平瀬城(ひらせじょう)
平瀬城の基本情報
通称・別名
- 平瀬城[本城・北支城・南支城]
所在地
- 長野県松本市島内下平瀬
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 平瀬氏
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- 武田信玄
主な城主
- 平瀬氏、原虎胤(武田氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石積、土塁、堀切
指定文化財
- 市特別史跡(平瀬城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
稲倉城(長野県松本市)[4.8km]
松本城(長野県松本市)[5.7km]
井川城(長野県松本市)[7.3km]
林城(長野県松本市)[8.9km]
桐原城(長野県松本市)[9.0km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[10.5km]
山家城(長野県松本市)[11.8km]
埴原城(長野県松本市)[12.5km]
中塔城(長野県松本市)[13.0km]
小岩嶽城(長野県安曇野市)[13.2km]
平瀬城の解説文
[引用元:Wikipedia「平瀬城」の項目]
平瀬城(ひらせじょう)は、信濃国筑摩郡(長野県松本市)にあった日本の城。
概要
平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時は天文19年(1550年)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552年)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。
安曇郡に通じる川手往還沿いにあり、平瀬山の南西に張り出した尾根先にある南城と、北西に張り出した尾根先にある北城からなる馬蹄型の山城であり、両尾根間を泉小太郎伝説で重要地点とされる犀乗沢が流れる。
参考文献
- 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年
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平瀬城の口コミ情報
2025年09月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
熊倉氏館[平瀬城 周辺城郭]
熊倉氏館は平瀬城の西南西約0.8km、犀川西岸(左岸)、標高約563mの河岸段丘台地東縁上平場に立地した居館です。犀川氾濫原における段丘最上段、「宮下の台地」の南端部でもある。ちなみに熊倉の「熊」は「曲」や「隈」に通じ、犀川の屈曲点、もしくは犀川に面した台地の隅を表しているんだそう。
該地の北北東約0.4kmの犀川河畔には、千国道、後の千国街道の渡し場、熊倉の渡しが位置している。熊倉を選んで渡し場が設けられたのは、硬い岩盤層によって形成された宮下の台地が安定していた事と、比較的に緩慢な犀川の流れと浅い水深のために渡し舟の運行が容易な場所であった事に他ならない。ちなみに犀川を渡った後、眼前に聳える山稜がアプリの登録城、平瀬城である。
往古には、平安時代中期に編纂された「和名類聚抄」に載る、安曇郡高家郷に含まれる地域であったろう。現在の住所は安曇野市豊科高家である。後には安曇郡内住吉庄を構成する十八郷の内の一つとなった。
文明八年(西暦1476年)、「下諏方春秋両宮御造宮帳」には、「熊倉分 合籾二十俵壱斗 此代四貫百文 取手 同人(大輪越前守)」とあり、他の住吉庄の諸郷と共に下諏方春宮四之御柱の造宮の諸役を負担している。
明鷹十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、「三宮穂高社御造宮定日記」の大宮分には、「飯田、熊倉雨(両)条 白米一斗九升、手束麻十九把半、釘十九、銭十九文、十五日祝奉行 籾六斗五舛、白米六斗五合、」とあり、熊倉は飯田と共に大宮の造宮の諸役を負担している。
