稲倉城(しなぐらじょう)

稲倉城の基本情報

通称・別名

所在地

長野県松本市稲倉1510

旧国名

信濃国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

赤沢氏

築城年

建武2年(1335)頃

主な改修者

主な城主

赤沢氏

廃城年

遺構

曲輪、帯曲輪、横堀(空堀)、物見台跡

指定文化財

市特別史跡(稲倉城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

平瀬城(長野県松本市)[4.9km]
桐原城(長野県松本市)[7.0km]
松本城(長野県松本市)[7.0km]
林城(長野県松本市)[8.0km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[8.0km]
井川城(長野県松本市)[8.8km]
山家城(長野県松本市)[9.4km]
埴原城(長野県松本市)[12.0km]
青柳城(長野県東筑摩郡)[15.3km]
小岩嶽城(長野県安曇野市)[16.9km]

稲倉城の口コミ情報

2022年08月24日 対馬守勅凛
稲倉城

三の廓に向かうルートが正解です。急斜面ですが、ロープ伝いに登れますよ

2022年03月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
横谷入城[稲倉城  周辺城郭]



横谷入城は稲倉城の南方約3.5km、標高約887mの大音寺山山頂に主郭が存します。南麓の舗装林道からの比高は120m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている大音寺山を目標に設定して下さい。大音寺山は浅間温泉ふる里公園の一部として完璧なまでに整備されており、迷う事無い遊歩道(だらだら登らされるけど…)がきちんと付いてます。又、獣柵が山頂を越えた所に設定されているので極めて安心、鹿の痕跡すら認められません。

築城年代、築城者は不明です。お城の西麓、浅間郷は建武年間(西暦1334年〜1336年)から天正年間(西暦1573年〜1592年)まで赤沢氏の所領で、同氏に関わる要害、物見砦である事は確実でしょう。又、天文年間(西暦1532年〜1555年)には浅間孫太郎が入り、武田勢により落城、破却されたとも。

縄張図は期待させてくれるのですが、良くも悪くも整備された遊歩道が城域を貫通しているので全てがファジーな印象、ただ元々堀系なんかは整備前から埋まり気味だったとは思います。最初に現れる堀切は見事にスルー、写真撮ってたけどただの段差かと思いやした。主郭周りの堀切や竪堀は現地なら判るけど写真は凄く難しいレベル…又、搦手には空堀遊歩道と称するお城の水の手に通じる堀状の道が付いてますが、これ、まず空堀じゃないだろう…ただ堀状地形の傍らには削平地が確認出来るので当初から堀底道として利用されていたのかもしれません。

主郭西側のアルプス展望台からの眺めが大変素晴らしい。犬甘城等の周辺諸城を眼下に見下ろし、松本平を広く一望、乗鞍岳、有明山等の北アルプスの主要山峰を眺める事が出来ます。が、苦言を一つ…浅間温泉ふる里公園のマップについて…「横谷入砦跡」と「横谷城跡」の2箇所が記載されているんですが、後者は搦手からの横谷入城登城路入口を示すもので実際にお城は存在しません。現地で知らんお城があるのかと勘違い、徒労に終わりました。こうした例は致命的欠陥だと思うので訂正される事を願います。

※業務連絡…稲倉城のリア攻めマップに「横屋入城」の名称でスポット登録がありました。名称はともかく位置は完全な間違い…謂わゆる致命的欠陥になりますのでスポット登録された方は対応お願い致します。

2022年03月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
稲倉御屋敷館[稲倉城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

稲倉御屋敷館は稲倉城の南西約0.5km、女鳥羽川北岸(右岸)、標高約769mの河岸台地緩斜面上平場に存した居館です。居館の西側には旧四賀村へ抜ける稲倉峠道が南北に走ります。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…ちなみに稲倉城への登城路の途中には説明板が立っています。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは赤沢氏です。同氏については同じ稲倉城のリア攻めマップにある赤沢氏館を参照して下さい。武田氏の府中乱入に際して赤沢氏は二分しますが、武田氏に従った浅間赤沢氏となります。武田氏時代の当主赤沢左衛門尉の子、式部少輔清経は後に府中を回復した小笠原貞慶に従いますが、上杉氏との内通が露見し切腹を命ぜられ、約二百四十年に及んだ当地の支配は終焉を迎えます。

居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地となっています。北東後背に稲倉城を控え、居館の北東隅から最短距離でこれと連絡しているそうですが行ってないので知らんがな…稲倉峠道を登れば車でお城の直下まで行けるのでそんな苦労ようせんわ…当日作業していた畑の主が語るには、耕作地の部分は馬場(屋敷平の地名を残す。)で屋敷自体は敷地の東側、家屋の辺り。そして此処には今も水を湛える井戸が残っていました。

実は2回目の訪問、前回は素晴らし過ぎる稲倉城がメインだったし、説明板に記述のある井戸を発見出来なかったのでやる気を失いさらっと通り過ぎましたが、今回はこの井戸を必ず確認しようと意気込み真面目に散策、井戸は流しただけでは見付かる訳もない一般住宅の敷地内に残っていました。個人的にはちょっと感動(写真5枚も撮っちゃいましたわ…)、ようやくもやもやが晴れました。が、多くの方にとっては見たってしょうもない代物ですので、自分と同じ様にもやもやを解消しないと前へ進めない方のみ探してみるのもよいでしょう。

