塩田城(しおだじょう)

塩田城の基本情報

通称・別名

古城

所在地

長野県上田市前山309他

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

北条義政

築城年

建治3年(1277)

主な改修者

主な城主

北条氏、福沢氏(村上氏家臣)、村上義清、飯富虎昌(武田氏家臣)、真田氏

廃城年

遺構

曲輪、石積、横堀(空堀)、虎口

指定文化財

県史跡(塩田城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

岡城(長野県上田市)[5.7km]
上田城(長野県上田市)[8.9km]
長窪城(長野県小県郡)[9.7km]
戸石城(長野県上田市)[13.2km]
真田氏館(長野県上田市)[15.3km]
葛尾城(長野県埴科郡)[15.6km]
横尾城(長野県上田市)[15.9km]
真田本城(長野県上田市)[16.5km]
望月城(長野県佐久市)[16.9km]
荒砥城(長野県千曲市)[17.0km]

塩田城の解説文



塩田城(しおだじょう)は、信濃国小県郡、現在の長野県上田市前山にあった日本の城。長野県指定史跡。

概要 

建治3年(1277年)に鎌倉幕府の要職である連署を務めた北条義政が信濃国塩田荘に館を構えたことに始まる。

鎌倉時代

北条国時、北条俊時と3代に渡って塩田北条氏の居城となる。元弘3年(1333年)に鎌倉が新田義貞を中心とする反幕府勢に攻められた際は、塩田北条氏も鎌倉に上り、幕府方として戦うが敗れ、一族とともに滅亡した。

室町時代

南北朝、室町時代を通して村上氏の支配となる。

戦国時代

戦国期になると武田信玄の侵攻により城は武田氏の手に落ちるが、上杉謙信の助力を得た村上義清がこれを奪還し居城とする。しかし、数ヵ月後には武田氏に包囲され落城。再び武田氏の勢力下となり、飯富虎昌が城将となった。

天文22年(1553年)に行われた第一次川中島の戦いの際には武田勢の本陣となった。

以降、武田信玄と上杉謙信の川中島合戦において、武田氏方の重要な出動拠点となった。

武田氏滅亡後、この地域は真田氏の支配となるが、天正11年(1583年)、上田城の完成により廃城となったと伝えられている。

構造 

弘法山全体を城郭とした山城であり、中世城郭としては長野県で最大級と言われている。鬼門方向には前山寺がある。

遺構 

1970年(昭和45年)4月13日に長野県の史跡に指定された[1]

塩田城主要部への入り口に「塩田城跡」の石碑がある。曲輪や土塁、石垣等が残っている。1967年(昭和42年)から1977年(昭和52年)にかけて、数回にわたる発掘調査が行われ、礎石をもつ建物跡や空堀、敷石、井戸などの遺構や多くの遺物が出土した[2]。出土品は城跡近くの観光施設「塩田の館」に展示されている。ここには塩田城の復元想像図も展示されている。

参考資料 

  • 「塩田城 - その歴史と発掘 -」 長野県文化財保護協会 1982年
  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年
  • 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年

塩田城の口コミ情報

2024年05月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
五加山城(海部野城)[塩田城  周辺城郭]



五加山城(海部野城)は塩田城の東方約4.4km、駒瀬川東岸(右岸)、標高約682mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。南麓の砂原峠からの比高は75m位でしょか。西方には鞍部を介して同じ塩田城のリア攻めマップにある砂原峠旗塚が立地する。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは南麓、砂原ゴルフ練習場東側の駐車場からとなり、南方へ張り出す山稜尾根直下からフル直する。尾根筋は山頂部に近づいても結構な藪だけど、登る比高は大した事ないのできっと頑張れる筈…但し、もう一回登れと言われたらお断りする。ちなみに国土地理院地図を見ると西方鞍部から城域直下まで登る道が描かれているが、道自体が放棄されて久しいので逆に苦労すると思う。

築城年代、築城者は不明です。塩田の古老の話によると、戦国時代に宮沢眞人時胤が拠ったとする。調べようのない人物だが、塩田北条氏の分流とされる塩田五族の中に宮沢氏の名が見られるんだそう。通字と思われる「時」からも塩田北条氏との関係性が疑われ、あながち古老の言う事に間違いは無いような気がする。又、該地は砂原峠を直接扼する位置にあり、少なくとも塩田平に拠った勢力の被官衆の一人が関門の地を預かっていたて事にはなりそうだ。可能性を探るなら、宮沢氏とは村上氏の塩田庄代官、福沢氏に関係する者ではないだろうか。

