葛尾城(かつらおじょう)
葛尾城の基本情報
通称・別名
- 村上氏城館
所在地
- 長野県埴科郡坂城町坂城1148他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- 不明
築城主
- 村上氏
築城年
- 南北朝時代後期
主な改修者
- 武田氏、森氏
主な城主
- 村上氏、武田氏、真田氏、森氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、竪堀
指定文化財
- 県史跡(村上氏城館跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
荒砥城(長野県千曲市)[3.4km]
屋代城(長野県千曲市)[7.6km]
松田家館(長野県千曲市)[8.1km]
上田城(長野県上田市)[10.0km]
岡城(長野県上田市)[10.3km]
松代城(長野県長野市)[10.5km]
横田城(長野県長野市)[11.4km]
麻績城(長野県東筑摩郡)[11.6km]
尼厳城(長野県長野市)[11.9km]
横尾城(長野県上田市)[11.9km]
葛尾城の解説文
[引用元:Wikipedia「葛尾城」の項目]
葛尾城(かつらおじょう)は、信濃国埴科郡葛尾[1](現・長野県埴科郡坂城町)にあった日本の城。山城。
概要
戦国時代、北信で最大の勢力を誇った村上氏の居城であった。近辺に氏族の支城や砦の跡がいくつもある。
天文年間、小県郡の村上義清は甲斐国の武田晴信(信玄)が開始した信濃侵攻に対抗し、上田原の戦いと砥石崩れと2度もの南面からの武田軍の攻撃を破った。しかし、天文22年(1553年)葛尾城は村上氏の背部を支える北に位置する支族の屋代氏や雨宮氏、塩崎氏らが武田方の真田幸隆らの調略により離反し、背後の戸倉方面からの攻撃を受けることによって自落した(葛尾城の戦い)。義清は、それまで仇敵の間柄であった高梨氏の仲介を得て越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びた。これが12年にわたり5度に及ぶ川中島の戦いのきっかけになった。この年は葛尾城の裾を洗う千曲川に大洪水(江戸時代には64回の洪水が記録され4〜5年に1回の割合で被災していた勘定)があったと伝えられるが戦況にどのような影響があったかは不明である。
半月後には救援を得て奪還はするが再びこの城の主として返り咲くことはなかった。そして地域の大半の武士は大勢になびいて村上から武田へ、武田から再び村上方へ、またもや武田方へそして上杉方へと主を変えることになる。村上義清は上杉氏から永禄8年(1565年)に姫川流域の信越国境を警備する根知城を宛がわれ元亀3年(1572年)に終焉を迎えたとされる。
慶長5年(1600年)関ヶ原へ進軍中の徳川秀忠が途中の小諸城を拠点にして上田城を攻撃したが上洛命令により撤退した。その後も徳川方の海津城将森忠政は葛尾城代井戸宇右衛門配下の兵を葛尾城や地蔵峠付近に置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して上田城から9月18日と23日の2度に渡って真田信繁(幸村)が出撃して夜討と朝駆けの攻撃を加えた。記録に残るこの城の最後の戦闘とされているが忠政と不仲であった宇右衛門は門を開いて真田軍を城内に入れ二の丸まで迫られたと言う。
それまでの間にも村上氏による、この城の奪回戦や真田氏による上田築城への上杉景勝による牽制の拠点でもあった筈だが、それらの際にこの城がどのように使用され改修されたのか、どのような戦況であったかを示す記録は確かめられていない。
居館跡(満泉寺)
平時の居館跡は、現在は満泉寺が建立されている。村上義清の子・村上国清(山浦景国)が天正10年(1582年)、上杉景勝領有の時代、海津城の城代を務めたときに建立した。
その他、城下には村上義清の墓がある。
笄の渡し
伝説では葛尾城の落城の際、奥方は義清と別れ、ばらばらに落ち延びることになった。千曲川の対岸の力石に渡る際に奥方は、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭の心に打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡した。
義清夫人を偲んでそれ以降はその渡し場を「笄の渡し」と呼ばれるようになったとされる。しかし、葛尾城の麓の千曲川沿いは高い崖が連なっていたことから「高崖(コウガイ)」と言われていたと伝えられる。また、この時代には崖下の浅瀬を選んで渡渉し、船渡しはまだなかったと考えられる。更には女性が髪を高く結うのは江戸時代になってからのことであり、この時代の女性が笄を髪にさす生活習慣はなかったとの説があって「コウガイ」にこじつけた江戸時代以降の創作と見るむきもある。また結末は無事に越後(高梨氏の本拠地である中野とも言われる)に逃げ延びたとも敵に発見されて自害した、あるいは敵の手にかかって惨殺されたとも様々に語られている。そして話によっては船頭を落人の弱みに付け込み法外な酒手を要求する悪者として描き、奥方は泣く泣く要求に応じたのだ、とする筋書きもある。この奥方は名を「於フ子」と言い高梨氏の娘から村上氏の側室となっていたとされる。
参考文献
- 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書3』 1993年
- 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年
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葛尾城の口コミ情報
2024年11月11日 血圧高い系男子RED副将軍
姫城[葛尾城 周辺城郭]
村上義清の本拠地である葛尾城の支城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。村上氏に築かれたとされる葛尾城の支城です。
見所
葛尾城から南へ伸びた標高646mの尾根先端部に築かれています。
南端頂部の主郭は南北両端を堀切で遮断。主郭の北側には三段の小郭が連なり、北西の山腹には大規模な竪堀が落ちています。
北側の尾根を比高150mほど登ると葛尾城に辿り着きます。
