真田氏館(さなだしやかた)

真田氏館の基本情報

通称・別名

所在地

長野県上田市真田町本原御屋敷2962-1他

旧国名

信濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

真田幸綱

築城年

永禄年間〜天正2年(1558〜1574)

主な改修者

主な城主

真田氏

廃城年

天正13年(1585)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、土橋、厩跡

指定文化財

県史跡(真田氏館跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

真田本城(長野県上田市)[1.3km]
横尾城(長野県上田市)[2.2km]
戸石城(長野県上田市)[2.4km]
松尾古城(長野県上田市)[3.8km]
上田城(長野県上田市)[7.2km]
葛尾城(長野県埴科郡)[13.7km]
岡城(長野県上田市)[14.2km]
小諸城(長野県小諸市)[14.7km]
塩田城(長野県上田市)[15.3km]
荒砥城(長野県千曲市)[17.0km]

真田氏館の解説文



真田氏館(さなだしやかた)は、長野県上田市にあった日本の城(平城)もしくは居館。

概要 

真田氏が根小屋として日頃政務を執り、生活をしていたと考えられる館跡。いつ頃建造されたかは定かではないが、戦国時代(永禄)と推定される[1]上田城の築城と完成に伴い廃されたと考えられる[2]。長野県指定文化財となり、御屋敷公園として親しまれていて、真田氏歴史館が隣接している[3][4]。現在も残る真田氏館遺構は、石積のある虎口、土塁、空堀などがある。

真田氏館の支城群 

  • 真田本城 :本城と名前が付いているが、実際に本城の役割を担っていたかは定かでない[5]
  • 天白城・真田氏館の背後に位置し、館から一番距離が近い山城である。
  • 松尾城松尾古城
  • 洗馬城・根小屋城
  • 伊勢崎城・矢沢城
  • 内小屋城
  • 戸石城

真田氏館の口コミ情報

2024年05月19日 立花治部大輔宗茂
真田氏館

真田氏館は〒386-2202 長野県上田市真田町本原小玉上郷沢2930にあります。僕は上田原古戦場、上田城、葛尾城とその支城群、真田本城、松尾山城などと一緒に行くのがオススメです。僕は松本城、上田城の後で夕方でヘトヘトだったんで少し覚えてないことがありますが意外と覚えているので御安心ください。

僕は夕方の閉館間際の真田氏歴史館にギリギリ入って色々見てその後は真田氏館跡の場所に行きました。数十cmの浅い堀と草むらが広がっていると思いましたが少し入ると平坦で数十cm雑草が生えてるくらいでした。真ん中には神社が鎮座しており真田の家紋の六文銭が入った布がかかっていました。遺構は他にも沢山残っていて現存じゃないとも思いますが石垣もありました。後ろを振り返ると階段越しに鳥居がありました。僕はどうやら気付かないはやとっちりをしていました。その後は真田本城に行って居城がある武蔵国に帰りました。駐車場あります。ちょっと山登りになるので車かバイクがオススメです。登山好きなら大丈夫だと思います。

追記
説明下手でスミマセンでした。書くの下手という無礼お許し下さい(_ _)

2024年05月17日 稲葉内記っょ
真田氏館

出張のついでに上田で途中下車して真田ゆかりの郷めぐり。ツツジが綺麗に咲き誇っていい感じ。残念ながら御城印は置いていないそう。

2024年04月30日 野良犬しろチロ丸
真田氏館



回りに史跡が沢山残っていて、朝から全て回ると一日は十分に楽しめると思います。資料館の前のソフトクリームは美味しかったですよ。

2024年04月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
祢津城(下の城)[真田氏館  周辺城郭]



さて、今回はおいらの推し城、祢津下の城の御紹介〜実は以前にも口コミしたんだけど、再訪に併せてこれを削除、ピュアな気持ちで新たに作成し直した。誰かに頼まれる訳でもなく勝手に限度を超えて応援、宣伝する行為、推し活は不純な心の汚れを拭い去る…

