稲倉城(しなぐらじょう)

稲倉城の基本情報

通称・別名

所在地

長野県松本市稲倉1510

旧国名

信濃国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

赤沢氏

築城年

建武2年(1335)頃

主な改修者

主な城主

赤沢氏

廃城年

遺構

曲輪、帯曲輪、横堀(空堀)、物見台跡

指定文化財

市特別史跡(稲倉城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

平瀬城(長野県松本市)[4.8km]
桐原城(長野県松本市)[6.9km]
松本城(長野県松本市)[6.9km]
林城(長野県松本市)[7.9km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[8.1km]
井川城(長野県松本市)[8.8km]
山家城(長野県松本市)[9.4km]
埴原城(長野県松本市)[11.9km]
青柳城(長野県東筑摩郡)[15.4km]
小岩嶽城(長野県安曇野市)[16.9km]

稲倉城の口コミ情報

2026年03月21日 気分爽快弾正少弼
稲倉城



信濃の城をリア攻め制覇まであと僅か。今日は稲倉城に行ってみました。
口コミを参考に獣柵のゲートを通過し、駐車スペースまでは問題なく到着しました。
登城路は2ルートあるようなので、三の郭から、二の郭、本郭をまわるルートを選択したところ、最近視力が落ちたせいか路が全くわからない状況となり、仕方なく高所を目指して直登りしました。暫く登るとロープが張られた路に出たので、しっかり探せば直登りは必要なさそうです。
降りは本郭脇からのルートを利用しましたが、こちらも路がサッパリ分からず、リア攻めマップに助けられた個人的には大変なリア攻め城でした。

①三の郭下にある二重堀切
②二重堀切越しに見上げた三の郭。かなり急斜面で鎖有り
③三の郭と二の郭との間にある三の空堀。落葉でかなり埋もれていた
④二の郭
⑤二の郭と本郭の間にある二の空堀。大きい
⑥これも二の空堀
⑦本郭先の一の空堀
⑧本郭側のルートは石積みの右を登るらしい

2026年03月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
御殿山 小笠原家廟所[稲倉城  寺社・史跡]



さて、信濃の中世や戦国時代を調べていると避けて通れないのが小笠原氏の事跡だ。室町時代には信濃守護職をほぼ世襲していたんだから当たり前なんだけど、意外にも守護としての威令が信濃国全土に及んだのはごく僅かな期間でしかない。戦国時代には武田氏によって国を逐われ諸国を流浪した小笠原大膳大夫長時が知られていると思うんだけど、武田氏の滅亡後、信長の横死後に府中を回復して安曇郡や筑摩郡に再び勢力を扶植させた小笠原右近大夫貞慶(長時の子である。)とその子、秀政の事跡も同時代における奇跡の一つとして忘れてはならない。近世大名への発展すら遂げた両名の手腕には公正な評価が更に必要だろう。

御殿山 小笠原家廟所は稲倉城の南南西約3.2km、女鳥羽川東岸(左岸)、標高約887mの御殿山の南西側斜面上平場に立地する廟所です。簡単に言えば有名な浅間温泉の外れにある。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、廟所周辺の道路は狭隘であり、進入は付近住民とのトラブルを招く恐れがあるので車での接近は諦めよう。同じく位置登録がある「御射神社春宮」前の路肩に車を捨てて残りの道程は徒歩で進んだ方がよい。ちなみに廟所は御殿山が段丘台地上から立ち上がる所に立地しており実質的には登る必要が無い。

廟所の説明が面倒なんで現地説明板に書かれている内容をフルコピろう。

「松本城の基礎を築いた初代小笠原家の城主小笠原貞慶と秀政、忠脩父子を祀った廟所であり、特に忠脩の遺骨が埋葬されている。五輪塔は向かって右から秀政、貞慶、忠脩で、秀政は臨済寺殿、貞慶は大隆寺殿、忠脩は法性寺殿とそれぞれ埋葬された寺名に関係深い戒名がつけられている なお、現在の五輪塔は貞享二年(一六五八)松本城主水野忠直によって、建立された。また、当時の御霊屋は天保十二年に焼失したままで、石垣を残すのみである。」

…説明板には「秀政は臨済寺殿、貞慶は大隆寺殿、忠脩は法性寺殿とそれぞれ埋葬された寺名に関係深い戒名がつけられている」てあるんだけど、関係深いどころかもろにそのまんまなのには草…

廟所ではあるが五輪塔の地下に埋葬されているのは、慶長二十年(西暦1615年)五月七日、「大坂夏の陣」において討死した忠脩のみである。同名は松本城の留守を預かっていたが血の気が多かったのか我慢出来ずに無断で参陣、実父の秀政に従って「天王寺、岡山の戦い」に臨んだが父子共々討死、二十二歳の若さであった。ちなみに生母は松平信康の長女、登久姫であり、悲劇のプリンスの血を引いている。

忠脩の実父、秀政は、「天王寺、岡山の戦い」において瀕死の傷を負い間も無くして絶命、その際に家康に対して語った最期の言葉は、「信濃は…」だったそうだけど続きは不明、「信濃は…良い所です…」だったとしたら草…

秀政の実父、貞慶は…好きじゃないんでパスしとく。ちなみに執念深いなかなかのアサシンだ。

廟所の方は、天保十二年(西暦1841年)に焼失してしまったそうだから現況は墓所に等しい状態、誰も気付かないような場所に3基の五輪塔がひっそりと佇んでいる。残された石垣は大変立派なものだが全体的には寂れた感じだ。

おいらは小笠原氏の事があんまし好きじゃないんだけど、近世大名として明治維新まで存続しえたのは、上記三名の手腕と忠節によるものが大きいて考えている。江戸時代には何度か改易の危機に瀕してもいるんだけど、その度に話題にされてきたのは、前述した「祖父の勲功」であった。

信濃守護職の家格を貞慶等は常に意識していた節があり、信長の横死後における上杉氏の川中島進出に対しては「押領」とまで断じている。室町時代を通じても小笠原氏が同地を直接差配する事は一度たりとて無かった(半国守護の一時期には越後守護が兼任する所であった。)筈だが、当時の貞慶の認識が時代にそぐわないものであった事は言うまでもない。

天正十三年(西暦1585年)十一月十三日、石川数正の突然の出奔を決起として豊臣氏に臣従する。この際に数正の妻子と共に証人として連れ出されたのが嫡男の貞政(秀政)であるが、数正の出奔は貞慶と相談の上の話であろう。当時の情勢から徳川氏に従う事への限界を見出したのかもしれない。後世、この離反を数正に証人を奪われたが故として責任転嫁を図ってもいるが、後の行動を鑑みればどう考えても無理があり過ぎる。