お城は段が設けられた主郭部に小堀切が4条、他に登って来た尾根筋の先端部に狭小な削平地群を持つ砦規模の縄張だ。堀切が4条付くて聞くと結構な物件だと思われるかもしれないが総じて埋まり気味、そもそも論で確実にそうだと言えるのはその内の2条に限定されると思う。ちなみに登城中は城域内の藪度が心配になったけど、主郭部に限って言えば意外にもすっきりしていたりする。

「諏訪御符禮之古書」、文安五年(西暦1448年)戊辰花會の条には、「一 塩田御射山御符禮五貫六百六十六文頭役五十六貫文福澤入道像何(阿)次年御教書之禮如御符之禮神鷹神馬此年は福澤殿代官熱田道義勤仕候」とあり、村上氏の知行地である塩田に代官の福沢入道像阿があり、更に下代官の熱田道義があった事が判る。塩田北条氏の滅亡後に同地を支配したのは埴科郡を本拠とする村上氏であり、その統治は実に二百数十年の長きに亘る。今に残るアプリの登録城、塩田城の遺構は発掘調査によって福沢氏代官時代のものが殆どである事が判明している。五加山城の発生もこれに伴うものだったのではないだろうか。

※天正六年(西暦1578年)の「上諏方造営帳」には、塩田庄を構成する十二郷の内に五家(五加)の名が見られる。五家郷の郷域は不明だが該地はこれに含まれる筈だ。

※写真⑧は南西麓の砂原池から撮影した近景っす。鎌倉道(推定)は現在の道筋とは異なり、往時は池中を通っていたんだそう。

※リア攻め中はゴルフ練習場からボールを打つ音がずっと聞こえてくる。

2024年05月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
古安曽の御所畑館[塩田城  周辺城郭]



古安曽の御所畑館は塩田城の東北東約2.5km、尾根川西岸(左岸)、標高512mの丘陵地上平場に立地した居館です。周辺地域の塩田平は「信州の鎌倉」と呼ばれた他、近世に入ると「塩田三万石」とも呼ばれた豊穣の地である。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…リア攻め自体は数分で終わるので車の捨て場所はそこら辺で大丈夫だ。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地には「御所畑」の小字が残っている事から高貴な人物が居館した事が推測出来る。一説によれば、塩田北条氏初代、義政の子、二代国時の兄、越後守時治が館とする。

該地の塩田の文書上の初見は古く、藤原経房の日記、「吉記」、承安四年(西暦1174年)八月十六日の条に、東寺最勝光院別当が、同院領小縣郡塩田庄の年貢を布で千反進上したい旨を後白河院に言上したとあるのが最初、塩田の地は最勝光院の荘園であり、最勝光院の別当は東寺だった事から実質的には東寺が塩田庄の領家だったとも言える。

文治二年(西暦1186年)正月八日、源頼朝下文には、「下 信濃國塩田庄 補任 地頭職事 左兵衛尉惟宗忠久 右人為地頭職、従行庄務、御年貢以下、任先例可致其勤之状如件、以下、」とあり、源頼朝は惟宗忠久を塩田庄の地頭職に補任している。同名は言わずもがなの薩摩島津氏の祖だが、信濃国における確実な地頭補任状としては最初であり、頼朝が塩田庄を同国の枢要の地として重要視していた事に疑いは無い。ちなみに忠久の齢はこの時僅かに六歳、頼朝の御落胤説を補強するものにはならないのだろうか。

建治三年(西暦1277年)四月四日、鎌倉幕府八代執権、北条時宗の連署を務めた北条氏の一門、北条義政は突如として同職を辞して善光寺に出奔、出家して道義と号し、五月には塩田庄に遁世した。以降、同地の北条氏は塩田北条氏として三代五十七年に及ぶ。居館の主とも推測される越後守時治は、「新後撰和歌集」、「玉葉和歌集」にも入集される歌人としても知られる。

居館の現況は…「御所畑」の小字からも判るように今も正しく耕作地であり、他に一般住宅とその敷地等となっている。縄張図はあくまで信濃のお城の神が居館地として推測する範囲を示したものに過ぎず、その位置や敷地範囲に誤りがある可能性がある。遺構そのものが確認出来ない以上、リア攻めはどうしようもない。

