望月城(もちづきじょう)

望月城の基本情報

通称・別名

(天神城)

所在地

長野県佐久市望月

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

望月氏

築城年

鎌倉時代

主な改修者

主な城主

望月氏

廃城年

天正10年(1582)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

岩尾城(長野県佐久市)[6.0km]
小諸城(長野県小諸市)[8.0km]
根井氏館(長野県佐久市)[8.1km]
長窪城(長野県小県郡)[8.6km]
御影陣屋(長野県小諸市)[10.5km]
伴野城(長野県佐久市)[10.5km]
大井城(長野県佐久市)[10.6km]
平賀城(長野県佐久市)[13.8km]
龍岡城(長野県佐久市)[14.7km]
志賀城(長野県佐久市)[15.0km]

望月城の解説文

望月城(もちづきじょう)は、長野県佐久市にあった日本の城。

概要
戦国時代、信濃国の佐久郡望月地方の豪族望月氏の山城だった。

城主郭部の標高は780m、市街地の標高が670m程度であるため、比高は110mほど。主郭部の東側は浅い谷津であり、比高は30m程度に過ぎない。

城主郭部(山頂)から南西2kmほどの広さに、主郭から三の郭までが構築され、南方の支城には五の郭までは確認できている。雄大にして堅固な山城で、腰曲輪や帯曲輪、空堀など整然と構築され、比較的保存状態も良い。

歴史・沿革
歴史は古く、最初の築城は鎌倉時代頃であり、滋野氏の流れを汲む滋野三家の望月氏が本拠地として天神城として築城された。中先代の乱(1335年)8月に、信濃守護の小笠原貞宗が経氏に命令し攻撃・落城したとあるが、望月氏は滅亡せず室町時代に新たに望月城をして築城された。

天文12年(1543年)に、武田信玄の猛攻によって陥落するが、望月氏が武田氏の支配下となることで城は存続した。武田氏滅亡後、北条氏と一年も籠城戦を行い大軍を動員していた北条方が兵糧等の戦費が負担になり望月氏と和睦をするも、天正10年(1582年)に徳川軍の依田信蕃によって佐久の諸城は攻略され、望月城も一ヶ月半の籠城戦の後に落城した。

望月山城光院
望月城麓に位置する曹洞宗の寺。甲州北巨摩郡大八田村清光寺。

文明7年(1475年)年、望月城主望月遠江守光恒の開基で、望月氏代々の菩提寺。

本堂は享和期(江戸後期)の建築であるが、本尊阿弥陀如来坐像は室町初期の作。望月氏の祖と称せられる善淵王像は、江戸中期安永の造像。本堂裏に室町末期永正年間の宝筐印塔2基がある。
...

望月城の口コミ情報

2021年10月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
胡桃沢嶺砦[望月城  周辺城郭]



胡桃沢嶺砦(望月城砦群)は望月城の南東約1.1km、南北に延びる山塊尾根上、標高790.2mのピークの一つに主郭が存します。北西麓の中山道瓜生坂からの比高は55m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。その後は誰も行かないと思うのでパス…同じ望月城のリア攻めマップにある瓜生嶺砦、瓜生嶺南砦、松明山砦へ通じるトレッキングコースを更に南方へ進むと辿り着きます。

砦はしっかりした造りで望月城砦群の中では最も楽しめます。信濃のお城の神本(信濃の山城と館1、佐久編)では生意気にもAとBに分けられていますが、概ね4つの郭を持つ単一の砦でよいと思います。望月城砦群は基本的に望月城と山塊最南に存するこの胡桃沢嶺砦を尾根稜線上で結ぶ警戒線であると思います(大軍が来たら逃げるのだ。)。

…望月氏のお話はこれでおしまい…

望月氏は天正壬午の乱に際して佐久郡に侵攻して来た北条氏に抵抗しますが、攻めあぐねた北条氏と和睦しこれに服します。その後、徳川氏の支援を受けた依田信蕃に望月氏本拠である望月城を攻囲され、一ヶ月に及ぶ籠城戦を絶え抜きますが、遂には落城(望月城は三度落城した事になる。)、望月氏当主の昌頼は真田氏を頼って落ち延びて行く途中、土民一揆に襲われて自刃し国人領主としての望月氏は滅亡しました。