※写真1、2枚目、お山のぽこりんが稲倉城、居館と詰城の関係が理解出来るでしょう。

2022年03月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
三才山御屋敷館[稲倉城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

三才山御屋敷館は稲倉城の南東約1.4km、女鳥羽川北岸(右岸)、標高約797mの河岸台地上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南側の明広社を目標に設定して下さい。北側にある空地周辺が該地となります。

築かれた年代は不明、該地は稲倉城主、赤沢氏の所領で、東方標高1629.3mの戸谷峰から西方へ延びる山塊尾根上、標高1110mのピークの一つには同じ稲倉城のリア攻めマップにある三才山砦が存し、元文二年(西暦1737年)の書上帳では「城主赤羽大膳殿屋敷」とあり、三才山砦城主の平時の居館であったと推測されます。て事は赤羽大膳は赤沢氏の被官であったようですね。

居館の現況は集落の一部です。該地の「大屋敷」の屋号を持つ空地周辺が居館の中心部となります。当地はGoogleマップの航空写真を見れば一目瞭然なのですが、東へ進めば三才山峠、武石峠の何れかをを経て小県郡へ、西へ進めば稲倉の谷筋を抜けて安曇郡、筑摩郡に至る地味に交通の要衝でした。見方を変えれば松本平の入口に当たる地峡部の一つでもあり、人が住するという居館以外の利用目的もあった事でしょう、意外にも今現在も周辺には要害地形が残っています。又、該地に残る古い時代の石垣の存在は戦国時代のみならず、少なくとも幕藩体制発足後も何らかの形で利用が続けられた証左なのかもしれません。当然、更に後世の改変なのかもしれないのですが…

リア攻めの単独目標にはなり難いと思われますので、東方背後の三才山砦とセットで訪ねる事を推奨します。が、三才山砦は登城が大変厳しい…アテンド頼まれても、「こっから登って、尾根に出たら右へ行ってね。おいらは車で寝てるから。」みたいな投げっぱなしアテンドになる事確実な物件なので登る際にはそれなりの覚悟を決めましょう。小さな砦とはいえ簡単には拝めないのです。

2022年03月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
伊深館[稲倉城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

伊深館は稲倉城の西南約1.9km、標高約732mの山間平野部緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北東側の(有)エム創建を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方となると判断難しい…信府統記、長野県町村誌、東筑摩郡誌に記述がありますが、諸説あって何れもはっきりしません。やはり伊深城主、後庁氏の居館であったとする説が一番しっくりするような…信府統記、長野県町村誌には小笠原氏の被官、後庁大内蔵の名が居館の主として伝わっています。この後庁氏についてもはっきりしない(私家本があるらしいが…)のですが、確実なのは洗馬の三村氏当主、民部丞、駿河守長親(武田晴信によって甲府一蓮寺にて誅殺される。)の弟、久親が後嗣として後庁氏に入り、長親の嫡男、勘兵衛尉長行が久親の後嗣として後庁氏の家督を相続しています。武田氏の滅亡後は府中回復を目論む小笠原貞慶が溝口新介を使わし、天正十年(西暦1582年)六月十二日、後庁の名義と洗馬堀廻三千貫を宛てがう旨の書状を、六月十四日には更に奉行職に加えるとの口上が述べられその忠節と働きを促しています(前回の旧領回復失敗を経験に貞慶君は必死に願い倒しまくるのだ。)。

居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地となっています。同じ稲倉城のリア攻めマップにある伊深城を詰城とする居館で、伊深城東麓直下の最上段に立地します。居館の位置は比定地で遺構は何も残っていませんが、一般住宅の敷地からは武田菱の龍印が見付かったそうです。

天文十九年(西暦1550年)七月十五日、武田勢は「イヌイの城(埴原城か?)」を攻め取り勝鬨執行、林大城、深志城、岡田城、桐原城、山家城は自落しますが、この岡田城が伊深城だと比定されています。たぶん伊深館も同様であった事でしょう。マニア向け。ただ詰城の伊深城が素敵過ぎるのでこっちだけはお願いしたいところです。

2022年03月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
妙義山狼煙台(鐘平)[稲倉城  周辺城郭]



妙義山狼煙台(鐘平)は稲倉城の南方約4.4km、西方へ延びる山塊尾根上端部、標高約694mのピークの一つに主郭が存します。西麓の舗装路からの比高は55m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西麓の浅間温泉・庭球公園を目標に設定して下さい。取り付きは南麓の林道からで、獣柵ゲートを開けたら直ぐの場所に道が付いてます。

築城年代、築城者は不明です。信濃のお城の神は該地の狼煙台を示唆する「鐘平」の地名から此処に狼煙台が置かれていたと推測しています。従って浅間郷を所領としていた赤沢氏に関係するものて事になるんでしょかね。

狼煙台の現況は3基の古墳が築かれた概ねで二段の平場です。感じとしてはお父さん古墳が上段、お兄ちゃん古墳とお姉ちゃん古墳がその下段、じゃ、お母さんは何処なのかて言うと父子家庭なんすかね。3基の古墳で三角形を構成、謂わゆる三角関係でもあるので家族じゃないのかもしれません。地山に薄過ぎる古墳があるだけなんでただそれだけの話です。

