平瀬城(ひらせじょう)
平瀬城の基本情報
通称・別名
- 平瀬城[本城・北支城・南支城]
所在地
- 長野県松本市島内下平瀬
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 平瀬氏
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- 武田信玄
主な城主
- 平瀬氏、原虎胤(武田氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石積、土塁、堀切
指定文化財
- 市特別史跡(平瀬城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
稲倉城(長野県松本市)[4.8km]
松本城(長野県松本市)[5.7km]
井川城(長野県松本市)[7.3km]
林城(長野県松本市)[8.9km]
桐原城(長野県松本市)[9.0km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[10.5km]
山家城(長野県松本市)[11.8km]
埴原城(長野県松本市)[12.5km]
中塔城(長野県松本市)[13.0km]
小岩嶽城(長野県安曇野市)[13.2km]
平瀬城の解説文
[引用元:Wikipedia「平瀬城」の項目]
平瀬城(ひらせじょう)は、信濃国筑摩郡(長野県松本市)にあった日本の城。
概要
平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時は天文19年(1550年)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552年)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。
安曇郡に通じる川手往還沿いにあり、平瀬山の南西に張り出した尾根先にある南城と、北西に張り出した尾根先にある北城からなる馬蹄型の山城であり、両尾根間を泉小太郎伝説で重要地点とされる犀乗沢が流れる。
参考文献
- 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年
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平瀬城の口コミ情報
2026年02月11日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
平瀬山城(南支城)[平瀬城 周辺城郭]
さて、タテボリスト達よFOREVER…
全国で5人位(世界でも10人以下…)の愛好者達よ、此処に集結するのだ。石垣で囲われた枡形虎口とか知らんがな…竪堀こそが全てなのら。寄手の人数が堀に阻まれて急な斜面上を右往左往する姿を、山上から悠然と見下ろす城番衆等に成り切ろう。そう、タテボリストとは基本的に他人が困っている瞬間を見るのが大好きな連中なのら。く〜妄想が止まらないぜ。討死した寄手も絶命する際には、「ふっ、いい竪堀だったぜ…」みたいな感ぢ?
平瀬山城(南支城)は平瀬山城(本城)の南方約0.4km、犀川東岸(右岸)、標高858mの山稜山頂から北西へ伸びる尾根端部上、標高約672m地点の平場を中心に立地する要害です。西麓の国道19号からの比高は110m位でしょか。城地の北面直下には山間を深く削った犀乗沢が流れており、険しい谷筋が本城との間を隔てている。
行き方は平瀬城の口コミを参照して下さい。同城への登城路から分岐があり、此処には案内板も立っている。但し、眼前に見える登城路は作業用道であり、一般の方の利用が禁じられている。常識ある大人だったら解るだろう、入ってはいけない所に立ち入ってはいけないのだ。従って登れそうな斜面を無理矢理にでも探して適当な場所から適当に直登しよう。西麓の八王子神社の裏手からが最も登り易いが、急傾斜地に広がる熊笹藪をひたすらに漕ぐ必要がある。
前述した作業用道、純粋にお城を整備するために設けられたものなんだけど、登城路として活用する事にはどうやら躊躇しているようだ。平均斜度50°〜60°の両側急峻な細尾根に土留めの階段が真っ直ぐに付けられているんだけど、登りはともかく帰りは恐怖でしかないように思う。おいら、初アタックの際に登城を諦めた事もある難城中の難城、直登すれば水を含んだ腐葉土の斜面がいとも簡単に崩れて泥だらけにさせてくれるし、支点に掴める雑木等も殆ど無く、ひたすらに地面を鷲掴みにしてよじ登る必要があった。急過ぎる作業用道とはいえ、登れる保証のある道が付いた事には素直に感謝したい。て、登ってないんで知らんがな…
平瀬山城は、本城、南支城、平瀬山 北の城(何れも名称は「信濃の山城と館4、松本・塩尻・筑摩編」、「同7、安曇・木曽編」に準じた。)等で構成される、平瀬山に点在する城砦群であり、今回紹介するのは本城の支城とも考察されている物件だ。支城とはいえ気合いの入った普請が為された一級品、特に廃城からそのまま時を経たような現況が素晴らしく、訪ねる者、全てを魅了させてくれる事に間違いは無い。
築城年代、築城者は不明です。本城の築城主体と同一、平瀬氏による普請と考えられるが確証は存在しない。後の平瀬山城は、武田氏による城割(破城)が行われた上で鍬立が執り行われ、城代が置かれた事等が文献でも確認出来るが、どの部分がそうなのかは知る由も無い。