天正七年(西暦1579年)己卯正月廿日の「下宮春宮造宮帳」には、「熊倉分 正物 壱貫八百八十文 代官 丸山下野 同名出雲」とあり、武田氏時代の熊倉郷の代官に丸山下野と丸山出雲があった事が判る。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は同じく位置登録がある「熊倉春日神社」の駐車場に捨てればよい。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは熊倉氏です。同氏は平瀬氏の一党と推測されているが、むしろ平瀬氏と同じく犬甘氏の一族ではなかったろうか。永享十二年(西暦1440年)の結城合戦における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「十八番 永用(永田か。)殿 二木殿 竹田殿 熊蔵殿 西坂(西牧か。)殿」とある(並びからすると西牧氏の一党のように思えるのだが…)。
居館の現況は…一般住宅とその敷地等となり、館域の東側部分にはソーラーパネルが立ち並んでいる。改変著しく旧態は見ないが、城郭遺構として結構な高さを持つ土塁の残欠が確認出来る。
実は2回目の訪問、近くを通り掛かったんで再訪してみたけど、前回訪問時には建っていた、熊倉氏館跡を示す石板が跡形も無くなっている。家人が嫌ったのかな。どうしようもないので2年前の写真を掘り起こしてアップしておく。控え目ながら結構いい感じの石板なんで元の場所に戻しておいて欲しいなぁ…
※探索が辛い物件である。ちなみに該地には武田氏時代の代官、丸山氏と同姓の丸山さんがお住まいだ。
※熊倉の渡し〜口コミはしないので同じ平瀬城のリア攻めマップにスポット登録し写真だけ置いておく。ちなみに江戸時代には橋(熊倉橋)が架けられていた時期もあったが押し流される事も度々であったようで後には放棄されている。渡し舟の方は戦後も運行が続けられていた。
※熊倉の渡しを使えば熊倉氏館から平瀬城まで指呼の距離だが、現在は橋が周辺に無いため大変な遠回りを強いられる。
※写真には2年前の物が4枚含まれている。
※写真⑧が文中にある石板を撮影した物っす。今は無い。
2025年09月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
吉野町館(堀の内)[平瀬城 周辺城郭]
吉野町館(堀の内)は平瀬城の西方約2.8km、犀川西岸(左岸)、標高約560mの平野部平場に立地した居館です。該地は奈良井川に合流する梓川が創造した大扇状地の沖積地にあり、かつての一帯は更新世の微高地であった疑いが強いらしい。
該地の吉野は比較的に新しい郷村であり、中世における安曇郡の三大町、大町、穂高、真々部の内、武田氏の滅亡によって衰退した真々部に代わり、天正十一年(西暦1583年)以降に開発が進んだようだ。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられる。
築かれた年代は天正十一年頃であろう。お住まいになられていた方には日岐丹波守盛武が推測されている。日岐氏は仁科氏の分流であるが中途断絶し、明応年間(西暦1492年〜1500年)、同じく仁科氏の分流、丸山氏の養嗣子となった丸山筑前守政友(当時の仁科氏当主、弾正少弼明盛の二男である。)の子、筑前守盛教が日岐氏を称するようになったんだそう。前述の盛武はこの盛教の嫡男であり、舎弟には更級郡八幡の神官家、松田氏を嗣いだ盛直がいる。
天正壬午の乱の際、日岐盛武は安曇郡内日岐城城主であったが、天正十年(西暦1582年)八月、同城に小笠原勢が攻め寄せ、盛武は暫く防ぐも九月には城は落城、同名は更級郡の八幡に逃れている。小笠原貞慶は盛武の出仕を望んだが不調に終わり、結局、以下に後述する起請文を血判を以て差し出し、同名の出仕を更に促している。
天正十一年癸未八月七日、日岐丹波守、穂高内膳佐宛、小笠原貞慶起請文案には、「敬白 起請文事 一 今度無二可有忠信之由、不及是非候、國々其方并各々身上、聊如在有間敷候、将亦、判形之通、何も相違不可有之事 右之一ヶ条於違犯者、上者梵天、帝釈、四大天王、焰魔(閻魔)法王、下界之地者王城之鎮守、稲荷、祇園、賀茂、春日、惣而日本国中大小之神祇、冥道、別而諏方上下大明神之可蒙御罰者也、仍状如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守、穂高内膳佐に、異心無き事を誓い、両名の身上を保証すると言っている。
