虚空蔵山城(こくぞうさんじょう)
虚空蔵山城の基本情報
通称・別名
- 会田虚空蔵山城、会田城
所在地
- 長野県松本市中川
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 岩下氏(会田氏)?
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 岩下氏(会田氏)?
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
青柳城(長野県東筑摩郡)[7.4km]
稲倉城(長野県松本市)[8.1km]
平瀬城(長野県松本市)[10.5km]
麻績城(長野県東筑摩郡)[11.6km]
岡城(長野県上田市)[14.5km]
桐原城(長野県松本市)[14.6km]
松本城(長野県松本市)[14.8km]
林城(長野県松本市)[15.9km]
小岩嶽城(長野県安曇野市)[16.3km]
山家城(長野県松本市)[16.6km]
虚空蔵山城の解説文
虚空蔵山城の口コミ情報
2026年04月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
雨戸屋城[虚空蔵山城 周辺城郭]
雨戸屋城は虚空蔵山城の西方約2.6km、会田川北岸(右岸)、潮沢川南岸(左岸)、安曇野市と松本市に跨る小山脈中の一山、標高約868mの山稜山頂部を中心に立地する砦です。南麓の長野県道302号、矢室明科線からの比高は260m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、案内通りでは行けないので、同じく位置登録がある「五本峠」を目標に設定しよう。南麓の西ノ宮からこの峠の南西方、扇平まで進める車両通行が可能な林道が伸びている。三又に車を捨てたら、後はリア攻めマップを参照して五本峠を目指して徒歩で登ろう。三又の右手の林道を歩く事になるが大した距離ではない。城地への取り付きは峠に張り出す山尾根の末端部(鉄製の火の見が目印だ。)からとなる。
築城年代は不明、築城者には筑摩郡会田御厨、後の会田郷に拠った虚空蔵山城城主、会田氏が推測されている。城地は山中の交通の要衝、五本峠を西麓に控える明らかに道押さえのための砦だ。峠を西行して山を下れば、善光寺道(近世の善光寺街道も周辺では同じ道筋である。)の本道が南北に通る岩井堂へと至り、同地から北行すれば立峠へ、南行すれば会田氏が居館した会田郷の本郷、殿村へと至る。ちなみにあくまでも個人的な観測に過ぎないのだが、新城発見の可能性が高い場所として、雨戸屋城の西方、尾根続きの標高832mの山稜山頂部に目星を付けてある。
五本峠から山尾根に取り付くといきなりの小突起が現れる。何処から城域が始まるのかは知る由もないんだけど、峠に面する不寝見の番所としてはこれ以上は無い地形だ。又、登る尾根筋には郭等として機能していたとしても何ら不思議ではない小ピークが連続しており登城中も飽きる事が全く無い。縄張も含めて個人的には大好物、多くの方は顔を曇らせるて思うけど…
信濃のお城の神は3郭で構成される縄張図を描いているが、縄張図における通称2郭と通称3郭は城域外として扱っても構わないと結構、ふらふらな事を仰られており、個人的には小祠が鎮座する通称2郭からが城域と判断している。コンパクトな砦ながら主郭周りの遺構は濃い方だろう。大手筋には二重堀切1条を含む三連続堀切が穿たれ、主郭東側谷側背後には横堀状ともなる1条の堀切、この堀切からは2条の竪堀が派生していたりもする。特筆すべきは二重堀切の1条から落とし込まれる竪堀であろうか、堀系の中ではこの竪堀だけが不自然なぐらいに長大であり他の遺構との釣り合いが全く取れていない。
おいらにとって大手筋から見上げる主郭のぽこりん感は最高の御褒美だ。主郭には明らかな削平の跡が見受けられ、城域内の全てを遮るもの無く見通す事も出来る。信濃の貧乏だけどキャラ立ちした砦、正に大好物、ほんとすき。
あまり紹介例が見当たらない砦なんだけど、広義に見れば虚空蔵山城砦群を補完する前衛支砦とも言える。登城は苦労しないので、虚空蔵山城を訪ねる事があればデザート感覚で訪城してみるのもよいだろう。雨戸屋城から虚空蔵山のぽこりんを眺望すれば、会田氏がこの小山脈を如何に重要視していたかが理解出来る筈…
※五本峠〜どなたか知らないけど、同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにスポット登録されている(城友さんじゃないけどあの方なんかな…)んで写真だけ入れ替えておく。以前は軽四駆なら此処まで車が入ったんだけど、現在は精神衛生上よろしくないんで諦めよう。ちなみに痺れる事に山中ながら十字路になっちょる…
※デザート感覚〜やっぱしメインで満腹、時間切れするて思うんで単独訪問してくり。ちなみに1日で虚空蔵山城砦群の全てを廻り切る事は不可能だ。
2026年04月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
鍋山城砦[虚空蔵山城 周辺城郭]
鍋山城砦は虚空蔵山城の西南西約3.6km、会田川北岸(右岸)、潮沢川南岸(左岸)、安曇野市と松本市に跨る小山脈中の一山、標高約879mの山稜山頂部に立地する砦です。南麓の長野県道302号、矢室明科線からの比高は285m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。案内通りでOK♪だが、該地まで登る林道の状態が悪過ぎる。幅員が狭い上に現在は整備が殆ど放棄されており、軽四駆なら問題はないが進むのに躊躇するような箇所が多い。又、倒木や崩落、落石等によって、昨日は通れた道が今日はとても無理だった…等の状況に陥いる事も考えられる。いつでも車を捨てられる覚悟で臨んだ方が気持ち的には楽だろう。
築城年代は不明、築城者には筑摩郡会田御厨、後の会田郷に拠った虚空蔵山城城主、会田氏が推測されている。城地は山中の交通の要衝、神木平から五本峠を越えて虚空蔵山の西麓、岩井堂へと至る間道に沿う山頂ピークにあり、神木平と五本峠のほぼ中間点に位置している。
城地の東方に位置する中北山は、小山脈中に点在する各小集落、扇平、五輪平、日向等に通じる間道が交錯する場所であり、寂しい場所ながら山中のスクランブル交差点の様相を呈している。鍋山城砦の占地は狼煙や物見の場であると同時に道押さえの番所を兼ねたものであろうか。規模と縄張からしてそれ以上の役目は到底持ち合わせていない。
砦の現況は…正直、地山以外のものを見出せないんだけど…山頂は削平地てよりは平坦地なんだけど、城郭遺構は何処をどう探したって見付からない。5年前には原型を留めていた吾妻大神の小祠も完全に座屈、ぺしゃんこになっていた。山稜西側斜面の下段には僅かな平坦地が認められるとはいえ、後世の耕作の跡等の可能性も捨てきれず何とも言い難い。全体的には訪ねた者を驚かせるのには十分過ぎる程のびっくり物件だ。
2回目の訪問なんで位置は判っていた筈なんだけど、ろくに地図を見ていなかったもんだから、最初は全く別な場所をリア攻めする始末…此処にもランドマークとなる小祠が鎮座していたんだけど、「あ、あり、祠が誇らしげにあるけど、二つもあったけ?」…みたいな感じでようやく間違っている事に気が付いた。周辺は似たような山頂ピークが点在している場所でもあり非常にややこしい。何れも道押さえの砦として適地かと思われるので尚更の事だ。
城地の南方には日向集落、北方には五輪平集落を控えているが、現在は何れも廃集落となっている。この小山脈中には他にも幾つかの小集落(戸数3、4軒程度…)がかつて点在していたが、平成の時代に入ると退転が終わり全て無住となった。住人の高齢化に伴い、山中での生活を維持していく事が困難となったのであろう。急傾斜地崩壊危険区域の指定も多い所であり、事実上、集落が復活する事はあり得ない。ちなみに南方の日向集落に住した伴在家(坂西氏か。)の先祖は何某かの落人であったとも伝わっている。