祢津下の城は真田氏館の南東約6.5km、千曲川北岸(右岸)、北方山塊裾野上、標高約825mの山稜山頂を中心に立地する要害です。南麓の長野県道4号、真田東部線からの比高は150m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東麓の「禰津城(下ノ城)登城口」を目標に設定して下さい。林道の途中にこの登城口があり、車も堂々と捨てられる。此処からの比高は80m位、登城路がしっかりと整備されているので後は登るだけ、楽ちん城でもある。又、林道をそのまま進めば搦手へ出るが、軽四駆以外の車はちょと無理だろう。

築城年代は不明、築城者は祢津氏です。同氏については長くなるので詳細は別の機会に譲る。ちなみに家紋は丸に月の字、かっちょよいっす。

東信を代表する優れた山城の一つ。はっきり言って知名度は低い。が、めぐら〜はそれによって訪城意志を左右されない筈…冒頭にもあるようにおいらの推し城、1人でも多くの方に訪ねて頂きたいと常々思ってる。山城好きならこのお城の凄さをきっと理解出来るだろう。

登城路には途中、帯郭状の腰郭と横堀が1条付く程度、虎口を抜けると肩透かしを喰らう感じでいきなり主郭に到着する。主郭は全周土塁囲み、展望に極めて優れ、千曲川の対岸、八重原の高原地帯も見通せる。お城のハイライトは主郭から北側に残る遺構、その全てだ。

縄張は比較的にコンパクトだと言えるのだが、主郭北側山側背後から城域北端まで、この間における堀切と竪堀の連続、堀系の密度感が本当に凄まじい。「どうなっちゃってんのよ、こり…」て誰もが思う筈…特に東側斜面に落とされる3条の竪堀が集合、落ち着いたと思ったら竪土塁を挟んだ長大過ぎる二重竪堀へと集約される様は正に圧巻の光景、もはや感動でしかない。この二重竪堀、九十九折れの林道に2箇所を分断されながらも総延長200m強を仲良く落ちていく。

下山はこの二重竪堀を下りる事を推奨する。竪堀は林道にぶつかるので、林道を下れば前述の登城口に自然と戻る事が出来る。竪堀に埋もれていたい変態はそのまま堀底を辿って下りればよい。ちなみに竪堀の終端で高度は殆ど下げている。

夏場でも結構見れるんだけど、やっぱり冬場に訪ねるべき山城、木の葉と下草が消えるので俯瞰気味に遺構を見通す事が出来る。又、城域内には石積みも広範囲に散見される。但し、特に城域下段において後世の耕作に伴うものとの重複箇所もあると考えられ、その判別が極めて難しい部分もあったりする。

山中の尾根筋や斜面に展開される雄大な土のうねりとぽこぽこ感、ぽこりん感、時間が経つのも忘れるぐらいの感動が此処には詰まっている。小県郡だからて真田ブランドに振り切るだけでは勿体無いですぜ…

※ジモティーから御指摘を頂いたけど、「ねづしものじょう」と読ませる。拘りがあるようだ。

※幸いな事に城域内は殆ど未整備に近い。登れない切岸に土留めの階段とロープが設定されている程度だ。

※写真⑥は西側斜面に落とし込まれる竪堀群、写真向かって手前の2条は下段で集合して1条となる。意味あるのか知らんけど、集合する以外に両者の立つ瀬が無いのも事実…又、結果的にはそう見えるが、明確に意図された純粋な畝状竪堀とは言い難いだろう。

※暇があったら縄張図よりも地形模型図を見て欲しい。

※最近のおいらは竪堀下りたガールに影響されて竪堀下りたボーイを目指している。言葉の使い方としては、「え、かずりが見当たらない?…たぶん、竪堀下りたっぽい(ボーイ)よ。」てな感じ…竪堀を本当に下りたのかは謎なところだ。

2024年03月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
祢津城(上の城)[真田氏館  周辺城郭]



祢津上の城は真田氏館の南東約6.3km、千曲川北岸(右岸)、北方山塊裾野上、標高930mの山稜山頂に立地する要害です。南麓の祢津集落上段からの比高は180m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。お城の西麓まで車両通行可能な農道が通っている。但し、あくまで農道なので注意が必要、車の捨て場所はそこら辺でOK♪レベルだ。