作業用道を登り切ると熊笹藪に塗れた縄張図における通称3郭に入るが、それ以外の部分は理想的とも言える間伐が行われており非常にすっきりとした印象、以前よりも格段に見易くなり堀切を跨いでいた倒木も撤去されている。ハイライトだらけの要害だが、主郭南側山側背後の四連続堀切とこの堀切から落とし込まれる長大な四連続竪堀の美しさは筆舌に尽くし難い。おまけにこの連続竪堀、末端部では1条に集約される集合竪堀、謂わゆる扇堀でもある。何て仲の良い竪堀達なんでしょう、毛利元就の三本の矢を思い起こさせる南支城の四条の竪堀を是非とも体験して欲しい。探索はタテボリストにとって正に至福の時間の連続、あ、勿論、ホリキラーにとってもね。
天文廿年(西暦1551年)十月廿四日、平瀬城が武田勢によって攻め敗られ、二百四人が討ち取られた事はよく知られているが、この際に武田勢の陣場となった場所が、南支城から尾根続きの上段後背地、山田集落の外れに位置する、同じ平瀬城のリア攻めマップにある陣畑だと伝わっている。陣場の占地を鑑みれば、南支城は真っ先に血祭りに上げられたのかもしれない。
※整備した団体は山城好きだろう。城内道を造成する事なく、見易いように最大限の間伐が為されている。涙がちょちょ切れたわ…
※登城路入口に置いてある平瀬山城のパンフレットセットが秀逸、ただで貰えるレベルを遥かに超越しちょる…
※四連続竪堀の美しさ〜イカちい竪堀は沢山見てきたけど、現況に美しさまでを感じるのは、信濃では此処と佐久郡、伴野城のリア攻めマップにある日向城だけだ。
2026年02月07日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
陣畑[平瀬城 周辺城郭]
さて、今回の口コミはびっくり物件だ。冬場は山城の紹介に留めておきたいところなんだけど、口コミ書いてて面白いなと思えるのはこの手の物件なのだ。今じゃ誰も訪ねないどころかその存在すら知られていないんだけど、それだからこそ語る価値があるていうもの。おいらの真骨頂はニッチな物件にこそ発揮さりるのだ。「遺構は何もありませんでした。」とか簡単に片付けてくりるなよな、その土地に住まう人達にとっては存外、特別な場所だったりするものだ。しっかりと向き合って昇華させてやろうぜ。
陣畑は平瀬山城(本城)の南南東約0.8km、犀川東岸(右岸)、標高858mの山稜山頂から北西へ伸びる尾根中段上、標高約815m地点の平場を中心に立地する陣場です。西麓の国道19号からの比高は250m位でしょか。
行き方は…リア攻めマップを参照して該地を特定しよう。付近はおろか周辺にも目標となるものがありまてん…一応、松本市島内の山田集落から舗装林道が伸びているので車で横付けが出来る。基本的に林道は工事が中断されており、何処かに通じている訳でもないので車は好きな所に捨てるがいいさ。誰も通りゃしないしね。
天文廿年(西暦1551年)十月、平瀬城攻めに際して武田勢が張陣した場所だと伝わっている。「高白斎記」によれば、十五日に御出馬、廿日に深志(筑摩郡)へ御着城、廿四日に平瀬ヲ攻敗ルとあるので、陣所として機能したのは最高でも4日の間、陣城としての普請は無かったものと考えられる。
「東筑摩郡誌」、「塩尻市誌」、「松本市誌」には、「陣畑は平瀬城攻撃の際陣をすえし所なりとか、傍らの山を御所山という」とある。たぶん伝承によってのみ伝えられてきた物件だと思われるが、該地に残る「陣畑」の小名は動かし難い事実…又、推測するに「御所山」とは本陣の跡であろうか。御屋形様がこの小山に在陣していた可能性もある訳だ。一応、併せて登ってみたがただのそこら辺の小ピーク…
平瀬城攻めの実際は、平瀬山城(本城)の口コミに書いた「高白斎記」に多くを頼っているが、以下に別史料を付け加えて補完しておく。探せば他にもまだあるかもしれない。
天文廿辛亥十月廿四日、水上菅左衛門宛、武田晴信感状には、「今廿四日、於于平瀬城、頸壹、打捕之条、戰功之至候、弥就于忠信者、可爲神妙者也、仍件、」とあり、武田晴信は、水上菅左衛門に、平瀬城において頸壹を打ち捕らえた軍忠を褒して感状を与えている。
天文廿辛亥年十月廿四日、山家左馬允宛、武田晴信感状には、「今度於平瀬城、頸壹、平瀬八郎左衛門被打捕之條、戰功之至、一段感入候、然者、彌可被抽忠信候、恐々謹言、」とあり、武田晴信は、山家左馬允に、平瀬城において平瀬八郎左衛門を打ち捕らえた(頸壹)軍忠を褒して感状を与えている。
水上菅左衛門、山家左馬允、何れも元は小笠原氏の被官衆、特に菅左衛門は同族であったと思われる。小笠原長時の府中退去後から間もない時期、忠信の証を立てるためにかつての同輩を相手に戦功に励まなくてはならない厳しい時代であった事が両感状から読み取れる。
小笠原方の史料にも平瀬城攻めが登場する。「二木家記」には、「…前略、夫より平瀬の城をも攻落し申候、平瀬殿も城ニて討死被申候、人多く討死仕候、只(小笠原)長時公の方人、仕如此也、」とあり、平瀬城が落城し多数が討死、平瀬殿も城にて討死した事等が書かれている。
陣場の現況は…空地となっている。「陣畑」の小名から後世に開墾されていた事は確実だが、意外にも面積は広く、北側へ向けて段付きの平坦地、林道建設に伴って削られた部分もあるのかもしれないが纏まりだけは良いと思う。他に書く事は特に無いが、平瀬山城を眼下に一望出来る立地であり、同城の南支城とは尾根続きの至近に占地されている。ちなみに該地にはびっくりする事に標柱が立っている。設置者の山田伝承会をリスペクトしよう。
武田勢は犀川沿いを南北に通る川手道から平瀬山城の大手筋に攻め寄せたものかと考えていたが、実際には、筑摩郡深志から岡田を経て山田道(島内の下田から平瀬山城の直下を通り、鳴沢沿いの谷筋を進んで山田へ抜けて岡田へと至る。)を進んで山中の該地に張陣したと推測出来る。訪ねてみなければ判らない事もあるものだ。同勢はあくまでも搦手方向から攻め寄せた訳だ。
※車で横付け出来るて書きながら、単独目標には成り難いんでおいらは南支城から徒歩で登っている。距離は近いけど結構、だるいよ。ちなみに両者間を結ぶ道筋には何にも無かった…が〜んっ!
