芦田城(木の宮城・倉見高井城)
芦田城(木の宮城・倉見高井城)([望月城 周辺城郭])
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芦田城(木の宮城・倉見高井城)の口コミ情報
2023年08月16日 _ClaD雅楽頭リアの季節
城址から100メートルほど離れているので見落としがちですが、北側にある大きな横堀をお忘れなく。墓地に通じる道路に分断されていますが、特に道の北西側は見事です。他にも堀があったようですが、ほとんど埋まっている中で、この堀は貴重な遺構です。
2022年08月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
芦田城(木の宮城・倉見高井城)は望月城の西方約4.1km、芦田川東岸(右岸)、河岸台地上、標高806mの丘陵頂部の一つに主郭が存します。山塊北方裾野を形成する幅の広い丘陵地のピークの一つですが、地形図を見るとほぼ独立丘陵と言ってもよいと思います。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。丘陵中腹には駐車場所も付いてます。
築城年代は不明、築城者は芦田氏です。同じ望月城のリア攻めマップにある芦田氏館でも書きましたが、芦田氏は小県郡依田庄を出自とする依田氏の一族とされています。が、室町時代とその前後における同氏の在地(一族は室町幕府評定衆、奉行衆等を在府において輩出している。)での動向ははっきりしておらず、佐久郡芦田郷への入部も時期や経緯に不明な点があり多くの資料でも決着を見ない。小事を除いてはっきりしているのは依田右衛門経光の子備前守光徳が芦田姓を称し、光徳の曾孫が武田氏において信濃先方衆として活躍が見られる芦田備前守信守ていう系譜のみ。
天文十年(西暦1541年)五月、武田信虎に呼応して小県郡に侵入した諏訪頼重は、海野氏を打ち破りますが、その帰路に芦田城を攻めて幼少の信守を捕らえて連れ帰りこれを従えます。諏訪氏は翌年七月、武田氏によって滅ぼされますが、これ以降の芦田氏は長窪城城主の大井貞隆に従っていたらしく、天文十二年の武田勢による長窪城攻めは相木昌朝、芦田信守が内応した事によりこれに降りました。
結構知られたお城だと思うんですが、山城不毛の地である立科町に存する事から自分は今回が初訪問、信濃の山城とは一線を画す堀切を持たない要害です。堀切を要さないのはほぼ独立丘陵の小山だから、主郭から全周、雛壇状に腰郭を連ねます。主郭の切岸は北面で切れまくり。又、主郭にはコの字形に土塁が残っています。藪な所も多いけど通称2郭の水平器を使ったら0°が出そうな削平具合には感動しました。
後年編纂された依田記(信憑性に欠ける。)には真田昌幸が徳川氏に従うに当たって芦田郷に直接足を運び依田信蕃等と話に及んだ事の記述があります。コアな六文銭ファンは是非…又、主郭には「木宮大神」と称するお城の鎮守が祀られています。芦田雑記によれば、この神に祈れば人に遅れを取る事は無くなるそうなので足の遅い人や遅刻が多い方も是非…