天正十一年癸未八月七日、日岐丹波守宛、小笠原貞慶宛行状案には、「今度之為重恩、押野(安曇郡)之内定納万疋之所可出置候、以此旨、可抽忠信者也、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守に、安曇郡押野の地を宛行う事を約している。
天正十一年癸未八月十一日、日岐丹波守宛、小笠原貞慶宛行状案には、「今度之忠信、誠以無比類候、因之日岐一跡出置候、弥可被抽戦功事肝要候、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守に、日岐の旧跡を宛行っている。
天正十一年癸未八月十一日、日岐丹波守宛、小笠原貞慶黒印状案には、「當所務依不作、於蔵納五十俵可令合力候、委曲草間肥前守可申候、為後日如此候、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守に、前述の日岐の旧跡が不作である事から蔵米の五十俵を合力し、委細にあっては草間肥前守が申すとも言っている。
天正十一年癸未十一月晦日、日岐丹波守宛、小笠原貞慶宛行状案には、「今度就被抽忠信、為重恩北山(安曇郡)卅貫文、日(?)日岐山(安曇郡)四拾貫文、大穴(安曇郡)卅貫文、堀之内(安曇郡)卅貫文、一日市場(安曇郡)卅貫文、本領吉方(安曇郡)七拾貫文、右合弐百卅貫文所進之候、弥於励戦功者、先手にて一所可申付候者也、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守に、安曇郡内の各所、合わせて弐百卅貫文を宛行っている。長くなったが、紆余曲折を経て、本書状に書上げられた各所が丹波守の最終的な知行地となった。この内の「本領吉方七拾貫文」が該地の吉野に当たる。
居館の現況は…主郭はさっぱりと二枚の田地となっており、2郭は一般住宅とその敷地等となっている。平成元年(西暦1989年)には、県営ほ場整備事業豊科南部地区に伴う発掘調査が行われており、居館のものと推定される堀と土塁が検出されている。但し、従来から地表面に残っていた堀形や土塁の残滓と伝えられるものとは異なる位置から検出されており、この点については問題が生じている。
該地の「元屋敷」地籍に武士の居館跡が存在する事は以前から知られていたが長らくその主は不明のままであった。発掘調査結果報告書にも言及が無いので、既出の情報とはいえ改めてこの口コミに書き留めておく。
※安曇野ふるさとづくり応援団が発行する、「安曇野の原風景を巡るふるさとウォッチングマップ」、「No.17豊科吉野地区」に「あなどれない田んぼ」…として掲載がある。
※更級郡八幡の神官家、松田氏〜アプリの登録城、松田家館を参照して下さい。
※写真⑥、標柱の立つ場所が土塁の残滓と伝えられてきたが…発掘調査はこれに疑問を呈する結果となったようだ。
2025年05月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
光城(大城・仁場城)[平瀬城 周辺城郭]
さて、GWも終わりアプリも桜とお城のコラボ写真が全国的に終焉を迎えて平常運転、ようやく本来の姿を取り戻した感じだ。おいらの城郭写真は全てが記録用、焦点がぼやけてしまう桜も紅葉も本来の目的から外れてしまうので必要無し。崖地をよじ登りながら自らが腰に貼ったサロンパスの香りを愛でるのが山城好きの本来の姿、そんな訳で長野県安曇野市の未登録城を再訪してみた。
光城(大城・仁場城)は平瀬城の北北西約3.6km、犀川東岸(右岸)、標高911.7mの光城山山頂部を中心に立地する要害です。西麓の国道19号からの比高は345m位でしょか。城山は登山客が通年で数多く訪れる比較的に名の知れたお山だ。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。林道長峰線を使えば殆ど登らずに済む楽ちん城だ。但し、山城は徒歩で登ってなんぼのもん、おいらは西麓の登山道入口から毎回の如くフルで登っている。ちなみに「光城山森林公園」として整備されているんで行程に悩む事も無いしデカい駐車場も付いている。
