仁科城(にしなじょう)

仁科城の基本情報

通称・別名

森城、山田城

所在地

長野県大町市森

旧国名

信濃国

分類・構造

水城

天守構造

築城主

仁科氏

築城年

古代?

主な改修者

主な城主

仁科氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡

再建造物

説明板

周辺の城

牧之島城(長野県長野市)[14.4km]
麻績城(長野県東筑摩郡)[20.4km]
小岩嶽城(長野県安曇野市)[21.2km]
青柳城(長野県東筑摩郡)[21.7km]
松田家館(長野県千曲市)[23.7km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[25.1km]
福平城(長野県長野市)[25.7km]
屋代城(長野県千曲市)[26.2km]
吉窪城(長野県長野市)[26.9km]
荒砥城(長野県千曲市)[27.6km]

仁科城の解説文



森城(もりじょう)は、長野県大町市にあった日本の城(平山城[1]

概要 

木崎湖畔に位置し、城の北部と東部を湖、西部を沼地に囲まれた半島状の地形を利用した城である。木崎湖の北岸に仁科氏の祖先と言われる阿倍氏に因んだ地名が存在することなどから、築城時期は古代にまで遡るとの説もあるが詳細は不明である。

平安時代後期には仁科氏が安曇郡一帯の国人領主となり、大町周辺の荘園「仁科荘」や伊勢神宮領の「仁科御厨」を支配していたが、市内の舘之内に舘を築くと、この城は後詰めの城としての役割を果たした。さらに鎌倉時代には天正寺館に移り、大町市街地の原型となる市場町を形成した。承久の乱で仁科盛遠が没落すると、阿部氏の居城となったが、1233年、鎌倉幕府の命を受けた木曾義仲の次男木曾義重が森城を攻め、城主の阿倍貞高(五郎丸)を追放した。

戦国時代に入り仁科盛政が甲斐国の武田信玄に討たれたことにより仁科氏の正統は途絶え、信玄は五男である盛信に仁科氏の名跡を継がせた。信玄は越後国の上杉謙信に対する軍事上の重要拠点としてこの城を見做して盛信を配置し、城郭を改修させた。1582年の武田氏滅亡後の天正壬午の乱に際して、この地を治めた小笠原貞慶も上杉景勝に対する軍事上の拠点と見做して派兵したと記録されている(廃城の時期は不明)。

本丸跡には仁科氏や、明治時代以降の戦没者を祭る仁科神社が大正時代に創建されており、境内の一画には仁科盛遠の顕彰碑や古い塚などが残されている。また城の北端にある本丸から一段低い土地には阿部神社(安部神社)があり、仁科氏の祖先とされ大和時代からの古代氏族である阿倍氏が祭られている。一説によると平安時代後期の前九年の役を戦った安倍貞任、安倍宗任の親子が祭られているとも伝えられるが、怠りであるとの指摘もある。

参考文献 

  • 南原公平 著『信州の城と古城』 しなのき書房 2009年
  • 山下孝司「森城」(丸島和洋編『武田信玄の子供たち』宮帯出版社、2022年)

仁科城の口コミ情報

2025年03月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
猿ヶ城[仁科城  周辺城郭]



さて、信濃のお城の神はある論文の中でこう述べている。

…県下の山城踏査の中で、敬遠したくなるような城跡がある。その代表的なのが「鬼ヶ城」あるいは「猿ヶ城」と呼ばれているもので、名前だけでも察しがつく。〜中略、どこを見ても険しい山ばかりで、よくぞここまで辿り着けたものだと満足感はあったが、二度と行きたいとは思わない山である…

今回紹介するお城はそんな難城、「猿ヶ城」の一つ。但し、現在はそこまでの苦労をしなくても済む「猿」ではある。さるるるーっ♪

猿ヶ城は仁科城の北北西約4.1km、農具川西岸(右岸)、標高1333.1mの猿ヶ城峰から南東へ伸びる尾根中段上、標高1195m地点の平場を中心に立地する要害です。東麓の農具川からの比高は400m位でしょか。ちなみに猿ヶ城の上段、標高約1280m地点の山尾根上には、同城の狼煙台、同じ仁科城のリア攻めマップにある猿ヶ城烽火台が立地する。

行き方は大変楽だ。Googleマップに位置登録されている北麓の景勝地、「鹿島槍展望地」付近から猿ヶ城峰の山頂部まで登る舗装林道が付いている。山頂に至る少し手前で路肩に車を捨て、小熊山トレッキングコースの猿ヶ城峰口からお山に入る。登山口から同じく位置登録がある「猿ヶ城烽火台」を目指して徒歩で殆どを横移動し、猿ヶ城へは烽火台から山尾根を下れば迷う事も無く辿り着ける。

が、おいらは前述のルートを選んでいない。理由は至極当然、舗装林道が冬季閉鎖になるからだ。従って南東麓の木崎湖湖北地域、大町市海の口の北村集落に付く登山口から前述のトレッキングコースを烽火台までフルで登っている。

登城の留意点は熊さん対策にある。小熊山のトレッキングコース上にお城は立地しているのだ。猿ヶ城峰は通年で人が登るお山、登山記録もネットで沢山検索出来るけど、これを読むとおいらだけが熊さんを不安視している訳では決してない。わざわざ厳しい冬場を選んで登ったのもそれが理由だ。