…近年、日本では町村の過疎化が進み、地域活性化、地方再生の名の下に様々な施策が試されているが、その実効性には常に疑問符が付く。非常にドライな言い方になるのかもしれないが、我々自身が便利さと豊かさを求めてこうした過疎地域を必要としなくなったのだ。一時の感傷に任せてこの問題に取り組んでみても労力と予算が吸い込まれてしまうだけだと思う。「地方に元気を!」等の口当たりの良いスローガンが罷り通る世の中だが、これ等を発する奴等に具体的な解決策がある訳が無い。
町村単位で地域、地方を調べていると、こうした問題は今に始まった訳ではない事を思い知らされる。江戸時代には自然災害等によって村自体の移転、消滅が多かったし、明治時代に入ると合併が増えてごく小さな村落は僅かな戸数を残して次第に衰退していった。現代の過疎化は社会的インフラ等、行政機能の集約から始まるこの延長線上に当たると考えている。時代の転換点等ではなく、あくまでもその継続に過ぎないのではないだろうか。過去から現在、そして未来まで繰り返される普遍的な事象の一つだ。我々は常に受け入れるべきなのかもしれない。
…生真面目なかずぽんは、周辺の廃集落を連続で探訪してたらこんな事をずっと考えてしまっていた。山城好きのちょと変わり者の皆さんなら否が応でも廃村、僻村を訪ねる事も多いだろう。その姿を目に焼き付け、後世のために少しでも記録に残しておく事が大事なんじゃないかな。
※社会的インフラ〜整備されれば活性化する訳ではないだろう、北陸新幹線の安中榛名駅が一例になる。此処で降りる人を見た事が無い。
※写真⑧は扇平集落と日向集落の中間点に残る廃家屋っす。山頂ピークの一つにあるんだけど結構凄い場所だ。
2026年04月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
三峰城(旭城・おてんじょう・左嶺城)[虚空蔵山城 周辺城郭]
三峰城(旭城・おてんじょう・左嶺城)は虚空蔵山城の西方約4.9km、会田川北岸(右岸)、潮沢川南岸(左岸)、安曇野市と松本市に跨る小山脈中の一山、標高889.7mの山稜山頂部を中心に立地する砦です。北麓の国道403号からの比高は310m位でしょか。
行き方は…同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある佐々野城の口コミを参照して下さい。同城の主郭から尾根稜線上を北行すれば10分弱で辿り着く。佐々野城と三峰城は一体の砦である事から誰でも訪問を合わせ技にしない訳にはいかないだろう。
築城年代は不明、築城者には筑摩郡会田御厨、後の会田郷に拠った虚空蔵山城城主、会田氏が推測されている。山中の交通の要衝、神木平を直接扼す砦であり、善光寺道に合流する間道が城地の東側直下を通っている。砦の発生と存在意義についての個人的な考察は佐々野城の口コミに書いてある。
三峯社に関係するお山なのかなて思ってたんだけど、別称には「左嶺城」てある。該地は尾根稜線上の山頂ピークが連続する場所なんだけど、何処が中嶺、右嶺になるのかはさっぱり…
佐々野城からは凄まじい地すべり地形を経た後に一騎駆けの長大な細土橋様地形を進んで城域に入る。信濃のお城の神は渡り切った所にある小ピークを南堡塁として縄張に含んでいるが特に何かがある訳ではない。眼前には主郭も見えているが此処からの登頂は困難なので主郭からの北東尾根を巻いてから登るのがよい。
縄張は概ねで2郭で構成されるコンパクトな砦だが、主郭と縄張図における通称2郭は堀切によって隔てられ、主郭からの北東尾根と縄張図における通称2郭からの北西尾根にはそれぞれに連続堀切を穿っている。但し、これ等は総じて埋まり気味、季節によっては気付かない事もあるだろう。又、北西尾根の最終堀切を過ぎると痩せ尾根上の小ピークが現れるが、信濃のお城の神はこれを北堡塁として城域の北限(西限でよいと思うが…)を推測している。縄張自体は特に目立ったものは無いのだがダイナミックな地形を城地に選んでおり、個人的には大好物、貧乏ながらも隣人との喧嘩なら少人数(10人位…)でも何とか出来るんじゃないかと思わせてくれるだけのものは持っている。
…帰り際に佐々野城の堀切を写真に撮っていたら背後からがさがさする物音を聞いた。立ち止まって警戒していると、更に勢いを増してこちらにどんどん近付いて来る。後退りしながら慌てて熊除けスプレーを取り出そうとしたら、「待って下さ〜い、怪しい者じゃありませ〜んっ!」て声が主郭から聞こえた。
…何でも北麓の山中(さんちゅう)集落で農業を営んでいる若夫婦?なんだそうだけど、農事の合間に暇を見付けては周辺のお山に入っているそうで此処へ来るのは2回目らしい。夫婦は佐々野城の事は知っていたんだけど、三峰城の事は全く知らなかったらしく、おいらが指差しして場所を教えると、「あれがそうなんだ〜今度、二人で行ってみようよっ!」て旦那さんと目を合わせる。調子に乗ったおいらは付近の山道をマウントを取りながら丁寧に教えると、「あ〜、やっぱり地元の方はよく知ってますね〜あたし達、全然知らなかったですもん。」てお褒めの言葉を頂く…そう、東京の南青山育ち、アーバンな都会系山城好きである事を彼等に言いそびれていたんで…そりにしても誰も人が入らないて思ってたお山で人に出会う事程怖いもんはないわ…
※初訪問の際、帰り道の道中でおいらは初めてアナグマ(狢)て生き物の存在を知った。側溝から突然飛び出して来たんで思いっきり跳ね飛ばしたわ…
※マウント〜自分が上位者である事を相手に事由等を以て承認させる行為である。基本的に当人の孤独しか産み出さないんだけど、万人がひれ伏する圧倒的な美少年であるかずぽんにはそりが許されている。ちなみに格闘技における「マウントを取る」は、取られた側に絶望的な状況を作り上げる。
2026年04月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
佐々野城(三嶺笹ノ城・笹野城)[虚空蔵山城 周辺城郭]
佐々野城(三嶺笹ノ城・笹野城)は虚空蔵山城の西南西約5.0km、会田川北岸(右岸)、潮沢川南岸(左岸)、安曇野市と松本市に跨る小山脈中の一山、標高約892mの山稜山頂部を中心に立地する砦です。北麓の国道403号からの比高は315m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。南麓の堀平集落(廃集落)まで車が入り(林道天田線)、駐車出来る空地もある。後はリア攻めマップの国土地理院地図を参照して城地と登城路を特定しよう。たぶん此処で説明しても理解出来ないと思うし、実際に現地に赴かないと状況を把握するのは困難だ。ちなみに集落から徒歩で登る比高は95m位になるので、尾根筋までの急な直登を選択してもどうにかなるだろう。
築城年代は不明、築城者には筑摩郡会田御厨、後の会田郷に拠った虚空蔵山城城主、会田氏が推測され、城番として堀平氏が置かれていた。同家の墓所は今も城域内にあって管理されている。ちなみに前述した堀平集落は、佐々野城の番士等の子孫が定住して成立した小集落だ。
小山脈中の奥山であり、何故にこの場所に占地されたのかが疑問になると思うが、城地は山中の交通の要衝、神木平を後背地に控えている。即ち、潮沢の谷筋、花見から尾根稜線上を南行し、神木平を経て東行、扇平と五輪平との間、中北山を抜けて五本峠を越え、そのまま山を下れば、虚空蔵山の西麓、岩井堂へと至る。道筋上には、同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある、花見城、鍋山城砦、雨戸屋城が順に立地し、無断の通行や横道を許す事が無い。
又、神木平から尾根稜線上を西行し、同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある三峰城の東側直下を通って南行し、続けて佐々野城の北側直下を抜けて西行、そのまま山を下れば、標高731mの雷山の南麓を通って犀川右岸地域の潮へと至る。同山南方、標高578mの通称、茶臼山山頂部には、同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある茶臼山城が立地し、山中へのとば口を直接扼している。