名称にある「古安曽」は今に残る地名であり、その由来には阿蘇氏との関係性が指摘されている。即ち、同氏は「古事記」には、神八井耳命(かんやいみみのみこと)を始祖とし、阿蘇君(あそのきみ)、意富臣(おふのおみ)、小子部連(ちいさこべのむらじ)等と分れ、科野(信濃)国の他、数ヶ国の国造となったと記されている。科野の国造となった阿蘇氏の一族は塩田平に土着したと考察され、その根拠の一つとして挙げられるのが、阿曽岡、阿曽岡山の地名である。又、他に同じ塩田城のリア攻めマップにある生島足島神社の国魂神が延喜式の大社として現存する事(国魂神は国造の治所に祀られるのが普通である。)、一族の小子部氏の名が小県(小子部の県の意味である。)郡として残っている事等が挙げられている。国としての信濃は正にこの塩田平から始まったのかもしれない。

※文治元年(西暦1185年)、源頼朝は全国惣地頭に初めて任ぜられる。名実共に地頭職の任命権者ともなった訳だ。

※家譜によると惟宗忠久の生年は治承三年(西暦1179年)十二月三十一日とされる。これを正しいものとするならば、既に齢六歳より以前に左兵衛尉に任官し、又、元服していた可能性すら考えられる。

※写真④は該地南方を東西に通る鎌倉道(推定)の説明板と標柱っす。

2024年04月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
砂原峠旗塚[塩田城  周辺城郭]



さて、全国802万人の熱狂的ヅカファンの皆さん、お待たせしやしたっ!ワクドキでしょ〜そう、今回の口コミはみんな大好き旗塚の御登場っすっ!宝塚音楽学校入学の夢を諦めたおいらだけど旗塚だけは諦めない。味わい深いぽこりんした佇まいに萌える若い女性も後を絶たないらしいっすねっ!城郭用語としては「横矢」と並ぶ人気ワードの一つでもあったりする。そう言えば、あのサンリ◯も次期公式キャラクターの候補として目を付けたらしく、非公式ながらも既に市場調査を進めているんだそう…っぽい雰囲気を醸し出しながらも実はそうではないよとの指摘もある…んだけどはっきりさせる事も難しいとのある筋による見解が発表されたらしいて噂をある人が話しているのをかずりはサンリ◯ピューロランドの喧騒の中で耳にしている。

砂原峠旗塚は塩田城の東方約4.0km、駒瀬川東岸(右岸)、標高623mの山稜山頂部を中心に立地する旗塚群です。南麓の砂原池からの比高は70m位でしょか。東方には鞍部を介して同じ塩田城のリア攻めマップにある五加山城が立地する。

行き方はびっくりする事にGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは前述の鞍部へ藪りまくった林道が伸びているのでこれを進み、道が消失したら適当見当付けて適当直登する。但し、尾根筋に出てもやっぱし藪だ。ちなみに登城?は想像よりも遥かに辛かったりする。

当然の知識で烏滸がましいんだけど一応説明…「旗塚」は読んで字の如く旗を立てるためだけの土盛りの事、支配領域の境目の目印、示威目的で使われるもの。役割としてはそれ以上でもそれ以下でもなく信濃でもレア物件の範疇に入る。ちなみにうろ覚えで申し訳ないんだけど、割ヶ嶽城のリア攻めマップにある二十塚旗塚群は過去に暇に任せて埋蔵文化財としての発掘調査が行われている。塚が何層かに分けて突き固められながら盛り上げられた事が判明したらしいが、調査結果自体はそれがどうしたみたいな感ぢ?で終わっている。

盛られた年代、盛った方は不明です。該地の南側には鎌倉道の一つと推定される砂原峠道が東西に通り、塩田平と義仲様もお住まいになられた御嶽堂を結んでいる。盛った方を塩田平に拠った勢力とするのが当然のようだが、旗塚が指向するのは塩田平であり、旗自体も峠道を進む者にしか見えないような気がする。

