虚空蔵山城(こくぞうさんじょう)
虚空蔵山城の基本情報
通称・別名
- 会田虚空蔵山城、会田城
所在地
- 長野県松本市中川
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 岩下氏(会田氏)?
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 岩下氏(会田氏)?
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
青柳城(長野県東筑摩郡)[7.4km]
稲倉城(長野県松本市)[8.0km]
平瀬城(長野県松本市)[10.6km]
麻績城(長野県東筑摩郡)[11.6km]
岡城(長野県上田市)[14.5km]
桐原城(長野県松本市)[14.6km]
松本城(長野県松本市)[14.8km]
林城(長野県松本市)[15.9km]
小岩嶽城(長野県安曇野市)[16.3km]
山家城(長野県松本市)[16.5km]
虚空蔵山城の解説文
虚空蔵山城の口コミ情報
2022年11月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
中沢の古屋敷[虚空蔵山城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
中沢の古屋敷は虚空蔵山城の西南約6.9km、会田川北岸(右岸)、標高約561mの河岸台地緩斜面上平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている大足地区コミュニティー集会施設を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。車も捨てられます。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは塔ノ原氏の分流と推測される大足氏の被官、越氏と伝わり、該地のみならず周辺には今も一族の方がお住まいです。越氏は家伝によると明智光秀の家臣で秀吉に敗れて逃げて土着したんだそうだけど、そもそも論で話に辻褄が合わなくなるので無視しましょ。
明科町誌では古屋敷の北方約0.1kmに位置する「見付田(字地名、番士の常駐があった場所)」や後背山塊尾根上に存する同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある佐々野城(笹野城)の城番の屋敷であろうと推測している。信濃のお城の神は、佐々野城とは距離が離れ過ぎている事(会田氏の要害とされる佐々野城には別に根小屋と推測されている場所、堀平がある。)を理由に挙げて後者には否定的で、むしろ後背山塊山中を通る会田等へ抜ける間道の起点に当たる事から、道押さえの屋敷として機能していたとの見解を示しています。
居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地等となっています。敷地の北西辺は中沢の流れに面し、居館跡として往時を想像する事は今でも充分可能、纏まりがよいものだと思います。ちなみに至近には高札場跡と郷倉跡が残るので古くから集落の中心地であった事は間違い無い。
中世以降、会田川の谷筋からは北方山塊山中を通る様々な間道が四通八達していて、概ねで東行すれば善光寺道、近世の北国西脇往還、善光寺街道に通じ、北行すれば潮沢の谷筋へ抜け、潮沢からは岩殿山に代表される山塊山中を越えて善光寺平に至る古道が通る。この大足から続く間道も広く見ればこの古道に通じる道筋の一つである。この古道は往時現代人の感覚からすれば俄に信じ難い命懸けのルートを辿ってちょと面白いんだけど、周辺の砦や物見の類いも含めて再訪しなくちゃあかんなと考えてるので追々紹介したいと思う。
2022年11月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
小芹の殿畑[虚空蔵山城 周辺城郭]
小芹の殿畑は虚空蔵山城の西方約6.4km、標高約635mの山塊中腹部緩斜面上に城域が存すると推測されます。南麓の国道403号線からの比高は110m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている春日社を目標に設定して下さい。この小社の裏手や周辺が「殿畑」の字地名が残る概ねの該地です。ちなみにそれなりの比高はありますが舗装林道が付いていて此処まで車で行けます。林道をそのまま登ると標高859.3mの小芹峯、更に進むと同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある梨子峯物見に至ります。
築城年代、築城者は不明です。伝承では潮沢口を守る武士の住む所て事らしい。明科町誌は周辺に残る「殿畑」、「殿畑上」、「宮ノ上」、「堂のをね」、「御竹藪」の字地名を紹介しているけど、果たして後ろの三つの字地名が城館に纏わるものなのかは阿保なんでよく解らねぃや。
該地は地滑りが過去に発生したらしく遺構は消滅しているらしいけど、殿畑の字地名の場所が春日社の周辺ならば地滑りの影響は特に受けていないようにも思える。が、なだらかな緩斜面で地山に近い地形、何にも無いに等しいっす。
前述の春日社に加えて周辺には神楽舞台、薬師堂、一般住宅が建っている。明科東川手の山塊山中は往時間道が四通八達し、道沿いに今も民家が点在している事からも解るように現在も一部が生活道としての利用がある。信濃のお城の神はこうした間道における道押さえの番所や物見の類い、もしくは上方尾根上に位置する物見等の根小屋だったと推測している。
谷筋の小集落の背後に控えるお山の中、小さな春日社と薬師堂は地域の方によって今も大切にされている。戦後の高度成長期を迎える以前は全国各地にこの様な里山が至る所にあった筈だ。いや、今まで気付こうとしなかっただけなのかな、山城に通うようになってこうした風景をよく見るようになったとも言える(信濃のお城の神は山城探訪とは僻村探訪なのだと言っている。故郷でもなけりゃ殆どの人にとっては訪ねる必要が全く無い。遺構がどうだこうだとか語る前にめぐら〜は他人が決して味わえないレアな経験をしている事をもっと自覚してもよいんじゃないかな。)。最近何でもない当たり前の光景が時々妙に感慨深かったりする。
2022年11月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
山中殿屋敷(殿田)[虚空蔵山城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
山中殿屋敷(殿田)は虚空蔵山城はの西方約5.9km、潮沢川北岸(右岸)、標高約545mの河岸台地緩斜面上平場に存した居館です。ちなみにおいらも間違えてたけど、「やまなか」じゃなくて「さんちゅう」が正解っす。
行き方はGoogleマップに位置登録されている山中農業研修センターを目標に設定して下さい。この農業研修センターの周辺一帯が概ねの該地となっています。敷地の範囲が不明ですが、該地、もしくは該地の南側には現在重要幹線道路の一つである国道403号線が東西に走ります。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地は伝承によると潮沢の谷を支配する武士の屋敷跡て事になるけど、明科町誌はこれを裏付ける「殿田」、「本町」、「本町坂」、「蔵右衛門屋敷」、「藤平屋敷」、「善四郎屋敷」、「中村」の字地名を紹介し、高札場、郷倉、旧庄屋の屋敷が至近に存した事から、古い時代からこの地域における集落の中心地であったのであろうとの記述がある。
居館の現況は地形に改変を含んでいる上に集落の一部となっていて旧態を想像し難いです。遺構自体は消滅していますが、屋敷の付く各字地名はそのまま一般住宅とその敷地となっているので雰囲気は追えるかな。集落の中央に「北海道(きたかいど、ほっかいどうじゃないよ。)」の字地名を残しているが、やっぱりこれも城館に関わる「北垣内」を本来意味するんだろう。此処から延びる林道はそのまま同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある梨子峯物見に通じている。
農業研修センターに出入りしていた近在の方に声を掛けられたので今回の訪問の目的を告げると、「それなら○○さんならよく知ってるよ、詳しい話をしてくれるさ。」と言って自宅まで連れて行ってくれました。拝聴する事2時間強、内容は収穫が無かった(おいらは善光寺古道に通じる間道の事を知りたかったんだけど見事にスルー…)上に当日の予定は大幅に狂うという大誤算、それでもお爺さんはこのユニセックスな美少年に一生懸命話をしてくれました。ありがとう。
2022年11月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
茶臼山城[虚空蔵山城 周辺城郭]
茶臼山城は虚空蔵山城の西南約6.9km、会田川北岸(右岸)、標高731mの雷山(かんだちやま)から南方へ延びる標高578mの尾根端部上平場に主郭が存します。南麓からの比高は30m位でしょか。立地は会田川の蛇行点に向けて南方へ尾根が張り出す要害の地で、安曇野市明科から松本市会田へ抜ける谷筋の関門、城下を千石街道に合流する会田街道の旧道が通る。現在は対岸に長野県道302号線、矢室明科線が東西に走ります。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ただそのとおりに行くと会田川を渡れないので注意です。詳細は誰も行かないと思うので割愛、てか説明すんのが非常に面倒っす。
築城年代、築城者共に不明です。松本藩主、水野忠幹の命により享保九年(西暦1724年)十二月に完成を見た信濃の地理、歴史書、信府統記に記載が無い。伝承によると城域外北側の下屋敷に青木氏が住し城番を務めていたらしい。伊勢内宮御師、宇治久家が記した信濃国道者之御祓くばり日記に茶臼山城と施行田(字地名)の青木氏があり、少なくとも天正九年(西暦1581年)までは同氏の在番があった事が判る。位置関係から平瀬城のリア攻めマップにある塔ノ原城の支城と考えられるが時代による変遷を考慮すれば単純にそうだとも言えない面があるんじゃないでしょうか。
お城の現況は大変難しい。主郭と通称2郭で構成される単純な縄張ですが、はっきり言って頑張れない藪(笹枯れしてないかなと期待してた。→酷くなってた…)なので削平されてるて事以外は何も…主郭北東側山側背後は幅の広い堀切で断ち切っているけど、これを人工の堀切と見るかは微妙だと思います。
主郭から一段下、城域外南側は居館(根小屋)跡とされています。結構な面積を持つ削平地で土塁の残滓、長大な築地(河原石の石積みは後世に築地の上に積まれたもの。)、河原石を集積した矢塚が残る。ちなみにこれ等を現地で確認すると「ほっ、本当なのかっ?」レベルです。
実は以前にも口コミしたんですが、再訪に伴い内容を変更してREDUXしました。全国各地に多数が点在する茶臼山城コンプリートを目指している方は是非訪ねてみて下さいまし。
2022年07月24日 しげしげ主税頭信繁
虚空蔵山城
舗装された林道の獣ゲートを開けて進入し、暫く進むと登城口がありますが更に奥に進むとまた登城口が有ります。駐車場はありませんが車2〜3台程は停められます。そこには鳥居が有り湧き水も出てます。
そこから直登になりますが、岩谷神社がありそこからは九十九折の獣道です。ゆっくり休憩しながら20分程で主郭まで辿り着きます。
帰りも同じ道を戻りましたが大変滑りやすいので慎重に降りましょう!下に降りて湧き水を飲みましたが、大変冷たくて美味しかった!
