夏目田氏館
夏目田氏館([真田氏館 周辺城郭])
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夏目田氏館の口コミ情報
2025年10月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
夏目田氏館は真田氏館の南南東約8.1km、求女川東岸(左岸)、標高約544mの段丘台地上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、居館地の中心は長野県東御清翔高等学校のグラウンドに変貌している。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
該地は小県郡棗田村に含まれるが、村は江戸時代に入ると「夏目田」の文字が当てられるようになった。中世には祢津氏の知行地、天文十年(西暦1541年)五月の「海野平の戦い」以降、村上氏の領する所となったと伝わる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは夏目田氏です。
「長野県町村誌」には「夏目田氏遺跡」として、「本村(県村)中央夏目田組にあり。凡方一町許、今向屋敷と云ふ。里俗傅に、夏目左近将監國平、居住の地と云ふ。大系図に夏目氏、夏目田村の地頭職を賜ふとあり。」とある。
源満仲の舎弟、満快の子孫、(村上)為邦の子、国高が、更級郡二柳郷に住し在名を取って二柳次郎を名乗り、その子、国元、国忠、国長も二柳を称している。国忠は二柳三郎大夫を名乗り、源頼朝に従って奥州の藤原泰衡追討に軍忠があり、その恩賞として更級郡夏目村の地頭職に補任された。国忠の次男、国平は在名を取って夏目氏を称し将監を名乗っている。同氏の国宗は北条時継の娘を室に迎える等、執権家、北条氏との関係は深かった。
夏目氏は、建武二年(西暦1335年)、中先代の乱に伴って発生した「青沼合戦」の際、北条氏残党に与して船山に攻め寄せたが、小笠原貞宗によって打ち破られて敗走、一族は全国各地に離散したと伝わる。ちなみに子孫には三河国幡豆郡六栗に住して松平氏の譜代衆となった者もある。
長々と書いたが、伝承から清和源氏満快流の夏目左近将監を祖とするこの夏目氏が居館の主だとされている訳だ。但し、どうにも無理があるように思う。「青沼合戦」の結果、離散した一族の内が該地に居館した可能性は否定出来ないが、「海野平の戦い」の後に清和源氏頼清流村上氏の一族、もしくは被官衆の一氏が棗田(夏目田)に代官等で入部したと考えるのが自然ではないだろうか。居館の主、夏目田氏を語る時には誰でも苦労しているようだが、伝承自体が誤まって伝えられたものだと考えたい。更級郡の「夏目」と小県郡の「棗田」の地名が錯綜しているように思う。
居館の現況は…畑地、空地、運動場等となっている。前述した長野県東御清翔高等学校のグラウンドは周囲より一段高い微高地となっており纏まりは良い。西辺は求女川を天然の堀とし、残る三辺には堀が巡らされていたように思う。但し、城郭遺構は完全消滅、彷徨いていると通報されそうなんでとっとと帰る事にしよう。
松平氏の譜代衆の一氏となった夏目氏は、先祖の「青沼合戦」の経験が培ったのか知らんけど、殿軍エキスパート?として名を馳せた?夏目左衛門尉吉信を輩出した事で有名?だ。
吉信は、永禄五年(西暦1562年)の「三州八幡合戦」の際。今川勢によって総崩れとなった松平勢の殿軍を引き受け、国府に引くまでの間、六度踏み止まって奮戦したと伝わっている。又、元亀三年(西暦1572年)十二月二十二日の「三方ヶ原の戦い」の際、浜松城の留守居役を務めていた同名は、御味方の総崩れを知って城を出て徳川家康の危急を救っている。即ち、家康が(ポーズとして)敵方に立ち向かおうとするのを諌め、これが不調に終わると主君の乗馬の向きを強引に変えさせ、刀の峰で馬の尻を打ってこれを奔らせた。吉信は十文字の槍を手に自らを家康だと名乗りを上げ、二十五騎を引率して武田勢の追手勢に突入し奮戦。家康の身代わりとなって討死している。
主君の阿保な振る舞いに悪態ぐらいはついただろう。「お前の為にみんな頑張ってるんだから言う事ぐらいは聞いとけや。今となっては踏み止まって太刀打ちしても何の役にも立ちゃしないわ。大体にして漏らしてんじゃねーか。」…こんな場面を想像するんだけど妄想が過ぎてるんでしょかw
※旧制中学校の生徒が数学教師の眠る蚊帳の中にイナゴを投げ入れる小説、坊っちゃんで有名な夏目漱石は三河夏目氏の後裔を自称している。ちなみに小説を読んだ事は無い。
※(村上)為邦〜清和源氏頼清流村上氏とは別系統である。ちなみに実父の為公は伊那源氏の祖、子孫は夏目氏の他に片桐氏、知久氏等を輩出している。