平瀬城(ひらせじょう)
平瀬城の基本情報
通称・別名
- 平瀬城[本城・北支城・南支城]
所在地
- 長野県松本市島内下平瀬
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 平瀬氏
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- 武田信玄
主な城主
- 平瀬氏、原虎胤(武田氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石積、土塁、堀切
指定文化財
- 市特別史跡(平瀬城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
稲倉城(長野県松本市)[4.9km]
松本城(長野県松本市)[5.7km]
井川城(長野県松本市)[7.3km]
林城(長野県松本市)[8.9km]
桐原城(長野県松本市)[9.0km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[10.6km]
山家城(長野県松本市)[11.9km]
埴原城(長野県松本市)[12.5km]
中塔城(長野県松本市)[12.9km]
小岩嶽城(長野県安曇野市)[13.2km]
平瀬城の解説文
[引用元:Wikipedia「平瀬城」の項目]
平瀬城(ひらせじょう)は、信濃国筑摩郡(長野県松本市)にあった日本の城。
概要
平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時は天文19年(1550年)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552年)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。
安曇郡に通じる川手往還沿いにあり、平瀬山の南西に張り出した尾根先にある南城と、北西に張り出した尾根先にある北城からなる馬蹄型の山城であり、両尾根間を泉小太郎伝説で重要地点とされる犀乗沢が流れる。
参考文献
- 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年
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平瀬城の口コミ情報
2022年12月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
田沢城(光小城)[平瀬城 周辺城郭]
田沢城(光小城)は平瀬城の北西約3.0km、犀川東岸(右岸)、標高911.7mの光城山から南西へ伸びる尾根上、標高約725mの緩斜面上平場に主郭が存します。西麓の国道19号線からの比高は170m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きの田沢城跡登城口も位置登録されているのでどちらでも。
築城年代は不明、築城者は田沢氏です。田沢氏は海野氏の一族で、海野長氏(幸継)の四男、幸国が地名を取って田沢四郎を称している。田沢氏は事跡に乏しく、大塔物語に篠ノ井山王堂に三百余騎を持って布陣した海野宮内少輔幸義の麾下にその名が見られるぐらい。が、伊勢内宮御師、宇治久家が天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「小立野分」には「田澤紳助殿 熨斗五十本、帯ちゃ十袋、同わかさ殿 茶五たい 同所平林殿 ちゃ三つ」とあり、田沢から明科北方の小立野に移っている事が判る。紳助には在地土豪の領主クラスが久家から頂けるレベルの土産が配られているが、少なくとも生島足島神社文書起請文中にその名は見られない。
実は3回目の訪問、主郭部は縄張図を追えない激藪+間伐木の放置状態で非常に悩ましい…毎回何かを期待して登るのだけど酷くなってる事は間違い無い。主郭北側山側背後の三重堀切+連続竪堀に代表されるようにポテンシャルは極めて高いんす。ただ見せ方を全く理解していないので此方からの歩み寄りが必要になる。ちなみに夏場は全然だし冬場でも大して変わらないので、どうぞ大目には見てやって下さいまし。
別称にある光小城は同じ平瀬城のリア攻めマップにある光城(大城・仁場城)の支城を意味する訳だが、築城主体は本城とは別物になる。元禄十一年(西暦1698年)の「国絵図書上」には光の仁場城をもって田沢城とし、享保九年(西暦1724年)の信府統記もこれを踏襲している。塔原氏、田沢氏、光氏の当時の関係性も含めて再考が必要だが史料等無くはっきりしない。又、武田氏時代に勢力を失ったと推測される田沢氏だけど、それより以前、小笠原氏が守護権力を強化していく過程において既に凋落していたようにも思える。田沢の地は小笠原氏支配領域との境目に当たり、交通の要衝である事は今も変わりが無い。
