屋代城(やしろじょう)

屋代城の基本情報

通称・別名

一重山城

所在地

長野県千曲市大字屋代334-3他

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

屋代信光

築城年

永正・天文年間(1504〜1555)

主な改修者

主な城主

屋代氏

廃城年

永禄2年(1559)

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

市史跡

再建造物

説明板

周辺の城

松田家館(長野県千曲市)[3.0km]
横田城(長野県長野市)[4.8km]
荒砥城(長野県千曲市)[5.9km]
松代城(長野県長野市)[6.9km]
葛尾城(長野県埴科郡)[7.6km]
尼厳城(長野県長野市)[9.4km]
吉窪城(長野県長野市)[10.3km]
麻績城(長野県東筑摩郡)[10.6km]
霞城(長野県長野市)[10.6km]
牧之島城(長野県長野市)[12.2km]

屋代城の解説文



屋代城(やしろじょう)は、長野県千曲市屋代にあった日本の城(山城)。千曲市指定史跡[1]

概要 

村上氏の一族(代官)であった屋代氏の詰城であった。居館は城の内遺跡の位置にあったとされている。永正~天文年間に築城されたといわれている。天文22年( 1553年)、屋代正国(政国)は近隣の塩崎氏や雨宮氏などと共に真田幸隆らの調略に応じて武田氏に臣従した。このため村上氏の葛尾城は自落し、5度12年に渡る川中島の戦いの引き金となった。その後、屋代氏は武田氏の命により永禄2年(1559年)に荒砥城に領地替えとなって移る。これは弘治元年(1555年)の第2次川中島の戦いの後、越後上杉氏との前線が村上氏の旧領埴科郡から川中島まで北上したことや、永禄3年(1560年)に海津城が築城されている事、さらには長沼城が北信の本拠地として整備されるなど状況の変化によって屋代城の相対的な価値が下がり、この時期に廃城になったと思われる。しかし屋代氏が荒砥城に移った後に一時は雨宮氏が拠城としたとも言われている。

地理・構造 

現在のしなの鉄道屋代駅の東側にある、一重山に築かれた山城。一重山は南の有明山から細長く延びた尾根にあたり、東西は極めて狭い地形となっている。そのため屋代城は、一重山部分(南城)と更に北にある北城に別れ、総延長は1kmにも及ぶが横幅は最大で35mほどしか無い。一番標高が高い一重山(南城)が本城にあたり、狭い鞍部で仕切られた南城が支城に相当する。このような一つの城の内部に独立した別城郭を持つ構造を「一城別郭」と呼ぶ。

同じ有明山の尾根上部には古墳時代の前方後円墳の有明山将軍塚古墳があり、隣の尾根には県内最大級の森将軍塚古墳がある。また狭い平地を挟んだ北東側の山地には、川中島の戦いで上杉軍が布陣したと伝えられる妻女山がある。

参考文献 

  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書3』 1993年

屋代城の口コミ情報

2025年08月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
屋代古城(城ノ内)[屋代城  周辺城郭]



さて、アプリの登録城としてかずぽん推しの屋代氏の要害、屋代城なんだけど、同氏が埴科郡船山郷に本拠を移す以前の居城と伝わるのが今回紹介する屋代古城だ。実は過去に口コミしている物件なんだけど、最近になって発掘調査結果報告書を探し出す事が出来たので改めて訪問、これを元にして新鮮な気持ちでリア攻めしてみた。口コミもこれに併せて当然、REDUX!!

屋代古城(城ノ内)は屋代城の北北東約2.1km、千曲川南岸(右岸)、標高約357mの平野部平場に立地した居館城です。該地は上信越自動車道と長野自動車道が接続する更埴JCTの南西側、屋代工業団地の一部分である。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「サクラ精機(株)長野屋代工場」を目標に設定して下さい。屋代古城は縄張はおろか城域すら確定しておらず、形状、形態も不明である。目標とする工場は発掘調査によって検出された内堀の内側に位置しており、城域の中心地の一部分(南東隅が推定出来ると思う。)であったと考えられる。

築城年代は不明、築城者は屋代氏です。同氏については同じ屋代城のリア攻めマップにある屋代氏居館や荒砥城のリア攻めマップにある屋代氏館を参照して下さい。ちなみに千曲市の有形文化財に指定されている、個人寄贈の「屋代家文書」全89点は非公開、見てみたいものれすな。