葛尾城の西尾根には岩崎城というもう一つの支城があります。葛尾城の比高は約370mあり、姫城との折り返しに比高約150mを登山。既に2時間以上散策したため今回は岩崎城は見合わせ。
岩崎城は西側麓から別の登山道もあるため、次回は西側から岩崎城のみを予定。
この日は次の目的地である屋代城・鷲尾城を目指しました。
2024年11月11日 血圧高い系男子RED副将軍
葛尾城
北信を支配した村上義清の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。南北朝時代末期に村上氏により築かれたとされる村上氏の本拠地。
村上氏は清和源氏頼信流と云われます。諸説ありますが源頼信の次男である源頼清の子が源仲宗であり、1094年に源仲宗の長男の源惟清が白川院を呪詛したとして連座して源仲宗ならびにその子息は配流。次男の源顕清は信濃国更級郡村上郷に配流となり、その養子であった為国が村上氏を称したことが始まりとされます。
その後、村上氏は勢力を拡大し、戦国時代には村上義清は北信一帯に勢力を拡げました。
1548年、父である武田信虎を追放した武田信玄の攻勢を受けるも上田原の戦いで撃退。
1550年の砥石城の戦いでも武田信玄に大勝しています。
しかし、1551年には砥石城が武田信玄に仕官した真田幸隆によって落城。更に1553年には大須賀氏が謀反を起こし、村上氏一族の屋代氏などが武田氏に降伏したため、村上義清は越後の上杉謙信を頼って落ち延び、葛尾城は自落したとされます。
これにより上杉氏の信濃侵攻の理由ができたため12年間に渡る川中島の戦いへと繋がっていきます。
半年後に村上義清は越後の援軍を得て葛尾城を攻め落とし奪還。塩田城に入城し再起をはかるも再び越後へ落ちたとされます。
その後の葛尾城の動勢は不明ですが、1600年の関ヶ原の戦いにおいて、甲信地方の真田氏を平定する別働隊として指揮した徳川秀忠は葛尾城やその周辺に配下を置いたとされます。
見所
五里ヶ峰から南に派生した標高805mの葛尾山に築かれています。
南北に伸びる尾根上に郭が連なる連郭式であり、南尾根の中腹に姫城、西尾根の中腹に岩崎城の支城が展開されています。
縄張り自体はシンプルですが、北尾根は特に厳重に幾重もの岩盤を削った堀切で防御線が張られています。北尾根の城域端部には石塁遺構があり、用途不明でそもそも城郭遺構なのかもわかりません。
主郭は切岸が見事であり、北側に土塁が敷設。
主郭南下には二郭、三郭があり、その先は小規模な段郭が続きます。
行き方は坂城神社を目標に設定。駐車場が完備され登山口があります。
主郭まで15分くらいの北尾根に辿り着く林道もありますが、基本的に登ることにしてますので今回も麓から比高371mを登りました。
途中の分岐で姫城を経由して山頂に行きましたが、姫城への分岐から倒木だらけで苦労しました。
素直に山頂から姫城に降れば良かったです。
2024年04月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
ケムリの城[葛尾城 周辺城郭]
ケムリの城は葛尾城の南東約6.5km、千曲川北岸(右岸)、標高1077mの虚空蔵山から西方へ伸びる尾根稜線上、標高924mの小ピーク、高津屋山から南方へ伸びる尾根中段上、標高約803mの小ピークを中心に立地する砦です。南麓の国道18号からの比高は380m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので虚空蔵山・太郎山 縦走路てのをネットで検索してから登ってね。取り付きは西方、埴科郡坂城町南条の鼠宿からとなる。コースをひたすら登ればケムリの城への分岐が現れ、やや下って送電線の鉄塔用保安道を辿れば該地に至る。ちなみに別な行き方も幾つかあるんだけど、虚空蔵山に入った事のない方には判り難いので紹介しない。
築城年代、築城者は不明です。一般的には村上連珠砦と呼ばれる城砦群の一つとされる。村上連珠砦は虚空蔵山と太郎山の山塊に総計17を数える城砦群、名称のままだと築城者は村上氏て事になるんだけど、そうだとは言い切れないものも幾つか含む。大体にして村上連珠砦と呼ばれる根拠がよく判らん…伝承故なんだろうか。
村上連珠砦を代表する変態城だ。変態城の巣窟、信濃の中でもその変態ぶりは突出しちょる。一応、尾根中段上の小ピークを中心に立地すると書いたけど、殆ど岩場の崖地に近い急峻さ、おいらが普請奉行だったら主人の阿保さを疑って翌日にはお暇を頂戴するところだ。
部分において後世の崩落も疑われる狭小な縄張なんだけど遺構が実によく残っている。変態的なのは岩盤層を穿つ主郭北側山側背後の4条の堀切、誰も攻め寄せて来ないような場所なのに心配し過ぎ。その内の1条なんて切岸が垂直どころかマイナス角だ。単に堆積土が落ちただけなのかもしれないが今でも装備が無ければ誰も登れない。又、主郭には土塁が付き、切岸の一部には土留めの石積みが付く。この石積みは村上連珠砦の中で最も派手なもの。ちなみに城域内には中部電力の送電線鉄塔、No.25が堂々と屹立、全然気にはならないので勘弁してね。そりからリア攻め中は足元が常に不安定だ。
怒られるかもしれないが、個人的には村上連珠砦は上杉氏の普請によるものが大半を占めているんじゃないかと思っている。特に山塊中段のものは二次利用も含めてそうなんじゃないかと疑っている。小県郡における村上氏の拠点城はあくまでアプリの登録城、戸石城であり、軍勢の通過が困難な虚空蔵山がそれ程重要視されていたとはとても思えないからだ。事実、後に川中島に勢力を伸長させる武田氏は、千曲川の対岸、室賀峠を重要視(アプリの登録城、岡城はそれ故に築城されている。)している。
ごちゃごちゃ面倒な事書いたけど、上田市の奇跡、ケムリの城をどうぞ宜しく。凄いお城(別の意味で…)ではあるんだけど、リア攻めした人を考え込ませてしまう不思議な一面を持っていたりもする。凡人には全く理解不能な領域、変態城とは正にこの事を言う。
※ 村上連珠砦は捉え方によって数に諸説ある。はっきりとさせる根本が見当たらないのでおいらがそうだと考えているものを数えてみた。
※写真⑤露出する巨岩の上が主郭となる…土橋とかそんな親切なものはない。
※なんでケムリの城と呼ばれるのかは不明…何かが転化したもので「煙」じゃないとは思う…「冠」とかね…
