真田氏館(さなだしやかた)
真田氏館の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長野県上田市真田町本原御屋敷2962-1他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 真田幸綱
築城年
- 永禄年間〜天正2年(1558〜1574)
主な改修者
- -
主な城主
- 真田氏
廃城年
- 天正13年(1585)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、土橋、厩跡
指定文化財
- 県史跡(真田氏館跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
真田本城(長野県上田市)[1.3km]
横尾城(長野県上田市)[2.2km]
戸石城(長野県上田市)[2.4km]
松尾古城(長野県上田市)[3.8km]
上田城(長野県上田市)[7.2km]
葛尾城(長野県埴科郡)[13.7km]
岡城(長野県上田市)[14.2km]
小諸城(長野県小諸市)[14.7km]
塩田城(長野県上田市)[15.3km]
荒砥城(長野県千曲市)[17.0km]
真田氏館の解説文
[引用元:Wikipedia「真田氏館」の項目]
真田氏館(さなだしやかた)は、長野県上田市にあった日本の城(平城)もしくは居館。
概要
真田氏が根小屋として日頃政務を執り、生活をしていたと考えられる館跡。いつ頃建造されたかは定かではないが、戦国時代(永禄)と推定される[1]。上田城の築城と完成に伴い廃されたと考えられる[2]。長野県指定文化財となり、御屋敷公園として親しまれていて、真田氏歴史館が隣接している[3][4]。現在も残る真田氏館遺構は、石積のある虎口、土塁、空堀などがある。
真田氏館の支城群
- 真田本城 :本城と名前が付いているが、実際に本城の役割を担っていたかは定かでない[5]。
- 天白城・真田氏館の背後に位置し、館から一番距離が近い山城である。
- 松尾城(松尾古城)
- 洗馬城・根小屋城
- 伊勢崎城・矢沢城
- 内小屋城
- 戸石城
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真田氏館の口コミ情報
2023年01月16日 nyarくん
真田氏館
上田市内から結構上がった高台にある。上田市内を見渡せ開放的な場所です。
2022年09月24日 神ノ山下野守漣成
真田氏館
すべては神社で特に何もなくしかし大手門や堀などいろいろくっきり残っているところもある
2022年07月19日 Yana左近衛少将
真田氏館
神社の中には倉のような建物だけが残っています。
2022年05月08日 尼崎城主膳佑一口城主
真田氏館
5月2日、砥石城下城後に真田氏記念公園に寄り道して真田氏館を目指した。緩やかな坂道が続き電動自転車ながら疲れてきた。真田家の本拠地ということで要所要所に道標があり迷わずたどり着けました。館は周囲が土塁に囲まれており広大な館であったことが偲ばれます。館跡から真田氏歴史館に向かう際、鳥居の外側の景色がキレイだったので思わず写真に収めました。
余談ですが真田氏館は真田相伝六神社御朱印巡りの③皇大神社になっています。⑥北赤井神社は舗装された道を外れて民家や田畑の間を通るので六神社巡りをされる方は歴史館の方に行き方を教えてもらうのがお勧めです。
2022年03月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
西深井居館(正村屋敷)[真田氏館 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
西深井居館(正村屋敷)は真田氏館の南西約6.1km、標高約535mの段丘台地上平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられます。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは正村氏になるんでしょか。正村(庄村)氏は真田氏に従っていたらしいのですが、居館の存した深井郷は東西に知行地が分かれていたらしく、少なくとも元和八年(西暦1622年)までは東は深井右馬助(深井綱吉の子、頼重か。)が、西は庄村金右衛門が給地としていたようです。同年は真田氏の松代移封の年でもあるのでこれに従ったのかは勉強不足で不明、ただ該地には今も正村さんがお住まいです。