依田氏は小県郡の国人領主として木曽義仲の挙兵を助けた最大の功労者です。望月氏は佐久郡の国人領主として義仲の軍事的中核の一翼(木曽義仲四天王の一人、根井行親は望月氏庶流でした。)を担いました。時勢の変化に伴い立場を変えて敵味方となる厳しい戦国時代、常に大勢力に翻弄される小さな国人領主が生き残るのは至難の業であり最後の輝きでもありました。望月城砦群なんて近世城郭を前にして比べたら吹いて飛んで行ってしまうような小さな砦跡に過ぎませんが、自分が無視せず丁寧に…時間を割いて訪ねるのにはそうした理由があるからです。

2021年10月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
松明山砦[望月城  周辺城郭]



あんまし面白くないお城口コミ〜望月城編その3(寛大な気持ちでお付き合い下さい。)

松明山砦(望月城砦群)は望月城の南東約1.0km、南北に延びる山塊尾根上、標高約776mのピークの一つに主郭?が存します。北西麓の中山道瓜生坂からの比高は40m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。その後は誰も行かないと思うのでパス…同じ望月城のリア攻めマップにある瓜生嶺砦、瓜生嶺南砦へ通じるトレッキングコースを更に南方へ進むと辿り着きます。

砦は尾根稜線上、松明山山頂にある小郭程度の完全単郭の縄張なのかな。トレッキングコース脇に存し、現地に赴いてもただの削平地です。展望台とか建ってますが真剣に見れるレベルではないのでさっさと次へ向かいましょう。

…これだけではあんまりな口コミなので望月氏関連のお話を少しづつ…

望月氏は戦国時代には武田氏に従う事で家名を存続させました。天文十二年(西暦1543年)、望月氏当主昌頼は武田氏に抵抗、望月城は落城し昌頼は退去しますが、布引城にて抵抗を続けていた一族の望月信雅とその弟新六は天文十七年(西暦1548年)、武田氏に出仕してその被官となり、実質的な望月氏の当主となりました。みんな大好き武田典厩信繁の妻の一人は望月氏の娘であり、庶子である長男信頼(義勝)は望月氏を名乗り(家督は相続していない。)、信頼の死後は同母の三男、信永が望月氏当主信雅の養子となり家督を継ぎました。武田氏による信濃の名族懐柔策であり、望月氏は御親類衆として60騎を率いたそうです。

信頼は早世(第四次川中島の戦いにおける戦傷が遠因とも。)、望月氏の家督を継いだ信永も長篠の戦いで討死、結局、養父の信雅が再び当主となりました。信雅は昌頼(同名に注意っす。)なる望月氏の一族と推測される者を養子に迎え家督を継がせますが、この昌頼の代で武家としての望月氏は終焉を迎えます。

続く…

2021年10月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
瓜生嶺南砦[望月城  周辺城郭]



あんまし面白くないお城口コミ〜望月城編その2(寛大な気持ちでお付き合い下さい。)

瓜生嶺南砦(望月城砦群)は望月城の東南約0.8km、南北に延びる山塊尾根上、標高約767mの平場に主郭?が存します。北西麓の中山道瓜生坂からの比高は30m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。その後は誰も行かないと思うのでパス…同じ望月城のリア攻めマップにある瓜生嶺砦へ通じるトレッキングコースを更に南方へ進むと辿り着きます。ただこの砦は位置を特定出来る目標がありまして、平場の南側に土塁様の高まりがあり、その上に小さな祠が2つ道に背を向けて鎮座しています。

砦は尾根稜線上の平場の一つにある小郭程度の完全単郭の縄張なのかな。トレッキングコース脇に存し、現地に赴いてもただの平場です。てか真剣に見れるレベルではないのでさっさと次へ向かいましょう。ちなみに写真1枚目、遠くのお山が望月城遠景となります。

…これだけではあんまりな口コミなので望月氏関連のお話を少しづつ…

望月氏は鎌倉時代に絶頂期を迎えます。佐久郡南部と小県郡の一部に所領を持ち、当時の滋野三家の軍事的中核でした。鎌倉幕府滅亡後の建武二年(西暦1335年)、鎌倉幕府執権北条高時の遺児、時行を擁立して鎌倉幕府の再興を目指した中仙台の乱では時行方となり、信濃守護小笠原貞宗によって望月城は落城、その後再興しますが、威勢に陰りが見え始めます。そして南北朝時代に望月氏は衰退を迎えます。滋野三家は一貫して南朝方に与した事がその最大の一因ですが、動乱の時期を背景に東信において北朝方の他勢力の台頭を招いた事も主な一因でしょう。

