葛尾城(かつらおじょう)

葛尾城の基本情報

通称・別名

村上氏城館

所在地

長野県埴科郡坂城町坂城1148他

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

不明

築城主

村上氏

築城年

南北朝時代後期

主な改修者

武田氏、森氏

主な城主

村上氏、武田氏、真田氏、森氏

廃城年

遺構

曲輪、石垣、土塁、堀切、竪堀

指定文化財

県史跡(村上氏城館跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

荒砥城(長野県千曲市)[3.4km]
屋代城(長野県千曲市)[7.6km]
松田家館(長野県千曲市)[8.1km]
上田城(長野県上田市)[10.0km]
岡城(長野県上田市)[10.3km]
松代城(長野県長野市)[10.5km]
横田城(長野県長野市)[11.4km]
麻績城(長野県東筑摩郡)[11.6km]
尼厳城(長野県長野市)[11.9km]
横尾城(長野県上田市)[11.9km]

葛尾城の解説文



葛尾城(かつらおじょう)は、信濃国埴科郡葛尾[1](現・長野県埴科郡坂城町)にあった日本の城。山城。

概要 

戦国時代、北信で最大の勢力を誇った村上氏の居城であった。近辺に氏族の支城や砦の跡がいくつもある。

天文年間、小県郡の村上義清は甲斐国の武田晴信(信玄)が開始した信濃侵攻に対抗し、上田原の戦いと砥石崩れと2度もの南面からの武田軍の攻撃を破った。しかし、天文22年(1553年)葛尾城は村上氏の背部を支える北に位置する支族の屋代氏や雨宮氏、塩崎氏らが武田方の真田幸隆らの調略により離反し、背後の戸倉方面からの攻撃を受けることによって自落した。義清は、それまで仇敵の間柄であった高梨氏の仲介を得て越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びた。これが12年にわたり5度に及ぶ川中島の戦いのきっかけになった。この年は葛尾城の裾を洗う千曲川に大洪水(江戸時代には64回の洪水が記録され4〜5年に1回の割合で被災していた勘定)があったと伝えられるが戦況にどのような影響があったかは不明である。

半月後には救援を得て奪還はするが再びこの城の主として返り咲くことはなかった。そして地域の大半の武士は大勢になびいて村上から武田へ、武田から再び村上方へ、またもや武田方へそして上杉方へと主を変えることになる。村上義清は上杉氏から永禄8年(1565年)に姫川流域の信越国境を警備する根知城を宛がわれ元亀3年(1572年)に終焉を迎えたとされる。

慶長5年(1600年)関ヶ原へ進軍中の徳川秀忠が途中の小諸城を拠点にして上田城を攻撃したが上洛命令により撤退した。その後も徳川方の海津城将森忠政は葛尾城代井戸宇右衛門配下の兵を葛尾城や地蔵峠付近に置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して上田城から9月18日と23日の2度に渡って真田信繁(幸村)が出撃して夜討と朝駆けの攻撃を加えた。記録に残るこの城の最後の戦闘とされているが忠政と不仲であった宇右衛門は門を開いて真田軍を城内に入れ二の丸まで迫られたと言う。

それまでの間にも村上氏による、この城の奪回戦や真田氏による上田築城への上杉景勝による牽制の拠点でもあった筈だが、それらの際にこの城がどのように使用され改修されたのか、どのような戦況であったかを示す記録は確かめられていない。

居館跡(満泉寺) 

平時の居館跡は、現在は満泉寺が建立されている。村上義清の子・村上国清(山浦景国)が天正10年(1582年)、上杉景勝領有の時代、海津城の城代を務めたときに建立した。

その他、城下には村上義清の墓がある。

笄の渡し 

伝説では葛尾城の落城の際、奥方は義清と別れ、ばらばらに落ち延びることになった。千曲川の対岸の力石に渡る際に奥方は、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭の心に打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡した。

義清夫人を偲んでそれ以降はその渡し場を「笄の渡し」と呼ばれるようになったとされる。しかし、葛尾城の麓の千曲川沿いは高い崖が連なっていたことから「高崖(コウガイ)」と言われていたと伝えられる。また、この時代には崖下の浅瀬を選んで渡渉し、船渡しはまだなかったと考えられる。更には女性が髪を高く結うのは江戸時代になってからのことであり、この時代の女性が笄を髪にさす生活習慣はなかったとの説があって「コウガイ」にこじつけた江戸時代以降の創作と見るむきもある。また結末は無事に越後(高梨氏の本拠地である中野とも言われる)に逃げ延びたとも敵に発見されて自害した、あるいは敵の手にかかって惨殺されたとも様々に語られている。そして話によっては船頭を落人の弱みに付け込み法外な酒手を要求する悪者として描き、奥方は泣く泣く要求に応じたのだ、とする筋書きもある。この奥方は名を「於フ子」と言い高梨氏の娘から村上氏の側室となっていたとされる。

参考文献 

  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書3』 1993年
  • 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年

葛尾城の口コミ情報

2022年12月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
村上氏満泉寺館[葛尾城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

村上氏満泉寺館は葛尾城の南東約1.0km、日名沢川北岸(右岸)、標高約415mの山間部台地上平場に存した居館です。村上氏の要害である葛尾城の南東麓であり、名称にある満泉寺は武田氏滅亡後、かつての居館跡に村上義清の子、山浦景国が再建したんだそう。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車も余裕で捨てられます。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは清和源氏頼清流村上氏です。同氏が千曲川南岸(左岸)の村上郷から千曲川北岸(右岸)の坂城郷へ本拠を移した時代は不明だが、市河家文書中の「建武二年(西暦1335年)九月二十三日、市河経助軍忠状」には「…薩摩刑部左衛門入道坂木北条に城郭(葛尾城の前身かもしれない。)を相構ふの処、先代(北条高時)与力の仁等多く彼の城に楯て籠るの間、当国惣大将軍村上源蔵人殿(信貞)御発向の刻、最前に御方に馳せ参じ、経助大手として合戦の忠を致し、彼の城を責め落とし、…」とある。嘉暦四年(西暦1329年)、執権北条高時が定めた諏訪社上社の御頭結番下知状には七番五月会分に、「左頭坂木南条 薩摩十郎左衛門尉跡(十郎左衛門は曾我兄弟の仇討ちで有名な工藤祐経の孫である。)」とあり、中先代の乱において北条時行に与した薩摩刑部左衛門等(工藤二階堂系図には工藤祐氏を坂木北条八郎とし、その弟、祐広を坂木南条十郎とする。北条の範囲は不明だが、南条は現在のテクノさかき駅周辺である。)北条氏残党を京から下向した村上信貞が信濃惣大将の名目で討伐した事が判る。村上氏が坂城郷を本拠とするのは何れにせよ建武二年以降の話であり、南北朝の末、元中年間(西暦1384年〜1391年)の頃だと推測されている。

居館の現況は住宅地の一部で、耕作地、空地、寺院とその敷地、一般住宅とその敷地等となっている。敷地範囲内には所々で水路が巡っているけど往時の堀跡を踏襲しているんだろうか。「蔵屋敷」、「厩屋」、「御堀橋」、「栗田屋敷」、「桜馬場」、「下長屋」の字地名が該地には残る。

村上義清の町である坂城町だけど、少なくとも鎌倉時代の一時期においては薩摩(工藤)氏が地頭職であった訳だ。同氏が御内人、得宗被官として北条氏に仕えた故だろう。

2022年12月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
村上氏島館[葛尾城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

村上氏島館は葛尾城の南西約3.3km、標高約424mの山間部台地緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「ともいきライフ月影」を目標に設定して下さい。該地は概ねでこの社会福祉センター西側の一帯です。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは清和源氏頼清流村上氏です。村上氏の発祥は院政期にまで遡り、頼清の子、仲宗、その子、惟清は白河上皇に仕え摂関家にも接近する等、都での活躍が見られる。が、寛治八年(西暦1094年)、惟清の白河上皇を呪詛した罪により一門は流罪となり、惟清の弟である盛清は信濃国更級郡村上御厨に流され、当地に本拠を構えて村上氏を称しました。盛清は惟清の後嗣に入り村上氏の嫡流となり、盛清の後を継いだ為国の代には子息等を更級郡の各所に配してその勢力を拡大させました。入山氏、屋代氏、出浦氏、小野沢氏、山田氏、今里氏、栗田氏、千田氏等は皆この流れである。

居館の現況は集落の一部で、耕作地、果樹園、一般住宅とその敷地等となっています。信濃のお城の神は長野県町村誌に掲載された絵図から敷地範囲を比定している。該地は盛清が配流された際の居館跡とする説が古くからあるんだそう。