※文中で述べた事と逆説的になるけど、村上氏の手による同じ葛尾城のリア攻めマップにある狐落城や三水城(変態城っす。)にコンセプトは似ている…と思う。
※遠くない将来、お城は全て崩落すると思う。
2024年04月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
鳥小屋城[葛尾城 周辺城郭]
鳥小屋城(高津屋城)は葛尾城の南東約6.3km、千曲川北岸(右岸)、標高1077mの虚空蔵山から西方へ伸びる尾根稜線上、標高958mの小ピーク上を中心に立地する砦です。南麓の国道18号からの比高は535m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので虚空蔵山の座摩(ざますり)神社コースてのをネットで検索してから登ってね。虚空蔵山山頂から虚空蔵山・太郎山 縦走路を西方へ下りれば辿り着く。但し、この間の登山道が結構厳しい。急登なのは勿論、フィックスロープが長く設定されている箇所も多く、気楽な下山とは決していかない。又、悩ませてくれるのが落ち葉の堆積と崩落石、急な斜面で滑りまくるし、足元は常に不安定、虚空蔵山城から鳥小屋城へ下りるだけで平均的な山城1件分で消費される体力を優に消耗する。振り返って仰ぎ見る虚空蔵山は正に虚空蔵菩薩の御姿だ。
築城年代、築城者は不明です。一般的には村上連珠砦と呼ばれる城砦群の一つとされる。村上連珠砦は虚空蔵山と太郎山の山塊に総計17を数える城砦群、名称のままだと築城者は村上氏て事になるんだけど、そうだとは言い切れないものも幾つか含む。大体にして村上連珠砦と呼ばれる根拠がよく判らん…伝承故なんだろうか。
鳥小屋城の立地する小ピークは鳥小屋山とも呼ばれる。「鳥小屋」は古い地名の場合、「鷹の小屋」を意味する事が殆どである。古来から武士にとって鷹を扱う事はステータスであり、鷹は常に貴重な存在であった。贈答に用いられた事は言わずもがな、鎌倉時代には他庄の山中の鷹の子を巣下ろししたとして守護所に訴えられた事例もある。
日本全国には鷹に纏わる地名が今でも数多く残る。「鳥小屋」は勿論、「鷹取」、「高津屋」、「鷹の巣」はその最たる例だ。又、小県郡では鷹を扱う事に長けた一族として祢津氏が挙げられる。中近世における武家流放鷹文化を当地で築き上げたのは滋野三家の同氏であり、祢津家に伝わる鷹書は仔細且つ、厳格にその技を今の世に現す。
信濃のお城の神はこの鳥小屋城を同じ葛尾城のリア攻めマップにある高津屋城のA郭、B郭として同一項で扱っている。高津屋城と鳥小屋城に明確な区分は無く、あくまで一体で同一城との考えだ。但し、一城別郭としても両者の位置は離れ過ぎであり、単純に全くの別城として捉える方が正解だと思う。
現地説明板には比定地とあるが明確な城郭遺構が残る。堀切、土塁、段郭が確認出来る他、痩せ尾根の頼り無い郭群には腰郭さえ認められる。又、石積みも所々で散見されるが、崩落しているものが殆どでまともに判別出来るものは僅かな箇所に留まる。
…おいらの口コミは話がよく脱線するんだけど、過去に知り得た知識が口コミの内容と結び付いた時の表れなんで勘弁してね。色んな知識を得ると様々な角度から歴史が見えてくる。歴史の勉強は必ず何処かで何かが繋がっていたりするもの、無駄な事なんて何一つ無い。中世城郭史に殆ど影響しない鎌倉時代以前の事は門外漢でありたいんだけど、それでも時には古代の伝承にまで遡ったりもする。沼に陥ると自力で這い出す事は難しい。この国の歴史は一元的に語れるものは少なく、それ故に深淵だ。日本人に生まれた事に改めて感謝したい。
※ 村上連珠砦は捉え方によって数に諸説ある。はっきりとさせる根本が見当たらないのでおいらがそうだと考えているものを数えてみた。
※写真①は鳥小屋城から振り返って仰ぎ見る虚空蔵山、再訪しておいらはこの山が何故に虚空蔵山と呼ばれるのかがよく理解出来た。上田市市街地から見上げる山容とは全く違う。
※写真⑧は鳥小屋城、高津屋城間から垣間見える村上氏の本拠、埴科郡、アプリの登録城、荒砥城、葛尾城が遠目に見える。他にも…沢山あるけど面倒なんで止めとく。
2024年04月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
虚空蔵山城[葛尾城 周辺城郭]
虚空蔵山城(御殿城)は葛尾城の南東約6.5km、千曲川北岸(右岸)、標高1077mの虚空蔵山山頂部を中心に立地する要害です。南麓の国道18号からの比高は645m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので虚空蔵山の座摩(ざますり)神社コースてのをネットで検索してから登ってね。行き方は他にもあるんだけど、最もダメージが抑えられるのがこのルート、但し、はっきり言って低登山である。
築城年代は天文十一年(西暦1542年)、築城者は村上氏とされるが確証は無い。一般的には村上連珠砦と呼ばれる城砦群の一つとされ、城砦群の中心、本城である。村上氏時代の村上連珠砦の動向は一切不明だが、「天正壬午の乱」の際に周辺地域は鳴動する。騒ぎ出したのはみんな大好き真田安房守昌幸だ。
天正十一年(西暦1583年)三月廿一日、島津淡路守(忠直)宛、直江兼続等連署状案には、「如御注進者、真田向虚空蔵山相働之處、味方中備しとけなく敗軍、不及是非次第候、然者、駒澤主税助打死、其時之有様承、御當代之御ほうし忝存詰、一度一命ヲ御用ニ可立之由、連々被申之旨、人々申候キ、其首尾相たがはす、一身之以打死、数百人を相たすけ候事、誠有間敷儀感涙流候、…」とある。長くなるので後文を割愛したが、兼続等は、真田勢によって虚空蔵山の中備えが敗軍した際、忠直の寄子、駒澤主税助が数百人を助けて討死した事を聞いて上杉景勝が感涙した事を述べ、併せて御当代(景勝)の芳志を以て忠直に主税助の跡を計らしめるよう求めている。
天正十一年(西暦1583年)卯月(四月)十二日、岩井備中守(信能)宛、上杉景勝書状案には、「自海津如注進者、家康甲苻着陳、佐久、小県為仕置、至虚空蔵山人数遣之由候条、當方之儀も、近日無二出馬ニ令儀定候、然者、其地之人数、上倉治部太輔武主ニ相副、悉虚空蔵山へ可相移候、有遅々者、不可有曲候、謹言、」とあり、景勝は、徳川家康が佐久郡、小県郡の仕置きのため甲府に着陣、虚空蔵山に人数を遣わすとの海津からの注進を受けて近日中に出馬する旨を伝え、併せて岩井備中守にその地(飯山)の人数を上倉治部太輔に預けて悉くを虚空蔵山に入れるよう指図している。