築城年代は不明、築城者は光氏です。同氏の詳細は伝わらないが、滋野氏嫡流家海野氏の分流である。伝承によれば、戦国時代の初頭に海野幸元が小県郡から来住、在名を取って光氏を称して六郎を名乗り、後に要害として光城を築いたとされる。但し、応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」際には、篠ノ井山王堂に三百余騎を以て張陣した海野宮内小輔幸義の麾下に「比嘉留(ひかる)」の名が既に見られる。
伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「ひかるの分」には、「海野三河守殿 熨斗五十本 上之茶十袋…中略、ひかるやまと殿 茶十袋…後略」とあり、光大和(守)なる人物が武田氏時代にも当地にあった事が判る。但し、配られた土産の品目、量から推測すれば、この頃には在地土豪としての勢力を衰退させ、文頭に据えらた海野(塔原)三河守幸貞の寄子同心の地位にまで凋落していたようだ。
…なんじゃこりゃ…眼前には目を疑う様な光景が…登山道を埋め尽くす桜の嵐、聞いた話によればその数は約1500本にもなるんだそう。もはや写真撮影の邪魔どころの騒ぎじゃないわ…幼少期のワシントンを100人位召喚して鋭利な斧を各人に手渡しても全滅させるのに一体何日掛かる事やら…おまけに登山客の数が尋常じゃなくてひっきりなしにこれと行き交う始末、光城は県下の山城では大人気なんだろうか。信濃のお城の神の縄張図をフルコピして全員に手渡したかったけど、それぐらいは当然、みんな用意して来ているんだろうね。
桜の殆どは縄張図における通称1郭と登山道に集中している。山麓から見上げるその光景は「昇龍の桜」として特に有名なんだそう。リア攻めに不安がよぎるけど、今春、3回目の訪問にしてようやく城山にこんなにも桜がある事に気付かされたわ。たぶん探索に熱中してたんやろなぁ…一生懸命な人やさかい…
お城は高所の要害だったくせに現在は殆どが公園化しており、登山道の障壁でしかない堀系は削られたり不自然な土橋が設けられたり木橋が架けられたりして散々な目に遭っていたりもする。なんだけどねぇ…元々のポテンシャルはかなりのもの。そこかしこに山城としての隠し切れないプライドを探し出す事も十分に可能だ。埋まり気味とはいえ交錯する長大な竪堀なんかも確認出来るし、主郭部の形状なんかは大幅な改変のしようが無い部分であると信じたい。
城山は山麓と山頂との比高差がかなりのものなんだけど、桜(ソメイヨシノ)てデリケートな植物なのか、比高が10m位違うだけで咲き方が全く異なる。具体的に言えば山麓では満開でも山頂では硬い蕾のまま、全ての桜を満開で拝める事は奇跡に近い筈だ。お花に興味を持たないおいらには関係の無い話とはいえ、皆さんは来年に訪れる際の参考にでもするがいいさ。
※写真①、②は駐車場を撮影した物っす。
※写真③は登山道入口を撮影した物っす。
※写真④〜⑥は登山道を撮影した物っす。
2022年12月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
田沢城(光小城)[平瀬城 周辺城郭]
田沢城(光小城)は平瀬城の北西約3.0km、犀川東岸(右岸)、標高911.7mの光城山から南西へ伸びる尾根上、標高約725mの緩斜面上平場に主郭が存します。西麓の国道19号線からの比高は170m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きの田沢城跡登城口も位置登録されているのでどちらでも。
築城年代は不明、築城者は田沢氏です。田沢氏は海野氏の一族で、海野長氏(幸継)の四男、幸国が地名を取って田沢四郎を称している。田沢氏は事跡に乏しく、大塔物語に篠ノ井山王堂に三百余騎を持って布陣した海野宮内少輔幸義の麾下にその名が見られるぐらい。が、伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「小立野分」には「田澤紳助殿 熨斗五十本、帯ちゃ十袋、同わかさ殿 茶五たい 同所平林殿 ちゃ三つ」とあり、田沢から明科北方の小立野に移っている事が判る。紳助には在地土豪の領主クラスが久家から頂けるレベルの土産が配られているが、少なくとも生島足島神社文書起請文中にその名は見られない。