白河上皇が亡くなると村上氏は都での復権を果たす。為国は崇徳上皇に仕えた他、その子息等、泰遠は崇徳院判官代、基国は高陽院判官代、八条院蔵人、惟国は上西門院判官代、後白河院非蔵人、成国は高松院蔵人、宗実は北白川院蔵人等、京での出仕が確認出来る。院政期の村上氏は正に京武者で都との密接な繋がりを築き上げていた。そしてこの繋がりが少なくとも承久の乱までの同氏に多大な影響を及ぼしていく事になる。

※写真1枚目、背景のお山が同じ葛尾城のリア攻めマップにある出浦城(自在山烽火台)っす。比高約400m、見た目程簡単には登れない。写真3枚目には葛尾城、姫城の遠景が千曲川対岸に見える。

2022年12月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
村上義清公墓所(供養塔)[葛尾城  寺社・史跡]



村上義清公墓所(供養塔)は葛尾城の南東約1.9km、標高約404mの河岸台地上平場に存する墓所です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。田町十王堂の裏手が該地となります。

村上義清は没すると新潟県糸魚川市根小屋の安福寺に埋葬されたそうですが、こちらは明暦三年(西暦1657年)、越後高田藩の所領、坂木五千石の代官となった長谷川安左衛門利次が建立した村上義清の供養塔で、分骨された義清の遺骨が納められているんだそう。利次は坂木(坂城)の名族の遺跡が失われていく事を憂えて、義清の玄孫、義豊や村上氏旧臣だった出浦氏の後裔、正左衛門清重等に図り自ら施主となって頑張ったらしいっす。

義清は信濃において東信、北信を中心に支配領域を拡大した村上氏最盛期の当主、ファンも多いと思うんだけど、武田晴信に二度も苦杯を舐めさせた武勇に数少ない郷土の英雄像を求めるんだろう。人気の高い義清だが、実は今に伝わる事跡の大半(上田原の戦い・砥石城の戦い・川中島の戦い等)は甲陽軍鑑を元にしている。後年、義清の曾孫によって編纂されたとされる「村上家伝」すらこの軍艦に頼っている有様で、軍艦の信憑性は全く確かなものとは言えない事から義清の事跡を正確に語る事は今となっては不可能である。

義清の事跡が断片すら探し出せないのはその書状、発給文書の少なさにあり、現存する物は2通しか確認出来ないらしい。村上氏の信濃退去によって亡失したとも考えられるけど、発給文書に関しては受手側の物も残っていない事から文書による支配体制、領国経営の担保は存在しなかったとの推測さえ成り立つ。

後世の人達が持つ村上義清のイメージは甲陽軍鑑が全てだ。武勇に秀でた事は否定されないが、武田氏に忖度させられた義清は実在しない合戦に出陣していたり負けを演出させられたりもする。武田氏の用務日誌を元にしたとされる高白斎記の記述が最も信頼がおけるのは皮肉なところだ。

※該地は城めぐでも廻国異能の者として馴染みの深い出浦盛清の出自である出浦氏の墓所でもある。不明な同氏の居館跡だが、周辺はこれに比定されるのかもしれない。

2022年12月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
福沢氏館[葛尾城  周辺城郭]



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福沢氏館は葛尾城の南西約3.6km、福沢川東岸(右岸)、標高約426mの山間部台地緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「びんぐしの里公園」を目標に設定して下さい。車を堂々と捨てたら後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは村上氏の一族と推測される福沢氏です。諏訪御符札之古書には文安五年(西暦1448年)、「塩田御射山御符札…福沢入道像何…」とあり、その後も御射山祭の頭役として、享徳三年(西暦1454年)、「塩田庄代官福沢入道儀何」、長禄三年(西暦1459年)、「左頭塩田庄福沢入道沙弥像阿」、寛正三年(西暦1459年)、「左頭塩田庄福沢入道沙弥像阿」、応仁三年(西暦1469年)、「左頭塩田庄代官福沢左馬助信胤代」、文明六年(西暦1474年)、「上増塩田庄村上知行代官福沢左馬助信胤」、文明十一年(西暦1479年)、「左頭塩田庄村上兵部少輔政清御知行代官福沢五郎清胤」、文明十六年(西暦1484年)、「左頭塩田庄村上福沢入道沙弥頭賢」、長享三年(西暦1489年)、「右頭塩田庄…村上福沢左馬助政胤」とあり、代々この時期、村上氏宗家の知行地であった塩田庄の代官であった事が判る。又、高野山蓮華院文書の宿坊契約状、伊勢神宮寄進状に福沢昌景、福沢修理亮顕昌の名が確認出来るんだそう。

居館の現況は集落の一部で、耕作地、一般住宅とその敷地等となっています。信濃のお城の神は地元住民への聞き込みによってその敷地範囲を比定している。河岸より一段高く居館が存した雰囲気は充分だと思うけど、そもそも論で周辺はそれっぽい地形が連続する。

一万円札の肖像である福沢諭吉は自らのルーツに淡白だったけど先祖は信濃を出自とするらしい。候補地は11箇所に及ぶが有力なのは更科郡村上村網掛福澤(現坂城町)と諏訪郡豊平村福澤(現茅野市)で、前者が福沢氏館の該地となる。ちなみにおいらは全国各地に散らばる一万円札の熱狂的コレクターなのでくれてやってもよいよて方は伝言して下さ…(´・∀・`)

※アプリ登録城である塩田城の遺構はこの福沢氏代官時代のものが殆どだと推測されている。

2022年12月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
構屋敷(釜屋のタテ)[葛尾城  周辺城郭]



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構屋敷(釜屋のタテ)は葛尾城の西南約3.1km、女沢川南岸(右岸)、標高約433mの山間部台地緩斜面上平場に存したと推測される居館です。比定地の南側には寺沢の流れがあり、広く見れば標高1204mの八頭山の北東裾野である。

行き方はGoogleマップに位置登録されている真言宗智山派の寺院、知識寺を目標に設定して下さい。比定地とはなりますがこのお寺さんとその周辺が概ねの該地です。

築かれた年代、お住まいになられていた方はとりま不明です。上山田町誌では坂口氏の名を挙げているが同誌では別に、この地は山田氏の所領するところで、地頭山田氏が五反田の平坦地より奈良時代の官道、波閇科(はべしな)峠道に沿ってこの地に居館し「たで」の地名が残ったとも言っている。坂口氏は不明だが山田氏については荒砥城のリア攻めマップにある山田氏館を参照して下さい。ちなみに波閇科峠は冠着山(姥捨山)と八頭山の合間にあり、冠着山南麓を西行すれば筑摩郡へ抜ける事が出来る。

上山田町誌によれば、「館址は大御堂(知識寺)境内の東下一帯を想定する。」としているので、現在の知識寺本堂、これに隣接する知識の社公園とその周辺て事になる。従ってお寺さんと公園て事以外は何も見出せないので居館なんてどうでもよくなるぐらい素晴らしい知識寺の大御堂を見れればいいんじゃないかなと思います。

元々神社仏閣に興味が無いので知らんかったけど、知識寺て歴史ある素晴らしいお寺さんなんす。創建は天平十二年(西暦740年)、伝承では聖武天皇の勅願で冠着山の麓に建立したのが始まりとか。大同二年(西暦870年)には坂上田村麻呂が堂宇を改修したとする伝承が残り、建久九年(西暦1209年)には源頼朝が七堂伽藍を建立し仁王像を寄進したんだとか。大御堂は天文十年(西暦1541年)の建立とされ、幾度かの改修を受けながら今にその姿を留めます。仁王門も室町時代後期の建立、白洲正子が絶賛した十一面観音立像は重要文化財の指定を受けています。おいらは紅葉の時期を逃したけれど紫陽花では少し名の知れたお寺さんらしい。二人の征夷大将軍が関係したかもしれない古刹、リアルで征夷大将軍を目指している方は足を運んでみるのもいいさ。

2022年11月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
丸山城(小丸山)[葛尾城  周辺城郭]



丸山城(小丸山)は葛尾城の西方約2.5km、女沢川北岸(左岸)、標高415.7mの河岸台地東縁端部上丘陵頂部に主郭が存します。東麓の長野県道55号線、大町麻績インター千曲線からの比高は30m位でしょか。ちなみにお城の存する小丸山は完全無欠の独立丘陵、戸倉上山田温泉の外れ、ぽこりんと可愛い小山です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている稲荷神社を目標に設定して下さい。概ねでこの小社の鎮座する丘陵全てが城域です。