※大隆寺・法性寺跡にほぼ隣接している。前者は貞慶、後者は忠脩が創建した。廟所は元は寺地の内にあったのかもしれない。

※信濃守護〜室町幕府の役職であり、朝廷の官位である従五位下、信濃守とは性格を事にしている。室町時代以前における信濃国と小笠原氏との繋がりは知行地を除けば断続的でしかない。

2026年03月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
小宮山氏館[稲倉城  周辺城郭]



小宮山氏館は稲倉城の南西約2.0km、女鳥羽川西岸(右岸)、標高約722mの段丘台地上平場に立地した居館です。簡単に言えば、同じ稲倉城のリア攻めマップにある伊深城の東麓に当たり、居館地は武田氏時代の同城城代のものと伝わっている。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「ひすい工房 翡観来」を目標に設定して下さい。この工房の北東側の一般住宅の脇に現地説明板が立っており、車は隣接する伊深公民館の駐車場に捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小宮山織部丞です。同名は武田氏時代の一時期、伊深城の城代に補せられて該地に居したと伝わる。城代であった以上は武田氏譜代衆の一氏、小宮山氏の一人とも言えそうだが、織部丞を名乗る適当な人物が見当たらない。

現地説明板によれば、「天文二十年(一五五一)伊深に小宮山織部丞が武田信玄により城代として着任、居館を築き、元和年間(一六一五〜一六二四)まで居住した記録が残る。」とある。「居住した記録」が何なのかは判らないが、伊深城は安曇郡や筑摩郡の一円支配を終えた後に城代が置かれる必要も無い要害である事から、同氏が何故に在地し続けられたのかは不思議な事である。

居館の現況は…一般住宅とその敷地等となっているが、そもそもの話で居館敷地範囲が不明確であり、城郭遺構も完全消滅している事から探索する手掛かりさえ得られない。この辺り…としか言いようがないのが正直なところだ。居館地の東側には近世の善光寺街道が南北に通っており、伊深城山南麓の六助からは、山田を経て平瀬城城下を抜けて犀川河畔の下田へと至る山田道が東西に通っている。小宮山織部丞が伊深城城代に補せられた天文二十年は、平瀬城が武田勢によって落城させられた年にも当たっており、同名が城代であった時期は平瀬城への備えが必要であったごく僅かな期間に過ぎなかったと考える。

該地の松本市岡田伊深は、耕作地と一般住宅地が丘陵地上に共存する典型的な市中郊外だが、平安時代の一時期において、水内郡の後庁と共に信濃国経営の中心地となった所である。即ち、承和八年(西暦841年)、筑摩郡水汲(現在の松本市水汲、キッセイ文化ホールとその周辺一帯の地である。)にあった信濃国府が大地震に伴って発生した土石流によって埋没すると、国府の仮庁、後庁が「井深」の地を選んで設けられている。信濃国府の再建(惣社地積の存在から現在の松本市大村〜南浅間が推定地だ。)によって井深後庁の存続期間は約三十年であったが、同時代の岡田伊深が後庁の受け皿となるに足る程の開発が進んでいた事は想像に難くない。

居館地は近世の善光寺街道に近接していると前述したが、同様に女鳥羽川の右岸地域を北上していたのが律令制下における東山道だ。信濃国府を出た後に、岡田伊深から北行して前堂田井(古女鳥羽川)北岸(右岸)、堂田付近にあったと推定される同道の駅家、錦織駅へと至り、道筋は此処で二筋に分かれる。即ち、本道は稲倉峠を越えて七嵐へと抜け、支道は刈谷原峠を越えて刈谷原へと抜ける。支道の方はそのまま後の善光寺街道の経路ともなった。中世には、刈谷原には同じ稲倉城のリア攻めマップにある鷹巣根城が、稲倉にはアプリの登録城、稲倉城が、両道の中間点に当たる七嵐には同じ稲倉城のリア攻めマップにある荒神尾城が立地し、これ等、峠道やとば口を山中において直接扼していた。

近世の街道以前の古道を知る事は、中世城館の存在意義を理解する上で特に重要だと常々思っている。突拍子も無い場所に立地する、狼煙台や物見台、逃げ込み城等を除けば、交通の要衝を選んで築かれているものが実に多い。

おいらは山中の古道を歩くのが大好きだてどっかの口コミで書いた事があるんだけど別に山道が好きな訳じゃない。各地域を郡や郷村等、一つの面、行政単位として捉えた場合、最も手っ取り早く往時の姿形を想像出来る場所の多くがこれ等、古道に沿ってあるからだ。

江戸時代における一国一城令と殆どの藩で実行された蔵米知行制は必然的に一つの城下への集住を促したけど、中世には一族、被官衆であろうとも在所にある事が当たり前であり、小規模な城下が各地の各所に点在していた。おいらが目指しているのは単なる城廻りではなく、中世城館等を通じてその断片を探る事にあり、古道を歩く事によって、気付かなかった事、知らなかった事がフィールドワークを通じて身を以て体現出来たりする。変態道とは深化していく、終わりの見えない後戻りの出来ない一本道なのだ。

※撮影するのに積雪が要らなかったので念力で溶かしてみた。その写真が①、②、③っす。ちなみに写真①、背景に写る山稜が伊深城山だ。

※写真②は平衡感覚の限界に挑む撮って出しの説明板っす。

2026年03月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
伊深城[稲倉城  周辺城郭]



さて、自然界においても手入れが必要な時と場所があり、人が入らなくなったこれ等は次第に荒廃していくものだ。身近なところでは里山なんかが例に挙げられるだろう。一旦、手が離れるともはや個人の努力のみでは復活が難しい状態にまで追い込まれてしまう。山城の立地する低山はこうした影響を常に受け続けており、探索自体の成果も必然的にお山の現況に左右される。

伊深城(井深城)は稲倉城の西南西約2.2km、女鳥羽川西岸(右岸)、標高916mの伊深城山山頂部を中心に立地する要害です。南麓の国道254号からの比高は200m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城山東面中腹、同じく位置登録がある「慶弘寺公園」から登城路が付いており、数台が停められる駐車場も付いている。一般的だった、同じく位置登録がある「若宮八幡社」側からの登城路は、現在、倒木等で悲惨な状態、止めておいた方がよい。ちなみに縄張図を参照して長大な竪堀に沿って登る事も十分に可能であったが、こちらの方は惨劇に近い状態、折り重なる無数の倒木が眼前の急な斜面上に縦横無尽に広がっている。死ぬ程疲れるし、何より低雑木の枝が跳ね返って来て顔面を直撃して痛過ぎる。所々には刺々しい凶悪な奴も紛れているので素直に諦めよう。