2022年05月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
笹沢城(落水砦)[虚空蔵山城 周辺城郭]
笹沢城(落水砦)は虚空蔵山城の西南約3.9km、会田川南岸(左岸)、斎田原の北西台地縁から派生する標高718.6mの笹沢山山頂に主郭が存します。北麓の長野県道303号線、会田西条停車線からの比高は120m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている北西麓の旧五常小学校を目標に設定して下さい。旧小学校に入りグラウンドを抜けて会田川に架かる小さな橋を渡って行き詰めると獣柵ゲートが設置されているので此処が登城路入口となります。登ると根古屋っぽい平場に出るので左手に見える尾根筋を進みましょう。今は道が不明瞭ですが右手に廃墟のログハウス(!!?宿泊施設だったらしいが…)を確認出来ればそれでOK♪
築城年代は不明、築城者は会田(岩下)氏です。岩下氏の被官、笹沢監物が詰めていたらしいっすね。虚空蔵山城を取り巻く城砦の一つでお城自体は砦規模の縄張、明科、田沢方面から続く谷筋を監視出来る立地で、会田川以南の会田(岩下)氏支配領域の最西端でもあります。
お城はしっかりと普請されているんですが、少々疑問も…堀系において何処までが往時の遺構なのか判別が難しい…該地は地滑りや崩落を繰り返してきた場所らしく、特に横堀状の地形において悩ましいっす。又、城域南端、斎田原に連なる尾根筋には後世の改変なんだろうけど訳解らん堀底道様地形(塹壕様地形とも言える。)なんかも残ってたり(何のため?とか思います。)します。確実に遺構と判断出来るのは主郭部南東側背後の二重堀切とその背後の大堀切ぐらい(腰郭の一部さえ怪しいものがある…)でしょか。現況は何ともすっきりしない異形のお城でありますが楽しめる事は間違い無い。ちなみにお山は大変荒れています。
主郭には平成十九年十二月に旧五常小学校6年生の生徒さんが立ててくれた手作りの標柱が残っています。ほっこりさせてくれる上に的確且つ簡潔にお城の説明が書かれているので標柱マニアは是非訪ねてみて下さいまし。
2022年05月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
西ノ宮笹ヶ城(山笹城)[虚空蔵山城 周辺城郭]
西ノ宮笹ヶ城(山笹城)は虚空蔵山城の西南約2.7km、会田川北岸(右岸)、標高761.5mの山塊山頂に主郭が存します。南麓の長野県道303号線、会田西条停車線からの比高は155m位でしょか。
行き方はちょと難しい…一応Googleマップに位置登録されているのでとりまダイレクト設定して下さい。が、お城の南麓から東麓に掛けて長野自動車道の高架道が走っているので取り付きが限定されています。東麓の高速道路下に設けられた麻績20トンネルを抜けて舗装路を南下、お山の南尾根には何かの整備用保安道の階段が付いてるので此処が登城路入口となります。道も一応付いてますが途中から尾根筋(急登である。)に入ると結局不明瞭となります。迷う事はありませんが…
築城年代は不明、築城者は会田(岩下)氏です。岩下氏の被官、山笹氏が詰めていたらしいっすね。虚空蔵山城を取り巻く城砦の一つでお城自体は物見台か狼煙台規模の縄張、明科、田沢方面から谷筋を抜けた会田の関門に当たる立地で、お城の西側を流れる沢筋に並走する林道を北方に登り詰めると五本峠に至ります。
お城はほぼ地山の印象で、南端の三峯社を物見郭とし山頂を主郭部とする単純な縄張です。ただ山頂部の削平はしっかりしていて、縄張図における通称1郭と通称2郭はそれなりの面積があります。特に一段低い通称2郭は小屋掛出来そうなぐらいの面積となっていて、城番が置かれた恒久的な砦であった事を窺わせています。主郭にはびっくりする事に標柱が寝ていたりなんかもしますね。又、縄張図を見ると城域北端には堀切1条が設けられていますが埋まっちゃったんでしょかね、今は大変難しい…
眺める方向から色んな表情を見せてくれる虚空蔵山(城)ですが、此処の主郭部からの遠景はとんがり感がMAXで大変素敵、狼煙揚げれば直で届いた事でしょう。お城的にはマニア向け。会田(岩下)氏関連の城館コンプリートを目指す方は是非、ただコンプリートは凄まじく面倒で情報皆無な色物物件を2件程抱えています。来冬挑戦しよかな。
2022年04月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
取手砦(取手館)[虚空蔵山城 周辺城郭]
取手砦(取手館)は虚空蔵山城の南西約3.5km、保福寺川東岸(右岸)、標高約674mの河岸台地西辺上平場に存した居館です。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…
築城年代、築城者は不明です。会田(岩下)氏に関係する砦と推測され、その支配領域の南端部に位置しています。砦から南方に進めば律令制下の東山道と重複する松本平と上田原を結ぶ保福寺峠道にぶつかります。この道は江戸時代に中山道が開通すると北国脇往還の地位に転落しますが、松本藩主は保福寺峠を越えて参勤交代の為に江戸へ向かいました。
取手砦てふざけた名称ですが、松本市取手にあるんだから仕方ない。が、実態は堀と土塁で囲われた方形居館だったようで、堀畑の地名の北辺には堀形、その内側、北辺と東辺の一部には土塁が残ります。そして土塁上にはびっくりする事に標柱が…旧四賀村はこの分野において相当気合の入っていた行政区だったと思います。ちなみに砦は崖端であり、西辺は相当な高さを持つ崖地となっています。
該地は兒玉さんて方の所有で、現況は畑地、空地、一般住宅とその敷地等となっています。同家は松本藩政時代に代々庄屋を勤めたと伝わり、砦の北東側、舗装路を挟んだ場所に松本藩時代の高札場(これ現存なのかな、修復を重ねて明治期まで使われていた趣きがある。)が設けられていました。兒玉氏と砦の関係は不明ですが、雨戸屋城主に小玉氏てのがいるので参考までに…
それにしても城域に一般住宅が含まれてると写真撮影のハードルが一気に上がりますね。生活感に溢れてしまい悩ましい写真しか撮れなくなります。街中ならまだしも集落内だと美少年は目立つし声掛けすべき方も見当たらない…どなたかすんなりリア攻め出来るテクニックを御教授おねしゃす。
2022年04月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
備前原の館[虚空蔵山城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
備前原の館は虚空蔵山城の南西約2.5km、会田川南岸(左岸)、標高約653mの河岸舌状台地上平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている会田共同養鶏組合を目標に設定して下さい。此処が概ねの該地で備前原の地名を残しています。が、この養鶏場には防疫(可愛いい感じで言うと鳥フル対策…)の観点から関係者以外は入れないので事実上リア攻めは不可能です。自分も素直に諦めました。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは岩下備前守です。岩下備前守の名は生島足島神社文書の岩下駿河守幸実起請文中に見られませんが、同名は虚空蔵山城城主、岩下氏の一族である事は間違い無いでしょう。
岩下氏に関連する資料として会田堀内家文書、すなわち会田に住する堀内家(岩下氏家老に堀内越前守の名が伝わるが…)に伝わった伊勢内宮御師、宇治久家が記した「信濃国道者之御祓くばり日記」てのがあるんですが、この日記は簡単に言うと天正九年(西暦1581年)、久家が信濃各地の御厨の地を訪ねた際にその訪問先を記録した文書の事で、御厨のあった会田にも久家は当然下向しています。当地の岩下氏のみならず武士以外の個人に至るまで事細かにその名が記されており、御礼と共に配った土産の数にまで詳細は及びます。武田氏滅亡の前年、本能寺の変の前年に当たる微妙な時期でもあり、往時の信濃の一片を窺い知る事が出来る貴重な一級(一次)資料です。