築城年代、築城者は不明です。同じ葛尾城のリア攻めマップにある安藤氏館(御屋敷)の口コミでも書きましたが、新山村誌では安坂の城主、安藤加賀守の下屋敷が入山にあり、同じ葛尾城のリア攻めマップにある入山城、丸山城(小丸山)を持分とし、住吉神社を氏神とし、後年丸山城南麓に移り子孫今日に至るとしている。坂井村誌では天文年間(西暦1532年〜1555年)に武田勢に安坂城を攻められ、城主の安坂氏は麻績氏(服部氏系て事になる。)と共に越後に逃れ、その後は青柳城城主、青柳清長の義弟、安藤加賀守が安坂城の城主となる。天正十五年(西暦1587年)、青柳氏当主、青柳(麻績)頼長は小笠原貞慶によって松本城において誘殺され同年青柳氏は滅亡するが、青柳城落城の際に安藤加賀守は塩崎に逃れたとある。

塩崎に逃れた安藤加賀守が当地に入った経緯は不明だが信濃のお城の神は屋代氏との関係を問題にしている。が、坂井村誌の記述を信ずるならば、屋代氏は天正十二年(西暦1584年)四月には上杉氏から離反、居城の荒砥城を失っているので、むしろ当時、犀川、千曲川流域の経略を一任されていた上杉氏被官、島津忠直との関係が指摘されるだろう。

お城は城域内が墓地となっている他、稲荷社が鎮座し中央公民館が建っている。本当に可愛い小山なんだけど荒砥城周辺を守るならば絶対に無視出来ない独立丘陵、地形図を鑑みれば往時は千曲川に面していたかもしれない。墓地なんかは腰郭をそのまま活用しているような趣きさえ漂う。又、主郭には半鐘付きの櫓が建っているので周辺住民に何かを知らせたりする適地だったのは間違いの無いところ…

別件を目標に車走らせてた時、何か砦っぽいなぁ…とか思ってた小山がこのお城でした。当日の目標の一つでもあったんだけど情熱が無いと訪ねる気にはなれないのも事実、マニア向けではありますね。

2022年11月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
横山氏館[葛尾城  周辺城郭]



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横山氏館は葛尾城の南西約2.9km、標高約421mの山間部台地緩斜面上平場に存したと推測される居館です。山間部のほぼ中央には北東へ向けて寄合沢が流れ、敷地の西辺は概ねでこの寄合沢に沿って展開する。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南西側の山木園を目標に設定して下さい。この造園業社から舗装道路を挟んだ北東側の一帯が概ねの該地です。ちなみに同じ葛尾城のリア攻めマップにある寄合氏館とは舗装道路を挟んだお隣さんでもあります。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは横山氏です。信濃の山城と館2、更埴・長野編では寄合氏館と一項に纏められて記載があります。位置関係からか横山氏は村上氏の庶流、寄合氏の分流と推測されています。が、長きに渡る更級郡における村上氏の流れを体系的に語る事すら殆ど不可能だし、ましてや早い時期から派生、発展していった多くの一族の事となればそれを一元的、単純に語る事は尚更である。鎌倉幕府時代の村上氏(吾妻鏡から突如としてその名が消える。)ですらwikiの記述も曖昧で多くの憶測を含む(例として…「鎌倉時代末期の村上氏当主村上信泰は、祖先が承久の乱に参陣しなかった事が響いて、幕府内では忘れられた存在であったとされる。歴代の村上氏は鎌倉幕府に恩顧の意識はなく、逆にその勢力を認めない幕府に不満を募らせていたと思われる。」…実際は承久の乱以降も鎌倉幕府の御家人としての活動が多岐に渡って確認される。吾妻鏡から村上氏の名が消えるのは鎌倉幕府の中枢から外れた事のみを意味する。)。同時代における村上氏については「信濃村上氏フォーラム〜ふるさとの村上氏をめぐって〜」の中に詳しいので村上義清ファンは参照するがいいさ、ネットで拾えます。

居館の現況は果樹園、空地、一般住宅とその敷地等となっています。が、縄張図を見ると「横山氏館推定地」とあるので信濃のお城の神が導き出した比定地て事になる。今は誰がお住まいなってるのかなとか思って表札を確認しよとしたけど何処にも見当たらない。突撃お宅訪問も今回は無し。

ここ最近は地方史の沼にどっぶり浸かりまくる毎日、脱出出来ません。美少年として今まで美容とファッションの事しか興味が無かったおいらですが、新たな勉強の機会を与えてくれる居館廻りが今では大好きに。

2022年11月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
寄合氏館[葛尾城  周辺城郭]



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寄合氏館は葛尾城の南西約2.8km、標高約412mの山間部台地緩斜面上平場に存したと推測される居館です。山間部のほぼ中央には北東へ向けて寄合沢が流れ、敷地の西辺は概ねでこの寄合沢に沿って展開する。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西側の中島農園を目標に設定して下さい。この農園から舗装道路を挟んだ東側の一帯が概ねの該地です。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは寄合氏です。長野県町村誌には「本村(新山村)午未(南南西)の方八町(864m)にあり。一平地にして寄合と名く。村上氏の支流、二郎惟信居住し、地名により氏を寄合氏と称す。其男小次郎時資、其孫次郎時直相襲す。後事跡不詳。」とある。尊卑分脈における村上氏の系図では為国の三男、信次の嫡男に惟信があり、二男五郎基輔は入山を分知され入山氏を称している。ちなみにこの系図を信ずるならば入山氏を寄合氏の分流とするのは誤りで、信次が二人の子それぞれに所領を分知したて事になる。又、惟信、時資、時直の名は見付かるが、どの村上氏の系図を見ても寄合の「よ」の字も出てこない。現在日本に寄合姓を名乗る方は60人程度、長野県には1人もおらず大方は沖縄県在住と見られるのも気になるところ…

上山田町誌には「寄合沢川と横山沢川との間、広平の地、段丘の東端なる鈴の宮(不明)の裏にある。」とある。天文二十三年(西暦1553年)四月九日の葛尾城自落の際、村上氏に従っていた楽厳寺駿河守光氏は城を出て鈴の宮に隠れた後に塩田城に入った(楽厳寺家記)とあるが、これは寄合氏、寄合氏の分流とされる横山氏を頼っての行動だったと推測されている。

居館の現況は果樹園、空地、一般住宅とその敷地等となっています。が、信濃のお城の神が上記史料等から導き出した比定地て事にはなる。現在一帯は先祖が村上氏の被官だったと伝わる古畑さんの所有地だけど寄合氏と関連があるのかは不明、遺構かどうかは知らんけど、石組みの井戸跡が敷地の東北隅に残っている。

果樹園の多いこの地域、この季節のリア攻めは相当なプレッシャーを受ける。丁度林檎の収穫時期でもあり疑われないようにと手ぶらで写真だけを撮る訳だが、そもそも論で果樹園の写真を撮ってる時点で怪しさ満点、農家の方達の視線が痛かったっす。

2022年11月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
安藤氏館(御屋敷)[葛尾城  周辺城郭]



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安藤氏館(御屋敷)は葛尾城の西南約2.9km、女沢川東岸(右岸)、日影沢西岸(左岸)、標高約428mの山間部台地緩斜面上平場に存した居館です。女沢川と日影沢の間には安藤沢と呼ばれる小沢も流れていますが、敷地の西辺は概ねでこの安藤沢に沿って展開する。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…敷地の範囲は結構広いので該地の特定には時間を要する。

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方は安藤氏です。長野県町村誌には「源頼信五代の孫、安藤太郎長基居住せしと云ふ。其男高松院蔵人成基、其男兵庫介基重、其男業基あり。其後世水戸藩士たり。」とある。他にも諸説あるらしいのだが、単純に言えば清和源氏村上氏流の安藤氏で、安藤氏が此処に居していた事から安藤の地名が付いたんだそう。高松院蔵人は高松院の家人を意味するから在京だったのかもしれんけど。

居館の現況は耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっています。前述のとおり敷地の範囲は広大、且つ周囲よりも一段高くなっていて、安藤沢の流れが往時と変わらないとするならばそれなりの要害地形を今も保っている。

新山村誌では安坂の城主、安藤加賀守の下屋敷とし、同じ葛尾城のリア攻めマップにある入山城、荒砥城のリア攻めマップにある丸山城(小丸山)を持分とし、住吉神社を氏神とし、後年丸山城南麓に移り子孫今日に至るとしている。該地は入山城の直下、北西麓でもあり、住吉神社の旧跡が至近に存するそうなのでこの説も正しいように思える。