積雪量は山際でも70〜80cm、吹き溜まりでは優に1mを超える。正直止めようかと思ったんだけど、少しの様子見が抜き差しならない所まで来てしまったんで頑張る事に…通常なら1時間程度の登山とはいえ、長靴故に悪戦苦闘、常に脛の中程まで雪中に埋もれ、2時間40分強をただの筋トレに費やしてしまった。もう、この積雪量だと登山道の傾斜とかはどうでもよくなる。何処をどう登っても辛い事には変わりが無いからだ。故に九十九折りのコースを外れて斜面の直登を選択、ショートカット出来るし自然と四足歩行にもなるので逆に楽だったのかもしれない。が、所々では胸が直接斜面に接地する程の急傾斜、久々に体力的死亡フラグが立ったわ…お山の10mがこんなにも遠いだなんて想像だに出来なかったよ…

築城年代、築城者は不明だが、中世〜戦国時代初頭にかけての仁科氏、もしくはその一族、被官衆の普請である事に間違いは無いだろう。一応は要害と定義したが、現地説明板によれば、一族、郎党が籠る詰の城だと推測されているらしい。

縄張は殆ど単郭である。城郭遺構としては、主郭南側谷側前面に段郭、山側北側背後に二重堀切、そこから少し離れた細尾根に堀切が1条確認出来る。既に登城中には、積雪に埋もれて遺構の判別は難しいだろう等と考えていたが、意外にも堀切の堀形が明瞭に確認出来たのには驚いた。又、現地説明板が主郭の何処かに立っている筈だが何処をどう探してたって一向に見付からない…それこそ埋もれてたんだろうか。

帰りは殆どの行程を尻餅付いて滑り下りた。途中、足が木の根に嵌り込んで抜け出せなくなったが、周りの雪を手で掻き出していたら見事なまでのぷち表層雪崩を引き起こしてしまった。下方にいたら笑えないが、上方から見る雪崩は実に壮観な光景だった。もう一度見たくて別な場所で同じ事をやってみたが、条件が整わないのか雪崩を作り出す事は出来なかった。おいら…お山の中で何やってんだろ…ちなみに下山に要した時間は遊びながらの35分弱、ちょっ早っすわ。

※「猿ヶ城」の一つ〜信濃には複数城が存在している。ちなみに「鬼」の方も同様だ。リア攻めの常識は一切通用しない。何れもぶっ飛ぶぜ。

※猿ヶ城烽火台〜同じ仁科城のリア攻めマップにスポット登録して写真だけ置いておく。

※少しの様子見が抜き差しならない所まで〜常緑林の樹林帯まで登れば楽になるだろうと踏んでいた。甘い考えだった…

※写真①は南東麓の国道148号から撮影した遠景っす。写真中央の三角形に見える山尾根が該当尾根となる。

2025年03月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
清水城[仁科城  周辺城郭]



清水城は仁科城の南南西約9.2km、北アルプスの前衛山塊を構成する一山、標高1309mの山稜山頂から東方へ伸びる尾根下段上、標高約911m地点の平場を中心に立地する砦です。東麓の舗装道路からの比高は185m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南東麓の農場、「あずみ野エコファーム」を目標に設定して下さい。該当尾根はこの農場の北側、南北に走る舗装道路まで張り出しており意外にも労せずしてお山に取り付ける。車は該当尾根直下の空地に捨てるのがよい。

目的地さえ判っていれば迷う事の無い一本尾根だが、念の為に登山系アプリを活用しておこう。お城の正確な位置を落とし込んでおけば道程に悩む事無く無駄も省ける。道の無い尾根登山とはいえ尾根筋は比較的に藪も少なく急登する事もない。但し、該地は取り付きから奥が深く(直線距離で約0.7kmだ。)、登城中も展望は何も見えないに等しい。単独入山なら不安に駆られる事もあるだろう。

登城の留意点は熊さん対策にある。出来る事は最大限に努力しよう。時間の経った物だが登城路中には熊さんの痕跡が至る所に認められた。奴等は山麓へ下りるのにこの山尾根を使っているのだ。取り付く場所には獣柵すら設置されていない。

築城年代は不明、築城者は仁科氏被官衆の一氏、清水氏が推測されているが、同氏については別の機会に譲る。「大町市散策マップ」に掲載された「清水氏居館跡」の記述には、「清水氏は集落内の各所に家臣たちの屋敷を配置し、ともども農業を営むとともに、大崎の山には山城を、西方のしんじょからの上にも小砦を構え、南方の西山城と呼応する仁科領の西部防衛線を形成していた。」とある。文中にある「西方のしんじょからの上にも小砦を構え、」の小砦がこの清水城だ。「しんじょから」が何を意味し、何処になるのかは調べてみても判らない。推測するに該地周辺の大字、「神明原」の転化であろうか。

お城は殆ど単郭の縄張であり、別に山尾根上に複数の小郭を持つのみである。主郭の削平は良好、東側谷側の先端部には城番が腰掛けていそうな平らな巨石が置かれている。主郭の西側端部にはしっかりとした土塁、その山側背後には段の付いた1条の堀切が明瞭に確認出来る(縄張図では二重堀切だが…)。又、縄張図を見ると別に1条の堀切と数条の竪堀が描かれているが、素人には城郭遺構として現況にそれを見る事は難しい。縄張は山側に、散漫な岩場を登る形でフェードアウトする。

