小岩嶽城(こいわたけじょう)

小岩嶽城の基本情報

通称・別名

小岩岳城

所在地

長野県安曇野市穂高有明3464-4

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

仁科氏

築城年

戦国時代

主な改修者

主な城主

仁科氏、古厩氏

廃城年

天正11年(1583)

遺構

曲輪、石積、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(小岩嶽城跡)

再建造物

模擬門、模擬塀、模擬櫓、石碑、説明板

周辺の城

中塔城(長野県松本市)[12.9km]
平瀬城(長野県松本市)[13.2km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[16.3km]
稲倉城(長野県松本市)[16.9km]
松本城(長野県松本市)[18.1km]
井川城(長野県松本市)[19.2km]
青柳城(長野県東筑摩郡)[20.2km]
仁科城(長野県大町市)[21.2km]
林城(長野県松本市)[21.9km]
桐原城(長野県松本市)[22.2km]

小岩嶽城の解説文



小岩嶽城(こいわたけじょう)は、信濃国安曇郡(のち南安曇郡)小岩嶽[1]、現在の長野県安曇野市にあった日本の城。安曇野市指定史跡。

概要 

中世仁科氏庶流の古厩氏が領有していた安曇郡穂高有明の古厩郷に、大永2年(1522年)仁科盛国が築城した。国人領主の仁科氏は信濃国守護小笠原氏とは抗争を経て被官化した経緯があり、臣下にあっても小笠原氏を警戒する狙いがあったものと思われる。

天文年間、武田晴信は信濃への侵攻を開始。天文21年(1552年)8月、武田軍は3000人の兵で500人で守る小岩嶽城を攻撃した。城主の仁科氏庶流小岩盛親は3ヶ月にわたる籠城の末自刃した。永禄4年(1561年)には仁科氏宗家も滅亡する。

その後、小岩嶽一帯の元々の領主である古厩氏は武田氏(森城主仁科盛信)に従った。天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は上杉景勝配下の市川信房に宛行われたが、後に小笠原貞慶が旧領に復帰し、古厩盛勝も小笠原氏に従った。しかし天正11年(1583年)、上杉方に通じて小笠原氏に逆心を企てたという理由で成敗された。小岩嶽城はこの時点で古厩氏居城の古厩城とともに廃城になったと思われている。

遺構 

現在、城は小岩嶽城址公園となっており、模擬門、櫓を模した展望台がある[2]

城の遺構は、山上だけではなく、山麓にもある[3]

山上の遺構
  • 曲輪[4]
    • 北の尾根には大小50段以上の削平地群が展開する[5]
  • 堀切、竪堀
    • 西の尾根には連続竪堀がある。

山麓の遺構
  • 曲輪[6]
  • 土塁
  • 石垣 - 自然石を積んだ「野面積」である。
  • 虎口
  • 空堀
    • 惣構 -山麓部を囲繞する空堀(幅約15メートル・深さ約7メートル)があり、横矢をかけるように折歪がつけられている[7]
  • 土橋

復元・関連建造物など

  • 櫓門 - 木造で建てられた門。後ろは林となっている。
  • 展望台 - 遊歩道から左手に登ったところに建立。石垣の上にのろし台を模したもの。中は登れるが暗いので要注意。
  • 小岩嶽城戦没者慰霊碑 - 武田氏の信濃侵攻の際に、戦死した籠城兵の慰霊のため建立。

交通 

  • JR大糸線・穂高駅から安曇野周遊バスに乗り「小岩岳別荘入口」バス停下車、徒歩約20分
  • 長野自動車道・安曇野ICから約30分
    • 小岩嶽城址公園駐車場(無料)

参考文献 

  • 【書籍】「 信濃 小岩岳城 」
  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年
  • 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年
  • 宮坂武男 著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館』第7巻 戎光祥出版 2013年

小岩嶽城の口コミ情報

2025年03月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
布上城[小岩嶽城  周辺城郭]



布上城は小岩嶽城の北方約7.1km、乳川西岸(右岸)、標高1371mの雨引山から東方へ伸びる尾根末端部上、標高約987mの小ピークを中心に立地する要害です。東麓の伊の神公園墓地の駐車場からの比高は305m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「伊の神公園墓地」を目標に設定して下さい。当然、車も捨てられる。城山は山頂から南北に派生する山尾根の肩を持ち、何れの尾根筋も山の肩を下りると東方へ向きを変える。山稜は正座した人間が自然と掌を膝の上に置いたような姿であり、山尾根のどちらを選んでも登城は可能である。

登る山尾根は北側を選択、南側よりも断然楽だ。取り付きはこの尾根の末端部からがよい。急登とはいえ踏み跡程度の道も付いている。伊の神公園墓地の最奥部から尾根に取り付くのも結構だが、急峻故に尾根上に上がるのに相当な苦労を強いられる。

登城は二段階で考えた方がよい。山の肩まで登ったら一休みしよう。その後、暫くは高低差の緩い山尾根を進むが、最終的には急峻過ぎる山頂ピークまで、比高100m位を一気に登る事になる。山の肩まで登って体力的に厳しいと感じたら潔く下山しよう。人を選ぶ山城である事に間違いは無い。ちなみに下山に南側の尾根を選択すれば縄張の全てを補完出来るが、こちらの尾根筋は低雑木が多い上に小ピーク一つを登り返す必要性が発生する。

登城の留意点は熊さん対策にある。出来る事は最大限に努力しよう。初訪問は4年前になるのかな。おいらが熊さんをはっきりと目撃した最終事例はこのお山においてである。尾根下を逃げて行く子連れの母熊は当初、明らかに山麓を目標としていた。単独入山時は五感を働かせて緊張感を保っていこう。対策が出来ていなければお山には近付かない事だ。

※もう、このレベルの山城になると登山系アプリの活用が必須になってくる。多くの方達にとって登城は初体験だろう。不安定要素を抱えたままでの行動は不必要な体力の消耗を招くし精神的にも苦痛だ。

築城年代は不明、築城者は仁科氏の分流、大和田氏が推測されているが、同氏については別の機会に譲る。大和田氏は同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある観勝院山城の築城者でもあるのだが、個人的には仁科氏に従う別の氏族の普請によるものだと考えている。