佐々野城からは堀平を経た後に道は二筋に別れる。一筋は南東へ山を下り、生竜を経て会田川右岸地域の井刈へと至るもの。同地から東行すれば五常の隘路を通るが、此処に残る字名は「大木戸」だ。木戸から同川の対岸に目を向ければ、同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある笹沢城が立地している。もう一筋は南西へ中沢に沿って山を下り、同じく会田川右岸地域の大足へと至るもの。同地のとば口には、同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある、大足平館、中沢の古屋敷が立地し、後者の後背地には「狐畑」の小名(「狐」は物見の役目に携わる者の隠語である。)を残す。
まず、該地に入って誰もが思う筈だが、この小山脈自体が凄まじい地形の連続だ。山頂を連ねていると言うよりは、深く急峻な谷筋を介して山稜が結ばれており、連絡は稜線上に辛うじて残る痩せ尾根によって維持されている。従って山頂ピークに占地すればそれはそのまま城砦等として十分に成り得る。縄張は南から「馬屋の窪」と呼ばれる地すべり地形の馬場に始まり、その先に見られる小屋掛けが出来そうな平坦地と、その東側に伸びる痩せ尾根を登り切った場所に設けられた段付きの主郭で構成されている。これと言った見所は少ないとはいえ、主郭から伸びる二筋の山尾根には埋まり気味とはいえそれぞれに三連続堀切が穿たれ、小規模な砦ながら丁寧な造作には好感が持てる。
後の街道に発展する事もない険阻に過ぎる山道だが、前述した道筋は一つを除き逆を辿れば、全て善光寺道へと通じる間道ともなっていた。善光寺道の本道は、会田氏が居館した殿村を右手に見ながら岩井堂沢に沿い、虚空蔵山の南西裾野を進んで山中に入り、立峠を越えた後に乱橋へと抜けるが、神木平を通過する間道は、会田郷の本郷を通る事無く乱橋から北の善光寺道に横道を選んで合流する事が出来る。佐々野城の築城とは、隣接する丸山氏等の境目に備える他、領内における無断の通行等を防ぐためのものではなかったろうか。
※前回とは違い今回は西方の天田山神宮から登っている。傾斜は緩いが道が倒木等で荒れている他、低雑木の群生も見受けられるので止めておいた方がよい。ちなみに3月の長野県なのにTシャツ1枚で登城…どうなっちゃってんやろ…
※該地の北方約0.3kmの山稜山頂には、同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある三峰城が立地し佐々野城とは一体の関係にある。写真⑧は両者間に見られる凄まじい地すべり地形の典型、当然ながら城郭遺構ではない。
※稜線上に辛うじて残る痩せ尾根〜該地とその周辺は長大な一騎駆けの細土橋様地形の宝庫、痺れるぜ…
※写真①は「馬屋の窪」を撮影した物、窪ってるなぁ…
2026年03月24日 今川党山県右兵衛尉ニャン八
虚空蔵山城
虚空蔵山城は虚空蔵山(会田富士)の山域を城砦群で囲うような形(イメージ的には福岡の大野城を想起するのが良いでしょう)つまり、山頂の峯の城を中心として、支城の中ノ陣・南西尾根ノ城・現城・唐鳥屋城・秋吉砦を合わせた総称という言い方が正しいのでしょうか笑
戦国信州は小笠原氏や村上氏など多くの豪族がおり、会田氏もまた山麓の館に本拠を構え虚空蔵山城を詰めの城とする豪族で、小笠原氏に従属していた豪族の一つです。おそらくこの城に登城する前に松本市の外れで薄川添いにある桐山城や林城に行くとイメージしやすいのですが算木積みの石塁や堀切、切岸を多く作るという連郭式を山を削って作るという築城方式が一致しているため、やはり小笠原氏の手が加わっていて、峯の城から見るとより分かりやすいのですが会田盆地と筑北盆地の境目の城として政治的に重要な位置にあったことがよくわかると思います。
登城口がわかりにくく自分も30分ほど迷ってしまいましたのでよければ参考までに…
おそらく林道の虚空蔵山線を登っていくと先人がおっしゃる通り虚空蔵山城の看板が見えます(座標36.3638, 138.0082で間違い無いです)駐車場はないので、林道脇の少し広いスペースに自家用車を停めるのが良いでしょう。この登城口からは水の手、中ノ陣城、秋吉砦を見ることができます。水の手を経由して中ノ陣城へ行くルートは歩道が整備されていてわかりやすいのですが、秋吉砦に関してはそこへ行く道が見つからないので堀切を登るという強行突破をさせていただきました… 罪深く感じつつも寄せ手の兵士になった気分でとても良い経験になったと思います。水の手は壇状に作られた添削地(曲輪)、また一段一段に石垣が残り見甲斐があります。中ノ陣城も土橋を越え虎口から本曲輪へ入り奥下を見やるとわかるのですが、石垣を冴えた壇状の曲輪が形成されていて見応えがあります。南西尾根に降りるとまた支城がありますが堀も曲輪も小規模なので中ノ陣城が見れれば十分な気がします。
峯の城へ行くルートは虚空蔵山線を看板のある場所からまた車で上がって行って岩屋神社の鳥居がある場所から登城するルートです。ここには駐車場ができるスペースが充分にあるので車で問題ないと思います。鳥居があるので正面から登りたくなる気持ちもわかりますがなかなかに修羅の道です。自分は登りで修羅を行って体力切れで何度倒れかけたか分かりません笑 鳥居の前に立ち左を見やると道があるのでそちらからの登城が圧倒的におすすめです。岩屋神社から峯の城まではすぐに着きます。頂上からは日本アルプスを含め盆地等を広く眺められるので往時の様子を感じることができます。峯の城までのルートには巨石や大量の堆積岩があり、地学的にもすごく面白いです笑
所要時間は多く見積もり2〜3時間(範囲は中ノ陣城・秋吉砦・水の手・岩屋神社・峯の城)
参考までにどうぞ👍🏻
2026年03月16日 気分爽快左馬助
虚空蔵山城
リア攻めは頂上まで登らなくても認定されますが、久しぶりに峯の城主郭に行ってみました。
岩屋神社が中間点ぐらいで、30分も歩けば眺望の良い主郭に到達します。
ただ、鳥居の先は急坂なので、写真①の左の坂を登るのがお勧めです。
①峯の城への登り口。
②中間地点の岩屋神社
③登城路の途中にあった大岩
④西尾根から松本平を望む
⑤主郭西の尾根
⑥主郭
⑦主郭から望む北アルプス
⑧主郭東の堀切
2026年03月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
花見城[虚空蔵山城 周辺城郭]
花見城は虚空蔵山城の西北西約4.6km、潮沢川南岸(左岸)、安曇野市と松本市に跨る小山脈中の一山、標高889.7mの山稜山頂から北方へ伸びる尾根稜線上、標高723.7mの小ピークを中心に立地する砦です。北西麓の国道403号からの比高は145m位でしょか。城地の南側には潮沢谷から山中に入り、神木平へ抜けて筑摩郡会田へと至る山道がかつて通っており、同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある佐々野城とは尾根続きで連絡している。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。一応、城地の西側直下まで車が入るが、軽四駆以外は止めておいた方がよいだろう。狭隘な上に舗装が浮き上がっている部分が多く神経を擦り減らす。従って同じく位置登録がある「けやきの森公園マレットゴルフ場」に車を捨てて残りの道程を徒歩で登るのが無難だ。
該地は潮沢川が形成した谷地の上段に当たるが、中世〜戦国時代の郷村の形がはっきりとしない地域である。数多くの寺社の存在から古くから人の定住があった事に間違いは無いのだが、狭小な谷筋の斜面にごく小さな集落が点在していたというのが実際であろうか。ちなみに開発は山上から始まったとも云われている。
「花見(けみ)」は花見の場所を表すものではなく、クエ(崩)・マ(間)が訛った上に好字が当てられたものであり、「毛見」や「計見」の字が当てられている所もある。地域、地方によっては湿地帯等を表していたりもする他、耕作が不可能な荒地を表す地名でもある。大小河川流域や山間部等に多く見られ、その由来は過去の洪水や土石流等の自然災害の発生に直結している事が多い。何れにしても良くない地名だ。