占地が謎でもある。小規模な砦だが特に何処かを扼している訳でもない。謂わゆる安曇野の「西の山」に築かれた他の城砦群に比して最も西方の奥まった山中に位置し、狼煙台や物見台としても存在価値が相当に希薄である。後背地は見渡す限りの北アルプス前衛山塊、何故にこの場所が選ばれたのかと頭を抱えてしまう。

「信濃の山城と館7、安曇・木曽編」に掲載がある物件だけど、それ以外の情報は現在のところ皆無である。誰かしらは訪ねた事があるとは思うんだけどねぇ…少なくともネット上では検索しても一切ヒットしなかった。故に今回の訪問はその隙間を埋めるために頑張ってみた。

登城情報が無い物件の探索は胸が躍るが場所に左右されると思うし、不安が勝る場合の方が遥かに多いだろう。裏を返せば不安に駆られるような物件故に一切の情報が無いのだ。が、謎物件のリア攻めが成功裏に終わった時の達成感は格別、山登りには一つも理解を示せないけど、バリエーションルートを制覇したがる登山者の気持ちだけはよく解る。但し、心の中では、「ふ〜、何事も無くてよかった〜怖かったよ〜話し相手が欲しかったよ〜」てな感ぢ?だ。

※既に仁科城のリア攻めマップにスポット登録されていたが位置は完全に城域外である。よって新たに登録し直した。悪しからず…

※やっぱし写真が伝える情報てのが特に重要だと思う。お山の雰囲気が判るし、登城の可否判断にも繋がる。

※ガチ勢の武蔵の城友さん、前日に縄張図をLINEしてくれてありがちょ。お陰様で城域で不必要な探索をしなくて済みやした。借りは行き付けの西麻布、ハイパー高級フレンチの超名店、「松屋」の丼物でお返しやす。

2025年03月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
大崎城(長畑城)[仁科城  周辺城郭]



さて、今回の口コミはお城好きてよりは発電所マニアに捧げやす。たぶんダムマニアでもイケるかもしれん。一風変わった山城の成れの果て、大規模建築物に分断された縄張に萌える人は萌えるんだろう。

大崎城(長畑城)は仁科城の南方約7.5km、北アルプスの最前衛山塊を構成する一山、標高984.1mの山稜山頂から南東へ伸びる尾根下段上、標高約802mの小ピークを中心に立地する要害です。東麓の長野県道306号、有明大町線からの比高は95m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは南東麓、市道の十字路に面する尾根末端部からとなり、大きな獣柵ゲートを開けてお山に入る。但し、山道の初っ端は低雑木が成長中、道筋は冬場でもやや消えかかっている。判らなくなったら適当な場所を選んで適当直登しよう。そっちの方が楽かもしれん。ちなみに車は路肩に捨てても大丈夫だ。

虎口を形成していたと思しき岩場を抜ければ比較的楽に、すんなりと城域に入るが、城域の央部には「レゾナック・グラファイト・ジャパン常盤発電所」が取水する砂沈池がぽっかりと穴を開けており、主郭部に至るには砂沈池脇の山尾根の斜面を長くトラバースする必要がある。山城の改変(破壊に等しいと考えるが…)としては全国的に見ても非常に珍しい事例だが、文句を言える立場には当然ないし言うつもりもない。

築城年代は不明、築城者は仁科氏被官衆の一氏、清水氏が推測されているが、同氏については別の機会に譲る。

謂わゆる安曇野の「西の山」には、南北に、北から順に、大崎城、清水城、西山城、観勝院山城、布上城、小岩嶽城、岩原城(全て小岩嶽城、もしくは中塔城、仁科城のリア攻めマップにスポット登録されている。)と要害が建ち並んでおり、個人的には、何れも府中小笠原氏に対する備えとして、室町時代、特に文明年間(西暦1469年〜1487年)、もしくはその前後に当たる時期に築かれたものだと推測している。これ等、城砦群は全て近世の仁科街道に順ずる中世の道筋を前にしており、府中小笠原氏への対抗上、関係を深める、安曇郡住吉庄に拠った西牧氏との連絡を図る上でも特に重要視されていた事であろう。

縄張の央部は想像すら出来ないけど、城域の南端部と主郭部は比較的に原形を留めているように思う。北端部はひょとしたら重機による損壊があるのかもしれん。全体的にはファジーな印象、主郭には薄っすら土塁、主郭北側山側背後の堀切はイケてるも、堀系に関しては総じて埋まり気味、素人には判別が付かないものもある。腰郭や段郭の一部に城砦感を求めるのが精一杯だ。

砂沈池の部分で山尾根はばっさりと削り取られている訳なんだけど、往時はこの部分に段郭が執拗に設けられていたんだろう。比高が低い事から山麓からでも縄張が判る壮観な山城だったとは思う。それだけに何があったのかぐらいはせめて知っておきたかったなぁ…

おいらは自分の事を寛大なタイプのめぐら〜だと思ってる。意味の無い毀損は許せないけど、その場所が必要とされるのなら改変も致し方無い事だと諦められる。この砂沈池は発電だけに使われるものではなく、あくまでも旧昭和電工が建設した、全国的にも例が無い巨大な水利システムのほんの一部である。即ち、後立山連峰の盟主、遠く鹿島槍ヶ岳の小冷沢から導水された水は、青木湖湖畔の青木発電所に取水され、導水管は更に南下し該地の常盤発電所に水を送り、最終的には東行した後、犀川河畔の広津発電所が取水、余水は犀川に流れ込む。その間、22箇所に設けられた取水口から生活用水と農業用水がそれぞれの各地域に配水され、特に降雨量が少ない時には発電所の取水量を制限して田地の灌漑等を優先する。そう、この水利システムは今も絶大な恩恵を周辺地域に与え続けているのだ。事実、平成六年(西暦1994年)に発生した全国規模の異常渇水の際には大町市とその周辺地域が受けた影響と被害は最小限に抑えられている。役割を終えた大崎城からすればさぞかし本望だろう。

