林城(はやしじょう)

林城の基本情報

通称・別名

林城[林大城(おおじょう、金華山城)・林小城(こじょう、福山城)]

所在地

長野県松本市里山辺、入山辺

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

小笠原氏[すべて]

築城年

長禄3年(1459)[林大城]、長禄年間(1457〜1460)[林小城]

主な改修者

主な城主

小笠原氏[すべて]

廃城年

天文19年(1550)[すべて]

遺構

曲輪、石垣、土塁、堀切、切岸、井戸[すべて]、竪堀[林小城]

指定文化財

国史跡(小笠原氏城跡)

再建造物

碑、説明板[すべて]

周辺の城

桐原城(長野県松本市)[2.0km]
山家城(長野県松本市)[3.8km]
松本城(長野県松本市)[4.0km]
埴原城(長野県松本市)[4.0km]
井川城(長野県松本市)[4.1km]
稲倉城(長野県松本市)[7.9km]
平瀬城(長野県松本市)[8.9km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[15.9km]
山吹城(長野県諏訪郡)[16.5km]
武居城(長野県東筑摩郡)[16.6km]

林城の解説文



林城(はやしじょう)は、長野県松本市にあった信濃国守護・小笠原氏の館(日本の城、山城)。「小笠原氏城跡」として井川館(井川城)と共に国の史跡に指定されている[1][2]

歴史 

信濃国守護であった小笠原氏は、当初は井川館を拠点にしていたが、長禄3年(1459年)、府中小笠原家の小笠原清宗が築城したとされる。後に清宗の曾孫小笠原長棟が同族の松尾小笠原氏を屈服させ、小笠原氏を統一した後に拠点を移した。

天文19年(1550年)7月15日に長棟の子小笠原長時が武田信玄に攻められ一夜のうちに落城した(林城の戦い)。

構造・遺構 

林大城(金華山城)と林小城(福山城)からなる。麓の大嵩崎集落には館町が形成されていた。

林大城

現在は曲輪、土塁、石垣などの遺構が残っている。林大城の周囲には東城山遊歩道が整備されている。1970年(昭和45年)10月22日に長野県指定史跡に指定されていたが[3]、2017年(平成29年)2月9日付で井川城と共に国の史跡に指定された。

林小城

大嵩崎集落を挟んで南西側にある。かつては小城は「古城」と考えられ、林大城よりも古くに築城されたと考えられていたが、縄張りなどが複雑なことから大城より後に築城されたと考えられている。小城も土塁や石垣が残っている。

林大城と同じく県の史跡に指定されていたが、2018年(平成30年)11月16日の文化審議会の答申により、小城も国の史跡に追加指定される見込みとなった[4]

参考文献 

  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年

林城の口コミ情報

2025年05月14日 織田上総介晃司
林小城[林城  周辺城郭]

近くに駐車場が無いので停める所に苦労する。
(針塚古墳に停めて東の登城口まで徒歩)

林大城とは大嵩崎の集落(谷)を挟んで並ぶように存在。それ故、林大城と林小城両方のリア攻めとなります(どちらかだけ…と言うのは勿体ない)

2025年05月14日 織田上総介晃司
林城

林大城:
小笠原氏の城の本城とされる。

大手道からの登城が王道ではあるが(登城口には地図が入ったポスト有り)この日、林小城・桐原城・山家城・埴原城(←翌日に延期)に登城予定のため体力温存策をとり、車で副郭前まで登城(この道は途中から未舗装の林道で狭いうえ道に草木がせり出している)

整備されており、散策ルートには木片チップを敷き詰めてるため足への負担は軽い

2025年03月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
林城



さて、あたいの名前は林大嬢…知らないのなら切腹なさい。アプリユーザーとしての今後が不安でしかないわ。ちなみに武蔵の美少年が一つ前に口コミしてるんだけど、少しふざけ過ぎじゃないかしら…巧妙に隠された悪意すら感じるし、少なくともあたいの魅力が正確に下々に伝えてられているとは到底思えないわ…しょうがない…みんなびっくりして相談を始めるぐらいの効果を持つ必殺技、「信濃守長秀の傲慢」を使って上から目線でやり直しさせてやるわ。

…林大城(金華山城・橋倉城山)は…面倒なんで一つ前の口コミを参照してくらさい。行き方もそこに書いてあるんで割愛しやす…

築城年代は長禄三年(西暦1459年)、築城者は府中小笠原氏の当主、小笠原清宗とされるが確証を得られない。当時の信濃小笠原氏は内訌の渦中にあり、周辺情勢も含めて極めて不安定な時期を迎えていた。各所の、謂わゆる小笠原氏系城郭の発生も一様に同時期に求める事が出来る筈だ。