同じ葛尾城のリア攻めマップにある入山氏館(太郎様)の敷地には「太郎様」の字地名が残る。何となくだけど、この太郎は安藤太郎長基の事なんじゃないのか。長野県町村誌では入山氏の祖、基輔を太郎基輔(系図上は五郎っす。)としているが、基輔は二男とされているので太郎とは呼ばれない(やっぱし普通に次郎だろう…)筈、考えれば考えるだけ疑問が湧いて来る…そう、地方史の沼ってやつですわ。

2022年11月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
漆原の大下館[葛尾城  周辺城郭]



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漆原の大下館は葛尾城の西南約3.6km、女沢川東岸(右岸)、日影沢西岸(左岸)、標高約508mの山間部台地緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている漆原集落センターを目標に設定して下さい。この公共施設の北側一帯が概ねの該地です。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。史料、伝承等は不明であると信濃のお城の神も言っている。位置関係から推測すると入山氏に関係する者の居館だったんでしょか。入山氏については同じ葛尾城のリア攻めマップにある入山氏館(太郎様)を参照して下さい。

上山田町誌に新村の館址として「大下の館址」で記載があり、「漆原部落の南西(たぶん誤記、北東である。)入口で、富田条理法施行地の田端である。五反歩以上の稍平坦地、中に墓地あり、堂あり、接続地に祗園免田がある。地方豪族居館址と推定される。」とある。

居館の現況は耕作地、墓地、一般住宅とその敷地等となっています。敷地は概ねで二段、とっ散らかった印象で全体像を把握するのは困難、信濃のお城の神は「ここよりも南上のあたりの方が条件がよい。」て身も蓋も無い事言ってます。町誌は「大下」の字地名から該地を特定しているようだけど、この大下を下屋敷と解釈するのか集落の最下段と解釈するのかで話は違ってくるとも言っている。

自分は信者なので信濃のお城の神推し、漆原集落センターの建つ南上の適地が該地じゃないかと思いましたが、この口コミでは従わず縄張図の敷地範囲を踏襲します。水源地も至近にある事だしね。ちなみに同様な事例には度々遭遇する。周辺地形から此処が該地だと思ってたら、「えっ、嘘、あっちがそうなのっ?」みたいな感じ…現地で様々な疑問を抱いたとしても、「字地名の範囲はこれっ!」で全てが強制的に終了する。地方史、城郭史における字地名の持つパワーは限り無く半端ねぇのさ…

※写真3枚目、背景の山稜が同じ葛尾城のリア攻めマップにある入山城、コンパクトながら見所多い極めてコスパに優れたお城っす。

2022年11月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
入山氏館(太郎様)[葛尾城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

入山氏館(太郎様)は葛尾城の西南約4.3km、日影沢西岸(左岸)、標高約607mの山間部台地緩斜面上平場に存した居館です。周囲との比高差は無いが標高1204mの八頭山前衛山塊の北方裾野でもあり、荒砥城の主郭部より標高はやや高い事になる。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…該地の特定はすんなり出来たけど…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは入山氏です。長野県町村誌には「…寄合惟信の舎弟、太郎基輔居住し、地名を以て氏を入山と称す。其男次郎基村、小次郎惟基、三郎頼兼等あり。後事跡不詳。」とある。上山田町誌には「寄合二郎延時の二子六郎基輔村上郷荒山(新山)の入山に分知し入山氏を称し、入山地方を領した。」とある。又、同誌は下屋敷等の存在も伝えている。

入山氏は基輔の子、基時、その子実村、その子蔵人六郎信村に至って勢力を伸張させ埴科郡森村へ進出、村上氏の有力被官として発展する。入山に残った新山入山氏は同じ葛尾城のリア攻めマップにある入山城を要害としたが、村上氏の信濃退去に伴い落去したんだそうだけど…

…村上氏の一族である事は間違い無いと思われる。が、村上氏は承久の乱以降の事跡がはっきりしていない。世間一般に流布した系図も再考が必要で、町村誌、町誌の記述にも一次資料による裏付けは無く課題を残す。入山氏の系図上の初見は村上為国の三男、信次の二男、入山五郎基輔で、長野県町村誌の記述がこれに近い事になる。ちなみに為国の四男、安信の系統が後の村上義清に通じているが、建武の新政以降に本流となったその経緯さえはっきりしない。

居館の現況は耕作放棄地となっています。居館の敷地は農道によって南北に分断され、敷地の大部分は現在窪地となっています。何でなのかは知らんけど。ちなみに別称にあるとおり該地には「太郎様」て言う字地名が残ります。

この山間部において人の住まう場所としては最上段に当たると思います。居館の東辺直下を流れる日影沢の水は要害とされる入山城に堰路を用いて導水されていたとの伝承が残っていて、今も入山城には堰路の残滓と思われる土塁状の土の高まりを確認する事が出来ます。入山城は居館よりも低い標高にある要害て事になりますね

2022年11月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
岩崎城[葛尾城  周辺城郭]



岩崎城は葛尾城の西方約0.6km、葛尾城主郭が存する標高805m山塊山頂から西方へ延びる標高約590mの尾根上平場に主郭が存します。西麓の国道18号線からの比高は200m位でしょか。

行き方は当たり前だけど葛尾城主郭から西方尾根を下れば辿り着きます。が、岩崎城は葛尾城の搦手に位置するので単独での登城路が別に付いてます。岩崎城西麓の林堂寺の南側には登城路を示す標柱がちゃんと立っていますので岩崎城だけを目指すなら此処から尾根に取り付くのが吉、途中には比丘尼石ていう村上氏退去に伴う悲話伝説の残る奇岩を見る事も出来ます。ちなみに南西麓からも道が付いていて、分岐を岩崎城と逆に進めば葛尾城の根小屋とされる泉平を経て葛尾城のもう一つの支城、姫城に至る事が出来ます。

お城については葛尾城の支城なんで割愛、実は岩崎城は色んな意味で不遇なお城で、坂城町教育委員会作成の葛尾城跡案内図にも記載が無く完全に葛尾城の部分として扱われている…姫城はあるのにね。更に不遇なのは訪ねるのが面倒になる事が最大の理由なんだろう、葛尾城の主郭から姫城へ下り、登り返して主郭に戻り、岩崎城へと西方尾根を下るのが一般的な葛尾城詣だけど、たぶん坂城神社周辺に捨てた車の事とか考えたら多くの人はきっと諦めちゃう事でしょう(比高約380mの葛尾城さえ面倒、平均的な山城5城分位の体力を消耗するわ…)。ちなみに皆んな死ぬ様な思いをして登る葛尾城ですが、軽四駆で林道を進んで主郭からの北方尾根に取り付けば徒歩で登る比高は15m位、駐車場もしっかり付いてます。

自分も前述の理由からスルーしてきたお城です。色んな情報のみを閲覧して訪ねた気になってましたわ…見所は主郭西側の段郭、城域最西端に残る堀切+竪堀+竪土塁+土塁+土橋+虎口+帯状の腰郭の遺構集合体でしょか、城域全体は間延びした印象ですが此処だけは是非お願いしたいところ…特に南側へ落ちる長大な竪堀+山側竪土塁は凄いっす。

登城路からは村上氏時代において山田国政、吾妻清綱の要害であったアプリ登録城である荒砥城を眺める事が出来ます。千曲川流域に一族等を配し、その要害を葛尾城の前衛としての機能を持たせたのが村上氏であったが、これ等の失陥が逆に千曲川北岸に閉じ込められる結果となったのは現地に赴けば明白だ。堅城を誇った葛尾城の自落は当然の皮肉な結果だった訳だ。

2022年05月19日 しげしげ主税頭信繁
葛尾城



車で檄狭の林道を3km程進軍して登城口にたどり着きました。道幅は狭く横は崖で大きめの石がゴロゴロ点在してます、山側からは木の枝が出てますのでボディーに傷が着く可能性があり運転に自信が無い方、は林道はおススメ出来ません。登城口からはそれほどキツイ登りもなく20分程で主郭跡まで行けます。次回はふもとの坂城神社からチャレンジしたいです!