お城は面白い。南北の山の肩には小堀切が認められる程度だが、主郭部の遺構の残存度が極めて高く、堀切や竪堀、畝状竪堀、土塁、堡塁等が明瞭に確認出来る。少し変わっているのが、主郭の土塁+二つの堡塁の西側、一段下がった所に正三角形に近い台形の空堀様地形と掘り残しの土塁様地形を持つ事…天水溜めとも推測されているが規模からすればあり得ないだろう。個人的には櫓台、もしくは主郭の土塁+堡塁から張り出す半地下構造の小屋掛け等を想像している。

二度と行かねぇ…と思ってたお城を再訪、体力的に持ってかれるし、嫌な事ばかりが思い出されるんだけどねぇ…それでももう一度だけ見たかったのさ。このお城でなければ経験出来ないものがある。コンパクトな砦規模の要害ではあるんだけど遺構は殆ど完存しているし、苦労に見合うだけのものは必ず返ってくる。

※城山の東側斜面は登頂不可能なぐらいに急峻、平均斜度は70°から80°の間だろう。伊の神公園墓地から山頂部を見上げれば正に壁だ。又、特異な山容は虚空蔵菩薩を誰でも?思い浮かべるが、めぐら〜的にはアプリの登録城、小県郡の塩田城に似ていると言えば解り易いかな。

※登城難度が真に高い山城においては、リア攻めよりも登山をまず優先して計画を立てよう。お城を楽しむのはそれからの話だし、現地に赴いたからといってどうにかなるとは限らない。低登山には低登山なりの危険性が常に付き纏う。特に目標が広がる下山時には注意が必要、複数の尾根が交錯する山道等の分岐点では現在地の把握と方向確認を決して怠ってはならない。下界が見えているからといって安易に一歩を踏み出さないように…待っているのは山麓ではなく道迷いかもしれないのだ。基本的に軽装備のめぐら〜は高度を下げる事のみに必死になるだろう。

※今回の想定外は…気温の上昇による融雪の落下、野生動物の踏み跡等により高度を上げた部分での尾根筋が長い距離で凍結していた事…従ってかなりの部分を積雪のある斜面上に逃げてぷちトラバースしている。山道等の凍結箇所は装備が無ければ実際上歩けない。

※五感を働かせて〜難しいし殺せないけど「FIRST LOOK, FIRST KILL」の精神だwちなみにおいらの鳴り物は熊鈴と警笛のみ、喋り散らかすラジオ等は推奨しない。

※写真①は登城中に山尾根のザレ場(久しぶりに股裂きの刑を受けたぜ…)から撮影した布上城の近景っす。遠いわ…

2025年03月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
観勝院山城(大和田山城)[小岩嶽城  周辺城郭]



観勝院山城(大和田山城)は小岩嶽城の北方約8.7km、乳川西岸(右岸)、標高1093mの大洞山から南東へ伸びる尾根端部上、標高約811m地点の平場を中心に立地する要害です。東麓の観勝院跡地からの比高は180m位でしょか。但し、城域の最高地点の標高は約861mである。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので前述の「観勝院跡地」を目標に設定して下さい。ちなみに車も捨てられる。

初訪問は4年前になるのかな。この時は登城路が部分崩落していて道筋が判らなくなってしまい、結局は城域の最高地点である「物見」まで直登した。が、どうやら最近になって松川村の山城交流会の方達によって再整備が行われたらしく、現在は観勝院跡地から迷う事無く城域に辿り着ける。但し、登り始めて直ぐの所にある、尾根の弛みを除けば全て急登、山尾根の直登をイメージしておいた方が気持ち的には楽だろう。ちなみにこの登城路、本来の大手筋とは異なっているようだ。

登城の留意点は熊さん対策にある。出来る事は最大限に努力しよう。今回の訪問では積雪上に明瞭な熊さんの足跡が残されていた。北アルプスの最前衛山塊は四足歩行の動物達の楽園、人間達はそこにお邪魔しているだけの存在に過ぎない。せめてこちらからでも来訪を知らせてやろうぜ。

築城年代は不明、築城者は仁科氏の分流、大和田氏です。「信府統記」には、大和田大蔵丞盛久が城主とあり、同名は「神戸村の歴史」に掲載された系図によれば、仁科氏当主、弾正少弼明盛の舎弟である。但し、系図自体の出典が明らかにされておらず確証は無い。

縄張は概ねで5郭で構成されるが、西側斜面を中心として城域内の至る所に無数の雛段状の腰郭が付く。小郭も含めればその数たるや尋常ではない。籠城時はさぞかし壮観な光景だろう。郭間は堀切(一部は土橋付き。)で区画され、延長部分の竪堀は多段の腰郭を貫いて落とし込まれる。仁科氏関連のお城は仔細に見れば非常に繊細、腰郭に喰い違いの段を設けたり、竪堀脇の土塁の付き方にセンスを感じたりもする。全体的に見れば城郭遺構はほぼ完存、安曇野の良城の一つだ。小笠原氏系城郭とはまた異なる連郭式山城の妙を楽しむ事が出来る。

貞治四年(西暦1365年)七月廿六日、小笠原遠江次郎(清政)宛、小笠原信濃守(長基)宛行状には、「信濃國安曇郡大和田郷事、為兵糧料所、所預量也、任先例、可被致沙汰之状如件、」とあり、信濃守護、小笠原長基は、小笠原清政に、信濃国安曇郡大和田郷を幕府の兵糧料所として預けている。該地の大和田郷の文書上の初見であるが、南北朝時代に南朝方に与した当時の仁科氏は衰退期にあり、本来なら「仁科之内」に含まれる同郷に守護(北朝方)の勢力が及んでいた事は確実視される。応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」の際には、仁科弾正少弼盛房が反守護方として一族、被官衆等、三百余騎を引率して参陣、以降、室町時代から戦国時代の初頭にかけて、再び回復〜興隆期にあった同氏だが、守護家との関係は常に良好なものとは言えず、文明年間(西暦1469年〜1487年)には度々これと争っている。観勝院山城の築城とはこうした時代背景を下にした府中小笠原氏に対する備えであろう。

※「観勝院跡地」〜開基は不明だが、観勝院の創建年は永正年間(西暦1504年〜1521年)、現在、寺地は移動して曹洞宗の寺院、金福山観松院として存続している。収蔵されている「銅造菩薩半跏像」はアルカイックスマイルが秀逸、国指定の重要文化財だ。跡地については同じ小岩嶽城のリア攻めマップにスポット登録だけしておく。ちなみに信濃における曹洞宗の始まりは「仁科之内」からである。