この中に「あいた分」として、「岩下備前守」の名が「岩下殿」、「岩下筑前守」に続いて三番目に記されています。備前守の事跡は他に全く伝わりませんが、同名は岩下家中において上席を占める者だったのでしょう。ちなみに熨斗五十本、茶十袋を久家から頂いたらしいっすね。
居館の現況は何も無いみたいだし行ってないので知らんがな…ただ舌状台地の先端部を活用した要害地形である事は間違い無く居館の立地としては申し分なかった事でしょう。
岩下氏は久家の下向の翌年に当たる天正十年(西暦1582年)十一月、召田城に籠城するも小笠原勢に敗れ、青木峠を越えた小県郡の十観山で最期(幼少の当主、小次郎廣政は自害に及ぶ。)を迎えます。先祖が辿ったかもしれない道を逆に落ち延びたその心境を推し図るのはとても辛いものがありますね。
2022年04月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
殿村館(会田氏館)[虚空蔵山城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
殿村館(会田氏館)は虚空蔵山城の南西約2.2km、標高1139mの虚空蔵山南西裾野、標高約632mの緩斜面上平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている四賀屋内ゲートボール場を目標に設定して下さい。このゲートボール場と旧四賀村立会田小学校跡地、旧四賀村立会田中学校(廃校)の校舎周辺が概ねの該地となっています。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは会田氏です。居館の存した会田の地は伊勢神宮の御厨で、当地は江戸時代に北国西脇往還の会田宿が設けられた事からも理解出来るように交通の要衝、信濃のスクランブル交差点でもありました。上杉氏の被官、島津忠直(長沼城城主、薩摩島津家と同族、ちなみに後に上杉氏の会津移封に従いますが、移封先でも長沼城城主…両城は城めぐの登録城でもありますね。)は上杉景勝宛書状の中で会田を「切所口」として府中への侵攻を戒めています。
会田氏は滋野三家の一つ、海野氏の庶流で、海野幸継の二男が会田御厨の地頭職として入部し会田小次郎を名乗ったのがその始まりとされています。会田氏は事跡に乏しく断片的な資料しか探し出せないのですが、時代、理由は不明なるも当地は同じ海野氏の庶流である岩下氏に領主の交替があり、少なくとも享徳四年(西暦1455年)の諏訪御符礼之古書には会田岩下三河重阿の名が見られ、同名は諏訪上社御射山祭事費を負担しています。又、小笠原貞慶によって岩下氏が滅ぼされると会田の地は青柳城城主、青柳頼長の所領となったらしく、天正十年(西暦1582年)十二月には伊勢大神宮に会田の内から総計二十貫文が寄進されています。後に青柳氏も貞慶によって滅ぼされますが此処では別の物語でしょう。
居館の現況は前述のとおり改変されていて遺構は消滅、後背に虚空蔵山城を控える高台である事以外には何も…後世学校を建てたくなるような場所だったて事ぐらいでしょかね。ちなみに居館の北西側にはニゴミ堂(人埋堂)と呼ばれる御堂が建っていたそうで文字通りの場所だったそうです。
屋内ゲートボール場の写真を撮りまくるストレンジャーと化した自分に下校途中の女子中学生が「こんにちわ〜」て挨拶してくれました。都会では決して経験する事の無いほっこりした日常に癒されまくり…男前で良かったです。
2022年04月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
唐鳥屋城[虚空蔵山城 周辺城郭]
唐鳥屋城は虚空蔵山城の北西約0.6km、標高1079mの山塊山頂に主郭が存します。南麓の善光寺道からの比高は100m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている立峠を目標に設定して下さい。リア攻めマップにもスポット登録されており此処が登城路入口となります。が、山塊山中の峠なので車では行けません。最も楽な登城路は立峠南東側の善光寺道が大きくヘアピンカーブを描く場所からで、送電線の鉄塔脇を進んで善光寺古道に入り立峠を目指します。このルートなら登る比高は大した事ありませんので、正式な立峠登り口(リア攻めマップにおける善光寺街道・馬頭観音)からより格段に楽です。
築城年代は寛正年間(西暦1461年〜1466年)とされ、築城者は滋野三家の一つ、海野氏の庶流、藤沢氏で藤沢帯刀の名が伝えられています。藤沢氏は事跡が少なくはっきりしないのですが、寛元二年(西暦1244年)、藤沢大道が乱橋に館を築いて居していたと伝わり、鎌倉幕府御家人としての海野氏が幸氏の代に急速に信濃各地に発展していった時期と重なります。
唐鳥屋城は伝承に従えば藤沢氏の要害となりますが、藤沢氏が居した乱橋から距離が離れている事、会田(岩下)氏の本城、虚空蔵山城から指呼の距離である事から立ち位置に疑問を抱えます。立峠の説明板(誤記が色々ある。)には南向きの城であると解説されていますが、縄張は明らかに北向きであり、単純に立峠、花川原峠を監視下に置く虚空蔵山城城砦群の一つとして見る事の方が自然です。
お城は主郭の置かれた山頂から三方に尾根が派生しています。立峠へ通じる西尾根は痩せ尾根で堀切、竪堀、堡塁を要所に設定、北西尾根と北尾根には段郭を配して守りを固めます。素晴らしいのが北西尾根の段郭でして、此処には10段以上の郭が雛壇状に設けられ遺構の残り具合も良好(写真は難しい…)、側面片側には一部に竪土塁の痕跡すら確認出来ます。最下段まで下りて寄せ手目線で振り返ればちょとした絶望感を感じる事でしょう。
実はあんまし期待してなかったのですが、虚空蔵山城城砦群の中では最も楽しめるかもしれません。虚空蔵山城コンプリートを目指す方は面倒にはなります(虚空蔵山山塊から外れる。)が是非訪ねてみて下さいまし。
2022年04月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
雨戸屋城[虚空蔵山城 周辺城郭]
雨戸屋城は虚空蔵山城の西方約2.5km、標高869.5mの山塊山頂に主郭が存します。南麓の長野県道303号線、会田西条停車線からの比高は260m位ですが、林道を使えば車でかなりの比高を稼げます。が、はっきり言ってそれこそジープタイプの軽四駆でないとこの林道を進むのは非常に困難、自分は標高783m付近で諦め残りは徒歩で登りました。
行き方はGoogleマップに位置登録されている五本峠を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップを参照して尾根筋を登りましょう。此処に人の営みがあった事に誰でもびっくりすると思いますが鉄製の火の見櫓が目印となります。
築城年代、築城者は不明です。ただ位置関係から虚空蔵山城城主、会田(岩下)氏に関係するものである事は間違い無いと思われ、会田氏家人の小玉民部なる者が詰めていたらしいです。小玉民部は会田氏が武田氏に従うと川中島へ退去したそうですが、当人しか解らない事情と言うものなんでしょかね。
お城は五本峠を監視下に置く砦だったのでしょう。会田氏関連の城砦は険しい地形の地山を頼った縄張的にあっさりしたものが少なくない印象ですが、小さな砦とはいえ雨戸屋城は守る意識の高い普請がしっかりなされています。貧乏なんだけど丁寧に築きました感が伝わって来てとても自分好みなんす。城域の範囲は信濃のお城の神も悩んだところですが、五本峠に接する尾根筋に何らかの番所機能、砦としてはその東側山側背後から既に始まっているように感じました。一騎駆けの痩せ尾根には加工の痕跡すら感じられます。
晴れてたら城域から虚空蔵山城も見渡せるのでしょう。寒々しい写真ですが、これも長野県の春の風景の一つ、気温は低くないけど風が凄まじかったです。付近にはごく最近まで人の居住があり、その廃家屋が点在していますが、世代交代に伴い生活を諦めたとしても何ら不思議ではないでしょう。又、奥山ではあるけど決して登城困難なお城ではありませんので虚空蔵山城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。