深井(眞田)右馬助綱吉は東部の興善寺と高野山蓮華定院に元和九年(西暦1623年)、庄村金右衛門によって供養されている記録が残ります。正村(庄村)氏は深井氏の一族か何らかの繋がりのある氏族なのかもしれません。ちなみに深井綱吉は真田幸隆の実父、真田頼昌の嫡男とする説(同じ右馬助の通称を持つ。)があり、これが正しければ真田氏の真の嫡流と考える事が出来るでしょう。真田氏は江戸時代に入ると自身の系図をいじり倒しているのですが、そうしなければならなかった理由の一つとも言えそうです。
居館の現況は果樹園、一般住宅とその敷地となっています。謂わゆる方形居館なんですが、南東辺を除いた部分を石塁とし石積みの残存度もかなりのもの、後世の改変なのかもしれません。敷地の範囲がどこまでなのかが不明ですが、石塁で囲われた平場以外にも広がりがありそうです。又、堀の存在を窺わせる水路なんかも確認出来ますね。
忖度しているとはいえ、真田氏に関する有効な資料である真武内伝が欲しくてしょうがない。すっかり沼ですな…
2022年03月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
深井氏居館(堀の内)[真田氏館 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
深井氏居館(堀の内)は真田氏館の南西約6.5km、標高約533mの段丘台地上平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられます。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは深井氏です。深井氏は海野氏の一族とされ、深井郷を所領とし依満、治光、滋光、満信と伝領、諏訪御符札之古書には同氏の名が随所に見られ、諏訪大社の各種神事に度々頭役として勤仕していたようです。天文十年(西暦1541年)五月、武田氏と諏訪氏、村上氏が結び滋野三家と合戦に及んだ海野平の戦いにおいて、関東管領山内上杉家へ合力を求めて赴いたのは同氏の深井右左衛門尉棟廣でした。合戦によって上州に落ち延びた深井氏でしたが、武田氏によって小県郡がその勢力下に置かれると旧領に復したらしく、永禄十年(西暦1567年)八月七日、武田氏が生島足島神社に提出させた起請文には海野衆として眞田右馬助綱吉(深井綱吉)の名が見られ、永禄十一年(西暦1568年)七月二十六日に同名は諏訪社上社、御射山祭頭役を勤めたりしています。復領には当然真田氏の影響力が及んだ事でしょう。
居館の現況は耕作地、耕作放棄地、一般住宅とその敷地等となっています。該地には今も深井さんがお住まいなのですが、お庭には井戸なんかも現役で残っていました。往時は空堀が周囲を巡る方形居館だったと思われ、その西辺には空堀跡がきちんと残っています。又、「堀の内」、「前田」の地名が残り居館の存在を裏付けています。
居館跡としては遺構が残っている事自体奇跡でしょう。堀跡は埋められる事なく耕作地となっていました。なんだか嬉しかったです。
2022年03月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
夏目田氏館[真田氏館 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