※「御所山」〜別にスポット登録しておいたけど写真だけ置いておく。流石に口コミは無理だわ…
※写真①は陣場下段から見た平瀬山城の方向、拡大すれば開けた本城の主郭が見える筈…
2026年02月06日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
平瀬山 北の城[平瀬城 周辺城郭]
平瀬山 北の城は平瀬山城(本城)の北方約0.3km、犀川東岸(右岸)、標高約793mの平瀬山山頂(このお山、山頂の位置が全く不明なので仮とする。)から西方へ伸びる尾根中段上、標高約730mの小ピーク上平場を中心に立地する砦です。西麓の国道19号からの比高は175m位でしょか。城地の南面直下には、境沢(番所沢)が流れており、尾根間が深く削られ険しい谷筋が形成されている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので、同じく位置登録がある「豊科カントリー倶楽部」を当座の目標に設定しよう。松本市道1035号線を車で登れば信濃のお城の神が描いた縄張図における通称1郭に楽に取り付ける。その際にはリア攻めマップを参照して該当山尾根の位置を確認しておく事を忘れないように…倶楽部ハウスの南方、約0.5km地点がその場所となり、車は付近の路肩に乗り上げて捨てられる。又、平瀬山城(本城)の城域東端部から山道を登った後に下って城地を目指す事も可能、通称6郭は本城の主郭の真北に当たる部分だが、別尾根を挟んで元の地形が険しく横移動が殆ど不可能だ。
平瀬山城は、本城、南支城、平瀬山 北の城(何れも名称は「信濃の山城と館4、松本・塩尻・筑摩編」、「同7、安曇・木曽編」に準じた。)等で構成される、平瀬山に点在する城砦群であり、今回紹介するのは本城の出城とも考察されている物件だ。他は松本市島内に位置しながら、この砦だけは安曇野市豊科田沢に位置している。往時も安曇郡と筑摩郡との境目であったのであろうか。
築城年代、築城者は不明です。本城の築城主体と同一、平瀬氏による普請と考えられるが確証は存在しない。
今回の口コミは信者でありながら神に逆らう挑戦だ。以前から疑問に思っていた事をこの場を借りて問題提起したい。過剰な城域、縄張の捉え方に心苦しくも避けては通れない異議があるのだ。
信濃のお城の神は縄張を6郭と想定、城域は広く出城の範疇を遥かに超えている。但し、本当にそうだったのであろうか。素人ながら2回の探索を経て導き出した結論は、通称6郭とその周辺のみが城地であり、他にあっては尾根筋を登る山道等の名残りだと考えている。縄張図を見ると、通称1郭から通称5郭の部分には、堀切や横堀、土塁等が細かく描かれているが、はっきり言って何れも城郭遺構だと判定する事が全く出来ない代物だ。堀切の1条は明らかな切り通し、横堀は周辺の山中ではよく見掛ける堀底道、土塁は堆積土層が風雨によって流れた末に形成されたものではないだろうか。特に決定的なのはこれ等が主郭部の備えとして殆ど機能していない事に尽きる。
幾つかの当城に関するブログを拝見させて頂いたが、何れも通称1郭から通称5郭の探索に終始してしまい、個人的に真の城地だと考えている通称6郭が完全に無視されてしまっている。時代は不明なるも他の部分に何かがあった事自体は否定しないが、砦としての役目を果たせるのは、通称5郭から始まる長い土橋様道(痺れる事に痩せ尾根が初っ端で鉤の手を形成している…)の先にある尾根上の小ピークを中心とする部分のみだと問題提起したい。
此処には明確な城郭遺構、即ち、尾根筋を下る小郭群、2条の堀切、主郭部等に付く幾つかの土塁が確認出来る。小ピークを中心に砦としての纏まりが良く縄張自体が適度に完結している。役目は本城の搦手へと通じる山道を直接扼するものだろうか。個人的には、西麓を南北に通る川手道から分岐する、境沢沿いを登る集落間を結ぶ間道が通っていたと考えており、城地南面下段に沿う帯郭状の腰郭様地形は古い道形のような気もする。ちなみに主郭西側谷側前面にはかなりの規模の片落としの竪堀様地形が見られるのだが単なる崩落痕なのかもしれない。この砦には少し不相応な代物だ。
旅先の一つの目的、ライトな感覚で始めた城廻りだが、生真面目な性格が災いしたのか次第にエキストリームな方向へと転じてしまった。具体的に言えば、現地を観察して自分なりの納得する答えを求めるようになってしまったのだ。疑問を抱いた際に障壁となるのが一般論や定説なのだが、先達の苦労の成果を基にしながらもそれに抗う事も度々だ。
※通称6郭からは本城の主郭部の動きが手に取る様に判る。
※通称1郭から通称5郭の探索に終始〜気持ちは解る。下るだけとはいえ、お山は荒れているし後で登り返す事を考えれば誰でも躊躇する。
2026年02月05日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
上ノ山城(殿山城)[平瀬城 周辺城郭]
上ノ山城(殿山城)は犀川東岸(右岸)、標高841.4mの上ノ山山頂から北西へ伸びる尾根上段上、標高約767m地点の平場を中心に立地する砦です。西麓の国道19号からの比高は220m位でしょか。城地の東面直下には小沢が流れており、山間が深く削られ険しい谷筋が形成されている。ちなみに上ノ山は斜面崩落が絶え間無く続いているようなお山、西側斜面はグラウンドアンカー工法による継ぎ接ぎが所々に露出する痛々しい姿を見せている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。麓からの比高差のある砦だが、北東麓から幅員のある舗装林道が城地の直下をかすめて登っているので苦労する事が全く無い。徒歩で登る比高は15m位になる筈だ。車は路肩に捨てても大丈夫、探索時間は僅かだし基本的に誰も通りゃしない。但し、林道は冬季に閉鎖となるので注進が必要、他の行き方もあるにはあるのだがそこまで頑張る必要が無い物件だ。