大城と小城に挟まれた大嵩崎(おおつき)谷に山麓の居館地(林館)を築き、大城と小城を結ぶ古道沿いに城下の形成が見られたとするが、周辺を歩き回っても現況からそれを窺い知る事は非常に難しい。但し、林城の周辺には多くの寺社跡が確認されており、その断片を拾い集める事は十分に可能だ。

林城に文献上の史料は無いに等しいが、「高白斎記」、天文十九年(西暦1550年)七月十五日の条に、「七月子、朔日癸巳、三日乙未、御出馬、若神子ニ御着、十日屋形様村井ヘ御着城、十三日乙巳、孫五郎未刻始テ出陣、酉刻駒井へ着、十五日丁未、御備塲へスクニ参ル、酉ノ刻イヌイノ城ヲ攻敗リ、勝鬨御執行、戌刻村井ノ城へ被納御馬候、子ノ刻大城、深志、岡田、桐原、山家五ヶ所ノ城自落、島立、浅間降参、仁科道外出仕、十七日八月節、十九日辛亥、深志ノ城酉ノ刻高白鍬立、向戌亥鍬五具、屋形様深志へ御出、廿三日惣普請、」とあり、大城(林城)が自落した事が判る。武田氏は間を置かずして深志城の鍬立を執り行っている事から廃城時期もこの時だろう。

縄張は通称、金華山の殆ど一山に及び東西に長大、大手筋は北西麓からとなり、主郭に至る間には雛段状に造成された無数の小郭群を配する。要所には関門とでも言うべき堀切と竪堀を穿ち、これ等は小郭群をブロック構成するのに役立っている。主郭部は信濃の山城としては破格の大きさを持つ。明瞭な土塁が付いた主郭と副郭の北東側斜面には多段の腰郭が造成され、腰郭の一つには虎口が確認出来る。主郭の南東側谷側背後には石積み付きの土塁を介して後郭、その後背地は堀切と竪堀が複雑に絡み合いながら主郭部へ通ずる各尾根筋を巧妙に断ち切っている。

天文十九年七月五日、伊勢守殿(伊勢貞孝)宛、小笠原長時書状案には、「為御代替御禮、御太刀一腰盛光、御馬一疋川原毛、進上仕候、此等之趣、宜預御披露候、恐々謹言、」とあり、小笠原大膳大夫長時は、伊勢貞孝を通じて、将軍、足利義輝に、盛光の太刀、一腰、川原毛の馬、一疋を代替わりの御礼として進上している。大城の自落はこの十日の後となるが、返書である御内書が発給される以前に長時は在所(府中)を退去している。大城は信濃守護としての威勢を物語るに相応しい要害だが、同名は趨勢が決した時の情勢を覆す事が出来ずに求心力を失い、その要害に立て籠る事をも許されなかった。

※おいらの小笠原氏Disは一部の城友さんにはよく知られている。が、決して大嫌いな訳じゃないのさ…愛憎入り混じった複雑な感情を抱いている…てな感ぢ?小笠原氏系城郭は大好物だし、同氏の事跡についてはむしろ他人よりも遥かに多くを理解しているつもりだ。実は菩提寺や関連史跡なんかも丁寧に訪ねていたりする(豊前小倉でもね。)のさ。

※山麓の居館地(林館)〜個人的には大城自体が要害的性格を併せ持つ居館城だったと考えている(他の小笠原氏系城郭に比して異質に感じる。但し、発掘調査が行われていないらしく考古学的な発見は無い。)。府中小笠原氏の一族に林氏があるそうだが同氏の居する所ではないだろうか。

※村井ノ城〜埴原城のリア攻めマップにある小屋城である。武田氏による府中攻めの拠点となった。同城の築城は事実上、小笠原氏の息の根を止めたに等しい。大城の自落以前に筑摩郡全体の平面的経営が不可能な状態に追い込まれていた事に疑いは無い。

2025年03月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
林城



さて、あたいの名前は林大嬢…アプリユーザーなら知ってて当たり前よね。てか頭が高いわっ!平伏なさいっ!あたいは言わずと知れた小笠原氏系嬢郭の長姉、妹の小嬢は勿論、従姉妹の桐原嬢、埴原嬢、山家嬢もあたいの前では借りて来た猫の様におとなしくしているわ。大体にして国も認めるお嬢なのよっ!そこら辺の、「◯◯の山頂部分が城跡と推測される。」とか、「宅地化によって城郭遺構は消滅した。」みたいな色物物件達とは一緒にしないで頂戴っ!

