真田氏館(さなだしやかた)

真田氏館の基本情報

通称・別名

所在地

長野県上田市真田町本原御屋敷2962-1他

旧国名

信濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

真田幸綱

築城年

永禄年間〜天正2年(1558〜1574)

主な改修者

主な城主

真田氏

廃城年

天正13年(1585)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、土橋、厩跡

指定文化財

県史跡(真田氏館跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

真田本城(長野県上田市)[1.3km]
横尾城(長野県上田市)[2.2km]
戸石城(長野県上田市)[2.4km]
松尾古城(長野県上田市)[3.8km]
上田城(長野県上田市)[7.2km]
葛尾城(長野県埴科郡)[13.7km]
岡城(長野県上田市)[14.2km]
小諸城(長野県小諸市)[14.7km]
塩田城(長野県上田市)[15.3km]
荒砥城(長野県千曲市)[17.0km]

真田氏館の解説文



真田氏館(さなだしやかた)は、長野県上田市にあった日本の城(平城)もしくは居館。

概要 

真田氏が根小屋として日頃政務を執り、生活をしていたと考えられる館跡。いつ頃建造されたかは定かではないが、戦国時代(永禄)と推定される[1]上田城の築城と完成に伴い廃されたと考えられる[2]。長野県指定文化財となり、御屋敷公園として親しまれていて、真田氏歴史館が隣接している[3][4]。現在も残る真田氏館遺構は、石積のある虎口、土塁、空堀などがある。

真田氏館の支城群 

  • 真田本城 :本城と名前が付いているが、実際に本城の役割を担っていたかは定かでない[5]
  • 天白城・真田氏館の背後に位置し、館から一番距離が近い山城である。
  • 松尾城松尾古城
  • 洗馬城・根小屋城
  • 伊勢崎城・矢沢城
  • 内小屋城
  • 戸石城

真田氏館の口コミ情報

2024年09月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
芝宮砦[真田氏館  周辺城郭]



芝宮砦は真田氏館の南方約8.4km、塩川沢西岸(左岸)、千曲川南岸(左岸)、標高約514mの河岸段丘台地東縁部上平場に立地する砦です。北麓の長野県道81号、丸子東部インター線からの比高は20m位でしょか。但し、段丘台地上に上がれば此処からの比高は無いに等しい。該地は塩川沢の蛇行点へ向けて張り出す狭小な舌状台地でもある。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。おいらはかなり離れた場所からてくてく歩いている。

築城年代、築城者は不明です。砦は、天正十三年(西暦1585年)、第一次上田合戦、通称、「神川の戦い」において、小諸城へ陣払いする徳川勢が利用したとも伝わる。つまりは殿軍の陣所だ。

お城マニアにとって、この砦は戦国時代の事跡でしか語られる事が無い訳だが、むしろ砦の場所は中世の居館跡として見るべきである。即ち、塩川に拠った塩河(川)氏の居館地であったとも推測されている。

該地の塩川は「高代寺日記」に「猿猴ノ牧」として記述がある。後に「猿猴」は「塩河」と改められ「塩河牧」と呼ばれるようになった。同牧は、延喜式の定める信濃十六牧の中には見えないが、「吾妻鏡」、文治二年(西暦1186年)三月十二日庚寅の条、「乃貢未済庄々注文」の中に、貢税を未済する左馬寮領、信濃二十八牧の一つに塩河牧が見られる。平安時代以降に成立した牧なんだろう。

「高代寺日記」によれば、この猿猴ノ牧の主代となったのが藤原中務仲光であり、同名が「猿猴」を「塩河」に改めたとされる(既に同書の中で異説が存在する。)。仲光は、妻(紀氏)の舎弟、紀ノ四郎を遣わして牧を経営させ、その後裔は在名をとって塩河氏を称した。四郎は仲光の代官としての役割を担っていたのだろう、塩川沢の上流には「藤原田」の地名が残っているそうだが、これは直営田の事を表しているのだろうか。又、同書では、猿猴ノ牧に吉河中務丞貞信なる人物が移り住んだとも言っている。同名は馬芸の名手であったが、後に念仏三昧となり一庵として猿猴寺を同地に建立したんだそう。

「吾妻鑑」、承久三年(西暦1221年)四月小二十二日の条に、北条泰時の上洛に従う供の十八騎の中に塩河中務丞の名が見られる。又、「承久記」にも、東山道を馳せ上る武士の中に塩川三郎の名が見られる。中務丞と三郎は時代的に考えると同一人物であろうか。何れにせよ、該地はこうした塩河(川)氏の居館地であったと推測されている訳だ。

砦の現況は耕作地、一般住宅とその敷地、芝宮神社等となっている。城郭遺構は何一つ見出せないが、塩川の蛇行点に張り出す舌状台地は西側を除けば侵食の進んだ結構な崖地であり、此処に住んでて不安にならないのかな等と思わず居住者を心配してしまったりもする。ちなみに同じ真田氏館のリア攻めマップにある市の町砦も塩川台地上の同様の地形に占地しているが、市の町砦と芝宮砦には、台地上の塩河牧を経営する武士の居館地といった趣きが強く感じられる。天正十三年、第一次上田合戦、通称、「神川の戦い」のみの事跡で城歴を捉えるのでは多分に不足が生じる。

塩河牧は木曽駒の名産地として知られていたらしいけど、今はだだっ広いただの水田地帯に往時は数多くの木曽馬が放牧されていた…とか想像してみるときゅんきゅんしてくるわ。ちなみに付近にある「松葉」の小字は、「馬ツ場」か「的馬」が転化したものだと推測されている。荘園条里制の地割が今も残る塩川台地だけど、牧経営が困難になる以前には木曽駒パラダイスだった訳だ。

※藤原中務仲光〜左馬頭であった源(多田)満仲の郎党であった。左馬寮領である猿猴ノ牧の差配を委ねられたのもそれが理由だろう。

※過去に発掘調査が行われている。ネットで探し出せなかったので未見…

※木曽駒〜背は低いけど、間近で見ると実に力強い働くお馬さんだ。重馬場でも余裕でイケる。ポニーと一緒にしてはいけない。

※写真①は北東麓、長野県道81号から撮影した近景っす。

2024年09月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
市の町砦[真田氏館  周辺城郭]



さて、今回は、みんな大好き真田ブランドの後付けを持つ砦の口コミっす。皆さんの興奮する顔が眼に浮かぶぜ、真田の名前を書いて六文銭入れときゃ、キーホルダーやコーヒーカップ、ボールペンだって飛ぶ様に売れるんだから(暴言…)。その砦の名前は市の町砦、やったー♪そう、真田が人数入れたあの砦っすよっ!えっ、何それって?…

…(; ・`д・´) まさか知らない…

…ヾ(・ε・。)まぁ、いいや…

…知らくても皆さんの城廻りLIFEには何の影響も及ぼさないからね。知ったとしてももやもやするだけだからむしろスルーする方が正解なのかもしれないし…

市の町砦は真田氏館の南南西約8.3km、千曲川南岸(左岸)、依田川東岸(右岸)、標高約502mの段丘台地北縁部上平場に立地する砦です。西麓の国道152号からの比高は25m位でしょか。但し、段丘台地上に上がれば此処からの比高は無いに等しい。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。ちなみに該地の南側、城域にぶつかる農道に捨てるのだけは遠慮しといた方が無難、過去3回の訪問経験があるが何れも畑の主が作業中であった。

築城年代、築城者は不明です。砦は、天正十三年(西暦1585年)、第一次上田合戦、通称、「神川の戦い」の際に真田勢が利用した事で知られている。但し、真田氏の築城とは考え難い。該地の塩川が同氏の差配の下に置かれるのは天正壬午の乱の際であり、砦の向きも明らかに北向きである。