旗塚としては良物件、尾根筋にほぼ等間隔で並ぶ土盛りが肉眼では明瞭に確認出来る。但し、山中の藪に塗れたただの土盛りを写真にするのは極めて困難、余程の好条件が揃わないと不可能に近い。又、旗塚の1基には小祠がごめんなさいみたいな感じで鎮座、たぶん山の神だと思うんだけど、此処に辿り着く道自体が完全に消滅している。他には…書く事が無いや。

他人から見たらしょうもない物件だけど、これも中世の武士等が残した立派な痕跡て訳だ。少なくともおいらにとっては近世城郭と同義に語れるぐらいの価値がある。この口コミ見て旗塚が気になり始めた沼に陥いる5秒前の変態は横田城のリア攻めマップにある茶臼山陣場を訪ねるとよい。第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」において武田勢の本陣が置かれた場所だが、この陣場のメインを飾る遺構が旗塚群だ。武田勢が盛った由緒ある旗塚、見落とされないようにそれぞれに案内板がぶっ刺してある。ちなみに上杉勢の本陣、妻女山からは遠過ぎて見えないだろうし、この場合の旗塚は示威目的てよりは本陣の位置を指し示す旗を立てるための土盛りだったような気がする…

※写真①は要るのか知らんけど南麓の砂原池から撮影した近景っす。

※旗塚の撮影はとんでもなく難しい…

※ 人気ワードの一つ〜令和五年度かずり調べによる。

2023年07月03日 弾正一秀
塩田城

塩田城は普段は鹿暴作が締まって居ますが明けて入れるように成ってますょ❗近くに生島足島神社も有るので寄って見て下さい👍

2022年08月20日 RED副将軍
女神山城[塩田城  周辺城郭]



石積みと多重堀切の両方で見応えがあります✨

オススメ度 ★★★★★

築城年代等の詳細は不詳。
斎藤源左衛門の居城であると伝わります。
斎藤源左衛門は、1600年に真田氏に反旗を翻して一揆を起こして籠城したと云われています。

見所
標高927mの女神岳山頂に築かれています。
主郭は山頂に配され南北二段で東下に腰曲輪が敷設。主郭部は石積みが良好に残っており、直登200mを登ってきた疲れが吹き飛びます。
東下の腰郭にも石積み構造の虎口がありますがどこに通じるのか動線が見えずナゾです。
この城は石積みだけでなく、主郭南尾根は四重堀切、主郭北東尾根は大規模な三重堀切で分断されており、堀切だけでも充分見応えがあります。

行き方は、南東麓に登城口があります。登城口前の路側帯に2台程度駐車スペースがあります。登城路は比高200mをほぼ直登に近いですが、斜度がキツい分速く登れます。40分もあれば城域尾根に辿り着けます。

写真
①②主郭石積み
③主郭東下の虎口
④南尾根の四重堀切
⑤北東尾根の二重堀切
⑥竪堀
⑦南端の郭の虎口?
⑧登城路は直登

2022年05月31日 かげちゃん参號
摂社 諏訪神社[塩田城  寺社・史跡]

生島足島神社の摂社(下宮)で、生島足島神社の御本社と向かい合うように御鎮座されています。慶長15年(1610年)に真田信幸さんによって再建(寄進)されました。もしかしたら、父の昌幸さんと弟の信繁さんの死罪が免除された事のお礼に再建(寄進)したのかもしれません。

後、生島足島神社の御朱印ですが、4.5種類あって、書き置きタイプで普通サイズの御朱印帳に合わせてあるので注意して下さい。日本遺産認定記念の限定御朱印もありました。

2021年12月13日 竹下半兵衛(^^)/
峯小屋城[塩田城  周辺城郭]



標高1266m、南側の真田屋敷跡からの比高約640m 独鈷山 登山コースが整備されてて駐車場があった(宮沢コース)

登山道は十二支が置かれててどの辺まで登ってるかが わかる ラシイ 日の出前に出発したけど、途中でお日様出てしまった🌄アリャマ( ̄▽ ̄;)

頂上に登るとまわりは雲海🤩絶景~ワーイ🙌ヤッホー

削平された曲輪は2ヶ所ある 城跡としての遺構というより独鈷山の頂上として有名なのね➰

サテサテ、ここから700m西へたどれば「穴場の狼煙台」がある..ラシイ もちのろん レッツドーン 😤途中からコースを外れなきゃ~🧗...しかし 岩場凄すぎる🪨🧟天然の堀に阻まれて回り込もうにも滑落しそう...👼ってことで撤退➰。。。。🦸また来るよん👍..タブン..キット 21`12/11撮