頑張って文章にしてきましたが、眺めが良いぐらいの残念物件…実は当日、ハード目な物見台を目標にしてそれなりに準備してきましたが残雪厳しく断念(ちょとなら我慢出来るけど、積雪の片道約3.8km、比高約760mは城廻り的には無いでしょう…)、代役の一つに選ばれたのがこの狼煙台です。完全登山装備の美少年がテニスコートの裏山にあったかもしれない温泉街の狼煙台を訪ねるなんて中々だぞ…

救いだったのが南麓にある元塚原青雲高等学校学生寮(廃墟っす。)、三段位にきゅっと縮めた名古屋城天守の趣きを持つモニュメントが付いていて、歴史ある温泉街に屹立するその姿は違和感でしかない…模擬天守ファンは是非訪ねてみて下さいまし。

2022年03月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
岡田堀の内館(岡田親義館)[稲倉城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

岡田堀の内館(岡田親義館)は稲倉城の南西約3.9km、標高約678mの山間平野部緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北西側の岡田神社を目標に設定して下さい。神社の石段の手前に居館の敷地範囲を示した説明板が立っているのでこれを参考にしてリア攻めしましょう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは岡田親義です。岡田さんて言うと親近感が湧いて来ますが、この方は清和源氏の一流、河内源氏、新羅三郎義光の五男(異説有り。)という立派な肩書きを持つ由緒正しき御仁です。保元元年(西暦1156年)、浅間神社領であった信濃国筑摩郡岡田郷の荘官として下向、岡田冠者を称しました。

治承四年(西暦1180年)、以仁王令旨で指名を受けて同族の木曽義仲に従い、子の太郎重義、小次郎久義と共に挙兵、会田・麻績の戦いや横田河原の戦いで活躍しますが、寿永二年(西暦1183年)、倶利伽羅峠の戦いで平清盛の七男、平知度と組打ちして討死しました。同じ稲倉城のリア攻めマップにある伊深城の東麓、慶弘寺公園には義親の墓と伝わる墓石が残ります。ちなみに後世の錦絵なんかにも描かれていたりしますね。

居館の現況は住宅地となっています。信濃のお城の神が調査した平成十四年の時点では堀形が一部に残っていたようですが住宅建設のために既に消滅、遺構は何もありません。敷地内は所々で段付きなんですが、まぁ気のせいなんでしょう。

前述の岡田神社は創建から約1400年に及ぶ古社、嘉応二年(西暦1169年)、岡田冠者親義は社殿の修復を行なったそうです。居館の立地は岡田神社の参道沿いで、由緒正しき御仁とはいえ神社の上段には居館を築かないものなのね…切り干し大根おやきを2個喰い(なんか季節の変わり目て直ぐに腹ぺこになりません?1日5食位食べてるんですが…)しながらそんな感慨に耽ってしまいました。

2022年02月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
御殿山・小笠原家廟所[稲倉城  寺社・史跡]



御殿山・小笠原家廟所は稲倉城の南西約3.2km、標高約877mの御殿山西麓、標高約705mの山間部緩斜面上平場に存する廟所です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ただ直近まで車で行くと駐車場所にとても困ります。

小笠原貞慶とその嫡男秀政、その子忠脩を祀った廟所で、3基の五輪塔(向かって右から秀政、貞慶、忠脩のものとなります。)が建てられています。この廟所に実際に遺骨が埋葬されているのは忠脩のみとなります。

松本市ホームページをスーパー要約するとこんな感じ…

小笠原氏は清和源氏、河内源氏の一支流、甲斐源氏の一つで、嫡流となった武田氏に対して加賀美氏流の小笠原氏は庶流に当たります。小笠原氏の祖は滝口武者、加賀美遠光の次男長清(ちなみに盛岡藩南部家の祖、光行は弟っす。)で信濃守に補任された父の地盤を受け継ぎ鎌倉時代から信濃においても勢力を獲得していきました。

色々すっ飛ばして建武の新政で信濃守護に補任された長秀からの印象がどうにも悪い…長秀は婆娑羅だったとも言われるけど、信濃善光寺に入部の際は一族郎党二百騎を従え煌びやかに行列を整え、呼び寄せた信濃の国人領主等に高圧的に対面する。中先代の乱、南北朝時代を経て悪党の蔓延る信濃の国人領主達の反感を買った事は間違い無く、国人領主等が横領していた土地での徴収を一方的に推し進めた事も遠因となり大塔一揆を招く結果に…これに呼応した村上氏等の有力国人領主等と戦った大塔合戦でぼこぼこに…

信濃守護小笠原長時が武田氏にしてやられたのも本人に原因を求める事が出来るでしょう。長時は傲慢尊大で対面を求める国人領主等にこれを許さない事しばしばで平素からその反感を買いまくり…その結果が塩尻峠の戦いで、被官の国人領主等は調略されるわこれらに元々戦意は無いわでぼこぼこに…

長時は信濃を追われ諸国を流浪しますが、蘆名氏の庇護を受けた会津で死去(家臣に殺害されたとも。)、嫡男貞慶は天正壬午の乱の際に中信を回復、その手腕は近世大名としての小笠原氏の始まりでもあり評価はすべきでしょう。ただこの方、会津から呼び寄せようとした父の死に号泣したかと思えば増悪の念も凄まじく過去の裏切りに対する血生臭い粛清の嵐は頂けない…

