ると畑ばかり気になってしょうがないんですが、このお城は離れた場所から全景を愛でる事を推奨します。階郭式の段々、帯郭状の腰郭の段々がはっきり確認出来て往時を簡単に想像出来ます。雑木林の藪よりも畑にしてくれて逆に良かったよと誰もが思う事でしょう。

佐久以外ではあまり目にする事が出来ないお城だとも思います。望月城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
天徳城[望月城  周辺城郭]



天徳城は望月城の東南約2.9km、南北に延びる丘陵上、標高約710mの頂部の一つに主郭が存します。南西麓の宝泉寺からの比高は30m位でしょか。

お城の直近には国際灌漑排水委員会(ICID)…に世界灌漑排水施設遺産…として登録されている五郎兵衛用水が存します。何でも市川五郎兵衛て方が不毛の土地だったこの地域に私財を投じて水源を探し用水を引いて肥沃な土地に変え、五郎兵衛新田と称する穀倉地帯に発展させたらしいです。ちなみに五郎兵衛米なるブランド米もあるそうですが食べた事も見た事もありません。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、案内に従うと通り過ぎると思うのでやっぱり南西麓の宝泉寺を目標に設定しましょう。お寺さんから道が付いてます。

築城年代は不明ですが、築城者は位置関係から望月氏の一族、矢嶋氏と推測されます。同じ望月城のリア攻めマップにある矢嶋城の支城、若しくは矢嶋城築城までの矢嶋氏の本城と考えられています。

信濃のお城の神本(信濃の山城と館1、佐久編)に掲載されていますが、信濃のお城の神が描いた想像図も心無しか薄いし縄張図を見ても本当に薄い…そして現地に赴いてもやっぱり薄い…どれぐらい薄いかを味噌汁に例えて言うと、ぬるま湯2ℓに出汁を入れずに小さじ一杯の味噌を溶かして水分多めの豆腐を入れた様な…ドジな新婚さんでもやらない感じです。真剣にお城を散策しましたが、どうしても想像図や縄張図のイメージと結び付かない…遺構としては空堀が何とか確認出来る程度です。又、主郭は概ね墓地となっていて所々土塁様の土盛りで区画されていますが、やはりこれは後世の削平残土かと思います。マニア向け。

ネガティブな事書きましたが、最近の自分のリア攻めはお城を選ばず片っ端から訪ねる事を信条としています。結果的に解っちゃいたけど結構楽しいじゃん♪みたいな気分に浸れるので満足しています。お城が存した土地に足を運び、お城を通してその地域の歴史を振り返る…我ながらいい趣味持ったなぁ…

※写真は1枚のみ…見返したらお墓の写真か丘陵斜面(見事な藪…)の写真しか撮れなかったっす。

2021年10月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
細久保物見[望月城  周辺城郭]



細久保物見は望月城の東南約1.8km、南北に延びる山塊、標高約785mのピークの一つに主郭?が存します。西麓の長野県道150号線からの比高は80m位でしょか。

行き方は誰も行かないと思うのでパス…興味を持った変態の方はリア攻めマップを参照して下さいまし。林道が物見台の直下まで延びていますので軽自動車ならそこまで頑張れますが腹を擦るかもしれません。墓地が見えたらそこから適当直登です。

信濃のお城の神本(信濃の山城と館1、佐久編)に掲載されていますが、信濃のお城の神はその存在も含めて検証が必要と書いてます。付近一帯はちょっと現況からは信じられないけど耕作地だったらしく改変されている可能性が指摘されています。

従って築かれた年代、築いた方も不明ですが、位置関係からか望月氏の庶流の布施氏、矢嶋氏の名前が挙げられています。まぁ昔の事なんでよく判らねぃよて感じですかね。

物見台は山頂部を削平しただけの簡素極まりない縄張です。細長い土壇があるように思えますが、自然地形なんだか耕作地に伴う改変なんだかは全く判らない…てか普通の方なら通り過ぎる事間違い無しでしょう。又、改変で無ければ小郭が幾つか付いていたように思えます。そして現況は物見台のくせに展望は全くありません…真剣に此処で何かを見出そうとしている自分が恥ずかしくなったわ…

甲信地方には多く見られるジャンルである物見台…他ではあんまし聞かないとは思いますが、狼煙台と共に貧乏な信濃のお城を際立たせる代表例のようなジャンルですね。究極例は「旗塚」てジャンルですが、こちらの方は世界が終わる日の前日になったら皆様に紹介したいと思います。マニア向け、二度と行かねぃ。

2021年01月31日 赤かぶ【】
春日城[望月城  周辺城郭]