2022年04月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
三峯社上の旗塚[虚空蔵山城 周辺城郭]
三峯社上の旗塚は虚空蔵山城の南西約2.1km、標高約868mの山塊山頂から南方へ延びる尾根上、標高約700mから標高約730mの緩斜面上に点在します。東麓の善光寺道からの比高は30m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南側の三峰神社を目標に設定して下さい。車は捨てるのに少し困ります。
信濃でもレア物件(全体でも10件は無いでしょう。)ではある旗塚…口コミとしては4例目になります。もうええわっ!と言われても絶対止めないですw個人的には訪城記録でもあるので悪しからず…よくあるじゃないすか、前衛的なんだろうけど先を行き過ぎてて何がどうだか解らない芸術作品…そう!自己陶酔てやつです。そもそも他人に見てもらうものだけど理解出来ないので批評も曖昧になる代物、即ち批判も受け付けていないですw
盛られた年代は知らんけど盛ったのは会田(岩下)氏でしょう。会田氏に関しては同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある殿村館を参照して下さい。
旗塚の現況ですが、国内最高峰と言ってよいでしょう、他地方に旗塚が存在するのか知らんけど。細尾根に複数が南北に点在、しっかりと形状を保っていて大変判り易い。ほぼ地山と言ってよいとは思いますが、小郭を想起させる削平地なんかも確認出来るので物見台や狼煙台としての利用もあったかもしれません。又、明科方面から会田川沿いの谷筋を抜けて岩井堂沢に並走する善光寺道に合流する地点の裏山でもあるので何だか旗塚としてもちょとスペシャルな印象を受けます。が、まぁたぶん気のせいなんでしょう。ちなみに虚空蔵山南西麓善光寺古道の左右に旗塚は存在していた事になります。
個人的には旗塚通算5例目、「ふざけんなよ…」とか憤ってる方が大勢を占めると思いますが、重度の変態が多い信濃の山城マニアも敬遠(リア攻めの目標にならない。)する代物なので情報としてお納め下さいまし。それにしてもこの辺のお山は荒れてるなぁ…
2022年04月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
現城[虚空蔵山城 周辺城郭]
現城(うつつじょう)は虚空蔵山城の西南約1.0km、標高1139mの虚空蔵山から南西へ延びる尾根の一つ、山塊尾根上、標高873.6mのピークの一つに主郭が存します。南西麓の無量寺からの比高は140m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている北東側の虚空蔵山西登山口を目標に設定して下さい。尾根上に出たら虚空蔵山山頂方向とは逆の道を進みます。現城周辺は留山で、ブービートラップ(有刺鉄線がビニールテープに隠れている…悪意しか感じない。手背部を切ったわ…ちなみに罰金請求額は30万円〜200万円、極めて高額です…)付きの厳重な警戒線が目印になります。このルートを使えば非常に楽ちん、大して登る事も無く城域に至ります。
虚空蔵山城は基本城砦の集合体で、現城はこれを構成する一つとなります。城砦群の中では最も西方に位置し、眼下には善光寺道が走る事からこの監視の任も担っていた事でしょう。
お城は砦規模の縄張で段付きの単郭、主郭東側正面に堀切+竪堀+土橋が1条、西側山側背後に竪堀が1条設けられただけの簡素なものです。城砦群の中ではメインから外れる面倒な場所に位置している事から訪ねるのを躊躇してしまいがちですが、一旦下山して前述のルートを使えば苦労とは感じないでしょう。又、虚空蔵山の城砦群は基本舗装林道が発達しているので山頂の峯の城を除けばどれも登城は楽だと思います。
今現在松本市の山林を襲っている問題の一つにマツ材線虫病があります。謂わゆる松枯れを引き起こす感染症ですが、去年から今年に掛けて明らかにその被害が拡大、深刻化していると感じます(お山の景観が明らかにおかしいのさ〜)。虚空蔵山周辺もその例外ではなく、現城もその影響を受けまくり…単純に言えば折角の堀切が倒木で見難くなっています(ちなみに夏場は相当な藪城だと思う。)。里山に人が入らなくなって久しい現代、こうした事例は今後ますます増えていく事でしょう。虚空蔵山城コンプリートを考えている方は冬場に是非訪ねてみて下さいまし。
※写真8枚目の遠景が現城から見た虚空蔵山城、信仰のお山ですな〜
2022年04月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
無量寺下尾根の旗塚[虚空蔵山城 周辺城郭]
無量寺下尾根の旗塚は虚空蔵山城の南西約1.4km、標高1139mの虚空蔵山から南西へ延びる尾根の一つ、標高約718mから標高約734mの尾根緩斜面上に点在します。西麓の善光寺道からの比高は30m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている北麓の無量寺を目標に設定して下さい。車はお寺さんの駐車場に捨てましょう。取り付きは藪で限定されますので無量寺内貯水池の堰堤からお願いしやす。
信濃でもレア物件である旗塚…口コミとしては3例目になります。もうええわっ!と言われても絶対止めないですw個人的には訪城記録でもあるので悪しからず…よくあるじゃないすか、作者の意図するところと読者の持つ感覚とがずれまくってる作品…そう!自己満足てやつです。読まれる皆様はアプリ登録時から選択の自由を付与されていると思うので否定される方は拒否権を発動して下さい。苦情の方は受け付けてないですw
盛られた年代は知らんけど盛ったのは会田(岩下)氏でしょう。会田氏に関しては同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある殿村館を参照して下さい。
さて、このリア攻めの前に訪れた広田寺裏山の旗塚で旗塚のなんたるかを理解して期待度MAXだったんですが、改めてただの土盛りを探す事の難しさに打ちのめされました。ちょと此処は無理ですわ…松枯れによる採伐が行われ放置状態、それらしきものはあるんだけど確証取れないです。流石に阿保らしくなって陣払いしました。
地形図を見ると今は四賀球場で分断されていますが、広田寺裏山の旗塚と往時は同一尾根だったと思われます。どれぐらいの大きさの旗を立ててたのか知らんけど、少なくとも虚空蔵山城からはよく見えた事でしょう。
藪で全てを確認する事は諦めましたが、後世寸断された尾根末端に舗装路上から旗塚の一基が確認出来ます。縄張図でもそう描かれているので間違い無いぽこりんだと思いますが、別に見たってしょうもない代物ですのでさっさと次へ向かいましょう。
※写真1枚目の遠景が虚空蔵山城です。
※ちなみに無量寺は中世石垣(写真の石垣ではない。)も残る素敵な寺院なのでお寺マニアには無駄にならないはず…
2022年04月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
広田寺裏山の旗塚[虚空蔵山城 周辺城郭]
広田寺裏山の旗塚は虚空蔵山城の南西約1.8km、標高1139mの虚空蔵山から南西へ延びる尾根の一つ、標高約690mから標高約700mの尾根上緩斜面上に点在します。西麓の善光寺道(江戸時代の善光寺街道、正式名称は北国脇往還です。)からの比高は30m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南西麓の広田寺(廣田寺、六文銭が掲げられた会田氏の菩提寺です。)を目標に設定して下さい。車はお寺さんの駐車場に捨てましょう。
旗塚てなんのこっちゃて方が殆どだと思うし、知ったところで皆様の城廻りライフに何の影響も及ぼしませんが一応説明を…旗塚は読んで字の如く旗を立てるためだけの土盛りの事で、支配領域の境目の目印、示威目的で使われるものです。信濃でもレア物件ではあるんですが、虚空蔵山城周辺には確認されているものだけで3箇所存在します。善光寺古道を歩む者にオラが領地をアピってたんすかね。