天正十一年(西暦1583年)四月十三日、島津左京亮(泰忠)宛、上杉景勝書状案には、「自海津如注進者、真田、海士淵取立之由候条、可追拂之由、可茂江申遣候、然者、吾分検使申付由、皆々江露書中候間、虚空蔵山江罷越、諸侍中、稼之程慥見留、一々可申越候、大方明鏡難成儀有之間鋪候興思候、此節候間、吾分差遣候、別而可入念候、謹言、」とあり、景勝は、真田が海士淵(海ヶ淵)に城を取り立てた(言わずもがなの上田城だ。)との海津からの注進を受けて信濃の諸士に城を攻めしめんとし、泰忠に虚空蔵山に入ってこれを監督するよう指図している。
お城は村上連珠砦の本城に相応しい縄張を持っている。高所故に普請に限界があるのは当然だが、謂わゆる恒久的な要害として整備が進められた事は現地に赴けば容易に理解出来る。虚空蔵山山頂は物見の場で、西側の一段下がった削平地が主郭、別に腰郭、風除け出来る場所に小屋掛けが想像される郭群を持つ。又、城域東側は崖地に近い岩場、虎口を抜けた城域西端部には大堀切が付く。展望の良さは当たり前だが抜群、上杉勢は上田城の普請を此処から覗いていた訳だ。
虚空蔵山は通年で登山者が多く訪れるお山だけど、山頂部で休憩してたらソロ山ガールに遭遇、話す事1時間余りに。平地で声掛けたら無視されるか通報されるんだろうけど、山中だと気軽に応じてくれる。少なくとも野生動物よりはやや安心出来る存在て事なんだろうか。インスタフォロワーを1名増やして次の物件へ…あ、このアプリも一応推してみたんだけど、「…それは…あんまり要らないかな。」とのお答え。山城ブームて何者かによって作り上げられた虚構に過ぎないと思う。
※写真①は東側からの取り付き、トラバース無理なんで登らない事には始まらない。ロープはこの岩場なのに三つ打ちナイロン製、想像したくないけど毎年交換しているんだろう…と思いたい。
※写真③には眼下に豆粒レベルの上田城がぎりぎり確認出来る。ちなみに虚空蔵山城との比高差は620m位だ。
2024年04月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
亀井城[葛尾城 周辺城郭]
亀井城は葛尾城の南東約6.8km、千曲川北岸(右岸)、標高1077mの虚空蔵山から東方へ伸びる尾根稜線上、標高約1073mの小ピーク上に立地する砦です。南麓の国道18号からの比高は640m位でしょか。一般的な山城と比べて3倍強の比高差は信濃でも大変珍しい。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので虚空蔵山の座摩(ざますり)神社コースてのをネットで検索してから登ってね。虚空蔵山の東方尾根稜線上へ出た後、右手へ2分程進めば同じ葛尾城のリア攻めマップにある積城に、更に3分程進めば該地に至る。行き方は他にもあるんだけど、最もダメージが抑えられるのがこのルート、但し、はっきり言って低登山である。
築城年代、築城者は不明です。一般的には村上連珠砦と呼ばれる城砦群の一つとされる。村上連珠砦は虚空蔵山と太郎山の山塊に総計17を数える城砦群、名称のままだと築城者は村上氏て事になるんだけど、そうだとは言い切れないものも幾つか含む。大体にして村上連珠砦と呼ばれる根拠がよく判らん…伝承故なんだろうか。
お城の案内板も立っているが比定地である。但し、この小ピークには明らかな人工の跡、削平が見られる。村上連珠砦は概ねで虚空蔵山山頂部に立地する虚空蔵山城の支砦群であるとも解釈しているが、それに従えば虚空蔵山城に付随する物見の場て事になるんだろうか。信濃のお城の神は城域東側下段の大岩を物見の場と推測しているが、別に此処に限定しなくとも急峻な尾根稜線上はどんな場所でも展望が開けている。総じて言えば、砦と称するのも烏滸がましい尾根稜線上の狭小な削平地である。
お城っぽく見えるように必死で撮影アングルを探していたら、縦走中の登山者に、「山城ですか?」と声を掛けられた。大抵の場合なら何を撮っているのか恥ずかしさ満点で説明しなきゃならないんだけど、村上連珠砦はそれぞれに案内板か説明板が必ず設置されているので、少なくとも興味の無い方でも登山道の各所に訳解らん山城みたいなものが存在するて事は知っているようだ。この登山者に太郎山まで一緒に登る事を提案されたけど、この後のリア攻めが当日のメインなおいらは当然、丁重にお断り…理由を説明したら、「え〜それだけのために此処まで来たんですか〜」と返される。山城ブームてあるけど、たぶん一部の間で言っているだけの話だと思う。
…先月、別の村上連珠砦を2件訪ねた際に思ったんだけど、標高700mと標高900mの環境の差がこんなにも違うものなんだて事にびっくりした。当日は快晴、標高700m地点では少し動くと汗ばむ陽気でインナーを1枚脱ぎ捨てたけど、標高900m地点では弱風とはいえ風が冷たく、気温で−10℃、体感温度は更に低く手が悴む程、寒くて居ても立っても居られない状況だった。単純に冷えてきたのかなとも思ったけど、巻きでリア攻めを終えて急いで下山、標高700m地点に戻ってみたらやっぱり暑い。同地点では気温も確実に上昇している。季節の変わり目に伴う現象なのかもしれないけど、里山とはいえ防寒対策の準備だけは常に怠らない方がよいと痛感した。
山城て標高が高けりゃ高い程有効であると思いがちだけど、籠城に及ぶ場合には生活の場ともなる訳で、環境、水の手等にマイナス要素を多分に含む事となる。元から高度の高い信濃の要害でも平野部との比高差が概ねで200m前後に抑えられているのはそれが理由の一つでもあるんじゃないかな。山頂部に築かれた要害は意外な程少なかったりもする。
※かずりが培った撮影テクニック、「何でもない土の起伏を城郭遺構の様に撮る。」も撮影対象によって限界がある。
2024年04月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
積城(接城)[葛尾城 周辺城郭]
積城(接城)は葛尾城の南東約6.7km、千曲川北岸(右岸)、標高1077mの虚空蔵山から東方へ伸びる尾根稜線上、標高約1065mの小ピーク上に立地する砦です。南麓の国道18号からの比高は635m位でしょか。平均的な山城と比べて3倍強の比高差は信濃でも大変珍しい。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので虚空蔵山の座摩(ざますり)神社コースてのをネットで検索してから登ってね。虚空蔵山の東方尾根稜線上へ出た後、右手へ2分程進めば該地に至る。行き方は他にもあるんだけど、最もダメージが抑えられるのがこのルート、但し、はっきり言って低登山である。