…林大城(金華山城・橋倉城山)は薄川南岸(左岸)、標高846mの通称、金華山山頂部を中心に立地する要害です。北麓の薄川からの比高は195m位でしょか。お山は殆ど独立山稜の体裁を成しており、城域も殆ど一山に及ぶ。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。北西麓、薄川に架かる金華橋付近からしっかりとした登城路が付いており、車も1台なら無理矢理に捨てられる。このお城は大手筋を登らない事には始まらないので他のルートにあっては意地でも紹介しない。

…そんなあたいに御執心なのが武蔵の国からやって来る美少年、何回来てんのかしら。この子は信濃の山城が大好きなんだけど、あたいの従姉妹程度に夢中になってるようじゃまだまだね。え、人気は従姉妹達の方が高いんじゃないかな…ですって?…無礼者っ!あたいを誰だと思ってるのっ!あたいこそが頂点なのよっ!気分が悪いわ…そう考えてるような裏切り者にはあたいの必殺技、「右近大夫に呼び出されてからの切腹」、「右近大夫の呼び出しからの誅殺」の合わせ技をお見舞いしてくれるわ…成功率は100%に近いから一族に帰農の準備ぐらいはさせておくがいいわ。

え、性格が捻じ曲がってる?…あたいは京の将軍に一途だったけど、骨肉の遺産相続を経験、その後は甲斐から来た御屋形様に人生を大きく狂わされたお嬢なのよ…第六天魔王に尽くしたけどガン無視された事もあったわ。特に松本に帰って来てからのあたいは風聞だろうがどんな裏切りをも許さない苛烈なお嬢に変わってしまったのよ…当然、過去の出来事も徹底的にほじくり返したりもするわ。そんなあたいを陰で呪ってた輩もいたわね…

あたいのディフェンシブポリシーは単純明快なの。小細工は要らない。大手を登って来る不届き者は、執拗に設けられた段郭に配されたあたいの下僕共を全て討ち果たす必要があるわ。まともに数えた事無いけど150人位と戦う事にはなる筈…それを突破して来た者だけが大嬢の敵と成り得るって訳、でも残念ねぇ…疲労困憊、満身創痍の不届き者は、あたいの土塁上からの必殺技、「小笠原流弓馬術の一矢」、「信濃守護の一撃」の合わせ技で三途の川を渡る事になるのだから…

今日は500年ぶりに不届き者が訪ねて来るらしいわ。全ての段郭を踏破してあたいに挑戦したいて阿保がね…げっ!誰かと思ったらあの美少年じゃないっ!早速、登城路を無視して段郭に入り込んだわ…根性だけはあるみたいね…て思ってたら4つぐらいの小郭を撃破したのみで再び登城路に戻って行く…あ、あり?「面倒だなこり…」とか言ってるけど…あたい、ひょとして面倒なタイプのお嬢なのかしらん…そりにしても早過ぎない?とたんにやる気を失くすなんて…どうやらお腹が減っているみたいね。

こういう時のこの子は最悪な状態なの。お城なんてどうでもよくなるみたい。ある城友さんに聞いたんだけど、アプリの登録城、あの明石城を目の前にして車から降りなかった事もあったらしいわ…結局、その城友さんは仕方無しにソロでリア攻めしたみたいね。顔とスタイルは百点満点だけど実は結構酷い奴なのよ。

この子の食事に対する執着心は異常、空腹の時は明らかに口数が減って機嫌も悪くなるのよ…物心が付く前からそうみたい。どう考えても食べ切れない量を吐きながら食べていたらしいわ。御両親はごはんの量が足りていない事よりも頭が足りていないんじゃないかと心配して脳波の検査に2回も連れて行ったんだそう…医者は「げ、元気で良かったですねぇ。」としか言わなかったみたいだけど…

それでも主郭までは登って来たわね、偉い、偉い。あたいへの挑戦権は当然失ってるけど、エステに行って更に美しくなったあたいを存分に見るがいいわ。ほほほ…見違える様な光景にびっくりしているみたいね。首から上はセレブ御用達、最新のウッドチップ・スキントリートメントを施してあるわ。当然、ムダ毛処理も施してる。あたいはお金を掛けるだけの価値があるお嬢、妹や従姉妹達とは格が違うのよ。

※松枯れに伴う間伐事業がメインだが城郭の整備も併せて行われたようだ。整備方法には賛否両論が出て来るかもしれないが個人的には大いに賛同したい。

2024年10月13日 鈴木剛
未暁門説明板[林城  碑・説明板]



千鹿頭神社社格昇進願書によると未暁門の遺跡が社地北方数丁の地点に今だに礎石として残ると、あり昭和初期頃迄礎石が存在していたと思われ、ここに千鹿頭神社の参道が開け、ここより南が神域であった事が推測されています。