※堀底道の登城路が付いているが往時のものかは不明だ。
2022年12月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
光城(大城・仁場城)[平瀬城 周辺城郭]
光城(大城・仁場城)は平瀬城の北西約3.6km、犀川東岸(右岸)、標高911.7mの光城山山頂に主郭が存します。西麓の国道19号線からの比高は345m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている光城山を目標に設定して下さい。お城てよりは長野県随一の桜の名所、里山として有名でしっかりした登山道が付いてます。比高は高いのですが、舗装林道が城域を貫通しているので車でも楽に行けます。が、冬季は閉鎖、現在は崩落により閉鎖、おいらはフルで登山道を登る羽目に…
築城年代は不明、築城者は光氏です。光氏については同じ平瀬城のリア攻めマップにある中城池の平を参照して下さい。伊勢内宮御師、宇治久家が天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「ひかるの分」には「海野三河守殿 熨斗五十本、上之茶十袋 同名たう□原殿 のし五十本 茶五つ …ひかるやまと殿 茶十袋…」とある。更に「ひかる分」として「新介殿 茶三つ 弥次右衛門殿 ちゃ二つ 下田神衛門殿 ちゃ三つ 二郎左衛門殿 ちゃ三つ 田中殿宿也、茶三つ、くし」と続く。「ひかる分」の3名は姓が伝わらず、1名は在所か女性だが、光氏に関係する者の可能性を残す。武田氏時代には在地土豪としての勢力を失い、生島足島神社文書起請文中に単独での提出が認められる海野(塔原)三河守幸貞の寄子同心の地位にあったように思える。
お城は縄張図を見ると凄いんですが、山頂部は別の目的でしっかり整備されていてファジーな印象を受ける。特に林道整備によって堀切や竪堀が損なわれているのが残念なところ…ただお城としての輪郭は逆にはっきりしてるし遺構も充分追えるので割り切れば楽しめる。仔細に見れば遺構の破壊は意外にも少ない事に気付かされる。
松本平では結構知られたお城なんすけど今回が初訪問、理由はいつでも行けるし…て思ってたから。しかし山登りが嫌いな事を改めて自覚しましたわ…体力的にじゃなくて気持ちが続かないのよ…直ぐに飽きて立ち止まる。5組以上の登山客に抜かれましたが、逆に山頂で走り回るおいらのフィーバー振りには半ば呆れてましたわ…「凄く元気なのね〜さっきは大丈夫かなとか思っちゃったよ〜w」て言われました。ちなみに上から目線だけど姉さん、おいらより確実に年下だぞ…「はいっ!意外に元気なんすっ!」とか敬語で返したけど…
2022年12月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
中城館(下里の館)[平瀬城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
中城館(下里の館)は平瀬城の北西約4.7km、標高約553mの河岸段丘台地西縁端部上平場に存した居館です。謂わゆる崖端の居館で下段、崖下は犀川の氾濫原、氾濫を繰り返した犀川の流れは段丘崖を削り浸食していったんだそう。
行き方はGoogleマップに位置登録されている三協精密・成形工場を目標に設定して下さい。この工場から舗装道路(鍛冶小路)を挟んだ南側の住宅地が概ねの該地です。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは下里氏です。下里氏は光氏の被官と伝わり、同氏は代々「幸」の字を通字としているんだそう。たぶん光氏の一族、海野氏に繋がる者かと想像出来る。中世に該地周辺は光氏所領の中心地だったらしい。
居館の現況は駐車場、一般住宅とその敷地等となっています。前述の犀川の氾濫のために過去にも度々被害を受けたようで墓地も崩落したらしい。下里氏は寛永年間(西暦1624年〜1643年)に周辺の押野へ移住し、墓地の方は下押野へ移されたんだそう。ちなみに該地には残留した一族の下里さんが今もお住まいです。信濃のお城の神は敷地内に残る池を堀の残滓かもしれないとするけどたぶん気のせいだと思います。ちなみに崖下から上がる舗装道路は後世の道筋、往時の道筋は崖下まで一直線に下りていたそうで今も駐車場の北側には道形が残る。
該地は安曇野市明科光に位置するけど、松本市で最も標高の低い場所は、北アルプスを水源とする梓川と中央アルプスを水源とする奈良井川(犀川は両川を集める。アプリ登録城である平瀬城の南方である。)の合流点で555m、明科周辺は松本平では最も標高の低い地域だ。犀川の氾濫は平成の世に入ってからも好発していて氾濫原の大部分は耕作地となっている。帰農した下里氏が水の影響を避けて移住した気持ちはよく解る。