そんな小笠原氏(山城はすげぃよ。)の廟所の一つです。

2022年02月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
赤沢氏館[稲倉城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

赤沢氏館は稲倉城の南西約3.8km、標高約655mの山間部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている松本市立本郷小学校を目標に設定して下さい。小学校のグラウンド周辺、そこが正に居館の存した場所です。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは赤沢氏です。居館の存した浅間郷は赤沢氏の所領で、甲斐源氏小笠原氏の初代長清の二男、清経が伊豆国田方郡赤沢郷(今も静岡県伊東市に地名が残る。)を本貫地として赤沢氏を称したのが始まりです。初代清経は信濃国埴科郡埴生に移り、後の当主赤沢忠興は中先代の乱において小笠原貞宗に従い北条方の残党鎮圧に功を挙げ信濃国筑摩郡浅間郷、更級郡四宮庄塩崎を与えられ(北条氏遺領を分配された事になる。)塩崎に本拠を置きました。大塔合戦では守護方となり敗北、小笠原氏の内紛に際しては府中の小笠原持長を支持して漆田原の戦いに勝利しますが、当主赤沢対馬守教経は討死しています。

教経の跡を継いだ朝経(悪太郎)は嫡男政経に家督を譲って上洛、室町幕府管領細川政元に従い畿内で暴れまくった事で有名ですね。通称から解るようにやんちゃしてたようですが、冒険を求めて一家を捨てた放蕩親父とも言えるでしょう。嫌いじゃないです。

戦国時代、赤沢氏は二分します。すなわち武田氏に敗れて諸国を流浪した信濃守護小笠原長時に従った者、そして武田氏に従った者です。前者は時の当主智経が三好長慶を頼った長時に従い上洛、北白川の戦いで討死(長時が客将扱いでありながらの討死、長時は先陣だったのかしらん。)、その後は当主貞経が相馬氏に身を寄せ、最終的には徳川家康に五百俵で召し出されて小笠原姓に復し、小笠原流弓馬術礼法を今の世に伝えています。一方、後者の浅間赤沢氏は武田氏被官時代には軍役四十騎(少なくはない。)、天正壬午の乱の際には深志(松本)を回復した小笠原貞慶に従いますが、後に上杉氏との内通を疑われて誅されました。

居館の現況は小学校のグラウンドです。居館の正確な位置は特定されていませんが、特定されても困っちゃうよ…て感じですかね。リア攻め時間は30秒位ですが、これ書くのに1時間30分位掛かりました。阿保なんでしょか。ハイパーマニア向け。訪ねる必要無し。

2022年02月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
茶臼山城[稲倉城  周辺城郭]



茶臼山城は稲倉城の南西約3.3km、山塊から南西へ延びる尾根端部上、標高約724mのピークの一つに主郭が存します。南麓の舗装路からの比高は60m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。主郭直下まで車で登れます。

築城年代、築城者は不明です。長野県町村誌には、浅間郷を領していた小笠原氏の庶流、赤沢氏の持分で、姥貝左衛門なる者にこれを守らせていたそうです。武田氏侵攻の際に左衛門は出丸?を堅固に守ってこれによく抗していましたが、最終的には落去し武田氏は当城を破却したそうです。

お城の現況は耕作地としての改変、そして舗装林道が城域内を縫う様に貫通しているため旧態は大きく損なわれているようです。又、北側山側背後は配水池となりその施設が建っています。主郭はこの配水池南側の高まりなんですが、高まり自体は古墳を利用していてちょっとした物見台の趣きがあります。特に何にも無いかなと思ってたらお城に関する説明板が2枚立っていて、その1枚には「茶臼山城空堀跡」の表記が…覗き込むと確かに竪堀(約30mあったらしい。)が確認出来るのですが、写真にすると藪でよく判らん…又、実際に現地を訪ねてみて感じましたが、城域は竪堀の規模を考慮してみてももう少し西側と北側に大きいような…配水池北側背後は現在舗装路となっていますが、此処を堀切としてこれに付随する竪堀が東麓に建つ薬師堂付近まで落ちていたように考えられますがたぶん気のせいでしょう。

享保九年(西暦1724年)編纂の信府統記には「次ノ曲輪等ハ形崩レテ分明ナラズ」と記述がありますので、かなり早い時期に旧態は失われていたのでしょう。後に稲倉城へ移った赤沢氏の初期の要害、後に支城の一つとして利用があったものと思われます。

一体何処の茶臼山城なんだよ〜と嘆く方も多いかと思われますが、決して珍しくないとはいえ古墳の跡地系のお城となります。古墳としては情報が全く無く、謂わゆる十把一絡げ(どうでもよいですが、この言葉を聞くと10本の手羽先が頭に浮かぶ。)なんですが、お城も好き、古墳も好きて方は訪ねてみるのもよいでしょう。ただお城としても古墳としても何じゃこりゃレベルです…スーパーマニア向け。

2022年01月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
城の内居館(浅間御殿)[稲倉城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