2021年09月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
女神山城[塩田城  周辺城郭]



女神山城は塩田城の西方約3.0km、標高927mの独立峰、女神岳山頂に主郭が存します。西麓の長野県道177号線からの比高は200m位でしょか。

築城年代、築城者は不明ですが、城主として斎藤源左衛門の名が伝わっています。慶長五年(西暦1600年)に真田氏に叛いて立て籠りましたがその後の詳細は不明です。

今回お城へは諸事情で別所温泉駅から徒歩で向かいました。長野県道177号線を進み登城路入口まで距離にして約3.0kmといったところです。行き方はとりまGoogleマップに位置登録されている西南麓の瑞光寺を目標に設定して下さい。このお寺さんの東側のT字路に「女神岳登山道まで800m」の緑の看板が立ってますのでこれに従い、「女神岳登山道入口」の看板まで進んで下さい。後は上を目指して登るだけとなります。が、これ山頂部にある祠への参拝道でもあるんですが全く登山道になっておらず、平均斜度約45°の斜面を殆どただひたすら真っ直ぐに登らされる地獄のような道でして全く女神っぽくありません。自分九十九折の道が好きじゃないですが、「少しは曲げようよ…」とか思わず呟きます。空が見えてくると祠へ通じる石段が現れますが、この石段も全くNO MERCYでして角度が60°位で逆に危ない!でも登り切れば山頂部に一気に出るので潔い登山道と言えなくもないです。

お城は大変素晴らしいです。郭は大きく見て3つでしょか、主郭部から南側尾根は四重堀切+堀切1条でぶった斬り、北東側尾根は二重堀切+堀切2条でぶった斬り、特に北東側尾根の二重堀切はとても登れないレベルです。主郭部には土塁の他、石積みが所々切岸にデコレートされ、主郭部の東側には虎口を形成していたと推測される石積みなんかも確認出来ます。

お城の存する女神岳は古城(ふるじょう)が存する夫神岳(雨乞いの儀式、岳の幟で知られる。上田原、塩田平は降雪量も少なく全国有数の少雨乾燥地帯です。)と対のお山になっています。既婚者は片方だけ行くとお山がざわつくらしいので注意しましょう。信濃最古の温泉である別所温泉に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年02月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
峯小屋城[塩田城  周辺城郭]



峯小屋城は塩田城の南西約1.7km、標高1266.4mの独鈷山山頂に主郭が存します。北麓からの比高は650m位でしょか。

行き方は独鈷山で検索して下さい。腐るほど情報が溢れています。というのも独鈷山は全国100低山にも選ばれている有名なお山、通年で多くの登山者が訪れていて、自分が登った際にも2名の登山者とすれ違いました。

登城の際の注意点はお城廻り気分で行かない事です。独鈷山系の山塊はまんが日本昔話で描かれる様な山容で、岩盤層がメインの高低差を伴う登山道は危険がいっぱい。自分が登りに使ったルートは最も安全と思われる西前山ルートですが、それでも怖いと感じる場所が幾つかありました。ちなみにこのルートは鉄城山ルートというのに分岐しますが、間違っても変な気を起こしてこっちに進まないで下さい。垂直の岩盤と岩場の痩せ尾根が露出する上級者ルートです。低山とはいえ滑落死亡事故も起きる山だという事を忘れないように。

今回自分の大失敗はスノースパイクを忘れた事です。情報では必要無いと聞いていたからですが、たしかに雪は少ない反面、溶けた雪が凍結していて逆に危ない。結局ルートを外れて凍結していない雪の斜面を直登する事が多くなり無駄な体力を消耗しました。余計なお世話かもしれませんが、積雪斜面の直登は最初から四足歩行の動物の様に登った方が早いと思います。

帰りは穴場の狼煙台山城を目指して平井寺ルートを選択、ところが分岐となる尾根を見付けられずにそのまま下山しました。このルートは独鈷山へ登る最短ルートなんですが、最短だけあって最初から厳しい登山道でして下山に使うと大変危ない。一箇所絶壁の上をカーブする凍結した登山道を歩かされる場所があったんですが、虎ロープが谷側に緩く低い位置に張ってあるだけで支点は疎か掴む気にもなれない。身を委ねるものが何もないので、結局は道を外れて尾根筋に登りそこからこの難所をやり過ごしました。登山道が安全だとは限らない、自分の力量と装備を考えて判断するのも必要だなと思い知らされました。又、落葉の堆積が酷いこともあり、季節を問わず厳しいルートだと思います。