※山尾根の直登をイメージ〜登城路の大部分には虎ロープが設定されている。所々では手を使わなければならないだろう。迷わない程度の道筋ぐらいに考えた方が無難だ。

2025年02月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢口氏居館(堀屋敷・筑前屋敷)[小岩嶽城  周辺城郭]



矢口氏居館(堀屋敷・筑前屋敷)は小岩嶽城の北方約10.7km、乳川北岸(左岸)標高約644mの平野部平場に立地した居館です。古くは大和田郷を灌漑していた北和田堰は、該地の南方約0.6km、同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある西山城の東麓直下、乳川の蛇行点から取水する。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。Googleマップだと該地の南東方に位置登録されている「西山公民館」が一応の目標にはなる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは矢口氏です。「信府統記」によれば、矢口筑前守は前述の西山城の城主である。城の主なのだから同氏は該地の西山を知行地としていたのであろう。

矢口氏は本姓、大伴氏であり、中世には安曇郡に割拠した他の同姓氏族(細萱氏、穂高氏等)と共に穂高神社の神職を務めていたようだ。大町市平の野口地区に残る伝承によれば、矢口氏は本来、野口氏であり、同市内、若一王子社の流鏑馬の的を奉納していた事から矢口に改めたとも。

矢口氏の文書上の初見は、室町時代に成立した、「大塔物語」、「信州大塔軍記」であり、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」の際、方田ヶ先石川に布陣した仁科弾正少弼盛房に属する一手の中に、矢口将監、野口掃部の名が見える。両書は史料としては研究の余地がある物とされているが、個人名に関しては概ねで信用が出来る筈だ。

「三宮穂高社御造宮定日記」中、明應十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、穂高社の造営に際して安曇郡の諸郷に諸役と負担を注した文書には、奉行人として清水石見守盛好と矢口備前守知光の名が見られ、同文書は両名の連署によって奉之されている。当時の穂高社の大檀那は細萱氏に替わって仁科氏となっていた。

生島足島神社文書中、「堀金平大夫盛広等連署起請文」には、仁科氏の一族、被官衆等多数が連署形式でその名を連ねているが、矢口氏の名は見られず、同族と考えられる野口尾張守政親の名が書かれるのみである。この事から武田氏時代には既に凋落していたとも考えられている。

天正十一年(西暦1583年)六月廿四日、麻(浅)野久右衛門宛、小笠原貞慶宛行状には、「自去年相稼之条、本領参貫八百文之所、為重恩、西山之内小宮分六貫文、野平之内拾貫文、合十九貫八百文之所出候、以此旨可抽忠節者也、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、浅野久右衛門に、該地の西山の内から小宮分六貫文等、合わせて十六貫文を新恩として宛行っている。「西山之内小宮」が何処になるのかは不明だが、矢口氏は既に該地を離れていたか、もしくは帰農して久しかったのかの何れかであろう。

居館の現況は…耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。遺構は完全消滅していると思われるが、該地の南側、別の一般住宅の敷地内に土塁様の地形が確認出来る(写真は無理…)。遺構かどうかは怪しいもんだけど探し出した方も挙動の怪しい不審者だわ…

追白…矢口氏の五輪塔が残るとされる松庵寺の旧跡の場所は判ったんだけど、墓地を探索しても五輪塔が一つも見当たらない。どなたかこの件に関して御存知の方がいらっしゃいましたら御教授、伝言方、何卒宜しくお願い致します。

※該地の北北西約1.0kmの位置には、「小海戸」、「道海戸」の大字が残っており、別の中世城館の存在を示唆している。「海戸」は即ち、「垣内」の転化であり、謂わゆる「堀内」と同義だ。

※写真①は要るのか知らんけど長野県道306号、有明大町線から撮影した近景っす。県道は筑摩郡から通じる仁科街道の内、最も古い道筋(推定経路)を概ねで踏襲している。

2025年02月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
西山城[小岩嶽城  周辺城郭]



西山城は小岩嶽城の北方約10.1km、標高1093mの大洞山山頂から東方へ向かって伸びる尾根中段上、東流した後に南流する乳川の蛇行点へ向けて張り出す標高870.4mの城山山頂部を中心に立地する要害です。東麓の乳川の比高は215m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東麓の西山城跡駐車場を目標に設定して下さい。西山城址保存会さんの努力により不定期ながらも整備が行われており、しっかりとした登城路が駐車場から付いている。比較的に登り易い山城だと思うさ。

お城は一城別郭の様相を呈しており、城山山頂部と山尾根中段上の標高約782mの小ピーク部に大別出来る。前者は西山城全体の主郭、後者は縄張図における通称2郭に当たるが、前者と後者の間、約0.5kmの尾根上に城郭遺構は見当たらず、むしろ別城一郭と言った方がよいかもしれない。普請が行われた時期には明らかな相違が見られるのだ。又、主郭部を後の拡張とする見方が多勢を占めているように思うが、主郭部の縄張に周辺城郭、同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある観勝院山城との類似性が指摘出来る事からむしろ逆であったと提言したい。この部分は武田氏による改修説さえ飛び出すが、比較的スムーズに安曇郡の一円支配を完成させた同氏が山上の小さな要害に手を加えるような事は無かったろう(基本的に拠点城以外の要害自体を武田氏は必要としていない。同氏による地域支配のあり方を理解しないと永遠に同じ過ちを繰り返す事になる。)。

築城年代は不明、築城者を安曇郡西山に地頭職を得た滋野氏流西山氏とするものがあり、「信府統記」には城主として仁科氏の被官、矢口筑前守の名が見える。何れにせよ、今に残る縄張は、中世〜戦国時代初頭にかけての仁科氏、もしくはその一族、被官衆の普請であった事に間違いは無いだろう。西山城の北東麓には同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある矢口氏居館が立地し、筑前屋敷の別称を持っている。

お城は安曇野の良城、信濃の山城好きならきっと満足する筈…仁科氏関連の要害は尾根筋に設けられた郭の連続感や段郭が際立っている印象があるが、それは此処でも遺憾無く発揮されている。城域は長大とはいえ、お城は前述したとおり二段構え、それぞれが完全に独立しているので探索にも苦労しない。遺構については多くを語らないが、通称2郭西側山側背後の二重堀切(大堀切1条を含む。)や主郭部に付く腰郭を貫く2条の堀切+竪堀には誰でも唸らされる事だろう。又、主郭部を仔細に見ていけば世間一般に流布している各種縄張図との相違に気付くかもしれない。仁科氏関連の要害は腰郭等の段の付き方に繊細なものを感じる。