築城年代は不明、築城者は祢津氏です。同氏については長くなるので詳細は別の機会に譲りたい…祢津氏は関係する居館跡が3箇所もあるんでそっちでしよかなと考えている。

再訪になるんだけど口コミは初となる。初回訪問時は別の深刻な問題、陽が落ちそうだったんで探索は殆ど諦めた。今回は何でも整備が入ったらしいとの噂を聞いたので祢津下の城の再訪に併せて訪ねてみた。ちなみにおいらは積雪で農道を車両通行不能と判断、地道に下の城から徒歩で登っている。時間にすると25分位、両者を結ぶルート上に城郭遺構は何も見出せない…

要害て一応分類したけど、一般的には逃げ込み城だと推測されている。おいらも異論を挟まない。逃げ込み城は一族、一党の足弱や領内郷民が喫緊時に文字通り匿れ住まう場所、そもそも論で守る必要性が微塵も無い。攻め寄せて来たら別の山中へ散り散りで逃げるのだ。この場においての籠城は武家としての終焉を意味するに等しい。

お城の現況は…確かに整備が入っている。登城路もはっきりと…したような感じだし、城域内には各所に説明板すら立っている。藪も刈り払われて気持ちすっきりと…したような感じもある。但し、ミトコンドリアみたいな縄張で薄い事には変わりがない。段の付いた削平地に生意気にも帯郭状の腰郭、別に土塁の残滓が遺構として確認出来る。そもそも論でノーマルな方は訪ねる必要性が微塵も無い。

…口コミも薄くなったので、最後に祢津氏に関連する雑学を…

全国に「田中」の地名は幾つか見られるが、該地の南南西、長野県東御市田中には全国で唯一の田中駅(しなの鉄道線)が立地する。「諏訪御符禮之古書」には、「小田中」、「田中」の郷名が見られ、中世の頃には何れも祢津氏による代官支配を受けていた。この地が「田中」と呼ばれるには訳がある。三分川水系と所沢川水系の自然流を引水して開田が進められた地域だが、現在の田中に残る「田」の付く地名を拾ってみよう、「浅間田」、「上田」、「瓜田」、「久保田」、「五里田」、「大門田」、「田町」、「常田」、「中田」、「夏目田」、「西前田」、「東沢田」、「保利田」、「前田」、「宮田」、「六反田」…ね、田中でしょ。

※写真①は南西麓、農道上から撮影した近景っす。

※写真②は登城路入口、地域の方の愛を感じる。薄いとか言ってごめんなさい。

2024年03月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢立城[真田氏館  周辺城郭]



矢立城は真田氏館の南南東約5.6km、千曲川北岸(右岸)、北方山塊裾野上、標高877mの山稜山頂から南西へ伸びる尾根上段上、標高約836m地点の平場を中心に立地する要害です。南麓の長野県道4号、真田東部線からの比高は160m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、北東側に建つ「ヴィラデスト ガーデンファーム アンド ワイナリー」を目標に設定すれば徒歩で登る比高をマイナスにする事が出来る。駐車場所にも困らない訳なんだけど、シーズン中は恥ずかしい思いをするかもしれない。

築城年代は不明、築城者は祢津氏と推測されている。同氏は滋野姓、海野氏、望月氏と並んで滋野三家と呼ばれる嫡流家の一氏であり、「根津」、「禰津」とも書く。祢津氏は調べていくと非常に面白い一族なんだけど、長くなるので詳細は別の機会に譲る。ちなみに最近の研究では真田氏を祢津氏の分流とする説が有力だ。

以前にも口コミしたんだけど、位置に微妙な誤りがあって削除してしまった。今回は再訪に併せての口コミとなる。冷静に考えてみると結構凄い山城、おいらは3回目の訪問となった。

このお城を一般から遠ざけているのはその藪度にある。夏場だと魅力が半減するし探索も苦労するだろう。特にちくちく、とげとげした草木が広範囲に群生してるんで油断していると痛い目に会う。コケそうになったおいらが握り締めたのは凶悪なタラノキだった…今回の写真は血塗れのコンデジ君で撮影したものが大半を占めている。そう、BLOOD, SWEAT AND TEARSな写真達なのだっ!