天正十三年八月二日、神川で打ち負けた徳川勢は、同じ真田氏館のリア攻めマップにある陣馬砦を本陣として人数の立て直しを図り、八月三日には真田方、長窪城のリア攻めマップにある丸子城に攻め寄せる。ところが城主の丸子三左衛門は堅固に守り、市の町砦に陣を敷いた真田勢の後詰に牽制された事もあり、二十日間余りの城攻めは行き詰まりを見せ、井伊直政等の人数を待ちつつも八月二十八日には丸子表から小諸城に陣払いした。地味ながらも後詰の役割を立派に果たした砦てな訳だ。

天正十三年八月廿六日、岡部彌次郎宛、徳川家康感状案には、「今度於丸子表、手砕働之儀感入候、殊ニ其方家中之者モ無比類之由、是又神妙ニ候、則首尾ニ合者等感状遣候、彌無油断軍忠専一候、猶村上彌右衛門尉可申候、恐々謹言、」とあり、徳川家康は、敗軍にも拘らず、丸子表における岡部彌次郎とその家中の者の働きに対して感状を発給している。同時期、同様の感状は各人宛に多数発給されており、家康が家臣団等の慰めに腐心していた事が判る。

城域は段丘台地が北側へ向けて小さく張り出す部分に展開する。殆ど単郭の縄張だが、要害地形を活用しており、東西は崖地と言ってよい程の急峻さである。主郭には塩川市乃町神社が鎮座、城郭遺構は見出せないが、南辺に連続する台地上を断ち切る堀切の存在が推測されており、現在、用水路が通る横堀様地形は堀形の一部であるとも考えられている。

「長野県町村誌」に添付された絵図を見ると、城域外南側には、「シラヅカ(白塚)」と呼ばれる土盛りが描かれている。現在はすっかり平らげられてしまっているが、畑中には古い五輪塔の集積が残っている。討死した者を弔ったんだろうか。

※過去3回の訪問経験〜いつもカメラのバッテリー切れでまともに写真を撮った事が無かった。ちなみに今回は藪蚊の襲撃を受けて10箇所以上は刺されている。

※丸子〜上田市の場合は「まるこ」と読ませる。

※岡部彌次郎〜「岡部の黒鬼」と称された、後の大垣藩藩主、長盛の事である。

※神川で打ち負けた徳川勢〜立て直しを図って丸子城に攻め寄せた三河武士等も褒められるべきだろう。後世、喧伝されるような戦いの結果(徳川勢の手酷い損失…)も実際は違うのかもしれない。

2024年09月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
長命寺館[真田氏館  周辺城郭]



長命寺館は真田氏館の南東約7.2km、標高約705mの段丘台地緩斜面上平場に立地したと推測される居館です。該地の北側には北西山塊から伸びる山尾根が背後に迫っている。

行き方はGoogleマップに位置登録されている真言宗智山派の寺院、「長命寺」を目標に設定して下さい。当然、車も捨てられる。

まず、色物物件である。「信濃の山城と館3、上田・小県編」に掲載がある。信濃のお城の神は「上田小県誌」の記述、「…長命寺の位置も城郭の跡ではないかと推測される形状にあるが、今の所確実な裏付けがない。」を元に調査に入ったようだが、「ここに館があったかについては全くの不明」と身も蓋も無い事を仰られている。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。長命寺は元は新張牧奈良原にあり、鎌倉時代の初期に現在地に移ったとされる。又、祢津郷に位置するのだから、住したのは祢津氏やその一党に関わる者とするのが自然だろう。同氏は平安時代の末期にはその活動が見られる氏族である。

居館の現況は…上記理由からリア攻めすら拒む物件だが、少なくとも郡誌の言いたい事は十分理解出来る。長命寺の東側に建つ大日堂も含めて、居館地として成立するだけの何かを感じ取る事は可能だろう。但し、やはり寺地の移動時期がネックでもある。

〜以下は祢津氏の歴史についての続き。以前の歴史については同じ真田氏館のリア攻めマップにある古見立祢津氏居館、宮ノ入祢津氏居館を参照して下さい。ちなみに3回でも終わらんかってん〜

年次不詳、八月十九日、山家薩摩守、大井源八郎(昌業)、依田又左衛門尉、浦野宮内左衛門尉宛、武田信玄書状には、「以好便染筆候、従岩櫃如注進者、越後衆少々至沼田著陣、近日吾妻へ可成揺之由候、信玄此表ニ立馬候上者、上州エ之行不實候、但非可油断候間、祢津(元直)、望月長野原迄立遣候、岩櫃、大戸両城之間何地ニ候共、敵及行所ヘ可被移之旨、成下知候、畢竟、城内堅固可為肝要候、恐々謹言、」とあり、武田信玄は、宛名人に、岩櫃から、越後衆少々が吾妻を揺るがすべく沼田に着陣したとの注進を受けて、祢津、望月を吾妻郡長野原に立て遣わした事を報じ、岩櫃、大戸の両城の間で敵の進む事あれば、何れの地においても移りてこれに処する旨を下知したと言っている。

永禄十年(西暦1567年)十一月廿三日、松鶴軒(祢津政直)宛、武田信玄宛行状案には、「就于上州箕輪在城、小鼻之郷三百貫、除正覚分、大窪之郷百貫進之候、猶春日弾正(虎綱)忠可申候、恐々謹言、」とあり、武田信玄は、松鶴軒(政直)に、上州箕輪城の在城に当たり、正覚分を除く上野国小鼻之郷三百貫、大窪之郷百貫の地を宛行っている。武田氏時代の祢津氏は上州での活動を主としていた事が判る。

政直の嫡子、月直は、天正三年(西暦1575年)五月二十一日、「長篠の戦い」において討死、二男が幼少であった事から家督は甥の昌綱が継いだ。同名の生母は真田幸綱の実妹(養女)である。天正十年(西暦1582年)三月の甲州征伐の際には、政直は飯山城城代にあり難を逃れている。

天正壬午の乱に際しては、真田氏以上に従属と離反を繰り返している。天正十年(西暦1582年)十月廿二日、祢津宮内太輔(昌綱)宛、北条氏直書状には、「真田及手切、去十九向其在所相動處、留守衆堅固之防戦故、敵指行不致得之由、従小諸注進候、弥堅固之備致之様可被申越候、猶以敵動之様子、節々注進候様可被申越候、室賀(一葉斎)如注進者、一切無衆奥郡之者不相調由候、然上敗北不可有程候、恐々謹言、」とあり、北条氏直は、手切に及んだ真田昌幸が、祢津昌綱の小諸出陣の隙を突いて祢津に攻め寄せたが、昌綱の留守衆が堅固に防戦し、昌幸はさしたる手立ても得られなかったと言っている。北条氏は東信経略の旗頭として祢津氏に重きを置いたが、徳川氏と北条氏の和睦により新知行地の履行が破産した事から後には小諸城において上杉氏に服属した。

程なくして、松平五郎左衛門尉(大須賀康高)を介して徳川氏に服属、しかし、後に真田昌幸が徳川氏に服属した事を嫌い、再び上杉氏に帰属、最終的には、天正十三年(西暦1585年)七月十五日、上杉景勝の仲裁により、同年九月五日、遂に昌幸に同心、高禄を以って迎えられ、後に祢津氏は家臣化を果たしている。「松代藩史」には、「家中で腕にもっとも覚えあり」との記述があるんだそう。

※年次不詳〜永禄九年(西暦1566年)とする。

※上州箕輪城の在城に当たり〜当時の箕輪城城代は、真田幸綱、もしくはその子、信綱であったとする説がある。武田氏時代には真田氏の寄子同心衆の一氏であったと見るべきか。

※写真⑧は文中にある大日堂、居館地として存在したと仮定するならば、物見の場、櫓台等の適地である。

2024年09月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
真田氏歴史館[真田氏館  関連施設]



さて、おいらは先日、城友さんと真田氏歴史館を訪ねてみたよ。2回目の訪問になるんだけど、今回はちゃんとした目的があったのさ。聞いて下さいよ〜旦那さん、歴史館では8月10日から9月23日まで企画展を開催してるんだけど、そこに展示されているBLOODY MANTLE、「血染めの陣羽織」を是が非でも見たかったのさ。真田ファンの方は女房を質に入れてでも行っとけ。