築城年代、築城者は不明です。一般的には村上連珠砦と呼ばれる城砦群の一つとされる。村上連珠砦は虚空蔵山と太郎山の山塊に総計17を数える城砦群、名称のままだと築城者は村上氏て事になるんだけど、そうだとは言い切れないものも幾つか含む。大体にして村上連珠砦と呼ばれる根拠がよく判らん…伝承故なんだろうか。
お城の案内板も立っているが比定地である。尾根稜線上北側下段には風除け出来る削平地が確認されるが、他の部分にあっては削平も皆無に近く限り無く地山の印象、砦跡として確証を得られないのは明確な城郭遺構が認められないが故だろう。そもそも論で積城の存在自体に根拠が無く、比定地てよりは伝承を元にした推定地て事になると思う。
同じ葛尾城のリア攻めマップにある持越城からの比高は380m位、殆ど全てが急登、ロープが設定された岩場もある。おいらにとっては正に地獄のモーメント、体力も持ってかれる。あれだけ朝食をがっつり食べたのに腹ぺこさえ感じる…
…日頃からおいらは自分に役立つ各種情報収集に余念が無い。そんな中で登山中の腹ぺこ問題を解決に導く有益な食品がある事を後輩から聞いた。そりは…柿の種、そう、◯田とかが製造、販売しているあの大人気食品だ。意外な事に柿の種は栄養価満点のハイカロリー食品、日本の登山者の一部の間では非常食として重宝されているらしい。持ち運びが軽く携帯に便利、エネルギー補給もしっかり出来るんで登山のお供にはぴったりて訳だ。柿の種上級者?ともなるとウォーターボトルに詰め込んでちびちび食べながら登るんだそう。今回、しっかり者のおいらは小袋6袋をザックに詰め込んで登山中の柿の種デビュー、こりで腹ぺこ問題も一気に解決!…て思ってたら運用上の意外な欠点も…そりは…袋を開けてしまうと全部を食べ切らなきゃならない事、「出されたもんは全部食えっ!」を生活信条の一つとするおいらには残す事なんて論外だ(まぁ、自分で出したんだけどね。)。従って、全部食べる→喉が異常に乾く→水分がぶ飲み→歩き始める→気持ち悪くなる…て謎現象に…登山中の柿の種は奥が深いんだぜ…小袋は止めとけ。
※ 村上連珠砦は捉え方によって数に諸説ある。はっきりとさせる根本が見当たらないのでおいらがそうだと考えているものを数えてみた。
※写真①は登山道の一部を撮影したもの。とてもじゃないけど手軽には登れない。
※写真②は積城下段に位置する標高約940mの兎峰を撮影したもの。ロッククライミングをする人が訪れるのか、頂部の岩盤にはアンカーボルトが打ち込まれていた。
※写真③はその兎峰頂部から撮影した上田市市街地、弘治三年(西暦1557年)の第三次川中島の戦いにおける長尾勢の行軍停止ポイントである「半過岩鼻」が写真向かって中央、やや左手に見える。長尾勢は武田氏支配領域の奥深くまで行軍しているが、決戦を避ける武田勢を前にしてその成果は限り無く無に等しかった。ちなみに兎峰は上田市最強の絶景ビュースポット、但し、滑落したら原型を留めない即死レベルの絶壁を正面とするので端っこには近寄らない。
※写真④はひたすら登った後に待ち受ける、座摩コースと虚空蔵山・太郎山 縦走路の分岐、写真の方向へ進めば虚空蔵山山頂に至り、逆の方向へ進んで登り詰めれば太郎山山頂に至る。途中にリア攻め1件、寄り道も少々しているが、ログを確認すると登山開始から2時間38分で此処に到達している。
※かずりが培った撮影テクニック、「ただの地山を山城の様に撮る。」も撮影対象によって限界がある。
※作成してて思ったんだけど、登山系アプリの口コミとした方がよいのかもしれん。大体にして何の口コミなのかもよく解らん。
2024年04月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
持越城[葛尾城 周辺城郭]
持越城は葛尾城の南東約7.0km、千曲川北岸(右岸)、標高1077mの虚空蔵山から南方へ伸びる尾根中段上、標高約682m地点の平場を中心に立地する砦です。南麓の国道18号からの比高は255m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので虚空蔵山の座摩(ざますり)神社コースてのをネットで検索してから登ってね。該地はこのコース上となる。
築城年代、築城者は不明です。一般的には村上連珠砦と呼ばれる城砦群の一つとされる。村上連珠砦は虚空蔵山と太郎山の山塊に総計17を数える城砦群、名称のままだと築城者は村上氏て事になるんだけど、そうだとは言い切れないものも幾つか含む。大体にして村上連珠砦と呼ばれる根拠がよく判らん…伝承故なんだろうか。
再訪となる。初回訪問時は山尾根の縦走でへとへとになってしまい薄いリア攻めしか出来ていない。これは他の村上連珠砦の幾つかの城砦にも当てはまる事で、個人的にはその結果に全然納得していなかった。今回の訪問ではそれ等を中心に廻る事で計画、初回訪問時の下山ルートを逆に辿るイメージで登っている。即ち、前述の座摩神社コースを使い、持越城、積城、亀井城、虚空蔵山城、鳥小屋城、高津屋城、ケムリの城(全て同じ葛尾城のリア攻めマップにスポット登録されている。)を殆ど一筆書きで縦走するて感じ。但し、目標を絞ったとはいえ厳しい事には変わりがない。地図上では数珠繋ぎだが、現地での苦労は想像を遥かに超えるものがある。
虚空蔵山と隣接する太郎山では毎年、トレラン大会が行われていて、当日も下見のためにランナー数人が訪れていた。その内の一人のお話しによると、「コースはトレーニングには最適なんすけど、大会のコースとなるとちょと問題があるんすよ。」との事、落ち葉の堆積、ザレ場やガレ場、長きに渡るロープ場の設定…尾根の弛みが極端に少なく、虚空蔵山山頂に至るどのコースを辿っても基本的にはその殆どが急登である。特に太郎山との縦走コースはアップダウンも激しく、一山分を下りて登り返すなんて事も当たり前、兎に角、だるい。又、全体的に登山コースとしての整備が追い付いておらず、崩落箇所等、誰でも手軽に登れる登山道の体を成していない部分が散見される。