築城年代、築城者は不明です。基本的に在地領主層の存在自体が不明である。伝承では、花見若狭の祖先が代々居し、後に田沢幸友に属し、天文年間(西暦1532年〜1555年)には常磐勝蔵光利なる者が拠ったらしい。又、潮沢川の左岸地域は虚空蔵山城城主、会田氏の差配が及ぶ所であった事から、砦は同氏の出城であったとする考察がある。
伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「こせり(小芹)、大くほ(大久保)、けミ(花見)此分三里也」には、「…前略、か(上)けミ勘解由衛門尉殿 ちゃ三つ たけはな(竹花)の忠右衛門殿 ちゃ二つ けミ宮内助殿 ちゃ二つ 同所市衛門殿 ちゃ三つ…後略、」とあり、該地の花見には地侍クラスの武士が住していた事は確実である。伝承によれば、宮下勘解由衛門が花見城の番をしていたそうだが、日記に見られる「勘解由衛門尉殿」がそれだろう。
「元禄十一年(西暦1698年)潮山中村書上帳」には、「上けみ古城、敷地長一間三尺(約2.7m)、横三間(約5.5m)、是敷地午の方(南)だんだんかけ申候云々」とある。
「信府統記」には、「上花見の古城地、城主知レズ、旧俗伝ニ昔平氏ノ一族山中名鬼ト云フ所ニ住セシ人ノ末葉後、日岐六郷ヲ仁科ヨリ賜ハリ丸山肥後ト云フト見ユ、若シ其先祖ノ人住セルニヤ詳カナラズ」とあるが何を言ってるのか判らない。
砦の現況は正直、地山以上のものを見出せないんだけど…おまけに該当尾根筋は現在進行形で崩落しまくっちょる。砦は極めてコンパクトなんだけど、2パートに役目が完全に振り分けられていると思う。縄張図における最高所の小ピーク、通称1郭には狼煙台か物見台、その南側下段、堀切様地形を挟んだ痩せ尾根上の段付き、腰郭付きの平坦地、通称2郭には番所等が設けられていたんじゃないかな。この砦での籠城を選ぶ事はまずあり得ない。守る意思が希薄であり、籠城の結果が大勢に影響を与える事も殆ど無いだろう。目立つ尾根上にある事、間道に近接している事等から逃げ込み城としての用も為さないと考える。やはり道押さえの砦であろう。
付近一帯には城跡に関係する小名が数多く残っている。「こや平」、「狐久保」、「古屋敷」、「城」、「城大畑」、「城がけ下」、「城平」、「城立」、「城中切」、「城南」、「城ノ畑」、「城のぞき」、「城日向」、「城道上」、「城峰」、「竹ノ花(館の端)」、「堂城日影」、「のぞき」、「のぞき道上」、「のぞき道下」等々…今となっては取るに足らない物件なのかもしれないが、花見に住まう人達にとって砦は常に側にあった訳だ。
※訪ねてみれば理解出来るけど、結構、凄い場所だ。崩落等によって形成された、痩せ尾根、急崖、絶壁等が凄まじく、砦も部分で崩落しているんだそう。ちなみに冬場のこの辺りのお山は生命感が全く欠けている。
※ネットで検索しても紹介例は1件のみ。ちなみに「花見城 安曇野市」で検索すると花見の名所、平瀬城のリア攻めマップにある光城がヒットするぜw
2025年12月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
唐鳥屋城(乱橋城)[虚空蔵山城 周辺城郭]
唐鳥屋城(乱橋城)は虚空蔵山城の北西約0.6km、標高1079mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。南西麓の虚空蔵山西登山口からの比高は250m位でしょか。該当山稜は虚空蔵山城の立地する虚空蔵山の隣峰ではあるが、深さのある鞍部を介しているために縦走にはそれなりの苦労が強いられる。
城地は古代官道の要衝、近世の北国脇往還(善光寺街道)の難所の一つ、立峠と尾根続きである。同峠は平安時代頃まで更級郡と筑摩郡の境目(後には筑摩郡の内である。)であり、戦国時代には戦いの舞台ともなった事がある。天正十五年(西暦1587年)、筑摩郡西条に拠る鬼熊氏が青柳氏を援けて小笠原勢を立峠において防ぐも敗れ、その帰路を塞がれて近侍と共に自害、滅亡した事が伝わっている。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「唐鳥屋城跡入口」を目標に設定して下さい。判り難いが標柱が立っており、付近には車を捨てられる空地もある。此処から徒歩で登る比高は85m位だ。
築城年代は寛正年間(西暦1460年〜1466年)、築城者は海野氏の一族、藤澤帯刀と伝わるが確証を得られない。藤澤氏は、寛元二年(西暦1244年)、藤澤大道が城地の北東麓、筑摩郡乱橋(みだれはし)の「帯刀原(たいとうっぱら)」に居館したと伝わり、これは海野幸継の子等による海野氏の筑摩郡進出と時代を殆ど同じくしている。ちなみに乱橋の中世は一切が不明であり、確たる在地領主の存在すら知る事が出来ない。
「長野県町村誌」には、「立峠の山脈、村(本城村)の午未(南南西)にあり。東西十二間(約21.8m)、南北六間(約10.9m)、其礎跡等藪中に存し、地形人工になりたるもの炳然として在るあり。昔時應仁年間(西暦1467年〜1469年)、藤澤帯刀なるもの城きて據る所にして、天文年間(西暦1532年〜1555年)に至り、小笠原氏の兵を被りて亡ぶと云ふこと傅聞す。」とある。天文年間云々は前述した天正年間(西暦1573年〜1592年)の戦いの誤伝かと思われるが、鬼熊氏は立峠から連なるこの唐鳥屋城において小笠原勢を防いだのかもしれない。
海野幸継の二男、小次郎幸持は筑摩郡会田に入部し、在名を取って会田氏を称し、子孫はアプリの登録城、虚空蔵山城を築いたが、同城と唐鳥屋城とは谷中の花川原峠を挟んで指呼の距離にあり、藤澤氏が居した「だいとう屋敷」とはやや距離がある。戦国時代には虚空蔵山城砦群を構成する一城として、会田(岩下)氏の持分であったのかもしれない。
天正十年(西暦1582年)の岩下氏の滅亡後には、会田にも知行地を有していた青柳氏の持分であったろう。鬼熊氏が立峠に張陣したのもそれを裏付けているように思われる。何れにせよ、はっきりとした史料、伝承等を欠き、城主や城歴等を詳らかにする事が困難だ。
縄張は所々で岩盤層が露出する急峻な山尾根上に展開している。主郭はそう広くはない段付き、石積み付きの削平地、主郭からの北西尾根には竪土塁付きの壮大な段郭を設けている。他の城郭遺構としては要所に数条の堀切が穿たれ、その内の一部には竪堀としての延長が認められる。全体的には要害地形を活用する事に重点を置いた戦国時代以前の砦といった趣きがあり、前述した主郭と段郭以外には郭と思しき平坦地が見当たらない。この縄張には少し異質にも感じられる段郭は後の増築であろうか。後世の耕作の跡とも見て取れるのだが…
藤澤氏について色々と調べていたが、定説となっている海野氏の一族とする確証が探し出せない。藤澤氏が拠った乱橋とその周辺地域に藤澤の地名が見当たらない事も気に掛かる。個人的な推測に過ぎないのだが、同氏の出自等についてはかなり大胆な仮説を立てるまでに至っている。怒られそうだし、恥ずかしいので詳細は語らないが、小県郡に拠った諏訪社下社の大祝、金刺盛澄の舎弟とも云われる、手塚太郎光盛、もしくはその一族等の後裔だったのではないだろうか。
※乱橋〜永正年間(西暦1504年〜1521年)に佐久郡内大井法華堂領であった事が確実視されているが近世以前の史料が皆無に近い。ちなみに大井法華堂は天台修験職の先達家、信州最大の修験道勢力であった。
※確たる在地領主〜「本城村誌(新版)」では伝承等に一切触れる事なく、あった事を前提としながらもこの点については完全にスルーしている。寂しい限りだが市町村誌としての姿勢は正しい(伝承を事実としない。)と思う。
※手塚太郎光盛〜一般的には金刺盛澄の舎弟とされているが、各種系図等を見ると、手塚氏自体が数代前からの金刺氏の分流であった事が図示されている。もし舎弟であったと仮定するならば、金刺氏から手塚氏に養嗣子として入った事以外には説明が付かないと考える。
2025年08月05日 ClaD連休明け遠征壱岐守
虚空蔵山城