城の内居館(浅間御殿)は稲倉城の南西約3.3km、標高約676mの山間部緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている湯々庵・枇杷の湯を目標に設定して下さい。浅間温泉内に建つ結構名の知れた日帰り温泉ですが、そこが正に居館の存した場所です。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。居館の存した浅間郷は普恩寺入道のリングネームを持つ鎌倉幕府第十三代執権にして信濃守護、北条基時の所領で、基時が此処に居する事は微塵も考えられない事から代官屋敷に相当するものであったと推測されています。又、該地とその周辺は慶長年間(西暦1596年〜1615年)に石川氏(石川数正の嫡男康長、三長とも。松本城普請の際に過酷な労役を強いた。又、康長は第二代松本藩主とされるけど、実質的には初代じゃないのかな。事情に詳しい方、御教授お願いします。)が別邸を置いた他、浅間御殿として藩主や藩内諸士の湯治場として機能していたらしく、少なくとも寛永年間(西暦1624年〜1645年)までは浅間茶屋と称してやはり藩主や藩内諸士の御用となっていました。

浅間温泉東方の山は御殿山と呼ばれる藩主の山で、一帯の竹林は石川氏時代から矢竹の産する場所として管理されていました。享保九年(西暦1724年)の松本藩の記録では浅間村の紋九郎と与五兵衛の二人が管理していた事が記されています。

居館の現況は温泉施設です。旧態を想像する以前に浅間温泉の一部としてしか頭に入ってこない…城の内居館としては湯々庵・枇杷の湯が該地となりますが、浅間御殿、浅間茶屋としてはもう少し東側(かつては御殿の湯と呼ばれる宿泊施設が営業していた。)に広かったようです。

天慶二年(西暦939年)、豪族犬飼氏によって開湯し古くから湯治場として知られた浅間温泉、江戸時代には善光寺街道に接する宿場でもあり、太平洋戦争時には特攻隊員の待機所が置かれていました。温泉好きのみならず、皆様も歴史深い浅間温泉を是非訪ねてみて下さいまし。居館とか御殿とかはもうどうでもよいです。

2021年03月08日 RED副将軍【新宮党】
稲倉城



小笠原氏の一族であった赤沢氏の居城。

オススメ度 ★★★★⭐︎

標高約1,000m、比高約230m。
途中から主郭を目指して直登をしましたが、駐車スペースから約30分くらいの登山でしょうか。
ただ、切岸の鋭さはかなりの斜度なので直登はオススメしません。遠回りでも谷底道を進みながら高度を上げてから主郭にトラバースするのが正解みたいです。
帰りは三の郭から降りました。
松本市と言えば、国宝松本城のほかにも小笠原氏の本拠地であり桐原城、林城、山家城、埴原城と魅力的な山城が豊富。
以前に山家城と埴原城は登城済なので、今回は桐原城と林大城、林小城を訪問。時間に余裕があったのでこの稲倉城にも登城をしてきました。
ついでの登城とは裏腹に素晴らしい遺構に吃驚!
大規模な岩盤掘削の一の堀切、土の造形が見事に残る二の堀切、三の堀切と、尾根筋をザクザク削ってます。
知名度は低いですが、信濃の代表する山城としてオススメをします。
①一の堀切
②二の堀切
③二の堀切を堀底より
④本郭背後の物見
⑤二の郭
⑥二の郭の物見台
⑦三の堀切
⑧三の曲輪

2020年12月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
猿ごや[稲倉城  周辺城郭]



猿ごやは稲倉城の北東約2.0km、北方へ延びる山塊尾根上、標高約1095mのピークの一つに主郭が存します。北麓の長野県道181号線からの比高は330m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北東麓の信州ゴールデンキャッスルという西洋風のお城を目標に設定して下さい。ちなみにこのお城の築城者は木下藤吉郎…養老乃瀧グループ創始者です。どうやら出身地らしいですね。話が脱線しましたが、このお城の裏手が庭園になってますので最南端まで行きましょう。すると正面、西方へ延びる尾根にぶつかりますのでこれが登城路となります。獣柵ゲートを開けてひたすら尾根筋を登れば城域に入る事が出来ます。

信濃では猿と鬼が名称に付くお城は難城と考えて頂いて構いません。自分はめぐら〜として覚醒する前に真田町の鬼ヶ城に行った事がありますが、これがそもそもお城なのかも判らんし、あまりの軽装にクライマーの方に爆笑されるという屈辱を味わいましたw純粋にお城を楽しむというめぐら〜にとって費用対効果が極めて低い上に危険も伴うという行為は決して勧められるものではありません。ただこの猿ごやはお城として遺構がしっかりしてる上に比較的安心(迷わない。)して行けるので、体力に自信のある方は是非訪ねてみて下さいまし。

登城路?は急登です。比高もあるので早めに登山トランス状態に自分を追い込みましょう。何も考えず上を見ないで足元だけを見て前へ進みましょう。幸い尾根を登り切れば城域に入り、此処からのアップダウンは堀切ぐらいですので頑張るのみです。落葉と雪のおかげで手を着きまくりましたがお宝が待っていてくれました。

お城は素晴らしいっす。南北に比較的長く痩せ尾根に築かれており、郭間の輪郭がはっきりしていて感動します。堀切竪堀は切れまくりだし主郭(岩盤だ…)のバベルの塔の様な存在感も素晴らしい!此処にはびっくりする事に崩れてますが小さな祠があるので祈っておきましょう。自分は無神論者ですが山には神様が居ることを時々実感します。ちなみに自分が祈った後に雪が本降りになりました…ただ主郭に上がるにはちょっとした勇気(危険です。)が必要です。

そういえば城域を縦断するように雪の上に獣の足跡が付いてました。熊さんじゃないと思うけどそういう場所なので装備は万全に…人を寄せ付けない場所にお宝ありっすね!