2022年12月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
中城池の平[平瀬城 周辺城郭]
中城池の平は平瀬城の北西約4.7km、犀川東岸(右岸)、標高933.4mの長峰山前衛山塊中段、標高約745mの緩斜面上平場に城域が存します。西麓の国道19号線からの比高は190m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている西麓の長光寺を目標に設定して下さい。近くまでは車で行けます。取り付きは南西麓からですが説明すんのが無理なので割愛、ただ麓から該地までの道はしっかりと付いてます。
築城年代、築城者は不明で史料、伝承等もありません…地名としては「しょうぶ平」、「中城」、「城井戸山」が残る。「長野県中世の城館跡」には光氏関連のものとし、「戦時に妻子を置く所か」としているそう。謂わゆる逃げ込み城の類いだけど前衛山塊に築かれた点で疑問が残る。
光氏は海野氏の一族で、海野長氏(幸継)の六男、幸元が地名を取って光之六郎を称している。兄弟は小県郡から筑摩郡へ入部、それぞれ会田氏、塔原氏、田沢氏、刈谷原氏を称した。鎌倉幕府の有力御家人として海野氏は中信にも勢力を拡大していった訳だ。光氏は事跡に乏しく、大塔物語に篠ノ井山王堂に三百余騎を持って布陣した海野宮内少輔幸義の麾下に飛賀留(光だろう。)の名が見られるぐらい。戦国時代の事跡は同族の塔原氏の事跡と纏めて語られる事が多い(はっきりしないから…)が、少なくとも生島足島神社文書起請文中に光氏の名は見られない。ちなみに塔原氏、田沢氏、光氏の所領は極く狭い範囲に近接している。
びっくりするのが前述の登城路で見事なまでの堀底道、後世城域は桑畑だったらしいのだが、それにしてもこの土木量は個人や小さな団体で成し遂げられるものじゃないだろう。かと言ってお城に関係するものかとも考え難い。同じ平瀬城のリア攻めマップにある周辺の田沢城(光小城)にも見られるけど遮蔽目的としては大袈裟に過ぎる。縄張図は広い削平地を示すのみ、土橋様の地形も見られるが桑畑のものだと思います。
謂わゆる色物物件で信濃のお城マニアも無視します。少なくともまともな情報は他に探し出せないのでこれ見て参考にして下さい。行きたくなったて方は治らない病に罹患しているので上手く病気と付き合いながら今後を楽しみましょう。
※写真1枚目が不安しか感じない登城路入口、使わなくても大丈夫、渡ったおいらは阿保だった…
2022年11月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
大足平館(上の段館)[平瀬城 周辺城郭]
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大石平館(上の段館)はの北方約7.0km、会田川北岸(右岸)、標高約556mの河岸台地上平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている山の中のぎょうざ屋を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。餃子屋さんから長野県道302号線、矢室明科線を西方に約0.3kmて感じです。ちなみにラーメンと餃子を人類のパーフェクトフードと信じて疑わないおいらは、このお店の前を通る度に此処の餃子を食べてみたいなと思ってるんですが店が開いてた試しがありません。人は餃子だけ食べてれば幸せになれると思います。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは大足氏と伝わり、明科町誌において大足氏は塔ノ原氏の分流と推測されています。該地は塔ノ原氏の要害、同じ平瀬城のリア攻めマップにある塔ノ原城から会田川を挟んだ東北麓に位置します。
木曽義仲に従い、その敗死後は嫡男、清水冠者義高の身代わりとなってその逃亡を助けた事で知られる滋野三家の一つ、海野氏嫡流の海野幸氏は、逆に頼朝にその忠勤を称され鎌倉幕府の有力御家人としての再出発を図ります。幸氏、その子長氏の代には急速に信濃各地に一族を進出させ、系譜上は長氏の子、幸持が会田氏を、幸氏が塔原(塔ノ原氏)氏を、幸国が田沢氏を称しました。ちなみに真田氏の祖を長氏の子である七郎幸春に求めるのが滋野氏三家系図ですが信憑性に乏しく、結局どの系図を採っても真田氏の出自をはっきりとさせる事は殆ど不可能っす。
居館の現況は耕作地、墓地、一般住宅とその敷地等となっています。該地は伝承によると長峰山前衛山塊の一部が地震によって押し出された場所とされ、これが事実なら居館跡は埋没している事になる。「上の段」と「下の段」の字地名を残しているが遺構は消滅、居館の立地としては極めて適当だとは思うのですが…