2022年01月09日 国府左京大夫城介
坂木宿 ふるさと歴史館[葛尾城  御城印]



坂城町にある3つのお城(葛尾城・出浦城・狐落城)の御城印が発売されています。1枚330円となっています。

2021年05月25日 つか征夷大将軍
駐車スペース[葛尾城  駐車場]

Uターンスペースも考えると3,4台が限度かと。ここまで来て停められないとショックはかなり大きいかな。道のりも大変なので休日は素直に歩きで登ったほうが良い気がします。

2021年05月25日 つか征夷大将軍
お城への林道入口[葛尾城  その他]

近くへの駐車スペースへはこちらから行けますが未舗装路でかなり狭く道の横はすぐ崖です。対向車とすれ違うスペースもかなり少ないので行く人は気を付けてください。普通車でも行けなくは無かったですが車高の低くない軽自動車が良いと思います。ここから3.5キロで20分弱そのような道を進みます。

2021年02月13日 eiki
虚空蔵山城[葛尾城  周辺城郭]



標識1078メートルの虚空蔵山頂に築かれていた城、上田市の南に聳える険しい岩山で戦国期に村上氏によって築城されました。虚空蔵山城というのは総称で亀井城、積城、高ツヤ城などで構成されています。堀切、曲輪などはっきりと確認できます。比高600メートルあり登山道はしっかりしていますが急登です。ここは、村上氏の領地の上田、塩田平、坂城を巡視できる重要軍事拠点だったとのことです。写真は本丸から上田盆地を俯瞰したものです。


2020年11月01日 ガルガリ「左衛門督」博士
葛尾城



坂城神社に車を停めて約1時間半ほどで主郭まで行かれます
途中、砂岩の岩場があり足元が滑りやすく危険な場所がありますので登山靴の方が安全です
山頂付近には二ノ丸、主郭、その向こうに10m近い大堀切り、さらに先に二段掘り切り、あと施工途中の掘切り跡や幅2m長さ10mほどの謎の石積みがあります
別ルートとで主郭近くに車の停められる駐車場もあるようです

2020年10月25日 観空
葛尾城



坂城神社裏からスタートしました。
途中尾根に出るコースを取り、主郭まで50分でした。
途中姫城への分岐がありますが、今回は時間の都合で行きませんでした。
細い尾根上の城郭で、連続した堀切、石積、主郭には土塁もあり、東屋にスタンプと芳名帳が置いてあります。
帰りは近道とされるコースを取りましたが、松茸山らしく、赤松林には立ち入り禁止のテープが張られていて景観が…
近道は30分でした。

2020年05月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
入山城[葛尾城  周辺城郭]



入山城は葛尾城の西南約2.9km、千曲川の南岸、標高1333mの大林山から北東へ延びる支尾根上、標高509mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は110m位でしょか。

行き方は北東麓にあるGoogleマップにも位置登録されている見性寺を目標に設定して下さい。このお寺さんの裏山が城山となります。見性寺の墓地の裏手に配水場へ抜ける舗装された林道が延びているので配水場まで進みましょう。此処から山側に尾根を登って行けばお城へ到達出来ます。

築城年代、築城者は不明なんですが、村上氏の庶流、寄合氏の分流、入山氏が推測されています。同氏は寄合延時の子、基輔が入山の地を分知され入山氏を称したとされ、後には村上氏の有力な被官衆として発展していきました。

お城は素晴らしいです。ブログ等で事前勉強してたんですが、何だかプアーな感じがしたんで余計にそう思いました。お城はコンパクトな縄張でほぼ一直線、ほぼ同一の高さで4つの郭が存し、それに腰郭が幾つか付いてます。主郭には土塁が付き、郭の一部には石積みも確認出来ます。郭間は非常に明瞭な堀切+竪堀でぶった斬り、竪堀は北側のみに長大となっています。それからお城には他では中々見れない遺構もありまして、城域の南西端、尾根の真ん中に土塁状の土の盛り上がりが30m位確認出来ます。これ堰路と呼ばれる用水を通すためのものらしく、変わった遺構の存在に萌えまくること間違い無し!文章だとあれなんですが、大きな流しそうめんを思い起こして頂ければ理解し易いかなw

帰りは別の道(途切れるけど踏み跡がある。)、城域東端にある腰郭から尾根伝いに下って戻りました。これを使うと林道の入口付近に再び出る事が出来ます。言い忘れましたが、行きの配水場付近にも浅いですが堀切が1条ぽつんとあります。配水場のある場所も元は郭だったかもしれません。

よい意味で期待を軽く上回ってくれるお城です。戸倉上山田温泉にお立ち寄りの際には是非訪ねてみて下さいまし。

2020年04月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
ケムリの城[葛尾城  周辺城郭]



ケムリの城は村上氏連珠砦の一つ、葛尾城の南東約6.3km、標高1077mの虚空蔵山の南中腹、南方へ延びる支尾根上、標高約795mのピークの一つに主郭が存します。南麓からの比高は375m位でしょか。

行き方は同じ葛尾城のリア攻めマップにある物見城(小矢場城)を参照して下さい。南東麓にある塩尻神社から燕城を経て直登する事も出来ますが、ファーストアタックの際に死ぬ程疲れたのでやめときましょう。虚空蔵山縦走路の物見城へ通じる分岐の案内板から更に10分弱程頑張ると、送電線の鉄塔No.26付近にケムリの城へ通じる道(道と言っても保安道ですが…)の案内板がありますのでこれに従って下さい。道の先にある送電線の鉄塔No.25を目指す感じになりますが、お城は正にそこにあります。物見城と同じく縦走路からは下って行きますが、時間にして10分強、道は脆い箇所多数なので注意して進みましょう。

お城は個人的に変態城に分類されます。郭は大きく見て4つぐらいあるようですが、面積的には凄く小ちゃいです。通称郭1と通称郭2には石積みがあり、崩落石から考えると小ちゃなお城なのに結構盛り盛りだったようです。唖然とするのは殆ど尾根の岩場にあるようなお城なんですが、主郭北側山側背後を大き目の4条の連続堀切でぶった斬っているところで、砦以下の規模のお城に過剰とも言える土木量…少し心配になります。工事中は恐らく泣きながら削りまくったと思われ、見ていると同情の気持ちも溢れ返ってくることでしょう。

帰りは今回、下りだからと安易に考えて燕城を経ての直下山を選択…でも下りも厳しく、踵まで土に埋まりながら殆ど横滑りして帰りました。結果、下りた場所は何故かドンキの北側の住宅地という…山って怖いですね!

連珠砦群の中では必見とも言えるこのお城、上田の市街地から距離は近いですが、遠いお城でもあります。興味を持ちましたら是非訪ねてみて下さいまし。

2020年04月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
物見城(小矢場城)[葛尾城  周辺城郭]



物見城(小矢場城)は村上氏連珠砦の一つ、葛尾城の南東約6.2km、標高1077mの虚空蔵山の南中腹、南方へ延びる支尾根上、標高約695mのピークの一つに主郭が存します。南麓からの比高は275m位でしょか。苦労対効果が低いものも多くあるこの城砦群ですが、山城好きならどんなに苦労しても行く価値のあるお城です。

行き方は虚空蔵山縦走ルートを和合城を経て更に登って行き、菖蒲平、陣馬鳥越山のピークを過ぎて暫く歩くとお城への案内板が立っていますのでこれに従って下さい。案内板には「物見城跡(10分)」とありますが、城跡の説明板には「縦走路より15分」と書かれていて、思わず「うっ、嘘付き!」とか呟いたりしてしまいますが、許容範囲なので許してやって下さいまし。縦走路からは折角登った山道を結構下ることになって面倒臭いですが、そういう場所にあるお城ということなので頑張りましょう。ちなみに直登する猛者もいるみたいですが、この辺の山の土は濡れていれば沈み込み、乾燥していれば表土ごと持ってかれる…おまけに間伐も定期的に行われているので、アクセスポイントの選択が難しい…結果的に…遠回りにはなるけど縦走路を使いましょう!道がちゃんとあるんだから普通に行った方が体力的にも吉です。

お城は個人的に変態城に分類されます。郭は2つありますが、両郭合わせても30人が限度の小ちゃさで、これ以上詰めるとたぶん寝る場所をめぐって戦争が起きるでしょう、物見城の名に相応しいです。相応しくないのは山側を5条の連続堀切+竪堀でぶった斬ってるところで、堀切のぽこぽこ総面積は遥かに郭の総面積を上回っています。砦以下の規模のお城に過剰とも言える土木量…疑いの眼差しを向けるところですが、虚空蔵山城を中心として虚空蔵山を要塞化したのが村上氏連珠砦の本質だと思うので勘弁してやって下さいまし。又、縄張図にはありませんが、西側斜面の竪堀下部終点の下に帯郭があるような気がします。

このお城を攻略したら縦走路に戻り、隣の尾根にあるケムリの城に行きましょう!全国的に見てもその変態ぶり(褒め言葉っす。)は傑出してますので張り切って行きましょう!

