麻績城(おみじょう)
麻績城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長野県東筑摩郡麻績村麻次柳8009
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 服部氏
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 服部氏、青柳氏、(麻績氏)
廃城年
- 慶長元年(1596)
遺構
- 曲輪、帯曲輪、土塁、堀切、竪堀
指定文化財
- 県史跡(麻績城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
青柳城(長野県東筑摩郡)[4.2km]
松田家館(長野県千曲市)[7.7km]
荒砥城(長野県千曲市)[8.3km]
屋代城(長野県千曲市)[10.6km]
牧之島城(長野県長野市)[11.2km]
葛尾城(長野県埴科郡)[11.6km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[11.6km]
岡城(長野県上田市)[14.9km]
横田城(長野県長野市)[15.0km]
松代城(長野県長野市)[17.4km]
麻績城の解説文
[引用元:Wikipedia「麻績城」の項目]
麻績城(おみじょう)は、長野県東筑摩郡麻績村にあった日本の城。長野県指定史跡[1]。北国西街道麻績宿の背後にある標高940メートルの独峯にある。
概要
戦国時代に麻績の地を支配したのは服部清信であった。麻績城の南西の麻績古城(虚空蔵山城)に居を構えていたが、守りを強化するために麻績城を築いた。
しかし、天文22年(1553年)甲斐の武田晴信が信濃国筑摩郡を領有し、青柳城の青柳清長を従えて服部氏を追い払い、青柳氏が麻績氏を名乗り、麻績城には青柳氏が移った。
天正10年(1582年)、武田氏滅亡により織田信長麾下の木曾義昌の所領となるが、本能寺の変で織田氏の軍勢が信濃から撤退すると(天正壬午の乱)、上杉景勝は旧服部氏の麻績左兵衛清正を入城させた。しかし徳川氏の支援を受けて信濃府中(松本地域)を回復した小笠原貞慶との争奪の地となり、最終的には小笠原氏の支配地となった。
天正12年(1584年)4月、荒砥城、佐野山城を逃れて来た屋代氏、塩崎氏を匿ったため猿が馬場峠を越えた上杉軍の追撃を受ける。
主郭は東西に伸びた峯の西端にあって、東西40メートル、南北25メートルの長方形で、西側に土塁跡がある。本城の前面は険阻で登城が困難で、堡塁の役目を果たしている。
参考文献
- 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書3』 1993年
- 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年
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麻績城の口コミ情報
2025年08月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
麻績氏館(服部氏館)[麻績城 周辺城郭]
麻績氏館(服部氏館)は麻績城の南方約1.0km、麻績川北岸(右岸)、西沢川東岸(左岸)、標高約651mの丘陵台地上平場に立地した居館です。該地は標高943mの麻績の城山山頂から南方へ伸びる山尾根と標高1022mののろし山山頂から南方へ伸びる山尾根とに挟まれた尾根間鞍部に位置し居館地の場所では谷戸部を形成している。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「麻績宿本陣 瀬戸屋」を目標に設定して下さい。この本陣から長野県道12号、丸子信州新線(通称は善光寺街道だ。)を東方へ少し歩くと「麻績城入口」の標柱が立っているのでこれに入る。真っ直ぐに少し歩くと一般住宅の敷地内に「麻績氏居館跡」の標柱が立っているので直ぐに該地は判る筈だ。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは服部(麻績)氏と伝わる。同氏は村上氏の被官であったとされているが出自等が全く不明だ。