※基本的に藪城だと思う。

※水利システム〜着工は昭和十二年(西暦1937年、完成は戦後暫く経った昭和二十九年(西暦1954年)である。導水管(ほぼ地中埋設だ。)の総延長は36km、高低差は約700mにも及ぶ。真のエコてこういうシステムの事を言うんだろう。木造リングなんかに血眼になってる場合じゃないわさ。

※写真③は砂沈池を上段から撮影したもの。余水吐は三日月堀だwちなみにこり以上近付くのはとても無理な話…

2024年12月27日 愛甲左京大夫【相模の狂人】
雷電城[仁科城  周辺城郭]



旧八坂村の中心地からかなり奥、このあたりでは最高峰の城山952mの頂上にあります。登り口が城の南東の林道交差点あたりにあり、整備された道が主郭まで拓かれています。城の南側直下の林道法面に鉄階段がありますが、上の斜面が急峻すぎて山慣れない人には無理でしょう。
登城道を登ってゆくと高さのある土塁、その向こう側にすごい大きさの空堀が出迎えてくれます。その向こう側に高くそびえる主郭、東の裾に副郭、北東に急角度で降りてゆく尾根に小さな堀切がひとつ、それだけのコンパクトな城ですが、主郭の下の空堀まわりは見応えがあります。
ここに限らず大町の城は超マイナーなところでも登城道が拓かれ、ヤブコギなしで探索できるところが多いです。

2024年12月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
丹生子城[仁科城  周辺城郭]



さて、海外でも「UNE-TATE」として大人気の畝状竪堀、おいらの大好物とはいえ、信濃では結構レアな部類に入る城郭遺構だ。感覚としては緩斜面上に設けられる事が多いと思うんだけど、元々が急峻な尾根筋に築かれる事が多い信濃の要害には不要なものだと考える。そんな信濃のレア遺構が確認出来るのが今回紹介する丹生子城、再訪したんで以前の口コミを潔く削除して新たに作成し直した。

丹生子城(にゅうのみじょう)は仁科城の南南東約8.3km、高瀬川東岸(左岸)、農具川東岸(左岸)、標高848mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。西麓の大町ふれあいバス、丹生子バス停からの比高は135m位でしょか。ちなみにおいらは「たんしょうしじょう」と読んでいた。間違えていた事を恥じちゃいない。こんなん誰も読めんやろ…

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。お山への取り付きは前述の丹生子バス停からとなり、このバス停裏側の墓地へ通じる尾根間鞍部の道を登り詰める。が、道は大して比高を稼ぐ事も無く消失、後は適当直登する事になる。眼前の斜面でも右手に見える尾根筋でも構わない。急登だが何も考えなくても確実に城域の何処かにはぶち当たる。車の捨て場所は己れの持つ器量でなんとかしよう。

築城年代は不明、築城者を仁科氏の一族、丹生子筑後守とするものがある。何れにせよ、中世〜戦国時代初頭にかけての仁科氏、もしくはその一族、被官衆の普請であった事に間違いは無いだろう。地形模型図を見ると、丹生子城後背の尾根筋をそのまま進めば、同じ仁科城のリア攻めマップにある、仁科氏の本城にして要害であった木舟城の支城、青木城に至る事が出来る。絶対やらんけど。

城歴としては、「高白斎記」、天文二十年(西暦1551年)十月廿四日の条に、「十月大、朔日乙卯、節、十四日(村上)義清動丹生子、被押落之由注進、…」とあるのみ。村上義清の行動は安曇郡へ勢力を伸長させる武田氏への牽制の意味合いを持つものなんだろう。

お城は大変素晴らしい。縄張は概ね3郭で構成されている。縄張図における通称3郭には帯郭状の腰郭や小郭が多段に設けられ、東側山側背後には横堀状に二重の堀切+竪堀が付いて通称2郭とを隔てている。又、この竪堀に並走する形で南西側斜面へ落ちる2条の竪堀も見られ、郭間の守りを一層堅固にしていたりもする。主郭には削れているが土塁が付き、桝形虎口も薄っすらと確認出来る…ような気がする。切岸には崩落石が散見される事から往時は土留めの石積みでも付いていたかもしれない。主郭の東側山側背後には四連続堀切、その内の3条には竪堀による落とし込みが見られる。特筆すべきは主郭の下段、北東側緩斜面上に短いとはいえ3条の明確な目的を持った畝状竪堀が残っている事、四連続堀切の竪堀と並走しており単純にかっちょよい。この辺りはぼっこぼこ、遺構の密度特濃すわ…

…勢い余って城域を過ぎてずんずん半弧を描く様に尾根筋を進んで行くと、頂部が削平された感もある小高い小ピークにぶち当たる。完全に縄張の外となるが狼煙や物見の場であろうか。此処からは木舟城がよく見える。