2024年07月02日 尼崎城信濃守一口城主
林城



[進軍編]
桐原城下城後に登城。道中、林城の説明板(写真①)があり撮影📷信州の武道家🥋さんの車で山の中腹まで行き登山開始(写真②)登山中、連続竪堀(写真③)を見上げながら進んで行くと林城の副郭入口(写真④)に到着。説明板(写真⑤)と説明板左下の地形図をズーム(写真⑥)で撮りました。
地形図(写真⑥)を眺めていると小笠原氏は戦のない平時は大城と小城の間の山麓の本拠地に居たようでした。
副郭に上がると松風亭という四阿(写真⑦)があり、四阿の奥に見える石畳のある坂(写真⑧)を進み主郭に入城しました。

2024年07月02日 尼崎城信濃守一口城主
林城



[主郭、化粧井戸編]
林城の主郭(写真①)に到着して縄張り図(写真②)を眺めると石積みが6ヶ所あるとのことで主郭と後郭の境目の石積み(写真③)を撮影。
大嵩崎・林小城方面(写真④)は当日の持ち時間の関係で眺めるだけで向かうのを断念😢
化粧井戸(写真⑤⑥⑦)を見学して下城しました。
最後に麓から見上げて撮影(写真⑧)
写真⑧の写真下部のガードレール奥には川が流れていて堀の役目を果たしていたかもしれないなと思われました🤔

2024年05月29日 ᴿᴱᴰ 副将軍
水番城[林城  周辺城郭]



小笠原氏の本拠地である林大城の水源を守備する支城🏯

オススメ度 ★★★★★

1460年に小笠原清之により築かれたと伝わります。
小笠原氏の本拠地である林大城の東側に約900mの山塊に築かれており、城名の通り水の手を守るために築かれた支城であると云われます。
天文年間(1532年〜1555年)の小笠原長時の頃には山辺持続が守っていたという。

見所
林大城から橋倉集落を挟んで約900m東の標高840mの山塊に築かれています。
最高所の主郭には側面には石積みが残り、近隣の林小城と類似性があります。
主郭背後の南尾根が最大の見所であり、多重堀切と東斜面の畝状竪堀が残ります。
大手の北尾根は小郭の下に二条の堀切があり、南方諏訪社へ降る尾根にも両サイドを竪堀が落ちる土橋地形が残ります。

行き方は、北麓にある南方諏訪社の裏手に登城口があります。
集落内に駐車スペースは無いので林大城の案内板前に駐車しました。比高は約140mです。

この周辺の小笠原氏城郭群は総じて見応えがあります。定期的に訪れてしまう地域です。

2024年03月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
林小城[林城  周辺城郭]



皆さん、私、林小嬢を覚えていますか…え、覚えていない?…ま、いいでしょ…別にアプリユーザーのみんなに知られていなくたってね。あたいは松本平のみならず信濃を代表する山城の一つとして結構有名、むしろ知らない方が野暮てものなんだから。えっ、じゃ、なんで登録城の肩書きを外されたのかって?…それを訊く方がもっと野暮てもの、理由は単純、姉の林大嬢の隣りに今も住んでるから。そう、一纏めにされちゃったのよ…そりゃ、落ち着いた重厚な雰囲気の姉さんには流石に負けるけど、頭に捻り鉢巻キュッと巻いた威勢の良いあたいの山城っぷりも一部では大人気なんだからっ!そりから言っておきますけど、小嬢、小嬢てみんな馬鹿にするけど、あたい小ちゃくないからっ!今日探索に来た男前なんて4時間30分位は悪戦苦闘していたわ…

…林小城(福山城)は林城の西南西約0.7km、薄川南岸(左岸)、標高973.3mの山塊山頂から北北西へ伸びる尾根端部上、標高約772m地点の平場を中心に立地する要害です。北麓の長野県道297号、兎川寺鎌田線からの比高は145m位でしょか。林城(大城)の立地する山稜とは山間鞍部を挟んで東西に相対する。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。登城路入口は山尾根の東西2箇所に付いているのでどちらでも。段郭を確認しながら主郭を目指すなら西側の方を選択しよう。

築城年代は不明、築城者は小笠原氏です。一般的には小笠原氏系城郭を代表するものの一つ。歴史的な詳細は省くが意外にもはっきりした事は判っていない。お叱りを受けるかもしれないが、個人的には長禄年間(西暦1457[年〜1460年)〜文明年間(西暦1469年〜1487年)が築城時期、もしくはその発生と考えている。そうでなければ辻褄が合わない事が沢山あるのだ。もう単純に堀切や竪堀の存在のみで戦国時代の縄張と決め付けるのは止めにしようよ。山地に堀を掘っただけの事、もはやそれだけでは技巧的な縄張だとも思わなくなった。林小城は小笠原貞慶による府中回復後、天正年間(西暦1573年〜1592年)中期頃の改修説が一部の人によって唱えられているが、筑摩郡入部後は休む間も無く奔走し、本拠である松本城(深志城)の改修、城下の整備すらままならなかった小笠原氏にそんな余裕がある訳無い。ましてや本拠とは別に廃城を再整備する必要性も無いに等しいだろう。