実は3回目の訪問、主郭部は縄張図を追えない激藪+間伐木の放置状態で非常に悩ましい…毎回何かを期待して登るのだけど酷くなってる事は間違い無い。主郭北側山側背後の三重堀切+連続竪堀に代表されるようにポテンシャルは極めて高いんす。ただ見せ方を全く理解していないので此方からの歩み寄りが必要になる。ちなみに夏場は全然だし冬場でも大して変わらないので、どうぞ大目には見てやって下さいまし。
別称にある光小城は同じ平瀬城のリア攻めマップにある光城(大城・仁場城)の支城を意味する訳だが、築城主体は本城とは別物になる。元禄十一年(西暦1698年)の「国絵図書上」には光の仁場城をもって田沢城とし、享保九年(西暦1724年)の信府統記もこれを踏襲している。塔原氏、田沢氏、光氏の当時の関係性も含めて再考が必要だが史料等無くはっきりしない。又、武田氏時代に勢力を失ったと推測される田沢氏だけど、それより以前、小笠原氏が守護権力を強化していく過程において既に凋落していたようにも思える。田沢の地は小笠原氏支配領域との境目に当たり、交通の要衝である事は今も変わりが無い。
※堀底道の登城路が付いているが往時のものかは不明だ。
2022年08月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
真々部氏館[平瀬城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
真々部氏館(ままべしやかた)は平瀬城の南西約4.2km、標高約586mの平野部平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。居館の敷地の一部はだるま寺の異名を持つ臨済宗妙心寺派の寺院、金龍寺の敷地と重複しているのでお寺さんの駐車場に車を捨てればいいさ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは真々部氏です。同氏は仁科氏の有力な一族と推測され、武田氏時代の真々部尾張守盛幸は永禄四年(西暦1561年)、仁科氏当主、右衛門大夫盛政と共に上杉氏への逆心を疑われ甲斐で生害させられたそうです(…生島足島神社文書に残る仁科盛政起請文は永禄十年八月七日に提出されたものである事から矛盾が生じている。)。疑問なのが盛幸の子、尾張守真光でして、真光はびっくりする事に武田信玄の娘を妻に迎えているらしい…前述の金龍寺はこの真光の菩提寺でもあり、真光、その妻、その嫡男孫三郎の墓があるらしい(未見す。)のですが…在地の、立ち位置的には陪臣に当たる一土豪の縁組としてはちょと俄に信じ難くありません?もし事実とするなら仁科盛政等生害の事も含めて、永禄四年、仁科氏の後嗣となった武田五郎(盛信)の件の経緯に答えを求める事が出来るのかもしれません。真々部氏は天正八年(西暦1580年)八月十一日付、等々力次右衛門宛仁科盛信書状に「真々部同心被官同前之事」とあるそうで、仁科盛信の代に至っても引き続き仁科氏の被官であった事は確実でしょう。
居館の現況は空地、寺院の敷地、一般道路等となっています。居館は東西南北の小路を持つ町割りの中心に位置し、居館の敷地の西辺、大手脇には土塁の一部が残存しています。この土塁、標柱も立ち結構な高さを留めているのですが、玉石垣等で補強されていたりして逆に存在が判り難いです。
かつて真々部の地は市場が開かれ七寺八小路が置かれた安曇郡南部における経済の中心地でもありました。今にその面影を見る事は難しいけど、ひょっとしたら武田の姫様がお暮らしになられたかもしれない町割りを偲ぶのもよいかもしれません。
2021年05月24日 sigesige主税頭信繁
平瀬城
国道19号に案内看板があり線路の下を潜って直ぐにありました。私はバイクだったので登城口に停めました。
登城口の箱に縄張り図や資料などがビニール袋に入れてあり、ありがたく頂戴しました。
最近、熊らしきの目撃情報が有った様です。
熊鈴をリンリン、ランラン派手に鳴らしながら30分程で主郭まで辿り着きました。
主郭は木材などがきれいに伐採されており、アルプス山脈が良く見られます。
南支城もある様ですが、未整備の為断念。
2020年02月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
平瀬城
平瀬城には本城と北支城、南支城があります。
