小岩嶽城(こいわたけじょう)

小岩嶽城の基本情報

通称・別名

小岩岳城

所在地

長野県安曇野市穂高有明3464-4

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

仁科氏

築城年

戦国時代

主な改修者

主な城主

仁科氏、古厩氏

廃城年

天正11年(1583)

遺構

曲輪、石積、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(小岩嶽城跡)

再建造物

模擬門、模擬塀、模擬櫓、石碑、説明板

周辺の城

中塔城(長野県松本市)[12.9km]
平瀬城(長野県松本市)[13.2km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[16.3km]
稲倉城(長野県松本市)[16.9km]
松本城(長野県松本市)[18.1km]
井川城(長野県松本市)[19.2km]
青柳城(長野県東筑摩郡)[20.2km]
仁科城(長野県大町市)[21.2km]
林城(長野県松本市)[21.8km]
桐原城(長野県松本市)[22.2km]

小岩嶽城の解説文



小岩嶽城(こいわたけじょう)は、信濃国安曇郡(のち南安曇郡)小岩嶽[1]、現在の長野県安曇野市にあった日本の城。安曇野市指定史跡。

概要 

中世仁科氏庶流の古厩氏が領有していた安曇郡穂高有明の古厩郷に、大永2年(1522年)仁科盛国が築城した。国人領主の仁科氏は信濃国守護小笠原氏とは抗争を経て被官化した経緯があり、臣下にあっても小笠原氏を警戒する狙いがあったものと思われる。

天文年間、武田晴信は信濃への侵攻を開始。天文21年(1552年)8月、武田軍は3000人の兵で500人で守る小岩嶽城を攻撃した。城主の仁科氏庶流小岩盛親は3ヶ月にわたる籠城の末自刃した。永禄4年(1561年)には仁科氏宗家も滅亡する。

その後、小岩嶽一帯の元々の領主である古厩氏は武田氏(森城主仁科盛信)に従った。天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は上杉景勝配下の市川信房に宛行われたが、後に小笠原貞慶が旧領に復帰し、古厩盛勝も小笠原氏に従った。しかし天正11年(1583年)、上杉方に通じて小笠原氏に逆心を企てたという理由で成敗された。小岩嶽城はこの時点で古厩氏居城の古厩城とともに廃城になったと思われている。

遺構 

現在、城は小岩嶽城址公園となっており、模擬門、櫓を模した展望台がある[2]

城の遺構は、山上だけではなく、山麓にもある[3]

山上の遺構
  • 曲輪[4]
    • 北の尾根には大小50段以上の削平地群が展開する[5]
  • 堀切、竪堀
    • 西の尾根には連続竪堀がある。

山麓の遺構
  • 曲輪[6]
  • 土塁
  • 石垣 - 自然石を積んだ「野面積」である。
  • 虎口
  • 空堀
    • 惣構 -山麓部を囲繞する空堀(幅約15メートル・深さ約7メートル)があり、横矢をかけるように折歪がつけられている[7]
  • 土橋

復元・関連建造物など

  • 櫓門 - 木造で建てられた門。後ろは林となっている。
  • 展望台 - 遊歩道から左手に登ったところに建立。石垣の上にのろし台を模したもの。中は登れるが暗いので要注意。
  • 小岩嶽城戦没者慰霊碑 - 武田氏の信濃侵攻の際に、戦死した籠城兵の慰霊のため建立。

交通 

  • JR大糸線・穂高駅から安曇野周遊バスに乗り「小岩岳別荘入口」バス停下車、徒歩約20分
  • 長野自動車道・安曇野ICから約30分
    • 小岩嶽城址公園駐車場(無料)

参考文献 

  • 【書籍】「 信濃 小岩岳城 」
  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年
  • 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年
  • 宮坂武男 著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館』第7巻 戎光祥出版 2013年

小岩嶽城の口コミ情報

2022年08月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
田ノ入城(茶臼山城・寺村山城)[小岩嶽城  周辺城郭]



〜崩落してしまったお城シリーズ〜

田ノ入城(茶臼山城・寺村山城)は小岩嶽城の北東約8.1km、標高約852mの大穴山山頂部に城域が存します。西麓平野部との比高は280m位ですが、城域直下まで舗装林道が延びているので徒歩で登る比高を10m位にする事も可能です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。前述の舗装林道脇には案内の標柱が立っています(田ノ入峠ていう峠でもある。)。が、誰でも最初は見付けられないでしょう。ちなみに舗装林道は軽四駆じゃないと無理なレベル…道は狭く荒れまくりな上に斜度の付いたヘアピンカーブが凄まじく厳しいので車を捨てた方が精神衛生上楽だったりします。

築城年代は不明、築城者は里伝から渋田見勘解由とされています。渋田見氏については同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある渋田見氏館を参照して下さい。

お城の現況ですが、地滑り具合が凄まじい…ミニカルデラですわ…旧態さえ全く判らん。地滑り箇所の先には不自然に小山が形成されてるのでたぶんあれが主郭部だったのかな…崖下に持ってかれたんでしょか。遺構は尾根筋の一部に僅かな痕跡を留めているだけに過ぎません。お城の存在を示す城跡碑も凄まじく微妙な所に立ってます。調子に乗って崖端ぎりぎりで写真撮影なんかしないように…自分の立っていた場所を別角度から確認したら信じられない所に立っていましたわ…何か足元の土がふわふわするなぁ…とは思ってたんすけど…ちなみに青柳城のリア攻めマップにある生坂村の日岐城を丸々眼下に収めます。

今夏の安曇野市とその周辺の城館口コミはとりまこれで一段落、駿州の城友さんには1日で10居館廻ったよと報告しましたが、最近数が数えられなくなってるのか12居館、4城廻ってました(1城は敗走…)。暑さで脳が溶けてたんすかね…でも居館廻りなんて楽勝でしょ〜とか思わないでw古い国土地理院地図を利用した位置図を頼りにGoogleマップで大まかな場所を叩き出し、且つ現地で居館の正確な位置を特定するのは情報があっても至難の技、毎回の如く「ありっ?何か違う…」とか呟きます。市街地や郊外の中の一軒を土地勘無いまま探すんだから大変な作業を伴うんす(車の捨て場所にも悩みます。)。それでも楽しいんだけどね〜特定した時の感動はリア攻めより優れますw

2022年08月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
滝沢城(城山)[小岩嶽城  周辺城郭]



〜崩落してしまったお城シリーズ〜

滝沢城(城山)は小岩嶽城の北東約8.0km、標高約759mの山塊山頂に主郭が存します。南麓の舗装林道からの比高は80m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは前述の舗装林道からで案内板も立っています。ちなみにこの林道を登り詰めると同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある田ノ入城に辿り着きます。