城主とされる矢口氏については別の機会に譲るが、同氏は本姓、大伴氏であり、中世には安曇郡に割拠した他の同姓氏族(細萱氏、穂高氏等)と共に穂高神社の神職を世襲していたようだ。大町市平の野口地区に残る伝承によれば、矢口氏は本来、野口氏であり、同市内、若一王子社の流鏑馬の的を奉納していた事から姓を矢口に改めたとも。又、現在、穂高神社の御船会館(穂高神社資料館)で常設展示されている「三宮穂高社御造宮定日記」の一部は、清水石見守盛好と矢口備前守知光の連署によって奉之されたものだ。

※仁科氏〜安曇郡に拠った名家にして大族だが、残された史料は極めて断片的であり、体系的に語る事が難しい一族だ。

※穂高神社〜信濃国三宮、海無し県なのに海神、宇都志日金拆命(穂高見命)を主祭神とする。なんでなんかを知りたければ各自奮闘努力してくらさい。調べた結果は古代安曇野の成り立ちそのものだ。同社で毎年九月二十六日と二十七日に行われる「御船祭り」もそうだけど、何かと海と縁の深い神社だなぁ…

※「三宮穂高社御造宮定日記」の一部は、清水石見守盛好と矢口備前守知光の連署によって奉之された〜明應十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、穂高社の造営に際して安曇郡の諸郷に諸役と負担を注したもの。ちなみに往時から変遷する事無く三宮だった訳だ。

2024年07月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
細萱氏居館(殿村館・城内・内ぼり)[小岩嶽城  周辺城郭]



細萱氏居館(殿村館・城内・内ぼり)は小岩嶽城の南東約7.7km、万水川南岸(右岸)、標高約533mの平野部平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は隣接する殿村公民館に捨てられる。ちなみに「殿村」は小字であり、文字通り殿が住した村を表す。信濃ではよく見られる地名だ。

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方は細萱氏です。該地の細萱は矢原庄に属するが、時代不明なるも同庄の在地荘官(庄司)と推測されているのが大伴氏流の同氏である。細萱氏は信濃十六牧の一つ、猪鹿牧(いがまき)の別当でもあったらしい。又、安曇氏の衰退後には、有名な穂高神社の大旦那を引き継いだとされる。

細萱氏は、天明十五年(西暦1483年)二月三日、「三宮穂高社御造営日記」に、「大旦那盛知(細萱)、政所矢口通、執事長光寺覚朝」とあるのが文書上の初見、続いて、長享三年(西暦1493年)二月一日、大伴盛知(細萱治部少輔盛知)が、穂高神社式年造宮課役を安曇郡の諸郷に充てている。中世には仁科氏の被官化が決定的だが、同名に含まれる「盛」の通字に注意されたい。

武田氏時代においても仁科氏被官衆の一氏であり、天正八年(西暦1580年)八月朔日、等々力次右衛門宛、仁科盛信書状には、「一細萱河内守(長知)、同心、被官召連、十九ニ当府へ参着尤候、」とあり、仁科盛信は、細萱河内守長知に、同心、被官を召し連れて八月十九日に当府(大町)へ参着するよう指図している。長知が仁科家中において同心を従える身分であった事に注意されたい。

武田氏の滅亡後には、府中を回復した小笠原貞慶に従っている。天正十四年(西暦1586年)九月十八日、榛葉但馬守宛、小笠原貞慶書状には、「今度、越府へ指立候衆、上下共ニ、榛葉但馬守、細河(細萱河内守)両人指図次第、可走廻候、少も如在之輩ハ、両人加成敗候共、下知候間、不可有異儀者也、」とあり、小笠原貞慶は、榛葉但馬守、細萱河内守長知に、越府(春日山)へ出立する人数は上下共に両人の指図次第である事を確認させ、従わない輩を両人が成敗しても、この間においては異議を差し挟まない旨を伝えている。小笠原氏時代の長知が、外地へ人数を纏めて引率出来る身分であった事に注意されたい。

細萱氏は、小笠原氏時代、その跡を受けて松本を領した石川氏の時代にも様々な足跡を各地に残している。天正一三年(西暦1585年)二月十日には、細萱河内守長知が、安曇郡内、満願寺に同郡、牧の地(現安曇野市穂高牧)の阿弥陀地を寄進、天正十九年(西暦1591年)八月十三日には、河内守長知が、安曇郡青木郷の課役を定めている。又、慶長元年(西暦1596年)七月一日には、河内守長知が、安曇郡内、仁科神明の式年造宮を行い、是日、遷宮を行なっている。この際の仁科神明宮所蔵の木造棟札には、「本願河内守大伴朝臣長知」とその名が見える。

小笠原氏時代には郡奉行に相当する身分にあり、同氏の関東移封後には在地に留まり、松本を領した石川氏に出仕、引き続き郡奉行の立場にあったものと推測される。しかし後にはその役割を次第に石川氏の家臣、青木氏や渡辺氏に譲ったとされ、当初は連名だった文書等にはその名が見られなくなる。又、度重なる松本藩藩主の交代により在地勢力である細萱氏は必然的に凋落、単なる郷士格の身分から最終的には帰農した。

居館の現況は白眉だろう。よくぞ残っていてくれたと誰もが思う筈…当然、後世の改変もある訳だが、居館地を囲む空堀が北西隅を除いて健在、一部に土塁の残欠も確認出来る。大手筋は西側で、「構え」、「西番場」等の地名が残り、居館地の四囲は方一町の範囲で小路を形成、「西小路」、「南小路」は、一族、被官衆等の屋敷地であった。又、堀は万水川から引水されていたとも。ちなみに小笠原氏家臣、岩岡織部が記した「岩岡家記」には、天正壬午の乱の際に数十人が籠ったとする記述があるんだそう。

最近まで豊科町の指定史跡であったようだが、該地には一族の後裔の方が今もお住まい。希望により現在は(安曇野市の)指定史跡を解除されている。訪ねる際には所有者と必ず接触する事、気持ちよく対応して頂けるので無用のトラブルだけは避けるようにしよう。