2020年12月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
掻揚城[稲倉城  周辺城郭]



掻揚城は稲倉城の北東約2.9km、標高1629.3mの戸谷峰から北東へ延びる標高約900mの山塊支尾根上端部の一つに主郭が存します。北麓の長野県道181号線からの比高は130m位でしょか。何だか美味しそうな名称ですが、掻き揚げ城とは「おろそかに構えたる城」を意味するらしく、お城に行っても特にさくさくした食感を味わえる訳ではありません。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。主郭からは北東へ向けて尾根(途中から段郭が続く。)が延びていますのでこれに取り付き、後は頑張って直登して下さいまし。適当な説明で申し訳ないですが、何ていうか目標となる物が無くてwただ獣柵があるので東麓にある沢脇の道を150m程進み、獣柵ゲートを開けて東側から巻いて尾根に取り付いた方が楽だと思います。

築城年代、築城者は不明ですが、お城の北麓には保福寺峠道(律令制の東山道)が東西に走り、これを監視する目的で築かれた事は明白です。旧四賀村と青木村を結ぶ峠道で、小笠原氏の信濃守護時代には直接支配領域の北東端に当たり、天正壬午の乱の際には小笠原氏と真田氏との境目となりました。江戸時代になると中山道が開通され保福寺峠道は北国西脇往還の地位に転落しますが松本藩主はこれを通って参勤交代しており、付近にある「殿野入」の地名はたぶんその名残りなんでしょか。ちなみに保福寺峠は地理上の分水嶺の一つでもあります。

お城は砦規模の縄張です。主郭は石積み付きの土塁が目立ち、主郭周りには崩落石が多数散見されることから往時は盛り盛りだったかもしれません。結構な数の段郭が付いてますがほぼ単郭で、連続堀切+竪堀で主郭南側山側背後を遮断しています。堀切は埋まり気味ですが、素晴らしいのは4条ある竪堀の3条でして、その内の2条は東麓付近まで並走して延びる長大なものでした。

何となく林大城の支城、水番城を思い出しましたが、全体的にはそれよりも随分と甘い感じ…施工主は小笠原氏だと推測されるので小笠原マニアは是非訪ねてみて下さいまし。

2020年12月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
三才山砦[稲倉城  周辺城郭]



三才山(みさやま)砦は稲倉城の南東約1.9km、標高1629.3mの戸谷峰から西方へ延びる山塊尾根上、標高約1110mのピークの一つに主郭が存します。西麓の国道254号線からの比高は310m位でしょか。

築城年代は不明ですが、砦は小笠原氏の庶流、浅間赤沢氏によって築かれたと推測され、砦は付近にある上田と松本を最短距離で結ぶ三才山峠道の通行を監視する任を担っていたようです。が、現在は道自体が放棄されており、その役割を国道254号線に譲っています。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東麓の三才山小日向公民館を目標に設定して下さい。公民館裏手から南方へ向かって林道?が延びてますので終点まで行きましょう。二つの山塊尾根に挟まれた鞍部(寺社跡の趣きっす。)に到着しますが、尾根のどちら側からでも山側を目指せば砦に辿り着きます。が、帰りに痛い目にあった経験から向かって左手の尾根を選択しましょう。此処から麓付近まで落ちる竪堀様地形(信濃のお城の神が書いた縄張図にはちゃんとある。自分も遺構だと素直に感じました。)に沿って直登して砦のある尾根稜線上に出るのがベストだと思います。

さらっと書きましたが、鞍部から斜度40°〜45°の比高約150m分を尾根稜線上まで登らなくてはなりません(砦へは此処から更に登る…)ソロだったら帰るところですが、今回は遠州の物好きめぐら〜さんが一緒でよかった!息も絶え絶え、明日筋肉痛必至のリア攻めでした。

砦は薄いかなぁと思ってたら意外にもしっかり遺構が残ってました。主郭には廃城後に秋葉社が存していたらしく、祭礼時には集落の子供達が皆此処まで登って行ったらしいです。今やったらたぶん虐待の類いに入ると思いますね。主郭はほぼ全周土塁囲み、虎口も確認出来ます。主郭の周囲には帯郭が付き、横堀らしきものも…そして主郭から派生する各尾根には浅くはなってはいますが堀切+竪堀なんかを見る事が出来ます。

ネットでもあまり情報の無い砦ですが、登城が面倒、体力的に持ってかれるのが敬遠されている最大の理由でしょう。自分も「二回目は無いや…」て感じですかねwリア攻めを終えた今、個人的には所謂難城に分類されています。体力が有り余っている方は訪ねてみるのもよいかもしれません。

2020年01月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
荒神尾城[稲倉城  周辺城郭]



荒神尾城は稲倉城の北西約1.6km、北方へ延びる山塊尾根上、標高約956mのピークの一つに主郭が存します。北麓の長野県道181号線からの比高は250m位でしょか。