続く…

2021年10月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
瓜生嶺砦[望月城  周辺城郭]



あんまし面白くないお城口コミ〜望月城編その1(寛大な気持ちでお付き合い下さい。)

瓜生嶺砦(望月城砦群)は望月城の東南約0.6km、南北に延びる山塊尾根上、標高約775mのピークの一つに主郭?が存します。西北麓の中山道瓜生坂からの比高は40m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。その後は説明しても通り過ぎると思うのでパス…ちゃんとした資料と現在地を把握出来る地図等で確認しないと気付かないです。ちなみに長野県道166号線の望月トンネルの直上、尾根稜線上が概ねの位置となります。

自分のお城に対する生涯目標は信濃のお城の全制覇ですが、信濃のお城は興味の無い方にはどうでもよいものも多分に含んでいます。つまりはこれらをクリアしなきゃならないんですが、いざとなると中々重い腰を上げる事が出来ないものです。

砦はピークてよりは尾根稜線上の高まりの一つにある小郭程度の完全単郭の縄張なのかな。トレッキングコース上に存し、郭と思しき削平地を分断、掘り下げて道を造っているので現地に赴いてもただの道です。てか真剣に見れるレベルではないのでさっさと次へ向かいましょう。

…これだけではあんまりな口コミなので望月氏関連のお話を少しづつ…

講談で有名な真田十勇士は総じて架空の人物ですが、海野六郎、望月六郎、根津甚八の3名の姓は突拍子も無いものではなく真田氏に所縁のあるものです。真田氏は江戸時代に源姓を名乗りましたが、最近の研究では滋野姓禰津氏の庶流の可能性が最も高いそうです。海野氏、望月氏、禰津氏は滋野三家と称され、嫡流に近い方を尊いとするならば真田氏よりも遥かに家格が高い事になりますね。

真田氏は外向きには源姓でしたが、内向きには滋野姓である事を自覚していたように思えます。そして江戸時代になるとこの惣領家であるかのような振る舞いも見られます。即ち家臣である丸子氏に海野姓を与える等、厳しい戦国時代を大名として生き残った勝者の一つとはいえ末流としては少し僭越なんじゃないでしょか。

望月氏は戦国時代に嫡流家が絶えてしまいました。現在望月姓を名乗る方は静岡県、山梨県に多く見られるそうです。離散した望月姓の者の多くは信濃を去って九曜星の家紋を今に伝える事となりました。

続く…

2021年10月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
望月氏城光院館[望月城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

望月氏城光院館は望月城の西方約0.2km、望月城の西麓直下、標高約674mの平場に位置する曹洞宗の寺院、城光院境内周辺に存したと推測されている居館です。城光院は歴代望月氏の菩提寺で、文明七年(西暦1475年)、当時の当主である望月光恒が開基となりました。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。駐車場も付いてます。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは望月氏当主だった事でしょう。望月氏は系図上、本姓滋野氏で滋野則重(則広)を祖とし、信濃国佐久郡望月邑に住し望月太郎を称した事に始まるとされています。その後、則重の孫に当たる広道が海野氏を称し、広重が望月氏を継承、道直が禰津氏を称し、三家は滋野嫡流家として特に滋野三家と呼ばれました。望月氏は官制の牧場、御牧の内、信濃十六牧の筆頭である望月牧を支配して有力な武士団として発展、木曽義仲の挙兵に際しては重要なパトロン(望月牧は常時1500頭の馬を放牧していたらしい。)の一つとなりました。義仲滅亡後には源頼朝に出仕、鎌倉幕府において御家人として活躍する事となります。

望月氏は弓馬に優れた一族だったようで、頼朝が武蔵国入間野で狩を催した際には望月太郎重義、藤沢次郎清親の二人が将軍から褒められまくり。又、重義の子である重隆は傑出した人物で、文治四年(西暦1188年)の奥州藤原氏討伐に望月氏一党を率いて参陣、建久五年(西暦1194年)には幕府に坑した安田義定、義資父子を討伐しました。又、建保元年(西暦1213年)和田合戦に際し重隆の子、盛重は和田義氏の子、次郎太郎義光を討ち取る功を立て信濃国和田の地を恩賞に賜りました。重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手にも選ばれ、弓の上手として弓馬四天王(他に海野幸氏、小笠原長清、武田信光)の一人にも挙げられています。

