堀之内城

堀之内城 ([小諸城  周辺城郭])

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堀之内城 の口コミ情報

2026年03月24日 内記かずりヾ(・ε・。)


堀之内城(布引城)は小諸城の西方約3.5km、千曲川南岸(左岸)、御牧原の台地の北縁部、標高約765m地点の緩斜面上平場を中心に立地する要害です。南麓の千曲川からの比高は225m位でしょか。ちなみに堀之内城は、天台宗の寺院、布引山釈尊寺(布引観音)を中心に展開する布引山城砦群を構成する一城である。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城域内を貫通する市道は行き止まりの道だが車で主郭まで進入が可能、道沿いには駐車出来るスペースもある。

築城年代は不明、築城者には布下氏が推測されている。同氏については同じ小諸城のリア攻めマップにある布下氏居館も併せて参照して下さい。ちなみに武田氏時代の城代には、諏訪刑部左衛門頼角の名が伝わり、城域内の諏訪社を勧進したのは同名とも。

「高白斎記」、天文十七年(西暦1548年)の条には、「五月大、乙亥、十七日辛卯、信州布引ノ城鍬立、」とあり、武田氏によって「布引ノ城」の鍬立が執り行われている。月日は不明だが、布引山城砦群を構成する堀之内城は、同年中に武田勢によって攻め落とされたのであろう。同年二月十四日には、「上田原の戦い」において同勢が村上勢によって打ち敗られているが、同城は向後の小県郡経略を念頭に置いた新たな宿城として普請(改修)に及んだものだと考える。「布引ノ城」が城砦群のどれを指しているものなのかは判らないが、堀之内城に残る馬出状の二重堀の存在等から、この際に改修されたのは同城であった可能性が極めて高い。

「高白斎記」、天文十七年の条には、「…前略、(九月)廿六戉戌ノ夜、望月源三郎(信雅)方ヘ被官衆布引山(城砦群)へ忍損シ、両人討ル巳亥、卯刻打立、彼ノ新地(不明)ヘ被寄御馬、望月御陣所ヘ参ル、廿八日上原ヘ被納御馬、」とある。解釈が非常に難しいが、望月源三郎方ヘ出張した被官衆、二人が「布引山」へ忍び損し討たれた。武田晴信は、同日卯刻に「彼ノ新地」へ打ち立て馬を寄せ、望月源三郎が陣所へ参上した…になるのであろうか。「小諸市誌」等と解釈を全く異にしてみたが、解る方がいらっしゃいましたら御教示をお願いしたいところ…

「高白斎記」、天文十八年(西暦1549年」の条には、「三月大、辛未、二日節、十四日土用、七百貫文ノ御朱印望月源三郎方へ被下候、眞田(幸綱)渡ス、依田新佐エ門請取、」とあり、十四日、武田晴信が、望月源三郎に七百貫文分の地の御朱印を下し、真田幸綱がこれを渡し、依田新佐エ門が受け取ったと書かれている。又、同書、同条には、「五月小、朔日庚午、四日節、…中略、廿七日望月新六致同心、布引ヲ出テ、高白(駒井高白斎、筆者である。)海野口迄帰ル、廿八日着府、廿九日戉戌、酉刻望月新六始テ出仕、」とあり、廿七日、望月新六が武田氏に同心し、廿八日、高白斎と共に布引を出て甲府に着、廿九日、酉刻に初めて出仕したと書かれている。当時、「布引山」に在陣していたのはこの新六であった事になるが、武田氏によって鍬立が執り行われた「布引ノ城」は、不安定な同時期の佐久郡の状況下において、この時まで同名によって奪われていたのかもしれない。

少しどころか異形の縄張だ。最高所は御牧原の台地上に南面して接する、大手口ともなる小ピーク(諏訪社が鎮座する。)だけど、主郭部は此処から北側に細尾根を介して開けた平坦地にあり、ある意味、山中、崖端の穴城と言えなくもない。擬音で表現すると、「のぺ〜、ざくざく、ぽこりん、ひょろ〜、ぽこりん、ひら〜、だっら〜ん」て感じだ。城域は相当に広く、特に主郭部から北側の低地へ向けて緊張感無く大きいけど、「川辺村誌」ではこの低地を「徒士の住宅であろう」て推測している。見所は前述した馬出状の二重堀、三日月堀の形状を今も保ち、これに付随する土橋や土塁も良く残っている。タイパは最高だしこれだけを見に来たとしても損は無い。ちなみに城地の東側は「不通(とおらず)」と呼ばれる小沢も流れる谷筋、北側は「布岩」と呼ばれる岩盤層が露出する断崖絶壁、人馬の登頂は不可能だ。

軽く考えていたこの口コミだけど、調べていたら一筋縄ではいかなくなってしまった。当時の認識では、堀之内城はあくまでも布引山城砦群を構成していた一城であり、これ等は史料上、全て「布引〜」に一括される。当時の書状や文献等から様々な推測が出来るもののはっきりとさせる事が難しい。

※堀ノ内城は釈尊寺の旧地に築かれたとも伝わっている。

※望月新六〜当時の布下氏当主、仁兵衛雅朝に比定する向きもある。但し、同名の出仕は、天文二十年(西暦1551年)五月二十六日の「砥石ノ城眞田乗取」以降の出来事とも伝わる。

2024年10月03日 ᴿᴱᴰ副将軍


二重の三日月堀が完存する武田氏魔改変の山城🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。布下氏により築かれたと云われます。
布下氏は、望月氏に属する在地土豪とされ、西麓に居館を構え、堀之内城は詰め城として利用されました。
城主の名に布下雅朝が伝わり、1548年の武田信玄が侵攻してきた際には楽巌寺城の楽巌寺雅方とともに村上義清の支援を得て抵抗しますが落城。
村上義清を頼り落ち伸びますが、1553年に村上義清も武田信玄に敗れたことより布下氏は武田氏に服属しました。
その後、武田信玄は堀之内城を改修し、望月新六、諏訪頼角を守将として置きました。

見所
御牧ヶ原台地の北端丘陵の先端部に築かれており、三方は急峻な崖地です。
主郭部は民家敷地や耕作地となり遺構は消失。
主郭部に続く細い尾根筋には車道となっていますが2条の堀切があり、大手口には武田氏による改修とされる二重の三日月堀と土塁が残り厳重な防御線が引かれています。

2021年02月24日 赤かぶ【リベンジ】


小諸布引観音の南方面、楽厳寺城から西へ500mほど行った位置にあるお城です!
城域中心部は宅地や畑・道路になっているので遺構はほとんど分かりません⤵︎
分かりやすい遺構とすれば、諏訪神社の周辺にある二重の三日月堀♪丸馬出し♬︎土塁☀︎堀切でしょうか!
なお外側の三日月堀は湿地帯になっておりうっかり踏み込み過ぎると沼にハマりますのでご注意を!!
自分はハマり片足が泥まみれになりました(笑)
車は三日月堀の横の路肩が唯一少し広くなっているので停めるが可能です。
楽厳寺城とセットでどうぞ☀︎
① 二重の三日月堀(外側)
② 土塁
③ 諏訪神社
④ 堀切
⑤ 曲輪(二重の三日月堀の中間地点)

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