築城年代は不明、築城者は滝澤氏です。滝澤氏については同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある滝沢館を参照して下さい。お城はこの滝沢館の要害です。

松本盆地は太古の昔、フォッサマグナと呼ばれる海溝(松本盆地だけではない、東縁を新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線、西縁を糸魚川静岡構造線とする間っす。)で日本列島を分断する海の底だったのはよく知られた話です。ユーラシアプレートと北アメリカプレートを主源とする東西短縮地殻変動(沈み込み。)により日本列島が衝突、海溝が消失し、マグマを内包した地殻が隆起、傾き変形が加わった事で北アルプスに代表される険しく急峻な山岳地形が形成されました。北アルプス等は今も隆起を続けており、地滑り、斜面崩落等は現在でも周辺地域に好発します。

お城の口コミの分際で凄まじく壮大な話になってしまい自分でもびっくりですが、それが理由かは知らんけど(むしろ他にも様々な要因があるしねぇ…)…長野県内の山城では度々崩落しまくった城跡に出会う事も珍しくありません。塩尻市の本城なんかもそうですが、この滝沢城もその内の一つとなります。

お城の縄張は概ねで雛壇状に山頂まで帯郭を連ねた単純な縄張ですが、山頂に辿り着くとその先がばっさり無い…主郭は東西六間、南北十二間の立派な削平地だったらしいのですが…従ってお城の遺構は概ねで西側斜面にしか確認出来ません。特筆すべきはこの縄張に不相応な畝状竪堀(天正壬午の乱の際の上杉氏の関与さえ疑わせる。取って付けたようにあるので後の改修である事は明らか。)の存在ですが、藪まみれで何が何やら…冬場なら確認出来るらしいんですが…他には大手筋に土塁を伴った虎口なんかが確認出来ます。

城友さん曰くおもてなし度の高いお城です。案内板や説明板もしっかりしている他、城域内には過剰な程のベンチが設定されています。悪い気は全然しないけど…

2022年08月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
滝沢館(堀屋敷)[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

滝沢館(堀屋敷)は小岩嶽城の北東約7.6km、標高約622mの山塊斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南西方のあづみ野バラ園を目標に設定して下さい。車を捨てたら後はリア攻めマップを参照して徒歩でお願いします。該地周辺は滝の台団地と呼ばれる住宅地(此処に将来移住したいぜ〜)となっています。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは滝澤氏です。同氏は出自が不明ですが、仁科氏被官衆の一氏で、詰城である滝沢城の説明板を信ずるならば、関谷氏(不明)の者が滝沢郷に住し、滝澤四郎城重(真々部左衛門尉直通の娘を室とする。)が当地、古城並に館を築き、天文十九年(西暦1550年)十月に滝沢城が落城(事実なら年に誤りがあると思われる。天文二十一年の出来事じゃないかな。)した際の当主は滝澤左衛門宗重だそう。宗重の当地への移住(家督相続か。)は天文十六年(西暦1546年)十月とされているので、その在地は丁度四年間て事になる。が、この説明板、滝澤氏家系図を元にしているのでその点を割り引いて見る必要があるし、説明板自体の文章もおかしなところがある上に内容に矛盾も生じているので額面通りに受け取れない。少なくとも仁科氏は高白斎記、天文十九年七月十五日(武田勢がイヌイの城を攻め落とし、大城(林)、深志、岡田、桐原、山家の各城が自落した日でもある。)条から、当主の仁科道外盛能は仁科上野介と共にこの日に駒井高白斎と接触しており、小笠原長時府中退去後には間を置かずして武田氏に出仕している事から仁科氏被官衆である滝澤氏が十月に至ってから武田氏に抵抗する理由が特に見当たらない。

居館の現況は概ねで一般住宅とその敷地等となっています。明治時代初期に編纂された長野県町村誌には「滝沢古城墟」として記載があり、それによると八角形の縄張であったそう。又、遺濠は無水であったとも記されているので空堀も当時は残っていた事になりますね。今は何も残っていないに等しいけど、「堀の畑」の地名の北側には土塁様の高まり(荒神社て小社が鎮座する。)が確認出来たりします。

北アルプスの代表的山峰の殆どを見る事が出来る素晴らしい眺望を持つ居館です。景色にあまり興味の無い(?)信濃のお城の神もこの点を特に文頭に記しています。

2022年08月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
渋田見館(内堀)[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

渋田見館(内堀)は小岩嶽城の東北約6.5km、標高約563mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている居館敷地南側のまごころボックス・ぼっぽを目標に設定して下さい。北側の水田と耕作地が概ねの該地です。車は一般道路に捨てる事になるので適当な場所を御自身の責任において選びましょう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは渋田見氏です。初め長生寺に入って僧籍にあったが後に還俗して長生寺姓を名乗ったそうです。同氏は仁科氏の一族、系図上、仁科盛国の四男、安芸守盛家の孫に渋田見伊勢守長盛がいる。又、生島足島神社文書に残る堀金盛広等連署起請文中に他の仁科系諸氏と共に渋田見源助政長の名が見られます。伊勢内宮御師、宇治久家が記した信濃国道者之御祓くばり日記に「しふたミ主水殿 熨斗五十本、上々茶十袋」とあり、在地土豪の領主クラスが久家から頂けるレベルの御土産が主水に配られています。

小笠原貞慶が府中を回復すると渋田見氏はこれに従い中信の平定に尽力しますが、天正十八年(西暦1590年)の小笠原氏改易には同道せず、小笠原秀政の松本藩加増移封に伴い再出仕、大坂の陣にも参陣しています。小倉藩時代の小笠原氏では渋田見氏は名族、仁科氏の本流として扱われ、時期にもよるんだろうけど千七百石を知行していたんだそう。

居館の現況は水田、耕作地、一般住宅とその敷地等となっています。明治時代初期に編纂された長野県町村誌には「渋田見山古城地」として記載があり、高五尺(約1.5m)、長十八間(約32.4m)の石垣が残っていたとあるんですが、今ではその面影すら認められません。ちなみに該地は(株)大雪渓酒造さんの直近なので直売で日本酒を買うのもよいかもしれん。

このリア攻め後に詰城の方へ転戦しよと思ったんですが、登り始めたら数匹のオオスズメバチに付き纏われて断念しちゃいました。酷暑の中、折角山城登る気になったのに〜

2022年08月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
構えの墓館[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

構えの墓館は小岩嶽城の南東約9.4km、標高約550mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。市街地ではありますが車はそこら辺に捨ててもOK♪レベルです。時間も取りませんし…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは成相氏に関係する者と推測されているそうです。成相氏については同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある成相氏館を参照して下さい。居館は同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある法蔵寺館を堀の内とする出構えとされていますので、武田氏が棒道(武田氏が整備したとされる軍道っす。)沿いに築いたものとする説も正しいんでしょう。