築城年代、築城者は不明ですが、城主として小笠原氏随一の大身だったとされる太田長門守資忠の名が伝わっています。

行き方はGoogleマップにも位置登録されている北麓の錦部郵便局を目標に設定して下さい。此処からの道は説明すんのが面倒だし困難、誰も行かないと思うので省略…

主郭から北東へ延びる尾根に取り付くのが最も楽だと思うんですが、自分は尾根筋に出る事を考えず、間伐用作業路等に惑わされて奥へ奥へと進んでしまい結果として城域南端を過ぎてしまいました。なんていうかセンスが無いのよ…駄目なところですね。おまけに謎も増えまして、そこから更に南方へ進んだことにより、郭と思しき縄張図に無い結構広めの削平地と堀切を見つけて困惑、此処から更に頑張って少しだけ登ると、ぱっと開けた尾根上の峠道にぶつかりました。たぶんこれ稲倉峠と刈谷原峠を結ぶ遊歩道だと思います。これを使えば鷹巣根城、稲倉城に搦め手から行ける気がしますが、往時もそうだったのかしらん。暫くこの辺りをうろうろしていましたが、遺構らしきものが見当たらない。諦めて北方へ向かい尾根を下って帰ろうとしたら、ようやく縄張図にある堀切を見付ける事が出来ました。冬場の貴重な時間を無駄にしましたね〜

お城は尾根上に基本Y字に築かれていて格好よいです。主郭を中心に北西尾根を連続堀切でぶった斬り、北東尾根は段郭を連ねる感じで、段郭の途中には1条の堀切を介していたりもします。主郭南側の郭のこんもり感とマッシブな堀切+竪堀も見所です。素晴らしいのは北西尾根から見る北東尾根でして、削平もしっかり残りエッジの立った段郭が主郭も含めて4段見える様は初めて見る光景でした。

荒神尾城は保福寺街道を抑え、小笠原氏支配領域の北辺端を守る重要なお城だったと思います。武田勢は2日でこのお城を陥落させたそうで、城主の太田弥助資忠は捕らえられ斬首されました。ちなみに太田資忠はあの太田道灌の一族らしいので段郭ファンは勿論の事、道灌ファンも是非訪ねてみて下さいまし。近くにある洞光寺には太田資忠とその弟のものと伝わる五輪石塔があったりします。

2020年01月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
伊深城[稲倉城  周辺城郭]



伊深城は稲倉城の西南約2.4km、標高916mの山塊山頂に主郭が存します。東麓の慶弘寺公園からの比高は150m位でしょか。武田氏の府中侵攻の際に自落し、武田氏家臣、小宮山織部が城代となったと伝えられています。

築城年代、築城者は不明ですが、在地土豪である伊深氏、後庁氏の持分であったようです。後庁氏は後に洗馬の三村氏(武居城城主、妙義山城城主)から後嗣を迎えています。

お城のある岡田伊深の地は源義光の五男、岡田冠者こと源親義所縁の地で、親義は木曽義仲に従い倶利伽羅峠の戦いで平清盛の七男、平知度と組討して討死しています。お城の東麓にある慶弘寺跡には「伝・岡田冠者親義の墓」があります。

行き方はGoogleマップに位置登録されている慶弘寺公園、もしくは若宮八幡社を目標に設定して下さい。何れからも登城路が付いています。ただ二つの道は城域に入った辺りで合流するので「結局同じじゃん!」とか突っ込みたくなりますが、無駄無くスマートに帰るためにも慶弘寺跡側から登城しましょう。比高もそんなにないので楽に感じると思います。

お城は素晴らしいです。主郭は土塁付きで切岸には石積みが確認出来ます。主郭北側背後の尾根は5条の連続堀切でぶった斬り、その内の1条はデカくて笑っちゃう二重堀切となっています。二重堀切には竪堀が付いていますが、面白いのは主郭北西側からこの竪堀に斜めに合流する竪堀が1条ありまして、この竪堀は主郭西側腰郭から二重堀切底部に下りるのを今でも阻害していて腹立ちます。又、主郭部から南西側尾根を進むと連続堀切があり、そのどちらにも竪堀が付いています。この竪堀は途中で合流した上で更に別の二本の竪堀が合流して壮大な集合竪堀を形成、凄いです。

帰り道は…そう!城域北端まで見たら主郭に戻り南西側尾根を進み、堀切から東南側斜面に落ちるこの竪堀を下って帰って下さいまし。竪堀は麓付近まで延びていて、丁度若宮八幡社の裏手辺りに辿り着くことが出来るんです。なんてスマートなリア攻め!しかも車捨てたのは若宮八幡社の駐車場、我ながら完璧すぎる…自分が恐いです。

このお城も小笠原ブランド?の築城技術の高さををばっちり堪能させてくれること間違い無しです。稲倉城に来る事がありましたら是非訪ねてみて下さいまし。

2020年01月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
早落城[稲倉城  周辺城郭]



早落城は稲倉城の南西約2.5km、北方へ延びる山塊尾根上、標高778mのピークの一つに主郭が存します。北麓からの比高は70m位でしょか。お城の西麓には女鳥羽川が南北に流れています。