畑の写真を撮っていると近在の方に「何してるんですか?」と声掛けられました。いい加減この手の質問に答える事が面倒になっているおいらは、「山の中のぎょうざ屋さんは何時やってるんですか?」と逆質問…どうやら月曜日と火曜日が休みの日らしいですな…
2022年08月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
飯田館(本城・飯田砦)[平瀬城 周辺城郭]
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飯田館(本城・飯田砦)は平瀬城の南西約2.7km、標高約573mの平野部平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は一般道路に捨てる事になるので適当な場所を御自身の責任において選びましょう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは飯田氏です。同氏は犬甘氏の一族、平瀬氏(平瀬某の弟としているけど誰の事やら…)を出自とするらしく初代求之助の石碑が居館の敷地内、飯田氏の墓地の中に建っています。同氏の初見は天正七年(西暦1579年)、諏訪下社春宮の造宮帳で、四御柱住吉之郷の中に飯田分として「正物壱貫文弐百八十文 代官 飯田右馬介、二木清介、竹内筑後」とあるそうです。織田氏の甲州征伐に乗じて小笠原貞慶が金松寺に旗揚げした際にはこれを迎えに、又、天正十年(西暦1582年)、天正壬午の乱の際に安筑両郡から引き揚げる木曽氏は、西牧、古畑等に在地諸氏の人質を預けて夏道に籠らせますが、これを奪還する衆(青木、飯田、岩岡、岩波、二木等)の中にその名が見られる他、貞慶の木曽攻めに際しては木曽館を攻める寄手の中にもその名が見られるそう。
居館の現況ですが、奇跡に近い状態て言えるんじゃないでしょか。謂わゆる周囲に堀を巡らせ、その内側を土塁で囲んだ方形居館の縄張ですが、堀割を除く他の全てが往時の面影を残しています(写真は藪で大変難しい…)。全周する土塁は削れてはいますが削平される事もなく、西側に付く大手からの延長線上には虎口すら確認出来ます。又、居館敷地の東辺、北辺を現在流れる勘左衛門堰は後世、堀跡に導水したものと推測され要害感すら漂っています。ちなみに居館敷地の直近南側に現在住する竹内さんは飯田氏からの分家だそう。
殆ど知られていないけど、中世の方形居館の縄張を今に残している点で大変貴重なもの(他じゃ見た事ないぞ…居館マニアのおいらがそう思うんだからとりま信じてw)だと思います。が、土塁の内側はちょと頑張る気になれない雑木林ですので悪しからず…まぁ立ち入っても意味無いとは思います。
2022年08月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
真々部氏館[平瀬城 周辺城郭]
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真々部氏館(ままべしやかた)は平瀬城の南西約4.2km、標高約586mの平野部平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。居館の敷地の一部はだるま寺の異名を持つ臨済宗妙心寺派の寺院、金龍寺の敷地と重複しているのでお寺さんの駐車場に車を捨てればいいさ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは真々部氏です。同氏は仁科氏の有力な一族と推測され、武田氏時代の真々部尾張守盛幸は永禄四年(西暦1561年)、仁科氏当主、右衛門大夫盛政と共に上杉氏への逆心を疑われ甲斐で生害させられたそうです(…生島足島神社文書に残る仁科盛政起請文は永禄十年八月七日に提出されたものである事から矛盾が生じている。)。疑問なのが盛幸の子、尾張守真光でして、真光はびっくりする事に武田信玄の娘を妻に迎えているらしい…前述の金龍寺はこの真光の菩提寺でもあり、真光、その妻、その嫡男孫三郎の墓があるらしい(未見す。)のですが…在地の、立ち位置的には陪臣に当たる一土豪の縁組としてはちょと俄に信じ難くありません?もし事実とするなら仁科盛政等生害の事も含めて、永禄四年、仁科氏の後嗣となった武田五郎(盛信)の件の経緯に答えを求める事が出来るのかもしれません。真々部氏は天正八年(西暦1580年)八月十一日付、等々力次右衛門宛仁科盛信書状に「真々部同心被官同前之事」とあるそうで、仁科盛信の代に至っても引き続き仁科氏の被官であった事は確実でしょう。