法蔵寺館の口コミでこの出構えを「無視しても大丈夫です。」と書きましたが、信濃の城館全制覇を目指すおいらは無視しないっ!ただ写真見て頂けたら解ると思いますが、ノーマルな方は行ってもしょうもないので悪しからず…標柱が立っているのがせめてもの救いかと…

居館の現況は全てが正しく墓地となっています。墓地の全てが居館の敷地を示していると言っても過言じゃないです。出構えとは言いましたが、実際は周囲に堀を巡らせた屋敷割りで守る意識は希薄な印象、大体、武田氏時代に築かれた説を採るならば、安定した支配領域である当地の守りを南東方向正面に厳重にする必要が一切無い。もしそう考えるなら法蔵寺館は成相氏の居館等ではなく、純粋に棒道沿いに築かれた武田氏の中継点、安曇郡内における宿城の機能を有していたようにも思えます。少なくとも交通の要衝であった事は間違い無いしね。ちなみに堀はもやい堰て言う堰から導水されていたようで、敷地の東辺、西辺には堀形が残っているらしいけど現地ではちょと難しい…南辺、北辺は舗装路を堀跡と考えればすっきりするかな。

リア攻め当日は墓参に来ている家族連れが居館を占拠していて写真撮影待ちの状態に…墓参りの方が正しく、此処をリア攻めする方がおかしいとは自分でも思います。

2022年08月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
法蔵寺館[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

法蔵寺館は小岩嶽城の南東約9.1km、標高約548mの平野部平場に建つ浄土宗の寺院、法蔵寺敷地内に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。当たり前だけど法蔵寺でも勿論OK♪駐車も出来ます。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは位置関係から成相氏に関係する者と推測されているそうです。成相氏については同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある成相氏館を参照して下さい。が、居館の敷地は広く在地の小土豪が築けるレベルとも考え難いので、標柱にあるとおり武田氏が棒道(武田氏が整備したとされる軍道っす。)沿いに築いた居館城だったとする説が正しいように感じます。

法蔵寺は歴史あるお寺さんで、山号は周岳山、永正年間(西暦1504〜1521年)、吉野郷、吉野の堀屋敷に居した丸山丹後守(初代)によって開基され、成相新田宿の開設に伴い慶長十六年(西暦1611年)、吉野梶海渡から当地に移転した経緯を持ちます。居館の跡地は寺院の敷地として適地だった事でしょう。ちなみに山門は諏訪大隈流伊藤(柴宮)長左衛門造で長野県宝、庫裡は中塔城のリア攻めマップにある岩原城下に存した安楽寺(廃寺マニアは是非…立派な石垣が残存、廃墟感MAXです。)より移築されたものだそう。

居館の現況は寺院とその敷地、公園等となっています。周囲に堀を巡らせ、その内側を土塁で囲んだ方形居館だったようで、東辺と北辺には堀跡と思しき水路が巡り、一部に土塁の残滓なんかも確認出来ます。そういえば居館跡を示す標柱に、武田氏は棒道沿いに最短距離を取って「もやい堰」を開削し堀に導水したとの記述がありました。ちなみにこの記述、何処から引っ張って来たのか知らんけど出典を見てみたいもの…今絶賛編纂中の安曇野市誌の刊行を待ちましょか…

法蔵寺は江戸時代には門前に六坊が立ち並ぶ程の寺院、現代においても名刹と言えるんでしょう(おいらは門外漢だけどね。)。居館跡として訪ねるより寺院として訪ねた方が健全だし正常だと思います。ちなみに法蔵寺館は居館の分際で出構えを持っています。訪ねてみても墓参りに行くようなものなので無視しても大丈夫です。

2022年08月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
成相氏館(内堀・御屋敷)[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

成相氏館(内堀・御屋敷)は小岩嶽城の南東約9.6km、標高約563mの平野部平場に存した居館です。ちなみに成相は「なりあい」て読むみたい。地域によっては違う読み方も幾つかあります。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、ぼけぼけしてると通り過ぎると思います。おいらはぼけぼけしてました。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは成相氏です。同氏は出自も含めて詳細が不明、断片でしか事跡を追う事が出来ませんが、天正十八年(西暦1590年)の小笠原氏改易には同道せず石川氏時代には郷士となり、慶安四年(西暦1651年)の成相町検地帳には庄屋としてその名が見られるそうなので安曇郡内における在地土豪の一氏であった事は間違い無い。天正十一年(西暦1583年)二月十四日付犬甘久知宛小笠原貞慶書状には「…仁科の仕置相済み候はば、その内にも番替越し候べく候。このよし成相藤兵衛、猪之助、その他何れへも、委しく伝達肝要にて候。」と述べられ、成相藤兵衛と猪之助はこの時期日岐城に在番していた犬甘氏の寄子同心として同城に出張していた事が判ります。ちなみに成相の地は慶長八年(西暦1604年)、千石街道(千国大道として古代より存在する。武田氏によって整備された軍道、棒道と一部区間が重複する。)の経路変更により新たに宿場(成相新田宿)が設けられています。

居館の現況は「内堀」、「御屋敷」の地名を中心にしてほぼ水田、一部が店舗併用住宅とその敷地となっています。土地の構造改革が行われる以前は東南部に高さ約2m程の土塁、又、豊科町誌によると居館を囲む堀は二重堀だったらしく、土塁は外堀の内側に設けられ、大正年代まで北辺に残っていた外堀は水泳が出来る程の水を湛えていたそうです。

個人的な話になるけど、おいらはやっぱり地方史が大好きなんだなぁ…その背景や人物を知るとただの水田でも何だか意味ありげなものに思えて来るし感慨深くもある。夏の暑い時期に山城登る気にはとてもなれねぃけど、こういうのもたまにはいいかな。

ちなみにリア攻め時間は3分位、ノーマルな方はまぁ無理だと思います。

2022年08月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
古厩城(正真院)[小岩嶽城  周辺城郭]



古厩城(正真院)は小岩嶽城の北東約2.5km、標高約585mの平野部緩斜面上平場に城域が存します。該地は現在概ねで曹洞宗の寺院、正真院の境内とその敷地となっています。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。当たり前だけど正真院でも勿論OK♪駐車も出来ます。

築城年代は不明、築城者は古厩氏です。古厩氏については同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある古厩氏館を参照して下さい。