夏目田氏館は真田氏館の南東約8.0km、采女沢川東岸(左岸)、標高約543mの段丘台地緩斜面上平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、居館の敷地の一部は長野県東御清翔高等学校のグラウンドに現在重複しています。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは夏目田氏です。長野県町村誌には里伝から「夏目田左近将監国平、居住の地と云ふ。」と記述があります。夏目田氏は不明ですが、夏目氏は信濃国更科郡夏目邑を発祥の地とする清和源氏村上氏流で、村上判官代為公の孫、国忠が頼朝の奥州征伐に従い功を立て、信濃国更科郡夏目郷、同伊那郡夏目郷の地頭職に補任され、その子左近将監国平が夏目郷に居した事から夏目氏を称しました。里伝の夏目田左近将監国平と同一人物かと思われますが、その居館が何故遠く離れた小県郡に存したのかは解りません。上記の説が正しければ、旧制中学の生徒が数学教師の眠る蚊帳の中にイナゴを投げ入れる小説、坊っちゃんで有名な夏目漱石の祖先が居していた事になりますね。
居館の現況は耕作地、長野県東御清翔高等学校のグラウンド等となっています。居館の敷地範囲を特定する事は難しいのですが、采女沢川を西辺の堀とし、南辺をグラウンドの南端、北辺を耕作地北側の舗装路(つまりは堀跡と推測する。)と考えるとすっきりします。
あゝ野麦峠でも城友さんから指摘されましたが、まるで坊っちゃんを読んだ事があるような書きっぷり…が、実は一回も読んだ事ありません。この辺りの文学的アイデンティティが欠如しているまま社会人になってしまいました。大人になると恥をかく事も多々ありますし若い時の読書って大切ですね。
2022年03月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
芝宮砦[真田氏館 周辺城郭]
芝宮砦は真田氏館の南方約8.4km、千曲川に注ぐ塩川沢川の蛇行点に向けて張り出す標高約514mの河岸段丘台地西辺端部上平場に城域が存します。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられます。
築城年代、築城者なんですが、謂わゆる陣城で第一次上田合戦(神川合戦)において徳川勢が築いたとされています。立地を見れば判りますが、西南約1.1kmには同じ真田氏館のリア攻めマップにある徳川勢の本陣、陣馬砦が存し、これを補完する為の選地なんでしょう。徳川勢の小諸への陣払いに際しては殿軍が籠ったと想像出来ます。
砦の現況は水田、一般住宅とその敷地、芝宮神社とその境内となっています。台地から張り出す概ね三角形の平場が城域で、連続する台地上を空堀で分断していたと思われますがその痕跡は残っていません。塩川沢川が穿つ深い峡谷地形に面する所謂崖端砦で谷側から見ればその要害感は充分伝わります。
砦の西方の広大な台地上は御牧原に繋がる馬の放牧地でしたが、牧経営が衰退し徐々に水田開発が盛んになると滋野氏一党とされる塩川(牧)氏(事跡は全く伝わらない。)が開発領主としてこの地域の支配に及んだと推測されています。この塩川氏の居館比定地が芝宮砦の位置でもあり、砦は唐突に築かれた訳ではなくこの塩川氏居館をベースに築かれた可能性も否定出来ないでしょう。
訪ねた際にはジモティーの歴史マニアのおっさんに話し掛けられました。「家には古文書とか沢山あってね〜」、「この辺りは昔…」とか煽る様な事を仰るので姓を尋ねると「それを言っちゃうと色々問題が起きるしね〜」との勿体ぶったお答えが…こっちは名乗っているのに一体あんた何処の誰なんだよ…こうして古文書の一つが歴史の闇に葬り去られる訳ですな…
2022年03月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
陣馬砦(カナツボの城)[真田氏館 周辺城郭]
陣馬砦(カナツボの城)は真田氏館の南方約8.8km、標高約584mの河岸段丘台地丘陵北辺端部上平場に城域が存します。北麓の長野県道81号線、丸子東部インター線からの比高は80m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城域の南側に出る林道を使えば車で登れますし説明板も立っています。
築城年代、築城者なんですが、謂わゆる陣城で第一次上田合戦(神川合戦)において徳川勢の本陣が置かれた場所です。北麓の畑地には「御馬屋畑」の地名が残っていたそうですね。
砦の現況は殆ど神明宮と称する小社の境内となっています。砦が先か神社が先かの話にまずなってくると思いますが、記憶が正しければ遷宮したのかもしれないけど神社の方が先だったような気が…後背も含めて削平はされていますが砦に関わる遺構は全く無いと言ってよいでしょう。空堀跡なんかも残っていたようですが今は痕跡すら見当たりません。