盛られた年代は知らんけど盛ったのは会田(岩下)氏でしょう。会田氏に関しては同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある殿村館を参照して下さい。
実は以前にも旗塚を紹介してるんですが、「う〜ん…」て感じ。大体お寺さんの裏山の単なる土盛りを探すんだから休日にやる趣味としちゃ中々だぞ…今回で個人的に3例目の旗塚になるんだけど「これが旗塚かっ!」て感じの土盛りに未だに出会えていない…しかしっ!ようやく見付かりましたよ、尾根上に点在する5基の旗塚がっ!少し藪ってるけど明瞭に確認(写真は酷と言うもの…)出来ました。興奮と感動ではしゃぎまくりでしたが、側から見たら異様な光景に映った事でしょう。
最近の口コミですげぃ山城だけを紹介したいて気持ちは全く無いと書いた事がありますが、これからも残念物件をどしどし口コミしたいと思います。優良物件ばかり訪ねてたらそのうちハードルが上がるだけになるし、残念物件を知っているからこそ優良物件の見方も変わってくるものだと思います。又、この手の物件は現地に赴かないと背景やその意図が中々理解し難いものです。お城は机上の知識と縄張図だけじゃ絶対に測れない。現物が折角そこにあるんだからばりばりリア攻めしましょう!そしてこれも虚空蔵山城を取り巻くその一部であった事を知る事が出来る訳です。
2022年03月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
鍋山城砦[虚空蔵山城 周辺城郭]
鍋山城砦は虚空蔵山城の西方約3.4km、標高882.7の山塊山頂に主郭が存します。南麓の長野県道303号線、会田西条停車場線からの比高は280m位ですが、林道を使えば車でかなりの距離と比高を稼げます。が、はっきり言ってそれこそジープタイプの軽四駆でないとこの林道を進むのは非常に困難、自分は標高783m付近で諦め残りは徒歩で登りました。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…
虚空蔵山の西方山塊山中は奥山とはいえ山道が四通八逹し、鍋山城砦はこれを監視するためのものだったと思います。今に残る林道はその名残りで近年まで整備が続けられていたようですが、現況ほぼ放置状態…又、現地に赴けば誰でもびっくりすると思いますが、この山塊山中には廃集落(一軒家じゃないけどポツンと一軒家状態、ちなみにおいらはこの番組が大好き。)が林道沿いに点在していて、鍋山城砦の周辺にも鍋山集落、五輪平集落、日向集落が存在していました。林道はこれらと山麓を連絡するものであり、近年まで生活道として利用が続けられていたようです。そして往時の山道は道祖神や馬頭観音の石碑が数多く残っている事からも解るように人の往来がかなり盛んだった事でしょう。
築城年代、築城者は不明です。ただ位置関係から虚空蔵山城城主、会田(岩下)氏に関係するものである事は間違い無いと思います。砦から山道を西方へ向かえば同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある三峯城、佐々野城に至り、東方へ向かえば五本峠を経て雨戸屋城に至ります。
砦の現況は…頂部が削平されたほぼ地山…主郭には吾妻大神を祀ったとされる祠が建っていますが内部は空だった…他には何も。段が付いてる箇所もあるけど、まぁ気のせいなんでしょう。眺めは一方向のみ良好、物見の任には厳しそう…
それにしても周辺の山々は荒れてるし、所々で崩落してるしの本当に寂しい所でして、リア攻め中は気を紛らわせるためにぼっち歌謡ショーを開催、余計寂しいわ…誰も居ない山深い場所でこの世の無常を噛み締めてみたいと思う方は訪ねてみるのもよいでしょう。又、周辺の廃集落は一応人が定期的に入って管理されてるらしいので廃墟マニアは遠慮して下さい。
※位置の特定が難しいです。地図上で誤認してしまい最初は通り過ぎてました。
2021年12月15日 RED副将軍
中ノ陣城[虚空蔵山城 周辺城郭]
会田氏の居城🏯虚空蔵山に築かれた峯の城、秋吉砦、天狗山砦、現城の中心的役割を担ったとされます。
オススメ度 ★★★★⭐︎
真田氏と同族の会田海野氏により鎌倉時代に築城されたと伝わります。会田氏は信濃守護の小笠原氏に属していたが、1553年、武田軍に侵攻され、火攻めで降伏し武田氏の支配下に。武田氏の滅亡後は上杉景勝に臣従。
1582年に徳川家康の後ろ盾により筑摩郡を回復した小笠原貞慶に攻められ落城。会田氏滅亡後は、小笠原氏の支配となり、現在の石積みの遺構は小笠原氏による改修と考えられています。
見所
主郭の大土塁には平石積の石垣が巡る。平場群の水の手。斜面には水路状の石組や斜行する石垣を伴う幅の狭い段郭が10数段。城域の中核地とも言われてます。
クマの棲息域であり、熊鈴を激しく振りながら登城。振り過ぎで次の日は腕が筋肉痛でした😂車ごと獣害柵の向こう側に行く地域です🐻
⚠️虚空蔵山は信濃には他にも上田に2ヶ所、佐久に1ヶ所ありますのでご注意下さい!ここで紹介しているのは松本市の虚空蔵山城です。
2021年04月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
三峯城(旭城)[虚空蔵山城 周辺城郭]
三峯城は虚空蔵山城の西方約5.0km、南北に延びる山塊尾根上、標高889.8mのピークの一つに主郭が存します。南西麓の堀平集落からの比高は100m位でしょか。
築城年代、築城者は不明ですが、岩下会田氏(虚空蔵山城城主)の持分だったとされ、佐々野城と共にこの辺りが岩下会田氏の支配領域の最西端だったらしいです。
行き方は同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある佐々野城を参照して下さい。佐々野城の主郭から北側尾根を少し進めば城域に入ります。道は土橋と言っても過言ではない一騎駆けの細尾根なので迷う事はありません。ちなみに三峯城はGoogleマップに2箇所位置登録されていますが、一つは完全に間違いですので注意して下さい。
お城は堀切、竪堀、土橋なんかが確認出来ます。往時は城域内郭下をを間道が貫通していたようで、この監視の任をも担っていたようです。又、城域の判定に苦しむお城でもあります。主郭周辺の尾根のピークはどれも主郭とほぼ同一の高さで、これらピークから一段下がった所から土橋様の細尾根でピーク間が結ばれています。「あれもそうならひょっとしてこれもそうなんじゃない?」みたいな感じになりますね、困ったちゃんです。
佐々野城から三峯城へ向かう途中に見たら誰もが「なんじゃこりゃ〜」と呟く謎地形があります。地滑り跡と推測されていて確かに自然地形だとは思うんですが、それだけでこの地形が形成されているとは全く思えません。素人考えですが。地滑りが形成する地形は斜面水平方向に帯状の段地形、斜面崩落が形成する地形は斜面縦方向への窪地となると思うのですが、此処には多重の横堀様地形が形成されていて、どこか人の手が加わった感じが見られるんです。お城のある山塊周辺は結構船窪地形を見る事が出来るのですが、この場所に限っては尋常じゃないぽこぽこ感があります。答えを出そうとは思いませんが、純粋に何かの目的を持って造られたように感じますね。
もし行く人がいるならば佐々野城とセットで訪ねる事になるでしょう。そして周辺を地形図等で確認すれば此処にお城と間道があった事に驚くかもしれません。山中を通る事になっても最短距離を結ぶ先人達の苦労に畏敬の念を抱きます。それから今の私達には想像も付かない理由…山中を通る方がよっぽど安全な時代だったのかもしれませんね。
2021年04月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
佐々野城(笹野城)[虚空蔵山城 周辺城郭]
佐々野城は虚空蔵山城の西方約5.2km、南北に延びる山塊尾根上、標高約892mのピークの一つに主郭が存します。南西麓の堀平集落からの比高は100m位でしょか。