仁科氏は小笠原氏の被官化が進んだ盛国の代においてその子息等を安曇郡内の各所に配して勢力を維持しましたが、何となくその頃の築城のように思えます。信濃のお城の神本では盛国の三男、盛兼が古厩郷に配され古厩氏を称し因幡守を名乗ったとしていますが、盛国の三男は盛親であり、盛親は小岩氏を称し古厩郷内、小岩嶽城主となっています。古厩氏は武田氏時代、生島足島神社文書に残る堀金盛広等連署起請文中に他の仁科系諸氏と共に古厩平三盛隆の名が見られますが、盛兼の嫡男、後に古厩氏を継ぐ事になる因幡守盛勝との関係性は不明となってしまいます。どうにもすっきりしませんわ…

お城の現況は水田、空地、一般住宅とその敷地、寺院とその敷地(墓地)等となっています。お城は居館城だったらしく、北辺には中堰と呼ばれる水路が走っていて堀跡の趣き。又、本堂の北側には後世の削平残土かもしれませんがL字形の土塁様の土盛りが確認出来ます。信濃のお城の神も疑問を呈していますが城域は縄張図の範囲よりも狭いかもしれません。

リア攻め中にちょと感動したのが城域内で何頭かの馬が飼育されていた事、古厩の地名に相応しく何だか妙に納得してしまいました。往時も馬屋が建っていたんだろうなぁ…

2022年08月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
古厩氏館(堀屋敷)[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

古厩氏館(堀屋敷)は小岩嶽城の東北約3.6km、標高約557mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。古厩本郷交差点の西側一帯が概ねの該地ですが、敷地の一部は東西に走る有明山通りによって分断されています。

古厩郷は江戸時代に入り経路変更された千石街道の旧道(千国大道)沿いであり、古代より整備された旧道は中世には深志から橋爪、耳塚、古厩、立石、狐穴、鼠穴を通り越後国糸魚川方面へ抜ける塩の道でもありました。古厩の地名は伝馬制における厩が置かれた地であった事を意味するようです。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは仁科氏の庶流、古厩氏です。同氏については情報が錯綜(仁科氏自体も出自が確定されていないけど…)していて信濃のお城の神本でも混乱が見受けられます。はっきりするのは古厩因幡守盛兼からで、天文二十一年(西暦1552年)七月、武田氏による小岩嶽城攻めで城主の小岩盛親に同心して籠城し討死、その子、因幡守盛勝は武田氏に従いますが、信長横死後に府中を回復した小笠原貞慶によって天正十一年(西暦1583年)二月十三日子刻、逆心の疑いにより松本城において誘殺されました。貞慶は翌日の二月十四日付犬甘久知宛書状において盛勝の子、平三盛時を取り逃した事を語り、併せて必ず探し出して処置するとの決心を述べています。

居館の現況は耕作地、空地、一般道路、一般住宅とその敷地等となっています。東辺、南辺の一部に水路とか走っていますが、これを堀跡に通したものと推測するのは早計でしょか。居館の敷地は方形で周囲に堀を巡らせた(堀屋敷だしね。)オーソドックスなものだったと思います。

小豪族が一度去就を誤れば家名の存続は難しいものです。古厩氏もこの時代の大半を占める生き残れなかった一氏です。大勢力の狭間にあって一所懸命、伝領された土地を守り、家名を残そうとする努力は水泡(前述の小笠原貞慶書状には「成敗候。」で片付けられる…)に帰しました。その無念を結構交通量の多い古厩本郷交差点で偲ぶ休日の趣味も中々だとは思います。

2022年05月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
細萱氏居館(殿村館・城内・内ぼり)[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

細萱氏居館(殿村館・城内・内ぼり)は小岩嶽城の南東約7.7km、万水川南岸(右岸)、標高約533mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている居館の南側に建つ安曇窓建を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。自分も特定に10分位費やしています。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは細萱氏です。同氏は犬甘系大伴氏、鎌倉時代以降に細萱の開発主体として西方の堀金郷にまで進出、発展していったと推測(穂高町誌)されています。が、信濃十六牧の一つであった猪鹿牧(現安曇野市穂高牧)の別当はこの細萱氏であり、犬甘氏の存在と相まって時代は奈良時代にまで遡る事が可能な他、堀金郷の存した位置は猪鹿牧に含まれる、もしくは近接していると思われるので更なる研究が必要なんじゃないでしょか。

はっきりしてくるのは室町時代後期からで、同氏は仁科系堀金氏の進出を受けて堀金郷の領主権を奪われた他、穂高神社の祭祀権をも仁科氏に譲っています。武田氏時代には仁科氏の被官化が進んだようで、天正八年(西暦1580年)頃と推測される等々力次右衛門宛て仁科盛信発給文書に、細萱河内守は寄子同心と被官を召し連れて十九日に大町に参着する事とあり、盛信の命を次右衛門を通じて受けている事が判ります。

居館の現況は一般住宅とその敷地となっています。が、信濃における居館跡としては白眉、最も往時を偲ばせてくれるものの一つでしょう。謂わゆる堀と土塁で囲われた方形居館ですが、空堀が一部を除いて現存している他、空堀の内側に設けられた土塁の残滓なんかも確認出来ます。土橋は後世の改変でしょかね。兎に角、下手な山城よりも空堀の残存率が素晴らしく、土地の有効活用が出来ない事を思わず心配したりなんかもします。又、びっくりする事に史跡碑がお庭のど真ん中に建っていたりします。ちなみにこの居館、岩岡家記によれば天正十年(西暦1582)、数十人が籠って合戦に及んだ事があるそうです。

街中遺構ハントってよりはお宅訪問に近いと思います。訪ねる際は家人と接触しましょう。干してある洗濯物を除けてくれました。

2022年05月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
主水城(あら城)[小岩嶽城  周辺城郭]



主水城(あら城)は小岩嶽城の東南約6.7km、穂高川南岸(右岸)、欠の川北岸(左岸)、標高約524mの平野部平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されている城域北西側に建つ飲食店、百千月を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。自分も特定に20分位費やしました。

築城年代は不明、築城者は等々力氏です。等々力氏については同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある等々力氏館を参照して下さい。お城は等々力氏領分東方の守りを固める支城であるとされていますが、単純に等々力氏に関係する者の居館城の一つであったようにも思えます。

お城の現況は一般住宅とその敷地等となっています。城域は「モンドジョウ」の地名が残る範囲から導き出された答えとなります。が、南辺を形成する欠の川の流れが往時と同じだとはとても言えないでしょう。該地周辺は地図見りゃ解るけど大小河川の集中する場所でもあり、洪水、河川の氾濫が好発する地域でした。周囲を探索しましたが遺構は何にも…意味ありげな稲荷社が鎮座している事ぐらい、後世集落の中心ではあったようですね。