築城年代は不明、築城者は平安時代の末期に筑摩郡岡田郷に拠った源親義、即ち、岡田冠者の後裔とも伝わる伊深氏が推測され、小笠原氏時代には後庁氏が城主に、武田氏時代の一時期には小宮山織部丞が伊深城の城代であったと伝わる。伊深氏、小宮山織部丞については深掘りが不可能、御庁氏については別の機会に譲りたい。

2回目の訪問、丁度6年ぶりになるのかな。その間に君は随分と変わってしまった…あんなに優しかったのに今じゃ訪ねる者の全てを傷つけまくっちょる…たぶん悪い虫が付いたんだろうな、そう、あの忌まわしい松くい虫て奴だ。あんなに美しかった堀切や竪堀が倒木等で埋め尽くされ、素敵な遺構が全て台無しになっちょる…

…でもおいらは諦めない。何故なら君がどれだけ素晴らしい存在なのかを知っているからだ。時間が掛かっても構わない。振り向いてくれるまでとことん付き合おう。探索時間はまさかの4時間30分強、兎に角、尾根筋の移動が高強度のアスレチック(洒落にならんレベル…倒木上を綱渡りしてたら滑って踏み外してしまい股間をダイレクトヒット…未だにこんな目に遭う子孫の姿に御先祖様は泣いている筈…)と化してしまい、コンパクトな縄張にも拘らず想像以上の時間を要してしまった。

縄張は山頂部に3つの郭と腰郭、山頂から三方へ派生する山尾根上に堀系を穿ち、大手筋には縄張図における通称4郭から始まる雛壇状の小郭群を設けている。主郭は段付きの卵形、北側の半孤を描く土塁が良く残り、西側下段の腰郭へも通じる横入りの坂虎口も確認出来る。見所は主郭北側山側背後の中土塁を挟んだ三重堀切、山頂からの南西尾根を断ち切る連続堀切であろう。特に後者の延長部分に当たる連続竪堀は南東へ長大、山頂からの東尾根に設けられた堀切から落とし込まれる別の連続竪堀と斜面中で合流し1条の竪堀へと集約される様は圧巻だ。又、面白いのは主郭の切岸に付く1条の竪堀、腰郭を経て山頂からの北尾根へと通じる部分だが、今なお横移動を立派に阻害してくれるので腹が立つ。

縄張の説明を読んで、「いいじゃないの、こり。」とか思った方も多いと思うんだけど、文中で書いたとおり現在は肝心の見所部分が全く鑑賞に耐えない。6年前は倒木も殆ど無く、低雑木の群生も全然気にならなかったのにねぇ…今回の再訪の目的は、新しいコンデジ君のテストを兼ねて伊深城の魅力を写真に納める事だったんだけど、年月を重ねたその姿は少々残酷だった。そりでもおいらは必死に頑張ったさ。少しでも良い所を探し出そうと城域内外をこりでもかとアスレチックさしてもらった。顔に傷を受けたし、耳の中に小枝が突き刺さる謎現象も味わった。されど後悔の念は微塵も無い。おいらはこのお城が大好きなのだ。

※鉢巻石積みも残る主郭部だけはすっきりとしている。

※城山の北側隣峰から落とし込まれる凄まじい竪堀様地形を発見した。一応木落としのアレと推測するが保留としておこう。

※築城者は伊深氏〜城山東面中腹にかつて存在した慶弘寺は、隣接する浅間郷に拠った赤沢氏の開基と伝わっている。ちなみに応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」の際には、守護方として参陣した者の内に「井深勘解由」の名が見られる。

※小宮山織部丞〜今回、偶然にも居館地と伝わる場所を発見した。嬉しい事にしっかりとした説明板が立っている。同じ稲倉城のリア攻めマップにスポット登録しておいた。

2026年01月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
稲倉城



さて、今回の口コミは推し城を評判するためだけの完全なるピュアコミ…そう、愛が溢れまくっちょるのだ。以前から口コミしたくてしょうがなかったんだけど、変な物件ばかりを優先してしまい完全に時期を失してしまっていた。山城の季節だし敢えて再訪して一念発起、皆さんの今冬に行きたいお城リストのトップに載る事を切に願って頑張ってみた。

稲倉城は女鳥羽川北岸(右岸)、標高1018mの山稜山頂から南東へ伸びる尾根中段上、標高約992mの緩斜面上平場を中心に立地する要害です。南麓の国道254号からの比高は235m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城地の南西直下まで車両通行が可能な松本市道1202号線が伸びており、登城路の入口手前に車も捨てられる。取り付きから道がいきなり二手に分かれるが、過去の経験からすれば苦労度はどっちもどっちだ。左手の方は最後の登りの道筋がはっきりと見えないので少々判り難いかもしれない。ちなみに徒歩で登る比高は130m位となる。

該地の稲倉は稲倉峠道のとば口に当たり、稲倉城の立地は同道と南麓を東西に通る三才山峠道を直接扼するものである。特に前者は律令制下における東山道の推定経路の一つ、旧道の方は失われているが前述した市道が今も稲倉峠を越える。

築城年代は不明、築城者は赤沢氏です。同氏の詳細については別の口コミで書き倒すつもりなので此処では語らない。難解だしはっきりと出来ない部分も多いが非常に面白い氏族だ。一族等の活躍は信濃だけに留まらない。

国道から見上げれば相当に急峻なお山だと誰もが感じる筈だ。基本的に岩山、実際にも両側は急崖に近い。今回のリア攻めでは往時の登路を登るつもりだったが、道筋は初っ端から失われており不安しか感じなかったので止める事にした。

何だかんだで5回目の訪問になるのかな。おいらはこのお城が心の底から大好きなのだ。アプリの登録城なんで多くを語るつもりは無いんだけど、登城路入口に設置された「稲倉城址遊歩道図」の簡易な俯瞰図が全てを物語っている。経年劣化は致し方ないとはいえ、この図のとおりの城郭遺構が全て確認出来るのだ。冬場になれば各ポイントから少なくとも城域の半分をそれぞれに見通す事も十分に可能、山中に造成されたダイナミックな人工の跡、要害の形状が手に取る様に判る筈だ。

但し、問題提起もしなくちゃならない。このお城、基本的に3つのパートに縄張が分割されているんだけど、主郭の位置がどうにも違うような気がする…先の俯瞰図における通称二の郭こそが真の主郭なんじゃないかな…お城の現況は素晴らしいとはいえ、3つのパートは連携等が不十分であり、ともすればそれぞれが独立している雰囲気すら感じられる。縄張の中心、主郭部は通称二の郭を最高所とする中央のパートだと思うんだけど…通称二の郭の腰郭から落とし込まれる竪土塁が端部を除けば主郭の平坦面よりやや高い事も気になっている。