天正十三年(西暦1585年)八月二日、神川で打ち負けた徳川勢はこの陣馬砦を本陣として体勢の立て直しを図り、八月三日には真田方の丸子城に攻め掛かります。ところが城主丸子三左衛門は頑強に抵抗し、市の町砦に陣を敷いた真田勢の後詰に牽制されつつ二十日間余りの攻城は失敗、井伊直政等の増援を待ちつつ八月二十八日には丸子表から小諸城に陣払いしました。そして同年十一月には譜代石川数正の出奔により徳川氏はこの地域の攻略を完全に断念します。数正の出奔は信濃の各国人領主等の今後に大きな影響を与えた事は間違い無く、少なくとも真田氏は大名化を果たす事となりました。
実は日本人を代表するDNAの一つ、「判官贔屓」を色濃く受け継ぐおいらは大の徳川嫌い…東京に住みながら野球は阪神ファンだったりします。従って今回のリア攻めは非常に雑(ただ此処からの眺めは非常に良いです。)、悪しからず…
写真1枚目が真田勢が籠った市の町砦方向から見た陣場砦、真田の御詰は至近の距離だった。
2022年03月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
古城(海野城・物見城)[真田氏館 周辺城郭]
古城(海野城・物見城)は真田氏館の南西約8.0km、千曲川北岸、標高約495mの河岸段丘台地上平場に城域が存します。
行き方は…行けないです。城域の東側は崩落で接近不能、南側は千曲川の河川敷、北側はしなの鉄道の軌道敷、西側からは舗装路が付いてますが、どうやら千曲川の護岸工事に伴うものらしくガードマンが常駐、進入を厳しく制限しています。ちなちに己の力量を鑑みてガードマンと話を付ければ何とかなるでしょう。男前で良かったです。
築城年代は不明、築城者は海野氏です。海野氏の出自は滋野姓、天歴四年(西暦950年)二月、滋野恒信が信濃国望月牧牧監となって下向し後に幸俊と改名、海野氏の祖となりました。その子である信濃介海野小太郎幸経は天延元年(西暦973年)九月、海野荘の下司となりました。が、海野氏の出自は諸説あって、在地土豪としての海野氏が開発主体である滋野氏と関係を持ち、御牧の左馬令の荘園化が進む過程においてその勢力を拡大させていったとの説が一番しっくりするような…
お城の現況は崖地、河川敷、軌道敷、護岸堤防等となっています。該地は令和元年の台風19号によって大きな被害を受けている事からも理解出来るように、かなり古い時代から千曲川の流れによって崩落していて、既に旧態を想像する以前の問題ですわ…千曲川に面する河岸段丘台地の一段目を活用した要害だったとしか言いようがありません。該地は古城、周辺には奥座の地名が残ります。又、昭和三十年(西暦1955年)に竣工したかつての護岸堤防は城腰堤防と呼ばれていたようで、「城腰」の地名の存在も窺わせています。
現在も崩落が日々進行している場所(ほっとけばしなの鉄道も危うい…)です。海野氏は古城を捨てて上部段丘台地上の太平寺城に引越しましたがその気持ちがよく解ります。物見城の別称から引き続きその利用があったかとは思われるんですが…ハイパーマニア向け。てか訪ねるなら対岸から眺めるだけにしときましょう。
2022年02月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
太平寺城(海野館)[真田氏館 周辺城郭]
太平寺城(海野館)は真田氏館の南方約7.1km、標高約545mの河岸段丘台地上平場に居館が存したとされる城郭です。
行き方は居館(写真1・2)のみに限定するのであらばGoogleマップに位置登録されている日向が丘団地を目標に設定して下さい。太平寺城は東辺を金原川、西辺を西川に挟まれ、南辺下を海野宿が置かれた河岸段丘の一段目、その下には千曲川が流れます。城域は極めて広大で東西十町(約1080m)、南北五町(約540m)に及びます。
築城年代は不明、築城者は海野氏です。海野氏は一般的には禰津氏、望月氏と共に滋野三家の一つ、数多く派生した滋野姓の中でも嫡流家となります。