…お城は前述のとおり結構凄いんすよ、縄張は概ねで4つの郭で構成され、帯状の腰郭が城域下段を巡っている。石塁の伴う横入りの虎口、主郭に付く大土塁、岩盤層と巨石が多数露出する理解不能なぐらいにごちゃごちゃした土橋付きの大堀切…そう、キャラ立ちした山城なんすわ。特においらが凄いと思うのは各堀切から落とし込まれる竪堀の部分、西側斜面においての幅と深さによるボトム感なんて他では味わう事が難しい代物、それこそハーフパイプっすわ。又、山城では消失し易い竪土塁もしっかり残っていて、主郭の大土塁から落ちるそれは竪堀に並走しながら腰郭を同時にカバー、もはや感動でしかない。

石積みも多数が散見される。おいらは土塁の一部と主郭の切岸に付くもの以外のそれに懐疑的だったけど、登城を重ねる毎に全て往時のものだったんじゃないかとさえ思えてきた。当然、このお城にも後世の部分的改変がある訳だけど、判断が難しい代物(同様の事は祢津氏の本城とされる同じ真田氏館のリア攻めマップにある祢津下の城にも言える。)なのでこれ以上の言及は避ける事にする。

どの山城でもそうだけど冬場の訪問を推奨したい。又、南麓の県道側からも登れるけど、無傷では済まないぐらいの藪が待ち構えているし、縄張図以上のものは探し出す事が出来ない。東信における優れた良城の一つ、素晴らし過ぎる祢津下の城と併せて訪ねるのがよいと思う。祢津氏の竪堀はガチでマッシブだ。

※真田氏を祢津氏の分流とする説が有力〜真田氏の文書上の初見は「大塔物語」、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」の際に、「大塔の古砦」の大手門を攻める祢津越中守遠光の麾下に「実田」と見えるのが同氏と比定され、惣領制を主体とする当時の参陣をもってすれば、同氏を祢津氏の一族とするのが妥当だと考えるもの。同勢は祢津氏一門に加えて、浦野、桜井、別府、曲尾、横尾等の各氏、小県郡の在地土豪層が中核であり、「実田」が「真田」である事はほぼ間違い無いんじゃないかと個人的には考えている。

※そういえば、祢津下の城訪問後にお会いした祢津集落のお爺さんの話によると、祖父から聞いた事として、明治時代の初頭、松代藩藩主、真田の殿様が同城をわざわざ訪ねに来た事があったんだそう。その際に集落に何か恩徳を施したそうなんだけど、その内容までは聞き取る事が出来なかった。お爺さん、お茶とお土産ありがとう。再び訪ねる事にしよう。

※最近のかずりが連絡先交換、LINE交換するお相手は80歳代の方が圧倒的に多い。ちなみに最高齢は99歳…おいらは何処に進んで行こうとしているのか…行ける所まで行ってみる。

2023年09月11日 御影弾正少弼岳剣
真田氏館



土塁がしっかり残っており、公園内も整備が行き届いてました。

2023年05月23日 マグロ常陸介祐平
真田氏館



真田幸隆の時代から昌幸が上田城を築城するまでの居館とされています。

土塁にかこまれ、石積みの枡形虎口が見られますが、単郭で広さもなく、真田氏が小豪族だったことがわかります。

北西の隅にある約10m四方の土塁に囲まれた厩は、あまり見たことのない遺構です。

2023年01月16日 nyarくん
真田氏館



上田市内から結構上がった高台にある。上田市内を見渡せ開放的な場所です。

2022年09月24日 神ノ山勘解由長官漣成
真田氏館



すべては神社で特に何もなくしかし大手門や堀などいろいろくっきり残っているところもある

2022年07月19日 Yana勘解由長官
真田氏館



神社の中には倉のような建物だけが残っています。

2022年05月08日 尼崎城讃岐守一口城主
真田氏館



5月2日、砥石城下城後に真田氏記念公園に寄り道して真田氏館を目指した。緩やかな坂道が続き電動自転車ながら疲れてきた。真田家の本拠地ということで要所要所に道標があり迷わずたどり着けました。館は周囲が土塁に囲まれており広大な館であったことが偲ばれます。館跡から真田氏歴史館に向かう際、鳥居の外側の景色がキレイだったので思わず写真に収めました。