※無名とはいえ細萱氏は比較的に史料に恵まれた氏族である。調べていて楽しい。ちなみに猪鹿牧の別当であった事が事実ならば、相当に古い時代から安曇郡に住していた事になる。

※写真⑦は要るのか知らんけど北方から撮影した近景っす。安曇野市ではよく見られる屋敷林だ。

※写真⑧はお花分野への進出を念頭に撮影したそこら辺に咲いていたなんちゃら花っす。

2024年07月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢原東村の堀ノ内[小岩嶽城  周辺城郭]



さて、おいらは余程の物件じゃない限り口コミでコピペはしないんだけど、今回ばかりは同一地域の似たような別物件から使いまくり、理由は単純、色々な事を調べても結局は同じ内容に落ち着いてしまうし、それ以上を書く事も殆ど出来ないから。

矢原東村の堀ノ内は小岩嶽城の東南東約7.1km、万水川西岸(左岸)、標高約530mの平野部平場に立地した居館です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所が付近に無いので少し歩く事も視野に入れよう。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地は平安時代中期の「和名類聚抄」にその名が見られる矢原郷に属し、同郷は後に荘園化して矢原庄となっている。領家は一定しないが伊勢神宮の御厨だった時期も度々であり、鎌倉時代には千七百町を数える比較的に大規模な荘園であった。又、時代不明なるも在地荘官に大伴氏流の細萱氏が推測されている。

中世には細萱氏を被官化させた仁科氏の支配を受けている。天正六年(西暦1578年)二月十日の「下諏訪秋宮造宮帳」には、「造宮仁科之領矢原之庄之内古厩、耳塚、細野、池田、正科、細萱、柏原…」とあり、矢原庄が武田氏時代においても「仁科之領」の内だった事が判る。

天正七年(西暦1579年)正月廿日、「下宮春宮造宮帳」、春宮御諸事の条には、秋宮拝殿三間を負担する、細かや、矢原、柏原、しろかね分の代官に、細萱源助、矢原孫右衛門、柏原道中、しろかね中嶋の名が見え、矢原東村の堀ノ内は、こうした代官等にして在地土豪層の「堀ノ内」ではないかと推測されている。

居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地等となっている。謂わゆる単郭の方形居館であるが、改変があるとはいえ、該地は玉垣で囲われた立派なお宅を中心とするので比較的に往時が想像し易い。遺構としては、西辺の一部に堀形、土塁の残滓が確認出来る。又、西方から伸びて西辺に直角でぶつかる舗装道路は、居館の敷地を避ける形(鉤の手)で曲げられて向きを変えており、この道筋に堀跡を見る事も十分に可能だろう。ちなみに航空写真等で見ると、西方を除けば周囲から隔絶された一区画の西側部分であり、むしろ居館の敷地範囲はこの区画の全域に及んでいたと考えた方がよいのかもしれない。

該地は、矢原庄の本郷と推測される矢原郷に含まれるが、承久三年(西暦1221年)の「承久の乱」を記した「承久記」には、矢原太郎なる者が幕府方として参陣している事が見える。古くから在名を名乗る武士が住していた事に間違いは無いんだろう。又、同庄の荘園政所の所在は不明だが、実際に現地を訪ねた結果、該地がこれに相当したとしても何ら不思議な事ではないような気がする。

※別物件〜同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある矢原北村の堀ノ内っす。

2024年07月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢原北村の堀ノ内[小岩嶽城  周辺城郭]



矢原北村の堀ノ内は小岩嶽城の東南東約6.3km、万水川西岸(左岸)、標高約532mの平野部平場に立地した居館です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所が付近に無いので少し歩く事も視野に入れよう。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地は平安時代中期の「和名類聚抄」にその名が見られる矢原郷に属し、同郷は後に荘園化して矢原庄となっている。領家は一定しないが伊勢神宮の御厨だった時期も度々であり、鎌倉時代には千七百町を数える比較的に大規模な荘園であった。又、時代不明なるも在地荘官には大伴氏流の細萱氏が推測されている。

中世には細萱氏を被官化させた仁科氏の支配を受けている。天正六年(西暦1578年)二月十日の「下諏訪秋宮造宮帳」には、「造宮仁科之領矢原之庄之内古厩、耳塚、細野、池田、正科、細萱、柏原…」とあり、矢原庄が武田氏時代においても「仁科之領」の内だった事が判る。

天正七年(西暦1579年)正月廿日、「下宮春宮造宮帳」、春宮御諸事の条には、秋宮拝殿三間を負担する、細かや、矢原、柏原、しろかねの代官に、細萱源助、矢原孫右衛門、柏原道中、しろかね中嶋の名が見え、矢原北村の堀ノ内は、こうした代官等にして在地土豪層の「堀ノ内」ではないかと推測されている。

居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地等となっている。謂わゆる単郭の方形居館であり、東辺と西辺には堀形が残っている。但し、西辺の堀形は幅員があり、これを基準に考えると居館の敷地範囲は家屋2軒分でしかなく、どちらかの堀形は後世の改変の可能性が高いように思われる。ちなみに西辺の堀形はそのまま耕作地に変貌しており、その幅員は約12mだ。

居館地に建つ一般住宅に隣接する蔵には「堀」の屋号が掲げられていた。安曇野市内では家紋や屋号を掲げたお宅をよく見掛けるんだけど、あれこれ妄想しながらそれを見て廻るのもおいらの密かな楽しみだったりする。「堀さんじゃないんだよ、堀ノ内だから堀なんだよ…」等と勝手に納得、勝手に感動、一人で悦に入る…そっとしておいてやってくれ。

2024年05月12日 信濃守あお
小岩嶽城

詰城まで到達できず。駐車場から7〜8分の廓の上部にある沢の左岸を五分程登りつめた所で行き止まり。物見台へも回遊して30分程の滞在。

2024年04月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
鼠穴城(城が峯)[小岩嶽城  周辺城郭]