主水は名乗りだと思うので、そういう方が居していたのでしょう。別称のあら城は「新城」か「荒城」を意味するらしいので、新しいお城か簡素なお城て事になるんでしょか。

それにしても周辺地域は流石にわさび農場が点在する地域だけあって水の流れが綺麗だぜ〜お城そっちのけで水生植物の写真ばかり撮っていたわ…主水城を訪ねても位置の確認作業だけで目的の98%は達成出来てると思うのでそれが正解だったと思いやす。

2022年05月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
等々力城[小岩嶽城  周辺城郭]



等々力城は小岩嶽城の東南約5.9km、穂高川南岸(右岸)、欠の川北岸(左岸)、標高約533mの平野部平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、ピンの位置は欠の川南岸(右岸)にずれているので現地で修正しましょう。

築城年代は不明、築城者は等々力氏です。等々力氏については同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある等々力氏館を参照して下さい。天正五年(西暦1577年)九月五日、仁科盛信は等々力次右衛門、細野甚四郎宛ての文書で、越後境の敵城を穏便として案内し城主の行、格法を密かに見分けて仔細を報告した旨を賞しています。穂高町誌ではこの敵城を根知城の辺りではないかと推測していて、御親類衆の有力被官としては結構な頑張り屋さんだったんだなと思います。

お城の現況は雑木林、耕作地、墓地等となっています。居館城だったらしいのですが、周囲より一段高い微高地でもあり、等々力氏館とは趣きを異にしています。城域は一面の麦畑ですが、東辺と北辺には土塁が残り、土塁上には櫓台状の削平地が確認出来ます。又、土塁脇には城跡碑が立っていますので位置の特定自体はすんなりっす。

等々力氏は武田氏滅亡後は郷士として在地し、小笠原忠脩に従い大阪冬の陣にも参陣しました。その後は帰農し穂高のみならず近隣諸村に分家を派出する大庄屋に発展します。等々力の地は江戸時代後期に犀川通船が整備されると犀川に通じる穂高川、万水川の寄港地として物資の集積場となりました。安曇野の歴史を語る上で等々力氏はその主家よりも重要な位置を占めていたと考えます。

2022年05月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
等々力氏館(内堀)[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

等々力氏館(内堀)は小岩嶽城の東南約6.2km、標高約532mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、舗装路を挟んだ居館の北側に建つ等々力家と混同しないように…こちらは江戸時代の大庄屋宅、野行の際の松本藩主の本陣でもあり、現在観光スポットの一つです。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは等々力氏です。同氏は仁科氏の最も有力な被官衆の一つ、飛鳥時代の済明天皇二年(西暦656年)からその名を見る事が出来るそうです。応永七年(西暦1400年)の大塔合戦には仁科盛房に従った被官衆の中に「戸渡呂木」の名で、又、永禄十年(西暦1567年)の生島足島神社文書、堀金平大夫盛広起請文中には等々力豊前守定厚の名が確認出来ます。

仁科氏は武田信玄の五男、盛信が後嗣に入った事で有名ですが、等々力氏は引き続き盛信に随身し穂高とその周辺地域の一部を所領としていました。盛信は天正八年(西暦1580年)、仁科領中に散在する馬市を穂高に集する旨の書状を等々力次右衛門宛てに複数発給しています。次右衛門は盛信から直接文書の発給を受け、在地領主等に指示を出せる立場にあった事が判ります。少しびっくりしたのが、越後の不動山城に次右衛門等の仁科衆が城番として出張している事が前記文書等で確認出来る事で、天正七年(西暦1579年)の甲越和睦が武田氏にとって有利な条件で結ばれた事の証左の一つと言えるんでしょう。

居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地等となっています。該地には「内堀」、「倉屋敷」の地名が残り居館の存在を今に裏付けていますね。縄張図を見ると堀形が残っているんですが、一つは整地により完全消滅、もう一つは「う〜ん…」て感じ…何にも残っていないに等しいと思います。

等々力氏館は訪ねてもしょうもない代物ですが、等々力家の方は長大な長屋門が目立ちまくりの旧家ですので訪ねるのなら是非こちらを…門外漢なので口コミはしないと思いますが、数式に表すと以下のとおりとなります。

「等々力氏館」<「等々力家」

参考までに…

※「とどろき」なのか「とどりき」なのかはたぶんどうでもよいんだと思います。

2022年05月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢原東村の堀ノ内[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

矢原東村の堀ノ内は小岩嶽城の東南約7.1km、標高約530mの平野部平場に存した居館です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…自分も特定に20分位費やしました。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。居館の存した仁科氏の支配領域である矢原庄(御厨であった。)ですが、承久の乱の際に矢原太郎なる武士が幕府方に参陣しており、矢原を姓とする人物の存在があった事が判ります。ただ鎌倉時代の話になってくるので往時の居館跡とするには無理があるし、御厨の政所とする説も無理なんでしょう。天正七年(西暦1579年)、下宮春宮造宮帳の附記、春宮御柱諸事の中に「秋宮三間拝殿 細かや」とあり、その代官を細萱源助、矢原孫右衛門、柏原道中、しろかね中嶋としており、諏訪社の造宮に関わる諸人何れかの居館であった可能性を穂高町誌では大(同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある矢原北村の堀ノ内も同様である。)としています。又、各資料を探れば他にも居館の主として可能性のある関係各氏は多数に上るようです。

居館の現況は一般住宅とその敷地となっています。何にも無いかなと思ってたら敷地の東辺と西辺に堀形、西辺の一部には土塁の残滓が残っていました。改変に囚われてファジーな印象しか残らない居館跡が殆どだと思いますが、北辺の舗装路を堀跡とする方形居館の形状(今に建つ一般住宅とその敷地は居館の敷地を踏襲している。)がよく判ります。

リア攻め中に周辺住民から「何の写真撮ってるの?」と声を掛けられました。「此処が昔は武士の館だったと聞いたので訪ねて来たんす。」と答えると、「嘘〜、そんな事初めて聞いたよ〜」て言われました。知る訳も無いわな…

2022年05月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢原北村の堀ノ内[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

矢原北村の堀ノ内は小岩嶽城の東南約6.7km、標高約532mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている居館北方に建つ飲食店、和日庵・喜治を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。自分も特定に20分位費やしました。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。居館の存した仁科氏の支配領域である矢原庄ですが、時代の振れ幅もあるし、領主やら代官やらの関係各氏は多数に上るので特定出来ないてのが実情でしょう。穂高町誌ではこうした土豪層の居館であったと推測していますが、やはりはっきりとさせる事は出来ないようです。