築城年代、築城者は不明です。別称にある「殿山城」から在地領主層の在城も窺わせているが、正直、殿様が苦労してまで居するような場所ではない。
「長野県町村誌」には「殿山城址」として、「上ノ山の北の方、本村(上川手村)の東にあり。空濠今尚存在す。城主不詳。」とあり、簡易過ぎる絵図が添付されている。この絵図を見ると、V字に分かれる山道の間に占地しており、砦の両側には集落間を結ぶ間道が通っていたようだ。主な役目もこれにあったろう、砦と言うよりは番士の常駐がある番所であろうか。
2回目の訪問だ。前回は登城に30秒、探索に約10分のスピード重視のリア攻め…日も暮れる時分にこんな山の中に一人で長くいるなんてとても無理な話だった…写真すら撮っていない。単独訪問には成り難い物件だが、最低でも写真ぐらいは残しておきたい…そんな気持ちで今回は真面目に取り組んでみた。
…なんだけどねぇ、なんちゅうか、はっきり言って写真映えしない砦なんだよなぁ…縄張は三段の郭で構成さりる単純なものなんだけど、一般的な山城の尾根上の段郭の部分がそのままて感じ…そり以外に城郭遺構は見出せないし、ましてや町村誌の言う「空濠」なんてある筈も無い。大目に見て主郭に土塁様の土の高まり、切岸に若干の石積みの残滓が認めらりる程度…かなり頑張って写真を撮ったんだけど、辛うじて映えたのは城域の手前(縄張図だと城域内だけど…)に付く浅い堀底道のみ…あ、言い忘れたけど、一応、安曇野市の指定史跡、びっくりする事に前述した林道には標柱が建ち、主郭には結構、立派な説明板が立っている。
主郭の説明板には、「…前略、城主は小瀬巾の花村若狭守で、その館は現JAあづみ上川手支所の敷地にあったと考えられている。」とあるが、調べてみたら花村若狭守は武田氏時代の城主であり、その名は親吉、元は村上氏の被官であったと伝えられている。該地の安曇郡田沢に若狭守があった事に間違いは無いのだが、同名は同じ平瀬城のリア攻めマップにある田沢城の城主であったとも伝わっている。
※北向きのお城、山陰でもあるので夕方にならないと殆ど陽が当たらない。おいらは当日に行き直した。
※その館〜同じ平瀬城のリア攻めマップにある花沢(村)氏館の事だ。再訪しようと思っていたんだけどリア攻めが精神的に非常に辛い物件…今回はパス…
※写真⑧は犀川の堤防上から撮影した遠景なんだけど何処だか判らん…
2026年02月04日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
平瀬城
平瀬山城(本城)は犀川東岸(右岸)、標高約793mの平瀬山山頂(このお山、山頂の位置が全く不明なので仮とする。)から南西へ伸びる尾根下段上、標高約716m地点の平場を中心に立地する要害です。西麓の国道19号からの比高は155m位でしょか。城地の南面直下には、北沢、後に南沢が合流する犀乗沢が流れており、山間が深く削られ険しい谷筋が形成されている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。経路として国道19号をアナウンスされると思うが、道沿いには「平瀬城跡入口」の案内板が2箇所に立っており、リア攻めマップには「平瀬城跡駐車場」がスポット登録されている。車を捨てたら北へ向かって約80mを歩こう、平瀬城の説明板の立つ場所が登城路の入口だ。
築城年代は不明、築城者は平瀬氏です。同氏は古代から筑摩郡に勢力を扶植させた犬甘氏の分流にして小笠原氏の有力な被官衆の一氏である。平瀬氏の詳細は別の機会に譲る。
平瀬山城は、本城、南支城、平瀬山 北の城(何れも名称は「信濃の山城と館4、松本・塩尻・筑摩編」、「同7、安曇・木曽編」に準じた。)等で構成される、平瀬山に点在する城砦群であり、今回紹介するのはそれ等の中心を為す物件だ。一般的に平瀬城とはこの城を指して言う。
「高白斎記」、天文廿年(西暦1551年)の条には、「十月大、朔日乙卯、節、十四日(村上)義清動丹生子(安曇郡)、被押落之由注進、十五日己已、未刻御出馬、廿日甲戌、深志(筑摩郡)へ御着城、廿二日ホリカ子(堀金)出仕、廿四日戌寅、平瀬ヲ攻敗ル、敵二百四人被爲討取候、終日細雨、(撓筆…栗原左エ門手ニヲイテ、首十八討捕、)酉ノ刻ヨリ大雨、…中略、廿八日壬午、午刻已ノ方ニ向テ平瀬城割、其上鍬立、(撓筆…此後辰ノ刻被仰付候間、則栗原左エ門マカリコシ城ヲワリ、其上鍬立ヲ仕候、)…中略、十日(十一月)甲午、原美濃守(虎胤)平瀬ニ在城被仰付、」とあり、天文廿年十月廿四日、武田勢が平瀬城を攻め敗り、二百四人を討ち取った事、廿八日には、平瀬城の城割(破城)が為された上で鍬立が執り行われ、十一月十日には、原美濃守が在城を仰せ付けられた事等が書かれている。
「勝山記」、天文二十年の条には、「此ノ年ノ霜月(十一月)、信州小笠原ニテ、ヒラセノ要カイヲセメヲトシ給、去程ニ當所(甲斐国郡内)ヨリモ弥三郎(小山田信有)殿ハ御ヒ官衆ニ番積リニ陣立申候、」とあり、郡内から小山田弥三郎の被官衆が番士として陣立したと書かれている。
アプリの登録城なんで多くを語るつもりは無いんだけど、このお城、連続堀切なんかは総じて埋まり気味とはいえ、延長部分の連続竪堀が実に良く残っている。登城路を無視して段郭の一つから竪堀の端部に取り付き、自らの横移動が制限されている事を身を以て体験するのが変態に与えられた使命だ。国際タテボリスト、A級のライセンスを持つおいらは合計で4条の竪堀を登り下りしてこりに応えてみた。端部には必ずて言ってよい程に小郭を設ける平瀬クオリティー、長大、且つ深さも保たれ、畝状竪堀とは一味違うマッシブ感をこりでもかて堪能出来る。
何度も足を運ぶお城を毎回同じように探索していたのではつまらない…常に違った視点から何かを見出そう。不定形な土の造形は見る場所や角度によって様々に表情を変えてくれる。険しい地形を克服する踏破能力をこれからも維持していくつもり…自分だけが知っている山城の姿がそこにはあるからだ。
