主水城(あら城)
主水城(あら城)([小岩嶽城 周辺城郭])
小岩嶽城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「主水城(あら城)」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
主水城(あら城)の口コミ情報
2025年09月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
主水城(あら城)は小岩嶽城の東南東約6.7km、烏川東岸(右岸)、穂高川南岸(右岸)、万水川西岸(左岸)、標高約524mの平野部平場に立地する居館城です。該地は前記河川、欠の川(矢原堰の流末である。)等が犀川に流れ込む、謂わゆる水を集める場所に当たる。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「水の時道祖神(道祖神公園)」を目標に設定して下さい。この公園に車を捨てたらリア攻めマップを参照して該地を特定しよう。但し、少し歩くよ。
「信濃の山城と館7、安曇・木曽編」に掲載がある物件なんだけど、信濃のお城の神は該地に残る「モンドジョウ」の小名から調査に入ったようだ。別称の「あら城」は「荒城」であり、急造の、もしくは古城に比した新しい城を意味している。
築城年代は不明、築城者には等々力氏が推測されているんだけどどうなんだろう。同氏については同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある等々力城、等々力氏館も併せて参照して下さい。
等々力氏は、武田氏の滅亡後、信長の横死後には小笠原氏に出仕していたようである。天正十八年(西暦1590年)二月から続いた「小田原征伐」の際には、小笠原秀政の陣中に等々力善左衛門の名が見られるらしい。
慶長元年(西暦1596年)七月一日、細萱河内守長知は、仁科神明宮の式年造営を行い、同日に遷宮を行っているが、この時の「助成ノ衆」の木造棟札にと々力三衛門の名が見られる。
慶長十九年(西暦1614年)十一月廿六日、等々力次右衛門尉 御陣所宛、栄富斎(三枝)元久書状には、「雖未申承候、令啓候、仍大龍(隆)寺以御指南、監物参陣、殿様(小笠原忠脩)之御備ニ踞候由及承候、彼者不届物ニ御座候条、至只今拙父不致許容候、雖然、當御陣中可然様ニ御取成頼入候、随而一種壹荷致進上候、御取合所仰候、委細大和又右兵衛可申上候、恐々謹言、」とあり、三枝元久は、大坂陣中にある等々力次右衛門尉に、元久の父より不届者故に勘当された大輪監物が小笠原忠脩の御陣にある事から、監物の父への取りなしを頼んでいる。天正年間(西暦1573年〜1592年)から史料に現れる次右衛門尉が「大坂冬の陣」の際にも健在であった事が判るが、松本藩石川家時代を経た同名は、郷士として忠脩に従い参陣していたようだ。
お城の現況は…よく判んねーや、城域、形状、形態、あらゆるものが想像すら出来ないや。該地は外国人観光客等で溢れ返る「大王わさび農場」に近く、周辺一帯は各堰から取水されたわさび田が点在する地域でもある。当然、このために後世の改変がある訳なんだけど、わさび田の開墾は、土地を掘り下げ、生じた残土を掻き上げ、流水を通す事で成立する。つまりは堀様地形と土塁様地形が至る所で造成される事となり、これ等は城郭遺構との判別が全くと言ってよい程に不可能だ。該地にもそれ等が見られる訳なんだけど、おいらはあっさりと城郭遺構である事を否定する。
困ったちゃん物件なんだけど、わさび田や心癒される堰の流れを見に来たついでの探索だと考えれば慰められる。初春から初秋にかけての安曇野の風景は本当に美しい。日本の田園風景の良い部分が調和を以て凝縮されているとまで言ってよい。近世には大庄屋として存続した等々力家、新田開発のために等々力孫一郎等が開削した拾ヶ堰は、今や桜や芝桜の名所として訪れる人達の眼を楽しませている。安曇野の名家は伊達じゃないのさ。
※初春から初秋にかけての安曇野〜木陰が殆ど無いので夏場は日に焼けちゃう。
※主水城〜主水さんが居城したんだろう。姓が伝わっていればなぁ…