まず、最初に断っておくけど、ノーマルな方にとってはリア攻め自体が意味の無い行動だ。理由は簡単、前述したとおり、該地は屋代工業団地の一部分であり、改変どころか全てが平らげられてしまっている。付近一帯の道形は殆どが堀跡を踏襲していないし、各工場の敷地も推定郭を跨いでおり参考になる事は全く無い。それでもおいらが再訪を決意したのは、発掘調査結果報告書の存在によって以前の適当な探索に納得がいかなくなってしまったから…そう、前回のリア攻め認定?を取り消し、個人的充足感を得るためだけだ。

報告書に添付された図面から堀跡を現地に落とし込んで探索する訳だが、各工場の敷地への立ち入りには無理があるので大変な苦労をさせられた。信じられないかもしれないが、前回のリア攻めは10分程度、今回は2時間強を要している。正に異常者だけが為せる正常ではない所業だ。

発掘調査は部分的なものに留まっているが、検出された外堀の一部から推定すれば城域は相当な広範囲が推測される。規模からすると千曲川対岸のアプリの登録城、横田城にも似た環濠集落の中の居館城が想像出来るだろう。一国人領主のものとしては破格であり、抱いていたイメージを遥かに凌駕してしまった。

探索自体は非常に難しいのだが、前述したサクラ精機の工場敷地は内堀の南東隅に面しており、改変でなければ僅かながらの堀形の様な窪みが確認出来る。又、外堀の外側には中世のものと推測される別の居館跡2箇所が検出された堀跡を以て確認されており、その内の1箇所にあっては雑木林としてその形状を保っている。

以前、Jr.の候補生だった10歳の時に、懇親会の席で地形段差マニアの城友さんを変態だと揶揄した事があったんすけど、もう、あれから早5年…かずぽん、この領域に達するまでのスピードが速過ぎましたわ…今では街中の何気ない起伏にも自然と意味を求めてしまう始末…おいらは何処へと向かっているんだろう。

※城域の北辺は往時の千曲川に面していたと考えている。ちなみに該地の埴科郡屋代郷は平安時代中期に編纂された「和名類聚抄」が文書上の初見だ。但し、郷域には諸説がある。

※城域は特に西辺で不明である。個人的推測に過ぎないが、東西約400m、南北約300mが概ねの範囲だと考える。

※当日の気温は37℃だった…熱中症は心配するよりも予防策を講じる事が大切だと思う。そう、気合と根性、精神力で何とかするぜ。太陽とタイマン勝負だ。

※発掘調査結果報告書〜該地の地籍を冠した「城之内遺跡」として報告されている。時代を限定しない発掘調査であり、屋代古城に関しての記述もあくまでその部分である。探しても見付からなかった訳だ…

※写真⑧は文中にある別の居館跡2箇所の内の一つである。写真手前の畑地は堀跡だ。

2025年07月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
生仁館[屋代城  周辺城郭]



生仁館(なまにやかた)は屋代城の北東約2.1km、三滝川西岸(左岸)、標高約355mの平野部平場に立地した居館です。該地は同じ屋代城のリア攻めマップにある唐崎山城の西麓に当たり、北北西約0.5kmの位置には千曲川の渡し場、雨宮の渡を控えている。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「湛水防除事業・五十里川排水機場」を目標に設定して下さい。この排水機場から市道を挟んだ南側、一般住宅地の一角が概ねの該地である。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは生仁氏です。「更級郡埴科郡人名辞書」に所収された雨宮系図によれば、村上氏の一族に雨宮摂津守義衡があり、義衡の子に孫五郎義正、その舎弟に生身(仁)大和守義長があったらしく、生仁氏は埴科郡生仁郷に雨宮氏から派生した分流の家柄であったようだ。該地は応永年間(西暦1394年〜1427年)にこの義長が居した館跡であると伝えられている。

「長野県町村誌」には「生身館跡」として、「本村(雨宮村)巳の方四町餘字生仁(即古生仁村の地)にあり。里人城跡と云へども、方正にして唯堀一重を廻らし、回字形をなし一門を開きたるのみ、形勢全く屋敷構なり。堀幅六間三尺(約12m)、東西六十四間三尺(約117m)、南北五十間(約91m)、外周延長二百四十五間(約445m)、今水田となる。之を字申の新田と云ふ。元禄十六(西暦1703年)甲申年(即寛永改元也)始て試作新田となるを以てなり。其内凡方三十餘間の畑あり、之を字堀内と稱す。先きに耕地と成り、此に菅神の小祠あり、生身氏の鎮守なりと云ふ。跡の存ずる者唯之のみ。蓋し応永中生身大和守(大塔物語)居館の跡なり。何の時廃たる乎不詳。」とある。