大町市て山城に非常に理解のある行政主体なんだけど、やっぱし信濃の名族、仁科氏のお膝元である誇りと、最近になって俄然注目を浴びるようになってきた巨大山城、木舟城を盛り上げようと奮闘する地元有志達の影響力が関係しているんだと思う。仁科氏の城砦群は木舟城以外にも素敵なものが沢山あるんで是非訪ねてみてくらさいな。最後に…お城の説明が長くなってしまったけど、大町市のホームページから引用して丹生子城を再レビューしてみよう。

「市内で一番技巧的な城 見どころ:四重堀切、二重堀切、畝状空堀(竪堀)、桝形虎口(分かりにくくて微妙)」

…実に理解し易いし、おまけに正直だ。

※萌えポイントとしては主郭の西側切岸に付く二段の小郭、無い方が守れるような気がするけど…

※西麓を南北に走る舗装道路は、律令制下における千国大道の道筋とほぼ同一であったと推測されている。三筋が存在した近世の千国街道(通称は「塩の道」である。)の内、最も東側の山際を通る道筋でもあり、かつては仁科街道とも呼ばれていた。

※写真⑧は畝状竪堀…畝竪は見るもんじゃないんだぜ、感じるもんなんだよ…

2024年12月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
飯綱城[仁科城  周辺城郭]



飯綱城は仁科城の南東約1.2km、農具川東岸(左岸)、標高932.8mの山稜山頂から南西へ伸びる尾根中段上、標高約867mの小ピーク上平場に立地する狼煙台か物見台の類いです。西麓の農具川からの比高は105m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので以下を参照して下さい。ネットで検索しても一切ヒットしない物件だしね。

飯綱城が立地する山尾根の末端部には送電線用の鉄塔が建っている。この鉄塔用の保安道が鉄塔南側の二軒の一般住宅の間から伸びているのでこれを使って尾根に取り付く。後は踏み跡を辿って登れば迷う事は無い。が、お城の正確な位置を登山系アプリ等で確実に把握しておく事が必要、遺構的には薄い山城なので通り過ぎてしまう可能性があるし、城域に入った事さえ不安視させられる。

前述の登城路は帰りに気付いたもの。今回はお城の後背上段まで伸びる車両通行可能な林道を徒歩で登り、登山系アプリで位置を確認しながら山尾根の適当な場所から逆に斜面を下って城域に入っている。林道(林業用、中型トラックでもイケそうだ。)の勾配は緩やかなのでザレ道とはいえ普通車でも大丈夫だろう。但し、結構無駄に巻いて登る林道だし、リア攻めを終えたら車を取りに登り返さなくちゃならない。

築城年代、築城者は不明だが、中世〜戦国時代初頭にかけての仁科氏、もしくはその一族、被官衆の普請であった事に間違いは無いだろう。普請は意外にもしっかりとしていて恒久的なものであった事を窺わせている。

遺構は薄いと前述したが、主郭は結構な段付きの削平地、南側谷側前面下段に広めの腰郭、北側山側背後下段に二段の帯郭状の腰郭を持っている。堀系は一切確認出来ないとはいえ腰郭の一部にはそれなりの土塁が付く。狼煙台や物見台としては決して自然地形に頼ったものではなく、人の常駐さえ感じさせる普請がしっかりと成されている。そう、つまりは単純に言ってしまえばお城っぼいのだ。

あ、そういえば、おいらが林道で下る斜面を見定めていた時、明らかに自分の携帯とは違うiPhoneの着信音を3コール耳にした。めぐら〜の中で「自分の携帯でしたっ!」て人がいましたら必ず伝言下さいな。山怪すわ…気になっちゃて夜も眠れんわ…

※飯綱城の名称は山名からだろうか。飯縄信仰てよりも、これと関係する菌類、藻類の複合体にして国指定の天然記念物、「テングノムギメシ」の産生地だったのかもしれない。

※仁科氏領中のお山の大部分は熊さんの生息地、大町市八坂のジモティーに聞いたら、普通に道路等を歩いているらしいんで注意が必要、お盆の時期には山際の墓地の掃除にも行けんくなったて言ってた。訪問日は熊さんが寝に入る初冬だけど、それでも不安が拭えずおもちゃの火薬銃を16連射…「快・感…」

※単純に言ってしまえばお城っぼい〜信濃の狼煙台や物見台はびっくり物件が大多数を占める。それでいてぷち遭難を覚悟して登るんだから始末が悪い。ただの険しい岩場や地山なのに片道数kmをひたすら歩き、道無き比高300m以上を藪漕ぎしながら登ったりするなんて事が当たり前の世界だ。

※写真①は取り付きとなる山尾根末端部からの展望、この場所さえ判れば登るのは容易だ。

※写真⑧は西麓から撮影した近景っす。下から見ても何処がお城なんだかさっぱり…写真中央の鉄塔後背の山尾根になるのは間違い無いんだけど…誰も行かない最大の理由は位置が不明確な事と遺構が薄い事にある。

2024年12月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
駒沢城[仁科城  周辺城郭]



駒沢城は仁科城の西南西約2.2km、鹿島川東岸(左岸)、標高1302.7mの小熊山の前衛山塊の一つ、標高約932mの山陵山頂部を中心に立地する要害です。南麓のランテラス信濃大町からの比高は100m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。東麓の曹洞宗の寺院、神龍山大澤寺の奥の院、大雄殿の駐車場に車が捨てられる。お山への取り付きも此処からだ。