居館の現況は空地、寺院の敷地、一般道路等となっています。居館は東西南北の小路を持つ町割りの中心に位置し、居館の敷地の西辺、大手脇には土塁の一部が残存しています。この土塁、標柱も立ち結構な高さを留めているのですが、玉石垣等で補強されていたりして逆に存在が判り難いです。
かつて真々部の地は市場が開かれ七寺八小路が置かれた安曇郡南部における経済の中心地でもありました。今にその面影を見る事は難しいけど、ひょっとしたら武田の姫様がお暮らしになられたかもしれない町割りを偲ぶのもよいかもしれません。
2022年08月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
鳥羽館[平瀬城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
鳥羽館は平瀬城の西南約3.4km、標高約576mの平野部平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨ててもOK♪レベルだと思います。時間も取らないしね。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは仁科氏の一族、丸山将監と推測されています。宝暦十年(西暦1760年)、小見(麻績)奥右衛門尉に宛てた正麟寺の聞伝書には、丸山将監は日岐丸山城城主で、天文十九年(西暦1550年)、桔梗ヶ原の戦い(結構有名な戦いではあるけど記述があるのは甲陽軍鑑のみ…往時の状況から合戦には至らず武田勢による一方的な軍事行動に終始したとする説が有力になっている。)において手傷を負い一族の真々部尾張守真光(時代的に合わない…父である尾張守盛幸の事跡か。)に介抱されたが落命したとあるそうです。居館の主はこの将監の子と推測される丸山肥後守(将監)で、武田氏時代には仁科氏の被官衆の一人となり、信長横死後は小笠原貞慶に従って一時期は安曇郡大町の千見城の城番の一人として出張していた事もあったようです。
居館は平成四年に発掘調査が行われており、その結果、堀は薬研堀り。多くの陶器片、内耳鍋、屋敷の柱穴が検出されたそう。
居館の現況は耕作地、耕作放棄地、空地、一般住宅とその敷地等となっています。見るべきものは何も無いかなと思ってたら、居館の敷地の北西隅にはL字形に堀形と土塁が残っていました。堀形には水が貯まっていましたが、往時も水堀だったのかは知らんがな…土塁は藪でもっさりしているけどかなりの高さを留めていると思われます。ちなみに居館の敷地は長野県道316号線、梓橋田沢停車場線によって東西にばっさり分断されてます。
井川城のリア攻めマップにある神戸の館も丸山将監の居館であったと伝わりますが、こちらの方は親父さんがお住まいになられていたそうです。丸山氏は仁科氏の一族でありながら小笠原氏には重用されていたようですね。
2022年08月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
吉野町館(堀の内)[平瀬城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
吉野町館(堀の内)は平瀬城の西方約2.8km、標高約560mの平野部平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨ててOK♪レベルです。
築かれた年代は不明(発掘調査の出土品から武田氏時代にまで遡る事は出来ないらしい。)、お住まいになられていたのは仁科氏の一族、日岐丹波守盛武と推測されています。盛武は生島足島神社文書に残る堀金盛広等連署起請文中に他の仁科系諸氏と共にその名が見られる日岐盛次の二男で、武田氏滅亡後は兄である盛直を助け上杉氏の合力を得て生坂谷の旧領を回復、信長横死後は府中を回復した小笠原氏と戦い敗れこれに降りました。小笠原貞慶は筑摩郡八幡に逃れた盛武の出仕を望み、穂高内膳に嫁していた盛武の妹を捕えて盛武と内膳を説得させたが不首尾に終わり、結果として貞慶は北山、日岐山、犬穴、堀の内、一日市場、本領吉方(乃)の総計二百三十貫文の給地を宛行い併せて起請文を両名宛てに差し出しています。これ以後、盛武は本領吉野に居していたと推測されますが疑問も残すところでして、同じ平瀬城のリア攻めマップにある吉野堀屋敷に居した丸山氏と給地の一部(吉野郷)が重複する問題(居館も近接する。)が発生します。日岐氏は盛武の代より以前一時期中絶し、同族でもある丸山政友の子、筑前守盛教(盛武の祖父に当たる。)が日岐氏を称した経緯が過去にはあったりしますが…
居館の現況は「元屋敷(堀の内)」の地名を中心にほぼ水田となっています。この水田には元々屋敷が建っていたそうですが、火災に遭って焼失、屋敷は堀形を挟んだ水田の西側の一画に再建されたそうです。居館の標柱はこの現在一般住宅の敷地内に残る土塁の残滓上に立っていますが、周囲は雑木で覆われていて見せる気はゼロとなっています。ちなみに日岐氏の居館としての存続期間は10年に満たないと思われます。