生仁氏は、応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」の際には、村上満信麾下として雨宮孫五郎と共に生仁大和守が参陣している。又、永享十二年(西暦1440年)三月から続いた「結城合戦」における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「二十六番 雨宮殿 清野殿 漆田殿 生仁殿」とあり、他の川中島地域一帯の村上氏の一族と共にその名を連ねている。但し、これ以上の事績を探る事は不可能、氏族としての生仁氏が史料に現れるのは上記二点のみであり、個人的にはかなり早い時期に断絶していたと推測する(大和守義長の一代で断絶していた可能性すら考えられる。)。

居館の現況は…耕作地、空地、一般住宅地等となっている。往時は周囲より一段高い微高地であったらしいが現在は殆ど平らげられてしまっており、城郭遺構は認められず町村誌が記すところの旧態は失われている。ちなみに過去には時代を限定しない部分的な発掘調査が数次に亘って行われており、中世のものと推測される溝址が検出された他、同時代の遺物も多数が出土している。

夏場にお山に入るのが嫌なのでこの時期になると平地の居館廻りに全振りしている訳なんだけど、日光を遮るものが無く暑い事には全く変わりがない。それなりに動くし、行ったり来たりで結局は汗だくだ。テンポの良さも裏目に出てしまうかな。涼む前に次の目的地には辿り着いてしまい3件位こなすとぼろぼろの状態にさせられる。以前なら地球温暖化を、暖ったかい事は良い事だとか考えてたんだけどねぇ…早く冬になんねーかなぁ…

※写真には撮影日時が異なる物が含まれている。

※写真⑥、背景の山稜が同じ屋代城のリア攻めマップにある唐崎山城っす。生仁氏の要害とされているけど…ちなみにこのお城、確実に2回はぶち落とされている。

2025年07月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
雨宮の渡[屋代城  寺社・史跡]



雨宮の渡は屋代城の北東約2.4km、千曲川南岸(右岸)、標高約354mの平野部平場に立地した渡し場の跡です。現在は一般住宅地の中の公園となっているが、千曲川の川筋は該地の周辺において往古よりも北方へ約0.8km移動している。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。探索に手間取らないので車は路駐で大丈夫、邪魔なようであれば動かしてね。

第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」において、妻女山を駆け下りた上杉勢が渡渉したのが雨宮の渡とされている。治承五年(西暦1181年)六月の「横田河原の戦い」、応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」、何れも戦いはこの渡し場の対岸で繰り広げられている。

応永十一年(西暦1404年)十二月、細川慈忠證判には、「市河美濃守入道性幸之代子息三郎氏貞申軍忠事 右當國守護代御下向時者、老父美濃入道性幸、於都鄙致軍忠伝々、就中當大将(細川慈忠)國御入部刻、氏貞冣前符中(筑摩郡、府中〜後の松本である。)馳参、於在々所々致宿直警固処、去應永十年(西暦1403年)七月廿四日、村上(満信)、大井(光矩)、友(伴)野、井上(光頼)、須田為御敵馳向間、壇原(更級郡)御合戦時、於御前、氏貞散々太刀打仕、蒙自身疵、次生仁城攻時、為前懸合戦仕、重蒙疵畢、〜中略、同十月三日塩崎新城致没落期、抽忠勤畢、」とあり、信濃国代官、細川慈忠は、同名に従い代として馳せ参じた市河美濃守入道性幸の子息、市河三郎氏貞の軍忠を証している。文中にある「生仁城」は雨宮の渡を眼下に収める要害であり、代官に抗する村上満信等以下輩が、壇原で打ち負けた後に立て籠り、これに攻め寄せた氏貞が重い疵を蒙ったと言っている。

渡し場の現況は…前述のとおり一般住宅地の中の小さな史跡公園となっている。現在は北面に用水路が巡っているが、当然ながら往時は千曲川の河川敷であった訳だ。公園内には頼山陽の有名な漢詩、「鞭聲肅肅夜過河 曉見千兵擁大牙 遺恨十年磨一劍 流星光底逸長蛇」を刻んだ石碑が建ち、傍らには「史跡雨宮渡案内図」が立っている。ちなみに古老の証言によって位置が確定されたそうだが現在は渡し場感が全く無い。