本城から帰る際に登城路入口付近を自転車でうろうろしてるお爺ちゃんに話を聞いたのですが、北支城は道が無く、お城も崩れまくっているので行ってもしょうがない。南支城は堀が凄いけど、やっぱり道が無いとの事でした。地元有志で南支城への登城路を造る予定があったそうですが今は頓挫した模様です。
南支城へは本城の登城路途中に分岐があって案内板も立っているんですが、指し示す方向は山から流れてくる沢でして、思わず誰でも「これを行けと!?」とか呟くと思います。この東麓を流れる沢に沿って60°位の斜面を斜めに登って行きますが、枯木しか無い上に斜面が崩れまくり、生えてる枯草を束ねて手で掴んで支点を取ったりする始末で、いい大人が登城3分位で泥だらけになったりします。しかもその3分で登れるのは5mにも満たないという…気持ちが折れまくりますが、進むと後戻り出来ないので覚悟を決めて下さい!沢に降りればとか思ったりしますが、砂防堤が所々あって行手を阻むのでやめときましょう。沢の平場に出るまで我慢です!距離的には本当に大した事無いけど30分位掛かりました。平場に出ると竪堀下部終点が見えるので、自分はこの竪堀を使って攻め込みました。ただこの竪堀、獣も利用してるらしくこの時期でも十分不安な気持ちにさせてくれます。
さて…冒頭のお爺ちゃんとの話にも戻るんですが、南支城へ行くには平瀬城登城路入口の南側に位置する住宅の裏手を直登して尾根に出るのが最も楽らしいです…先に会っときゃよかったのに…
…自分城域内に入ったのは間違いなかったのですが、縄張図とコンパスを読み違えて訳解らなくなってお目当ての遺構に出会えずじまい、直感でどことなく意味の無い不安も感じてしまい撤退、不完全燃焼に終わりました。
2019年04月23日 沼田上野介
平瀬城登城口の説明板[平瀬城 碑・説明板]
登城口には平瀬城の歴史、構造の概略が書かれた説明板があります。掲示板右側が主郭へ向かう遊歩道です。ここには貸出用の杖やパンフレットも置いてあります。
2019年04月23日 沼田上野介
平瀬城跡駐車場[平瀬城 駐車場]
平瀬城跡へ登城する方用の駐車場
登城口は駐車場から北へ約50mです。
2019年04月07日 沼田上野介
平瀬城
主郭までの登山道では連続した曲輪が見られます。
主郭より東の登山道では主郭と二の郭を隔てる連続した堀切、二の郭の東側の大きな堀切とそこから続く竪堀、さらに登山道を登っていくと堀底状通路跡がはっきりと観察できます。
2019年04月07日 沼田上野介
平瀬城
登城口の南に3台分ほどの駐車場有り。
登城口から主郭までの登山道は地元の方により整備されておりますが、傾斜があり、乾燥していると滑りやすい土ですので注意が必要です。
登山口にある杖を借りるかストックを持って行った方が良いでしょう。
また、主郭の東側から連続堀切の土橋、二の郭を通り東側の稜線を登ってゆき、上にある市道まで続く、北支城への道跡の登山道も整備されています。北支城までは続いていませんのでそちらへ向かうにはこの市道付近から北支城への稜線を歩く必要があります。
南支城へは主郭への登山道の途中に分岐の看板はありますがそちらへの道は整備されていないため山をよじ登る準備が必要です。
2019年04月07日 ⛫武蔵の加賀守の謙
平瀬城
国道19号線に案内板有ります。JR篠ノ井線をくぐると道は狭いですが、専用駐車場にたどり着きます。トイレなし。登山口付近に案内板、ポストの中には縄張り図や資料が入っています。登山用の杖も備えてあります。登城路も整備されていて20~30分で平瀬本城主郭部にたどり着きます。
平瀬城の周辺スポット情報
平瀬城登城口の説明板(碑・説明板)
平瀬氏館(周辺城郭)
真々部氏館(周辺城郭)
犬甘氏館(周辺城郭)
熊倉氏館(周辺城郭)
田沢城(光小城)(周辺城郭)
平瀬山 北の城(周辺城郭)
町田の館(周辺城郭)
花沢氏館(お西)(周辺城郭)
中城池の平(周辺城郭)
中城館(下里の館)(周辺城郭)
上手屋敷(塔原館・古殿屋敷)(周辺城郭)
光城(大城・仁場城)(周辺城郭)
上ノ山城(殿山城)(周辺城郭)
犬甘館(周辺城郭)
御殿山城館(周辺城郭)
平瀬山城(南支城)(周辺城郭)
飯田館(本城・飯田砦)(周辺城郭)
鳥羽館(周辺城郭)
吉野堀屋敷(周辺城郭)
吉野町館(堀の内)(周辺城郭)
熊倉の渡し(寺社・史跡)
平瀬城跡駐車場(駐車場)