※A級のライセンス〜International Class A Tatebori License(ICATL)、創設者は北アルプスの素晴らしさを世界に伝えたイギリス人宣教師、ウォルター・ウェストン…に、もしかしたら同行していたかもしれないてごく一部で囁かれているホーリー・テイト(Holy Tate)だ。イングランドのブラックプールに総本部がある。アプリの登録城、桐原城の西側斜面に付く竪堀、3回目のアタックの際に手を振る姿を最後に消息を絶った。一切が謎に包まれている困った偉人の一人だが、桐原城城下に建つ石碑の一つはそんな彼の顕彰碑…但し、地元の方達の間では明治時代以降の単なる庚申塔とも云われているんだそう。著書に「竪堀と私(Tatebori And Me)」、堀切から落とし込まれる竪堀は何処からがそうなのか…等の鋭い疑問を今も読者に投げ掛けている。
…まさかとは思うけど念の為…ICATLに関する質問や苦情は一切受け付けていない。フルシカトするんでそこんとこ夜露死苦〜
2026年01月08日 気分爽快甲斐守
平瀬城
登り口からの比高は130m程度。駐車場もあるようなので立ち寄りました。国道19号線沿いに入口の標柱があります。渓流沿いの道を進むと、途中に南支城への分岐がありますが、さらに先に進むと木橋のところに案内板があります。
主郭東の尾根には複数の堀切があり、南側の竪堀とつながっているものが多数あります。
①竪堀
②三郭からの眺望
③主郭
④堀切越しの主郭
⑤①の竪堀を上から
⑥竪堀
⑦東の大きな堀切
⑧堀切越しに見た城址
2025年09月13日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
熊倉氏館[平瀬城 周辺城郭]
熊倉氏館は平瀬城の西南西約0.8km、犀川西岸(左岸)、標高約563mの河岸段丘台地東縁上平場に立地した居館です。犀川氾濫原における段丘最上段、「宮下の台地」の南端部でもある。ちなみに熊倉の「熊」は「曲」や「隈」に通じ、犀川の屈曲点、もしくは犀川に面した台地の隅を表しているんだそう。
該地の北北東約0.4kmの犀川河畔には、千国道、後の千国街道の渡し場、熊倉の渡しが位置している。熊倉を選んで渡し場が設けられたのは、硬い岩盤層によって形成された宮下の台地が安定していた事と、比較的に緩慢な犀川の流れと浅い水深のために渡し舟の運行が容易な場所であった事に他ならない。ちなみに犀川を渡った後、眼前に聳える山稜がアプリの登録城、平瀬城である。
往古には、平安時代中期に編纂された「和名類聚抄」に載る、安曇郡高家郷に含まれる地域であったろう。現在の住所は安曇野市豊科高家である。後には安曇郡内住吉庄を構成する十八郷の内の一つとなった。
文明八年(西暦1476年)、「下諏方春秋両宮御造宮帳」には、「熊倉分 合籾二十俵壱斗 此代四貫百文 取手 同人(大輪越前守)」とあり、他の住吉庄の諸郷と共に下諏方春宮四之御柱の造宮の諸役を負担している。
明鷹十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、「三宮穂高社御造宮定日記」の大宮分には、「飯田、熊倉雨(両)条 白米一斗九升、手束麻十九把半、釘十九、銭十九文、十五日祝奉行 籾六斗五舛、白米六斗五合、」とあり、熊倉は飯田と共に大宮の造宮の諸役を負担している。
天正七年(西暦1579年)己卯正月廿日の「下宮春宮造宮帳」には、「熊倉分 正物 壱貫八百八十文 代官 丸山下野 同名出雲」とあり、武田氏時代の熊倉郷の代官に丸山下野と丸山出雲があった事が判る。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は同じく位置登録がある「熊倉春日神社」の駐車場に捨てればよい。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは熊倉氏です。同氏は平瀬氏の一党と推測されているが、むしろ平瀬氏と同じく犬甘氏の一族ではなかったろうか。永享十二年(西暦1440年)の結城合戦における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「十八番 永用(永田か。)殿 二木殿 竹田殿 熊蔵殿 西坂(西牧か。)殿」とある(並びからすると西牧氏の一党のように思えるのだが…)。
居館の現況は…一般住宅とその敷地等となり、館域の東側部分にはソーラーパネルが立ち並んでいる。改変著しく旧態は見ないが、城郭遺構として結構な高さを持つ土塁の残欠が確認出来る。
実は2回目の訪問、近くを通り掛かったんで再訪してみたけど、前回訪問時には建っていた、熊倉氏館跡を示す石板が跡形も無くなっている。家人が嫌ったのかな。どうしようもないので2年前の写真を掘り起こしてアップしておく。控え目ながら結構いい感じの石板なんで元の場所に戻しておいて欲しいなぁ…
※探索が辛い物件である。ちなみに該地には武田氏時代の代官、丸山氏と同姓の丸山さんがお住まいだ。
※熊倉の渡し〜口コミはしないので同じ平瀬城のリア攻めマップにスポット登録し写真だけ置いておく。ちなみに江戸時代には橋(熊倉橋)が架けられていた時期もあったが押し流される事も度々であったようで後には放棄されている。渡し舟の方は戦後も運行が続けられていた。
※熊倉の渡しを使えば熊倉氏館から平瀬城まで指呼の距離だが、現在は橋が周辺に無いため大変な遠回りを強いられる。
※写真には2年前の物が4枚含まれている。
※写真⑧が文中にある石板を撮影した物っす。今は無い。
2025年09月12日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