他の口コミの情報が少し古くなっていたので最新の状況を書きます。歴史や見どころなどは他のかたの口コミを参照してください。
登城口の看板がある林道ですが、防獣柵はなく、車から降りずにそのまま進入できます。
登城口の座標は(36.3638, 138.0082)で、標高は約915m。車は付近の路肩ですれ違い用に幅が広くなっている場所に駐めるしかありません。
登るとすぐに秋吉砦から落ちてくる3条の竪堀を横切るので、それらの間を直登すれば秋吉砦に最も簡単に着きます。ただし夏は(城域内で最も)藪が濃くて堀切も埋もれ気味。竪堀の最上部までは比高差20mほどで、それより上に登る必要はあまりないかも。
登らずに竪堀を横切る道を進むと岩下神社跡の石垣の下へ出ます。そのまま道を先へ進むと比高差なし(標高約950)で中ノ陣城の最高所の尾根に着きます。登城口からここまではほとんど登ってないので楽です。
石積が多く削平地も広めで、いかにも小笠原時代に城の中心だったらしい中ノ陣城からさらに南西へ下ると南西尾根の城がありますが、堀も削平地も小規模です。
南西尾根の先端(標高は約860)から登り返し、中ノ陣城の尾根を登り詰めるといよいよ主尾根の西側、標高約1030の地点に出ます。西へ降りていくと四阿神社を経由して現城に行けますが、茸山のため立入禁止とされているので入ってません。いずれせよあまり見映えのする遺構はなさそうでした。ここも標高は860程度で、尾根道を引き返すと真っすぐ虚空蔵山城のある山頂まで行けますが、比高差は280くらいあります。
虚空蔵山城は岩場が多くて削平地は狭小と、とても籠城向きとは思えませんが、堀切はやや大きいものもいくつか。
最後は岩屋神社のほうへ降りてもよし(分岐点に案内板あり)、素直にもと来た道を降りて登山口を目指すもよし。ここまでの行程はほとんどの道がわかりやすいですが、秋吉砦だけは上述の直登直降が必要です(主尾根から降りる道があるらしいが分岐点がわからなかった)。山の植生は松などが多く笹は少なめ、背の高い藪もほとんどなくて概ね見やすいですが、城域は相当広く、比高300近くを何度も登ったり降りたりすることになります。いったん林道まで降りてから尾根ごとに登り直しても、トータルの疲労は大差ないかもしれません。
目立つ遺構だけ見れればいいのなら、最初に書いた登山口から中ノ陣城、主尾根を登って虚空蔵山城だけで十分かな。
道の案内板は少なめなので、等高線入りで地形のわかる縄張図と、同じく等高線とGPSで現在位置のわかるスマホのマップアプリは必須です。
写真は山頂(狭い)の石碑、主尾根の一番東にある堀切、中ノ陣城の石積です。
2025年04月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
塔ノ原城(城山・長峯城)[虚空蔵山城 周辺城郭]
さて、アプリも桜とお城のコラボ写真で盛り上がりを見せる中、波には乗るけど流れには乗らないおいらはストイックに積雪の山城を口コミしやす。このぽかぽかと暖かい季節にそぐわないかもしれないんだけど、極く最近の訪城なんでどうか許しておくれやす。
塔ノ原城(城山・長峯城)は虚空蔵山城の西南西約7.1km、犀川東岸(右岸)、会田川南岸(左岸)、標高933.4mの長峰山から北西へ伸びる尾根中段上、標高約755mの通称、城山山頂部を中心に立地する要害です。北西麓のJR明科駅からの比高は230m位でしょか。該地は府中から会田に至る谷筋の古道を扼する関門の地である。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。大手筋から登ると悲惨な目に遭う山城だが、林道長峰線を使えば、同じく位置登録がある城山南側の「金玉池」…まで車が入る。此処で適当な場所に車を捨て、北側の未舗装林道を徒歩で横移動すれば城域の東端部に労せずして辿り着ける。
今回の再訪は3月の末…前述の林道はがっつりと冬季閉鎖…従って全ての行程を山麓から徒歩で登っている。この林道、道は緩やかなんだけどかなり巻いてから登るんで舗装されているとはいえ兎に角、だるい。下山ルートは別と決めていたので我慢出来たけど、そうでもなければ4月の通行解除を待った方が無難だ。
再訪した理由は城域の全てを廻り切れていない事とどうしても冬場に遺構を確認したかった事にある。前回の訪問は初秋、ポテンシャルが極めて高い山城とはいえ、城山は荒れている上に藪も酷くお目当ての遺構も諦めざるを得なかった。
築城年代は不明、築城者は塔原氏です。塔原の地(川手郷)は、滋野氏嫡流家海野氏の分流、塔原氏が拠った所で、源頼朝の信任厚い鎌倉幕府御家人、海野小太郎幸氏の子、小太郎幸継の三男、三郎幸次が家祖である。海野氏の家督を継いだ小太郎幸春以外の兄弟は全て(出家を除く。)筑摩郡の各所に入部しており、当時は海野氏の最盛期でもあった。
「高白斎記」、天文廿二年(西暦1553年)四月の条には、「三月十八日甲子、於曽源八郎深志へ越テ二度無歸府候、廿三日己巳、午未刻、向丑方御出馬、廿九日乙亥、深志ヲ御立、午刻苅屋原へ御着陣、晦日城ノ近邊被放火、四月小、朔日丁丑、二日戌午、午刻苅屋原ノ城被攻落、城主(太田)長門守生捕、酉刻ニ晴時塔原ノ城自落、三日己卯、會田虚空蔵山迄放火、苅屋原ノ敵城ヲ割、酉ノ刻向寅ノ方御鍬立、…」とあり、武田勢により苅屋原城が落城した事に伴い「塔原ノ城」が同日中に自落した事が判る。塔ノ原城はこの後の天文廿二年五月五日に破却され、以降、要害としての利用は無かったろう。
急峻な尾根筋に縄張が展開する。主郭は土塁付きで段が設けられ、用途は不明なるも南側谷側へ向けて桝形虎口様の窪地形が確認出来る。主郭の東側山側背後は堀系で細尾根が細かく刻まれ、特にこのお城のハイライトとなる5条の連続竪堀が末端部で集合する扇堀の壮大さは全国的にでも此処でしか見られない代物、集合部に立って上方を見渡せば誰でも感動する事間違い無し。
大胆さと繊細さが入り混じる主郭部とその北側谷側前面に設けられた帯郭状の段郭も見所の一つ。段郭は竪土塁によって連結され竪土塁中には堀切が穿たれていたりもする。余り例を見ない珍しい仕様だが、このお城には他にも築城者の個性みたいなものが多分に存在すると思う。
天正十一年(西暦1583年)癸未七月廿日、孫左近殿宛、小笠原貞慶宛行状には、「塔原於蔵人定納萬疋之所、出置候、直奉公之者共、何其可為寄子、以此皆、諸軍役、無如在、可勤者也、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、孫左近(不詳、一族か。)に、塔原の地を宛行い、直奉公の者を寄子とし、皆に諸軍役に励むよう求めている。武田氏によって廃城された筈の塔ノ原城にはこの時期の改修説が存在するのだが、こうした事実が漠然とした背景にあるからなんだろうか。
「信府統記」には、「…其後太田弥助ト云者居城(苅屋原城)セリ、是ハ武州太田道灌ノ一族ナリ、当国へ来リ、小笠原ニ属ス、大永三年(西暦1523年)癸未年ヨリ当城主(苅屋原城)トナリ、七百貫ヲ領シ、小笠原家一ノ大身ナリ、苅屋原ヨリ東ハ七嵐辺ノ村々保福寺マデ、西ハ川手ノ田沢村筋井川向フ鳥羽村迄都テ十六ヶ村領地セリ、又此辺ノ要害ハ皆弥助持ナリ、」とある。この記述を正しいものとするならば、太田弥助(長門守)は小笠原氏の被官となり、筑摩郡から小県郡に通ずる道筋の諸郷を知行地とし、この地域の差配を守護家から一手に委ねられていた事になる。塔原の地も当然これに含まれ、所領内の要害は全て弥助の持分ともされている。塔ノ原城に改修説を求めるのであれば、やはりこの時代が相応しいと個人的には思うのだが…
2022年07月24日 sigesige主税頭信繁
虚空蔵山城
舗装された林道の獣ゲートを開けて進入し、暫く進むと登城口がありますが更に奥に進むとまた登城口が有ります。駐車場はありませんが車2〜3台程は停められます。そこには鳥居が有り湧き水も出てます。
そこから直登になりますが、岩谷神社がありそこからは九十九折の獣道です。ゆっくり休憩しながら20分程で主郭まで辿り着きます。
帰りも同じ道を戻りましたが大変滑りやすいので慎重に降りましょう!下に降りて湧き水を飲みましたが、大変冷たくて美味しかった!