海野氏は系譜上、滋野姓、海野幸俊を祖とし、幸恒、幸明と続きます。幸明は小太郎を称し、二人の弟はそれぞれ禰津氏、望月氏の祖となりました。武家としての海野氏は八代幸親が保元の乱において源義朝に従い三百騎を率いて左馬頭として参陣、その後は木曽義仲の挙兵に従い、元歴元年(西暦1184年)、粟津で源範頼、義経と戦い討死、嫡男幸広は寿永二年(西暦1183年)、水島の戦いで先陣となり平家方の先陣、平教経と戦い討死しました。幸親の三男幸氏は義仲の嫡男、鎌倉で人質となっていた清水冠者義高に従い、義仲の敗死、義高の追討後は義高に忠勤であった事を逆に頼朝に称されて海野郷の本領を安堵されました。鎌倉幕府御家人としての海野氏の始まりです。
お城の現況は耕作地、市街地等となっています。前述のとおり範囲が広大で往時を全く想像出来ないのですが、家臣団屋敷のみならず私牧なんかを取り込んだものだったんでしょか。大手(写真3)、観音坂、馬場坂(写真4・5)、馬場(ばっぱ)(写真6)、土肥殿屋敷(写真7)の地名が場所として特定出来ているので改変されているとはいえその断片を探る事は出来ます。時間は何れも短いですが自分は2日掛けて廻りました。
いつもはただ通り過ぎるだけの町並も歴史を学ぶ事によって個人にとっては意味あるものとする事が出来ます。北国街道やしなの鉄道で東御市に入り海野宿(素晴らしい景観のかつての宿場町が今も残る。)の周辺に差し掛かる事がありましたらそこは既に城域かもしれません。
※海野氏の出自は諸説あります。最も信憑性の低いものが今も多く流布しています。
2022年02月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
御殿(滋野親王御殿)[真田氏館 周辺城郭]
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御殿(滋野親王御殿)は真田氏館の南方約6.6km、標高約559mの河岸台地緩斜面上平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。駐車場所には凄く困ります。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方も不明とします。滋野親王御殿とは呼ばれていますが物事は単純には進まないようで他にも二つの説があります。一つ目は海野氏に連なる者の居館で鎌倉時代のものとする説、二つ目は江戸時代初期、該地の曽根を開発した大口藤兵衛の屋敷とする説…何れを採っても時代の振れ幅が大きいし、結局は昔の事なんでよく判らねぃよて感じですかね。ちなみに藤兵衛の先祖は武田氏の被官だったらしく、藤兵衛自身は五ヶ村に跨る大庄屋でしたが上田藩藩主の仙石氏と折り合いが悪くなり中曽根村から追放の憂き目にあったそうです。
滋野親王とは清和天皇第四皇子貞保(得技は楽器演奏、イケメンだったそうです。)の事とされ、眼病を患い湯治のために信濃国に下向し当地で亡くなったらしいっす。後年真田氏は同じ清和天皇皇子である貞秀親王を自身のルーツである滋野氏の祖として位置付けましたが、新井白石に滋野姓が既にこれ以前に存在している事、貞秀親王が実在しない人物である事を指摘されています。今もネットで小県郡の神社の由来なんかを検索するとこの真田氏が示した系譜がそのまま一人歩きしていて後世の者を混乱させています。ちなみに貞保親王の妻は滋野氏の娘である事から元々信濃介に補任された滋野氏と関係が深かったのは事実ですが、華族制度が発足するとこの貞保親王の孫である滋野滋氏を祖として決着を試みています。が、裏付けが希薄で信憑性が全く無いと言えるでしょう。
居館の主が特定出来ないのですが、居館の正確な位置も特定出来ていません。が、長野県町村誌には「御殿水は東南隅にして…」、「南の塁上に御座石あり…」とあるので概ねの位置は判定出来ます。ただ御殿水と呼ばれる水場は確認出来たのですが、御座石がどれになるのかが全く判りませんでした。又、信濃のお城の神が示した御座石の位置は西北隅になるんすけど…
居館の主候補、貞保親王の美貌に惹かれた女性達は袖に蛍を忍ばせて燃える想いを表現したそうですね。そうか…おいらの前世はこの方だったのか…
2021年01月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢立城[真田氏館 周辺城郭]