余談ですが真田氏館は真田相伝六神社御朱印巡りの③皇大神社になっています。⑥北赤井神社は舗装された道を外れて民家や田畑の間を通るので六神社巡りをされる方は歴史館の方に行き方を教えてもらうのがお勧めです。

2022年03月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
夏目田氏館[真田氏館  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

夏目田氏館は真田氏館の南東約8.0km、采女沢川東岸(左岸)、標高約543mの段丘台地緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、居館の敷地の一部は長野県東御清翔高等学校のグラウンドに現在重複しています。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは夏目田氏です。長野県町村誌には里伝から「夏目田左近将監国平、居住の地と云ふ。」と記述があります。夏目田氏は不明ですが、夏目氏は信濃国更科郡夏目邑を発祥の地とする清和源氏村上氏流で、村上判官代為公の孫、国忠が頼朝の奥州征伐に従い功を立て、信濃国更科郡夏目郷、同伊那郡夏目郷の地頭職に補任され、その子左近将監国平が夏目郷に居した事から夏目氏を称しました。里伝の夏目田左近将監国平と同一人物かと思われますが、その居館が何故遠く離れた小県郡に存したのかは解りません。上記の説が正しければ、旧制中学の生徒が数学教師の眠る蚊帳の中にイナゴを投げ入れる小説、坊っちゃんで有名な夏目漱石の祖先が居していた事になりますね。

居館の現況は耕作地、長野県東御清翔高等学校のグラウンド等となっています。居館の敷地範囲を特定する事は難しいのですが、采女沢川を西辺の堀とし、南辺をグラウンドの南端、北辺を耕作地北側の舗装路(つまりは堀跡と推測する。)と考えるとすっきりします。

あゝ野麦峠でも城友さんから指摘されましたが、まるで坊っちゃんを読んだ事があるような書きっぷり…が、実は一回も読んだ事ありません。この辺りの文学的アイデンティティが欠如しているまま社会人になってしまいました。大人になると恥をかく事も多々ありますし若い時の読書って大切ですね。

2022年03月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
陣馬砦(カナツボの城)[真田氏館  周辺城郭]



陣馬砦(カナツボの城)は真田氏館の南方約8.8km、標高約584mの河岸段丘台地丘陵北辺端部上平場に城域が存します。北麓の長野県道81号線、丸子東部インター線からの比高は80m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城域の南側に出る林道を使えば車で登れますし説明板も立っています。

築城年代、築城者なんですが、謂わゆる陣城で第一次上田合戦(神川合戦)において徳川勢の本陣が置かれた場所です。北麓の畑地には「御馬屋畑」の地名が残っていたそうですね。

砦の現況は殆ど神明宮と称する小社の境内となっています。砦が先か神社が先かの話にまずなってくると思いますが、記憶が正しければ遷宮したのかもしれないけど神社の方が先だったような気が…後背も含めて削平はされていますが砦に関わる遺構は全く無いと言ってよいでしょう。空堀跡なんかも残っていたようですが今は痕跡すら見当たりません。

天正十三年(西暦1585年)八月二日、神川で打ち負けた徳川勢はこの陣馬砦を本陣として体勢の立て直しを図り、八月三日には真田方の丸子城に攻め掛かります。ところが城主丸子三左衛門は頑強に抵抗し、市の町砦に陣を敷いた真田勢の後詰に牽制されつつ二十日間余りの攻城は失敗、井伊直政等の増援を待ちつつ八月二十八日には丸子表から小諸城に陣払いしました。そして同年十一月には譜代石川数正の出奔により徳川氏はこの地域の攻略を完全に断念します。数正の出奔は信濃の各国人領主等の今後に大きな影響を与えた事は間違い無く、少なくとも真田氏は大名化を果たす事となりました。