2022年05月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
西ノ宮笹ヶ城(山笹城)[虚空蔵山城 周辺城郭]
西ノ宮笹ヶ城(山笹城)は虚空蔵山城の西南約2.7km、会田川北岸(右岸)、標高761.5mの山塊山頂に主郭が存します。南麓の長野県道303号線、会田西条停車線からの比高は155m位でしょか。
行き方はちょと難しい…一応Googleマップに位置登録されているのでとりまダイレクト設定して下さい。が、お城の南麓から東麓に掛けて長野自動車道の高架道が走っているので取り付きが限定されています。東麓の高速道路下に設けられた麻績20トンネルを抜けて舗装路を南下、お山の南尾根には何かの整備用保安道の階段が付いてるので此処が登城路入口となります。道も一応付いてますが途中から尾根筋(急登である。)に入ると結局不明瞭となります。迷う事はありませんが…
築城年代は不明、築城者は会田(岩下)氏です。岩下氏の被官、山笹氏が詰めていたらしいっすね。虚空蔵山城を取り巻く城砦の一つでお城自体は物見台か狼煙台規模の縄張、明科、田沢方面から谷筋を抜けた会田の関門に当たる立地で、お城の西側を流れる沢筋に並走する林道を北方に登り詰めると五本峠に至ります。
お城はほぼ地山の印象で、南端の三峯社を物見郭とし山頂を主郭部とする単純な縄張です。ただ山頂部の削平はしっかりしていて、縄張図における通称1郭と通称2郭はそれなりの面積があります。特に一段低い通称2郭は小屋掛出来そうなぐらいの面積となっていて、城番が置かれた恒久的な砦であった事を窺わせています。主郭にはびっくりする事に標柱が寝ていたりなんかもしますね。又、縄張図を見ると城域北端には堀切1条が設けられていますが埋まっちゃったんでしょかね、今は大変難しい…
眺める方向から色んな表情を見せてくれる虚空蔵山(城)ですが、此処の主郭部からの遠景はとんがり感がMAXで大変素敵、狼煙揚げれば直で届いた事でしょう。お城的にはマニア向け。会田(岩下)氏関連の城館コンプリートを目指す方は是非、ただコンプリートは凄まじく面倒で情報皆無な色物物件を2件程抱えています。来冬挑戦しよかな。
2022年04月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
三峯社上の旗塚[虚空蔵山城 周辺城郭]
三峯社上の旗塚は虚空蔵山城の南西約2.1km、標高約868mの山塊山頂から南方へ延びる尾根上、標高約700mから標高約730mの緩斜面上に点在します。東麓の善光寺道からの比高は30m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南側の三峰神社を目標に設定して下さい。車は捨てるのに少し困ります。
信濃でもレア物件(全体でも10件は無いでしょう。)ではある旗塚…口コミとしては4例目になります。もうええわっ!と言われても絶対止めないですw個人的には訪城記録でもあるので悪しからず…よくあるじゃないすか、前衛的なんだろうけど先を行き過ぎてて何がどうだか解らない芸術作品…そう!自己陶酔てやつです。そもそも他人に見てもらうものだけど理解出来ないので批評も曖昧になる代物、即ち批判も受け付けていないですw
盛られた年代は知らんけど盛ったのは会田(岩下)氏でしょう。会田氏に関しては同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある殿村館を参照して下さい。
旗塚の現況ですが、国内最高峰と言ってよいでしょう、他地方に旗塚が存在するのか知らんけど。細尾根に複数が南北に点在、しっかりと形状を保っていて大変判り易い。ほぼ地山と言ってよいとは思いますが、小郭を想起させる削平地なんかも確認出来るので物見台や狼煙台としての利用もあったかもしれません。又、明科方面から会田川沿いの谷筋を抜けて岩井堂沢に並走する善光寺道に合流する地点の裏山でもあるので何だか旗塚としてもちょとスペシャルな印象を受けます。が、まぁたぶん気のせいなんでしょう。ちなみに虚空蔵山南西麓善光寺古道の左右に旗塚は存在していた事になります。
個人的には旗塚通算5例目、「ふざけんなよ…」とか憤ってる方が大勢を占めると思いますが、重度の変態が多い信濃の山城マニアも敬遠(リア攻めの目標にならない。)する代物なので情報としてお納め下さいまし。それにしてもこの辺のお山は荒れてるなぁ…
2022年04月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
現城[虚空蔵山城 周辺城郭]
現城(うつつじょう)は虚空蔵山城の西南約1.0km、標高1139mの虚空蔵山から南西へ延びる尾根の一つ、山塊尾根上、標高873.6mのピークの一つに主郭が存します。南西麓の無量寺からの比高は140m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている北東側の虚空蔵山西登山口を目標に設定して下さい。尾根上に出たら虚空蔵山山頂方向とは逆の道を進みます。現城周辺は留山で、ブービートラップ(有刺鉄線がビニールテープに隠れている…悪意しか感じない。手背部を切ったわ…ちなみに罰金請求額は30万円〜200万円、極めて高額です…)付きの厳重な警戒線が目印になります。このルートを使えば非常に楽ちん、大して登る事も無く城域に至ります。
虚空蔵山城は基本城砦の集合体で、現城はこれを構成する一つとなります。城砦群の中では最も西方に位置し、眼下には善光寺道が走る事からこの監視の任も担っていた事でしょう。
お城は砦規模の縄張で段付きの単郭、主郭東側正面に堀切+竪堀+土橋が1条、西側山側背後に竪堀が1条設けられただけの簡素なものです。城砦群の中ではメインから外れる面倒な場所に位置している事から訪ねるのを躊躇してしまいがちですが、一旦下山して前述のルートを使えば苦労とは感じないでしょう。又、虚空蔵山の城砦群は基本舗装林道が発達しているので山頂の峯の城を除けばどれも登城は楽だと思います。
今現在松本市の山林を襲っている問題の一つにマツ材線虫病があります。謂わゆる松枯れを引き起こす感染症ですが、去年から今年に掛けて明らかにその被害が拡大、深刻化していると感じます(お山の景観が明らかにおかしいのさ〜)。虚空蔵山周辺もその例外ではなく、現城もその影響を受けまくり…単純に言えば折角の堀切が倒木で見難くなっています(ちなみに夏場は相当な藪城だと思う。)。里山に人が入らなくなって久しい現代、こうした事例は今後ますます増えていく事でしょう。虚空蔵山城コンプリートを考えている方は冬場に是非訪ねてみて下さいまし。
※写真8枚目の遠景が現城から見た虚空蔵山城、信仰のお山ですな〜
2022年04月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
無量寺下尾根の旗塚[虚空蔵山城 周辺城郭]