信濃の山城はどうしても敬遠されがちなんだけど、幸いにもアプリの登録城であり続けている事だし、多くの方に足を運んで頂きたいなて常々思っている。バベルの塔(未見)やア・バオア・クー(未見)を想起させる通称三の郭の佇まいに打ち震えよう。あの素晴らしき小県郡の宝物、和田城が味わったような城郭変更だけはどうか勘弁してくらさい…

※ニホンカモシカに会いたくなったら此処に来よう。おいらは相当な高確率で遭遇する。

※登城路はいきなり二手〜左手を選ぶと尾根間鞍部を登る事になるが、所々で見られる段郭様地形と土留めの石積みは明治時代以降の桑畑のもの(信濃あるあるっす。)なので留意が必要だ。

※3つのパート〜セオリーを無視した不思議な縄張でもある。通称3郭を中心とするパートは早々に孤立してしまうような気がする(元々の高低差と二重堀切に遮られて主郭部へ退く事が難しくないかい?)…

2026年01月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
伝 岡田冠者親義の墓[稲倉城  寺社・史跡]



⭐︎⭐︎「義仲・巴の〜伝承、伝説地探訪!」⭐︎⭐︎

帰って来たかずりの自己満足口コミシリーズ、おいらの推し武将である木曽義仲関連の伝承、伝説地を丁寧に御紹介〜ちなみに全国約600箇所に及ぶので終わるまで付き合ってもらいやす…

伝 岡田冠者親義の墓は稲倉城の西南西約1.9km、女鳥羽川西岸(右岸)、標高約769mの丘陵地緩斜面上平場に立地する墓所です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。墓所は同じく位置登録がある「慶弘寺公園」内の北西隅にあり、公園内まで車が入り駐車場も付いている。ちなみに同公園は、同じ稲倉城のリア攻めマップにある伊深城への登城路入口の一つにも当たっているが、現在の道が数年前と比べて相当に荒れてしまっている。

該地の松本市岡田伊深は、耕作地と一般住宅地が丘陵地上に共存する典型的な市中郊外だが、平安時代の一時期において、水内郡の後庁と共に信濃国経営の中心地となった所である。即ち、承和八年(西暦841年)、筑摩郡水汲にあった信濃国府が大地震に伴って発生した土石流によって埋没すると、国府の仮庁、後庁が「井深」の地を選んで設けられている。

源親義は、源氏の名門、清和天皇の六男、貞純親王を祖とし、祖父は源頼義、父は新羅三郎義光、その五男に当たる人物だ。保元元年(西暦1156年)、左衛門尉に任官していた同名は、平野神社領であった筑摩郡岡田郷の浅間神社領の荘官として下向、後に岡田冠者を名乗っている。

治承四年(西暦1180年)、以仁王の令旨によって指名を受けて木曽義仲に従い、会田、麻績で戦い、治承五年(西暦1181年)六月の「横田河原の戦い」に参陣するが、寿永二年(西暦1183年)六月二日、越中国の砺波山で繰り広げられた「倶利伽羅峠の戦い」において、平清盛の七男、平知度と組打ちして討死した。

詳細は「源平盛衰記」に詳しいんだけど、所詮は軍記物だ。原文を書き連ねる訳にもいかないんで、現地説明板に書かれた「岡田一族の活躍」を紹介しよう。

・明け方、平家方の豪華な鎧を着けた、容姿優美な二人の武将 大将軍 平知度(清盛の末子)と右兵衛佐為盛が現れる。

・それを見た木曽義仲、「今度の大将軍であるとみた、逃すな者共!」と、取り囲む。

・岡田冠者親親は平知度(清盛の末子)と一騎打ち、戦死。

・岡田太郎重義が知度を討とうと、戦いを挑む。

・知度の騎兵20余騎が知度を討たせないよう加勢。

・親義の郎党30余騎が重義を助けようと加勢。大激戦

・源平両軍多くの兵が討たれる。知度は逃れられず自害。

・岡田小次郎久義が右兵衛佐為盛と組み合っているところを、樋口兼光が為盛を討つ。

以上…

はっきり言ってわちゃわちゃしちゃった訳だけど、義仲勢が知度と為盛を討ち取った事には変わりがない。肝心の親義は知度と組打ちして討死しているんだけど、父である義光の没年を鑑みれば、還暦に近いお年頃だったて思われるんでしょうがないんだろう。脳筋の義仲様だったら平家のプリンスぐらいなら一撃喰らわせて終わらせたろうにのぅ…

墓所の現況は…墓塔じゃなくて石祠になっているんだけど、この祠、昭和四年(西暦1929年)、慶弘寺境内のカヤの古木の下から、頭蓋骨と刀二振り、宋銭多数と共に掘り起こされたそうで、祠には「元暦霊神」と刻まれている事から、岡田冠者親義の墓だと云われているんだそう。時代的には平行する宋銭の出土が気になるところなんだけど、敢えて細かい事は気にしないようにしよう。

墓所の南南西約2.3kmに位置する岡田神社は、「延喜式」に載る、信濃国式内社、三社の内の一社、その創建は白雉五年(西暦654年)にまで遡る。社地東側、表参道南側の一角は、岡田冠者親義の居館地と推測されており、「岡田堀の内遺跡」として説明板が立っている。再訪したら口コミする事にしよう。

※慶弘寺〜筑摩郡浅間郷を知行地とした赤沢氏の開基とも伝わる。明治維新期に松本藩領内に吹き荒れた廃仏毀釈によって廃寺に。

※岡田太郎重義〜岡田冠者親義の子である。

2026年01月19日 尼崎城志摩守一口城主
稲倉城



1/11、信州の武道家さんと雪景色の山城攻めに挑戦❄️熊出没注意🐻⚠️のフェンス(写真①)を開閉し出陣😅
雪景色の中、登山口(写真②)に到着し案内板(写真③)を確認すると、左から本郭を目指すルートと右から三の郭を経由して本郭を目指すルートが示されており当日は左からのルートで進軍⛰️
左からのルート図からは序盤は舗装された道と並行に進み途中で右に折れるようになっていましたが右折ポイントを誤ったようで(行き過ぎて💦)道中、岩場🪨(写真④)を恐る恐る通過🥶アプリの城郭マーク🏯を確認すると本郭と別尾根を登っていたことに気付き一旦尾根を下り谷から本郭方面を見上げてみました(写真⑤)本郭登頂にチャレンジしても良い時刻だったかも知れませんが当日は安全第一で下山。下山時、登り始め早々に間違えたかもと引き返した石積み間のルート(写真⑥)と合流❗️最初に登ろうとした道が合っていたようです😅攻め手を容易に本郭に近づけまいとする迷路のような登り甲斐のある山城だったのでまたいつの日か再チャレンジして本郭に辿り着くという目標が出来たと思っておきます。
スタート地点に戻る際、説明板右から三の郭経由ルートの方にロープが張られていたのが見えたので三の郭経由ルートで登る方が推奨ルートなのかもしれません🤔
帰路は往路に通り過ぎた稲倉峠口の道標(写真⑦)や道祖神(写真⑧)を眺めてきました📷説明板より稲倉城は峠の往来を押さえる目的もあり築かれた山城だったのかもしれません🏔️