居館の現況は一般住宅とその敷地となっています。何にも無いかなと思ってたら敷地の東辺と西辺に堀形が残ってました。西辺のものは家庭菜園に変貌してましたが…後は頑張っても無理な感じだし、頑張ったら頑張ったで通報されるだけなので素直に諦めましょう。

街中遺構ハントのテクニックが身に付いていないおいらは此処でも大苦戦、周辺住民の眼が気になるぜ〜次回からはカモフラージュで腕章とかIDカードなんかを胸からぶら下げてリア攻めに臨もうかしらん…「あっ、何かの調査に来たのね。大変ね〜でも男前やわ〜TVの人かしら…」とか思ってくれたら御の字なんすけど…

2022年05月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
貝梅城[小岩嶽城  周辺城郭]



貝梅城は小岩嶽城の東方約4.9km、標高約538mの平野部平場に城石碑が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。該地は穂高総合体育館北側の駐車場の一角、車で横付け出来ます。

築城年代、築城者はとりま不明ですが、居館城だったらしく城主として信府統記には高根伊勢守の名が伝わり、同名は貝梅に居館を構え居していたそうです。貝梅の地は村落の形成があったようですが退転してしまい、等々力町村、穂高町村から田畑の作付けに来ていたそうです。当地は洪水の多発する場所だったそうなのでちょと住むのは勘弁みたいな感じだったんでしょかね。又、城石碑の傍らにある由緒書の石碑には中世に在地領主(等々力氏か。貝梅は戦国時代に同氏の領分であった。)の一氏が周辺に北城なる城砦を築いた事が、該地には堀で囲われた東竜寺というお寺さんが建っていた事が記されています。

高根伊勢守も事跡が不明ですが、この方が穂高神社を勧進した事が穂高の地名の由来と伝わります。が、里伝の範疇の話で俄に信じ難いし、穂高神社の創建は古墳時代後期にまで遡る(神域を避ける様に古墳が点在する。)と思われますので、単純に再建か造宮に関わった人物か何かの間違いでしょう。

お城は古くに洪水で押し流されたそうで何にも…ただ城石碑が建つのみで信濃のお城の神も匙を投げています。従って城域の推定すら成されていません。

安曇野は古代に海人を宰した安曇氏(阿曇氏)の一部が定着した地です。近年の研究では蘇我氏と関係の深い同氏が屯倉の管理者として遣わされ定住が始まったと推測されており、標高3190mの奥穂高岳(昔先輩に連れてかれたけど二度と登らねぃ。)に嶺宮を持つ穂高神社は安曇氏が祖神を祀った古社、祀られているのは海無し県なのに海神です。歴史の織り成す安曇野の深い背景に関心する事しきり…

春から初夏の安曇野は北アルプスの雪溶け水で大小河川の水量豊富、木々や水生植物の緑が大変美しい。わさび農場が市内に数多く点在し、陽気と相まってこの季節はベストシーズン、城廻りとかどうでもよいので皆様も是非観光で訪ねてみて下さいまし。移住してぇ…人嫌いじゃ全然無いけど最近人混みが極端に苦手になってきた。

2022年05月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
穂高氏館(堀屋敷)[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

穂高氏館(堀屋敷)は小岩嶽城の東南約5.3km、標高約547mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は路駐でOK♪レベルっす。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは穂高氏です。穂高氏には細萱系と仁科系の二系統があり、居館の主は仁科系穂高氏となります。戦国時代に仁科盛国の二男が穂高氏に入ったとされていますが、どの資料を見ても疑問、錯綜していて全くはっきりしない。確実なところで初代は弘治三年(西暦1557年)、飯盛盛春の籠る平倉城攻めで討死、後を継いだ盛棟は永禄四年(西暦1561年)、三宮穂高社御造宮定日記に仁科内膳盛棟の名が見られる他、生島足島神社文書、堀金平大夫盛広起請文中には穂高左京亮盛棟の名で同族諸氏と共にその名が見られます。又、天正十一年(西暦1583年)八月七日、日岐丹波守(盛武)、穂高内佐殿(盛員)に宛てた小笠原貞慶起請文中では七百石(貫高ではない。)を給地として宛てがわれていた事が判ります。

居館の現況は一般住宅とその敷地です。該地には「堀屋敷」の地名が残り敷地内には土塁様の高まりに稲荷社が鎮座しています。近所の人に話し掛けられて写真は1枚のみ…更にこの方がお話しするところによれば、該地の南東側には「あまざけじょう(漢字不詳)」と称するお城が存していた事を家伝として幼い頃に伝えられたとの事…皺が出来るからあんまり美少年を悩ませないでくれ、その場所にも訪ねてみましたが一面の麦畑でした…

穂高氏は仁科盛国の二男が入ったと書きましたが、浅く調べたら二男とは青柳城城主、青柳頼長の事で謎は深まるばかり…しかも該地に今現在お住まいの方は青柳さんという…穂高神社西方一帯は昔から代々この青柳さんの所有だったらしく一族の方が今も点在しているらしい。現地に赴かないと解らない事ってあるものですね。居館マニアの醍醐味ってやつです。

2021年05月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
狐城[小岩嶽城  周辺城郭]



狐城(きつねんじょう)は小岩嶽城の東方約7.6km、犀川左岸、標高534.8mの舌状台地上突端に主郭が存します。北麓の長野県道51号線からの比高は10m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北東のJA松本ハイランドファーマーズガーデンあかしなを目標に設定して下さい。後は川沿いの舗装路を南西へ進めば自然に到着します。

築城年代、築城者は不明ですが、立地から此処が仁科氏支配領域の最南端だったように思えます。お城の直近には犀川、高瀬川、穂高川が複雑に合流するポイントがあり、犀川を渡った右岸には木戸の地名を残します。

お城のある台地上は住宅地と畑地が混在していて綺麗に削平されており城域の判定すら困難です。お城は上空から写真等で確認する方がよっぽど面白くて、その姿はまるで鏃の様な縄張です。切岸は岩盤の露出する自然地形だったようで、長野県建設部建築住宅課が平成二十九年に法面崩落対策工事としてアンカーボルト打設、モルタル吹き付け工事を施工完了し今に至ります。この工法だと復元が可能、容易らしいですね。ちなみに発掘調査等は過去にも実施されていません。

安曇野市は市内にある押野城の主郭まで重機を入れて作業用林道を造ってしまった前科があります。その反省からか市内にある城郭を少しでも残そうと努力したように思えます。自分も此処がお城だなんて全く気付かず今迄で10回位県道を素通りしていて、その反省からこの口コミをしようと思い立ちました。お城は何かを見付けようとしても5分位で諦めると思うので、ここは周辺地形を含めた要害感を素直に楽しみましょう。マニア向け。

2021年04月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
長者ヶ池屋敷[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