築城年代、築城者は不明だが、中世〜戦国時代初頭にかけての仁科氏、もしくはその一族、被官衆等の普請であった事に間違いは無いだろう。平城である仁科城に付随する狼煙台や物見台の類いとも言えそうだが、普請はしっかりとしていてこれだけには留まらないものだと考える。

前述した大雄殿から適当に登る。人が入るお山ではあるので途中までは土留めの階段とか付いていて安心…とか思ってたら崖地の崩落跡を境に道は消滅、行程の大部分は踏み跡を辿る事になった。登る比高は大した事ないけど全て急登、軽く考えていたんで余計に辛いや…ちなみに何処を登ってたんだか今でも皆目見当が付かない。たぶん南尾根だと思うんだけど…南麓から見ると殆ど独立山稜なんで頑張れば自然と山頂には辿り着く。

お城は期待していなかったんだけど、やっぱし訪ねてみなけりゃ判らないもんだ。縄張図を見比べて自宅でうだうだしてるんなら登ろうぜ。狭小な尾根上を南北に、コンパクトに縄張が展開する。廃城からそのまま時を経た様な趣きもある。深雪地帯故か腰郭等のエッジもある程度は立っており、城域を見通した時の輪郭にも優れている。ちなみに信濃のお城の神が描いた縄張図には不足があるように思う。縄張図における通称2郭の西側下段には立派な腰郭が付いていると思うのだが…この腰郭の北側山側背後をカバーする竪土塁も無視されているのには何か理由でもあるんだろうか。もしかしたら単なる崩落跡と判断されたのかもしれない。

駒沢城の南西方には大町温泉郷が位置し、立山黒部アルペンルートの長野県側の入口となっている。谷筋を進んで飛騨山脈を越えれば少なくとも直線距離においては富山県富山市に最短で至る事が出来る。

…戦国時代、厳冬期にこのアルペンルートに殆ど準ずる道筋で越中から信濃へ抜けた阿保がいるかもしれない。そう、天正十二年(西暦1584年)の「小牧・長久手の戦い」以降、家康に再起を促すべく自ら説得に赴いた佐々成政だ。「さらさら越え」として特に後世、脚色されて有名となったが越中から信濃入りの経路については諸説ある。豪雪の飛騨山脈越えなんてもう殆どアルピニストの所業なんだけど真相自体は闇の中のままだ。

お城の展望は木々に遮られて現在は一方向にしか開けていないとはいえ高瀬川の流域一帯を丸ごと眼下に収めており、仁科氏の城砦群の中では最も優れていた事だろう。…ひょとしたら成政の信濃入りを最初に見留めた小笠原氏の公的機関はこの駒沢城だったのかもしれない…山上でそんな妄想に耽るのもぷち浪漫があっていいんじゃないすかね。

※「さらさら越え」として特に後世、脚色されて有名となったが越中から信濃入りの経路については諸説ある〜現在では飛騨から安房峠(飛騨攻めに赴く山県昌景勢も越えた筈だ。)を越えたとする説が有力視されている。個人的には成政には何としてでも立山連峰を越えさせたいけど…

※安房峠越えでも現在の上高地付近を通過する事になる。何れにせよ阿保にしか出来ない芸当だ。

2024年11月04日 国府左京大夫城介
青木城[仁科城  周辺城郭]



巨大な堀切がある木舟城の背後を守る城

【歴史】
築城年代、築城者共に不明。

【遺構】
北城から南東420mに位置し、木舟城と同じ山稜(標高970m)に築かれている。

単郭の城で、東側に巨大な堀切があり、その中央には土橋がかかっている。
主郭は僅かに段差がある程度で、堀切に接する切岸以外は土塁等も確認できない。
林道から堀切に向かう途中に、堀切っぽい切通がある。

青木城の脇には古道があり、仁科氏ゆかりの覚音寺の参拝路でもあり、それを監視する役割もあったようである。

【感想】
見所は、巨大な堀切の一点につきます。木舟城にも巨大な堀切はありますが、それとはまた違う意味で巨大で見るものを圧倒する堀切です。それ以外は…って感じですがw

木舟城から数分程度で着きますし、道案内の看板もあり、随所にあるので迷うことはないかと。
木舟城と青木城を両方回ると、概ね3.5時間程度かかりましたので、見学する際の参考としてください。

【アクセス】
木舟城(北城)から徒歩6分程度。

【写真】
①~④堀切
⑤主郭
⑥堀切っぽい切通

2024年05月20日 美海(ミミ)安房守
木舟城[仁科城  周辺城郭]



2024年5月、木舟城研究会主催、余湖先生が講師のお城見学会に参加しました♬
木舟城は南城、北城の2つの城域から成る信濃有数の巨大城郭✨
歴史的な詳しい事があまりわかってないお城ですが、山城好き垂涎の遺構が残存している為に、余湖先生6000城目に選出されたお城です♬

古い時代に仁科氏の詰め城であったと資料が残ってるのですが、その後に拡張、改修したのは、誰が?何の為に?行なったかは謎なようです。

戦国後期の、竪堀と堀切を組み合わせた技巧的な縄張や、かなりの大軍を置ける巨大な郭(しかも城外からは見えない位置)など、戦国後期に相当な勢力が拡張、改修したのが容易に想像できますよね♬
少なくとも、一国衆レベルのお城ではない事はひと目見てわかると思います(^-^)