築城年代、築城者は不明ですが、岩下会田氏(虚空蔵山城城主)の持分だったとされ、城代として堀平氏(城域内に一族の墓地がある。)の名が伝えられています。又、南西麓の堀平集落(今は廃集落です。)は城番の子孫等が帰農し形成したものらしいです。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。南西麓の堀平集落まで林道が延びています。林道終点に廃家屋がありますので此処から南側に見える支尾根に取り付きます。これを登って主尾根稜線上(たぶんこの辺りから城域に入る。)に出た後、北方へ尾根を登って行けば主郭まで迷う事は無いでしょう。
お城は堀切、竪堀、横堀、土橋なんかが明瞭に残っています。特筆すべきは自然地形と思われる船窪地形を生かした馬屋の窪と呼ばれる広大な空堀様地形を内包している事です。周辺の地形から純粋に守りの一助として利用されたとは考え難いのですが、他では中々お目に掛かる事が出来ない遺構だと思います。主郭からは北西南へ尾根が延びていますが、何れの尾根も厳重と言えるでしょう。
このお城の主郭から北尾根を進むと三峯城と呼ばれるお城に至ります。途中には首を傾げたくなる程の謎地形があったりしてとても楽しいです。お城は山深い場所にありますが、林道は車両の通行が可能ですので、近くに来る事がありましたら是非訪ねてみて下さいまし。ただ林道は途中から道がかなり悪くなりますので注意です。自分は途中でアナグマを轢き殺しそうになりました。
2021年04月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
久保殿屋敷[虚空蔵山城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
久保殿屋敷は虚空蔵山城の西方約7.5km、犀川と会田川の合流点に面する標高約524mの河岸段丘端部上平場に存した居館です。
築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにあるこや城の城主とされる久保氏と推測されています。
居館の現況は住宅地となっていて敷地範囲内には様々な建物が建ち並んでいますが、概ね安曇野市消防団第6分団第1部の詰所を中心としていたようです。居館は東側に堀を巡らせていたようですが、現在は段が付いてる他は地籍に堀畑の地名が残るのみとなっています。又、土塁かもしれないとされる土の高まりも2箇所ありますが、現地に赴いても往時のものかどうかは判りませんでした。が、土の高まりには大変な樹齢を持つであろう巨木がそれぞれ1本づつ立っていまして、この土の高まりが相当以前からあったことは間違い無いと思います。
山城ばかり行っている自分ですが、実は信濃に限っては居館なんかも結構訪れていて、その数は100を超えてると思います。後世の改変の影響を受け易い居館の遺構が残っている事は殆ど無いですが、詰城を見上げながら領主気分に浸るのが最近の楽しみ方の一つになりました。ただこの久保殿屋敷からはこや城は見えないです。
2021年04月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
こや城[虚空蔵山城 周辺城郭]
あんまし面白くないお城口コミ〜
こや城は虚空蔵山城の西南約7.0km、標高約537mの狭小な舌状台地上端部に主郭が存します。南側の長野県道302号線からの比高は2m位でしょか。お城は同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある茶臼山城と会田川を挟んで南北で対になっています。又、同じ様に会田川の蛇行点の要害の地に立地しています。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。お城の南側には長野県道302号線が走り、登城路入口にはチェーン脱着場がありますので駐車も出来ます。車を捨てたら2分で主郭に到達出来る手軽さです。
築城年代、築城者は共に不明ですが、城主として久保氏の名が伝えられています。平瀬城のリア攻めマップにある塔ノ原城の支城である事は間違い無いと思います。
所謂崖端城なのですが、少し前までは城山公園として整備され小谷稲荷社なる小社も建っています。が、お城全体が崩壊の危機に陥っているらしく完全に立入禁止です。自分は「帰り」にこれに気付きました…どうりで行手を阻む様に虎ロープが設定されてる訳だぜ…よく見りゃ入口には三角コーンで立入禁止表示がしてあるじゃありませんか…確認不足、知らんかったわ。
お城の現況は大変厳しい…崖上の細い回廊状の道を通って行きますが、主郭は藪、他は放置された公園です。たぶん以前は桜や色んな木々、花々を愛でる事が出来る場所だったと思うんですが、すっかり荒れ果てていて何かを見付けるのはとても難しい…てか元々要害地形を頼りにしてるので人の手が加わったとすればほぼ削平のみでしょう。
お城は周囲から全景を見た方が楽しめます。日々崩落が進んでいるらしく、その要害感に拍車をかけます。いつの日かお城は一部を残して無くなると思うので、お近くに来る事がありましたら是非その全景を愛でて下さいまし。ちなみにお城の西側を通るJR篠ノ井線から一瞬だけ見る事も出来ますね。マニア向け。
2020年04月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
中ノ陣城[虚空蔵山城 周辺城郭]
中ノ陣城は秋吉城の西側に存する谷間の平場群の上端を抜ける感じで5分位進むと到着します。虚空蔵山の東西に延びる山頂尾根から南西へ延びる尾根上、標高約940mのピークの一つに主郭が存します。秋吉城と共に谷間の平場群を東西から囲むように存し、3つのお城を1つとして考えるとよいかもしれません。
虚空蔵山城は武田氏の安曇、筑摩両郡侵攻の際、刈谷原城、塔ノ原城が落城した翌日、虚空蔵山山麓が放火され、これにより城主の岩下会田氏は武田氏に従う事となりました。以後、天正壬午の乱まで岩下会田氏はこの地に在地していましたが、天正壬午の乱の際の一時期、この地域は小笠原氏と上杉氏の最前線となり、小笠原氏に従ってはいたものの上杉氏への内通を疑われて松本城で謀殺されました。以後、小笠原貞慶の讃岐移封まで虚空蔵山城は小笠原氏の支配領域だったらしく、城砦群の一部はその際に改修を受けたと考えられているようです。
中ノ陣城はこの城砦群の中で最も小笠原ブランドを感じさせてくれるお城です。主郭北側山側には高土塁が見られ、主郭南側の切岸には石積みが確認出来ます。崩落石も考えると主郭部は結構石積みだらけだったかもしれません。又、主郭北側山側背後は往時は堀切だったと思うんですが今は土橋状の平場になっています。
虚空蔵山城の城砦群の中で見てて最も楽しいお城です。虚空蔵山城に来る事がありましたら此処だけは見逃さないようにして下さい。ちなみにこのお城の主郭西側から尾根伝いに南西へ下って行くと南西尾根ノ城に至ります。
2020年04月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
秋吉城[虚空蔵山城 周辺城郭]
秋吉城は虚空蔵山の東西に延びる山頂尾根から南方へ延びる尾根上、標高約964mのピークの一つに主郭が存します。現地案内板にある縄張図を見ると、北側は山頂尾根に通じており南北に長いお城だったようですが、全てを見るのは難しいでしょう。このお城は南西側に谷間の平場群、中ノ陣城、南西尾根ノ城の順に城砦が展開しており、虚空蔵山の城砦群の中心地の一部分を形成していたと考えられています。
行き方ですが、虚空蔵山城の城砦群を効率良く廻るための行き方でもありますので、是非参考にして下さい。