2026年01月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
三才山砦(秋葉様)[稲倉城  周辺城郭]



三才山砦(秋葉様)は稲倉城の東南東約1.9km、女鳥羽川北岸(右岸)、標高1110mの山稜山頂部を中心に立地する砦です。西麓の小日向公民館からの比高は310m位でしょか。

該地の松本市三才山は交通の要衝であった。小県郡と筑摩郡とを山塊山中で結ぶ三才山峠道の筑摩郡側の関門の地であり、三才山砦はそのとば口を直接扼している。古代には東山道の脇道、中世には鎌倉道の一つ、近世には参勤交代する松本藩が頻繁に利用した。同道は、江戸時代の中期頃には武石峠道、保福寺峠道等にその役割を譲って次第に廃れていったらしいが、峠自体の標高が約1505m、難所が多かったのがその理由であろう。

行き方は…前述した、Googleマップに位置登録されている「三才山 小日向公民館」を目標に設定して下さい。この公民館に車を捨てたら、付近の小日向バス停から南東へ伸びる舗装林道を登り詰めて尾根間鞍部を目指す。林道の終点から獣柵ゲートを開けて暫く進んだら、左手に立ちはだかる山尾根の急な斜面を無理矢理にでも登ろう。尾根稜線上に出たら東方を目指して更に登れば辿り着く。ちなみにバス停付近には説明板が立ち、石柱も建っているが、案内表記が示す登城路は完全に消失しているのでそのとおりに登るのは止めておこう。

…実は一度口コミしている物件なんだけど、位置に微妙な誤りがあったんで削除してしまった。その中でおいらは二度と行かねぇ宣言をしているんだけど、その理由は尾根稜線上に上がるまでが死ぬ程辛いから…取り付く場所によって差があるとはいえ、比高120m位のただのお山の斜面を一気に直登する。忖度無し、盛り無しで角度は40°〜45°、足元は松の枯葉の堆積した栄養満点の腐葉土となっており、歩みを進めればいとも簡単に崩れていく。支点に出来る雑木も殆ど無く、作業用手袋を装着して文字通り地面を掴みながら登る事になる。人間である事を忘れよう。

築城年代は不明、築城者は小笠原氏の分流、赤沢氏、城主には同氏の被官、赤羽大膳の名が伝えられている。赤沢氏は伊豆国田方郡赤沢郷を発祥とするが、建武二年(西暦1335年)、信濃守護、小笠原貞宗に従い、北条時行の与党を退治するために信濃国内各所へ出張し、その恩賞として筑摩郡浅間郷を宛行われ伊豆国を退転、同地に移り住んだと考察されている。但し、室町時代以前の赤沢氏の事跡は殆ど不明であり、そもそも論で伊豆国を発祥とする事自体が不審とする意見もある。

縄張は山頂部に帯郭状の腰郭を持つ土塁囲みの主郭、別に主郭からの東尾根に三段程度の小郭を配した単純なもの。城域内には4条の堀切が確認出来るが、堀切だと素直に断定する事が難しいものも含んでいる。感動するのは主郭部とその西側谷側前面に付く堀切か。主郭をほぼ全周する土塁が良く残っており、腰郭の削平もしっかりと見て取れる。後世、秋葉社が勧進された事から多少の改変は疑われるが、砦としての形状がほぼ完存しており、全体的には愛すべき小品の印象だ。

但し、訪ねた全ての人が疑問を持つ点も存在する。城域外、直登して来た山尾根の南側斜面に2条程の凄まじく立派な竪堀様地形が見られる事と、主郭からの南尾根に二重竪堀様地形が付いている事だ。前者については砦の備えとして一つも寄与していない事から木落としの「アレ」かと思われるが、後者については竪堀の終端が崖地で終わっている事から城郭遺構である可能性を残す。木落としの溝であれば二重にする必要も無いだろう。

主郭に存在した秋葉社は見る影も無いんだけど、かつては祭礼のために小日向集落の子供達がよく登ったんだそう。今じゃラインマン以外は殆ど人の入らないお山、年配のジモティーの方は、「もう、あんな山、登れないよなぁ…」て仰られていた。ついでの話の中で砦の現況を訊かれたんで、「堀と土塁が良く残っていますよっ!感動しやしたっ!」て答えると眼を細めて凄く嬉しそうだった。変態も少しは人のお役に立てたようだ。

※山城探索で最良なのはトレッキングシューズではなく長靴だ。ジャストサイズが存在しないのが玉に瑕だが、工夫すれば十分にフィットさせられる。大体にして3kmを歩く事は稀だし、全天候に対応可、ゲーター要らずで汚れず、激藪も躊躇無く歩き回れる。おまけに安い…

※三才山〜書き忘れたけど「みさやま」て読ませる。本来は諏訪社に関係する「御射山」だったろう。南麓、女鳥羽川の対岸には、建武二年に御射神社秋宮が赤沢氏によって勧進されている。

※松本城博士のおいらが上から目線で教えてあげるけど、御射神社秋宮に建つ虚空蔵宮は、寛文八年(西暦1668年)、時の松本藩藩主、水野忠職が松本城の鬼門除けとして創建したものだ。御射神社秋宮にあっては同じ稲倉城のリア攻めマップにスポット登録だけしておく。

2026年01月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
早落城(洞山砦)[稲倉城  周辺城郭]



さて、今年の城始めにと意気込んだお城は何だかだるくなってしまい急遽断念、時間も午後になってしまったしやる気が途端に失せてしまった。代わりに何処へ行こうかと悩んだ挙句、以前に撮った写真を誤って削除してしまった登城の楽な物件を思い付いたので訪ねる事にした。きっと年末年始に食い過ぎたんだろう。新年の幕開けに相応しい?城名を冠するこの山城、競走馬で言ったら「落馬号」みたいな感ぢ?なんだけどおいらは大好きだ。