地方史は数少ない一次資料等の断片を掻き集めて成立するものですが、多くの場合、事由、背景や経過が不明、且つ疑問点は解き明かされる術を持ちません。これに関して阿保♪の自分は常に沼状態に陥ってますわ…
2022年08月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
吉野堀屋敷[平瀬城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
吉野堀屋敷は平瀬城の西方約2.8km、標高約556mの平野部平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。「吉野の堀屋敷」で登録があります。周辺は車を捨てられないので捨て場所を見つけたら徒歩でお願いします。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは丸山丹後守です。丸山氏のうち丹後守を名乗った方は二人いますが親父の方に当たると思います。同氏は仁科氏の一族で日岐丸山の地を出自とし、明応年間(西暦1492年〜1501年)、永正年間(西暦1502年〜1520年)何れかの間に経緯不明なるも当地に移り住みました。平瀬城城主、平瀬氏の寄子同心となり、丹後守の父、兵庫守?(兵庫頭の誤伝かと…)は天文二十年(西暦1551年)、武田氏による平瀬城攻めで同城に籠城して討死、丹後守は和泉に逃れ永禄五年(西暦1562年)卒、その子、丹後守政勝は吉野郷に環住したようで、後には府中を回復した小笠原貞慶に出仕したそうです。天正十八年(西暦1590年)の小笠原氏改易には同道せず、郷士となって石川氏に出仕、郷士になっても当地を捨てる気には全然なれなかったようですね。この時代の主従関係なんてそんなものでしょう、その選択は往時の常識からして全く正しいと思います。
居館は周囲に堀を巡らせた方形居館の縄張ですが、西辺の空堀とその内側の土塁が実によく残っていて感動すら覚える。明治二十三年(西暦1890年)の地籍図によると、西南北辺に堀と土塁が残り、東辺には堰が通っていたようです。ちなみに該地には今も丸山さんがお住まいです。
リア攻め的には敗北しました。丸山さん宅を訪ねると全力で留守だったので仕方無く居館西側の舗装路上をうろちょろしてると、近所の方と思われる御婦人が車で通り掛かり窓を開けてこちらをじろじろ…写真1枚だけ撮って急いで退散しましたが、結構離れてからも暫くの間ストークされ続けました。求めて産まれて来た訳ではないけれど美少年てやっぱし大変な職業だなと思いました。
2021年05月24日 しげしげ主税頭信繁
平瀬城
国道19号に案内看板があり線路の下を潜って直ぐにありました。私はバイクだったので登城口に停めました。
登城口の箱に縄張り図や資料などがビニール袋に入れてあり、ありがたく頂戴しました。
最近、熊らしきの目撃情報が有った様です。
熊鈴をリンリン、ランラン派手に鳴らしながら30分程で主郭まで辿り着きました。
主郭は木材などがきれいに伐採されており、アルプス山脈が良く見られます。
南支城もある様ですが、未整備の為断念。
2020年11月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
平瀬南支城[平瀬城 周辺城郭]
さて、一体どれぐらいの方がこの情報を必要としているのか解らないのですが、自分にとっては10ヶ月ぶりにもやもやが解消したことから口コミします。
前回は城域を勘違いして討死しましたが、今回無事にリア攻めを終えることが出来ました!自分の中では苦手な印象になってしまい再訪するのも躊躇してたんですが、冷却期間て必要ですね〜事前勉強もしっかりして落とすことが出来ましたわ…
このお城の最大の問題点は登城路が無いことです。比高は約110mで平瀬本城よりも低いんですが、南東側山側背後は何処へ通じるかも判らん山塊、北東西は急峻な斜面、北麓と東麓には沢まで付いてます。特に東麓の沢が問題でして、この沢脇の斜面を直登するのが一般的?らしいですが、土が水分を多く含んでいる上に崩れやすく、木に掴まろうにも殆どが枯木や枯根で登るのが非常に困難…泥だらけになりますわ…今回自分は帰りに竪堀を下りてしまったので再びこの沢脇の斜面に挑戦したんですがやっぱり泥だらけ…下りも厳しいです。
でもネットで検索してたら別に攻め易い方法があったんす。行かれる方は以下を参考にして下さいまし。