2020年04月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
笹洞城[葛尾城  周辺城郭]



笹洞城は葛尾城の南方約7.9km、東方へ延びる山塊尾根上、標高692.6mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は110m位でしょか。

築城者は室賀氏で南麓にある原畑城の詰城としての役割を担っていたようです。この笹洞城の主郭部からは室賀峠に通じる平地が一望出来る事から、街道監視の任も担っていたことでしょう。

行き方はGoogleマップに位置登録されている室賀水上神社を目標に設定して下さい。此処からは大河ドラマ真田丸の幟旗が所々に立っているので迷わず行けるでしょう。ごく最近までまともな道は無かったらしいのですが、大河の影響で整備が進んだようです。段郭を越える為に数箇所虎ロープの設定がありますが、基本的に誰でも行ける道だと思います。お城自体も整備が継続的に行われているのかとても見学しやすいです。ブログ等で紹介されている過去写真の中には藪にまみれたものも散見されますが、冬から初春でなくとも今は鑑賞に耐えうるものだと思います。

お城は主郭部から東西南に尾根が延びており、登城路は東尾根を登って行くことになりますが、本来の大手筋は南尾根にあったようです。登城路を登り始めるとすぐに虎口ぽい地形にぶつかり、此処からは登城路に並走する形で見事な竪堀を見る事が出来ます。この竪堀には横矢を掛ける為か小郭の張り出しが設けられており、たぶん敵の侵入を想定した堀底道なのでしょう、実に素晴らしい造りです。この竪堀頂部起点から幾つかの段郭を抜けると堀切にぶつかり、そこから割と広めの郭を介すと主郭部に到達します。主郭部にはかなり浅くなってはいますが升形虎口の様な進入口があります。又、主郭部には石積みが散見され、おそらく往時は全周に近い形で切岸を覆っていたものと想像出来ます。そして主郭西側山側背後には見事な大堀切+竪堀が…主郭側の切岸なんて本当によく切れてます。此処から更に山側へ進むと2条の堀切+竪堀があり、その後お城はフェードアウトします。

室賀氏のお城である事を差し引いても、実に素晴らしい山城です。また比較的散策しやすい(現在は…)のも魅力のひとつだと思います。大河ドラマにおける室賀正武のセリフが頭の中でリフレインするという黙れ小童ファンは是非訪ねてみて下さいまし。

2020年04月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
竹把城[葛尾城  周辺城郭]



竹把城は葛尾城の南約6.1km、標高880.8mの摺鉢山の山頂に主郭が存します。北西麓の室賀峠からの比高は120m位でしょか。武田氏と上杉氏が争った際(川中島の合戦でしょかね。)には狼煙を揚げた実績があるらしく、室賀氏の武田氏被官時代にも機能していたようです。

行き方は3ルートあります。一つ目は狐落、三水、両城を経て摺鉢山を目指すものですが、距離もある上に長い登り道となるので、登山が趣味じゃなければやめといた方がよいです。二つ目は室賀氏の菩提寺、前松寺付近から林道を経て尾根に取り付くものですが、一番行きやすい様に見えてかなり辛い登りが待ち受けていますのでこちらも勘弁、従って推奨ルートは以下のとおりとなります。室賀峠を2.5km程進んで室賀峠史跡公園に車を停め、公園から徒歩で峠道を2分位進むと、右手にコンクリートで固められた法面が現れます。周囲を見渡すと、法面の一部に堀切のような断面が付いてますのでよく目を凝らして下さい!よじ登る為のロープが設定されている場所が登山道入口となります。後は道なりに進むだけですが、一箇所三水城方向への分岐があります。案内板の「摺鉢山0.2km」を選択しないと大変なことになるので注意です。道は尾根上の部分が多く、木の根倒れ箇所が多数ですが、室賀峠を登った事によりだいぶ比高を稼いでおり、アップダウンはそんなにないので頑張りましょう。又、付近一帯は時間の経過したものですが、熊さんの痕跡が数箇所で散見されましたので装備は万全に…熊鈴+ホイッスル攻撃で己の存在を知らせてやって下さいまし。

お城は変わっています。異形の城と先人様が呼ぶ事もあります。ほぼ単郭と言ってよいお城なんですが、主郭部には崩落石が多数散見され、石積みぐらいはあったかもしれません。凄いのは緩斜面の東側を守る為か複雑に堀切から延びた竪堀が交錯しています。生で見ると「なんじゃこりゃ?」とか呟いて感動出来るのですが、写真を撮るとただの茶色の地面になってしまい残念な結果に…実は三ヶ月程前に初登城して、今回は写真を撮り直しに来た(阿保♪)のですが、やっぱり無理でしたw

室賀氏は大河ドラマ真田丸放映以前は全国的に無名でしたが、小県郡における有力な国人領主だったことは間違いないです。黙れ小童ファンは是非訪ねてみて下さいまし。



2020年04月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
室賀氏墓所(前松寺)[葛尾城  寺社・史跡]



清和源氏村上氏流屋代氏支流である室賀氏の墓所は上田市上室賀に位置する曹洞宗の寺院前松寺敷地内に存します。

前松寺は室賀盛清が開基と伝わりますが、室賀氏の墳墓は元々別の場所(所在不明)にあったらしく、幕臣(佐渡奉行)であった子孫が江戸時代に墓参した際に当時の村民によって現在地に移されたようです。

大河真田丸で室賀正武を演じた俳優の西村雅彦さんもこの墓所を訪ねていますが、肝心の室賀正武の墓塔はここには無いので注意して下さいまし。ちなみに正武の墓は現在も所在不明らしいです。

2020年04月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
原畑城[葛尾城  周辺城郭]



原畑城は葛尾城の南方約7.9km、標高約564mの山間部緩斜面上平場に位置する原組公民館周辺に存した居館城です。

築城年代は不明ですが、築城者はこの地を領した小県郡の国人領主、室賀氏です。室賀氏は清和源氏村上氏流屋代氏支流で、戦国時代には村上氏に従い、千曲川の南岸にして室賀峠の入口という重要な場所を抑えていました。室賀氏や屋代氏といった千曲川南岸の諸氏の武田氏への離反は、村上氏を窮地に追い込み、三水、狐楽、両城の呆気ない失陥に繋がります。

天正壬午の乱の際には、大河ドラマ真田丸で一躍全国区の有名人となった室賀正武が当主でした。「黙れ!小童!」っすね。小県郡はこの時期概ね千曲川の北岸を真田氏、南岸を室賀氏が領していたようで、石高にすると1万石位あったようです。そしてそれは徳川氏vs上杉氏の縮図でもありました。そういえばドラマでもゲームでも正武と昌幸は幼なじみの友達みたいに書かれる事が多いですが、国人領主間の横の繋がりを嫌う武田氏の下で仲が良い訳無いと考えられて違和感を覚えるけど、昌幸のストーリーテラーのひとりとして大変有効なので仕方ないのでしょう。

行き方はGoogleマップに位置登録されている原組公民館を目標に設定して下さい。お城は連郭式の平城だったらしいのですが、遺構は消滅しており、心眼を持ってしても想像も出来ないです。が、地形段差マニアなら何かが浮かんでくるかもしれません。

このお城の北側背後の山塊には詰の城、笹洞城が築かれています。原畑城周辺からは、この笹洞城の主郭部を眺める事が出来ますので、コアな黙れ小童ファンは是非訪ねてみて下さいまし。

2020年04月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
室賀峠史跡公園[葛尾城  関連施設]



室賀峠史跡公園は葛尾城の南西約5.8km、室賀峠道脇、緩斜面上平場に存する公園です。

室賀峠道は上田市上室賀から坂城町に抜け、北国街道が無かった戦国時代には善光寺平に通じる事でも重要な街道でした。有名無名、身分の上下を問わず幾多の武士達が通ったこの峠道ですが、現在は交通量も少なくその役割を北国街道に殆ど譲っています。

この峠道の中間点ぐらいに室賀峠史跡公園があります。公園と言っても不思議なぽこぽこ地形(これが旧室賀峠道の残滓かもしれない。)に万葉の歌碑が立っているだけなんですが、松の木が数十本林立していて、何でも村上義清が上田原の合戦の後に立ち寄り、鎧を松の木に掛けて休んだという伝承の地らしいです。松の木は流石に二代目らしいんですが、そもそもそれがどの松なのかは全く判らないので雰囲気だけ味わって下さいまし。又、付近一帯は外灯が一つも無く、夜に訪れると怖いだけなのでやめときましょう。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。公園には普通車1台なら停められます。