とりま松本市のホームページにある「四賀支所から虚空蔵山頂までのコースガイド」を参照しましょう…これが1番解りやすいですw気を取り直して説明すると、林道虚空蔵線を同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにあるオゲ水まで車で進み此処に駐車して下さい。ただ林道は風越峠道とは全く別な道なので注意です。オゲ水に着いたら林道を徒歩で進み、同じ虚空蔵山城のリア攻めマップにある峯の城を参照して山頂尾根の東側から頂上を目指しましょう。オゲ水からは山頂へ延びる登山道が別に付いてますが、何故遠い方を選択するかというと、東西に長い山頂尾根に築かれた峯ノ城を隈無く見るためです。峯ノ城を見学し終えたら、主郭部西側の堀切に登山道の案内板が立っていますのでこれに従い下山、途中に岩屋社がありますのでこれも見ときましょう。この登山道を更に下って行くとオゲ水に戻る事が出来ます。オゲ水に戻ったら今度は林道を徒歩で下ります。5分位で「中ノ陣城跡・秋吉砦跡」の案内板にぶつかりますのでこれに従いましょう。登って1分位で最初の明確な遺構、秋吉城の竪堀にぶつかります。秋吉城から谷間の平場群、中ノ陣城、南西尾根ノ城は殆ど隣接して連なっているので、面倒がらずに是非頑張ってみて下さい。虚空蔵山城砦群には他に現城、唐鳥屋城がありますが、行ってないので知らんがな…特に唐鳥屋城は登城路自体が全く違うので改めて別な機会に訪ねてみようかと思います。
秋吉城は尾根上を南北に小郭を多数連ねた砦規模のお城です。変わってるのは主郭部から三方向へ向けて竪堀(そのうちの1条は分岐して別の竪堀を形成する。)が延びており、1条はそのまま谷間の平場群の東側を区画しながら落ちていきます。
2020年04月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
虚空蔵山城
虚空蔵山城は基本的に虚空蔵山の山塊にある城砦群と考えてよいと思います。アプリの虚空蔵山城は山頂にある峯ノ城を指していると思いますが、他にも秋吉城、中ノ陣城、南西尾根ノ城、現城、唐鳥屋城といったお城があります。
築城者は会田氏で、同氏は滋野三家の一つ、海野氏の者が平将門征討の恩賞として筑摩群の一部を賜り、子孫がそれぞれの地で地頭職を経て在地、国人領主化、その地の地名を取って会田氏を名乗ったものです。ややこしいんですが会田氏は2系統あり、大塔合戦の前後辺りで同じ海野氏の一族、岩下氏が小県郡からこの地に入り会田氏を名乗りました。経緯とかは不明なんですが、戦国時代にはこの岩下会田氏が城主ということになります。
今まで虚空蔵山城の口コミを色々してきましたが、肝心の峯ノ城について口コミしてなかったです。峯ノ城は標高1139mの虚空蔵山山頂に主郭が存します。縄張的に出来ることは当然限られてますが、大体こんな所に誰も攻めてこないよという砦規模のお城です。詰城という見方も出来ますが、詰められる人数は極少数だし、眼下の城砦群を獲られた時点で詰みだと思うので所詮物見砦というのが実情でしょう。平野部との比高約480mで下界の様子が判るかというとこれも疑問でして、いずれにせよ御苦労様なお城である事は間違い無いです。
行き方ですが、幸いな事に現在は林道虚空蔵線と風越峠が虚空蔵山山腹を走っていますので徒歩で登る比高は200m無いです。自分は風越峠道をGoogleマップに位置登録されている四賀有機センター(肥料工場だと思う。)まで車で進みました。センター裏手には林道が延びていますので徒歩でこれを進みます。途中石積みで区画された脇道がありますのでこれに入り、暫くすると林道から尾根筋に入る登山道が付いてますので、これに従えば山頂に行くことが出来ます。此処には案内板も立ってるんですが、残念ながら林道に対して正面を向いていないので見落とさないよう注意して下さい。ちなみに林道は林道虚空蔵線になりますので、そのままオゲ水まで進めばそこからお城へ行く事(主郭部西側の堀切にぴったり着きます。)も可能ですが急坂となります。案内板からは0.8km、最初だけ頑張れば後は結構楽なので諦めないで下さい。
これは峯ノ城だけに行く場合の推奨コースです。もう一つの推奨ルートは別な口コミでしたいと思います。
2020年04月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
谷間の平場群[虚空蔵山城 遺構・復元物]
谷間の平場群(案内板ママ)は虚空蔵山南側山腹、標高約920mに存します。平場群北東側の秋吉城、西側の中ノ陣城にほぼ隣接し、これらを一纏めにして一つの城と考える事も出来ます。
平場群は6段の平場が雛壇状に連なり多くの土留めの石積みも確認出来ます。平場群の西側は石積みで区画され、東側には土塁を伴う秋吉城から延びる見事な竪堀で区画されています。出土品等から元は中世に建てられた寺院の跡地と考えられており、どうやらその後に時勢の流れに従い軍事要塞化されたものだと推測されています。
虚空蔵山周辺は最近発掘調査が終了し、その成果は「発掘が語る虚空蔵山麓の中世」に纏められネットでも閲覧出来るので興味のある方は是非そちらを…自分は漢字が多くて眠くなるのでパス。
【山城を安全に登城するために】
続きになりますが、熊編はこれでおしまい。
前述の熊の対処法は自分の経験です。相手がある事なので一概には言えませんが、間違ってはいないと思います。色んな対処法はネットで探せば色々出て来ると思いますが、最新の情報を常に更新するのが望ましいです。
まず、死んだふりはやめときましょう。死肉もがつがつ食べるので進んで餌になるようなものです。
背中を見せて逃げるのは禁忌!熊のスピードは時速40km以上っす。まず無理ぽ…熊は逃げる者を追い掛ける習性もあります。木登りも大得意、あと松明持って登山する方は今はいないと思いますが、火も怖がりません。
熊は学習能力が極めて高い動物っす。一度手に入れた物には執着したりするので、物を奪われたらそのままに。餌をあげたりして注意を引くのも禁忌!ずっと付き纏われるかもしれません。
マタギの方は睨み付けるのをよく推奨してますが、こちらも素人なのでやめときましょう。マタギの方のような迫力も経験も無いので…賛否の別れるところですが、睨み付ける事で敵と認識され襲われる事があるそうです。
じゃ、向かって来たら!は経験無いので知らんがな…でもトレッキングポール等で鼻先を突きまくる事は有効らしく撃退例もあります。熊除けスプレーはお高いので自身の財布と相談を…ただ風下に立って噴射すると自分にも危ない代物なので注意です。ちなみに去年自分は車にナタを積んでいましたが重いので持って行った事はないです…
熊編はおしまい。
2020年04月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
岩屋社[虚空蔵山城 寺社・史跡]
岩屋社は虚空蔵山南側山腹、標高約1057mに存する岩屋に建てられた懸造りの社です。
岩屋社についてネットで調べていたら、懸造りの神社専門のサイトがあってびっくりしました。そのサイトによるとどうやら懸造りの神社は真田氏が領した地域に多いそうです。
祭神は天乃御中主神という神様で、社なんで虚空蔵菩薩とは何も関係がありません。ついでにお城とも直接関係がありませんが、松本市のホームページ「四賀支所から虚空蔵山頂までのコースガイド」に記載されていることから、虚空蔵山城(峯ノ城)へ登城する際の目標の一つになりますので口コミさせて頂きました。
自分、門外漢になりますので普通だったらスルーするところですが、写真を見て頂ければ解るように観光名所として素晴らしいので是非訪ねてみて下さいまし。登山道からも2分弱で到着しますので無駄に時間を取るという事にもなりません。社には土足厳禁、床板が抜けそうでちょっと怖いですが入る事が出来ます。岩屋には磨崖仏とかもあったりしてきっと神秘的な気持ちにもなったりする事でしょう。
【山城を安全に登城するために】
続きになります…
熊除け鈴を装備してても前述の理由等から遭遇してしまう事は当然あります。自分が虚空蔵山城の口コミでこんな事を書くのはそんな事があったからでした。山頂部付近は熊も寄せ付けない峻険さで逆に安心してましたが、オゲ水から秋吉城へ向かう舗装された林道で道路脇の斜面の法面の上の方から熊さんの息遣いとどたどたする足音を聞きました。ちらっとだけ姿が見えましたが熊さんでしょう、丁度林道を横断するつもりだったようです。