矢立城は真田氏館の南東約5.6km、南西へ延びる山塊尾根上、標高約838mのピークの一つに主郭が存します。お城の西側から北側にかけては緩斜面の台地状地形を形成しており、こちら側からの比高は大して無いどころか北側ではマイナスな感じ、ただ南麓からの比高は170m位あります。
築城年代、築城者は共に不明ですが、付近にある禰津下の城とは姫子沢を挟んでお隣さんですので禰津氏の手によるものと推測されています。お城も何となくコンセプトが一緒ですしね。
行き方はお城の北側にあるヴィラデストガーデンファームアンドワイナリーというワイン関係の複合施設を目標に設定して下さい。この施設の南側に見える尾根にお城がありますので敷地内を通過してこれに取り付きます。自分は一声掛けてお邪魔しよかと思いましたが、冬季は施設自体が閉鎖中で人は誰もおらず、結果テレパシーで許可を求めるとこれに成功、主郭までは5分位でした。
このお城の存在は以前から知っていたのですが、ブログ等で紹介されてる写真を見ると藪が酷い印象で正直行くのを躊躇してました。じゃぁ冬場はどうなのかなと思って今回訪ねた次第なんですが、素直に行ってみて良かったです。少なくとも藪は消えており、遺構もこの時期なら大変判り易くなっていました。が、枯木で葉が無いとは言っても夏場の藪が容易に想像出来ましたわ…しかも生えてるのがちくちくするのばっかしで冬でも「痛たたたっ…」みたいな感じにしてくれます。
見所は主郭背後の大堀切、主郭部に散見される石積み、主郭をC字形に囲む土塁でしょうか。特に主郭の土塁の北辺は大土塁となっています。主郭から南西に延びる尾根は段郭で守り、石積みで補強された土塁の前を通らされる横入りの虎口なんかもありました。城域全体は巨石が至る所に見られ、それは大堀切底部でも同様です。感動したのは主郭の土塁から東西に延びる竪土塁!大堀切から延長される竪堀に付随するものですが、主郭から一段下の腰郭までカバーしていて見事な出来、素晴らしいっす。
このお城、主郭部北側から城域北東端にかけて後世の改変を含んでいるというのが一般的な認識です。ただとてもじゃないけど判断出来ないし、誰も改変部分を特定出来ないと思うので今は現況を愛でるのが正解でしょう。ただ一箇所だけ明らかに後世のものと判る石垣がありますので注意して下さいまし。
2021年01月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
祢津城(下の城)[真田氏館 周辺城郭]
禰津下の城は真田氏館の南東約6.5km、南方へ延びる標高約826mの山塊尾根上端部に主郭が存します。比高は130mでしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。登山道が整備されている他、軽四駆なら林道を使って城域の北端に出る事が出来るようです。
一般的なお城の話として「下の城、上の城問題」があるかと思いますが、謂わゆる居館跡である事が多い下の城は消滅か薄目、上の城は割としっかり遺構が残ってるし堅固である…みたいなやつです。この禰津下の城にも当然上の城があるんですが、禰津氏の居館跡は別に2箇所ありまして、下の城自体が詰城ですのでそこら辺は大丈夫です。逆に上の城は血圧が高目の人は怒り出すかもしれないので注意が必要です。ちなみに自分は収縮期血圧でも100ちょいなので怒りはしなかったです。
お城は素晴らしいです。きっと滋野氏最大実力者である禰津氏の力を見せつけてくれることでしょう。大手道(本当にそうなのかな?)とされる南麓にある登山道を使うと大した苦労も無く主郭に到達、ちょっと拍子抜けしますが、主郭の北側、北東側、東側の城域端までの土の遺構といったらどうでしょう!緩斜面を守る為であろう空堀や竪堀が集合し、最終的には長大(100m以上は有にある。)な二重竪堀に集約される様は圧巻です!それに付随する竪土塁には往時は総石積みだったのかと思わせる様な部分も。この二重竪堀の起点付近には石積みされた虎口様の遺構も残り、本来の大手道は実は竪堀底道のこっちなんじゃないかなと推測しました。各堀切、竪堀も見事な残存率で郭間の輪郭も素晴らしく4時間居ても全く飽きが来なかったです。