吉野町館(堀の内)[平瀬城 周辺城郭]
吉野町館(堀の内)は平瀬城の西方約2.8km、犀川西岸(左岸)、標高約560mの平野部平場に立地した居館です。該地は奈良井川に合流する梓川が創造した大扇状地の沖積地にあり、かつての一帯は更新世の微高地であった疑いが強いらしい。
該地の吉野は比較的に新しい郷村であり、中世における安曇郡の三大町、大町、穂高、真々部の内、武田氏の滅亡によって衰退した真々部に代わり、天正十一年(西暦1583年)以降に開発が進んだようだ。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられる。
築かれた年代は天正十一年頃であろう。お住まいになられていた方には日岐丹波守盛武が推測されている。日岐氏は仁科氏の分流であるが中途断絶し、明応年間(西暦1492年〜1500年)、同じく仁科氏の分流、丸山氏の養嗣子となった丸山筑前守政友(当時の仁科氏当主、弾正少弼明盛の二男である。)の子、筑前守盛教が日岐氏を称するようになったんだそう。前述の盛武はこの盛教の嫡男であり、舎弟には更級郡八幡の神官家、松田氏を嗣いだ盛直がいる。
天正壬午の乱の際、日岐盛武は安曇郡内日岐城城主であったが、天正十年(西暦1582年)八月、同城に小笠原勢が攻め寄せ、盛武は暫く防ぐも九月には城は落城、同名は更級郡の八幡に逃れている。小笠原貞慶は盛武の出仕を望んだが不調に終わり、結局、以下に記する起請文を血判を以て差し出し、同名の出仕を更に促している。
天正十一年癸未八月七日、日岐丹波守、穂高内膳佐宛、小笠原貞慶起請文案には、「敬白 起請文事 一 今度無二可有忠信之由、不及是非候、國々其方并各々身上、聊如在有間敷候、将亦、判形之通、何も相違不可有之事 右之一ヶ条於違犯者、上者梵天、帝釈、四大天王、焰魔(閻魔)法王、下界之地者王城之鎮守、稲荷、祇園、賀茂、春日、惣而日本国中大小之神祇、冥道、別而諏方上下大明神之可蒙御罰者也、仍状如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守、穂高内膳佐に、異心無き事を誓い、両名の身上を保証すると言っている。
天正十一年癸未八月七日、日岐丹波守宛、小笠原貞慶宛行状案には、「今度之為重恩、押野(安曇郡)之内定納万疋之所可出置候、以此旨、可抽忠信者也、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守に、安曇郡押野の地を宛行う事を約している。
天正十一年癸未八月十一日、日岐丹波守宛、小笠原貞慶宛行状案には、「今度之忠信、誠以無比類候、因之日岐一跡出置候、弥可被抽戦功事肝要候、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守に、日岐の旧跡を宛行っている。
天正十一年癸未八月十一日、日岐丹波守宛、小笠原貞慶黒印状案には、「當所務依不作、於蔵納五十俵可令合力候、委曲草間肥前守可申候、為後日如此候、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守に、前述の日岐の旧跡が不作である事から蔵米の五十俵を合力し、委細にあっては草間肥前守が申すとも言っている。
天正十一年癸未十一月晦日、日岐丹波守宛、小笠原貞慶宛行状案には、「今度就被抽忠信、為重恩北山(安曇郡)卅貫文、日(?)日岐山(安曇郡)四拾貫文、大穴(安曇郡)卅貫文、堀之内(安曇郡)卅貫文、一日市場(安曇郡)卅貫文、本領吉方(安曇郡)七拾貫文、右合弐百卅貫文所進之候、弥於励戦功者、先手にて一所可申付候者也、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守に、安曇郡内の各所、合わせて弐百卅貫文を宛行っている。長くなったが、紆余曲折を経て、本書状に書上げられた各所が丹波守の最終的な知行地となった。この内の「本領吉方七拾貫文」が該地の吉野に当たる。
居館の現況は…主郭はさっぱりと二枚の田地となっており、2郭は一般住宅とその敷地等となっている。平成元年(西暦1989年)には、県営ほ場整備事業豊科南部地区に伴う発掘調査が行われており、居館のものと推定される堀と土塁が検出されている。但し、従来から地表面に残っていた堀形や土塁の残滓と伝えられるものとは異なる位置から検出されており、この点については疑問が生じている。
該地の「元屋敷」地籍に武士の居館跡が存在する事は以前から知られていたが長らくその主は不明のままであった。発掘調査結果報告書にも言及が無いので、既出の情報とはいえ改めてこの口コミに書き留めておく。
※安曇野ふるさとづくり応援団が発行する、「安曇野の原風景を巡るふるさとウォッチングマップ」、「No.17豊科吉野地区」に「あなどれない田んぼ」…として掲載がある。
※更級郡八幡の神官家、松田氏〜アプリの登録城、松田家館を参照して下さい。
※写真⑥、標柱の立つ場所が土塁の残滓と伝えられてきたが…発掘調査はこれに疑問を呈する結果となった。
2025年05月07日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
光城(大城・仁場城)[平瀬城 周辺城郭]
さて、GWも終わりアプリも桜とお城のコラボ写真が全国的に終焉を迎えて平常運転、ようやく本来の姿を取り戻した感じだ。おいらの城郭写真は全てが記録用、焦点がぼやけてしまう桜も紅葉も本来の目的から外れてしまうので必要無し。崖地をよじ登りながら自らが腰に貼ったサロンパスの香りを愛でるのが山城好きの本来の姿、そんな訳で長野県安曇野市の未登録城を再訪してみた。