麻績に様々な形で爪痕を残していったのは服部左衛門清信だが、服部氏の事跡は同名に関わるものしか殆ど伝わらない。
南北朝時代には鎌倉時代に新補地頭として入部した伊賀氏の所領が麻績御厨内にあり、これを相伝した伊賀盛光が北朝方として活躍している。建武四年(西暦1337年)一月十五日には、奥州総大将、斯波家長に従い湯本城に攻め寄せているが、この人数を引率していたのは同名の被官、麻績盛清であった。推測するに伊賀氏の一族の者であろうか(麻績の代官か。)。少なくとも麻績御厨には在名を称する武士があった事に間違いは無い。
応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」の際には、村上中務少輔満信の麾下に、麻続(績)山城守なる人物の名が見られる。「麻績村誌」では、この山城守を、新補地頭として入部した服部伊賀守の後裔としているが、伊賀守はその実在が限り無く疑われている人物らしい。最近ではこの山城守を、麻績御厨内矢倉村の地頭職であった伊賀氏の系統とする考察がある。
史料が少なく纏める事が難しいが、服部氏とは伊賀氏の一族、もしくは被官であった麻績氏の後裔ではないかと推測したい。特に室町時代以降における、武家の在地支配層の確たる存在がはっきりとしない地域である。村上氏の麻績御厨への勢力の伸長に伴い、これに代官等として従った在地土豪の一氏と見るべきではないだろうか。
居館の現況は…耕作地、一般住宅とその敷地等となっている。城郭遺構は見出せないが、谷戸部に築かれた事も相まって居館跡としては非常に纏まりのある物件だと思う。下段には近世の北国西往還に準ずる古道が東西に走っており、武士の住まう場所としても最上の部類に入る。おいらは大好き。標柱がしっかりと立っているのも萌えポイントの一つ、ありがちょ。
実は4年ぶりの再訪となる。前回の訪問は麻績城をメインとしていたので軽く流してしまっていた。口コミもその時にしたんだけど、誤りが多く今となっては読むに耐えないので削除している。
※該地の麻績は、元仁元年(西暦1224年)、「伊賀事件」で処分された、鎌倉幕府政所執事、伊賀式部丞光宗の配流先であった。但し、同地が預人の所領であったか、伊賀氏の所領であったのかは不明であり、後者であれば、謂わゆる謹慎の沙汰とも見て取れる。光宗は約一年後に赦免されるが、「吾妻鏡」、嘉禄元年(西暦1225年)八月二十七日の条にば、「…本領八箇所之を返賜ふ也」とあり、本領八箇所(全国に散在する。)を返還、安堵されている。
※麻績御厨内矢倉村の地頭職〜永仁貳年(西暦1294年)十一月十一日、伊賀頼泰譲状案には、「一 信濃國麻績御庫八ヶ条之内矢倉村者」とあり、伊賀頼泰は、麻績御庫八ヶ条の内、矢倉村をその子、光貞に譲っている。又、永仁六年(西暦1298年)六月三日には、頼泰の妻と推測される、「ふちわらのうち(藤原氏女)」が、「しなののくにおみのみくりや大よしはら(信濃国麻績御厨大吉原郷)」の二町余り田在家をその養嗣子、「かくふん」に譲っている。
※写真②は居館地付近に立つ近世の郷倉跡の標柱を撮影した物っす。
※写真⑦は麻績城登城口から撮影した居館地の近景っす。こんな暑い日によう登らんけど…ちなみに往時の居館地の東側には小沢が流れていたかもしれない。
※写真⑧、背景に見える一番高い山稜が標高1386.8mの四阿屋山(あづまややま)っす。
2025年08月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
服部左衛門清信供養塔[麻績城 寺社・史跡]
さて、五輪塔マニアのおいらはつい先日、とある情報をネットで見付けて居ても立っても居られなくなってしまい、効率を無視してただこれのためだけに現地入り…失敗したわ〜あん時にGMBGしておけばなぁ…後悔先に立たずやわ…あ、GMBG…何の事だか解らないっすか。Googleマップで墓所してGO♪の事なんすけどね…
