楽厳寺城

楽厳寺城([小諸城  周辺城郭])

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楽厳寺城の口コミ情報

2026年03月26日 内記かずりヾ(・ε・。)


さて、夏場の宿題は冬場にこなそう…

熊笹藪、羊歯藪の蔓延る所は無理だけど、山城等の中には季節によって全く違う表情を見せてくれるものも多い。下草等が消えて本来持っている筈の土の造形が露になり、気付かなかったもの、判らなかったものがしっかりと確認出来るようになったりする。今回、紹介するお城もそんな内の一つ、いつでも行けるて思ってて5年越しの宿題になってしまったんだけど、ようやくこの物件に区切りを付ける事が出来た。

楽巌寺城は小諸城の西方約3.2km、千曲川南岸(左岸)、御牧原の台地の北縁部、標高約769m地点の平場を中心に立地する要害です。南麓の千曲川からの比高は230m位でしょか。ちなみに楽巌寺城は、天台宗の寺院、布引山釈尊寺(布引観音)を中心に展開する布引山城砦群を構成する一城である。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城域内に車で進入が可能、駐車出来るスペースも何箇所かにある。

築城年代は不明、築城者も敢えて不明としたい。楽巌寺城は、釈尊寺の僧坊の一つ、楽巌寺(楽岸寺、額岸寺)であったとも伝わっている。寺院、もしくはその旧地を城地に取り立てる事が出来るのは、釈尊寺に強い影響力を持つ者等に限定される。同寺の大檀那でもあった望月氏が最も有力であろうか。

「長野県町村誌」には、「村(大久保村)の西の方にあり。山上一平地をなし、東西廣き所百八十間(約327.3m)、狭き所六十間(約109.1m)、南北百二十間(約218.2m)、今畑となる。四方嶮峻岩壁数丈、南の方追手あり。嶮峻にして歩を進め難し、天文中(西暦1532年〜1555年)布引山釋尊寺の末寺、楽巌寺の住僧武勇に長じ、望月遠江守信雅の幕下となり、楽巌寺雅方と稱す。該城を築き居城す。天文中武田晴信之を攻略す。雅方逃れて布下仁兵衛依田新左衛門と共に、村上義清に因り、後義清の命を以て、砥石城を築き居城す。」とある。

町村誌では、楽巌寺の姓を称する者として、楽巌寺の住僧にして、滋野三家の一つ、望月氏の被官と伝わる、雅方の名を伝えている。「武勇に長じ」とも言っているが、主家の望月氏が武田氏へ服属した後には村上氏を頼って佐久郡を落ち延び、天文十七年(西暦1548年)二月十四日の「上田原の戦い」においては先陣を担い(「甲陽軍鑑」)。天文十九年(西暦1550年)九月に行われた武田勢による砥石城攻めの際には城方の一手となり勇戦力闘したとも云われる。武田氏への出仕は村上義清の信濃退去後が推測されており、後には一門衆でもあった望月衆を構成した一人であろうか。

弘治四年(西暦1558年)戌午三月七日の日付が入った釈尊寺棟札には。戦乱で焼亡した同寺を再興した、「大檀那滋野(望月)左衛門佐信雅」の名があり、別に「宗榮楽巌寺」の名が見られる。

生島足島神社文書中、「依田頼房等連署起請文」には、依田長門守頼房、依田、篠沢新九郎雅、布下仁兵衛雅朝、諸沢堪介信隆等の近隣諸氏と共に楽巌寺雅方の名が見られる。

天文二十三年(西暦1554年)、村上氏旧臣の「楽巖寺某」が越後へ通じた事を理由に飯富昌景(山県昌景)の手によって成敗された…と「甲陽軍鑑」にはあるそうだが雅方の事を言っているのであろうか。同名の事とするならば、これ以降の事跡が確認出来る事から記述は誤りである。

少しどころか異形の縄張だ。御牧原の台地上から下る二筋の山尾根のとば口に占地し、その先の布引山中腹谷筋中には釈尊寺が位置している。二つのとば口は東西に200m程離れているが、それぞれに独立した郭群を設けており、両者間は長大な喰違いの横堀と土塁で結ばれている。見所は縄張図における通称3郭と通称4郭とを隔てる横堀状の堀切と各所に残る土塁、特に前者は埋められる事も無く深さを保ち、堀切上端に付随する土塁と相まってもはや感動でしかない。城域内は後世に畑地となり、後には市道が貫通し、現在は廃別荘等が建ち並んでいるが、城郭遺構は良く残っていると言うべきであろう。改変、損壊等もあるとはいえ、縄張図に描かれたものを今でも十分に楽しむ事が出来る。

おいらは楽巌寺雅方に荒々しい法師武者の姿を思い描いてしまうんだけど、あながち間違った想像でもないように思う。宗門の危難に立ち上がり、朋輩とも言える、布下仁兵衛雅朝と共に決定的な状況に陥るまで武田氏に抗い続けた気骨のある人物だ。楽巌寺氏自体はあくまで同名のみの事跡しか伝わらないんだけど、その生き様に共感を覚える人はおいらだけじゃあるまいて。

※楽巌寺雅方〜入道していたらしいが、姓を称し名もある以上、純粋な僧侶とは言えないのかもしれない。例えば住持とか…ちなみに「雅」の字は、当時の望月氏当主、信雅からの偏諱による。

2025年05月03日 ᴿᴱᴰ副将軍


小規模ながら技巧的な武田氏に改変された城跡

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。天文年間(1532年〜1555年)に楽巌寺雅方により築かれたと云われます。
楽巌寺雅方は布引山釈尊寺の末寺である楽厳寺の住僧であったとされ、武勇に長けていたため望月信雅の旗本となり楽厳寺城を築いて居城としたとされます。
1548年、武田信玄による佐久平定により楽巌寺城は落城。望月信雅は武田信玄に降りましたが、楽巌寺雅方は堀ノ内城の布下雅朝とともに村上義清を頼って砥石城に落ちました。
しかし1553年に村上義清が武田信玄に敗れて越後へ退去すると、楽巌寺雅方は武田信玄に服属。
その後、楽厳寺城は武田氏により改変されたと考えられています。

見所
千曲川南岸の台地上に築かれており、千曲川に面した北側背後は崖地であり南側に大手を開いています。
布引観音への林道入口が大手門と云われ、食い違い土塁の南側に血の池と呼ばれる水堀が残ります。
食い違い虎口の東側には内側に空堀を設けた小郭があり、西側は土塁に沿って進むと大規模な空堀と土塁で南北に区画された二つの郭があります。
食い違い虎口や折れの伴う空堀、馬出し状の空間、三日月堀など技巧性のある武田流築城術が感じられます。

2020年12月31日 赤かぶ【リベンジ】


行き方としては氷風穴から林道布引線を通って行くのが分かりやすいと思います。道は狭いですご注意下さいませ!城跡には数件の別荘が建てられおり住んでる方もいる様子でしたので見学の際は駐車も含めてご配慮下さい。

遺構は城郭南側に血の池と称される水堀状の部分も見られます。丸馬出・三日月堀も☽︎‪︎.*·̩͙‬郭の南側には土塁が盛られております。堀切など見る事が出来ますよ♪

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