個人的には2回目の訪問、小笠原氏系城郭は時間に余裕が出来た時に結構再訪してるんだけど、林小城は常にその対象から外れてきた。理由は個人的なもの、冷静に考えると堀切が案外イケていない…主郭の鉢巻石積みとか大土塁とか各尾根筋の段郭とか見所は多いんだけどねぇ…でも今年に入って縄張図を改めてよく見ると城域を完全に廻り切れていなかった事が判明、そこで今回は縄張図の全てを辿る事を目標に臨んでみた。

お目当ては主郭の東側斜面に付く畝状竪堀(西側斜面にも付くが崩れ気味でイケてない…)と城域南端に付く長大な竪堀、やっぱ凄いや。特にこの竪堀なんて総延長200mを優に超える長大さ、曲げを伴いながら山稜下段まで一気に落とし込まれる。畝状竪堀は上段だと埋まり気味だけど中段、下段では割と明瞭、又、それ等とは別に主郭南側山側背後の竪堀2条が山際で合流する様も確認出来た。小笠原氏系城郭必殺の遺構、謂わゆる集合竪堀て呼ばれるものだ。

各所の竪堀を全て下りてみた結果、その都度主郭まで登り返す必要性が発生してしまうんだけど、小笠原氏系城郭の竪堀はパねぇもんが多いんでその疲労度たるや凄まじいものがある。竪堀は斜面横移動を阻止する事が目的とされるが、小笠原氏系城郭における一部の竪堀は本来の目的とは少し違うようなものも含まれているように思う。それを感じ取れただけでも収穫だった…ような気がする。

リア攻めを終えてみれば爽やかな疲労感、満足感の方が上回ったんだろう。そう思える阿保に生まれて良かったわ…

※鉢巻石積みで有名だけど雪に塗れて写真は殆ど全滅した。細かい箇所は気にしなくなったのでよしとしよう。

※お山は整備てよりは松枯れの間伐ですっきりした部分が多くなったような気がする。

2024年01月01日 信濃守学堂
林城



多分、小学校の遠足か課外活動で登ったのが初めてですが、この数年間、山城にハマってから振り返ると、この城が今の自分の趣味のルーツだったのだと、一昨日登ってみて改めて気付かされました(笑)。信玄に攻められた時、戦わずして自落したのは何故だったのか?考えながら登って見ましたが、北側及び西側からのアプローチはかなりの急勾配で難しいのですが、南側もしくは、一旦、薄川沿いに東上してから比較的なだらかな斜面を北側ルートで選べば、結構攻めやすいのでは?と思いました。北アルプスの山並みや松本盆地を一望するには最高ロケーションで、小笠原氏がこの地の守護職であることを示すには適しているのですが。小学校時代には考えもしなかった見方ですが(笑)。

2023年11月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
兎川寺[林城  寺社・史跡]



さて、個人的な話になるんすけど、ここ最近はGMBGにどっぷり浸かってる。城館廻りに+して何だか少し得した気分にもなれるし、意外な発見や勉強も出来たりする。GMSGは結構普通にやってたけどGMBG最高じゃないっすか〜何で今までやらなかったんだろう。激しく後悔…あり?もしも〜し、GMBGっすよ、GMBG?えっ、御存知ない?…ちょっと、ちょっと、ちょっと〜頼んますよ本当にっ!「Googleマップで墓所してGO♪」の事じゃないっすか〜完全に乗り遅れてますよっ!

…当日は林小城の再訪に合わせて墓所してみた。小笠原氏関連がヒットせず意外な人物をゲット、松本と関係深いんで当たり前でもあるんだけど、家康の懐刀、石川数正その人っす。松本市郊外の里山辺(地名)にあるなんてこれまた意外…その墓所が建つのが今回紹介する兎川寺っす。

固めるテンプ…いや、ミラクルテンプル、兎川寺は林城の北北西約1.4km、標高約637mの山間平野部平場に立地する真言宗智山派の寺院です。山号は恵日高照山、詳しくは恵日高照山兎川霊瑞寺て言うらしい。なんでミラクルなのかは寺歴をざっくり説明するんで付いて来てね。