おいらは山登りが大嫌い。誤解があるかもしれないけど、山城がそこにあるから仕方無しに登っているだけ。今回は気持ちが続かなくなる事を想定して、腹ぺこでは絶対に発動しない登山トランス状態に早期に入る事で問題の解決を図ろうとした。早朝の6時30.分にホテルの朝食、人の3倍を食し牛乳1ℓをがぶ飲み。万全の体調で臨むが、登り始めたら突然気持ち悪くなってしまう阿保っぷり。登山トランス状態は最後まで発動せず…
持越城は村上連珠砦の中では比較的に登り易いお城、城域は南北に長く展開する。全体的にはファジーな印象、遺構としては土塁、石塁、石積みが広範囲に散見される。但し、城域外、東側の緩斜面上は後世、桑畑だったそうなので、その全てを往時のものとするのは難しいだろう。又、縄張自体が一般的な砦とはかけ離れている。純粋な砦てよりは何某かの別の目的(個人的推測だが、上田城築城牽制に伴う陣城の類いだと思う。)で築かれたようにも思える。
今回の縦走は距離にして約6.3kmに過ぎないけど、総経過時間は8時間05分に及んでいる。単に山頂に登る事だけを目標としないめぐら〜には登山者以上の時間と負荷が掛かっている。ちなみにトレラン大会、「UEDA VERTICAL RACE」は今年も5月の3、4日に開催予定、当然、おいらも参加するつもり…だったけど、誰かの告別式に当たりそうな虫の報せがしたので取り止めた。又、アプリの登録城、虚空蔵山城が立地する松本市中川の虚空蔵山では、コロナ禍以前に「米かつぎマラソンin信州松本虚空蔵山」…て凡人には理解不能な大会も開催されていた。信仰のお山は現代においてもそれぞれ修行の場を提供し続けている…
※村上連珠砦は捉え方によって数に諸説ある。はっきりとさせる根本が見当たらないのでおいらがそうだと考えているものを数えてみた。
※トレランランナーは上級者になると水分も持たずに完走するらしい…自らを変態と称していたけど、知らない世界の変態達の話を聞くのは実に楽しい。
2023年09月12日 石堂駿河守Lucifer
葛尾城
坂城神社かり近くの駐車場が有りますが、ミニバン SUVの方は入口がかなり狭い為、向かいの民家の敷地に侵入してしまう可能性が入ります。気をつけて下さい。車をキヅつける可能性もいります。私は坂城神社の駐車場を参拝してお借りしまして。又、登城中蜂に気を付けて下さい。
2023年05月29日 ほりーないと
坂木宿ふるさと歴史館[葛尾城 関連施設]
旧北国街道坂木宿の本陣があった場所に「ふるさと歴史館」があります。表門(写真②③)は250年以上前の陣屋(藩や幕府の役所)の門を移築したものといわれています。葛尾城の山の麓に位置します。
館内には、甲斐の武田信玄と攻防を繰り返した村上義清の生涯の展示、葛尾城跡案内図(縄張り図)配布、葛尾城の御城印販売などがあります。今回は葛尾城リア攻めしませんでしたが、受付の方から熊出没情報を教えてもらいました。その話を聞いた後に町内放送で熊出没注意のアナウンスがありました。
葛尾城がある坂城町には他にも興味深い所がありますので紹介させていただきます。
【鉄の展示館】
人間国宝の刀匠・故宮入行平一門の作品、古刀から新刀、新々刀にいたる名刀が展示されています。すでに終了していますが、飯田藩堀家伝来の名刀「和泉守兼定」「村正」が特別展示されていました。ふるさと歴史館から徒歩5分くらいです。
【さかき千曲川バラ公園】
葛尾城の薔薇バージョン御城印が限定販売されています。写真④はバラ園から見た葛尾城です。
2022年11月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
岩崎城[葛尾城 周辺城郭]
岩崎城は葛尾城の西方約0.6km、葛尾城主郭が存する標高805m山塊山頂から西方へ延びる標高約590mの尾根上平場に主郭が存します。西麓の国道18号線からの比高は200m位でしょか。
行き方は当たり前だけど葛尾城主郭から西方尾根を下れば辿り着きます。が、岩崎城は葛尾城の搦手に位置するので単独での登城路が別に付いてます。岩崎城西麓の林堂寺の南側には登城路を示す標柱がちゃんと立っていますので岩崎城だけを目指すなら此処から尾根に取り付くのが吉、途中には比丘尼石ていう村上氏退去に伴う悲話伝説の残る奇岩を見る事も出来ます。ちなみに南西麓からも道が付いていて、分岐を岩崎城と逆に進めば葛尾城の根小屋とされる泉平を経て葛尾城のもう一つの支城、姫城に至る事が出来ます。
お城については葛尾城の支城なんで割愛、実は岩崎城は色んな意味で不遇なお城で、坂城町教育委員会作成の葛尾城跡案内図にも記載が無く完全に葛尾城の部分として扱われている…姫城はあるのにね。更に不遇なのは訪ねるのが面倒になる事が最大の理由なんだろう、葛尾城の主郭から姫城へ下り、登り返して主郭に戻り、岩崎城へと西方尾根を下るのが一般的な葛尾城詣だけど、たぶん坂城神社周辺に捨てた車の事とか考えたら多くの人はきっと諦めちゃう事でしょう(比高約380mの葛尾城さえ面倒、平均的な山城5城分位の体力を消耗するわ…)。ちなみに皆んな死ぬ様な思いをして登る葛尾城ですが、軽四駆で林道を進んで主郭からの北方尾根に取り付けば徒歩で登る比高は15m位、駐車場もしっかり付いてます。
自分も前述の理由からスルーしてきたお城です。色んな情報のみを閲覧して訪ねた気になってましたわ…見所は主郭西側の段郭、城域最西端に残る堀切+竪堀+竪土塁+土塁+土橋+虎口+帯状の腰郭の遺構集合体でしょか、城域全体は間延びした印象ですが此処だけは是非お願いしたいところ…特に南側へ落ちる長大な竪堀+山側竪土塁は凄いっす。
登城路からは村上氏時代において山田国政、吾妻清綱の要害であったアプリ登録城である荒砥城を眺める事が出来ます。千曲川流域に一族等を配し、その要害を葛尾城の前衛としての機能を持たせたのが村上氏であったが、これ等の失陥が逆に千曲川北岸に閉じ込められる結果となったのは現地に赴けば明白だ。堅城を誇った葛尾城の自落は当然の皮肉な結果だった訳だ。
2022年05月19日 しげしげ主税頭信繁
葛尾城
車で檄狭の林道を3km程進軍して登城口にたどり着きました。道幅は狭く横は崖で大きめの石がゴロゴロ点在してます、山側からは木の枝が出てますのでボディーに傷が着く可能性があり運転に自信が無い方、は林道はおススメ出来ません。登城口からはそれほどキツイ登りもなく20分程で主郭跡まで行けます。次回はふもとの坂城神社からチャレンジしたいです!
