伊勢崎城(虚空蔵城)
伊勢崎城(虚空蔵城)([真田氏館 周辺城郭])
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伊勢崎城(虚空蔵城)の口コミ情報
2026年04月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
伊勢崎城(虚空蔵城・伊勢崎砦)は真田氏館の南南西約2.6km、神川西岸(右岸)、標高672.9mの虚空蔵山(通称はかいこ山だ。)山頂部を中心に立地する砦です。東麓の神川からの比高は115m位でしょか。但し、同山は謂わゆる伊勢崎の台地の東縁上に位置する山稜であり、台地上からの比高は30m位である。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。最終局面は農道を進む事になるが案内通りでOK♪だ。車の捨て場所はどうにでもなる。
築城年代、築城者は不明だが、伊勢崎の台地はアプリの登録城、戸石城の城山から南方へ向けて広がる高台であり、築城者には村上氏、もしくは同氏の被官衆が推測されている。神川を見下ろし、東方、南方への展望に優れる事から、狼煙台や物見台の類いがその発生であったろう。
「長野県町村誌」には、「村(上野村)の辰巳(南東)の方字上野原の巽(南東)の隅に在て、堆く、東南岩石峙ちて神川に臨み、西南の方数十町、瞭然目下にあり、何人の據る事を詳にせず。一説眞田信幸會て此に在と云ふ。今宇賀ノ神社を鎮す。」とある。
天正十三年(西暦1585年)九月廿二日、直江山城守(兼続)宛、嶋津淡路守忠直、岩井備中守信能、栗田永壽連署書状案によれば、連署した三名は、「伊勢崎御普請」を寸隙も油断無く致し、近日中に成就仕ると直江山城守に報じている。一見するとこの口コミの伊勢崎城の普請の事のように思われるが、どうやら当時の上杉方の呼称のようで、尼ヶ淵で普請が続けられていた上田城の事を言っているらしい。「第一次上田合戦」は、同年八月二日の出来事であるから、戦いは同城が未完のままで行われたとも考えられ、「第二次上田合戦」における上田城は、上杉氏、真田氏、徳川氏の手によって築かれていた事になる。
「第一次上田合戦」において、当初から戸石城に入っていた真田昌幸の嫡男、信幸は、上田城城下で打ち破られ神川を目指して退く徳川勢を城から出て横合いから攻め立てて大勝したとも伝わる。この際における伊勢崎城の動向は不明だが、信幸勢が戸石城から神川に押し出す際には番士等を置いて物見等の何らかの役目を果たしていたのかもしれない。
城地は後世に宇賀ノ神社が勧進され、その石垣の一部が今も残っている。縄張はファジーで捉え難いとはいえ、推測するに段付きの主郭と副郭で構成されているのであろうか。東面は登頂不可能な急崖、西面と南面、北面には数段の帯郭状の腰郭様地形が確認出来たりする。但し、主郭に残る土塁様地形や櫓台様地形と共に、造成された時期にあっては知る由も無く、特に腰郭様地形は後世の耕作等の跡とも見て取れる。ちなみに主郭には説明板が立ち、傍らには標柱と「宇賀神社趾」と刻まれた石柱が建っている。
「第一次上田合戦」において、寡兵の真田勢が徳川勢を打ち破った事はよく知られているが、戦いの詳細を記する史料は全て後世の軍記物であり、特に真田方の史料である「信州上田軍記」や、徳川方の史料である「三河物語」等に頼っている。戦いの大筋については整合性が取れるとはいえ、巷間に流布している様相の全ては当然ながら信憑性に欠ける。
壬(天正十三年)八月十三日、下豊(下沼田豊前守)、恩伊(恩田伊賀守)、木甚(木暮甚之丞)、恩越(恩田越前守)、発三(発知三河守)宛、眞田信幸書状には、「芳札被見、仍従遠州出勢候間、去二日於國分寺遂一戦、千三百余討捕、備任存分候、然者、南衆(北条氏直)其表(上野国沼田)へ可相動之由於必然者、堅固之備任入候、恐々謹言、」とあり、眞田信幸は、下沼田豊前守等に、國分寺において一戦を遂げ、遠州勢、千三百余を討ち捕えた事を報じると共に、向後は沼田へ北条勢が攻め寄せるのは必然故に堅固な備えを任せたいと言っている。
…総勢でも二千余人とされる真田勢が千三百余人を討ち捕えた事になる訳だが、「三河物語」では討死等を三百余人と書いている。双方の史料に相違が見られるのだが、やはり物語の言うところが実際であろう。真田勢は半数を超える人間が首を取った計算になるし、徳川勢は総勢の六分の一を失った事になる。この状態で翌日から始まった「丸子表の戦い」に臨む事は不可能と思われるし、徳川勢の士気や衝力は十分に維持されていたと考えるのが自然である。戦いに打ち勝った真田氏にはその実力を過大に喧伝する権利が与えられたとでも言うべきか。
※周辺を散策していると理解出来るのだが、距離は離れているとはいえ、戸石城城砦群を構成する一城ではなかったろうか。疑うなら地形模型図等で確認してみるとよい。
※写真撮影が非常に難しい物件だ…ちなみに現地説明板が上田ローマン橋の直下にも立っていたりする。
2020年11月03日 ️…
~ 上田ローマン橋下の解説板より ~
伊勢崎城跡
虚空蔵山山頂にあり、砥石城の前衛城として築かれ、伊勢崎砦とも呼ばれる。虚空蔵山脚下は深い谷で神川の急流が崖を食み、自然の要塞となっている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの時、徳川秀忠率いる徳川の大軍が上田城を攻めてた折、真田昌幸は神川の水をせき止めて虚空蔵山に兵を隠し、神川のせきを切って徳川軍に大打撃を与えた場所とも伝わる。この城は、神川とともに上田城の東方を固め、ふるさと存亡の危機に、救国の一役を担ったのではないだろうか。今も土塁などが残り、城跡の面影を残している。
平成31年2月 神科まちづくり委員会