創建は本当かどうかは知らんけど、寺伝によれば飛鳥時代、聖徳太子によるものとされる(文化財に聖徳太子像があるらしい。)。鎌倉時代には真言宗、天台宗合わせて24坊の大伽藍が建ち並ぶ程の大寺だったが、「元弘の乱」の際に比叡山に籠った天台僧徒は一人も帰って来なかったんだそう。

戦国時代には信濃守護、小笠原氏の祈願寺、林城自落の際に多くの寺宝が持ち去られたとある。が、寺宝をかっぱらったのは武田勢だけだったとは言えないだろう。

明治時代に入ると、松本藩藩主、戸田光則が断行した全国的にも例を見ない徹底した廃仏毀釈(明治政府が発した神仏判然令の誤った拡大解釈に過ぎない。)の煽りを受けて廃寺に。但し、寺地は山辺学校として利用されたために文政三年(西暦1820年)の建立である本堂は現在まで残る事となる。旧松本藩領内では極めて珍しい事例…ね、ここだけはミラクルでしょ…

…ぶっちゃけると、石川数正の墓所は愛知県岡崎市の本宗寺境内にあり、この兎川寺境内の墓所は正式には供養塔で埋物は何も無い。経緯は不明だが、後に父の跡を継いで筑摩郡を領した長子康長が建立したものである事は想像に難く無い。ちなみに標柱には、「松本城主 石川数正公夫妻之墓」とある。

石川数正の出奔は戦国時代における有名なミステリーの一つだ。結果から言えば、数正は出奔に際して妻子と小笠原貞慶の証人(人質)を同道させている。後世、小笠原氏が何と言い訳しようとも数正と貞慶の間で相談があった事は疑いが無い(勝手に連れて行く理由が無い。)。そして報せを受けた家康は当時押し進めていた信濃経略の全てを中断させている。

数正の戦国ミステリーついでに最近憤っている事についてこの場を借りてぶっちゃけてもよいでしょか。歴史ブームだしネットの時代だから余計目に付くんだろうけど、日本史の新説、珍説がどんどん飛び出して来る事にうんざりしている。ほらよくあるでしょ、「実は◯◯は◯◯がなんちゃらで◯◯だった!」みたいな…今度は何の話だよてなりません?よく精査された史料や新たに発見された史料から導き出された新説なら「なるへそ〜」とか思えるけど、多くのものは自分の得意分野の視点から作り上げた突拍子も無い想像の産物に過ぎず史料等による裏付けが何も無い。唱える人達は本当に専門家なのかと疑ってしまう。究極のところ薄いファンタジーに注目を引く様な派手な見出しを付けただけの売名行為としか思えんわ…

此処で言いたいのは、歴史上の人物を己れの物差しで測り、あたかもその心情に寄り添う様な事書いて自分勝手なエピソードを作り上げるなて事、謎なら謎のままとするのも歴史家の正しい有り方だろう。それでも語りたいなら「あくまで自分の想像です。」と前置きして史実と誤認するよな書き方を遠慮してくれ。小説やドラマ(どんな逸脱や脚色があってもよいと思う。)と違うんだから丹念に史料を積み重ねて冷徹に研究、検証する事こそが求められてる使命じゃないのか。はっきり言って情熱に満ち溢れ地の利を生かした郷土史家達の業績はこれ等有象無象の十段は上を行く。

有名な「三国志」の正史が物語としてのエピソードを削ぎ落として簡素な記述に終始するのはそれが史実として容認出来ないからであり、結果として史家の陳寿はその著書と共に一定の高い評価を得ている。読者は疑う事から始めよう、「定説を疑え!」等ともっともらしく煽る奴等も対象だ。

※写真じゃ流石に判んないけど、大棟に兎?の彫刻が施されてたりする可愛いお寺さん。それから「三河の国 石川会」て会があるのね。

2023年04月23日 カズ
林城

松本駅から徒歩で向かいましたが、先人の書き込みのとおり、レンタサイクルをおすすめします。また、ルートとしては川沿いの大手から登り、搦手に降り、小城を見るのがおすすめです。私は大城と小城の間の搦手から登りましたが、日没間近になったため、小城は断念しました。レンタサイクルで行っておけば‥。天気が良ければ城に向かう川沿いの道も快適だと思います。さすがに名門小笠原家の本拠地だけあり、見ごたえ十分でした。

2022年07月04日 Maru姫22
林城



遺構とは思えないくらいキレイな階段状の石積みを見ることができました。

2022年07月02日 越中守松宙右衛門
林城

駐車場

先人様の補足をします。
令和4年7月2日現在、中腹の駐車場の少し手前に倒木があり道がふさがれて駐車場まで車で行けません。
お墓を過ぎるとU字のカーブがあります。
そこに停めるか、アスファルトから砂利道になり、もう少し行った所に車一台程のスペースがあります。
そこでUターンも出来ますが、かなり狭いです。
山城や山道に慣れていない方は麓から歩かれた方がよろしいかと思います。