帰りは二重竪堀を使って林道に出ましたがこの二重竪堀、S字を描く林道に2箇所程切断されながらもまだ下に延びてました。又、林道周辺は何だか謎の石積みが沢山…後世の桑畑のものかなと思いますが、根古屋っぽい雰囲気もあるこの辺り、即断も出来ないでしょう。
ともかく比較的楽に重厚な遺構を堪能出来ますのでお近くに来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。
※城友さんのスポットを活用させて頂きました!感謝です。ちなみに「根津、祢津、禰津」どれでも正解です。
2021年01月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
宮ノ入禰津氏居館[真田氏館 周辺城郭]
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宮ノ入禰津氏館は真田本城の南東約8.5km、標高約738mの山間部緩斜面上平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている宮ノ入のカヤを目標に設定して下さい。駐車は路駐で大丈夫なレベルです。
築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのはこの周辺を本貫地とする滋野三家の一つ禰津氏で、滋野氏と様々に派生したその一族、支族は信濃の歴史を語る上では避けて通れないものとなっています。又、滋野氏一族は厳しい乱世の中でも同族間で相争う事が極端に少なかった仲良し一族であった事が指摘されています。
最近の研究では真田氏はこの禰津氏の庶流である可能性が最も高いようです。文書では応永七年(西暦1400年)の大塔合戦や永享十二年(西暦1440年)の結城合戦に際し禰津遠光配下として、前者は「実田」、後者には「真田源太、源五、源六」の名が記載されており、禰津氏の庶流として真田郷を在地所領としていた説明がやっぱり最もしっくりしますね。
真田氏は江戸時代には源姓を名乗っていましたが、早いうちに新井白石から突っ込まれている事からも解るようにかなり無理があったようです。源姓に固執した理由は解りませんが滋野氏も名族なので別に滋野姓でも構わないじゃん…て感じですかね。
禰津氏自体はマイナーですが、姻戚関係を通じ諏訪神党の一家として諏訪氏とも緊密な関係を築きました。又、武勇に優れた一族でもあったようで、太平記にも豪快なエピソードで「根津小次郎」なる人物が登場します。禰津氏は滋野氏の軍事的中核だったらしく、小県郡から上野吾妻郡までを支配領域とする大身でした。
禰津氏は存続自体は短いですが、徳川幕府時代に上野豊岡藩として立藩しています。又、真田氏と行動を供にし、松代藩家老となった者もあります。一族は古来から鷹を扱うことに長けており、幕臣として鷹匠最大流派「根津、諏訪流鷹匠」として存続しその技法を今に伝えています。
居館の現況は後世の改変かもしれませんが、土塁らしきものが残っているかなぁといった感じ…敷地内には長野県指定天然記念物の樹齢400年を越えるカヤの巨木「宮ノ入のカヤ」が残されており、伝承によれば居館の庭にあったものだとされていますが、残念ながら時代が少し合わないようです。
2020年12月29日 赤かぶ【】
矢沢城[真田氏館 周辺城郭]
真田幸隆公の弟 矢沢綱頼公(綱頼は諱 本名は頼綱)の居城とされています。現在は矢沢城跡公園になっており、住宅地の裏山って感じです。近くには数台停められる駐車場もあります。
登城口から主郭直下の三峯社までは10分ほど周りには小さな祠と石積みが見られました。西側には上信越自動車道 東部湯の丸ICと上田ICの間にある上田ローマン橋を見る事が出来ます。
主郭から北側に進めと二の郭・三の郭へと続いて行きます。二の郭と三の郭の間の堀切からの竪堀は鮮明に残っていました♪三の郭と四の郭の堀切はかなり埋まっている感じです。訪れた時 登城路にたくさんの銀杏が落ちており匂いが凄かったです(笑)わりとお手軽に行ける城郭かと思います。
2020年12月28日 赤かぶ【】
祢津城(下の城)[真田氏館 周辺城郭]
祢津城(下の城)は上信越自動車道東部湯の丸ICからほど近い祢津集落の北側にあります。
城郭の南側には数台駐車出来るスペースがありますが、行くまでの道幅は狭いのでご注意を!