早落城(洞山砦)は稲倉城の南西約2.3km、女鳥羽川東岸(左岸)、標高778mの通称、洞山山頂部を中心に立地する要害です。西麓の松本市道2020号線からの比高は80m位でしょか。ちなみに洞山は南北に長い完全独立山稜、両側急峻で尾根幅も狭くひょろ〜てしている。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。洞山の南側と北麓の2箇所から遊歩道が付いている。楽をしたかったら南側から登ろう。松本市道2182号線が遊歩道入口まで伸びており、その手前には駐車出来る空地もある。此処から徒歩で登る比高は40m位だ。

南側からの取り付きを案内しておきながら、おいらは毎回のごとく北麓側から登っている。こちらの方はGoogleマップに位置登録されている「住吉神社」の本殿背後から道が付いており、境内には石柱が建ち、説明板も立っている。何れにしても大したお山ではないんでどちらから登ってもOK♪

築城年代は不明だが、築城者は赤沢氏と伝わる。同氏は小笠原氏の最も古い分流であり、伊豆国田方郡赤沢郷を発祥としている。室町時代初期の赤沢氏は、更級郡四宮、筑摩郡浅間郷、白河郷、白姫郷を知行し、アプリの登録城、稲倉城を築いた事でも知られているが詳細については別の機会に譲りたい。

「長野県町村誌」には「早落シ城趾」として、「本村(岡本村)寅(東北東)の方にあり。東西九間(約16.4m)、南北不明、回字形をなせり。赤澤氏の出丸たり。部下林小次郎と云ふ者に之れを守らしむ。天文二十二年(西暦1553年)武田晴信の大軍、赤澤貞庸を攻撃するの日、押寄せ戦ひしが、暫時に敗れて落去す。依て早落の名を賴ふと云ふ。」とある。

町村誌の記述は武田勢によって落城した事を伝えているが、当の赤沢氏は既に武田氏に従っており、近隣の岡田郷を知行する後庁氏の持分となっていた早落城を武田氏に呼応する形で奪い返したとするのが真相のようだ。不名誉な城名もこの時に戴いた訳だが、天文十九年(西暦1550年)七月十六日には小笠原氏の本城すら自落するような状況下であったのだから、まともな戦いがあったとは到底思えない。又、天文二十二年の年次も誤伝かと思われる。

縄張は南北に長大な細尾根上に3郭で構成され、郭間等を堀切で区画する極めて単純なものだが、これしか仕様がないて言った方が正しいのかもしれない。発展性は皆無であり、元々が限定的な役目しか与えられていない事が明白だ。あっと言う間に落城した要害だけあって探索も非常に楽(城域内の高低差が殆ど無い。)、尾根筋から外れる事も一切無い。但し、後世に改変されるようなお山ではない事もあり、堀系等の城郭遺構は埋もれているとはいえほぼ完存、廃城からそのまま時を経た感すらある。ほぼ一直線に連なる潔い縄張に萌える方も多いかと思う。

お城てその規模や縄張によって優劣が付けられるのは仕方の無い事だけど、時代や占地、目的、更には築城主体の大小がそれぞれに違うのだから、単純にこれ等を比較する行為は誤った考えだて常々思っている。この早落城も当時の赤沢氏が最善を尽くした砦規模の要害であった筈だ。人によっては、「さしたる見どころも無い城跡…後略、」て断じられたりもするんだけど本当にそうなんか。おいらは丁寧な造作に好感を抱いている。他人の評価なんて一切気にしないぜ。

※以前は感じなかったんだけど城域内が倒木等で結構荒れている。

※今回、訪ねて良かった点は、早落城に付随する城番衆等の居館跡、狐屋敷居館なる物件を発見した事だ。狐は物見に携わる者等の隠語である事から、同城の主な役目もそれなのかもしれない。

※回字形をなせり〜そんな形をしていない。

2023年09月30日 らっちゃん
稲倉城



三の郭側から登りました。周遊できるようですが、二の郭先の下山道が探せずピストンしたのが残念。この地図を登る前に撮っておけば良かったです。

2023年05月09日 まつもとぐらし。
稲倉城



堀切の看板など整備されていますが、落葉樹が多く、道は落ち葉でフカフカでかつ滑ります。急所はロープや鎖が用意されていますが、足元をしっかりホールドできる靴と軍手があると良いと思います。堀切はかなりはっきりしていて見応えありです。ストックか道に落ちてる枝の杖が必要です。体力に自信があっても枯れ葉の多さで滑りますので気をつけてください。道は比較的分かりやすいかと思います。車で行かれる人はゲート(獣防止)の戸締まりをお忘れなく。

2022年08月24日 美濃守勅凛
稲倉城

三の廓に向かうルートが正解です。急斜面ですが、ロープ伝いに登れますよ

2022年03月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
横谷入城[稲倉城  周辺城郭]



横谷入城は稲倉城の南方約3.5km、標高約887mの大音寺山山頂に主郭が存します。南麓の舗装林道からの比高は120m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている大音寺山を目標に設定して下さい。大音寺山は浅間温泉ふる里公園の一部として完璧なまでに整備されており、迷う事無い遊歩道(だらだら登らされるけど…)がきちんと付いてます。又、獣柵が山頂を越えた所に設定されているので極めて安心、鹿の痕跡すら認められません。

築城年代、築城者は不明です。お城の西麓、浅間郷は建武年間(西暦1334年〜1336年)から天正年間(西暦1573年〜1592年)まで赤沢氏の所領で、同氏に関わる要害、物見砦である事は確実でしょう。又、天文年間(西暦1532年〜1555年)には浅間孫太郎が入り、武田勢により落城、破却されたとも。

縄張図は期待させてくれるのですが、良くも悪くも整備された遊歩道が城域を貫通しているので全てがファジーな印象、ただ元々堀系なんかは整備前から埋まり気味だったとは思います。最初に現れる堀切は見事にスルー、写真撮ってたけどただの段差かと思いやした。主郭周りの堀切や竪堀は現地なら判るけど写真は凄く難しいレベル…又、搦手には空堀遊歩道と称するお城の水の手に通じる堀状の道が付いてますが、これ、まず空堀じゃないだろう…ただ堀状地形の傍らには削平地が確認出来るので当初から堀底道として利用されていたのかもしれません。