真田氏歴史館は真田氏館の東方約0.3km、標高約782mの段丘台地緩斜面上平場に立地する史料館です。要らん情報だけどね…

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。当然、車も捨てられる。

今回の企画点は、真田源太左衛門信綱と真田兵部少輔昌輝にスポットを当てたもの。どうです?興奮するでしょ〜えっ、そんな人知らない?て…

…出直して来いやーっ!ヾ(。`Д´。)ノ

…出直されても困るので一応説明しとく、信綱と昌輝は有名な真田幸綱の一男と二男、表裏比興で超有名な真田昌幸にとっては同母兄に当たる。甲州の名族、武藤氏の跡を継いだ昌幸は、本来なら真田氏の家督を継ぐ立場にはなかった訳だ。

信綱は、永禄九年(西暦1566年)頃、幸綱の隠居に伴い家督を相続したと考えられている。確実な史料は無いらしいが、二百騎持ちの侍大将、上州箕輪城城代を務めた事もあったらしい。

永禄十一年(西暦1568年)、武田勢による駿河攻めでは、実弟、昌輝と共に先陣を担っている。戦の場では三尺三寸の陣太刀、「青江貞」を振り回す、決して出会ってはならないタイプの異常者であり、その豪勇ぶりに周囲の期待も大きかった。

天正三年(西暦1575年)五月二十一日、「長篠の戦い」において、昌輝と共に討死、信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、近習の北沢最蔵と白川勘解由によって甲斐に持ち帰られたと伝わり、この「血染めの陣羽織」は現在、上田市真田町の曹洞宗の寺院、大柏山信綱寺に収蔵されている。

信綱の事跡は、隠居後も活動が見られる幸綱の事跡と被る事もあって史料に乏しく、昌輝の確実な事跡となると更に不明である。一説によれば、別家を立てる事を許され、五十騎持ちの侍大将であったとも。真田氏一族は外様の先方衆でありながら、武田氏に譜代家臣団並みに厚遇、重用されていた。

文中にある、普段は一般非公開の「血染めの陣羽織」が展示されている訳だ。真田ファンは見なくちゃ話にならんわい。信綱は昌幸に敬慕され続けた程の器量の持ち主でもある。若くして討死した事が悔やまれる。

ちなみに写真撮影不可なんでアレだけど、陣羽織は意外にも白くてBLOODY感は殆ど無いので苦手な人でもイケる筈…おいらは逆にリアルを感じた。皆さんも是非拝みに来てくらさい。

※「長篠・設楽原の戦い決戦場跡」の三原山には信綱、昌輝兄弟の供養塔が建っている。むしろこちらの方で有名だろう。

※曹洞宗の寺院、大柏山信綱寺〜信綱夫妻の墓塔もある大変立派な寺院だ。アプリの登録城、横尾城の東麓に当たり、リア攻めマップにスポット登録されている。

※大人気漫画、「センゴク」には「長篠の戦い」における、信綱、昌輝兄弟の活躍が描かれているが、実際に近いと思われる。

※本来なら「歴史イベント・メディア情報」に載せるべきなんだけど、真田氏歴史館の写真をアップしたかったんでこちらに…

2024年09月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
宮ノ入祢津氏居館[真田氏館  周辺城郭]



宮ノ入祢津氏居館は真田氏館の南東約6.8km、標高約738mの段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は己れの持つ器量で何とかしよう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは祢津氏です。

居館の現況は耕作地、耕作放棄地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。小沢(用水路?)に挟まれた段丘台地の上段に当たり、開発領主である武士の住まう場所としては最良の部類に入るだろう。縄張的には段の付いた削平地であり、縄張図では通称1郭と通称2郭に大別される。城郭遺構としては郭間を隔てる土塁の残欠が確認出来るが、後世の改変も著しく居館地の全体像は掴み難い。ちなみに敷地内には、「宮ノ入のカヤ(榧)」て呼ばれる推定樹齢六百年以上のカヤの木が屹立する。居館地の庭木だったとも伝わっており、現在は長野県指定天然記念物でもある。

〜以下は祢津氏の歴史についての続き。以前の歴史については同じ真田氏館のリア攻めマップにある古見立祢津氏居館を参照して下さい。ちなみに2回でも終わらんかってん〜

室町時代、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」は、結果として小笠原長秀の信濃守護職を解いたが、その一方で信濃国は幕府の御領所として代官による直轄支配を受ける事態に発展する。代官として下向した細川慈忠は、応永二十二年(西暦1415年)にはあらゆる抵抗を排して領国の安定化に一応の成果を納め、応永三十二年(西暦1425年)、信濃守護職に長秀の舎弟、小笠原政康(小笠原氏中興の祖とも評価される優れた人物だ。)が補任される。

この時期、幕府と対立を深めていたのが関東公方、足利持氏であり、信濃の国人衆は持氏を支持する者が多かった。小笠原政康の信濃守護職補任は、この持氏に対する牽制でもある。永享八年(西暦1436年)、政康は、持氏に通じる蘆田下野守の討伐に赴き、小県郡祢津に攻め寄せ、芝生田、別府の両城を落としている。

永享十二年(西暦1440年)の「結城合戦」における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「二十七番 大井三河守殿 (大井)河内守殿 (大井)対馬守殿 禰津遠江守殿」とあり、信濃守護、小笠原政康に従っての参陣が確認出来る。又、別史料には、遠江守麾下に、実田源太、実田源五、実田源六の名が見られる。「実田」は即ち、「真田」である。ちなみに当時は政康の威令が信濃全土を覆った時代でもあった。

天文十年(西暦1541年)五月、海野氏は「海野平の戦い」により滅亡するが、祢津氏は神氏の一党でもあった事から諏訪頼重を通じて本領を安堵されたようだ。「高白斎記」、天文十一年(西暦1542年)十二月十五日の条には、祢津宮内大輔元直の息女が武田晴信に輿入れしたとの記述がある。輿入れに関しては諸説あって定まらないので詳細を語らないが、信玄はこの祢津御寮人との間に六男、信清を儲けている(安田信清、後に米沢藩武田氏初代当主、信玄の男子としては最も長命だった。)。ちなみに元直の二男、政直(松鴎軒常安)の正妻は武田信虎の息女であり、武田氏と祢津氏は重縁関係にあった事になる。

「高白斎記」、天文二十二年(西暦1555年)八月十六日の条によれば、祢津(元直か。)に更級郡庄内ノ中千貫、壽量軒(元直の二男、松鶴軒か。)に埴科郡福井四百貫が宛行われている。

武田信玄は、永禄九年(西暦1566年)からその翌年にかけて家臣団と被官衆に起請文の提出をそれぞれに求め、差し出された物を小県郡の大社、塩田城のリア攻めマップにある生島足島神社に納めているが、祢津氏当主、政直も出家名である松鴎軒常安として単独での提出が認められる。

※輿入れに関しては諸説あって定まらない〜諏訪御寮人の事とする説がある。

※祢津御寮人〜信清の生年、永禄三年(西暦1560年)からすると、元直の息女ではなく政直の息女とする説がある。ちなみに信清の没年齢は83歳、一族の悲運の中にあって彼だけは長命を保った。

※写真⑧はお花が写り込んでしまっているけど、居館地から見る同じ真田氏館のリア攻めマップにある祢津上の城の遠景っす。祢津氏の逃げ込み城だと推測されている。

2024年08月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
古見立祢津氏居館(古御館)[真田氏館  周辺城郭]



さて、巷で大人気の「逃げ若」こと「逃げ上手の若君」だけど、作中には祢津弧次郎なる人物が北条時行の郎党として登場する。当然、架空の人物ではあるんだけど、弧次郎が出自とする祢津氏自体は実在の氏族だ。個人的には史実に対して毀損が見られない絶妙な人物設定だと思っている。注文を付けるとしたら鷹を御供にして欲しかった…漫画も読んだ事無いしアニメも観た事無いけど…