長者ヶ池屋敷は小岩嶽城の北東約9.7km、標高約775mの山塊斜面上平場に存した居館です。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明ですが、同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある白駒城の家老の屋敷との里伝があるそうで白駒城とはほぼ隣接しています。

行き方はGoogleマップに位置登録されている長者池観音堂を目標に設定して下さい。この観音堂の裏手、北東側の平場が屋敷があったとされる場所です。峠道を挟んだ南側には水の手だったと推測される長者池があり今も水が出ています。

屋敷の現況は山中の平場って感じ…少し前までは標柱が立っていたようですが発見出来ませんでした。まぁ守る気ゼロだと思うので遺構の存在を期待してはいけないですね。

城主の居館でなく何故に家老の屋敷なのか。実際に訪ねてみれば理解出来ると思いますが、付近一帯は峠道を除けば鬱蒼とした山中なので、領主が住みたいと思うような場所ではありません。たぶん領主居館は別にあり、白駒城には城代が置かれていたと思われますのでそういう訳なんでしょう。

誰も行かないとは思いますが、白駒城に来る事がありましたら追いで訪ねてみて下さいまし。

2021年04月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
白駒城[小岩嶽城  周辺城郭]



白駒城は小岩嶽城の北東約9.7km、標高801mの山塊頂部の一つに主郭が存します。山塊西麓からの比高は70m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城域内を車両通行可能な峠道が貫通していますので楽に登城出来ます。

築城年代は不明ですが、鎌倉時代には既にあったようで古い歴史を持つお城です。築城者は不明ですが、城主として仁科義重の家臣、樋口行時(築城とも。)、手塚三郎兵衛、袖山上野介が伝えられています。ただ時系列的には昔の事なんでよく解らねぃよて感じですかね。

この樋口氏なんですが、木曽義仲四天王の樋口兼光の子孫もしくは一族なんでしょか。となると直江兼続とも血統的には繋がる事になりますね。歴史というものは深いぜ〜

お城は峠道で分断されている他、相道寺焼物の陶土採り等で改変されているらしいです。堀切、虎口、馬場と称される鞍部なんかも確認出来ますが、城域の判定に少し苦しむところもありますね。

この峠道を東へ進むと城主に纏わる悲話の舞台、登波離橋に至ります。付近には山桜の名所である陸郷桜仙峡もありますので、皆様は桜の咲く時期に訪ねてみては如何でしょうか。

2021年04月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
堀之内館[小岩嶽城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

堀之内館は小岩嶽城の北東約10.0km、河岸段丘緩斜面上、南西へ緩やかに延びる標高約660mの山塊尾根上端部に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南側の堀之内三島神社を目標に設定して下さい。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明で、信濃の地理、歴史書である信府統記にも城主は知らんと記述がありますが、仁科氏庶流とされる堀之内氏と推測されています。同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある花岡山城は詰城と考えられる事になりますね。又、現地を歩き廻って感じましたが、居館との位置関係や地形から花岡山城の大手筋は沢を渡った南尾根の延長線上にあるように思いました。

居館の現況は住宅地と畑地が混在していて遺構は何も残っておらず、往時を偲ぶのはとても難しいのですが、城山の地名が地籍として残る尾根上端部は周囲からやや小高く、居館を建てるには良好な立地だと思います。

在地土豪が小さな所領の内に居館と詰城をそれぞれ持つのがこの時代のスタンダードですが、遺構が残る事が少ない居館はその場所や敷地範囲すら特定するのが困難です。里伝から地名が地籍として残り、後世の者はそれを頼りにその痕跡を訪ねる訳ですが、全国各地に残るこうした言葉の痕跡の実に豊かな事よ!日本人て素晴らしい地方史を様々な形で残し続けてきたんですね。

2021年04月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
花岡山城[小岩嶽城  周辺城郭]



花岡山城は小岩嶽城の北東約10.5km、南方へ延びる山塊尾根上、標高791mのピークの一つに主郭が存します。西麓からの比高は120m位でしょか。

築城年代、築城者は不明ですが、城主として仁科氏庶流とされる堀之内氏が推測されています。

行き方なんですが、説明するのが物凄く難しい…初めての試みですがリア攻めマップでまず場所を確認して下さい。お城の南西麓の未舗装道路脇に用水路の分岐点に架かる小さな鉄製の橋がありますのでこの橋を渡り、山側の方の水路に沿って南東へ20m位進みます。すると不鮮明ながらも左手に山へ入る道が付いてますのでこれに入り、この道を使って堀切状の虎口様地形から尾根に取り付き、後は上を目指して登って行くだけとなります。

お城は堀切や竪堀、帯郭状の明瞭な段郭等が確認出来ます。主郭はこの規模のお城としては相当な広さですが削平されておらず、おまけにエッジがかなり甘いのでもやっとした印象を受けます。

長野県北安曇郡池田町は町内にある山城に無関心らしく、里山森林整備の名の元に重機で遺構を破壊しまくる事で知られて?います。この花岡山城は幸いな事にそれを逃れたお城です。安曇野の美しい自然と共に永く後世に残して欲しいものですね。

2021年04月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
布上城[小岩嶽城  周辺城郭]



布上城は小岩嶽城の北方約7.9km、標高1371mの雨引山から東方へ延びる尾根上、標高約993mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は340m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東麓の伊の神公園墓地を目標に設定して下さい。堂々と駐車も出来ます。このお城は主郭のピークから南北に山の肩を持ち、それぞれから東方へ向けて支尾根が延びています。どちらからでも行けますが、北側支尾根の方が楽なので墓地最奥部の踏み跡程度の道を進みます。途中で道を見失うと思うので、そこからは支尾根に取り付く事だけを考えて直登しましょう。支尾根上に出れば後は上を目指すだけとなります。

注意点は熊さん対策を確実に…東麓にはフルーツ盛りが入った熊の箱罠や鳥獣駆除装置、電流柵が設置される里山です。訪城時には尾根下を走り去る子連れの熊さんを目撃しました。子連れの熊の冬眠明けは1ヶ月程早い事になりますね。

築城年代、築城者は不明ですが、仁科氏庶流の大和田氏が推測されています。お城の山容は上田の塩田城にも似ており、築城者はきっと「あの真ん中のぼこりんにお城を造ろうかな…」とか考えたと思います。

お城は素晴らしいです。南北の尾根には堀切や小郭が設けられ城域に入った事を自然と確信させてくれます。主郭部の遺構の残存率は極めて高く、堀切や竪堀、土塁、堡塁が明瞭に残ります。少し変わっているのが主郭の土塁+二つの堡塁の西側一段下がった所に三角形の空堀、掘り残しの土塁兼土橋を持つ事です。天水溜めと推測されてますが、本当にそれだけなのかな。この下には堀切があるので利用はそれだけに留まらないでしょう。又、ただの天水溜めにしてはこの規模のお城としては破格の大きさです。