わりと整備され遊歩道を15分くらい行くと主郭に着きます。
主郭の南側は展望も良く上信越自動車道東部湯の丸SAなども見えます。ベンチもあり桜も植えらているので春はお弁当を持って訪れるのも良いと思います♪
周囲は土塁が盛られております!
主郭北側には上の城に続く尾根上に深い堀切・腰曲輪がつくられ北側の攻撃に備えています。
主郭背後の堀切は5mほどありロープを用いて降りて行きます。足場は悪いので足元はしっかりとした装備で行って下さい。
南側はわりと緩やかですが北側は荒々しくもワクワクする遺構のあるお城かと!
2020年12月27日 【城郭道】たっきー
真田氏館
説明欄を見ると築城者が真田幸綱と書いてあるところと真田幸隆と書いてあるところがありますが、これらは同一人物なので説明を読む際は注意してください。
2020年11月03日 マイ兵庫助リバ【人間豚骨】
伊勢崎城(虚空蔵城)[真田氏館 周辺城郭]
~ 上田ローマン橋下の解説板より ~
伊勢崎城跡
虚空蔵山山頂にあり、砥石城の前衛城として築かれ、伊勢崎砦とも呼ばれる。虚空蔵山脚下は深い谷で神川の急流が崖を食み、自然の要塞となっている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの時、徳川秀忠率いる徳川の大軍が上田城を攻めてた折、真田昌幸は神川の水をせき止めて虚空蔵山に兵を隠し、神川のせきを切って徳川軍に大打撃を与えた場所とも伝わる。この城は、神川とともに上田城の東方を固め、ふるさと存亡の危機に、救国の一役を担ったのではないだろうか。今も土塁などが残り、城跡の面影を残している。
平成31年2月 神科まちづくり委員会
2019年05月26日 龍馬備中守【】
真田氏館
主郭全体を土塁で囲む☆(手前)厩跡を区画する☆搦め手側の西側の背後の山に真田本城を控える☆本拠地を上田に移す前の真田氏の居館☆
2019年05月05日 わる爺陸前守
西曲輪[真田氏館 遺構・復元物]
躑躅の花が咲く頃が一番。躑躅側が曲輪、中央横切る緑の線が土塁。直ぐ観える山が米山城跡、砥石城跡。
2016年05月25日 数正!左衛門佐紺絹地六連銭
真田氏館
お屋敷の北側には真田歴史館があります。
資料館のなかには、大河ドラマで実際に使われた甲冑や草の者の武器等が展示してあり、真田太平記好きには堪らないスペースになっています!
2016年05月21日 数正!左衛門佐紺絹地六連銭
真田氏館
5月中旬にはには躑躅の花が満開になりますよ!赤備えの大軍の如し(笑)
2012年02月23日 赤いRVR甲斐守@松本
真田氏館
四囲に土塁が全周する真田氏の本拠居館跡。近年西郭も整備されて、立ち入れるようになった。ここも周囲はマレットゴルフ場になっているが、大きな改変はなさそうです。東に隣接して、真田資料館(大人200円)があるので、こちらもどうぞ。ここで真田氏関連の情報をゲットできます。
真田氏館の周辺スポット情報
搦手門跡(遺構・復元物)
厩跡(遺構・復元物)
西曲輪(遺構・復元物)
東曲輪(遺構・復元物)
大手門跡(遺構・復元物)
伊勢崎城解説板(碑・説明板)
伊勢崎城(虚空蔵城)(周辺城郭)
矢沢城(周辺城郭)
祢津城(下の城)(周辺城郭)
宮ノ入禰津氏居館(周辺城郭)
祢津城(上の城)(周辺城郭)
矢立城(周辺城郭)
御殿(滋野親王御殿)(周辺城郭)
太平寺城(海野館)(周辺城郭)
古城(海野城・物見城)(周辺城郭)
赤石氏跡(周辺城郭)
深井氏居館(堀の内)(周辺城郭)
西深井居館(正村屋敷)(周辺城郭)
夏目田氏館(周辺城郭)
芝宮砦(周辺城郭)
陣馬砦(カナツボの城)(周辺城郭)
市の町砦(周辺城郭)