光城(大城・仁場城)は平瀬城の北北西約3.6km、犀川東岸(右岸)、標高911.7mの光城山山頂部を中心に立地する要害です。西麓の国道19号からの比高は345m位でしょか。城山は登山客が通年で数多く訪れる比較的に名の知れたお山だ。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。林道長峰線を使えば殆ど登らずに済む楽ちん城だ。但し、山城は徒歩で登ってなんぼのもん、おいらは西麓の登山道入口から毎回の如くフルで登っている。ちなみに「光城山森林公園」として整備されているんで行程に悩む事も無いしデカい駐車場も付いている。
築城年代は不明、築城者は光氏です。同氏の詳細は伝わらないが、滋野氏嫡流家海野氏の分流である。伝承によれば、戦国時代の初頭に海野幸元が小県郡から来住、在名を取って光氏を称して六郎を名乗り、後に要害として光城を築いたとされる。但し、応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」際には、篠ノ井山王堂に三百余騎を以て張陣した海野宮内小輔幸義の麾下に「比嘉留(ひかる)」の名が既に見られる。
伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「ひかるの分」には、「海野三河守殿 熨斗五十本 上之茶十袋…中略、ひかるやまと殿 茶十袋…後略、」とあり、光大和(守)なる人物が武田氏時代にも当地にあった事が判る。但し、配られた土産の品目、量から推測すれば、この頃には在地土豪としての勢力を衰退させ、文頭に据えらた海野(塔原)三河守幸貞の寄子同心の地位にまで凋落していたようだ。
…なんじゃこりゃ…眼前には目を疑う様な光景が…登山道を埋め尽くす桜の嵐、聞いた話によればその数は約1500本にもなるんだそう。もはや写真撮影の邪魔どころの騒ぎじゃないわ…幼少期のワシントンを100人位召喚して鋭利な斧を各人に手渡しても全滅させるのに一体何日掛かる事やら…おまけに登山客の数が尋常じゃなくてひっきりなしにこれと行き交う始末、光城は県下の山城では大人気なんだろうか。信濃のお城の神の縄張図をフルコピして全員に手渡したかったけど、それぐらいは当然、みんな用意して来ているんだろうね。
桜の殆どは縄張図における通称1郭と登山道に集中している。山麓から見上げるその光景は「昇龍の桜」として特に有名なんだそう。リア攻めに不安がよぎるけど、今春、3回目の訪問にしてようやく城山にこんなにも桜がある事に気付かされたわ。たぶん探索に熱中してたんやろなぁ…一生懸命な人やさかい…
お城は高所の要害だったくせに現在は殆どが公園化しており、登山道の障壁でしかない堀系は削られたり不自然な土橋が設けられたり木橋が架けられたりして散々な目に遭っていたりもする。なんだけどねぇ…元々のポテンシャルはかなりのもの。そこかしこに山城としての隠し切れないプライドを探し出す事も十分に可能だ。埋まり気味とはいえ交錯する長大な竪堀なんかも確認出来るし、主郭部の形状なんかは大幅な改変のしようが無い部分であると信じたい。
城山は山麓と山頂との比高差がかなりのものなんだけど、桜(ソメイヨシノ)てデリケートな植物なのか、比高が10m位違うだけで咲き方が全く異なる。具体的に言えば山麓では満開でも山頂では硬い蕾のまま、全ての桜を満開で拝める事は奇跡に近い筈だ。お花に興味を持たないおいらには関係の無い話とはいえ、皆さんは来年に訪れる際の参考にでもするがいいさ。
※写真①、②は駐車場を撮影した物っす。
※写真③は登山道入口を撮影した物っす。
※写真④〜⑥は登山道を撮影した物っす。
2022年12月19日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
田沢城(光小城)[平瀬城 周辺城郭]
田沢城(光小城)は平瀬城の北西約3.0km、犀川東岸(右岸)、標高911.7mの光城山から南西へ伸びる尾根上、標高約725mの緩斜面上平場に主郭が存します。西麓の国道19号線からの比高は170m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きの田沢城跡登城口も位置登録されているのでどちらでも。
築城年代は不明、築城者は田沢氏です。田沢氏は海野氏の一族で、海野長氏(幸継)の四男、幸国が地名を取って田沢四郎を称している。田沢氏は事跡に乏しく、大塔物語に篠ノ井山王堂に三百余騎を持って布陣した海野宮内少輔幸義の麾下にその名が見られるぐらい。が、伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「小立野分」には「田澤紳助殿 熨斗五十本、帯ちゃ十袋、同わかさ殿 茶五たい 同所平林殿 ちゃ三つ」とあり、田沢から明科北方の小立野に移っている事が判る。紳助には在地土豪の領主クラスが久家から頂けるレベルの土産が配られているが、少なくとも生島足島神社文書起請文中にその名は見られない。
実は3回目の訪問、主郭部は縄張図を追えない激藪+間伐木の放置状態で非常に悩ましい…毎回何かを期待して登るのだけど酷くなってる事は間違い無い。主郭北側山側背後の三重堀切+連続竪堀に代表されるようにポテンシャルは極めて高いんす。ただ見せ方を全く理解していないので此方からの歩み寄りが必要になる。ちなみに夏場は全然だし冬場でも大して変わらないので、どうぞ大目には見てやって下さいまし。
別称にある光小城は同じ平瀬城のリア攻めマップにある光城(大城・仁場城)の支城を意味する訳だが、築城主体は本城とは別物になる。元禄十一年(西暦1698年)の「国絵図書上」には光の仁場城をもって田沢城とし、享保九年(西暦1724年)の信府統記もこれを踏襲している。塔原氏、田沢氏、光氏の当時の関係性も含めて再考が必要だが史料等無くはっきりしない。又、武田氏時代に勢力を失ったと推測される田沢氏だけど、それより以前、小笠原氏が守護権力を強化していく過程において既に凋落していたようにも思える。田沢の地は小笠原氏支配領域との境目に当たり、交通の要衝である事は今も変わりが無い。