服部左衛門清信供養塔は麻績城の南東約1.0km、麻績川北岸(右岸)、標高約636mの段丘台地上平場に立地する新義真言宗の寺院、上野山海善寺の境内に建てられた供養塔です。ちなみに現在のお寺さんは無住であり地区によって管理されているようだ。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそのまま境内に乗り入れて捨てられる。
麻績城城主、服部左衛門清信とその舎弟、左衛門尉加信斎(もしくは清信の子、清正とも伝わる。)の供養塔である。清信の舎弟、海善寺(創建時は上野山光明院戒全寺である。)の住職となっていた海順坊が両名の菩提を弔うために境内に造立したと伝えられている。ちなみに清信は麻績城の南麓に建つ曹洞宗の寺院、佛眼山法善寺の開基でもあった。
服部左衛門清信は村上氏の被官であったらしいが、該地の麻績に入部した時期や経緯にあっては不明である。天文年間(西暦1532年〜1555年)、武田氏の信濃経略によって越後へ逐われ、これ以降は上杉氏に随身しており、天正壬午の乱の際には同氏に従い麻績の地へ還住を果たしている。が、後には小笠原氏に同心した事を理由に上杉氏によって討伐を受け、麻績の城は落城、更級郡の八幡においてその子、清正と共に誅されている。
供養塔は五輪塔と多宝塔の2基があるが、どちらが清信の物なのかは判らない。何れも少し不恰好な塔となっており、専門家の調査によれば、鎌倉時代の様式と室町時代の様式が組み合わされた積み直しと鑑定されているんだそう。少し残念な結果だが貴重な中世の遺物である事には変わりがないんだろう。現在では「承久の乱」の後に新補地頭として入部した伊賀氏が造立したとも考察されている。
麻績の地名の由来は、苧麻を栽培しそれを績いで麻糸を作り、麻布として朝廷に納めていた部民、「麻績部(おみべ)」が住していた事による。ちなみに服部の地名の由来は、服を織る部民、「服織部(はとりべ)」が住していた事により、何れも全国各地に見られる地名だ。
該地の東筑摩郡麻績村は古代からの交通の要衝であり、平安時代に成立した麻績御厨の旧地にして麻績八ヶ条の中心地である。御厨は単純に言えば伊勢神宮の荘園であり、信濃国では千曲川沿いに多数がかつて存在していたがこれには相当の理由がある。
平安時代、伊勢神宮造営のために役工夫米が全国一律に賦課されたが、その負担は大きかったようで、これを賄えずに借財に頼ろうとする開発領主が増えていった。このため次第に負債の弁済として下地そのものを伊勢神宮に寄進する所が多くなり、進んでその荘園になる事で負担の根本的解決を図ろうとした。
往時の千曲川は神に捧げる供御であった鮭が遡上する豊かな川であった。伊勢神宮は神饌に供するための鮭や筋子が獲れる河川流域を選んで御厨を設けており、浅瀬が広がり簗(やな)を仕掛け易い地形条件が整っていた千曲川の流域に御厨が集中する事となった。同川に流れ込む麻績川の流域に位置する麻績に御厨が設けられたのもこれが故なんだそう。
※左衛門尉加信斎〜清信と共に誅殺されておらず、後には麻績神明宮(神明宮は天照大御神を祀る。各地の御厨の旧地に惣社として神明宮が残るのは伊勢内宮からの分祀による。)の神官家を世襲していた宮下家に養嗣子として迎え入れられている。
※上野山光明院戒全寺〜信濃の寺社あるあるだけど、文亀元年(西暦1501年)、裏山が崩落してぺしゃんこにされたらしい。
※曹洞宗の寺院、佛眼山法善寺〜やる事無くなったんで訪ねてみた。口コミはしないので麻績城のリア攻めマップにスポット登録し写真だけ置いておく。
※東筑摩郡麻績村〜御厨があった時期には更級郡に属していたが後には筑摩郡に転じている。
※古代からの交通の要衝〜古くは東山道支道の駅家が設けられ、東山道とを山越えで結ぶ間道の起点でもあった。近世に入ると北国西往還の宿場、麻績宿が設けられている。街道マニアや宿場マニア、本陣マニアは是非…
2025年07月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
安坂城(城山)[麻績城 周辺城郭]