身も蓋もない名前ですが、競走馬で言ったら落馬号みたいなもんでしょか。元の名称は流石に違いまして洞城と称します。築城年代は不明ですが、築城者は小笠原氏の庶流、稲倉城主の浅間赤沢氏でその持分でした。ところが主家の小笠原氏に取り上げられて伊深城主の後庁氏の領するところとなりました。後に武田氏が府中に勢力を伸張させると浅間赤沢氏は武田氏に従属、その際に洞城は真っ先に標的となり、あっと言う間に落城したことからこんな名称になっちゃいました。

お城はコンパクトというか、潔く南北にほぼ一直線、高低差も殆ど無くて名前に相応しいです。全然期待してなかったのですが、意外にも堀切で細かく刻まれていて7条は確認出来ます。又、竪堀を数条見ることが出来ますが、1条を除いて他は心眼が必要です。

登城はお城の北麓にある住吉神社から登りましょう。リア攻めもあっと言う間に終わります。とても潔いお城ですので、稲倉城に来る事がありましたら是非訪ねてみて下さいまし。

2020年01月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
稲倉城



稲倉城の行き方は、国道254号線の北側、稲倉集落内の稲倉峠口の道標がスタートとなります(国道には面していない。)。この峠道は新道と旧道がありまして、旧道の方は通れるかどうかも判りませんが新道は舗装路で四賀の方へ抜けることが出来ます。峠口の道標から少し進むと「稲倉城主御屋敷館跡」の案内板が立っています。井戸跡とかあるらしいのですが、何処にあるのか全く解らないので完全無視でOK♪少し進むと車も通れる獣柵ゲートがありますので車で行きましょう。途中には旧道への分岐がありますが、車は疎か人も行けない感じがしますのでこれも完全無視でOK♪結論から言うと「稲倉城入口」の案内板まで車で行けて駐車スペースもあります。この案内板からは左右に道が別れていますが、登城するには左へ進んだ方が良いです。右は結構な急坂なので帰りに使いましょう、左は比較的緩やかだと思います。途中には写真にあるような石積みとか散見されますが、後世の桑畑のものなので注意して下さいまし。道は途中で不鮮明となりますが、右手には尾根筋が見えているので迷うことは無いでしょう。

お城にはぴったり主郭に辿り着きます。城域は南北に伸びる山塊尾根上に造られていて、奥も深くありません。特筆すべきは通称ニノ郭でしょか、緩やかな段郭で構成されていて面積もあります。まるで天守台のような土壇もあったりして「実際の本郭はこっちなんじゃないの〜」とか呟いたりしますが、通称本郭の段郭が意味無くなるので案内板のとおりでしょう。

帰りは通称三ノ郭を通ってそのまま下って行きましょう。ロープが張ってありましたので直ぐに見付かるかと思いますが、道は悪いので慎重に…さもないと勢い付き過ぎて止まれなくなって枝を掴んで減速しようとした挙句、手の掌を怪我したりするかもしれません…

ちなみに稲倉城からは地図上主郭から北方へ尾根を進んでいけば荒神尾城、鷹巣根城に辿り着けると思うんですが、流石にやる気にはなれませんでした。

2015年11月11日 黒曜石
稲倉城

稲倉峠への林道、途中で獣避けゲートがあります。
ゲートを開けて車で進んでOKです。
山の動物が間違えて里に降りない様に、ゲートを開けたら閉めて下さい^^

2012年07月15日 北川幸人
稲倉城

登城道は、伐採された木、倒木など見誤りやすいので気をつけて。

2011年08月02日 赤いRVR甲斐守@松本
稲倉城

稲倉集落から稲倉峠への林道を進むと、右手に駐車場があります。そこから15分くらいで主郭です。斜面は少しきついですが。

稲倉城の周辺スポット情報

 説明看板(碑・説明板)

 早落城(周辺城郭)

 伊深城(周辺城郭)

 荒神尾城(周辺城郭)

 三才山砦(周辺城郭)

 掻揚城(周辺城郭)

 猿ごや(周辺城郭)

 横屋入城(周辺城郭)

 城の内居館(浅間御殿)(周辺城郭)

 茶臼山城(周辺城郭)

 赤沢氏館(周辺城郭)

 岡田堀の内館(岡田親義館)(周辺城郭)

 妙義山狼煙台(鐘平)(周辺城郭)

 伊深館(周辺城郭)

 三才山御屋敷館(周辺城郭)

 稲倉御屋敷館(周辺城郭)

 横谷入城(周辺城郭)

 鷹巣根城(刈谷原城)(周辺城郭)

 御殿山・小笠原家廟所(寺社・史跡)

 岡田伊深一里塚跡(寺社・史跡)

 岡田宿本陣跡(寺社・史跡)

 保福寺(寺社・史跡)

 保福寺番所跡(寺社・史跡)

 公衆トイレ(トイレ)

 駐車スペース(駐車場)

 駐車スペース(駐車場)

 善光寺道(その他)

 善光寺道・保福寺道結節点(その他)

 保福寺道・稲倉峠(その他)

 保福寺道(その他)

 保福寺道(その他)

 保福寺道(その他)

 保福寺道(その他)

 保福寺道(その他)

 保福寺峠(その他)

 善光寺道(その他)

 善光寺道(その他)

 善光寺道(その他)

 善光寺道(その他)

 善光寺道(その他)

 善光寺道(その他)

 三才山峠(その他)

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