※堀底道の登城路が付いているが往時のものかは不明だ。
2022年08月17日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
真々部氏館[平瀬城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
真々部氏館(ままべしやかた)は平瀬城の南西約4.2km、標高約586mの平野部平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。居館の敷地の一部はだるま寺の異名を持つ臨済宗妙心寺派の寺院、金龍寺の敷地と重複しているのでお寺さんの駐車場に車を捨てればいいさ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは真々部氏です。同氏は仁科氏の有力な一族と推測され、武田氏時代の真々部尾張守盛幸は永禄四年(西暦1561年)、仁科氏当主、右衛門大夫盛政と共に上杉氏への逆心を疑われ甲斐で生害させられたそうです(…生島足島神社文書に残る仁科盛政起請文は永禄十年八月七日に提出されたものである事から矛盾が生じている。)。疑問なのが盛幸の子、尾張守真光でして、真光はびっくりする事に武田信玄の娘を妻に迎えているらしい…前述の金龍寺はこの真光の菩提寺でもあり、真光、その妻、その嫡男孫三郎の墓があるらしい(未見す。)のですが…在地の、立ち位置的には陪臣に当たる一土豪の縁組としてはちょと俄に信じ難くありません?もし事実とするなら仁科盛政等生害の事も含めて、永禄四年、仁科氏の後嗣となった武田五郎(盛信)の件の経緯に答えを求める事が出来るのかもしれません。真々部氏は天正八年(西暦1580年)八月十一日付、等々力次右衛門宛仁科盛信書状に「真々部同心被官同前之事」とあるそうで、仁科盛信の代に至っても引き続き仁科氏の被官であった事は確実でしょう。
居館の現況は空地、寺院の敷地、一般道路等となっています。居館は東西南北の小路を持つ町割りの中心に位置し、居館の敷地の西辺、大手脇には土塁の一部が残存しています。この土塁、標柱も立ち結構な高さを留めているのですが、玉石垣等で補強されていたりして逆に存在が判り難いです。
かつて真々部の地は市場が開かれ七寺八小路が置かれた安曇郡南部における経済の中心地でもありました。今にその面影を見る事は難しいけど、ひょっとしたら武田の姫様がお暮らしになられたかもしれない町割りを偲ぶのもよいかもしれません。
2021年05月24日 sigesige主税頭信繁
平瀬城
国道19号に案内看板があり線路の下を潜って直ぐにありました。私はバイクだったので登城口に停めました。
登城口の箱に縄張り図や資料などがビニール袋に入れてあり、ありがたく頂戴しました。
最近、熊らしきの目撃情報が有った様です。
熊鈴をリンリン、ランラン派手に鳴らしながら30分程で主郭まで辿り着きました。
主郭は木材などがきれいに伐採されており、アルプス山脈が良く見られます。
南支城もある様ですが、未整備の為断念。
2019年04月23日 沼田上野介
平瀬城登城口の説明板[平瀬城 碑・説明板]
登城口には平瀬城の歴史、構造の概略が書かれた説明板があります。掲示板右側が主郭へ向かう遊歩道です。ここには貸出用の杖やパンフレットも置いてあります。
2019年04月23日 沼田上野介
平瀬城跡駐車場[平瀬城 駐車場]
平瀬城跡へ登城する方用の駐車場
登城口は駐車場から北へ約50mです。
2019年04月07日 沼田上野介
平瀬城
主郭までの登山道では連続した曲輪が見られます。
主郭より東の登山道では主郭と二の郭を隔てる連続した堀切、二の郭の東側の大きな堀切とそこから続く竪堀、さらに登山道を登っていくと堀底状通路跡がはっきりと観察できます。
2019年04月07日 沼田上野介
平瀬城
登城口の南に3台分ほどの駐車場有り。
登城口から主郭までの登山道は地元の方により整備されておりますが、傾斜があり、乾燥していると滑りやすい土ですので注意が必要です。
登山口にある杖を借りるかストックを持って行った方が良いでしょう。
また、主郭の東側から連続堀切の土橋、二の郭を通り東側の稜線を登ってゆき、上にある市道まで続く、北支城への道跡の登山道も整備されています。北支城までは続いていませんのでそちらへ向かうにはこの市道付近から北支城への稜線を歩く必要があります。
南支城へは主郭への登山道の途中に分岐の看板はありますがそちらへの道は整備されていないため山をよじ登る準備が必要です。
2019年04月07日 ⛫武蔵の加賀守の謙
平瀬城
国道19号線に案内板有ります。JR篠ノ井線をくぐると道は狭いですが、専用駐車場にたどり着きます。トイレなし。登山口付近に案内板、ポストの中には縄張り図や資料が入っています。登山用の杖も備えてあります。登城路も整備されていて20~30分で平瀬本城主郭部にたどり着きます。
平瀬城の周辺スポット情報
平瀬城登城口の説明板(碑・説明板)
平瀬氏館(周辺城郭)
真々部氏館(周辺城郭)
犬甘氏館(周辺城郭)
熊倉氏館(周辺城郭)
田沢城(光小城)(周辺城郭)
町田の館(周辺城郭)
花沢氏館(お西)(周辺城郭)
中城池の平(周辺城郭)
中城館(下里の館)(周辺城郭)
上手屋敷(塔原館・古殿屋敷)(周辺城郭)
光城(大城・仁場城)(周辺城郭)
犬甘館(周辺城郭)
御殿山城館(周辺城郭)
飯田館(本城・飯田砦)(周辺城郭)
鳥羽館(周辺城郭)
吉野堀屋敷(周辺城郭)
吉野町館(堀の内)(周辺城郭)
御所山(周辺城郭)
陣畑(周辺城郭)
平瀬山 北の城(周辺城郭)
上ノ山城(殿山城)(周辺城郭)
平瀬山城(南支城)(周辺城郭)
熊倉の渡し(寺社・史跡)
平瀬城跡駐車場(駐車場)