Googleマップで平瀬南支城を検索すると位置がずれてるんですが目標にはなります。この近くに八王子神社という神社が表示されるのでそこへ向かって下さい。後は神社裏手を直登するだけですw神社はお城の西麓にあるので上を目指せば城域に入ります。急峻ではありますが木々が元気なので直登し易く、よく見りゃ誰かが山に入ったような跡(道とは決して言わない。)も付いてるじゃないすか!途中写真にあるよな断崖の岩場にぶち当たりますが岩場の向かって左に出る事を意識すれば大丈夫っす。尾根上に出れば城域の丁度北端に到達、此処からは平瀬本城が俯瞰出来ます。
そもそも平瀬南支城への案内板の立ち方に問題があるんです。決して間違ってはないけど多くの方にとっては悪夢でしょう。お城は武田の匂いも感じさせてくれる素晴らしさなので実に勿体ない…こんなに判り易い集合竪堀なんて他では滅多に見る事が出来ないですよ〜登城路造りを無給で手伝ってもよいので是非お願いしたいところです。
2020年11月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
平瀬南支城[平瀬城 周辺城郭]
平瀬南支城は平瀬城の南方約0.4km、犀乗沢を挟んだ山塊支尾根上に主郭が存します…
て、行ったことねぃくせに語るんじゃね〜wいやいやあのですね…今年の1月30日にこのお城を目指したことは間違いないんです。先人様のブログを参考に南支城の案内板から南沢に沿って直登、竪堀を使って城域に入ったと思ってたんです。ただその後、縄張図と現地を照らし合わせてみると訳解らん…不安も感じたのでそこで撤退…不完全燃焼に終りました。今回、塔ノ原城に行った際にもう一度リベンジを果たそうと思ってたんですが、日が暮れてしまい断念、自分の中のもやもやは晴れませんでした…
しかし今改めて縄張図を確認すると重大なミスを犯していたことが判明…東麓にある南沢に沿って右手に見える支尾根上にお城があるんですが、自分は左手に見える山塊斜面(山田道と呼ばれる旧間道に通じる。)を登っていたという…我ながら阿保♪さ加減に呆れ返りましたわ…全く縄張図に関係無い場所を城域と判断してましたw
じゃぁ自分が登った竪堀は何だったんでしょかね。これ竪堀としては曲げも伴う超一級品でして、遺構としては消失しやすい部類に入る竪堀としては残存率が極めて良好です。竪堀の上部起点は虎口状になっていて、そこからは割と広めの削平地が連続してました。自分は此処から更に東方山側へ登って行った事により城域を完全にロストしましたが、この辺りはいかにもな謎地形でした。
南支城はひょっとしたら主郭から東麓を流れる南沢の対岸にも尾根を介して続いていたんじゃないのかなと疑問を持った次第です。今となったら確かめる術は無いと思いますが、ひょんなことから生まれた疑問故今回書き留めておきます。
※写真はその時のものです。完全に縄張図からは外れてますが、皆様の心眼で御判断願います。
2020年10月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
塔ノ原城[平瀬城 周辺城郭]
塔ノ原城は平瀬城の北方約7.0km、安曇野市民に親しまれている長峰山から北西へ延びる支尾根上、標高約750mのピークの一つに主郭が存します。北麓の長野県道302号線からの比高は200m位でしょか。
築城年代は不明ですが、築城者は小県郡滋野三家の一つ、海野氏の庶流の者と伝わり、地頭職を経て在地、国人領主化、地名を取って塔原氏を名乗ったようです。
行き方ですが、地図上では西麓、北麓から簡単に行けそうな気がするんですが、この辺の山塊の会田川、犀川に面する斜面は大概が急傾斜崩壊危険区域に指定されていて直登はほぼ不可能です。しかし距離は結構あります(2.5km位?)が、長野県道302号線から分岐する対面通行可能な舗装林道がお城の近くを通りますので、Googleマップに位置登録されている塔ノ原城跡登城口を目標に設定して下さい。この付近は広場になっていて駐車も可能です。この広場の入口付近に長峰山へ通じる北方へ方角を取る未舗装林道が分岐していますのでこれを徒歩で進みしょう、分岐から5分位でお城の案内板にぶつかります。ちなみに軽四駆なら此処まで車で行く事が出来ますが、転回は保証出来ません。
つまりはお城の最高所付近まで車で行けるんです…ただ初めて登城した時には案内板からどっちがお城なのか判らず、思わず長峰山に登り始めてしまいましたw結構登ってから失敗に気付き、去年の自分は文句たらたらでしたね〜まぁ独り言ですがw
お城はつまんない説明はしない事に…ネットで信濃のお城の神が書いた俯瞰図を引っ張り出せるのでこちらを是非ご覧あれ!扇の形の集合竪堀が凄いでしょう!主郭から南東側山側背後は5条の連続堀切+竪堀でぶった斬ってますが、現況は堀切としてきちんと確認出来るのは4条かな。竪堀は藪と倒木、急傾斜で辿る気を失います。たぶん下りたら苦労して登るはめになるのでやめときましょう。又、主郭から北西側の尾根には帯郭のような段郭を多数連ねていますが、西側端部を竪土塁で繋げており途中で土塁が切られたりもしています。面白い造りなので是非現地で確認しましょう。