無量寺下尾根の旗塚は虚空蔵山城の南西約1.4km、標高1139mの虚空蔵山から南西へ延びる尾根の一つ、標高約718mから標高約734mの尾根緩斜面上に点在します。西麓の善光寺道からの比高は30m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている北麓の無量寺を目標に設定して下さい。車はお寺さんの駐車場に捨てましょう。取り付きは藪で限定されますので無量寺内貯水池の堰堤からお願いしやす。
信濃でもレア物件である旗塚…口コミとしては3例目になります。もうええわっ!と言われても絶対止めないですw個人的には訪城記録でもあるので悪しからず…よくあるじゃないすか、作者の意図するところと読者の持つ感覚とがずれまくってる作品…そう!自己満足てやつです。読まれる皆様はアプリ登録時から選択の自由を付与されていると思うので否定される方は拒否権を発動して下さい。苦情の方は受け付けてないですw
盛られた年代は知らんけど盛ったのは会田(岩下)氏でしょう。会田氏に関しては同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある殿村館を参照して下さい。
さて、このリア攻めの前に訪れた広田寺裏山の旗塚で旗塚のなんたるかを理解して期待度MAXだったんですが、改めてただの土盛りを探す事の難しさに打ちのめされました。ちょと此処は無理ですわ…松枯れによる採伐が行われ放置状態、それらしきものはあるんだけど確証取れないです。流石に阿保らしくなって陣払いしました。
地形図を見ると今は四賀球場で分断されていますが、広田寺裏山の旗塚と往時は同一尾根だったと思われます。どれぐらいの大きさの旗を立ててたのか知らんけど、少なくとも虚空蔵山城からはよく見えた事でしょう。
藪で全てを確認する事は諦めましたが、後世寸断された尾根末端に舗装路上から旗塚の一基が確認出来ます。縄張図でもそう描かれているので間違い無いぽこりんだと思いますが、別に見たってしょうもない代物ですのでさっさと次へ向かいましょう。
※写真1枚目の遠景が虚空蔵山城です。
※ちなみに無量寺は中世石垣(写真の石垣ではない。)も残る素敵な寺院なのでお寺マニアには無駄にならないはず…
2022年04月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
広田寺裏山の旗塚[虚空蔵山城 周辺城郭]
広田寺裏山の旗塚は虚空蔵山城の南西約1.8km、標高1139mの虚空蔵山から南西へ延びる尾根の一つ、標高約690mから標高約700mの尾根上緩斜面上に点在します。西麓の善光寺道(江戸時代の善光寺街道、正式名称は北国脇往還です。)からの比高は30m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南西麓の広田寺(廣田寺、六文銭が掲げられた会田氏の菩提寺です。)を目標に設定して下さい。車はお寺さんの駐車場に捨てましょう。
旗塚てなんのこっちゃて方が殆どだと思うし、知ったところで皆様の城廻りライフに何の影響も及ぼしませんが一応説明を…旗塚は読んで字の如く旗を立てるためだけの土盛りの事で、支配領域の境目の目印、示威目的で使われるものです。信濃でもレア物件ではあるんですが、虚空蔵山城周辺には確認されているものだけで3箇所存在します。善光寺古道を歩む者にオラが領地をアピってたんすかね。
盛られた年代は知らんけど盛ったのは会田(岩下)氏でしょう。会田氏に関しては同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある殿村館を参照して下さい。
実は以前にも旗塚を紹介してるんですが、「う〜ん…」て感じ。大体お寺さんの裏山の単なる土盛りを探すんだから休日にやる趣味としちゃ中々だぞ…今回で個人的に3例目の旗塚になるんだけど「これが旗塚かっ!」て感じの土盛りに未だに出会えていない…しかしっ!ようやく見付かりましたよ、尾根上に点在する5基の旗塚がっ!少し藪ってるけど明瞭に確認(写真は酷と言うもの…)出来ました。興奮と感動ではしゃぎまくりでしたが、側から見たら異様な光景に映った事でしょう。
最近の口コミですげぃ山城だけを紹介したいて気持ちは全く無いと書いた事がありますが、これからも残念物件をどしどし口コミしたいと思います。優良物件ばかり訪ねてたらそのうちハードルが上がるだけになるし、残念物件を知っているからこそ優良物件の見方も変わってくるものだと思います。又、この手の物件は現地に赴かないと背景やその意図が中々理解し難いものです。お城は机上の知識と縄張図だけじゃ絶対に測れない。現物が折角そこにあるんだからばりばりリア攻めしましょう!そしてこれも虚空蔵山城を取り巻くその一部であった事を知る事が出来る訳です。
2021年12月15日 ᴿᴱᴰ副将軍
中ノ陣城[虚空蔵山城 周辺城郭]
会田氏の居城🏯虚空蔵山に築かれた峯の城、秋吉砦、天狗山砦、現城の中心的役割を担ったとされます。
オススメ度 ★★★★⭐︎
真田氏と同族の会田海野氏により鎌倉時代に築城されたと伝わります。会田氏は信濃守護の小笠原氏に属していたが、1553年、武田軍に侵攻され、火攻めで降伏し武田氏の支配下に。武田氏の滅亡後は上杉景勝に臣従。
1582年に徳川家康の後ろ盾により筑摩郡を回復した小笠原貞慶に攻められ落城。会田氏滅亡後は、小笠原氏の支配となり、現在の石積みの遺構は小笠原氏による改修と考えられています。
見所
主郭の大土塁には平石積の石垣が巡る。平場群の水の手。斜面には水路状の石組や斜行する石垣を伴う幅の狭い段郭が10数段。城域の中核地とも言われてます。
クマの棲息域であり、熊鈴を激しく振りながら登城。振り過ぎで次の日は腕が筋肉痛でした😂車ごと獣害柵の向こう側に行く地域です🐻
⚠️虚空蔵山は信濃には他にも上田に2ヶ所、佐久に1ヶ所ありますのでご注意下さい!ここで紹介しているのは松本市の虚空蔵山城です。
2020年04月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
中ノ陣城[虚空蔵山城 周辺城郭]
中ノ陣城は秋吉城の西側に存する谷間の平場群の上端を抜ける感じで5分位進むと到着します。虚空蔵山の東西に延びる山頂尾根から南西へ延びる尾根上、標高約940mのピークの一つに主郭が存します。秋吉城と共に谷間の平場群を東西から囲むように存し、3つのお城を1つとして考えるとよいかもしれません。
虚空蔵山城は武田氏の安曇、筑摩両郡侵攻の際、刈谷原城、塔ノ原城が落城した翌日、虚空蔵山山麓が放火され、これにより城主の岩下会田氏は武田氏に従う事となりました。以後、天正壬午の乱まで岩下会田氏はこの地に在地していましたが、天正壬午の乱の際の一時期、この地域は小笠原氏と上杉氏の最前線となり、小笠原氏に従ってはいたものの上杉氏への内通を疑われて松本城で謀殺されました。以後、小笠原貞慶の讃岐移封まで虚空蔵山城は小笠原氏の支配領域だったらしく、城砦群の一部はその際に改修を受けたと考えられているようです。
中ノ陣城はこの城砦群の中で最も小笠原ブランドを感じさせてくれるお城です。主郭北側山側には高土塁が見られ、主郭南側の切岸には石積みが確認出来ます。崩落石も考えると主郭部は結構石積みだらけだったかもしれません。又、主郭北側山側背後は往時は堀切だったと思うんですが今は土橋状の平場になっています。