居館の正確な位置は特定されておらず現地で想像するしかありませんが、城光院の南側に望月城への登城路が付いており、この付近が何となくそれっぽい…てかお寺さん自体が素晴らしいので楽しむならこっちでしょう。

望月の地は歌川広重の「木曽街道六十九次・望月」にも描かれる宿場町です。今は旅籠も少ないようですが、望月城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
布施城[望月城  周辺城郭]



布施城は望月城の南東約2.1km、布施川の西岸、標高約727mの南北に緩やかに延びる舌状台地北辺上端部に主郭が存します。西麓の長野県道150号線からの比高は20m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ピンの位置が主郭と推測されています。

築城年代、築城者は不明ですが、古図には城主として望月氏庶流の布施大和守なる人物が挙げられているそうです。ただこの布施氏は歴史的に事跡を追えない氏族でして色々調べたけど布施の布の字も出て来ない…

お城は南北に細長く延びる山間平野部河岸段丘上最上段に立地しているとも考えられ、この平野部に対して南北に平行する比較的長い縄張を持っています。従ってそれぞれの郭の担当正面が長大で本当に守れんのかみたいな印象ですが、これは当事者にしか解らない事情というものでしょか。ただ城域の北辺から西辺は急崖となっているので相応の守りは意識していたようです。

お城の現況は概ね耕作地、雑木林、住宅地、布施小学校(廃校)となっています。主郭には小さな工場が建ち、城域北端には秋葉社が鎮座、お城の南側にある寺院、梅渓院は居館跡と推測されています。改変を多く含む他、色んな物がとっ散らかっていて城域内に入っても此処がお城だったなんて俄に信じられませんが、舗装路となった堀跡等、よく目を凝らせばそこかしこにお城の名残りが感じられます。

想像力がかなり必要なお城ですが、佐久ならではの縄張はある意味新鮮、付近には牧布施の地名も残っている事から官制の牧場、御牧の内、信濃十六牧の筆頭だった望月牧を構成する地域だったのかもしれません。布施温泉に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢嶋城[望月城  周辺城郭]



矢嶋城は望月城の東南約2.4km、標高約695mの南北に延びる舌状台地北辺上端部に主郭が存します。北麓の舗装路からの比高は20m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北麓のカードック志賀を目標に設定して下さい。が、登城路…いや、主郭まで行ける農道は舌状台地下東側から付いてます。

築城年代は不明ですが、築城者は望月氏庶流の矢嶋氏と推測されています。矢嶋氏は養和元年(西暦1181年)、八島四郎行忠が木曽義仲に従い横田河原の合戦に参陣している他、平家物語にも八嶋四郎行綱の名が見られたりなんかもします。色々すっ飛ばして戦国時代に入ると永禄初年まで武田氏に抵抗していたようですが、後に調略を受けてこれに従う事となりました。この際に本領矢嶋の地は望月氏当主の望月信雅に与えられ、矢嶋氏には別の所領が宛がわれたようです。又、望月氏最後の当主、昌頼が土民一揆に襲われ自刃した際、奮戦した一行の中に矢嶋兵内の名があります。

お城は文字通りの舌状台地上端部に築かれ、縄張図なんかを見ると階郭式の縄張で結構凄いんですが、現況城域の殆どは耕作地か住宅地となっています。ただ耕作地は概ね郭や腰郭の削平地をそのまま利用している感じなので畑であっても気にならないし藪より遥かにましな気がします。主郭にはじゃが芋や長葱が…別の郭ではトマトなんかが栽培されてました。ちなみに日当たりも良いし本当に野菜栽培には適したお城だと思います。又、お城は主郭が浅望ふれあいロードて言う自動車道によって分断され切通しを形成していますが、当初から堀切は無く城域は更に南側に続いていたようです。

城域内に入ると畑ばかり気になってしょうがないんですが、このお城は離れた場所から全景を愛でる事を推奨します。階郭式の段々、帯郭状の腰郭の段々がはっきり確認出来て往時を簡単に想像出来ます。雑木林の藪よりも畑にしてくれて逆に良かったよと誰もが思う事でしょう。