佐久市春日にある康国寺の後方の山がお城になっております!
いくつか登城口があるようですが今回は教会脇から登城しました。車は登城口から数十mの所にある公会堂をお借りしました<(_ _٥)>
秋葉社の鳥居を潜るとすぐに急勾配な坂が目の前に!この日は積雪もあり滑って登れないんじゃと思うほどの急坂…少しためらってしまいました‪w
5分ほど登って行くとごく小規模な削平地が複数とプチ堀切などの遺構が見えて来ます。
プチ堀切を過ぎると三の郭に出ます。
三の郭東側には舞台が建てられています。だいぶ壊れていました。東側には小さな祠としめ縄?が架けられおり、この先が二の郭へ続く道になります!
堀切・土橋を目でながら二の郭への斜面を登って行きます。
二の郭には秋葉神社が祀らています。
秋葉社の南側にはプチ土塁からの2条の堀切を経て主郭へ辿り着きます!
主郭南側には土塁♪土塁の上には三角点がありますので目印になるかと!
主郭背後(南側)三重堀切が出迎えてくれますよ♬︎
主郭直後の1条目は深さ10mほどの大堀切!
隣接する2条目・3条目の堀切も深さ5~6mほどで見ていて圧巻されました!
更に小規模な郭を経て南へ進むともう1条堀切が現れます♪
さて帰りはあの急坂を避ける為三の郭から康国寺への道を行きましたが、途中雪の重み?!で竹が倒れ全く通れず!結局はあの急坂へ⤵︎やはり滑ってコケました1回ですが‪w
このお城は主郭背後の深い三重堀切がとても印象的でした☀︎
① 登城口
② 三の郭
③ 三の郭西側の堀切
④ 二の郭 秋葉神社
⑤ 主郭南側の土塁
⑥ 主郭背後の大堀切
⑦ 三重堀切の2条目
⑧ 城郭南端の堀切

2021年01月31日 赤かぶ【】
式部居館[望月城  遺構・復元物]



式部公民館の真向かいにあり、説明板・土塁を見る事が出来ます。
土塁の内側は一般の方の住居になっておりますのでご注意下さいませ!

2021年01月30日 赤かぶ【】
式部城[望月城  周辺城郭]



式部城の行き方として中部横断自動車道佐久南ICから国道142号を諏訪・白樺湖方面へ約7.2km走って行くと布施温泉入口の交差点があります、そこから県道150号に入って下さい。道なりに約3.5km先右側に入った所に式部公民館がありますのでそこを目的地にすると分かりやすいです!式部公民館はGoogleマップにも登録はされております。
今回車は公民館の駐車場をお借りしました。
公民館の向かいには式部氏居館の案内板・土塁・土塁の上に祠が住宅地の中にひっそりと残っています。
登城口ですが式部氏居館西側の路地を南側に歩いて行きます、しばらく行くと白い物置小屋が見えます、その脇が登城口になっています!
登城口からパッと見竪堀?!って思う山道を上がって行きます。上がりきると墓地に出ます、山側へ登って行くと切岸が見えて来ます。ここから本格的な城域に入ったな~と感じます!
主郭まで段々の郭で構築されております。
各切岸も鋭い上に高さがあるので登り易そうな所を見つける為に郭中を歩きまくりました(笑)
二の郭は特徴的で主郭をコの字で囲んで形成されてます。また主郭方向の切岸周辺には大量の石がありました。石積みの名残りか投擲用の石かもしれません。
二の郭を登ると主郭です☀︎北側に祠・南側には土塁を見る事が出来ます!
さらに主郭背後(南側)にはこのお城の最大の見せ場 四重堀切を見る事が出来ます♬︎
四条それぞれ深さは異なりますが、しっかりと残っていますので時が経つのを忘れ見入ってしまったほどです♬︎
お城の近くには日帰り温泉施設もありますので、寒い季節は冷えきった身体を温め♪暑い季節は汗を流して♪行かれるのも良いかと思います☀︎
① 登城口
② 最初に現れる切岸
③ 主郭北側の祠
④ 主郭南側の土塁
⑤ 2条目の堀切
⑥ 3条目の堀切
⑦ 4条目の堀切
⑧ 主郭側の堀切

2012年05月20日 傾奇揚げ仙兵衛
望月城

中仙道の宿場町望月宿
地元名産の雁喰豆を使用した駒月みそかつ丼が名物
サクサクいけちゃうとか

望月城の周辺スポット情報

 式部居館(遺構・復元物)

 式部城(周辺城郭)

 春日城(周辺城郭)

 細久保物見(周辺城郭)

 天徳城(周辺城郭)

 矢嶋城(周辺城郭)

 布施城(周辺城郭)

 望月氏城光院館(周辺城郭)

 瓜生嶺砦(周辺城郭)

 瓜生嶺南砦(周辺城郭)

 松明山砦(周辺城郭)

 胡桃沢嶺砦(周辺城郭)

 天神城(天神林城・高呂城)(周辺城郭)

 虚空蔵城(台城)(周辺城郭)

 式部の館(布施式部館・坪ノ内)(周辺城郭)

 鍋蓋曲輪(周辺城郭)

 芦田城(木の宮城・倉見高井城)(周辺城郭)

 芦田氏館(周辺城郭)

 倉見城(茂田井城)(周辺城郭)

 陣場(周辺城郭)

 大城(周辺城郭)

 芦田の番屋(山部の番屋)(周辺城郭)

 新城峯(周辺城郭)

 藤沢の長者屋敷(周辺城郭)

 武居屋敷(周辺城郭)

 逸見屋敷(周辺城郭)

 一丁田城(周辺城郭)

 下之城居館(周辺城郭)

 蟹原城(小城)(周辺城郭)

 蟹原城(周辺城郭)

 蟹原の朝日長者屋敷(冬屋敷)(周辺城郭)

 机の城(政所城)(周辺城郭)

 蟹原の夕日長者屋敷(夏屋敷)(周辺城郭)

 善正城(周辺城郭)

 望月氏墓所(寺社・史跡)

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