あぁ…突然だけど久しぶりにまともな山城を口コミしてぇ…最近の投稿を改めて振り返って見ると耕作地の写真ばかり…おいらの投稿を初見の方ならば、「田んぼや畑が好きなのかな?」とかきっと思ってしまう筈…それ相応な物件であれば誰か他の人が口コミするだろうと考えて誰も行かないような物件ばかりを優先してしまうんだけど、やっぱしおいらの本領はこちらにある。全てのHARDCORE山城めぐら〜に栄光あれ〜
安坂城(城山)は麻績城の南東約3.0km、安坂川西岸(左岸)、麻績川南岸(左岸)、標高851mの通称、城山山頂部を中心に立地する要害です。東麓の安坂川からの比高は195m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは同じく位置登録がある、東麓の「安坂神社」からとなり、本殿背後から獣柵ゲートを開けて登城路へと入る。道は不明瞭な所もあるが上を目指せば迷う事は無い。
該地の周辺には総称で安坂古墳群と呼ばれる積石塚古墳等が点在しており、この城山自体にも尾根筋、山頂部等に複数の古墳が散在していたと考えられている。縄張は部分でこれ等跡地を活用し東西に長く展開、謂わゆる罰当たり物件でもある。
築城年代は不明、築城者は伝承から麻績長親の次男、安坂次郎長国、又、武田氏時代の城主として安藤加賀守の名が伝えられている。加賀守は天正壬午の乱の際に当地を逐われ更級郡へ脱し、荒砥城のリア攻めマップにある安藤氏館に居したとも伝わる。
現在の長野自動車道から外れてしまうので気付き難いが往時の安坂は交通の要衝である。安坂城の東方約4.4kmの山塊山中に位置する四十八曲峠は、古くは麻績御厨と坂城御厨を結んでいた道筋の中間点、又、同城の南東約5.7kmの山塊山中に位置する修那羅峠は、麻績と律令制下における東山道の駅家、小県郡の浦野駅とを結んでいた東山道支道から分岐する間道の中間点であり、両道は古代から人馬の往来が盛んであった。安坂城の立地とはこれ等を扼す正に麻績側の関門の地に当たる。
随所に残る石積みがよく目立つ山城だが、土留めに使われている石の殆どは積石塚古墳を崩して活用しているものだと推測されている。特に主郭の土塁の前面には石室の名残りと思われる土坑、その天板石と思われる平石等がそのまま残されており、それを裏付ける傍証の一つだとも言えるだろう。段の付いた主郭部の削平は良好、主郭西側山側背後には大堀切1条を含む四連続堀切が穿たれており土の遺構も見逃せない。又、主郭部の南側に付く腰郭の西側山側背後をカバーする竪石塁には誰でも萌える事間違い無し。全体的に見れば各パートがキャラ立ちしたお城、隠れた良城だと言える。
天正十年(西暦1582年)八月三日、春日志摩守、同常陸介、同三河守宛、上杉景勝朱印状には、「従最前忠信、就中、今般両度抽忠勤に付而、安坂之地出置之候、彌当国静謐之上、可令観賞者也、仍如件、」とあり、上杉景勝は、宛名人等に、両度の忠勤抜きん出る事を鑑みて「安坂之地」を宛行っている。天正壬午の乱の際には小笠原氏との境目となった青柳、麻績だが、その後背地を春日氏に宛行った事は、推測するに宛名人等が、青柳城、麻績城、何れかの要害の城番衆だった事を意味しているのかもしれない。この時期における安坂城の動向は不明ではあるが、交通の要衝故に何らかの利用があった可能性は十分に考えられる。
※安坂古墳群〜城山に古墳が存在していた事は素人眼にでも判るのだが行政側に古墳としての認識は無い。ちなみに安坂城自体は東筑摩郡筑北村の指定史跡だ。
※青柳城、麻績城、何れかの要害の城番衆だった〜この時期の青柳城の城番衆の一人に春日源太左衛門があったそうだが…宛名人等の何れかであろうか。
※賞味期限は切れているけど、一応、4月の写真っす。
2025年04月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
麻績城
麻績城は麻績川北岸(右岸)、西沢川東岸(左岸)、宮川西岸(右岸)、標高943mの通称、城山山頂部を中心に立地する要害です。南麓の麻績宿からの比高は300m位でしょか。該地の麻績は「延喜式」にも載る、律令制下における東山道支道の駅家が置かれた交通の要衝である(近世には北国西脇往還、謂わゆる善光寺西街道の麻績宿が設けられている。)。