2022年01月09日 国府左京大夫城介
坂木宿 ふるさと歴史館[葛尾城 御城印]
坂城町にある3つのお城(葛尾城・出浦城・狐落城)の御城印が発売されています。1枚330円となっています。
2021年05月25日 つか征夷大将軍ぽ
駐車スペース[葛尾城 駐車場]
Uターンスペースも考えると3,4台が限度かと。ここまで来て停められないとショックはかなり大きいかな。道のりも大変なので休日は素直に歩きで登ったほうが良い気がします。
2021年05月25日 つか征夷大将軍ぽ
お城への林道入口[葛尾城 その他]
近くの駐車スペースへはこちらから行けますが未舗装路でかなり狭く道の横はすぐ崖です。対向車とすれ違うスペースもかなり少ないので行く人は気を付けてください。普通車でも行けなくは無かったですが車高の低くない軽自動車が良いと思います。ここから3.5キロで20分弱そのような道を進みます。
2021年02月13日 eiki
虚空蔵山城[葛尾城 周辺城郭]
標識1078メートルの虚空蔵山頂に築かれていた城、上田市の南に聳える険しい岩山で戦国期に村上氏によって築城されました。虚空蔵山城というのは総称で亀井城、積城、高ツヤ城などで構成されています。堀切、曲輪などはっきりと確認できます。比高600メートルあり登山道はしっかりしていますが急登です。ここは、村上氏の領地の上田、塩田平、坂城を巡視できる重要軍事拠点だったとのことです。写真は本丸から上田盆地を俯瞰したものです。
2020年11月01日 ガルガリ「弾正大弼」博士
葛尾城
坂城神社に車を停めて約1時間半ほどで主郭まで行かれます
途中、砂岩の岩場があり足元が滑りやすく危険な場所がありますので登山靴の方が安全です
山頂付近には二ノ丸、主郭、その向こうに10m近い大堀切り、さらに先に二段掘り切り、あと施工途中の掘切り跡や幅2m長さ10mほどの謎の石積みがあります
別ルートとで主郭近くに車の停められる駐車場もあるようです
2020年10月25日 観空
葛尾城
坂城神社裏からスタートしました。
途中尾根に出るコースを取り、主郭まで50分でした。
途中姫城への分岐がありますが、今回は時間の都合で行きませんでした。
細い尾根上の城郭で、連続した堀切、石積、主郭には土塁もあり、東屋にスタンプと芳名帳が置いてあります。
帰りは近道とされるコースを取りましたが、松茸山らしく、赤松林には立ち入り禁止のテープが張られていて景観が…
近道は30分でした。
2020年04月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
物見城(小矢場城)[葛尾城 周辺城郭]
物見城(小矢場城)は村上氏連珠砦の一つ、葛尾城の南東約6.2km、標高1077mの虚空蔵山の南中腹、南方へ延びる支尾根上、標高約695mのピークの一つに主郭が存します。南麓からの比高は275m位でしょか。苦労対効果が低いものも多くあるこの城砦群ですが、山城好きならどんなに苦労しても行く価値のあるお城です。
行き方は虚空蔵山縦走ルートを和合城を経て更に登って行き、菖蒲平、陣馬鳥越山のピークを過ぎて暫く歩くとお城への案内板が立っていますのでこれに従って下さい。案内板には「物見城跡(10分)」とありますが、城跡の説明板には「縦走路より15分」と書かれていて、思わず「うっ、嘘付き!」とか呟いたりしてしまいますが、許容範囲なので許してやって下さいまし。縦走路からは折角登った山道を結構下ることになって面倒臭いですが、そういう場所にあるお城ということなので頑張りましょう。ちなみに直登する猛者もいるみたいですが、この辺の山の土は濡れていれば沈み込み、乾燥していれば表土ごと持ってかれる…おまけに間伐も定期的に行われているので、アクセスポイントの選択が難しい…結果的に…遠回りにはなるけど縦走路を使いましょう!道がちゃんとあるんだから普通に行った方が体力的にも吉です。
お城は個人的に変態城に分類されます。郭は2つありますが、両郭合わせても30人が限度の小ちゃさで、これ以上詰めるとたぶん寝る場所をめぐって戦争が起きるでしょう、物見城の名に相応しいです。相応しくないのは山側を5条の連続堀切+竪堀でぶった斬ってるところで、堀切のぽこぽこ総面積は遥かに郭の総面積を上回っています。砦以下の規模のお城に過剰とも言える土木量…疑いの眼差しを向けるところですが、虚空蔵山城を中心として虚空蔵山を要塞化したのが村上氏連珠砦の本質だと思うので勘弁してやって下さいまし。又、縄張図にはありませんが、西側斜面の竪堀下部終点の下に帯郭があるような気がします。
このお城を攻略したら縦走路に戻り、隣の尾根にあるケムリの城に行きましょう!全国的に見てもその変態ぶり(褒め言葉っす。)は傑出してますので張り切って行きましょう!