古見立祢津氏居館(古御館)は、真田氏館の南東約7.3km、標高約678mの段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。「古見立」は「古御館」であり、後者は地籍として残っている。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は南側の祢津郵便局に葉書でも出すふりをして捨てておこう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは祢津氏です。但し、確証は無いらしく、あくまで居館地の位置から推測されているに過ぎない。祢津氏以外には考え難いのも事実だが…

祢津氏は信濃の名族である。小県郡の武家の発祥は、まず最初に他田氏、次に滋野氏、その次に依田氏が起こったとされる。祢津氏は、この滋野氏の後裔を自称する海野氏の早くからの支流であり、海野氏二代当主、幸恒の二男、直家が祢津小次郎を称したのが始まりとされる。海野氏、祢津氏、望月氏は滋野三家とも呼ばれる滋野氏の嫡流家でもあり、海野氏は代々「小太郎」を、祢津氏は「小次郎」を、望月氏は「三郎」を通称している。

平安時代の末期には既に祢津氏の活動が確認出来る。保元元年(西暦1156年〉七月の「保元の乱」において、源義朝に従う武士の中に祢津神平貞直の名が見られ、治承四年(西暦1180年)から続いた「治承・寿永の乱」の際には、木曽義仲に従った根津三郎信貞の名が知られている。小県郡に割拠する海野氏の一党は義仲の有力なバックボーンの一つであった。

海野氏は木曽義仲の徒党であったが、十代当主、幸氏は、義仲の子、義高への忠節を逆に褒され、源頼朝によってその罪を特に不問とされた。復権は即ち、鎌倉幕府の有力御家人としてのスタートであり、祢津氏自体も、建久三年(西暦1190年)十月、頼朝の上洛に際して、根津次郎宗直、祢津小次郎宗道が随兵としてこれに同道している。

建武二年(西暦1335年)七月の「中先代の乱」に際しては、宗家の海野氏が御内人であった事から北条時行に加担、祢津氏の動向ははっきりしないが、海野氏の一党は同族相争う事が極端に少なかった事もあり、宗家に従い人数の中核を担っていたであろう事は想像に難くない。南北朝時代には南朝方として働き、「観応の擾乱」の際には直義方に与している。結果から見れば何れも失敗した事になるが、これが理由なのか海野氏とその一党はこの間における史料等に恵まれなくなる。

南北朝合一後の応永七年(西暦1400年)、信濃守護に赴任した小笠原長秀は強硬な姿勢を以て国人に臨み、結果として惣一揆の様相を呈する「大塔合戦」を招く事になるが、この際に「大塔の古砦」の大手門に攻め寄せたのが祢津氏の一党である。「大塔物語」には、祢津越後守遠光以下、祢津美濃入道法津、祢津宮内少輔時貞等、一門衆の他、桜井、別府(淡路守貞幸)、小田中、実田(上総守?貞信、真田氏の初見とする。)、曲尾、横尾等の諸氏(一族か。)の名が記されている。

居館の現況は…一般住宅とその敷地等となっている。改変著しく旧態を見ないばかりか敷地範囲すら明確ではない。書く事が特に無いや。

該地は古見立古墳の旧跡でもあり、明治二十六年(西暦1893年)、石棺から副葬品の蕨手刀が出土している。日本最古の蕨手刀になるそうだが、写真を見る限りでは良好な状態である。又、現在では古墳の痕跡すら認められないが、庭先には「蕨手の直刀出土地」の石碑が建っている。

※鷹を御供に〜祢津氏は代々に亘り鷹匠であり、武家流放鷹術の一流を確立した。天正十四年(西暦1586年)、祢津宮内大輔(政直か。)が著した「祢津流鷹書」が今に残る。

※今回の突撃お宅訪問は留守のため空振り…大体三割の成功率、望んでいない時には家人からよく声を掛けられる。

※居館地と古墳が共存していた事になるのだが多くを語らない。

※滋野氏の後裔を自称する海野氏〜気を失う様な途方もない作業になるので真偽を語らない。海野氏とその支族の系図、系譜は、戦国時代には既に殆ど散逸していたと考えられている。確証が全く得られないのだ。個人的には、在庁官人等の一氏が、信濃国司、信濃牧監を歴任した滋野氏と縁戚関係等を以て結び付いたとする説を支持したい。

※室町時代以降の祢津氏については長くなるので別の機会に譲りたい。

2024年08月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢沢支城[真田氏館  周辺城郭]



矢沢支城(古城)は真田氏館の南方約2.2km、神川東岸(左岸)、標高1193.6mの殿城山西南中腹、標高約765m地点の緩斜面上平場に立地する要害です。西麓の長野県道176号、下原大屋停車場線からの比高は175m位でしょか。西麓には同じ真田氏館のリア攻めマップにある矢沢城が立地する。該地の上田市殿城は山上の高台であり、殿城山の中腹とはいえ集落が存在する。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。何の苦労も無く城域に横付け出来る。車はそこら辺に捨てられるが農事の邪魔にならないよう配慮しよう。

築城年代は不明、築城者は矢沢氏とされる。矢沢氏と言えば、真田頼昌の三男(二男に幸綱がいる。つまりは実弟である。)、源之助頼綱が養嗣子に入った事で知られるが、それ以前の系譜となるとはっきりしない。一説によれば諏訪氏の分流、確実なのは滋野嫡流三家と呼ばれる、海野氏、望月氏、祢津氏に近い関係を持つ在地土豪の一氏といったところか。佐久郡下之城の両羽明神の石龕銘文には、「元祖神前エ軍中之祈念成就 海野望月両家氏敬白 時正慶二(西暦1333年)癸酉三月廿八日 矢沢氏根津氏 兵米二石進而 祈念申大宮神守」とある。又、海野氏の開削と伝わる吉田堰は、矢沢の城山の山裾に沿って流れており、これにより惣領制の恩恵を直接受けていたとも考えられる。

矢沢氏は神氏の一党でもある。いつの頃からなのかを明らかにする事は出来ないが、「守矢満実書留」、文明二年(西暦1470年)二月四日の条には、「一 大県介宮付矢澤幸有、御苻礼一貫、皮、路銭八百文、使三郎、御左口神付申礼一貫借耒候、」とあり、これが同氏の諏訪社上社神使御頭としての勤仕の初見である。

この神氏系の矢沢氏は、天文十年(西暦1541年)五月の「海野平の戦い」を境に断絶したとも考察されているが、問題なのは戦いの後に矢沢氏が村上氏からどのような処遇を受けたのかが全くの不明である事だ。前述の源之助頼綱は、天文十九年(西暦1550年)九月の「戸石崩れ」の際には、戸石城の籠城衆の一人であった事が知られている。同城の城番衆を在地で務めていたとも考えられるが、単純に海野氏と滅亡を共にせず、所領は安堵され断絶を免かれていたとは言えないのだろうか。何れにせよ矢沢氏の事跡がはっきりとするのは、後に薩摩守を名乗った上州チート技の持ち主、頼綱以降の話である。

お城は山上の高台の西縁部に築かれ、西辺は急峻な山尾根に通じ、北辺は崖地となっている。南辺も往時は崖地に近かったろう。縄張的には、連続する高台上を2条の横堀で掘り切った単純なもの。現況は雑木林、耕作地等である。確かに縄張図にあるとおり2条の堀形が残っているが、その内の1条を遺構と判断してよいのかは微妙なところだ。城域の西側半分は激藪、何も見出せないので探索する必要性が微塵も無い。

ちなみに平成二十三年(西暦2011年)に殿城地区中山間ほ場整備事業計画に伴い、矢沢氏支城跡として発掘調査が行われている。トレンチから遺構、遺物の検出はなかったが、そもそも論で発掘場所が該地とは別の場所である。少なくとも行政側としては現在も位置の特定に致っていない(埋蔵文化財包蔵地として認識されている。)。