実は日本人を代表するDNAの一つ、「判官贔屓」を色濃く受け継ぐおいらは大の徳川嫌い…東京に住みながら野球は阪神ファンだったりします。従って今回のリア攻めは非常に雑(ただ此処からの眺めは非常に良いです。)、悪しからず…

写真1枚目が真田勢が籠った市の町砦方向から見た陣場砦、真田の御詰は至近の距離だった。

2022年03月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
古城(海野城・物見城)[真田氏館  周辺城郭]



古城(海野城・物見城)は真田氏館の南西約8.0km、千曲川北岸、標高約495mの河岸段丘台地上平場に城域が存します。

行き方は…行けないです。城域の東側は崩落で接近不能、南側は千曲川の河川敷、北側はしなの鉄道の軌道敷、西側からは舗装路が付いてますが、どうやら千曲川の護岸工事に伴うものらしくガードマンが常駐、進入を厳しく制限しています。ちなちに己の力量を鑑みてガードマンと話を付ければ何とかなるでしょう。男前で良かったです。

築城年代は不明、築城者は海野氏です。海野氏の出自は滋野姓、天歴四年(西暦950年)二月、滋野恒信が信濃国望月牧牧監となって下向し後に幸俊と改名、海野氏の祖となりました。その子である信濃介海野小太郎幸経は天延元年(西暦973年)九月、海野荘の下司となりました。が、海野氏の出自は諸説あって、在地土豪としての海野氏が開発主体である滋野氏と関係を持ち、御牧の左馬令の荘園化が進む過程においてその勢力を拡大させていったとの説が一番しっくりするような…

お城の現況は崖地、河川敷、軌道敷、護岸堤防等となっています。該地は令和元年の台風19号によって大きな被害を受けている事からも理解出来るように、かなり古い時代から千曲川の流れによって崩落していて、既に旧態を想像する以前の問題ですわ…千曲川に面する河岸段丘台地の一段目を活用した要害だったとしか言いようがありません。該地は古城、周辺には奥座の地名が残ります。又、昭和三十年(西暦1955年)に竣工したかつての護岸堤防は城腰堤防と呼ばれていたようで、「城腰」の地名の存在も窺わせています。

現在も崩落が日々進行している場所(ほっとけばしなの鉄道も危うい…)です。海野氏は古城を捨てて上部段丘台地上の太平寺城に引越しましたがその気持ちがよく解ります。物見城の別称から引き続きその利用があったかとは思われるんですが…ハイパーマニア向け。てか訪ねるなら対岸から眺めるだけにしときましょう。

2020年12月29日 赤かぶ【】
矢沢城[真田氏館  周辺城郭]



真田幸隆公の弟 矢沢綱頼公(綱頼は諱 本名は頼綱)の居城とされています。現在は矢沢城跡公園になっており、住宅地の裏山って感じです。近くには数台停められる駐車場もあります。

登城口から主郭直下の三峯社までは10分ほど周りには小さな祠と石積みが見られました。西側には上信越自動車道 東部湯の丸ICと上田ICの間にある上田ローマン橋を見る事が出来ます。

主郭から北側に進めと二の郭・三の郭へと続いて行きます。二の郭と三の郭の間の堀切からの竪堀は鮮明に残っていました♪三の郭と四の郭の堀切はかなり埋まっている感じです。訪れた時 登城路にたくさんの銀杏が落ちており匂いが凄かったです(笑)わりとお手軽に行ける城郭かと思います。

2020年12月28日 赤かぶ【】
祢津城(下の城)[真田氏館  周辺城郭]



祢津城(下の城)は上信越自動車道東部湯の丸ICからほど近い祢津集落の北側にあります。
城郭の南側には数台駐車出来るスペースがありますが、行くまでの道幅は狭いのでご注意を!
わりと整備され遊歩道を15分くらい行くと主郭に着きます。
主郭の南側は展望も良く上信越自動車道東部湯の丸SAなども見えます。ベンチもあり桜も植えらているので春はお弁当を持って訪れるのも良いと思います♪
周囲は土塁が盛られております!
主郭北側には上の城に続く尾根上に深い堀切・腰曲輪がつくられ北側の攻撃に備えています。
主郭背後の堀切は5mほどありロープを用いて降りて行きます。足場は悪いので足元はしっかりとした装備で行って下さい。
南側はわりと緩やかですが北側は荒々しくもワクワクする遺構のあるお城かと!