2020年03月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
狐落城[葛尾城 周辺城郭]
狐落城は葛尾城の支城とされ、葛尾城の南方、千曲川の南岸約4.2km、標高789.6mの三水城山から北方へ延びる尾根上、標高665mの狐落城山の山頂に主郭が存します。東麓からの比高は260m位でしょか。
自分全然知らなかったのですが、上田から車で約15分、電車に乗ると3駅で葛尾城のある坂城町中心部に到着しますが、江戸時代に北国街道が整備されるまでは上田原から葛尾城へ向かうには室賀峠を通るしかまともな道は無かったようで、狐落城はこの峠口を押さえる重要な場所に位置します。
築城年代は不明ですが、築城者は村上氏という事になりますね。
天文二十ニ年(西暦1553年)、葛尾城は自落し強勢を誇った村上氏は越後に逃れますが、戸石城を調略により失い、千曲川流域の諸豪族の離反を招き、三水、狐落の両城を失陥し孤立した事に起因するのは明白です。村上義清が葛尾城を去ったのは狐落城落城の数日後の事でした。落城時に城代だったのは児島兵庫介という人でしたが、大須賀久兵衛尉という土豪が武田方に内応し陥落、後に久兵衛尉は南條(テクノさかき駅周辺)に所領を得ましたが、長篠の合戦で討死しています。
行き方はGoogleマップにも位置登録されている村上大国魂神社を目標に設定して下さい。ここから少し登ると村上氏関連の史跡の一つでもある十六夜観月殿というのががありますので、これを見学しつつ尾根筋を登っていけば到達します。道は最初緩やかですが、狐も落ちる城の名のとおり急坂が途中から続きます(ロープの設置箇所あり。)。ただ迷う事は決して無いので頑張りましょう。
お城は素晴らしいです。ほぼ単郭のお城なんですが、堀切で尾根をぶった斬りまくりで、こんなに切らなくてもいいんじゃないかなとか思うぐらい。主郭部は二段で上段の削平地には山側に土塁、又、切岸には相当量の石積みが残されています。このお城、感動するのは下界から主郭部の段々とその削平具合、尾根に穿つ堀切のクサビが数条等、はっきり形として確認出来る事!攻城後は近くにあるびんぐし湯さん館に立ち寄って汗を流した後、お城を振り返って遠景を眺めて下さい!他では中々見れない光景に「おぉーっ!」とか叫びますよ!
2019年12月29日 信濃守モンチッチ
姫城[葛尾城 周辺城郭]
葛尾城の南側にある出城です。三の郭からしばらく登山道を下っていくと麓の坂城神社と姫城の分岐の案内表示があります。始めはわりと急な下りですが姫城に近づくにつれて緩やかになります。姫城の主郭の北側、南側に堀切が残っており、南端のこんもりは土塁かと思います。
途中、岩崎城へ向かう道もありますが、2019年12月の時点では台風などの影響で倒木が多く道がわかりづらかったです。
2019年06月23日 信濃守モンチッチ
葛尾城跡登山者専用駐車場[葛尾城 駐車場]
石積櫓跡側にも駐車場はありますが、山道を運転するのが不安な方や登山も楽しみたい方はこちらの駐車場が良いかもしれません。
坂城神社裏の登山口から主郭までは急坂のルートが約40分、姫城跡分岐を経由するルートが約60分かかります。
2019年04月27日 日高守きこりん
岩崎城[葛尾城 周辺城郭]
葛尾城から西に派生する尾根筋を抑える支城として岩崎城が築かれており、大きな竪堀や石積の痕跡がある土塁、段郭などの遺構が残っています。
葛尾城から降って来れますが、下から登る場合、国道18号のセブンイレブン(坂城苅屋原)の向かいの踏切を渡って沢沿いに進むと右手に登山口があります。途中には葛尾城(姫城)から落ちてきた村上義清の奥方が石になったという伝説が残る比丘尼石があり、対岸の出浦城や荒砥城などの景色もよく見えます。
2018年10月31日 サスケ左近衛少将
葛尾城
城跡の駐車場には、林道で行く事になりますが、舗装されてない道が長く続きます。普通車で行けない事は無いけど…下の神社に停めて歩いた方が無難です
2017年11月07日 カーネル
葛尾城
しなの鉄道 坂城駅から
北の坂城神社を目指し駅前通りを進む
街並みはいい雰囲気で、村上氏の居館跡の石碑もありました(行ってません)
坂城神社でお参りし、神社北側の葛尾城の石碑に従い歩く。近道(1.2km)と遊歩道(1.5km)があるので、遊歩道を選択
斜面を登ると尾根に出ます。尾根からの風景は絶景で、ニホンカモシカにも会えました。道は明瞭でよく整備されていますが、滑りやすいところもあるので、注意です
本丸には小屋がありますが、なぜか屋根裏に地勢図が張ってありました
地勢図を参考に堀などを見てから、駅に戻りました。2時間弱でした
2015年05月10日 日高守きこりん
葛尾城
城跡一帯は松茸山(留山)で、秋は要注意です。秋季立入り禁止を謳う張り紙とテープが歩道沿いにずっとあります。
罰金30万とか恐ろしげなことも書いてあります。歩道から外れなければいいんだと思いますが…
塩田城も同様です。
葛尾城の周辺観光情報
刀匠のまち「坂城」の象徴である人間国宝故宮入行平刀匠や宮入一門刀工の作品をはじめ、長船や山浦など古刀・新刀の古名刀、さらに故高倉健さんが旧蔵していた刀剣類など、定期的に展示します。
詳細はこちら
坂木宿 ふるさと歴史館
坂城町を拠点に活躍した清和源氏の名族「信濃の村上氏」と戦国の勇将「村上義清」を中心に、北国街道坂木宿等に関する資料を展示しています。特に武田信玄を唯一破った村上義清の、武田氏や真田氏との激戦、川中島の戦いなど見ごたえのある展示内容となっています。
笄の渡し
現在の笄橋付近といわれている。天文22年(1553)葛尾城落城後、村上義清の奥方が対岸の力石に船で落ちのびようとしたとき、わが身の危険をかえりみず船を出してくれた船頭に、お礼として髪にさしていた「笄」を贈ったという伝説から呼ばれるようになったということです。
葛尾城の周辺スポット情報
岩崎城(周辺城郭)
姫城(周辺城郭)
狐落城(周辺城郭)
物見城(小矢場城)(周辺城郭)
虚空蔵山城(周辺城郭)
高津屋城(周辺城郭)
鳥小屋城(周辺城郭)
燕城(周辺城郭)
坂木陣屋(周辺城郭)
内畝(周辺城郭)
観音坂城(周辺城郭)
積城(接城)(周辺城郭)
持越城(周辺城郭)
和合城(和子城・城山)(周辺城郭)
村上氏満泉寺館(周辺城郭)
亀井城(周辺城郭)
ケムリの城(周辺城郭)
村上義清公墓所(供養塔)(寺社・史跡)
坂木宿 ふるさと歴史館(御城印)
トイレ(トイレ)
葛尾城跡登山者専用駐車場(駐車場)
駐車スペース(駐車場)
坂木宿ふるさと歴史館(関連施設)
登城口(その他)
お城への林道入口(その他)
見晴らし岩場(その他)