大好きな矢沢頼綱の事跡については別の機会に譲る事にする。字数が足りなくなるんで…

※殿城山〜山頂部には同じ真田氏館のリア攻めマップにある殿城山城が立地する。写真撮り直しに登ろうかと思ったけど、相当な面倒を強いられるので今回は諦めた。

※「小県郡誌」では西麓の矢沢城の支砦とするが、「古城」の小字からすれば矢沢氏初期の要害とするのが妥当だろう。

※近世に入ると真田氏の家臣として存続した矢沢氏だが、初見が真田氏よりも古い氏族であり、南北朝時代には遥かに大身であったと思われる。

※矢沢頼綱のwikiの記述が酷過ぎる。同サイトの記述はライター次第なので取り扱いには十分注意しよう。下手な引用は論外だ。

※写真①は矢沢集落付近から撮影した近景っす。たぶん真ん中辺り…

※写真⑧は城域付近からの展望、眺めだけはすこぶる良い。

2024年08月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
仙石氏館(矢沢陣屋)[真田氏館  周辺城郭]



仙石氏館(お屋敷)は真田氏館の南南西約2.1km、矢出沢川東岸(左岸)、標高約618mの丘陵地緩斜面上平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地の駐車場に捨てられるが何のための駐車場なのかは知らん。

築かれた年代は不明だが、寛文年間(西暦1661年〜1673年)である事に間違いは無いだろう。お住まいになられていたのは旗本、矢沢仙石氏です。同氏の祖、仙石和泉守政勝は、上田藩藩主、仙石忠政の三男、寛文九年(西暦1669年)、藩主であった兄の政俊の隠居に伴い、藩領六万石の内、小県郡矢沢村等(赤坂、岩清水、漆戸、小井田、下郷、森、矢沢、及び、林之郷の内)、二千石を分知され矢沢村に居館地、陣屋を構えた。但し、政勝は江戸詰であった事から矢沢に滞在したのは延宝二年(西暦1674年)二月から四月にかけての僅かな期間でしかなく、知行所は一貫して代官支配を受けている。陣屋代官は、譜代家臣、金井氏から漸次農民出身の田中氏に引き継がれ、代官と村庄屋の間には割番二人を置いた。知行所の戸口は、天保九年(西暦1838年)の時点で、戸数二百七十軒、千九百四十一人(加増された国外他所分を除く。)、経営は財政難から次第に年貢先納金や献金、御用金、才覚金、無尽金等に依存するようになっていった。

領主である政勝は、盗賊改役、御勘定頭等を歴任、本家とは別の道を歩み、但馬国出石藩への移封にも従わず、知行所と陣屋は明治維新まで七代に亘り存続、明治二年(西暦1869年)二月、伊那県に引き渡された。ちなみに政勝は、盗賊改役でありながら借りた金子三百両を期日までに返済せず貸付人を困らせたりもしている。実際に返済されたのかは不明だが、催促されなければ踏み倒す気満々だったような気がする。

実は2回目の訪問、居館てよりは結果として陣屋の役割を果たしたんだろう。敷地の西側は矢出沢川の流れが崖地を形成、南側は小沢の流れる谷筋で要害地形でもある。一説によれば、中世〜戦国時代に矢沢氏の居館地だったとも推測されている。城郭遺構として北辺に幅員のある堀形、随所に立派な切込み接の石垣が残り、門の一つは何のアナウンスも無いが密かに現存だったりもする。又、桝形の石垣上に建つ土蔵は後世のものとされるが、土蔵に続く斜路側壁の石垣上端が丁寧に処理されており、石垣上の建造物が何だったのかは不明とはいえ、斜路自体は往時のままだと言えそうだ。

現在も陣屋代官の子孫の方がお住まい。当然、後世の改変もあるとはいえ、比較的良好に往時の姿を留めている。小さな陣屋が各地に多数点在していた信濃だが、石垣がしっかりと現存している陣屋は珍しいと思う。ちなみに代官所は陣屋の南下、古道上に面し、高札場は西下の辻に設けられていた。

上田城は、慶長五年(西暦1600年)、「関ヶ原の戦い」の後に徹底的に破却された事が知られているが、仙石氏初代、秀久とその子、忠政はその破却に関わった人物である。元和八年(西暦1622年)、加増移封されて小諸から上田に入部した忠政は、上田城の再興を幕府に願い出て、寛永三年(西暦1626年)から城普請が始まるが、自らが破却に携わった真田氏の要害を復興させる形で普請が進められた事になる訳だ。ちなみに寛永五年(西暦1628年)四月二十日に死去した忠政が上田城の完成を見る事はなかった。

※農民出身の田中氏〜「長野県史」に拠ったが、天正七年(西暦1579年)二月六日、「上諏訪造宮帳」、大宮御門屋の条には、「矢澤之郷 正物五貫文幷太刀一腰 代官 上原与助、田中豊後守」とあり、田中氏が在地で帰農した武士を出身とする可能性が残る。元は矢沢氏の代官であろうか。

※小諸から上田に入部〜上田への移封は忠政の願い出とも伝わる。

※ぶっ飛ばされるかもしれないけど、おいらにとって今に残る上田城とは仙石氏時代のお城である。苦言を呈されても構わないけど、おいらの考えを翻意させる事は出来ないと思うんで悪しからず…

2024年05月19日 立花大宰少弐宗茂
真田氏館

真田氏館は〒386-2202 長野県上田市真田町本原小玉上郷沢2930にあります。僕は上田原古戦場、上田城、葛尾城とその支城群、真田本城、松尾山城などと一緒に行くのがオススメです。僕は松本城、上田城の後で夕方でヘトヘトだったんで少し覚えてないことがありますが意外と覚えているので御安心ください。

僕は夕方の閉館間際の真田氏歴史館にギリギリ入って色々見てその後は真田氏館跡の場所に行きました。数十cmの浅い堀と草むらが広がっていると思いましたが少し入ると平坦で数十cm雑草が生えてるくらいでした。真ん中には神社が鎮座しており真田の家紋の六文銭が入った布がかかっていました。遺構は他にも沢山残っていて現存じゃないとも思いますが石垣もありました。後ろを振り返ると階段越しに鳥居がありました。僕はどうやら気付かないはやとっちりをしていました。その後は真田本城に行って居城がある武蔵国に帰りました。駐車場あります。ちょっと山登りになるので車かバイクがオススメです。登山好きなら大丈夫だと思います。

追記
説明下手でスミマセンでした。書くの下手という無礼お許し下さい(_ _)

2024年05月17日 稲葉外記っょ
真田氏館

出張のついでに上田で途中下車して真田ゆかりの郷めぐり。ツツジが綺麗に咲き誇っていい感じ。残念ながら御城印は置いていないそう。

2024年04月30日 野良犬しろチロ丸
真田氏館



回りに史跡が沢山残っていて、朝から全て回ると一日は十分に楽しめると思います。資料館の前のソフトクリームは美味しかったですよ。

2024年04月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
祢津城(下の城)[真田氏館  周辺城郭]



さて、今回はおいらの推し城、祢津下の城の御紹介〜実は以前にも口コミしたんだけど、再訪に併せてこれを削除、ピュアな気持ちで新たに作成し直した。誰かに頼まれる訳でもなく勝手に限度を超えて応援、宣伝する行為、推し活は不純な心の汚れを拭い去る…

祢津下の城は真田氏館の南東約6.5km、千曲川北岸(右岸)、北方山塊裾野上、標高約825mの山稜山頂を中心に立地する要害です。南麓の長野県道4号、真田東部線からの比高は150m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東麓の「禰津城(下ノ城)登城口」を目標に設定して下さい。林道の途中にこの登城口があり、車も堂々と捨てられる。此処からの比高は80m位、登城路がしっかりと整備されているので後は登るだけ、楽ちん城でもある。又、林道をそのまま進めば搦手へ出るが、軽四駆以外の車はちょと無理だろう。