行き方は先人の口コミ等を参照して下さい。アプリユーザーでどれだけの人間がリア攻めを付けられるのか心配になったりもするお城、訪ねる人はそれなりの覚悟を持ち登城の計画をしっかりと立てられる人間に限られると思う。登城路は判り難いし行き当たりばったりでは到底済まされなくなるので注意が必要だ。
築城年代は不明、築城者は麻績氏だが、同氏には小笠原氏系と仁科氏系青柳氏の二系統があり、武田氏時代に活動が見られるのは後者である。戦国時代には村上氏の勢力が及ぶ地域であり、同氏の被官、服部左衛門清信が麻績城の城主に取り立てられたそうだが、同名は天文年間(西暦1532年〜1555年)に武田氏に逐われて越後へと落ち延びている。
天正十一年(西暦1583年)卯月晦日、吉江玄蕃允(景利)宛、直江兼続書状案には、「脚力到来、祝著之到候、仍、讃州(狩野秀治)煩彌被得大滅之由、目出至極候、自雲龍斎別紙ニも本復之様子手堅被申越候條、令安堵候、尚以無油断可有療治之旨申越候間、其御心得尤候、将又、當表之儀、先達如申届、萬々思召儘に候、就中、去廿七至于麻績御動、彼城即時ニ攻落、被得御大利候、此上有御仕置、近日可為御納馬候間、以面可申上、恐々謹言、」とあり、直江兼続は、吉江景利に、信濃表の情勢を伝え、去る(四月)二十七日、麻績にて彼の城を即時に攻め落とし大利を得た事を報じている。前述した、服部左衛門清信、その子、清正は、「天正壬午の乱」の際に麻績に還住を果たしたが、後の小笠原氏への同心により上杉勢が麻績に攻め寄せ城は落城、両名は上杉氏によって更級郡の八幡において誅されたそうだ。
天正十二年(西暦1584年)卯月(四月)三日、小笠原右近大夫(貞慶)宛、徳川家康感状案には、「去月廿八日、至麻績、青柳被及行、二曲輪迄攻入、随一之者数輩被討捕之由、注進喜悦候、定而落去不可有程候、彌無油断可有御馳走事、肝要候、恐々謹言、」とあり、徳川家康は、小笠原貞慶に、去る(三月)二十八日、麻績、青柳の城において二ノ曲輪まで攻め入り、「随一の者」、数人を討ち捕えた事を褒して感状を発給している。
又、天正十二年四月十九日、小笠原右近太夫宛、徳川家康感状案には、「去ル四日、信州之内麻績、青柳城二之郭迄責寄、能者数輩討取、注進之段、神妙之至ニ候、弥可抽忠信者也、」とあり、徳川家康は、小笠原貞慶に、去る(四月)四日、麻績、青柳の城において二ノ郭まで攻め寄せ、「能者」、数人を討ち取った事を褒して感状を発給している。
麻績と青柳の両城は「天正壬午の乱」に際して上杉氏と小笠原氏の境目の城となり、両勢による城攻めは僅かな期間にも拘らず都合三回に亘って繰り広げられた事になる。
家康の感状は何れも「二曲輪(二之郭)」まで小笠原勢が攻め入った事が書かれているが落城したとの言及は無い。但し、城番衆が逐われた事は確実視されており、以降、仁科氏系青柳氏の当主、青柳頼長が麻績の旧跡を小笠原氏によって安堵されていたようだ。天正十三年(西暦1585年)から天正十五年(西暦1587年)にかけて、頼長は知行地内の寺社に下地を寄進したりする等、領内での比較的に安定した活動が見られるようになる。
お城は登録城なんでアップさりてる写真等を参考にしてくらさい。おいらはこのお城の縄張図における通称3郭のぽこりんが大好き。ちなみに冬場になると南麓から郭の削平と堀切が確認出来たりする。細尾根に築かれる事が多い信濃の山城ならではの光景だ。
信濃の城館て伝えられる城歴が無いものが殆どであり、そうでないものも伝承故に確実な事は何一つとして語れない。この点において麻績城は時代が限定されるとはいえ各種書状にも登場する稀有な山城だったりもする。
※「二曲輪(二之郭)」〜個人的には麻績城のリア攻めマップにある麻績古城の事だと考えている。
2025年03月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
のろし山(望山)[麻績城 周辺城郭]
のろし山(望山)は麻績城の北東約0.7km、宮川西岸(右岸)、標高1022.2mののろし山山頂に立地する狼煙台です。東麓の国道403号からの比高は300m位でしょか。該当山稜は名称そのままのお山だった訳だ。