主郭西側のアルプス展望台からの眺めが大変素晴らしい。犬甘城等の周辺諸城を眼下に見下ろし、松本平を広く一望、乗鞍岳、有明山等の北アルプスの主要山峰を眺める事が出来ます。が、苦言を一つ…浅間温泉ふる里公園のマップについて…「横谷入砦跡」と「横谷城跡」の2箇所が記載されているんですが、後者は搦手からの横谷入城登城路入口を示すもので実際にお城は存在しません。現地で知らんお城があるのかと勘違い、徒労に終わりました。こうした例は致命的欠陥だと思うので訂正される事を願います。

※業務連絡…稲倉城のリア攻めマップに「横屋入城」の名称でスポット登録がありました。名称はともかく位置は完全な間違い…謂わゆる致命的欠陥になりますのでスポット登録された方は対応お願い致します。

2022年03月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
三才山御屋敷館[稲倉城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

三才山御屋敷館は稲倉城の南東約1.4km、女鳥羽川北岸(右岸)、標高約797mの河岸台地上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南側の明広社を目標に設定して下さい。北側にある空地周辺が該地となります。

築かれた年代は不明、該地は稲倉城主、赤沢氏の所領で、東方標高1629.3mの戸谷峰から西方へ延びる山塊尾根上、標高1110mのピークの一つには同じ稲倉城のリア攻めマップにある三才山砦が存し、元文二年(西暦1737年)の書上帳では「城主赤羽大膳殿屋敷」とあり、三才山砦城主の平時の居館であったと推測されます。て事は赤羽大膳は赤沢氏の被官であったようですね。

居館の現況は集落の一部です。該地の「大屋敷」の屋号を持つ空地周辺が居館の中心部となります。当地はGoogleマップの航空写真を見れば一目瞭然なのですが、東へ進めば三才山峠、武石峠の何れかをを経て小県郡へ、西へ進めば稲倉の谷筋を抜けて安曇郡、筑摩郡に至る地味に交通の要衝でした。見方を変えれば松本平の入口に当たる地峡部の一つでもあり、人が住するという居館以外の利用目的もあった事でしょう、意外にも今現在も周辺には要害地形が残っています。又、該地に残る古い時代の石垣の存在は戦国時代のみならず、少なくとも幕藩体制発足後も何らかの形で利用が続けられた証左なのかもしれません。当然、更に後世の改変なのかもしれないのですが…

リア攻めの単独目標にはなり難いと思われますので、東方背後の三才山砦とセットで訪ねる事を推奨します。が、三才山砦は登城が大変厳しい…アテンド頼まれても、「こっから登って、尾根に出たら右へ行ってね。おいらは車で寝てるから。」みたいな投げっぱなしアテンドになる事確実な物件なので登る際にはそれなりの覚悟を決めましょう。小さな砦とはいえ簡単には拝めないのです。

2022年03月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
伊深館[稲倉城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

伊深館は稲倉城の西南約1.9km、標高約732mの山間平野部緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北東側の(有)エム創建を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方となると判断難しい…信府統記、長野県町村誌、東筑摩郡誌に記述がありますが、諸説あって何れもはっきりしません。やはり伊深城主、後庁氏の居館であったとする説が一番しっくりするような…信府統記、長野県町村誌には小笠原氏の被官、後庁大内蔵の名が居館の主として伝わっています。この後庁氏についてもはっきりしない(私家本があるらしいが…)のですが、確実なのは洗馬の三村氏当主、民部丞、駿河守長親(武田晴信によって甲府一蓮寺にて誅殺される。)の弟、久親が後嗣として後庁氏に入り、長親の嫡男、勘兵衛尉長行が久親の後嗣として後庁氏の家督を相続しています。武田氏の滅亡後は府中回復を目論む小笠原貞慶が溝口新介を使わし、天正十年(西暦1582年)六月十二日、後庁の名義と洗馬堀廻三千貫を宛てがう旨の書状を、六月十四日には更に奉行職に加えるとの口上が述べられその忠節と働きを促しています(前回の旧領回復失敗を経験に貞慶君は必死に願い倒しまくるのだ。)。

居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地となっています。同じ稲倉城のリア攻めマップにある伊深城を詰城とする居館で、伊深城東麓直下の最上段に立地します。居館の位置は比定地で遺構は何も残っていませんが、一般住宅の敷地からは武田菱の龍印が見付かったそうです。

天文十九年(西暦1550年)七月十五日、武田勢は「イヌイの城(埴原城か?)」を攻め取り勝鬨執行、林大城、深志城、岡田城、桐原城、山家城は自落しますが、この岡田城が伊深城だと比定されています。たぶん伊深館も同様であった事でしょう。マニア向け。ただ詰城の伊深城が素敵過ぎるのでこっちだけはお願いしたいところです。

2022年03月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
妙義山狼煙台(鐘平)[稲倉城  周辺城郭]



妙義山狼煙台(鐘平)は稲倉城の南方約4.4km、西方へ延びる山塊尾根上端部、標高約694mのピークの一つに主郭が存します。西麓の舗装路からの比高は55m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西麓の浅間温泉・庭球公園を目標に設定して下さい。取り付きは南麓の林道からで、獣柵ゲートを開けたら直ぐの場所に道が付いてます。

築城年代、築城者は不明です。信濃のお城の神は該地の狼煙台を示唆する「鐘平」の地名から此処に狼煙台が置かれていたと推測しています。従って浅間郷を所領としていた赤沢氏に関係するものて事になるんでしょかね。

狼煙台の現況は3基の古墳が築かれた概ねで二段の平場です。感じとしてはお父さん古墳が上段、お兄ちゃん古墳とお姉ちゃん古墳がその下段、じゃ、お母さんは何処なのかて言うと父子家庭なんすかね。3基の古墳で三角形を構成、謂わゆる三角関係でもあるので家族じゃないのかもしれません。地山に薄過ぎる古墳があるだけなんでただそれだけの話です。

頑張って文章にしてきましたが、眺めが良いぐらいの残念物件…実は当日、ハード目な物見台を目標にしてそれなりに準備してきましたが残雪厳しく断念(ちょとなら我慢出来るけど、積雪の片道約3.8km、比高約760mは城廻り的には無いでしょう…)、代役の一つに選ばれたのがこの狼煙台です。完全登山装備の美少年がテニスコートの裏山にあったかもしれない温泉街の狼煙台を訪ねるなんて中々だぞ…

救いだったのが南麓にある元塚原青雲高等学校学生寮(廃墟っす。)、三段位にきゅっと縮めた名古屋城天守の趣きを持つモニュメントが付いていて、歴史ある温泉街に屹立するその姿は違和感でしかない…模擬天守ファンは是非訪ねてみて下さいまし。

2022年02月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
赤沢氏館[稲倉城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