自分何度も通っているにも関わらず、今回初めて上室賀の峠道口に「室賀峠坂城→」という案内板を発見しました。そんな城全く知らんわ!ひょっとして地元の方にしか認知されてないお城があるのかしらん!等と興奮しながら周辺を捜索しましたが、捜索してる最中に神が降りてきて「あれは室賀峠坂という名前の城があるんじゃなくて、室賀峠→坂城という意味なんだよ、お馬鹿さん♪」と御告げがありました。「あの辺は結構鋭い切岸だな、あそこかもしれん。」とか独り言言ってたのが恥ずかしいわ!おまけに20分位無駄にしたわ!…日本語て難しいですね。

2020年04月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
和合城[葛尾城  周辺城郭]



和合城は村上氏連珠砦の一つ、葛尾城の南東約6.0km、標高1077mの虚空蔵山から西南へ延びる標高654.8mの尾根上突端に主郭が存します。南麓からの比高は240m位でしょか。三方を断崖で守られ、東北側のみが山側に通じています。往時は千曲川に張り出すように立地していたことでしょう。

北国街道を上田から坂城へ向けて車を走らせていると、信濃鉄道の西上田駅、テクノさかき駅間で一際自己主張する尾根の張り出しが見えますが、お城は正にそこにあります。ちなみに逆に走ると通称三の郭と通称四の郭を隔てる大堀切が下界から確認出来ますが事故んないで下さいまし。

お城は狼煙台として機能していたと考えられていますが、このお城の通称本郭に上がれば誰しも納得出来るでしょう。葛尾城はおろか周辺関連諸城の相当数を見渡す事が出来て実に素晴らしいロケーションです。村上氏が越後へ落ち延び、この地域が武田氏の勢力下に入ると使われなくなったらしいですが、天正壬午の乱の際に他の連珠砦と同様に上杉方の虚空蔵山城を中心とする支城の一つとして再利用され、真田氏の抑えとして信濃の国人領主、島津忠直(薩摩島津氏の庶流です。)が城代となりました。

お城は素晴らしいです。郭は4つ、通称本郭と通称三の郭には土塁がはっきり残り、石積みも確認出来ます。面白いのは尾根の突端に向かうに従い段々が高くなっていくところで、普通とは逆になっています。素敵過ぎるのはこのお城、北東側山側背後の高所、菖蒲平や付近にある物見城から削平された郭の段々がぽっかりと確認出来る事!整備が継続して行われているのか(案内板も新しい。)、中々他では見れない光景だと思います。残念なのは通称ニの郭の腰郭辺りに送電線の鉄塔が建っている事でしょうか、写真撮影の邪魔を見事にやってくれています。それでもきちんと削平された通称本郭に建てなかったのは御の字と言うものでしょう。

行き方はたぶん3ルートありますが、北西麓にある墓地から登って行くのが1番シンプルでしょう。ちなみにこの道は虚空蔵山縦走ルートの一つでもありまして、写真トランス状態で撮っていたら、登山者に背後から声掛けられて死ぬ程びっくりしました。

2020年03月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
三水城[葛尾城  周辺城郭]



三水城は葛尾城の支城とされ、葛尾城の南方、千曲川の南岸約4.5km、標高789.6mの三水城山の山頂に主郭が存します。同じ葛尾城のリア攻めマップにある狐落城とは尾根続きで連絡していて、両城の距離は0.4kmて現地案内板に書いてありました。従って行き方については狐落城を参照して下さい。狐落城からは最初緩やかに登って行きますが、最後に急坂が待ち受けています。しかし距離は大した事ないしテンションも上がっているのできっと頑張れることでしょう。

築城年代は不明ですが、築城者は村上氏という事になりますね。

お城は凄いっす。なんつうかもうよい意味で変態ですよ。ほぼ単郭で主郭から北東西に尾根が延びているんですが堀切でぶった斬りまくりです。北尾根にはたぶん3条、主郭に最も近いものは岩盤を切削して頑張りを見せています。東尾根にはたぶん2条、圧巻というか呆れてしまうのが西尾根で、合計たぶん9条、六重堀切(阿保か…)+3条て感じです。郭の削平総面積よりも堀切のぽこぽこ総面積の方が遥かに大きい間違ってしまったお城です。お城で注意する点は、藪に突入するとなんていうのか知らんけどちくちくした木が生い茂っていて容赦無く服を切り刻んでくれるので勘弁です。自分はお気に入りのアウターを1着駄目にしました。

大河ドラマ真田丸で一世を風靡した室賀氏の離反によって武田氏による室賀峠の通行が自由になった事から三水、狐落両城は一気に最前線のお城となりました。三水城からは西尾根伝いに1.5km位で室賀氏の竹把城へ到達し、その緊張感がお城からひしひしと感じられます。三水、狐落城を守った村上方の児島兄弟は内応によって討死、両城は落城しますが、それは村上氏の息の根を止めた戦いでもありました。

ちなみにお城の名前の読み方ですが「さみず」と読みます。決して「さんすい」とは読まないので注意して下さい。今さっき知りましたw

2020年03月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
狐落城[葛尾城  周辺城郭]



狐落城は葛尾城の支城とされ、葛尾城の南方、千曲川の南岸約4.2km、標高789.6mの三水城山から北方へ延びる尾根上、標高665mの狐落城山の山頂に主郭が存します。東麓からの比高は260m位でしょか。

自分全然知らなかったのですが、上田から車で約15分、電車に乗ると3駅で葛尾城のある坂城町中心部に到着しますが、江戸時代に北国街道が整備されるまでは上田原から葛尾城へ向かうには室賀峠を通るしかまともな道は無かったようで、狐落城はこの峠口を押さえる重要な場所に位置します。

築城年代は不明ですが、築城者は村上氏という事になりますね。

天文二十ニ年(西暦1553年)、葛尾城は自落し強勢を誇った村上氏は越後に逃れますが、戸石城を調略により失い、千曲川流域の諸豪族の離反を招き、三水、狐落の両城を失陥し孤立した事に起因するのは明白です。村上義清が葛尾城を去ったのは狐落城落城の数日後の事でした。落城時に城代だったのは児島兵庫介という人でしたが、大須賀久兵衛尉という土豪が武田方に内応し陥落、後に久兵衛尉は南條(テクノさかき駅周辺)に所領を得ましたが、長篠の合戦で討死しています。

行き方はGoogleマップにも位置登録されている村上大国魂神社を目標に設定して下さい。ここから少し登ると村上氏関連の史跡の一つでもある十六夜観月殿というのががありますので、これを見学しつつ尾根筋を登っていけば到達します。道は最初緩やかですが、狐も落ちる城の名のとおり急坂が途中から続きます(ロープの設置箇所あり。)。ただ迷う事は決して無いので頑張りましょう。

お城は素晴らしいです。ほぼ単郭のお城なんですが、堀切で尾根をぶった斬りまくりで、こんなに切らなくてもいいんじゃないかなとか思うぐらい。主郭部は二段で上段の削平地には山側に土塁、又、切岸には相当量の石積みが残されています。このお城、感動するのは下界から主郭部の段々とその削平具合、尾根に穿つ堀切のクサビが数条等、はっきり形として確認出来る事!攻城後は近くにあるびんぐし湯さん館に立ち寄って汗を流した後、お城を振り返って遠景を眺めて下さい!他では中々見れない光景に「おぉーっ!」とか叫びますよ!





2020年01月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
出浦城[葛尾城  周辺城郭]



さて、出浦城の口コミをさせて頂きましたが1000文字じゃ足らん部分を…

実は道をロストしまくって山腹を行ったり来たりした結果、謎も増えました。

自在山の中腹にある自在神社を抜けて行くと、直ぐに畝状竪堀様の地形にぶつかります。この地形、余りにもはっきりしていて竪堀として見ると破格の大きさ、はっきり言って眉唾物なんです。ただ遺構なのかどうかは別としてこの地形には悩まされまくりました。横移動が本当に難しく数も相当あります。しかし彷徨いまくったおかげで本物の竪堀もかなりあるように思えました。特に今回のリア攻めでは、帰り道を完全にロストしてしまったことにより、暗闇の中を自在山北東斜面を直下山しましたが、その時使ったのが麓付近まで一直線に落ちる竪堀様地形でした。

竪堀様地形の中には曲げを伴ったり、二股を作ったり、集合したりするものがあって、自然地形でこうなるもんなのかなと疑問に思う箇所が幾つか散見されます。比較的に浅めのものは本当に竪堀遺構なんじゃないかなと思いました。

結論を求めるのもよい事ですが(そうしないと人は中々前に進めない。)、謎は謎として、疑問は疑問として残しておくのも粋な事だなと素直に思いました。

2020年01月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
出浦城[葛尾城  周辺城郭]