鼠穴城(城が峯)は小岩嶽城の北方約4.1km、芦間川南岸(右岸)、中房川北岸(左岸)、標高1103mの山塊山頂から西方へ伸びる尾根端部上、標高724mの小ピークに立地する狼煙台や物見台の類いです。東麓の長野県道25号、山麓線からの比高は110m位でしょか。該地周辺の山塊は、西方、安曇富士、信濃富士とも称される標高2268mの有明山の最前衛でもあり、周辺地域には有明山、有明山神社に纏わる伝承、伝説地が数多く残る。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「牛窪古墳」を目標に設定して下さい。該地は正にGoogleマップが示すこの場所なんだけど、そもそも論で牛窪古墳としての位置が間違っちょる。取り付きは南麓からとなり適当見当付けて適当直登する。運が良けれは支尾根から直接主郭に辿り着ける。又、国土地理院地図に描かれる直近まで登れる林道は法面が垂直に近く後々の直登に支障をきたす事になる。急登だが取り付きから最短距離で登ってしまった方が確実だし早い。

築城年代、築城者は不明だが、仁科氏の一族、土屋盛俊が番士として詰め、同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある東麓の鼠穴館に居したとの伝承が残る。又、この鼠穴城を鼠穴館の詰城と見る向きを何かで見た記憶があるが、該地は単なる狭小な狼煙場か物見場に過ぎず、そんな訳があろう筈も無い。喫緊時には鼠穴館に籠った方が遥かに賢明だ。

「信濃の山城と館7、安曇・木曽編」に掲載がある他、「信州の山城」にも掲載がある。但し、城館としての紹介例が他に皆無であり、登城に関する情報は一切探し出す事が出来なかった。誰が興味を持つのか知らんけど、初物なんで参考程度に納めて下さいまし。おいらは今後も隙間を埋めていくぜ。

信濃のお城の神は2つの郭を推測しているが縄張は完全単郭でよいと思う(「信州の山城」は単郭とする。)。主郭はびっくりするぐらいの綺麗な削平地、但し、面積はごく僅かで文字通りの台でしかない。主郭西側山側背後には堀切が1条確認出来るが埋まり気味、他には何も無い…潔く狼煙台か物見台の縄張だ。西方山塊から張り出す山尾根端部上故に狼煙の中継点としては最適な立地だとは思う。

…主郭に足を踏み入れたら狸が2頭眠りこけてた。野生動物が寝ているのを見るのは初めての経験だ。写真を撮ろうとして静かにコンデジ君を取り出すも気付かれてしまい逃げられたんだけど、逃げる者を追い掛けてしまうおいらの習性が発動、折角登った斜面を走って20m程下る…お山は人に忘れかけていた野生を取り戻させるので注意っす。がおーっ!

※東麓から直登しようとしたけど急崖に近くてとても無理、取り付きを探して山際の用水路を辿っていたら既に南麓だった。又、城域を取り巻く林道は山陵の中段までしか登らない。

※北アルプスの前衛山塊は初春から初冬までより一層の注意が必要、装備も勿論だが、熊さんを狩りに行く気持ちで登ると気休めになる。遭遇して勝負になりそうだったら勝てないので素直に謝ろう(真面目な話、穏やかに話し掛ける事は有効らしい。)。ちなみにおいらは該地周辺地域で2度の目撃経験がある。

※鼠穴城の南西約1.7kmに鎮座する有明山神社(里宮)が素晴らしい。特に山門の一つ、裕明門は門外漢のおいらでも見惚れてしまう。坂上田村麻呂に倣って奥宮を参拝したい方は季節に合わせた完全登山装備で…有名なパワースポットだが、辿り着く前にパワーをかなり消耗するので結局は相殺されるだけだと思う。ちなみにおいらは過去に先輩に連れられて登らされた経験がある。二度と行かねぃ。

※既スポット登録位置は城域に被らないので改めてスポット登録し直した。悪しからず…

2024年04月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
鼠穴館(北海渡居館)[小岩嶽城  周辺城郭]



鼠穴館(北海渡居館)は小岩嶽城の北方約4.3km、芦間川南岸(右岸)、中房川北岸(左岸)、標高約618mの平野部緩斜面上平場に立地した居館です。該地の鼠穴、北海渡集落は芦間川によって創造された神戸原扇状地の末端部に位置し、西方山塊に続く高台でもある。周辺地域は縄文時代から人の定住が認められ(桜沢遺跡)、古墳時代後期には首長の存在が推測されている(牛窪古墳、祖父が塚古墳)。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「酒器道祖神・大黒天」を目標に設定して下さい。該地はこの道祖神の南西側一帯となる。推測される敷地面積はそれなりに広く、居館跡てよりは一族等が居する屋敷割りとした方が正解である。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは茅野氏です。他に仁科氏の一族、土屋盛俊が、同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある鼠穴城の番士として居したとの伝承がある。盛俊は小岩嶽城攻めの際に武田氏がために滅ぼされ、その後に入ったのが小笠原貞慶に従った諏訪氏の一族とされる茅野氏である。同氏が鼠穴館に居した経緯は不明だが、小笠原氏の家紋、三階菱の旗印を預けられ、穂高神社の祭礼はこの旗が赴かないと始まらないて伝統があったらしい。史料を探し出せないので事の真偽は不明だが、少なくとも該地には今でも茅野さん一族がお住まい。一帯には数箇所に同家の墓所がある。茅野氏とは武田氏時代の他国衆、下諏方五十騎の一氏、千野氏の事なんだろうか。

居館は謂わゆる一般的な方形居館ではなく、前述のとおり複雑に堀形が巡る屋敷割りの体裁を採っている。該地には、「久保屋敷」、「下屋敷」、「新屋敷」、「中屋敷」、「上手(わで)屋敷」と呼ばれる場所があり、周辺には「城が峯(鼠穴城)」、「西垣外」と呼ばれる場所がある。

各屋敷間を区画する内堀の堀形が実によく残っている。自然地形に手を加えたものと推測され、その一部には沢水の導水も疑われる。現況は不整形な屋敷割りだが、どうやら道路整備等、後世の改変により外堀の殆どを失っているようだ。又、古墳を想起させるような土の高まりも見られ、不整形な屋敷割りを一層複雑にしている。ちなみにおいらはこの探索を滅茶苦茶楽しんでいる。

茅野氏は小笠原貞慶の移封に従わず帰農したて事になるが、一族は当地で今も存続している。往時の感覚によれば、武士で在り続けるよりは一所懸命の土地を守り伝える事の方が何よりの関心事であった訳だ。小笠原氏家臣団の殆どは数度に及ぶ主家の転封に従い信濃を離れる事を余儀無くされるが、何を正解とするかについてはむしろ現代に至って答えが出たような気がする。近世以降の武士道とは無縁の主従関係に本来の武士の在り方を見るのはおいらだけじゃない筈だ。