また、北城と主郭の中間の削平が未完成な可能性が高く、何らかの理由で工事を中断したようにも見えます…

これらを考えると…妄想は膨らみますよね〜🤭

その巨大勢力は誰か?の説としては…
1.武田氏滅亡の折、仁科氏が勝頼の為に拡張した。武田氏滅亡の為に工事は中止。
2.本能寺の変の後の天正壬午の乱で、この地域は上杉と小笠原(徳川)の激しい攻防があった為に、上杉氏、又は徳川氏が拡張した。その後和睦で工事は途中破棄。

などの可能性が考えられるではないか?とのワクワクなお話しもありました♬

木舟城は、謎を妄想するのも楽しいですが、純粋に遺構も楽しめます♬
『おてんじょう』の東側の土塁はそびえ立つように高く、登りたい衝動に駆られます//
また主郭背後の大堀切も、往時はガチ無理ゲーであった事が容易に推測されます(写真③で人が写り込んでるので堀切の高さ大きさがわかると思います)
その堀切を迂回する道は、上から前からずっと狙われて続ける…という、寄手にとっては悪魔の縄張りです。

見学会の参加者が51名と大勢だった為に写真があまり良いのが無いですが、ぜひ実際に訪城して歩いてみてくださいね♬
現在、整備状況は良く、快適に巡れます♡

登城口は幾つかあるようですが、常福寺北側の林道の登城口をリア攻めマップに登録しました!
横に説明板と縄張図が設置してあります。

その林道を登り南城側に行くと、堀切から東側に小段郭が続いていますが、尾根を逆の西側に行くと直ぐに、細尾根を更に細く削った高低差ある凄い土橋があり、個人的にはそこも是非見て頂きたい遺構です♬

ここ2-3年かけて全体的に整備をし、案内板や縄張図を各所に設置したそうで、林道も綺麗に整備されてました。
すごいお城なので、ぜひ皆様に見て欲しいと研究会の方が話されてました(^-^)
また、お城の歴史について新たな説や資料がある場合は、木舟城研究会に是非知らせてくださいとの事でした(๑˃̵ᴗ˂̵)

2024年04月21日 出雲大介
仁科城



ナビに導かれ、ここで良いの?って神社に行き着きました。静かな神社で、社殿のある場所が本丸でした。境内から眺める木崎湖がいい雰囲気です。

2023年08月21日 仁科弾正少弼
館之内館[仁科城  周辺城郭]

鎌倉時代初期までの仁科氏居館跡です。天正寺の居館に移るまでの仁科氏の本拠です。

仁科御厨支配のための好立地に位置しています。西側は高瀬川河岸段丘、東側は本城の北城南城が控え、街道(後の千国街道)を抑えています。

居館は綺麗な方形居館ではなく、自然地形を活かした変則的な形をしています。現在館之内公民館が建っている場所は高見と言う小字ゆえに、物見台があったとされ、本郭はその東側とされていますが、個人的には異議があります。

2023年08月20日 仁科弾正少弼
天正寺仁科館[仁科城  周辺城郭]

鎌倉時代から戦国時代までの仁科氏居館跡です。この居館を中心にして東側に城下町を造り、それが現在の大町市街です。仁科盛信が高遠城で討ち死にし、その後小笠原貞慶に仁科の地が蹂躙されるに及び、天正年間に仁科氏旧臣が居館跡に寺を建立し、天正寺と称しました。

2023年08月15日 泰駿河守
仁科城



クルマで場内まで入れます。木崎湖の畔にある景色が綺麗な所でした。

2023年07月13日 仁科弾正少弼
木舟城[仁科城  周辺城郭]

地元民です。この城は山下地区の小字である木舟地区(貴船神社を仁科氏が建てたことからつけられた地名)にその一部があることから木舟城と最近になって便宜上つけられていますが、個人的には大反対です。地元では誰も木舟城などとは呼びません。「南城・北城」とか「本城」「仁科城」などと呼びます。仁科御厨と仁科荘支配の本拠地の館の内の居館の詰めの城として相当な規模の城ですから、‘’木舟城〝などと矮小化して欲しくないです。

2021年08月18日 ライノ蔵人頭
仁科城



信濃木崎駅と稲尾駅、どちらからも歩けます。稲尾駅の方が遠いですが、木崎湖をめぐって歩けるので、お勧めです。
現在は、静かな神社になっています。

2021年02月28日 竹下半兵衛(^^)/
木舟城[仁科城  周辺城郭]



標高927m、比高約200m。
思わず「コリャスゲー( ⊙⊙)!!」と声が出てしまった。
ここの大堀切を見れば誰もがめんたま飛び出るでしょう♪

南城、北城と分かれて、さらに奥の標高970mまで行くと青木城まであるという巨大城郭です。
遺構は...行った人はわかるでしょうが、今まで縄張図しか見てなかったことを後悔したくらいです(❁ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾

案内板は麓に仁科居館跡はありますが、山城にはありませんでした(2021`2月現在)
車は山下集落センター(いわゆる公民館)に止めました。
登城口はいくつもあるみたいです。
自分は常福寺北側から尾根によじ登り、2本南の尾根から下りました。

1日かけて歩き回りたいとこですよ~♡
♪ヽ(´▽`)/

2020年10月31日 竹下半兵衛(^^)/
仁科城



猿ヶ城
標高1200m、比高約400m。

仁科城の北側の山にある狼煙台&見張の城。
猿とか鬼とか名前のつくトコって 登るのシンドイけど、ここは車で搦め手から行けた。
狼煙台は標高1290mで眺めバッッツグーン(^o^ゞ♪
遺構は連続堀切からの竪堀、段曲輪などなどナカナカの造り♬
案内板があって、途中の急な岩場はロープ張ってある親切な整備
(^-^ゞ
2020`10/31には葉っぱオレンジ色に染まってて歩くのが楽しかった🍁♪
まだら紅葉な遠景もカメラマンが何人かいる...