虚空蔵山城の城砦群の中で見てて最も楽しいお城です。虚空蔵山城に来る事がありましたら此処だけは見逃さないようにして下さい。ちなみにこのお城の主郭西側から尾根伝いに南西へ下って行くと南西尾根ノ城に至ります。
2020年04月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
虚空蔵山城
虚空蔵山城は基本的に虚空蔵山の山塊にある城砦群と考えてよいと思います。アプリの虚空蔵山城は山頂にある峯ノ城を指していると思いますが、他にも秋吉城、中ノ陣城、南西尾根ノ城、現城、唐鳥屋城といったお城があります。
築城者は会田氏で、同氏は滋野三家の一つ、海野氏の者が承久の乱の恩賞として筑摩群の一部を賜り、子孫がそれぞれの地で地頭職を経て在地、国人領主化、その地の地名を取って会田氏を名乗ったものです。ややこしいんですが会田氏は2系統あり、大塔合戦の前後辺りで同じ海野氏の一族、岩下氏が小県郡からこの地に入り会田氏を名乗りました。経緯とかは不明なんですが、戦国時代にはこの岩下会田氏が城主ということになります。
今まで虚空蔵山城の口コミを色々してきましたが、肝心の峯ノ城について口コミしてなかったです。峯ノ城は標高1139mの虚空蔵山山頂に主郭が存します。縄張的に出来ることは当然限られてますが、大体こんな所に誰も攻めてこないよという砦規模のお城です。詰城という見方も出来ますが、詰められる人数は極少数だし、眼下の城砦群を獲られた時点で詰みだと思うので所詮物見砦というのが実情でしょう。平野部との比高約480mで下界の様子が判るかというとこれも疑問でして、いずれにせよ御苦労様なお城である事は間違い無いです。
行き方ですが、幸いな事に現在は林道虚空蔵線と風越峠が虚空蔵山山腹を走っていますので徒歩で登る比高は200m無いです。自分は風越峠道をGoogleマップに位置登録されている四賀有機センター(肥料工場だと思う。)まで車で進みました。センター裏手には林道が延びていますので徒歩でこれを進みます。途中石積みで区画された脇道がありますのでこれに入り、暫くすると林道から尾根筋に入る登山道が付いてますので、これに従えば山頂に行くことが出来ます。此処には案内板も立ってるんですが、残念ながら林道に対して正面を向いていないので見落とさないよう注意して下さい。ちなみに林道は林道虚空蔵線になりますので、そのままオゲ水まで進めばそこからお城へ行く事(主郭部西側の堀切にぴったり着きます。)も可能ですが急坂となります。案内板からは0.8km、最初だけ頑張れば後は結構楽なので諦めないで下さい。
これは峯ノ城だけに行く場合の推奨コースです。もう一つの推奨ルートは別な口コミでしたいと思います。
虚空蔵山城の周辺スポット情報
石垣(遺構・復元物)
水の手(遺構・復元物)
谷間の平場群(遺構・復元物)
中ノ陣城(周辺城郭)
広田寺裏山の旗塚(周辺城郭)
無量寺下尾根の旗塚(周辺城郭)
現城(周辺城郭)
三峯社上の旗塚(周辺城郭)
西ノ宮笹ヶ城(山笹城)(周辺城郭)
召田城(覆盆子城)(周辺城郭)
潮古殿屋敷(周辺城郭)
城二の峯物見(周辺城郭)
横川番所(周辺城郭)
岩渕城(藤池館)(周辺城郭)
橋ノ小屋(周辺城郭)
鳥の城物見(周辺城郭)
中の小屋(周辺城郭)
取手砦(取手館)(周辺城郭)
殿村館(会田氏館)(周辺城郭)
備前原の館(周辺城郭)
秋吉砦(周辺城郭)
唐鳥屋城(乱橋城)(周辺城郭)
虚空蔵山城(峯の城)(周辺城郭)
南西尾根の城(周辺城郭)
雨戸屋城(周辺城郭)
笹沢城(落水砦)(周辺城郭)
物見岩砦(鬼が城)(周辺城郭)
潮古屋敷館(周辺城郭)
久保殿屋敷(古殿屋敷)(周辺城郭)
清水の古屋敷(周辺城郭)
中沢の古屋敷(周辺城郭)
大足平館(上の段館)(周辺城郭)
こや城(小屋城・小谷城・古屋城)(周辺城郭)
茶臼山城(周辺城郭)
佐々野城(三嶺笹ノ城・笹野城)(周辺城郭)
塔ノ原城(城山・長峯城)(周辺城郭)
花見城(周辺城郭)
城池(清右衛門屋敷)(周辺城郭)
三峰城(旭城・おてんじょう・左嶺城)(周辺城郭)
鍋山城砦(周辺城郭)
善光寺街道・馬頭観音(寺社・史跡)
石まんぼう(寺社・史跡)
オゲ水(寺社・史跡)
岩屋社(寺社・史跡)
立峠(その他)
花川原峠(その他)
五本峠(その他)
青木峠(その他)
十観山(その他)










概要
虚空蔵山城は、会田盆地の北に聳え地域のシンボルともなっている独立峰虚空蔵山(標高1139m)にある山城である。山のほぼ全域南北800m、東西440mの範囲に複数の城が分布する城塞群と呼ぶべき壮大な構えで、比高は300mに達する。個々の城は山頂の峯ノ城、山腹の秋吉砦、中ノ陣城、南西尾根の砦、十二原沢上流の平場群などからなり、山麓の会田地区にあったと伝わる会田氏居館の詰城とされる。虚空蔵山から西に続く尾根上にあるうつつ城や、花川原峠を挟んで北西に対峙する唐鳥屋城も広い意味では虚空蔵山城と一体的な関係にあった城とみることができる。
中ノ陣城は曲輪の周囲に鉢巻状に石垣を巡らせる。また、曲輪の背後に高土塁を築いて尾根後方からの攻撃に備えており、桐原城や埴原城など松本周辺を中心とした旧小笠原氏領域の山城によく見られる構造をしている。 秋吉砦は小規模な曲輪ながら、前方に土塁や石塁を伴う3本の長大な竪堀を配している。
十二原沢上流の平場群は、中ノ陣城と秋吉砦に挟まれた標高920m前後の谷間には長さ40m~50m、幅10m前後の短冊形の平場が雛壇状に6段連なり、その東西を区切る土塁も含めて総石垣の構えとなる重厚な縄張である。平成24年~28年に3回の発掘調査が行われた結果、15世紀の寺院を前身として16世紀に城郭に整備されたことが判明しており、その規模や石垣のあり方からみて、虚空蔵山城の中心域は従来指摘されてきた中ノ陣城ではなく、この平場群である可能性が高まった。特に注目される石垣は、松本地域の山城に特有の平石積みの構造が見られるほか、群馬県の太田金山城に見られるアゴ止め石と同様な土台石や巨石の使用などの特徴がみられる。
歴史
会田氏は真田氏と同族で、東信濃の滋野氏を祖とする海野氏(岩下氏)がこの地に入ってきたもので、会田の領主であるとともに伊勢神宮内宮の会田御厨の地頭でもあった。戦国時代は府中小笠原氏の下で国衆として所領の経営にあたったが、天文19年の武田晴信(信玄)の松本平侵攻に続く天文22年の虚空蔵山城侵攻を契機に武田氏に降った。しかし、天正10年3月の武田氏滅亡と6月の本能寺の変による政情の混乱の中で上杉氏に与したため、7月に府中(松本)帰還を果たした小笠原貞慶によってその年11月に一期城において滅亡に追い込まれた。虚空蔵山城は、戦国時代を通して会田盆地と筑北盆地の境目の城として政治的に重要な位置にあった。その一方で、虚空蔵山は古くからの信仰の山でもあり、現在も巨岩の洞窟に鎮座し虚空蔵菩薩を安置する岩屋神社がある。十二原沢上流の平場群も元々は山寺であり、戦国時代の不安定な情勢の中で聖地に築かれた城としても大変興味深い。
交通
・松本市役所四賀支所から自家用車10分または徒歩1時間