この高所に意外にも技巧的な縄張でびっくりしました。行くのは少し面倒ですが、頑張った分のご褒美は貰えるお城だと思います。又、情報だと南側支尾根からの登城が楽な様に書かれる事が多いですが、北側支尾根からの方が全然楽なので注意して下さいまし。

2021年04月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
西山城[小岩嶽城  周辺城郭]



西山城は小岩嶽城の北方約9.9km、標高1093mの大洞山から東方へ延びる尾根上、標高870.4mの支峰、城山山頂部に主郭が存します。東麓からの比高は220m位でしょか。

築城年代、築城者は不明ですが、室町時代以降の城主は仁科氏の被官、矢口氏と伝わります。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。国土地理院の地図にも城址として記載されています。お城は西山城址保存会の皆様によって丁寧に整備が続けられていて登城路完備、安心して主郭まで辿る事が出来ます。が、此処は長野県大町市…佐々成政のさらさら越えが立山ルートならほっと一息ついたような場所…主郭には城山神社という小社が建っていますが、何でも熊さんのステージダイブによって屋根が破壊された事もあったようでそういうお山ではあります。

お城は素晴らしいです。過度な整備も無く保存会の皆様には感謝感謝、通称三の曲輪には東家が建てられ、電気も通ってコンセントもあるので緊急時に充電出来る親切さ。圧巻なのは通称ニの曲輪背後の大堀切1条を含む二重堀切で実にマッシブ!更に1条の堀切を経て通称一の曲輪に向かいます。通称一の曲輪は土塁付き、堀切、竪堀、横堀、腰郭によって厳重な防御を構築しています。が、このお城変なところがあって、通称ニの曲輪と通称一の曲輪間が離れ過ぎ…距離にして約600mの間は何もありません。元々そうなのか、増改築したのかは知らんけど別城一郭と言ってもよいぐらい。又、登城路入口から城域北端までは登城路換算で1.55kmだらだら登らされるので面倒に感じたりはします。

全国的には知られていませんが、このレベルのお城が無名である事が信濃の良いところ…気持ち的には複雑ですが、次の無名城を期待してこの地に通ってしまう理由が此処にはあります。駐車場もちゃんとありますし、お近くに来る事がありましたら皆様も是非立ち寄ってみて下さいまし。堀切越しに見る北アルプスの山々はお城マニアにしか味わえない光景ですよ!


2021年03月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
観勝院山城(大和田山城)[小岩嶽城  周辺城郭]



観勝院山城(大和田山城)は小岩嶽城の北方約8.6km、標高1093mの大洞山から南東へ延びる標高約810mの尾根上に主郭が存します。東麓の観勝院跡地からの比高は180m位でしょか。

築城年代は不明ですが、築城者は仁科氏の庶流、大和田氏と伝えられています。大和田氏はこのお城の周辺地域を所領としていたらしいですね。直近には布上城、西山城といったお城も存し、大和田氏所領だけでなく仁科氏本領への南方からの守りを固めています。縦深防御地帯と言ってもよいぐらいのお城の密度が安曇野市、大町市、池田町、松川村にはありますね。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。東麓の観勝院(永正年間に大和田盛氏が建立と伝わる。)跡地は駐車も余裕です。この跡地の獣柵ゲートから入れば1〜11までの番号が付与された案内板のある登城路が付いてます。が、登城路が荒れてる事に加えて案内板自体が肝心な場所で倒れているので追えません。たぶん案内板の4ぐらいで登城路を見失うでしょう。そんな状況になったら左右にある尾根筋を無視して気持ち真っ直ぐに直登して下さいまし。そうすると城域北端、最高所に存する物見郭にぶつかります。そしたら此処で現在地と方角を再確認しましょう。自分は物見郭背後の堀切に誘われてそのまま北西へ爆進、気が付いたら標高905mのピークに到達、無駄な体力を消耗しました。正解は物見郭から南方へ下るです。

お城はとっても素敵です。堀切と竪堀で区画された連郭式の妙を味わいましょう。郭間の繋ぎには土橋なんかもありますね。しかし何と言っても感動するのは郭間を隔てる竪堀脇左右に展開する段郭状の帯郭(腰郭でもある。)です。縄張図ではよく見られるこの形、現地に赴くと崩れてたりエッジを失くしてたり藪ってたりで、もぅ何が何だかよく判らねぃよみたいな感じになりますが、このお城でははっきりと5〜6段の帯郭が確認出来ます。お城の段々感(写真は非常に難しい…)が実に素晴らしいです。又、主郭部周辺の土塁の付き方にセンスを感じたりもします。

城域内の各所にあるお城の説明板は凄くしっかりしていて松川村に感謝なんですが、肝心の登城路が崩れています。ただ帰りはちゃんと追えるので行きの城域までを頑張りましょう。他では滅多に味わえない感動がきっと待ってますよ!




2018年05月06日 三尺坊左近衛中将影ちゃんII号
小岩嶽城

小岩嶽城址近くの農産物直売所の隣に日帰り温泉施設【しゃくなげの湯】が出来てました。小岩嶽城をリア攻めの後に寄ってみては?


小岩嶽城の周辺スポット情報

 観勝院山城(大和田山城)(周辺城郭)

 西山城(周辺城郭)

 布上城(周辺城郭)

 花岡山城(周辺城郭)

 白駒城(周辺城郭)

 堀之内館(周辺城郭)

 長者ヶ池屋敷(周辺城郭)

 狐城(周辺城郭)

 押野城(周辺城郭)

 萩原城(周辺城郭)

 穂高氏館(堀屋敷)(周辺城郭)

 貝梅城(周辺城郭)

 等々力氏館(内堀)(周辺城郭)

 等々力城(周辺城郭)

 主水城(あら城)(周辺城郭)

 矢原北村の堀ノ内(周辺城郭)

 矢原東村の堀ノ内(周辺城郭)

 細萱氏居館(殿村館・城内・内ぼり)(周辺城郭)

 成相氏館(内堀・御屋敷)(周辺城郭)

 古厩城(正真院)(周辺城郭)

 古厩氏館(堀屋敷)(周辺城郭)

 法蔵寺館(周辺城郭)

 構えの墓館(周辺城郭)

 中萱氏堀屋敷(内堀)(周辺城郭)

 渋田見館(内堀)(周辺城郭)

 滝沢館(堀屋敷)(周辺城郭)

 滝沢城(城山)(周辺城郭)

 田ノ入城(茶臼山城・寺村山城)(周辺城郭)

 等々力家(寺社・史跡)

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