っって後ろの雪景色な白馬岳を撮ってたんかーい
( ̄▽ ̄;)
自分だけ反対方向撮ってるし...



2016年08月18日 かげちゃんⅢ号
仁科城

仁科城の支城の西山城ですが、大町市から安曇野市(穂高町?)に行く広域農道沿いにあり、観光農園のそばに5台くらい止めれる駐車場があります。ただ、駐車場から出る時、見通しが悪くて特に安曇野市方面から来る車が見えなくカーブミラーも無いので細心の注意が必要です。

2012年03月03日 赤いRVR甲斐守@松本
仁科城

かつては木崎湖に突き出た半島に占地されていたようだが、西側は干拓されて水田になっている。本丸は先端部で、阿部神社の境内となっている。神社手前の道は、堀切の底部、その他にも、堀切、土塁といった遺構を見ることができる。周辺は民宿街。

仁科城の周辺スポット情報

 遺構(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 横堀(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 関所跡(遺構・復元物)

 仁科城跡附近見取図(碑・説明板)

 木舟城案内板、縄張図(碑・説明板)

 丹生子城(周辺城郭)

 木舟城(周辺城郭)

 天正寺仁科館(周辺城郭)

 青龍寺館(周辺城郭)

 牛立館(丑館)(周辺城郭)

 館之内館(周辺城郭)

 城の峰城(曽根原城)(周辺城郭)

 松崎古城(周辺城郭)

 南原城(周辺城郭)

 大念寺居館(周辺城郭)

 二重城(周辺城郭)

 大塩城(周辺城郭)

 藤城(周辺城郭)

 千見城(周辺城郭)

 仏崎城(周辺城郭)

 小屋場城(周辺城郭)

 城峰山城(周辺城郭)

 鳥立城(周辺城郭)

 雷電城(周辺城郭)

 塔城(周辺城郭)

 左右前山城(周辺城郭)

 向山城(周辺城郭)

 須沼氏居館(周辺城郭)

 大野田城(周辺城郭)

 切明城(周辺城郭)

 白鷺城(周辺城郭)

 佐野城(周辺城郭)

 佐野坂上城(周辺城郭)

 迎場城(周辺城郭)

 駒沢城(周辺城郭)

 飯綱城(周辺城郭)

 清水城(周辺城郭)

 左右前山城(周辺城郭)

 左右秋葉山砦(周辺城郭)

 鳥立城(周辺城郭)

 小屋場城(古屋場城)(周辺城郭)

 佐野坂上城(周辺城郭)

 佐野城(城平)(周辺城郭)

 内山ケイト山物見(周辺城郭)

 青木城(周辺城郭)

 大崎城(長畑城)(周辺城郭)

 飯綱城(周辺城郭)

 猿ヶ城(周辺城郭)

 横瀬館(周辺城郭)

 横瀬荒神山城(周辺城郭)

 城峰山城(周辺城郭)

 一ノ瀬山物見(周辺城郭)

 医王谷飯縄山城(周辺城郭)

 小菅山館(周辺城郭)

 鹿籠大峰山狼煙台(周辺城郭)

 さすなみ峰狼煙台(周辺城郭)

 辺尾山砦(周辺城郭)

 切明城物見(周辺城郭)

 若栗山城(いさた城)(周辺城郭)

 大野田城(大ぬた城)(周辺城郭)

 白鷺城(周辺城郭)

 切明日向物見(周辺城郭)

 二重南山城(周辺城郭)

 殿村居館(周辺城郭)

 宮村城ヶ峰(周辺城郭)

 松合物見(周辺城郭)

 でんぎょう山物見(周辺城郭)

 白石物見(周辺城郭)

 高地城(篠山城・城が峰)(周辺城郭)

 猫ん城(周辺城郭)

 大豆石物見(周辺城郭)

 有峠の物見(周辺城郭)

 大藤の城山(藤城)(周辺城郭)

 向山物見(周辺城郭)

 小藤の峯物見(周辺城郭)

 由久保物見(周辺城郭)

 千見城(矢張城)(周辺城郭)

 矢久砦(周辺城郭)

 城の館物見(周辺城郭)

 一宇田秋葉社物見(周辺城郭)

 塩ノ川物見(周辺城郭)

 石原城ヶ峯(石原城)(周辺城郭)

 峠山物見(周辺城郭)

 青木城(周辺城郭)

 駒沢城(周辺城郭)

 清水氏居館(周辺城郭)

 塔城(石灰山)(周辺城郭)

 清水城(周辺城郭)

 猿ヶ城烽火台(周辺城郭)

 北原居館(周辺城郭)

 南原居館(周辺城郭)

 妙喜庵居館(周辺城郭)

 仁科神社(本丸)(寺社・史跡)

 竈神社(寺社・史跡)

 若一王子神社(寺社・史跡)

 霊松寺(寺社・史跡)

 竈神社(寺社・史跡)

 大澤寺跡(寺社・史跡)

 青木城 木舟城入口(その他)

 木舟城登城口(その他)

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