2021年08月14日 三春田村氏
針塚古墳駐車場[林城  駐車場]

案内されている駐車場です。舗装されていますが、すれ違えない狭さの道があります

2020年10月22日 おさむ
林城



林城の案内看板に従い、車で山の中腹まで行くとお墓があります。そこ以降の道は、狭くなりますので、要注意です。城跡直近には教育委員会の解説があり、城の変遷がよく分かります。城跡には、屋根付き休憩所があります。

2020年01月12日 国府左京大夫城介
水番城[林城  周辺城郭]



水番城への登城口。
南方集落にある南方諏訪社の前の道を西に向かって突き当たりを左側に登って行くと、南方秋葉社を経由して、水番城へ到達します。また、右側に下ると、水番城の説明板があります。(Googlemapでは写っていません)
南方秋葉社への参道はかなり急で、南方秋葉社には10~15分程度で着きます。そこから、100m程度で、堀切に辿り着きます。そこを登ると、右手に大手筋があり、本来の登城口のようです。大手筋に向かわず直進すると、主郭を守る二重堀切が出迎えくれます。主郭の南側には石積みがありますが、林城のような土塁はありません。主郭を越えると、竪堀が怒涛の如く出迎えくれます。竪堀群を越え、暫く行くと、堀切があり、その先に搦手筋があります。
なお、水番城の南方登城口周辺に、車を止めるような場所はありません。

2019年12月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
水番城[林城  周辺城郭]



水番城は林大城から橋倉集落を挟んだ東方約0.9km、北方へ延びる山塊尾根上、標高約840mのピークの一つに主郭が存します。西麓からの比高は100m位でしょか。

築城年代は不明ですが、築城者は小笠原氏で、その名称が示すとおり林大城の水の手(水源?)を守るために築かれた支城だそうでコンパクトな縄張となっています。林大城にも井戸跡があるので水の手そのものであることには疑問がありますが、この尾根からは確かに豊富に水が出ているようで、実際に尾根西側斜面に水が染み出してる場所が何箇所かありました。

お城は遺構の残存率が総じて素晴らしいです。主郭には石積みも残り、堀切や竪堀も明瞭です。特筆すべきは主郭から南側尾根斜面に畝状竪堀(連続竪堀ではない。)が付いている事で、自分の写真は少し判り難いですが、現地に赴けばはっきりと確認出来ます。この畝条竪堀は途中で集合しているものもありまして、下から攻め登る場合には兵力が分散される意図なんでしょか。小笠原ブランドのお城では集合竪堀をよく見かけますが、畝状竪堀が集合しているのは珍しいと思います。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。お城の西麓から登城路が付いてます。自分は事前情報を調べなかったので橋倉集落の最深部、南西麓の登城路?を使い城域南端から巻くようにして登城しました。途中から道が無くなり結局尾根上まで直登しましたが、比高もそんなに無いので少しだけ頑張れば後は楽です。尾根上に出れば道が付いていて「搦め手道」の看板にぶつかる事が出来るでしょう。此処には見事な堀切がありますので思わず見惚れてしまいます。

小笠原ブランドのクオリティーの高さをまたもやと見せつけてくれる素晴らしいお城です。林城コンプに向けて皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2019年05月09日 龍馬備中守【】
林城



副郭下の土橋☆土橋の横は空堀となる☆副郭側の虎口より☆小笠原長棟の子小笠原長時が武田信玄に攻められ一夜のうちに落城☆


2019年05月09日 龍馬備中守【】
林城



(奥)主郭☆(手前)土橋と空堀☆副郭下も土橋と敵兵を意識した城郭作り☆信濃守護小笠原氏の居城☆

2019年05月09日 龍馬備中守【】
林城



主郭南側を守る石塁付きの土塁☆奥に進むと林小城に繋がる☆南側…甲斐武田氏方面に築かれた土塁は甲斐国への警戒感が伺える☆

2019年03月07日 カーネル
林小城[林城  周辺城郭]