佐久以外ではあまり目にする事が出来ないお城だとも思います。望月城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
天徳城[望月城  周辺城郭]



天徳城は望月城の東南約2.9km、標高約710mの南北に延びる丘陵頂部の一つに主郭が存します。南西麓の宝泉寺からの比高は30m位でしょか。

お城の直近には国際灌漑排水委員会(ICID)…に世界灌漑排水施設遺産…として登録されている五郎兵衛用水が存します。何でも市川五郎兵衛て方が不毛の土地だったこの地域に私財を投じて水源を探し用水を引いて肥沃な土地に変え、五郎兵衛新田と称する穀倉地帯に発展させたらしいです。ちなみに五郎兵衛米なるブランド米もあるそうですが食べた事も見た事もありません。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、案内に従うと通り過ぎると思うのでやっぱり南西麓の宝泉寺を目標に設定しましょう。お寺さんから道が付いてます。

築城年代は不明ですが、築城者は位置関係から望月氏の一族、矢嶋氏と推測されます。同じ望月城のリア攻めマップにある矢嶋城の支城、若しくは矢嶋城築城までの矢嶋氏の本城と考えられています。

信濃のお城の神本(信濃の山城と館1、佐久編)に掲載されていますが、信濃のお城の神が描いた想像図も心無しか薄いし縄張図を見ても本当に薄い…そして現地に赴いてもやっぱり薄い…どれぐらい薄いかを味噌汁に例えて言うと、ぬるま湯2ℓに出汁を入れずに小さじ一杯の味噌を溶かして水分多めの豆腐を入れた様な…ドジな新婚さんでもやらない感じです。真剣にお城を散策しましたが、どうしても想像図や縄張図のイメージと結び付かない…遺構としては空堀が何とか確認出来る程度です。又、主郭は概ね墓地となっていて所々土塁様の土盛りで区画されていますが、やはりこれは後世の削平残土かと思います。マニア向け。

ネガティブな事書きましたが、最近の自分のリア攻めはお城を選ばず片っ端から訪ねる事を信条としています。結果的に解っちゃいたけど結構楽しいじゃん♪みたいな気分に浸れるので満足しています。お城が存した土地に足を運び、お城を通してその地域の歴史を振り返る…我ながらいい趣味持ったなぁ…

※写真は1枚のみ…見返したらお墓の写真か丘陵斜面(見事な藪…)の写真しか撮れなかったっす。

2021年10月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
細久保物見[望月城  周辺城郭]



細久保物見は望月城の東南約1.8km、標高約785mの南北に延びる山塊山頂の一つに主郭?が存します。西麓の長野県道150号線からの比高は80m位でしょか。

行き方は誰も行かないと思うのでパス…興味を持った変態の方はリア攻めマップを参照して下さいまし。林道が物見台の直下まで延びていますので軽自動車ならそこまで頑張れますが腹を擦るかもしれません。墓地が見えたらそこから適当直登です。

信濃のお城の神本(信濃の山城と館1、佐久編)に掲載されていますが、信濃のお城の神はその存在も含めて検証が必要と書いてます。付近一帯はちょっと現況からは信じられないけど耕作地だったらしく改変されている可能性が指摘されています。

従って築かれた年代、築いた方も不明ですが、位置関係からか望月氏の庶流の布施氏、矢嶋氏の名前が挙げられています。まぁ昔の事なんでよく判らねぃよて感じですかね。

物見台は山頂部を削平しただけの簡素極まりない縄張です。細長い土壇があるように思えますが、自然地形なんだか耕作地に伴う改変なんだかは全く判らない…てか普通の方なら通り過ぎる事間違い無しでしょう。又、改変で無ければ小郭が幾つか付いていたように思えます。そして現況は物見台のくせに展望は全くありません…真剣に此処で何かを見出そうとしている自分が恥ずかしくなったわ…

甲信地方には多く見られるジャンルである物見台…他ではあんまし聞かないとは思いますが、狼煙台と共に貧乏な信濃のお城を際立たせる代表例のようなジャンルですね。究極例は「旗塚」てジャンルですが、こちらの方は世界が終わる日の前日になったら皆様に紹介したいと思います。マニア向け、二度と行かねぃ。

2021年01月31日 赤かぶ【奮戦記】
春日城[望月城  周辺城郭]