お城は…展望が素晴らしいです。一段西側に下がった所に小屋掛け出来そうな平場(峰に小屋があったから峯小屋城…?)がありますが…まぁ何ていうか山の頂上です。お城的にはマニア向け。

2021年01月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
水の手城[塩田城  周辺城郭]



水の手城の続きなり。

お城は4つの区画の内、難関のA地区からB地区へのトラバースをやり抜けばC、D地区を廻ることにさして苦労はありません。あるとすればC地区(主郭)南側の急坂ぐらいでしょか。

B地区には堡塁が2つあり竪堀なんかもあるようですが確認出来ませんでした。B地区とC地区の間には谷筋を埋めるように削平された段々地形が見られ、この一部にお城の名前の由来でもある水の手があるらしいのですが雪が綺麗に残ってて探索は断念しました。C地区は主郭部で結構広い削平地なのでびっくりします。主郭南側の斜面には石積みなんかも確認出来ますね。D地区は郭に土壇があるだけの簡素な造りで防御的な意図は薄い感じです。

お城の見所は主郭西側山側背後の岩盤切削の二重堀切でしょうか、こんな山の中でひたすら岩を削らされる当人を思うと涙が溢れます。このお山は基本的に岩盤層がメインで表土はたぶん堆積土でしょう。

さてもう帰ろうよ…今度は行きに味わった苦労が逆向きになって襲って来ます。自分は4回尻餅を付いて滑り落ち、2回は木に衝突し肩と前腕を強打したりしました。

誰も行かないとは思いますが、帰る時にお城のあるお山を振り返って全景写真を一枚記念に撮って下さい。そこに山城が無ければ絶対に立ち入らない場所に自分がさっきまで居た事に驚愕するでしょう(あの絶壁の上で遊んでたのだ…)。特に冬の時期は山肌が露わになって自分の辿った軌跡がよく判ります。ちなみに自分は撮り忘れました。

将来的に行けなくなるお城に今のうちに行っておこうというのが今冬の目標の核心です。誰にとっても二度目は無いお城でしょう。心残りがあるかと問われればありますが、それでも自分が今後行く事は決して無いでしょう。

2021年01月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
水の手城[塩田城  周辺城郭]



水の手城は塩田城の南東約3.5km、標高1034mの富士嶽山から東方へ延びる山塊尾根上、標高約900mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は330m位でしょか。

このお城、ネットで検索しても実に紹介例の少ないお城です。理由は登城が困難な事が周知?されている事とこのお城に苦労を重ねてまで訪ねるという山城好きの目標にもならない事でしょか。

今冬の個人的目標、「信濃の難城をリア攻めする。」に忠実に従い迷いも無く登り始めましたが、登城路が無いことはやっぱり大きな負担になります。道案内は雪に残された鹿の足跡…確実に主郭まで連れてってくれますが、鹿じゃないと行けない場所もありますので怒らないであげて下さいまし。ちなみに何で雪の降るこの時期に行くのかというと、自分にとっては熊さんの方が遥かに恐ろしい代物だからです。大体相手があることでどうなるか想像も付かないしね。

お城の簡単な説明を…築城者、築城年代は不明ですwお城の名前は後付けなんでしょか、城域内に結構な水の手を内包していたのがその理由らしいですが、雪で埋もれて探してもないので知らんがな…信濃のお城の神はこの水の手城をA〜D地区の4つのパートに分けて解説してます。お城は東西に奥が深く不安な気持ちにも十分させてくれたりもします。

行き方はGoogleマップに位置登録されているセブンイレブン丸子和子店を目標に設定して下さい。此処から北方へ延びる道を350m位進むと配水施設にぶつかり、施設左手の獣柵ゲートから踏み跡が途中まで付いてます。後は倒木、枯れ藪の尾根筋をひたすら比高約210m分を直登すればA地区の段郭にぶつかります。が、平均斜度45°の急坂で早速人間である事を忘れて手を使い始めることでしょう。