出浦城は葛尾城の南西約2.9km、標高793.1mの自在山(岩井堂山)山頂に主郭が存します。東麓からの比高は400m位でしょか。

北国街道を北西に向けて走っていると坂城大橋の辺りで左手に漏斗を逆さまにしたような山が見えて思わず燃料を注ぎたくなりますがそれが城山となります。

出浦城は廻国異能の者で有名?な出浦盛清が在城したこともあるお城です。ただ名称はどうにも後付けらしく、少なくとも村上氏時代は主郭にある説明板のとおりにただの狼煙台だったと思います。しかしその時代ごとに改修と拡張を続けたのでしょう、今尚残る遺構は謂わゆる山城そのものです。

お城へ行くには自在山の中腹にある自在神社がそのスタートになります。ただここからの道が意外にも不鮮明でして、崩落箇所多数、倒木多数、畝状竪堀様の地形、更に間伐用の道等が縦横無尽に走っていることから何処に向かって進んでよいやら全く判らん♪実は10日程前にもアタックしてるんですが、前回は行きに道をロストし、今回は帰りにロストしましたw従って何となくですが、行きは尾根に出ることを念頭に、帰りは…やっぱしよく判らないっす。すいません…又、登山道に運良くぶつかると「300m自在山」の案内板を見つけることが出来ますが、少し進むと「自在山0.6km30分」の案内板にぶつかり、思わず「うっ、嘘つき!」とか呟いたりします。ただ此処から山頂までは15分位ですので、気持ちを抑えてそのまま進んで下さい。砂岩の砕けたのが斜面を覆っていたり、浮石、落ち葉が堆積している箇所も多いので、足元には十分に注意して下さい。

お城は素晴らしいです。殆ど廃城時からそのままって感じです。コンパクトな縄張ですが、主郭は全周が土塁で囲まれ、主郭の北側と西側には横堀が、特に北側のものは藪ですがよく見りゃ二重じゃないですか、この横堀は高低差を持って西側の横堀と合流しています。西側の横堀の更に奥にはもう1条横堀があり、両端は竪堀になって落ち込みます。竪堀の1条はそのまま西尾根に通じて堀底道を形成し、横堀からの曲げの部分に小郭を設けて防御しています。とんでもないのがこの西尾根にある竪堀付き堀切!デカくて思わず笑っちゃいます。圧巻!その先には尾根の南側にだけ落ちる竪堀、頂部が上手い事尾根上に切り込みを作っています。感動!是非訪ねてみて下さいまし。




2019年12月29日 信濃守モンチッチ
姫城[葛尾城  周辺城郭]



葛尾城の南側にある出城です。三の郭からしばらく登山道を下っていくと麓の坂城神社と姫城の分岐の案内表示があります。始めはわりと急な下りですが姫城に近づくにつれて緩やかになります。姫城の主郭の北側、南側に堀切が残っており、南端のこんもりは土塁かと思います。
途中、岩崎城へ向かう道もありますが、2019年12月の時点では台風などの影響で倒木が多く道がわかりづらかったです。

2019年06月23日 信濃守モンチッチ
葛尾城跡登山者専用駐車場[葛尾城  駐車場]

石積櫓跡側にも駐車場はありますが、山道を運転するのが不安な方や登山も楽しみたい方はこちらの駐車場が良いかもしれません。
坂城神社裏の登山口から主郭までは急坂のルートが約40分、姫城跡分岐を経由するルートが約60分かかります。

2019年04月27日 土佐守きこりん
岩崎城[葛尾城  周辺城郭]



葛尾城から西に派生する尾根筋を抑える支城として岩崎城が築かれており、大きな竪堀や石積の痕跡がある土塁、段郭などの遺構が残っています。
葛尾城から降って来れますが、下から登る場合、国道18号のセブンイレブン(坂城苅屋原)の向かいの踏切を渡って沢沿いに進むと右手に登山口があります。途中には葛尾城(姫城)から落ちてきた村上義清の奥方が石になったという伝説が残る比丘尼石があり、対岸の出浦城や荒砥城などの景色もよく見えます。

2018年10月31日 サスケ玄蕃頭
葛尾城

城跡の駐車場には、林道で行く事になりますが、舗装されてない道が長く続きます。普通車で行けない事は無いけど…下の神社に停めて歩いた方が無難です

2017年11月07日 カーネル
葛尾城

しなの鉄道 坂城駅から

北の坂城神社を目指し駅前通りを進む
街並みはいい雰囲気で、村上氏の居館跡の石碑もありました(行ってません)

坂城神社でお参りし、神社北側の葛尾城の石碑に従い歩く。近道(1.2km)と遊歩道(1.5km)があるので、遊歩道を選択

斜面を登ると尾根に出ます。尾根からの風景は絶景で、ニホンカモシカにも会えました。道は明瞭でよく整備されていますが、滑りやすいところもあるので、注意です

本丸には小屋がありますが、なぜか屋根裏に地勢図が張ってありました
地勢図を参考に堀などを見てから、駅に戻りました。2時間弱でした

2015年05月10日 土佐守きこりん
葛尾城

城跡一帯は松茸山(留山)で、秋は要注意です。秋季立入り禁止を謳う張り紙とテープが歩道沿いにずっとあります。
罰金30万とか恐ろしげなことも書いてあります。歩道から外れなければいいんだと思いますが…
塩田城も同様です。

葛尾城の周辺観光情報

鉄の展示館

刀匠のまち「坂城」の象徴である人間国宝故宮入行平刀匠や宮入一門刀工の作品をはじめ、長船や山浦など古刀・新刀の古名刀、さらに故高倉健さんが旧蔵していた刀剣類など、定期的に展示します。

詳細はこちら

坂木宿 ふるさと歴史館

坂城町を拠点に活躍した清和源氏の名族「信濃の村上氏」と戦国の勇将「村上義清」を中心に、北国街道坂木宿等に関する資料を展示しています。特に武田信玄を唯一破った村上義清の、武田氏や真田氏との激戦、川中島の戦いなど見ごたえのある展示内容となっています。

笄の渡し

現在の笄橋付近といわれている。天文22年(1553)葛尾城落城後、村上義清の奥方が対岸の力石に船で落ちのびようとしたとき、わが身の危険をかえりみず船を出してくれた船頭に、お礼として髪にさしていた「笄」を贈ったという伝説から呼ばれるようになったということです。

耕雲寺

室町時代末期から阿須地桃山時代の創建とされ、武田信玄、勝頼から篤い保護を受け、寺名も信玄が命名したと伝えられています。はじめ同町横尾にあったが、江戸時代に現在の地に移された。参道の樹齢約300年の杉並木は町指定文化財です。

日帰り温泉施設「びんぐし湯さん館」

びんぐしの里公園の山頂付近に平成14年にオープンした日帰り温泉施設。大浴場、石風呂、熱湯・岩風呂、寝湯など様々なお風呂が楽しめる。効能は、神経痛、筋肉痛、疲労回復など。

情報提供:坂城町産業振興課商工観光係

葛尾城の周辺スポット情報

 岩崎城(周辺城郭)

 姫城(周辺城郭)

 出浦城(周辺城郭)

 狐落城(周辺城郭)

 三水城(周辺城郭)

 和合城(周辺城郭)

 原畑城(周辺城郭)

 笹洞城(周辺城郭)

 竹把城(周辺城郭)

 ケムリの城(周辺城郭)

 物見城(小矢場城)(周辺城郭)

 虚空蔵山城(周辺城郭)

 入山城(周辺城郭)

 高津屋城(周辺城郭)

 鳥小屋城(周辺城郭)

 燕城(周辺城郭)

 坂木陣屋(周辺城郭)

 入山氏館(太郎様)(周辺城郭)

 漆原の大下館(周辺城郭)

 安藤氏館(御屋敷)(周辺城郭)

 寄合氏館(周辺城郭)

 横山氏館(周辺城郭)

 福沢氏館(周辺城郭)

 村上氏島館(周辺城郭)

 丸山城(小丸山)(周辺城郭)

 構屋敷(釜屋のタテ)(周辺城郭)

 村上氏満泉寺館(周辺城郭)

 内畝(周辺城郭)

 観音坂城(周辺城郭)

 室賀氏墓所(前松寺)(寺社・史跡)

 村上義清公墓所(供養塔)(寺社・史跡)

 坂木宿 ふるさと歴史館(御城印)

 トイレ(トイレ)

 葛尾城跡登山者専用駐車場(駐車場)

 駐車スペース(駐車場)

 室賀峠史跡公園(関連施設)

 坂木宿ふるさと歴史館(関連施設)

 登城口(その他)

 お城への林道入口(その他)

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