林城の南西に下山したら、林小城との間の狭い舗装路を北西へ向かいます

「旧真観寺跡」の標識を過ぎた先に林小城の登山口があります。動物避けの柵を越え地獄の釜を左に見ながら登る

雪で道がよく分からない・・・。けど見上げると看板があったのでそのへ向かうと、林小城→の標識

右折しても、雪で道がよくわからないので、標高を上げずにトラバースするように山をまくと尾根にでて、尾根を登る下からの道に合流

ここからは、道は明瞭でした。あとは登ると石垣がわんさかと出てきて、石垣の上が主郭です。こちらも土塁の囲まれていて反対側に下ると、堀がありました

堀から道を下ると、主要道に合流するのでこれで下りましたが、雪のせいで1回道に迷いました

最後は柵を超えて舗装路に出て、松本駅に戻りました。松本駅から林城と林小城を経て松本駅に戻り200分でした

2019年03月07日 カーネル
林城

松本駅から

東へ向かいあがたの森公園にぶつかったら、右折して南へ向かいます。筑摩橋を渡ってから左折して川沿いを歩く

県道297号と交差する箇所が、林城から北西に伸びる尾根の先端で、ここから登れます。地図もあり、これが大変に役に立ちました

階段で斜面を登ると尾根にでて、ここから直登です。尾根はすぐになだらかになり一の門跡に着。尾根を先に進むと、堀を土橋で超えます

その先が段丘曲輪で、舗装路になります。ここまで車でこれます

さらに上に向かう土塁に囲まれた主郭で、一番奥に石垣がありました。反対側に下ると、また堀を確認できました

道は尾根から斜面に変わり、降りた先には山の神社。という標柱と祠がありました。ここまで90分

道はふくらはぎくらいまで雪が積もってましたが、道の形に凹みがあったので、迷いませんでした

このまま山を下り、林小城に向かいます


2018年11月03日 城とハト征夷大将軍登山⛰️
林城

途中看板あり、残り750メートル(看板に表示)から、狭くなります。
舗装が終わる所(車の方向転換可能)に車を止めて、歩きました。
廃城の山城の雰囲気と残る石垣が、良い感じです。
郭、堀切は、初心者でなければ、分かりやすく楽しめます。

2017年02月18日 赤いRVR甲斐守@松本
林城

今月史跡指定されました。

2016年12月18日 近江守Silvine
林城

車で主郭近くまで上がれますが、未舗装の細い道で、雨、雪の日は上がらないほうが良いと思います。
郭内に東屋があったりと一部公園化されてはいますが、土塁や石組などは充分見る事ができます。

2015年08月08日 メロディママ
林城

《アルピコ交通》
松本BT 10:35発→美ヶ原高原美術館 12:13着
美ヶ原高原美術館 14:15発→松本BT 15:55着
【運行期間】2015年8月1日(土)~8月16日(日)までの1日1本のみ。
松本←→美ヶ原高原美術館 往復2800円。
ただし、松本→ホテル翔峰前下車《大和合》バス停まで徒歩という方法もあり。

2014年11月08日 兵部大輔ネギ坊主
林城

金華橋側からの入り口から登ると、早めに歩いて、本丸跡まで20分ぐらいかかります。けっこうな山道です。

2014年05月09日 Dr.K佐渡守
林城

カーナビ設定した通りだと本丸間際まで車で行けましたが、かなりの隘路でした。
脱輪には気をつけて!

2011年12月08日 赤いRVR甲斐守@松本
林小城[林城  周辺城郭]

近年周辺町会で登城路が整備され、とても登りやすい。ただ、駐車スペースは近くにないので、少し離れた千鹿頭(ちかとう)神社の駐車場に止めるしかないか。
登城路は、山の西側から案内板に沿っていけば迷わずたどり着きます。途中雄大な竪堀を見ながら登ると15分位で主郭の前に出ます。登城路以外の場所にも遺構は多くありますが、少し分かりづらいかも。主郭を取り巻く石積みは見事。そこからの眺望もよい。

2010年06月20日 赤いRVR甲斐守@松本
林城

大城は入山辺橋倉から車でも登城可だが、金華橋からの遊歩道の方が良い。小城は里山辺林の廣澤寺の北に登山口がある。大城と小城の間にある大嵩崎(おおつき)谷からは、どちらにも登城口がある。

林城の周辺スポット情報

 地獄の釜(遺構・復元物)

 主郭(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 姫の化粧水井戸(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 一ノ門(遺構・復元物)

 大城入り口(碑・説明板)

 縄張図(碑・説明板)

 登山口(碑・説明板)

 小城登城口(碑・説明板)

 御府古墳跡(碑・説明板)

 兎田(碑・説明板)

 未暁門説明板(碑・説明板)

 登城口(碑・説明板)

 史跡説明板(碑・説明板)

 水番城(周辺城郭)

 林小城(周辺城郭)

 伝・林六郎屋敷(周辺城郭)

 千鹿頭神社の砦(周辺城郭)

 真観寺跡(寺社・史跡)

 兎川寺(寺社・史跡)

 針塚古墳駐車場(駐車場)

 駐車スペース(駐車場)

 駐車スペース(駐車場)

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