佐久市春日にある康国寺の後方の山がお城になっております!
いくつか登城口があるようですが今回は教会脇から登城しました。車は登城口から数十mの所にある公会堂をお借りしました<(_ _٥)>
秋葉社の鳥居を潜るとすぐに急勾配な坂が目の前に!この日は積雪もあり滑って登れないんじゃと思うほどの急坂…少しためらってしまいました‪w
5分ほど登って行くとごく小規模な削平地が複数とプチ堀切などの遺構が見えて来ます。
プチ堀切を過ぎると三の郭に出ます。
三の郭東側には舞台が建てられています。だいぶ壊れていました。東側には小さな祠としめ縄?が架けられおり、この先が二の郭へ続く道になります!
堀切・土橋を目でながら二の郭への斜面を登って行きます。
二の郭には秋葉神社が祀らています。
秋葉社の南側にはプチ土塁からの2条の堀切を経て主郭へ辿り着きます!
主郭南側には土塁♪土塁の上には三角点がありますので目印になるかと!
主郭背後(南側)三重堀切が出迎えてくれますよ♬︎
主郭直後の1条目は深さ10mほどの大堀切!
隣接する2条目・3条目の堀切も深さ5~6mほどで見ていて圧巻されました!
更に小規模な郭を経て南へ進むともう1条堀切が現れます♪
さて帰りはあの急坂を避ける為三の郭から康国寺への道を行きましたが、途中雪の重み?!で竹が倒れ全く通れず!結局はあの急坂へ⤵︎やはり滑ってコケました1回ですが‪w
このお城は主郭背後の深い三重堀切がとても印象的でした☀︎
① 登城口
② 三の郭
③ 三の郭西側の堀切
④ 二の郭 秋葉神社
⑤ 主郭南側の土塁
⑥ 主郭背後の大堀切
⑦ 三重堀切の2条目
⑧ 城郭南端の堀切

2021年01月31日 赤かぶ【奮戦記】
式部居館[望月城  遺構・復元物]



式部公民館の真向かいにあり、説明板・土塁を見る事が出来ます。
土塁の内側は一般の方の住居になっておりますのでご注意下さいませ!

2021年01月30日 赤かぶ【奮戦記】
式部城[望月城  周辺城郭]



式部城の行き方として中部横断自動車道佐久南ICから国道142号を諏訪・白樺湖方面へ約7.2km走って行くと布施温泉入口の交差点があります、そこから県道150号に入って下さい。道なりに約3.5km先右側に入った所に式部公民館がありますのでそこを目的地にすると分かりやすいです!式部公民館はGoogleマップにも登録はされております。
今回車は公民館の駐車場をお借りしました。
公民館の向かいには式部氏居館の案内板・土塁・土塁の上に祠が住宅地の中にひっそりと残っています。
登城口ですが式部氏居館西側の路地を南側に歩いて行きます、しばらく行くと白い物置小屋が見えます、その脇が登城口になっています!
登城口からパッと見竪堀?!って思う山道を上がって行きます。上がりきると墓地に出ます、山側へ登って行くと切岸が見えて来ます。ここから本格的な城域に入ったな~と感じます!
主郭まで段々の郭で構築されております。
各切岸も鋭い上に高さがあるので登り易そうな所を見つける為に郭中を歩きまくりました(笑)
二の郭は特徴的で主郭をコの字で囲んで形成されてます。また主郭方向の切岸周辺には大量の石がありました。石積みの名残りか投擲用の石かもしれません。
二の郭を登ると主郭です☀︎北側に祠・南側には土塁を見る事が出来ます!
さらに主郭背後(南側)にはこのお城の最大の見せ場 四重堀切を見る事が出来ます♬︎
四条それぞれ深さは異なりますが、しっかりと残っていますので時が経つのを忘れ見入ってしまったほどです♬︎
お城の近くには日帰り温泉施設もありますので、寒い季節は冷えきった身体を温め♪暑い季節は汗を流して♪行かれるのも良いかと思います☀︎
① 登城口
② 最初に現れる切岸
③ 主郭北側の祠
④ 主郭南側の土塁
⑤ 2条目の堀切
⑥ 3条目の堀切
⑦ 4条目の堀切
⑧ 主郭側の堀切

2012年05月20日 傾奇揚げ仙兵衛
望月城

中仙道の宿場町望月宿
地元名産の雁喰豆を使用した駒月みそかつ丼が名物
サクサクいけちゃうとか

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