赤沢氏館は稲倉城の南西約3.8km、標高約655mの山間部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている松本市立本郷小学校を目標に設定して下さい。小学校のグラウンド周辺、そこが正に居館の存した場所です。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは赤沢氏です。居館の存した浅間郷は赤沢氏の所領で、甲斐源氏小笠原氏の初代長清の二男、清経が伊豆国田方郡赤沢郷(今も静岡県伊東市に地名が残る。)を本貫地として赤沢氏を称したのが始まりです。初代清経は信濃国埴科郡埴生に移り、後の当主赤沢忠興は中先代の乱において小笠原貞宗に従い北条方の残党鎮圧に功を挙げ信濃国筑摩郡浅間郷、更級郡四宮庄塩崎を与えられ(北条氏遺領を分配された事になる。)塩崎に本拠を置きました。大塔合戦では守護方となり敗北、小笠原氏の内紛に際しては府中の小笠原持長を支持して漆田原の戦いに勝利しますが、当主赤沢対馬守教経は討死しています。

教経の跡を継いだ朝経(悪太郎)は嫡男政経に家督を譲って上洛、室町幕府管領細川政元に従い畿内で暴れまくった事で有名ですね。通称から解るようにやんちゃしてたようですが、冒険を求めて一家を捨てた放蕩親父とも言えるでしょう。嫌いじゃないです。

戦国時代、赤沢氏は二分します。すなわち武田氏に敗れて諸国を流浪した信濃守護小笠原長時に従った者、そして武田氏に従った者です。前者は時の当主智経が三好長慶を頼った長時に従い上洛、北白川の戦いで討死(長時が客将扱いでありながらの討死、長時は先陣だったのかしらん。)、その後は当主貞経が相馬氏に身を寄せ、最終的には徳川家康に五百俵で召し出されて小笠原姓に復し、小笠原流弓馬術礼法を今の世に伝えています。一方、後者の浅間赤沢氏は武田氏被官時代には軍役四十騎(少なくはない。)、天正壬午の乱の際には深志(松本)を回復した小笠原貞慶に従いますが、後に上杉氏との内通を疑われて誅されました。

居館の現況は小学校のグラウンドです。居館の正確な位置は特定されていませんが、特定されても困っちゃうよ…て感じですかね。リア攻め時間は30秒位ですが、これ書くのに1時間30分位掛かりました。阿保なんでしょか。ハイパーマニア向け。訪ねる必要無し。

2021年03月08日 ᴿᴱᴰ副将軍
稲倉城



小笠原氏の一族であった赤沢氏の居城

オススメ度 ★★★★★

1335年頃に小笠原氏の庶流である赤沢氏によって築かれたとされます。
1550年、武田氏が松本平に侵攻して際には赤沢左衛門尉は武田氏に寝返り、小笠原氏の伊深城を攻め落としたとも云われます。
1582年に武田氏が滅亡すると、赤沢清経は徳川氏の支援により復帰した小笠原貞慶に再び属しました。
1583年に赤沢清経は塔ノ原城の海野氏や小岩嶽城の古厩氏らとともに上杉氏に通じて謀叛を画策。しかし計画が露呈し切腹となり赤沢氏は滅亡しました。

標高約1,000m、比高約230m。
途中から主郭を目指して直登をしましたが、駐車スペースから約30分くらいの登山でしょうか。
ただ、切岸の鋭さはかなりの斜度なので直登はオススメしません。遠回りでも谷底道を進みながら高度を上げてから主郭にトラバースするのが正解みたいです。
帰りは三の郭から降りました。
松本市と言えば、国宝松本城のほかにも小笠原氏の本拠地であり桐原城、林城、山家城、埴原城と魅力的な山城が豊富。
以前に山家城と埴原城は登城済なので、今回は桐原城と林大城、林小城を訪問。時間に余裕があったのでこの稲倉城にも登城をしてきました。
ついでの登城とは裏腹に素晴らしい遺構に吃驚!
大規模な岩盤掘削の一の堀切、土の造形が見事に残る二の堀切、三の堀切と、尾根筋をザクザク削ってます。
知名度は低いですが、信濃の代表する山城としてオススメをします。

写真
①一の堀切
②二の堀切
③二の堀切を堀底より
④本郭背後の物見
⑤二の郭
⑥二の郭の物見台
⑦三の堀切
⑧三の曲輪

2015年11月11日 黒曜石
稲倉城

稲倉峠への林道、途中で獣避けゲートがあります。
ゲートを開けて車で進んでOKです。
山の動物が間違えて里に降りない様に、ゲートを開けたら閉めて下さい^^

2012年07月15日 北川幸人
稲倉城

登城道は、伐採された木、倒木など見誤りやすいので気をつけて。

2011年08月02日 赤いRVR甲斐守@松本
稲倉城

稲倉集落から稲倉峠への林道を進むと、右手に駐車場があります。そこから15分くらいで主郭です。斜面は少しきついですが。

稲倉城の周辺スポット情報

 説明看板(碑・説明板)

 伊深城(周辺城郭)

 赤沢氏館(周辺城郭)

 妙義山狼煙台(鐘平)(周辺城郭)

 伊深館(周辺城郭)

 三才山御屋敷館(周辺城郭)

 横谷入城(周辺城郭)

 鷹巣根城(刈谷原城)(周辺城郭)

 烏帽子岩物見(周辺城郭)

 見場城(見場之城)(周辺城郭)

 荒神尾城(七嵐城・光神尾城)(周辺城郭)

 常光寺山(周辺城郭)

 保福寺番所(周辺城郭)

 猿ごや砦(周辺城郭)

 掻揚城(掛け上城・保福寺城)(周辺城郭)

 稲倉御屋敷館(周辺城郭)

 三才山砦(秋葉様)(周辺城郭)

 早落城(洞山砦)(周辺城郭)

 岡田堀の内館(岡田親義館)(周辺城郭)

 城の内居館(浅間御殿)(周辺城郭)

 茶臼山城(周辺城郭)

 狐屋敷居館(周辺城郭)

 小宮山氏館(周辺城郭)

 岡田伊深一里塚跡(寺社・史跡)

 岡田宿本陣跡(寺社・史跡)

 保福寺(寺社・史跡)

 保福寺番所跡(寺社・史跡)

 御射神社秋宮(寺社・史跡)

 伝 岡田冠者親義の墓(寺社・史跡)

 井深後庁跡(寺社・史跡)

 御殿山 小笠原家廟所(寺社・史跡)

 公衆トイレ(トイレ)

 駐車スペース(駐車場)

 駐車スペース(駐車場)

 伊深城 駐車場(駐車場)

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