※スポット登録は「上手屋敷」の位置とした。

※写真①は「久保屋敷」を撮影したもの。

※写真③は「上手屋敷」を撮影したもの。

※「鼠」の地名は「不寝見」に通じ、物見の場所を示唆するが、該地には別に地名に纏わる伝説(鼠石伝説)が存在するのでこの口コミでは言及しない。

2024年04月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
小岩嶽城



さて、アプリも桜とお城のコラボ写真で盛り上がりを見せる中、波には乗るけど流れには乗らないおいらはストイックに山城を口コミしやす。おいらの城郭写真は全てが記録用、焦点がぼやけてしまう桜も紅葉も本来の目的から外れてしまうので必要無し。汗と埃に塗れて泥だらけになりながら土と藪の香りを愛でるのが山城好きの本来の姿、そんな訳でアプリの登録城、小岩嶽城を再訪してみた。

小岩嶽城は天満沢川南岸(右岸)、富士尾沢川北岸(左岸)、標高1296.1mの富士尾山から東方へ伸びる尾根末端部上、標高約653m地点の緩斜面上平場を中心に立地する要害です。東麓の長野県道25号、山麓線からの比高は55m位でしょか。但し、小岩嶽城は大まかに言って前述の場所を根小屋部分とし、尾根中段上、標高約841m地点の小ピークを詰城としているので、此処までの比高となると240m位である。

行き方はGoogleマップに「小岩嶽城址公園」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。部分公園化されていて誰でも気軽に訪ねる事が出来るし車も捨てられる。

築城年代は大永二年(西暦1522年)、築城者は仁科盛国、城主を古厩氏とするが出典を探し出す事は出来なかった。該地の古厩郷を古厩氏が知行地としたのは間違い無いが、落城時の城主は仁科氏当主、仁科盛能(道外)の舎弟、小岩盛親(小岩嶽図書とも。)とされる。

城歴についてはアプリの城郭基本情報の概要を参照して下さい…なんだけど、武田勢による小岩嶽城攻めは、天文二十年(西暦1551年)と天文二十一年(西暦1552年)の二度行われている。又、籠城が三ヶ月に及んだとあるが、「高白斎記」によれば、「七月廿七日、向小岩竹上様御門出、…八月大、朔日辛丑、午刻御出馬、…十二日小岩竹攻城主生害、」とある。

根小屋部分までは散歩レベルで労せずして辿り着く。びっくりしたのは此処に結構な本数の桜の木が植えられていて、しかも満開に近い状態だった事…撮影の邪魔になる桜の木が恨めしくて仕方が無い。幼少期のワシントンを100人位召喚して解き放ちたい気分だったけど、地方紙の一面を飾る事だけは避けたいおいらは我慢して桜を撮影アングルから外す事に傾注する。それにしてもこんなに桜の木があるなんて知らんかったわ…

今回の再訪の目的は初回訪問時に諦めてしまった詰城部分を探索する事、登城路の情報も探し出せないに等しいので、支尾根間の鞍部を流れる沢筋の道を適当に登り詰める。が、道筋は途中で自然消滅、◯◯山なんで踏み跡は所々に散見されるが山頂を目指すものでは決してない。結局ガチの藪漕ぎになってしまい相当な無理をして急な斜面をよじ登った。又、高度を上げると巨岩が露出する岩場をすり抜けるポイントが複数箇所に現れる。結構ぎりぎりな部分もあるので四足歩行を厭わない方のみ挑戦するがいいさ。どんなルートを辿ったのかは当の本人にも判らないが、結果としては早めに右手に見える尾根筋に出た方が随分と楽だと思う。ちなみに詰城の遺構レベルは苦労対効果に全く見合っていない。

詰城部分は縄張図を見ると結構ごちゃごちゃしてるんだけど、尾根筋に段郭、主郭部は三段の削平地に帯郭状の腰郭、堀切が1条、これ等に巨岩の岩場が+されるだけの縄張である。普通に登れればそれなりに楽しめるけど、苦労するのが嫌ならすっばりと諦めた方が無難だと思う。

下山して根小屋部分に戻って来たら複数頭のニホンザルに遭遇、おいらを見ても互いの毛繕いに熱心で動じない。何だかムカついたんで胸ぐら掴んで往復ビンタ、教育的指導を叩き込んでから裏山に返してやろうと思ったけど、それをやってしまうと今後は人間社会に溶け込めなくなってしまうんじゃないかと危惧して止めといた。永遠のライバルとの決着は次回に持ち越し…

※天文二十年の小岩嶽城攻めは「宿城」に放火したのみで諏訪郡高島に馬を返している。「宿城」が何処を示すものなのかは不明だが、小岩嶽城のリア攻めマップにある古厩氏館や古厩城、もしくは空保木城(正確な位置を御存知の方、教えて下さるとかずりは大変喜びます。)の事を言っている可能性がある。

※落城時の城主を小岩盛親とする訳だが、それ故に当時の古厩氏の当主と混同され、それが定説ともなっている。但し、おいらは本来の仁科氏分流、古厩氏とは別に捉えるべき存在であったと考察する。史料等無くはっきりさせる事は難しいが、一族、一党が撫で斬りになる程の凄惨な戦いが行われたにも拘らず、時期不明なるも当の古厩氏は武田氏に出仕している。該地の小岩嶽は古厩氏の知行地、古厩郷の内ではあるが、盛親を小岩嶽を知行地とする小笠原氏に近い立場の仁科氏一族の一人だったと考えればすっきりする。何れにせよあらゆる面からの再考が必要だ。

2022年08月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
田ノ入城(茶臼山城・寺村山城)[小岩嶽城  周辺城郭]



〜崩落してしまったお城シリーズ〜

田ノ入城(茶臼山城・寺村山城)は小岩嶽城の北東約8.1km、標高約852mの大穴山山頂部に城域が存します。西麓平野部との比高は280m位ですが、城域直下まで舗装林道が延びているので徒歩で登る比高を10m位にする事も可能です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。前述の舗装林道脇には案内の標柱が立っています(田ノ入峠ていう峠でもある。)。が、誰でも最初は見付けられないでしょう。ちなみに舗装林道は軽四駆じゃないと無理なレベル…道は狭く荒れまくりな上に斜度の付いたヘアピンカーブが凄まじく厳しいので車を捨てた方が精神衛生上楽だったりします。