登城最大の問題点はA地区からB地区への移動です。尾根は断崖の岩場となり自然地形とされる堀切様地形を経て絶壁となり、この絶壁の上にB地区があるからです。はっきり言って誰も尾根筋を進めないので、尾根北側の急斜面を長くトラバースし更にB地区東側の急崖をトラバースする必要があります。急崖では崩落石が多く、これが全く信用出来ないのできっと神経を磨り減らすことになるでしょう。

続く…

※写真はB地区までのものです。断崖の岩場の堀切様地形は自然地形とされています。

2019年12月25日 源山城守@ポンコ2…
塩田城



ナビを前山寺に設定して走り、寺に着いたらその先(西側)の龍光院方向に進むと、塩田城跡の石碑前に。
前山寺から先には「塩田城」を指す標識があるので、それに素直に従えばよいかと。
石碑前は車が停めれるスペースがありました。この道などは空堀跡とのことでした。

石碑から弘法山奥に進むと、東西の両側は尾根になっており、谷に築かれたのがわかりわかりました。
この東西の尾根には砦があったようですが、冬の早朝で曇天と薄暗かったので、今回はパスしてます。
また、前山寺側と塩田城との間に沢があり、前山寺南側(山側)の墓地に上がって沢を見てみましたが、ここからの侵入は厳しそうでした。
石碑から中腹の三島神社まではほぼ直線、三島神社から上に進むと、石塁がある虎口がフックしながらありました。
その先には高さ数㍍の切岸があり、この上が本郭です。
また登城道の両サイドは、斜面に沿って数段の郭になってるようでした。
鎌倉時代は信州の鎌倉と呼ばれるほど、学問など栄えてたとのことですが、前山寺など寺院から少し感じられた気がします。

一気に攻め上がれる構造は単純でしたが、長野県最大級の中世城郭でまとまった兵の駐屯地と思えば、そこそこ収容できる規模かと納得できました。
比高は300㍍あるものの、がっつりした食い違いや堀切織り交ぜの山城が好みだと、期待に添えないかもしれません。

また、12月に登城しましたが、道中に「松茸」の幟を複数確認しましたので、先人の方仰るように秋のシーズンはやめといたほうがよさそうでした。



2018年03月23日 安田大蔵卿秀俊
塩田城

・墓所情報・
塩田城の主郭に塩田北条氏2代目 北条国時の墓。
近隣に塩田北条氏の菩提寺 龍光院→塩田北条氏初代 北条義政の墓、塩田北条氏追善供養塔。
塩田城に行く際は、塩田平を信州の鎌倉に発展させた塩田北条氏を訪ねてみるのはいかがでしょうか。

2015年05月10日 日高守きこりん
塩田城

城跡一帯は松茸山(留山)で、秋は要注意です。秋季立入り禁止を謳う張り紙とテープが歩道沿いにずっとあります。
罰金30万とか恐ろしげなことも書いてあります。歩道から外れなければいいんだと思いますが…
葛尾城も同様です。

2012年07月15日 北川幸人
塩田城

想定外でしたが、麓であじさい祭りが、行われていました、残念ながら満開とはいかなく五分咲でした。そっちの方にも興味のあるなら、うまく時期をあわせて訪れればいいでしょう。

塩田城の周辺スポット情報

 北条国時墓(遺構・復元物)

 水の手城(周辺城郭)

 峯小屋城(周辺城郭)

 女神山城(周辺城郭)

 立石原の狼煙台(周辺城郭)

 西内真田屋敷(御殿屋敷)(周辺城郭)

 内堀城(周辺城郭)

 霊泉寺城(周辺城郭)

 吉沢城(周辺城郭)

 馬伏小屋城(周辺城郭)

 霊泉寺城山砦(周辺城郭)

 塩田館(中屋敷)(周辺城郭)

 塩田館(城村)(周辺城郭)

 古安曽の御所畑館(周辺城郭)

 手塚館(大城)(周辺城郭)

 穴場の狼煙台(周辺城郭)

 五加山城(海部野城)(周辺城郭)

 砂原峠旗塚(周辺城郭)

 馬伏城(馬伏小屋城)(周辺城郭)

 駒形城(周辺城郭)

 吉沢城(周辺城郭)

 摂社 諏訪神社(寺社・史跡)

 北条義政の墓(塩田北条氏初代)(寺社・史跡)

 龍光院(寺社・史跡)

 生島足島神社(寺社・史跡)

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