行き方はアプリの登録城、麻績城の口コミ等を参照して下さい。同城の説明板は麻績の城山とのろし山との間に付く山尾根の鞍部に設置されており、左手を選択すれば麻績城、右手を選択してひたすらに登ればのろし山に辿り着く。もう既に息も絶え絶えになっているとは思うけど、藪の少ない尾根登山(殆ど急登だ。)なんで頑張ろう。ちなみに説明板からの比高は130m位になる筈だ。
が、おいらは前述のルートを選んでいない。比高を格段に稼げるのろし山の北麓から取り付いている。別物件を2箇所程片付けるためでもあったんだけど、この場合はGoogleマップに位置登録がある「佳好砥の滝」を目標に設定しよう。滝の手前には駐車場も付いている。車を捨てたら眼前に迫る山尾根の適当な場所から適当直登する。たぶん2筋が候補に挙がると思うけど、独立峰故にどちらを選んでも山頂には辿り着く。
今回はJR聖高原駅から取り付き場所までタクシーを使っている。単独目標には成り難い物件なので、のろし山〜麻績城〜麻績古城の順に縦走登城を目論んだ訳だ。ちなみに運賃は1600円…財布から1万円札を取り出し、「お釣りは要らないよ。」と手渡すも、「困りますんでお返しします。」と言ってどうしても受け取ってもらえない。お陰様ですっかり財布が重くなっちまったぜ…普段から1万円札以外は持ち歩かないので想定外の重量的負担が発生してしまった。行動不能にでも陥ったらどうしよう…繊細なおいらは不安で過換気症候群になりそうだったぜ。
築城年代、築城者は不明、てか誰でもええやろ…特にお山は普請が成された訳でもない狼煙を上げる単なる場所なのだ。利用したのも麻績(服部)氏、青柳(麻績)氏、村上氏、武田氏、上杉氏、小笠原氏等が候補に挙がると思う。
現在でもそうだが、該地の麻績は筑摩郡から水内郡へ抜ける交通の要衝である。律令制下における東山道は、筑摩郡の覚志(かがし)駅から国府を経て錦織(にしごり)駅に至り、本道と別れた支道は、更級郡の麻績駅を通った後に古峠を越えて犀川を渡る亘理駅に至る。道筋は時代によって変遷があるらしいが、中世においても同様の経路が主要道であり、近世における善光寺西街道も概ねでこれを踏襲している。
天正十一年(西暦1583年)六月十六日、江戸衛門七宛、小笠原貞慶覚書案の中には、「一 河中嶋両郡堺目数ヶ所、景勝押領候、なにとそ令行、取返し可申事」とあり、小笠原貞慶は、石川数正の臣、江戸衛門七に、上杉景勝が押領する川中島両郡境目の数箇所を取り返すと約している。同年四月廿七日には上杉勢によって麻績城が攻め落とされている事から、貞慶が言う、「河中嶋両郡堺目数ヶ所」の内に麻績が含まれていた事は確実であろう。同地は「天正壬午の乱」の際に両勢が激しく争った正に境目である。
狼煙台の現況は…完全なる地山、以上…探索は殆ど通り過ぎただけだ。ちなみに樹木が多いけど展望だけは抜群に良い。
リア攻めを終え山尾根を下って麻績城を目指していると、前述の麻績城とのろし山を隔てる鞍部の手前に狭小だが段付きの平場を持つ崖地上の小ピークが現れた。此処には小さな石祠が鎮座、推測するに麻績城の物見の場であろうか。同城の死角を補完している様にも見える。
謂わゆるびっくり物件なんだけど、山頂に立って周囲を眺望すると、遥か東方に鎮座する標高1252.2mの冠着山(俗称は姨捨山だ。)を遮るもの無く見通す事が出来た。同山山頂部には荒砥城のリア攻めマップにある冠着山砦が立地する。おいらはこの砦の存在に長らく疑問を抱いていたんだけど、狼煙台としては有効だったんじゃないかなと改めて再確認した。のろし山で狼煙を上げれば視力6.0位あれば余裕で視認可能だろう。
※のろし山の北麓から取り付いている〜この際に徒歩で登る比高は145m位だ。ちなみに南麓の麻績宿からの比高は385m位となる。
※中世においても同様の経路が主要道〜現在の国道403号の一部区間(安曇野市明科から東筑摩郡筑北村西条へ抜ける部分である。)は、近代に至るまで街道の存在が確認されていない。特に最近の第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」における考察(武田勢による茶臼山張陣の有無について。)において、多くの誤りを生み出す根本ともなっている。
※写真の順番は麻績城側からとなり時系列的には逆である。