築城年代は不明、築城者は里伝から渋田見勘解由とされています。渋田見氏については同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある渋田見氏館を参照して下さい。

お城の現況ですが、地滑り具合が凄まじい…ミニカルデラですわ…旧態さえ全く判らん。地滑り箇所の先には不自然に小山が形成されてるのでたぶんあれが主郭部だったのかな…崖下に持ってかれたんでしょか。遺構は尾根筋の一部に僅かな痕跡を留めているだけに過ぎません。お城の存在を示す城跡碑も凄まじく微妙な所に立ってます。調子に乗って崖端ぎりぎりで写真撮影なんかしないように…自分の立っていた場所を別角度から確認したら信じられない所に立っていましたわ…何か足元の土がふわふわするなぁ…とは思ってたんすけど…ちなみに青柳城のリア攻めマップにある生坂村の日岐城を丸々眼下に収めます。

今夏の安曇野市とその周辺の城館口コミはとりまこれで一段落、駿州の城友さんには1日で10居館廻ったよと報告しましたが、最近数が数えられなくなってるのか12居館、4城廻ってました(1城は敗走…)。暑さで脳が溶けてたんすかね…でも居館廻りなんて楽勝でしょ〜とか思わないでw古い国土地理院地図を利用した位置図を頼りにGoogleマップで大まかな場所を叩き出し、且つ現地で居館の正確な位置を特定するのは情報があっても至難の技、毎回の如く「ありっ?何か違う…」とか呟きます。市街地や郊外の中の一軒を土地勘無いまま探すんだから大変な作業を伴うんす(車の捨て場所にも悩みます。)。それでも楽しいんだけどね〜特定した時の感動はリア攻めより優れますw

2022年08月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
構えの墓館[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

構えの墓館は小岩嶽城の南東約9.4km、標高約550mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。市街地ではありますが車はそこら辺に捨ててもOK♪レベルです。時間も取りませんし…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは成相氏に関係する者と推測されているそうです。成相氏については同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある成相氏館を参照して下さい。居館は同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある法蔵寺館を堀の内とする出構えとされていますので、武田氏が棒道(武田氏が整備したとされる軍道っす。)沿いに築いたものとする説も正しいんでしょう。

法蔵寺館の口コミでこの出構えを「無視しても大丈夫です。」と書きましたが、信濃の城館全制覇を目指すおいらは無視しないっ!ただ写真見て頂けたら解ると思いますが、ノーマルな方は行ってもしょうもないので悪しからず…標柱が立っているのがせめてもの救いかと…

居館の現況は全てが正しく墓地となっています。墓地の全てが居館の敷地を示していると言っても過言じゃないです。出構えとは言いましたが、実際は周囲に堀を巡らせた屋敷割りで守る意識は希薄な印象、大体、武田氏時代に築かれた説を採るならば、安定した支配領域である当地の守りを南東方向正面に厳重にする必要が一切無い。もしそう考えるなら法蔵寺館は成相氏の居館等ではなく、純粋に棒道沿いに築かれた武田氏の中継点、安曇郡内における宿城の機能を有していたようにも思えます。少なくとも交通の要衝であった事は間違い無いしね。ちなみに堀はもやい堰て言う堰から導水されていたようで、敷地の東辺、西辺には堀形が残っているらしいけど現地ではちょと難しい…南辺、北辺は舗装路を堀跡と考えればすっきりするかな。

リア攻め当日は墓参に来ている家族連れが居館を占拠していて写真撮影待ちの状態に…墓参りの方が正しく、此処をリア攻めする方がおかしいとは自分でも思います。

2018年05月06日 三尺坊左近衛中将影ちゃんII号
小岩嶽城

小岩嶽城址近くの農産物直売所の隣に日帰り温泉施設【しゃくなげの湯】が出来てました。小岩嶽城をリア攻めの後に寄ってみては?


小岩嶽城の周辺スポット情報

 観勝院山城(大和田山城)(周辺城郭)

 構えの墓館(周辺城郭)

 田ノ入城(茶臼山城・寺村山城)(周辺城郭)

 渋田見城(城山)(周辺城郭)

 白沢砦(周辺城郭)

 押野城(高田城)(周辺城郭)

 くねの内館(城が平)(周辺城郭)

 内堀館(周辺城郭)

 中村の殿田館(周辺城郭)

 荻原城(塩川原城)(周辺城郭)

 中村城(城峰・天狗山)(周辺城郭)

 池ノ戸城(周辺城郭)

 荻原古屋敷(周辺城郭)

 鼠穴城(周辺城郭)

 中島城(周辺城郭)

 平出城(周辺城郭)

 若松城(周辺城郭)

 鵜山城(周辺城郭)

 白駒城(城熊城・白熊城)(周辺城郭)

 長者が池館(周辺城郭)

 平出石原山城(周辺城郭)

 花岡城(周辺城郭)

 堀之内館(城の平)(周辺城郭)

 正科館B(周辺城郭)

 正科館A(周辺城郭)

 西山城(周辺城郭)

 矢口氏居館(堀屋敷・筑前屋敷)(周辺城郭)

 渋田見館(内堀)(周辺城郭)

 成相氏館(内堀・御屋敷)(周辺城郭)

 法蔵寺館(周辺城郭)

 細萱氏居館(殿村館・城内・内ぼり)(周辺城郭)

 矢原東村の堀ノ内(周辺城郭)

 矢原北村の堀ノ内(周辺城郭)

 主水城(あら城)(周辺城郭)

 等々力氏館(内堀)(周辺城郭)

 等々力城(周辺城郭)

 貝梅城(周辺城郭)

 穂高氏館(堀屋敷)(周辺城郭)

 狐ん城(周辺城郭)

 滝沢城(城山)(周辺城郭)

 滝沢館(堀屋敷)(周辺城郭)

 古厩氏館(堀屋敷)(周辺城郭)

 古厩城(正真院)(周辺城郭)

 鼠穴館(北海渡居館)(周辺城郭)

 鼠穴城(城が峯)(周辺城郭)

 露落館(周辺城郭)

 布上城(周辺城郭)

 仁科神明宮(寺社・史跡)

 等々力家(寺社・史跡)

 観勝院跡地(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

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