築城年代は不明、築城者は祢津氏です。同氏については長くなるので詳細は別の機会に譲る。ちなみに家紋は丸に月の字、かっちょよいっす。

東信を代表する優れた山城の一つ。はっきり言って知名度は低い。が、めぐら〜はそれによって訪城意志を左右されない筈…冒頭にもあるようにおいらの推し城、1人でも多くの方に訪ねて頂きたいと常々思ってる。山城好きならこのお城の凄さをきっと理解出来るだろう。

登城路には途中、帯郭状の腰郭と横堀が1条付く程度、虎口を抜けると肩透かしを喰らう感じでいきなり主郭に到着する。主郭は全周土塁囲み、展望に極めて優れ、千曲川の対岸、八重原の高原地帯も見通せる。お城のハイライトは主郭から北側に残る遺構、その全てだ。

縄張は比較的にコンパクトだと言えるのだが、主郭北側山側背後から城域北端まで、この間における堀切と竪堀の連続、堀系の密度感が本当に凄まじい。「どうなっちゃってんのよ、こり…」て誰もが思う筈…特に東側斜面に落とされる3条の竪堀が集合、落ち着いたと思ったら竪土塁を挟んだ長大過ぎる二重竪堀へと集約される様は正に圧巻の光景、もはや感動でしかない。この二重竪堀、九十九折れの林道に2箇所を分断されながらも総延長200m強を仲良く落ちていく。

下山はこの二重竪堀を下りる事を推奨する。竪堀は林道にぶつかるので、林道を下れば前述の登城口に自然と戻る事が出来る。竪堀に埋もれていたい変態はそのまま堀底を辿って下りればよい。ちなみに竪堀の終端で高度は殆ど下げている。

夏場でも結構見れるんだけど、やっぱり冬場に訪ねるべき山城、木の葉と下草が消えるので俯瞰気味に遺構を見通す事が出来る。又、城域内には石積みも広範囲に散見される。但し、特に城域下段において後世の耕作に伴うものとの重複箇所もあると考えられ、その判別が極めて難しい部分もあったりする。

山中の尾根筋や斜面に展開される雄大な土のうねりとぽこぽこ感、ぽこりん感、時間が経つのも忘れるぐらいの感動が此処には詰まっている。小県郡だからて真田ブランドに振り切るだけでは勿体無いですぜ…

※ジモティーから御指摘を頂いたけど、「ねづしものじょう」と読ませる。拘りがあるようだ。

※幸いな事に城域内は殆ど未整備に近い。登れない切岸に土留めの階段とロープが設定されている程度だ。

※写真⑥は西側斜面に落とし込まれる竪堀群、写真向かって手前の2条は下段で集合して1条となる。意味あるのか知らんけど、集合する以外に両者の立つ瀬が無いのも事実…又、結果的にはそう見えるが、明確に意図された純粋な畝状竪堀とは言い難いだろう。

※暇があったら縄張図よりも地形模型図を見て欲しい。

※最近のおいらは竪堀下りたガールに影響されて竪堀下りたボーイを目指している。言葉の使い方としては、「え、かずりが見当たらない?…たぶん、竪堀下りたっぽい(ボーイ)よ。」てな感じ…竪堀を本当に下りたのかは謎なところだ。

2024年03月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
祢津城(上の城)[真田氏館  周辺城郭]



祢津上の城は真田氏館の南東約6.3km、千曲川北岸(右岸)、北方山塊裾野上、標高930mの山稜山頂に立地する要害です。南麓の祢津集落上段からの比高は180m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。お城の西麓まで車両通行可能な農道が通っている。但し、あくまで農道なので注意が必要、車の捨て場所はそこら辺でOK♪レベルだ。

築城年代は不明、築城者は祢津氏です。同氏については長くなるので詳細は別の機会に譲りたい…祢津氏は関係する居館跡が3箇所もあるんでそっちでしよかなと考えている。

再訪になるんだけど口コミは初となる。初回訪問時は別の深刻な問題、陽が落ちそうだったんで探索は殆ど諦めた。今回は何でも整備が入ったらしいとの噂を聞いたので祢津下の城の再訪に併せて訪ねてみた。ちなみにおいらは積雪で農道を車両通行不能と判断、地道に下の城から徒歩で登っている。時間にすると25分位、両者を結ぶルート上に城郭遺構は何も見出せない…

要害て一応分類したけど、一般的には逃げ込み城だと推測されている。おいらも異論を挟まない。逃げ込み城は一族、一党の足弱や領内郷民が喫緊時に文字通り匿れ住まう場所、そもそも論で守る必要性が微塵も無い。攻め寄せて来たら別の山中へ散り散りで逃げるのだ。この場においての籠城は武家としての終焉を意味するに等しい。

お城の現況は…確かに整備が入っている。登城路もはっきりと…したような感じだし、城域内には各所に説明板すら立っている。藪も刈り払われて気持ちすっきりと…したような感じもある。但し、ミトコンドリアみたいな縄張で薄い事には変わりがない。段の付いた削平地に生意気にも帯郭状の腰郭、別に土塁の残滓が遺構として確認出来る。そもそも論でノーマルな方は訪ねる必要性が微塵も無い。

…口コミも薄くなったので、最後に祢津氏に関連する雑学を…

全国に「田中」の地名は幾つか見られるが、該地の南南西、長野県東御市田中には全国で唯一の田中駅(しなの鉄道線)が立地する。「諏訪御符禮之古書」には、「小田中」、「田中」の郷名が見られ、中世の頃には何れも祢津氏による代官支配を受けていた。この地が「田中」と呼ばれるには訳がある。三分川水系と所沢川水系の自然流を引水して開田が進められた地域だが、現在の田中に残る「田」の付く地名を拾ってみよう、「浅間田」、「上田」、「瓜田」、「久保田」、「五里田」、「大門田」、「田町」、「常田」、「中田」、「夏目田」、「西前田」、「東沢田」、「保利田」、「前田」、「宮田」、「六反田」…ね、田中でしょ。

※写真①は南西麓、農道上から撮影した近景っす。

※写真②は登城路入口、地域の方の愛を感じる。薄いとか言ってごめんなさい。

2024年03月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢立城[真田氏館  周辺城郭]



矢立城は真田氏館の南南東約5.6km、千曲川北岸(右岸)、北方山塊裾野上、標高877mの山稜山頂から南西へ伸びる尾根上段上、標高約836m地点の平場を中心に立地する要害です。南麓の長野県道4号、真田東部線からの比高は160m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、北東側に建つ「ヴィラデスト ガーデンファーム アンド ワイナリー」を目標に設定すれば徒歩で登る比高をマイナスにする事が出来る。駐車場所にも困らない訳なんだけど、シーズン中は恥ずかしい思いをするかもしれない。

築城年代は不明、築城者は祢津氏と推測されている。同氏は滋野姓、海野氏、望月氏と並んで滋野三家と呼ばれる嫡流家の一氏であり、「根津」、「禰津」とも書く。祢津氏は調べていくと非常に面白い一族なんだけど、長くなるので詳細は別の機会に譲る。ちなみに最近の研究では真田氏を祢津氏の分流とする説が有力だ。

以前にも口コミしたんだけど、位置に微妙な誤りがあって削除してしまった。今回は再訪に併せての口コミとなる。冷静に考えてみると結構凄い山城、おいらは3回目の訪問となった。

このお城を一般から遠ざけているのはその藪度にある。夏場だと魅力が半減するし探索も苦労するだろう。特にちくちく、とげとげした草木が広範囲に群生してるんで油断していると痛い目に会う。コケそうになったおいらが握り締めたのは凶悪なタラノキだった…今回の写真は血塗れのコンデジ君で撮影したものが大半を占めている。そう、BLOOD, SWEAT AND TEARSな写真達なのだっ!