※写真③は上段から撮影した麻績城のぽこりんした近景っす。ちなみにこのお城、前述の鞍部から登ると全周険し過ぎて結構危ないよ。
2024年01月28日 気分爽快右大臣
麻績城
麻績城攻城のために、普段は素通りの聖高原駅で下車。大したことがないと舐めてかかりましたが、この時期は積雪もあり、のろし山、麻績城、虚空蔵山城と回ったら3時間もかかってしまいました。
特にのろし山と麻績城の鞍部から麻績城へ向かう尾根筋は、馬の背という表現がピッタリするほどの要注意箇所でした。
①右がのろし山、左が麻績城
②四郭から見た登城路。落ちたら戻れません。
③最初の堀切
④③は竪堀となり下へ
⑤③を反対側から
⑥ニ郭から三郭を見上げる
⑦主郭とニ郭の間の堀切
⑧竪堀を見上げる。もう戻れない。
2024年01月27日 気分爽快右大臣
虚空蔵山城(古城)[麻績城 周辺城郭]
麻績城の竪堀を落ちてみて、そのまま尾根伝いに虚空蔵山城を攻城しました。
実際には⑧〜①の順に回っていますが、観月苑の駐車場からいくと写真の順に回ることになると思います。
①主郭南は岩で守られている
②主郭隅には石積み
③主郭北には土塁
④主郭土塁の先は巨大な堀切
⑤④を横から
⑥堀切の方には平坦な郭
⑦⑥の北には④より大きな堀切
⑧⑦の堀切を見下ろす
2022年05月18日 sigesige主税頭信繁
麻績城
遺構の状態も良く圧巻の堀切は素晴らしいものでした。
2019年10月29日 ️…
麻績城
令和元年台風19号で被災された方々が1日も早く元どおりの生活を送ることができるように祈念しております。
麻績城ですが、10月27日現在、台風19号による被害は遺構には影響ありません。
ナビコンで示される搦め手入口まで行く道は法善寺から少し入ったところで通行止めになってます。
搦め手入口から麻績城道標までの間の沢沿いの道で倒木が道まで及んでいる場所(すり抜けてとおれます)が1か所あるほか、今後崩落のある可能性がある場所が1か所ありますので、行かれる方は御用心を。
2018年12月30日 カーネル
麻績城
篠ノ井線聖高原駅を背に北上すると、T字の交差点になり、ここは麻績宿地域です。左折して100mほどの路地に麻績城への道標があるので、右折して細い路地を進みます
しばらくして「左虚空蔵山城、右麻績城」の看板がありますが、古城は行かないので右(というより道なり)に進むと砂防ダムのY字の交差点に「麻績城址道標」がありますが、そのまま直進して道が右に90度曲がる手前の道標から、山に入りました
靴が埋まるくらいの積雪で、道は分かりやすい。けど、北北西の按部を目指すも、傾斜がキツくなってきたところで、道をロスト。かつ雪の下の枯れ草ごと滑るのでかなり辛い
動物の足跡を辿ると、按部から南南東に下る別の道に合流し、これを辿り無事に按部に到着。お城の説明と縄張り図があります。左の本丸を目指すが、急坂の細い尾根に凍った雪が張り付き滑る。かなり怖いです。行くのはオススメできません
なんとか山頂に着き、2重堀を愛で帰りました。が、先程きづきましたが、本丸はまだ先だった模様・・・
来た道を戻り130分。いつか(夏に)リベンジを
2010年06月20日 赤いRVR甲斐守@松本
麻績城
麓の宿場裏手に麻績氏館跡あり。そこから少し行くと駐車場。そこから山道を登って鞍部に出る。左手が麻績城、右手がのろし山。なお麻績古城は、駐車場の手前左手に進めば登山口(こちらは未登城)
麻績城の周辺スポット情報
矢倉城(周辺城郭)
口城(周辺城郭)
楡窪館(周辺城郭)
山崎砦(周辺城郭)
吉池淡路の屋敷(周辺城郭)
硯龍山砦(玉根砦・じょうのひら)(周辺城郭)
のろし山(望山)(周辺城郭)
ゴテンジョウ山(御殿山・八幡山)(周辺城郭)
高村番所(周辺城郭)
寺所(周辺城郭)
細川物見(周辺城郭)
麻績氏館(服部氏館)(周辺城郭)
小丸山砦(周辺城郭)
上井堀の鐘つき堂(周辺城郭)
高城(日向城・境木山城)(周辺城郭)
笹久砦(周辺城郭)
虚空蔵山城(古城)(周辺城郭)
安坂城(城山)(周辺城郭)
木曽殿城(周辺城郭)
大山祇社(山ノ神)(寺社・史跡)
法善寺(寺社・史跡)
服部左衛門清信供養塔(寺社・史跡)