とても楽に行けるお城なので、平瀬城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。
※留山ですが別目的ならOK♪(ハイキングコースでもある。)熊はこの山にはたぶん居ないそうです。
2020年02月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
平瀬城
平瀬城には本城と北支城、南支城があります。
本城から帰る際に登城路入口付近を自転車でうろうろしてるお爺ちゃんに話を聞いたのですが、北支城は道が無く、お城も崩れまくっているので行ってもしょうがない。南支城は堀が凄いけど、やっぱり道が無いとの事でした。地元有志で南支城への登城路を造る予定があったそうですが今は頓挫した模様です。
南支城へは本城の登城路途中に分岐があって案内板も立っているんですが、指し示す方向は山から流れてくる沢でして、思わず誰でも「これを行けと!?」とか呟くと思います。この東麓を流れる沢に沿って60°位の斜面を斜めに登って行きますが、枯木しか無い上に斜面が崩れまくり、生えてる枯草を束ねて手で掴んで支点を取ったりする始末で、いい大人が登城3分位で泥だらけになったりします。しかもその3分で登れるのは5mにも満たないという…気持ちが折れまくりますが、進むと後戻り出来ないので覚悟を決めて下さい!沢に降りればとか思ったりしますが、砂防堤が所々あって行手を阻むのでやめときましょう。沢の平場に出るまで我慢です!距離的には本当に大した事無いけど30分位掛かりました。平場に出ると竪堀下部終点が見えるので、自分はこの竪堀を使って攻め込みました。ただこの竪堀、獣も利用してるらしくこの時期でも十分不安な気持ちにさせてくれます。
さて…冒頭のお爺ちゃんとの話にも戻るんですが、南支城へ行くには平瀬城登城路入口の南側に位置する住宅の裏手を直登して尾根に出るのが最も楽らしいです…先に会っときゃよかったのに…
…自分城域内に入ったのは間違いなかったのですが、縄張図とコンパスを読み違えて訳解らなくなってお目当ての遺構に出会えずじまい、直感でどことなく意味の無い不安も感じてしまい撤退、不完全燃焼に終わりました。
2019年04月23日 沼田上野介
平瀬城登城口の説明板[平瀬城 碑・説明板]
登城口には平瀬城の歴史、構造の概略が書かれた説明板があります。掲示板右側が主郭へ向かう遊歩道です。ここには貸出用の杖やパンフレットも置いてあります。
2019年04月23日 沼田上野介
平瀬城跡駐車場[平瀬城 駐車場]
平瀬城跡へ登城する方用の駐車場
登城口は駐車場から北へ約50mです。
2019年04月07日 沼田上野介
平瀬城
主郭までの登山道では連続した曲輪が見られます。
主郭より東の登山道では主郭と二の郭を隔てる連続した堀切、二の郭の東側の大きな堀切とそこから続く竪堀、さらに登山道を登っていくと堀底状通路跡がはっきりと観察できます。
2019年04月07日 沼田上野介
平瀬城
登城口の南に3台分ほどの駐車場有り。
登城口から主郭までの登山道は地元の方により整備されておりますが、傾斜があり、乾燥していると滑りやすい土ですので注意が必要です。
登山口にある杖を借りるかストックを持って行った方が良いでしょう。
また、主郭の東側から連続堀切の土橋、二の郭を通り東側の稜線を登ってゆき、上にある市道まで続く、北支城への道跡の登山道も整備されています。北支城までは続いていませんのでそちらへ向かうにはこの市道付近から北支城への稜線を歩く必要があります。
南支城へは主郭への登山道の途中に分岐の看板はありますがそちらへの道は整備されていないため山をよじ登る準備が必要です。
2019年04月07日 ⛫武蔵の謙
平瀬城
国道19号線に案内板有ります。JR篠ノ井線をくぐると道は狭いですが、専用駐車場にたどり着きます。トイレなし。登山口付近に案内板、ポストの中には縄張り図や資料が入っています。登山用の杖も備えてあります。登城路も整備されていて20~30分で平瀬本城主郭部にたどり着きます。
平瀬城の周辺スポット情報
平瀬城登城口の説明板(碑・説明板)
塔ノ原城(周辺城郭)
平瀬南支城(周辺城郭)
平瀬氏館(周辺城郭)
吉野堀屋敷(周辺城郭)
吉野町館(堀の内)(周辺城郭)
飯田館(本城・飯田砦)(周辺城郭)
鳥羽館(周辺城郭)
真々部氏館(周辺城郭)
大足平館(上の段館)(周辺城郭)
犬甘氏館(周辺城郭)
熊倉氏館(周辺城郭)
田沢城(光小城)(周辺城郭)
中城池の平(周辺城郭)
中城館(下里の館)(周辺城郭)
光城(大城・仁場城)(周辺城郭)
平瀬山 北の城(周辺城郭)
上ノ山城(殿山城)(周辺城郭)
平瀬城跡駐車場(駐車場)