…お城は前述のとおり結構凄いんすよ、縄張は概ねで4つの郭で構成され、帯状の腰郭が城域下段を巡っている。石塁の伴う横入りの虎口、主郭に付く大土塁、岩盤層と巨石が多数露出する理解不能なぐらいにごちゃごちゃした土橋付きの大堀切…そう、キャラ立ちした山城なんすわ。特においらが凄いと思うのは各堀切から落とし込まれる竪堀の部分、西側斜面においての幅と深さによるボトム感なんて他では味わう事が難しい代物、それこそハーフパイプっすわ。又、山城では消失し易い竪土塁もしっかり残っていて、主郭の大土塁から落ちるそれは竪堀に並走しながら腰郭を同時にカバー、もはや感動でしかない。

石積みも多数が散見される。おいらは土塁の一部と主郭の切岸に付くもの以外のそれに懐疑的だったけど、登城を重ねる毎に全て往時のものだったんじゃないかとさえ思えてきた。当然、このお城にも後世の部分的改変がある訳だけど、判断が難しい代物(同様の事は祢津氏の本城とされる同じ真田氏館のリア攻めマップにある祢津下の城にも言える。)なのでこれ以上の言及は避ける事にする。

どの山城でもそうだけど冬場の訪問を推奨したい。又、南麓の県道側からも登れるけど、無傷では済まないぐらいの藪が待ち構えているし、縄張図以上のものは探し出す事が出来ない。東信における優れた良城の一つ、素晴らし過ぎる祢津下の城と併せて訪ねるのがよいと思う。祢津氏の竪堀はガチでマッシブだ。

※真田氏を祢津氏の分流とする説が有力〜真田氏の文書上の初見は「大塔物語」、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」の際に、「大塔の古砦」の大手門を攻める祢津越中守遠光の麾下に「実田」と見えるのが同氏と比定され、惣領制を主体とする当時の参陣をもってすれば、同氏を祢津氏の一族とするのが妥当だと考えるもの。同勢は祢津氏一門に加えて、浦野、桜井、別府、曲尾、横尾等の各氏、小県郡の在地土豪層が中核であり、「実田」が「真田」である事はほぼ間違い無いんじゃないかと個人的には考えている。

※そういえば、祢津下の城訪問後にお会いした祢津集落のお爺さんの話によると、祖父から聞いた事として、明治時代の初頭、松代藩藩主、真田の殿様が同城をわざわざ訪ねに来た事があったんだそう。その際に集落に何か恩徳を施したそうなんだけど、その内容までは聞き取る事が出来なかった。お爺さん、お茶とお土産ありがとう。再び訪ねる事にしよう。

※最近のかずりが連絡先交換、LINE交換するお相手は80歳代の方が圧倒的に多い。ちなみに最高齢は99歳…おいらは何処に進んで行こうとしているのか…行ける所まで行ってみる。

2023年09月11日 御影大膳大夫岳剣
真田氏館



土塁がしっかり残っており、公園内も整備が行き届いてました。

2023年05月23日 マグロ常陸介祐平
真田氏館



真田幸隆の時代から昌幸が上田城を築城するまでの居館とされています。

土塁にかこまれ、石積みの枡形虎口が見られますが、単郭で広さもなく、真田氏が小豪族だったことがわかります。

北西の隅にある約10m四方の土塁に囲まれた厩は、あまり見たことのない遺構です。

2023年01月16日 nyarくん
真田氏館



上田市内から結構上がった高台にある。上田市内を見渡せ開放的な場所です。

2022年09月24日 神ノ山勘解由長官漣成
真田氏館



すべては神社で特に何もなくしかし大手門や堀などいろいろくっきり残っているところもある

2022年07月19日 Yana右兵衛督
真田氏館



神社の中には倉のような建物だけが残っています。

2022年05月08日 尼崎城駿河守一口城主
真田氏館



5月2日、砥石城下城後に真田氏記念公園に寄り道して真田氏館を目指した。緩やかな坂道が続き電動自転車ながら疲れてきた。真田家の本拠地ということで要所要所に道標があり迷わずたどり着けました。館は周囲が土塁に囲まれており広大な館であったことが偲ばれます。館跡から真田氏歴史館に向かう際、鳥居の外側の景色がキレイだったので思わず写真に収めました。

余談ですが真田氏館は真田相伝六神社御朱印巡りの③皇大神社になっています。⑥北赤井神社は舗装された道を外れて民家や田畑の間を通るので六神社巡りをされる方は歴史館の方に行き方を教えてもらうのがお勧めです。

2022年03月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
夏目田氏館[真田氏館  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

夏目田氏館は真田氏館の南東約8.0km、采女沢川東岸(左岸)、標高約543mの段丘台地緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、居館の敷地の一部は長野県東御清翔高等学校のグラウンドに現在重複しています。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは夏目田氏です。長野県町村誌には里伝から「夏目田左近将監国平、居住の地と云ふ。」と記述があります。夏目田氏は不明ですが、夏目氏は信濃国更科郡夏目邑を発祥の地とする清和源氏村上氏流で、村上判官代為公の孫、国忠が頼朝の奥州征伐に従い功を立て、信濃国更科郡夏目郷、同伊那郡夏目郷の地頭職に補任され、その子左近将監国平が夏目郷に居した事から夏目氏を称しました。里伝の夏目田左近将監国平と同一人物かと思われますが、その居館が何故遠く離れた小県郡に存したのかは解りません。上記の説が正しければ、旧制中学の生徒が数学教師の眠る蚊帳の中にイナゴを投げ入れる小説、坊っちゃんで有名な夏目漱石の祖先が居していた事になりますね。

居館の現況は耕作地、長野県東御清翔高等学校のグラウンド等となっています。居館の敷地範囲を特定する事は難しいのですが、采女沢川を西辺の堀とし、南辺をグラウンドの南端、北辺を耕作地北側の舗装路(つまりは堀跡と推測する。)と考えるとすっきりします。

あゝ野麦峠でも城友さんから指摘されましたが、まるで坊っちゃんを読んだ事があるような書きっぷり…が、実は一回も読んだ事ありません。この辺りの文学的アイデンティティが欠如しているまま社会人になってしまいました。大人になると恥をかく事も多々ありますし若い時の読書って大切ですね。

2022年03月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
陣馬砦(カナツボの城)[真田氏館  周辺城郭]



陣馬砦(カナツボの城)は真田氏館の南方約8.8km、標高約584mの河岸段丘台地丘陵北辺端部上平場に城域が存します。北麓の長野県道81号線、丸子東部インター線からの比高は80m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城域の南側に出る林道を使えば車で登れますし説明板も立っています。

築城年代、築城者なんですが、謂わゆる陣城で第一次上田合戦(神川合戦)において徳川勢の本陣が置かれた場所です。北麓の畑地には「御馬屋畑」の地名が残っていたそうですね。

砦の現況は殆ど神明宮と称する小社の境内となっています。砦が先か神社が先かの話にまずなってくると思いますが、記憶が正しければ遷宮したのかもしれないけど神社の方が先だったような気が…後背も含めて削平はされていますが砦に関わる遺構は全く無いと言ってよいでしょう。空堀跡なんかも残っていたようですが今は痕跡すら見当たりません。

天正十三年(西暦1585年)八月二日、神川で打ち負けた徳川勢はこの陣馬砦を本陣として体勢の立て直しを図り、八月三日には真田方の丸子城に攻め掛かります。ところが城主丸子三左衛門は頑強に抵抗し、市の町砦に陣を敷いた真田勢の後詰に牽制されつつ二十日間余りの攻城は失敗、井伊直政等の増援を待ちつつ八月二十八日には丸子表から小諸城に陣払いしました。そして同年十一月には譜代石川数正の出奔により徳川氏はこの地域の攻略を完全に断念します。数正の出奔は信濃の各国人領主等の今後に大きな影響を与えた事は間違い無く、少なくとも真田氏は大名化を果たす事となりました。

実は日本人を代表するDNAの一つ、「判官贔屓」を色濃く受け継ぐおいらは大の徳川嫌い…東京に住みながら野球は阪神ファンだったりします。従って今回のリア攻めは非常に雑(ただ此処からの眺めは非常に良いです。)、悪しからず…