2020年12月27日 【城郭道】たっきー
真田氏館

説明欄を見ると築城者が真田幸綱と書いてあるところと真田幸隆と書いてあるところがありますが、これらは同一人物なので説明を読む際は注意してください。

2020年11月03日 大膳大夫マイリバ
伊勢崎城(虚空蔵城)[真田氏館  周辺城郭]

~ 上田ローマン橋下の解説板より ~

伊勢崎城跡

虚空蔵山山頂にあり、砥石城の前衛城として築かれ、伊勢崎砦とも呼ばれる。虚空蔵山脚下は深い谷で神川の急流が崖を食み、自然の要塞となっている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの時、徳川秀忠率いる徳川の大軍が上田城を攻めてた折、真田昌幸は神川の水をせき止めて虚空蔵山に兵を隠し、神川のせきを切って徳川軍に大打撃を与えた場所とも伝わる。この城は、神川とともに上田城の東方を固め、ふるさと存亡の危機に、救国の一役を担ったのではないだろうか。今も土塁などが残り、城跡の面影を残している。

平成31年2月 神科まちづくり委員会

2019年05月26日 龍馬備中守【】
真田氏館



主郭全体を土塁で囲む☆(手前)厩跡を区画する☆搦め手側の西側の背後の山に真田本城を控える☆本拠地を上田に移す前の真田氏の居館☆

2019年05月05日 わる爺陸前守
西曲輪[真田氏館  遺構・復元物]



躑躅の花が咲く頃が一番。躑躅側が曲輪、中央横切る緑の線が土塁。直ぐ観える山が米山城跡、砥石城跡。

2016年05月25日 ♨️左衛門佐紺絹地六連銭
真田氏館

お屋敷の北側には真田歴史館があります。
資料館のなかには、大河ドラマで実際に使われた甲冑や草の者の武器等が展示してあり、真田太平記好きには堪らないスペースになっています!

2016年05月21日 ♨️左衛門佐紺絹地六連銭
真田氏館

5月中旬にはには躑躅の花が満開になりますよ!赤備えの大軍の如し(笑)

2012年02月23日 赤いRVR甲斐守@松本
真田氏館

四囲に土塁が全周する真田氏の本拠居館跡。近年西郭も整備されて、立ち入れるようになった。ここも周囲はマレットゴルフ場になっているが、大きな改変はなさそうです。東に隣接して、真田資料館(大人200円)があるので、こちらもどうぞ。ここで真田氏関連の情報をゲットできます。

真田氏館の周辺スポット情報

 搦手門跡(遺構・復元物)

 厩跡(遺構・復元物)

 西曲輪(遺構・復元物)

 東曲輪(遺構・復元物)

 大手門跡(遺構・復元物)

 矢沢陣屋陣屋門(遺構・復元物)

 伊勢崎城解説板(碑・説明板)

 伊勢崎城(虚空蔵城)(周辺城郭)

 矢沢城(周辺城郭)

 祢津城(下の城)(周辺城郭)

 祢津城(上の城)(周辺城郭)

 古城(海野城・物見城)(周辺城郭)

 夏目田氏館(周辺城郭)

 陣馬砦(カナツボの城)(周辺城郭)

 仙石氏館(矢沢陣屋)(周辺城郭)

 矢沢支城(周辺城郭)

 殿城山城(周辺城郭)

 長命寺館(周辺城郭)

 古見立祢津氏居館(古御館)(周辺城郭)

 宮ノ入祢津氏居館(周辺城郭)

 赤石氏跡(周辺城郭)

 鷲尾城(周辺城郭)

 太平寺城(海野館)(周辺城郭)

 御殿(滋野親王御殿)(周辺城郭)

 深井氏居館(堀の内)(周辺城郭)

 西深井居館(正村屋敷)(周辺城郭)

 芝宮砦(周辺城郭)

 市の町砦(周辺城郭)

 矢立城(周辺城郭)

 真田氏歴史館(関連施設)

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