人間が熊に気付くのは場所にもよりますが、自分の経験から距離にして約20mといったところです。目と鼻の先に突然現れるという事はまず無いと思います。熊の臭覚は犬の21倍あるそうなので、熊の方が先に認識して何らかの動きを見せるという訳です。もし熊の存在を認識したらとにかくその場で立ち止まって下さい。反射神経的にも逃げ出したりする事は出来ないと思いますので自然とそうなるでしょう。立ち止まったら虚空を見つめて装備している熊鈴をカラオケボックスでマラカスを振るより速く振り回して音を鳴らしまくって下さい(ただし攻撃的に振り回さないように…)。熊はきっとその場から立ち去ると思います。
次回へ続く…
2020年04月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
オゲ水[虚空蔵山城 その他]
オゲ水はただの湧水が流れ出てくる場所です。
松本市のホームページにある「四賀支所から虚空蔵山頂までのコースガイド」に記載されてもいますので虚空蔵山城(峯ノ城)へ登城する際の目標の一つとして口コミさせて頂きました。湧水マニアは是非訪ねてみて下さいまし。
【山城を安全に登城するために】
それだけじゃアレなんで、暇だし老婆心ながら…
今冬はオフ会やイベントを除くと信濃のお城しか行っていない自分ですが、実は昨年の5月の初旬に計画が始まりました。が、5月の中旬に計画は頓挫、理由は佐久にある内山城(未登録)から道も無いのに方角だけをたよりにして奥山を進み五本松城(未登録)を目指してたんですが、途中現在地不明の場所で熊さんの巣窟みたいな場所にぶつかり、姿は見えないけど(息づかいは聞こえる…)複数頭の熊さんにサラウンドされる事態になったからです。完全にトラウマになってしまい、夏から秋は絶対に行かねぃ!と心に誓いました。それ以降、今日に至るまで合計7回(目視は4回)熊さんに遭遇していまして、もはや自分にとっては珍獣じゃ済まない存在になっています。色んな熊分布域図を見ると出会わない山城の方が圧倒的に少ない訳だし、山城のある場所は熊にとっても生活しやすい環境なので備えは万全にしときましょう。
熊研究家に成長したかずり(知識は借り物っす。)ですが、熊鈴は必須です。自分は1人の時はサブ持ちで対処します。熊は自分が日本で最強の動物の一種であることを自覚しておらず、基本的に物凄く臆病です。自らの存在を知らしめて熊を近づけないことが最善の対処法です。ただ水の流れる沢筋、風の強い尾根筋等では聴いてないことも多いらしく、食事中等も同様らしいです。「聞いてないよ〜」です。自分は見通しの悪い山のピーク手前や木の根倒れ多数の場所では1人だろうが騒ぎまくります。「おりゃー!かかってこんかーい!」とか叫びながら進みます。他に誰か人が居たら通報されそうですが、会ったことは今まで皆無です。
さてさて、そろそろ字数が尽きるので続きは次回に…
2020年04月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
水ノ手[虚空蔵山城 遺構・復元物]
虚空蔵山城の水ノ手(案内板ママ)です。
虚空蔵山城は基本的に虚空蔵山の山塊にある城砦群と考えてよいと思います。知られているものとしては、山頂にある峯ノ城、南方へ延びる山腹尾根上に秋吉城、中ノ陣城、身も蓋も無い名前の南西尾根ノ城、それから西方へ延びる尾根上端部に現城(うつつじょう)、虚空蔵山から北方、花川原峠道を挟んで鳥の唐揚げしか思い浮かばない名前の唐鳥屋城等があります。
この水ノ手は秋吉城と中ノ陣城の中間点に存します。水ノ手南側には谷間の平場群と呼ばれる段郭状地形が存し多くの石積みを確認する事が出来ます。虚空蔵山の山頂にある峯ノ城には虚空蔵山城の標柱が立っていますが、それじゃこの城砦群の中心部はどこにあったのかとなると峯ノ城では疑問を抱いてしまいます。城砦群は長い間に改修と拡張を続けたと思われ、時期的なものも考える必要がありますが、どうやらこの水ノ手周辺がそうだったと推測されているようです。
※リア攻めマップを作成していて気付きましたが、虚空蔵山城の位置が山頂(峯ノ城)にありませんでした。全くお城の無い場所にマークされてますので注意です。
虚空蔵山城の周辺スポット情報
石垣(遺構・復元物)
谷間の平場群(遺構・復元物)
水ノ手(遺構・復元物)
中ノ陣城(周辺城郭)
秋吉城(周辺城郭)
こや城(周辺城郭)
久保殿屋敷(周辺城郭)
佐々野城(笹野城)(周辺城郭)
三峯城(旭城)(周辺城郭)
鍋山城砦(周辺城郭)
雨戸屋城(周辺城郭)
広田寺裏山の旗塚(周辺城郭)
無量寺下尾根の旗塚(周辺城郭)
現城(周辺城郭)
唐鳥屋城(周辺城郭)
三峯社上の旗塚(周辺城郭)
殿村館(会田氏館)(周辺城郭)
西ノ宮笹ヶ城(山笹城)(周辺城郭)
笹沢城(落水砦)(周辺城郭)
備前原の館(周辺城郭)
取手砦(取手館)(周辺城郭)
召田城(覆盆子城)(周辺城郭)
茶臼山城(周辺城郭)
山中殿屋敷(殿田)(周辺城郭)
小芹の殿畑(周辺城郭)
中沢の古屋敷(周辺城郭)
梨子峯物見(じょう)(周辺城郭)
潮古屋敷館(周辺城郭)
潮古殿屋敷(周辺城郭)
岩屋社(寺社・史跡)
立峠石畳道(寺社・史跡)
中の峠一里塚跡(寺社・史跡)
坂北の一里塚跡(寺社・史跡)
善光寺街道・馬頭観音(寺社・史跡)
石まんぼう(寺社・史跡)
オゲ水(その他)
立峠(その他)
善光寺道(その他)
善光寺道(その他)
善光寺道(その他)
善光寺道(その他)
善光寺道(その他)
善光寺道(その他)
善光寺道(その他)
善光寺道(その他)
善光寺道(その他)
善光寺道(その他)
善光寺道(その他)
花川原峠(その他)
五本峠(その他)
青木峠(その他)
十観山(その他)
概要
虚空蔵山城は、会田盆地の北に聳え地域のシンボルともなっている独立峰虚空蔵山(標高1139m)にある山城である。山のほぼ全域南北800m、東西440mの範囲に複数の城が分布する城塞群と呼ぶべき壮大な構えで、比高は300mに達する。個々の城は山頂の峯ノ城、山腹の秋吉砦、中ノ陣城、南西尾根の砦、十二原沢上流の平場群などからなり、山麓の会田地区にあったと伝わる会田氏居館の詰城とされる。虚空蔵山から西に続く尾根上にあるうつつ城や、花川原峠を挟んで北西に対峙する唐鳥屋城も広い意味では虚空蔵山城と一体的な関係にあった城とみることができる。
中ノ陣城は曲輪の周囲に鉢巻状に石垣を巡らせる。また、曲輪の背後に高土塁を築いて尾根後方からの攻撃に備えており、桐原城や埴原城など松本周辺を中心とした旧小笠原氏領域の山城によく見られる構造をしている。 秋吉砦は小規模な曲輪ながら、前方に土塁や石塁を伴う3本の長大な竪堀を配している。
十二原沢上流の平場群は、中ノ陣城と秋吉砦に挟まれた標高920m前後の谷間には長さ40m~50m、幅10m前後の短冊形の平場が雛壇状に6段連なり、その東西を区切る土塁も含めて総石垣の構えとなる重厚な縄張である。平成24年~28年に3回の発掘調査が行われた結果、15世紀の寺院を前身として16世紀に城郭に整備されたことが判明しており、その規模や石垣のあり方からみて、虚空蔵山城の中心域は従来指摘されてきた中ノ陣城ではなく、この平場群である可能性が高まった。特に注目される石垣は、松本地域の山城に特有の平石積みの構造が見られるほか、群馬県の太田金山城に見られるアゴ止め石と同様な土台石や巨石の使用などの特徴がみられる。
歴史
会田氏は真田氏と同族で、東信濃の滋野氏を祖とする海野氏(岩下氏)がこの地に入ってきたもので、会田の領主であるとともに伊勢神宮内宮の会田御厨の地頭でもあった。戦国時代は府中小笠原氏の下で国衆として所領の経営にあたったが、天文19年の武田晴信(信玄)の松本平侵攻に続く天文22年の虚空蔵山城侵攻を契機に武田氏に降った。しかし、天正10年3月の武田氏滅亡と6月の本能寺の変による政情の混乱の中で上杉氏に与したため、7月に府中(松本)帰還を果たした小笠原貞慶によってその年11月に一期城において滅亡に追い込まれた。虚空蔵山城は、戦国時代を通して会田盆地と筑北盆地の境目の城として政治的に重要な位置にあった。その一方で、虚空蔵山は古くからの信仰の山でもあり、現在も巨岩の洞窟に鎮座し虚空蔵菩薩を安置する岩屋神社がある。十二原沢上流の平場群も元々は山寺であり、戦国時代の不安定な情勢の中で聖地に築かれた城としても大変興味深い。
交通
・松本市役所四賀支所から自家用車10分または徒歩1時間