写真1枚目が真田勢が籠った市の町砦方向から見た陣場砦、真田の御詰は至近の距離だった。

2022年03月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
古城(海野城・物見城)[真田氏館  周辺城郭]



古城(海野城・物見城)は真田氏館の南西約8.0km、千曲川北岸、標高約495mの河岸段丘台地上平場に城域が存します。

行き方は…行けないです。城域の東側は崩落で接近不能、南側は千曲川の河川敷、北側はしなの鉄道の軌道敷、西側からは舗装路が付いてますが、どうやら千曲川の護岸工事に伴うものらしくガードマンが常駐、進入を厳しく制限しています。ちなちに己の力量を鑑みてガードマンと話を付ければ何とかなるでしょう。男前で良かったです。

築城年代は不明、築城者は海野氏です。海野氏の出自は滋野姓、天歴四年(西暦950年)二月、滋野恒信が信濃国望月牧牧監となって下向し後に幸俊と改名、海野氏の祖となりました。その子である信濃介海野小太郎幸経は天延元年(西暦973年)九月、海野荘の下司となりました。が、海野氏の出自は諸説あって、在地土豪としての海野氏が開発主体である滋野氏と関係を持ち、御牧の左馬令の荘園化が進む過程においてその勢力を拡大させていったとの説が一番しっくりするような…

お城の現況は崖地、河川敷、軌道敷、護岸堤防等となっています。該地は令和元年の台風19号によって大きな被害を受けている事からも理解出来るように、かなり古い時代から千曲川の流れによって崩落していて、既に旧態を想像する以前の問題ですわ…千曲川に面する河岸段丘台地の一段目を活用した要害だったとしか言いようがありません。該地は古城、周辺には奥座の地名が残ります。又、昭和三十年(西暦1955年)に竣工したかつての護岸堤防は城腰堤防と呼ばれていたようで、「城腰」の地名の存在も窺わせています。

現在も崩落が日々進行している場所(ほっとけばしなの鉄道も危うい…)です。海野氏は古城を捨てて上部段丘台地上の太平寺城に引越しましたがその気持ちがよく解ります。物見城の別称から引き続きその利用があったかとは思われるんですが…ハイパーマニア向け。てか訪ねるなら対岸から眺めるだけにしときましょう。

2020年12月29日 赤かぶ【】
矢沢城[真田氏館  周辺城郭]



真田幸隆公の弟 矢沢綱頼公(綱頼は諱 本名は頼綱)の居城とされています。現在は矢沢城跡公園になっており、住宅地の裏山って感じです。近くには数台停められる駐車場もあります。

登城口から主郭直下の三峯社までは10分ほど周りには小さな祠と石積みが見られました。西側には上信越自動車道 東部湯の丸ICと上田ICの間にある上田ローマン橋を見る事が出来ます。

主郭から北側に進めと二の郭・三の郭へと続いて行きます。二の郭と三の郭の間の堀切からの竪堀は鮮明に残っていました♪三の郭と四の郭の堀切はかなり埋まっている感じです。訪れた時 登城路にたくさんの銀杏が落ちており匂いが凄かったです(笑)わりとお手軽に行ける城郭かと思います。

2020年12月28日 赤かぶ【】
祢津城(下の城)[真田氏館  周辺城郭]



祢津城(下の城)は上信越自動車道東部湯の丸ICからほど近い祢津集落の北側にあります。
城郭の南側には数台駐車出来るスペースがありますが、行くまでの道幅は狭いのでご注意を!
わりと整備され遊歩道を15分くらい行くと主郭に着きます。
主郭の南側は展望も良く上信越自動車道東部湯の丸SAなども見えます。ベンチもあり桜も植えらているので春はお弁当を持って訪れるのも良いと思います♪
周囲は土塁が盛られております!
主郭北側には上の城に続く尾根上に深い堀切・腰曲輪がつくられ北側の攻撃に備えています。
主郭背後の堀切は5mほどありロープを用いて降りて行きます。足場は悪いので足元はしっかりとした装備で行って下さい。
南側はわりと緩やかですが北側は荒々しくもワクワクする遺構のあるお城かと!

2020年12月27日 【城郭道】たっきー
真田氏館

説明欄を見ると築城者が真田幸綱と書いてあるところと真田幸隆と書いてあるところがありますが、これらは同一人物なので説明を読む際は注意してください。

2020年11月03日 ️_
伊勢崎城(虚空蔵城)[真田氏館  周辺城郭]

~ 上田ローマン橋下の解説板より ~

伊勢崎城跡

虚空蔵山山頂にあり、砥石城の前衛城として築かれ、伊勢崎砦とも呼ばれる。虚空蔵山脚下は深い谷で神川の急流が崖を食み、自然の要塞となっている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの時、徳川秀忠率いる徳川の大軍が上田城を攻めてた折、真田昌幸は神川の水をせき止めて虚空蔵山に兵を隠し、神川のせきを切って徳川軍に大打撃を与えた場所とも伝わる。この城は、神川とともに上田城の東方を固め、ふるさと存亡の危機に、救国の一役を担ったのではないだろうか。今も土塁などが残り、城跡の面影を残している。

平成31年2月 神科まちづくり委員会

2019年05月26日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
真田氏館



主郭全体を土塁で囲む☆(手前)厩跡を区画する☆搦め手側の西側の背後の山に真田本城を控える☆本拠地を上田に移す前の真田氏の居館☆

2019年05月05日 わる爺陸前守
西曲輪[真田氏館  遺構・復元物]



躑躅の花が咲く頃が一番。躑躅側が曲輪、中央横切る緑の線が土塁。直ぐ観える山が米山城跡、砥石城跡。

2016年05月25日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
真田氏館

お屋敷の北側には真田歴史館があります。
資料館のなかには、大河ドラマで実際に使われた甲冑や草の者の武器等が展示してあり、真田太平記好きには堪らないスペースになっています!

2016年05月21日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
真田氏館

5月中旬にはには躑躅の花が満開になりますよ!赤備えの大軍の如し(笑)

2012年02月23日 赤いRVR甲斐守@松本
真田氏館

四囲に土塁が全周する真田氏の本拠居館跡。近年西郭も整備されて、立ち入れるようになった。ここも周囲はマレットゴルフ場になっているが、大きな改変はなさそうです。東に隣接して、真田資料館(大人200円)があるので、こちらもどうぞ。ここで真田氏関連の情報をゲットできます。

真田氏館の周辺スポット情報

 搦手門跡(遺構・復元物)

 厩跡(遺構・復元物)

 西曲輪(遺構・復元物)

 東曲輪(遺構・復元物)

 大手門跡(遺構・復元物)

 矢沢陣屋陣屋門(遺構・復元物)

 伊勢崎城解説板(碑・説明板)

 伊勢崎城(虚空蔵城)(周辺城郭)

 矢沢城(周辺城郭)

 祢津城(下の城)(周辺城郭)

 祢津城(上の城)(周辺城郭)

 古城(海野城・物見城)(周辺城郭)

 夏目田氏館(周辺城郭)

 陣馬砦(カナツボの城)(周辺城郭)

 仙石氏館(矢沢陣屋)(周辺城郭)

 矢沢支城(周辺城郭)

 殿城山城(周辺城郭)

 古見立祢津氏居館(古御館)(周辺城郭)

 宮ノ入祢津氏居館(周辺城郭)

 赤石氏跡(周辺城郭)

 鷲尾城(周辺城郭)

 太平寺城(海野館)(周辺城郭)

 御殿(滋野親王御殿)(周辺城郭)

 深井氏居館(堀の内)(周辺城郭)

 西深井居館(正村屋敷)(周辺城郭)

 市の町砦(周辺城郭)

 矢立城(周辺城郭)

 長命寺館(周辺城郭)

 芝宮砦(周辺城郭)

 真田氏歴史館(関連施設)

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