一般的に交通の要衝であったとの認識があるが疑問に思ってしまう事が一つある。それは雨宮の渡へと通じる主要道が、近世の北国脇往還、北国街道以外に見当が付かない事だ。律令制下における東山道支道の道筋は千曲川の左岸地域を選んて進み雨宮で同川を渡らないし、更級郡稲荷山を起点とする松代道、広義の谷街道は千曲川の右岸地域を選んで進みこちらも雨宮で同川を渡らない。日本で最も有名な渡し場の一つとはいえ、その役割は限定的、旅人の注目を引いた事も殆ど無い。ぶっ飛ばされるかもしれないんだけど、個人的には千曲川に数多く存在する渡渉可能な浅瀬の一つに過ぎなかったんじゃないかとさえ思っている。

※武田勢が善光寺平に入る際の経路だが、小県郡、筑摩郡の何れかを経由したとしても基本的には千曲川を渡る必要が無い。

※「甲陽軍鑑」には「八幡原の戦い」において、武田勢が最初に張陣したのは雨宮の渡だったとの記述がある。信玄程の人物が上杉勢が張陣した妻女山から逆落としを喰らうような場所に人数を留めるような愚かな真似はしないだろう…大体にして近過ぎる。

※生仁城〜同じ屋代城のリア攻めマップにある唐崎山城の事である。

※その役割は限定的〜千曲川、これに流れ込む大小河川の川筋の変化や流量の増減も影響していると思われるが、個人的には周辺地域の時代的変遷によって室町時代〜戦国時代に重要度が低下したものだと考えている。南北朝時代の一時期には雨宮の渡の南方に位置する埴科郡船山郷には守護所が置かれていた。

※写真④、背景中央の山稜が文中にある生仁城(唐崎山城)、その役割が知れるだろう。ちなみに遺構はファジーだがそれなりに楽しめる。

2025年05月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
屋代氏居館[屋代城  周辺城郭]



さて、山梨県立博物館で開催されていた企画展、「武田勝頼 日本に隠れなき弓取」を見学したアプリユーザーは果たしてどれぐらいいるのかな?

おいら、企画展で展示されていた「長篠合戦戦装束経帷子」に涙がちょちょ切れるぐらい感動してしまいやしたよ。博物館で泣いたのは久しぶりの事っすわ。物は同合戦で討死した信濃先方衆、屋代正長(清綱)が着用していた帷子なんだけど、表面には、法蓮華経、「観世音菩薩普門品第二十五」、「陀羅尼品第二十六」の経文が全面にびっしりと書写されており、併せて背面中央には、「南無大慈悲観世音菩薩」と大書されている。華々しい戦の陰にあって自らの陣中加護を観世音菩薩に頼ろうとする武士の健気な覚悟とその心底にはすっかりやられちまいやした。そんな訳でこの正長が家督を継ぐ筈だった屋代氏の居館跡を再訪してみた。

屋代氏居館は屋代城の南南西約0.2km、千曲川東岸(右岸)、標高約363mの平野部平場に立地した居館です。該地は屋代城の立地する一重山山頂部の南麓直下に当たるが、居館地の正確な位置は現在も不明であり、あくまでも周辺から選び出された比定地の一つに過ぎない。但し、この場所以外には考え難いと思われる。

行き方はGoogleマップに位置登録されている曹洞宗の寺院、明月山「満照寺」を目標に設定して下さい。居館地はこの寺院の境内が推測されており車も捨てられる。

前述した事を否定する事にもなるのだが、その場所に問題が無い訳ではない。満照寺は、大永二年(西暦1522年)、屋代越中守正国(正長の養父である。)を開基(生年を考えるとあり得ないだろう。)とし、上州桂昌寺第三世夫山総田を迎えて開山、創建されており(寺伝による。)、寺地に後の移動が無ければ位置が重複してしまう事になる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは前述したとおり屋代氏です。同氏は清和源氏頼清流村上氏の分流、村上為国の子、経業(明国)に始まり、経業の孫、家盛が屋代二郎を、仲基が屋代大夫を、仲継が屋代五郎を、経仲と景仲が屋代六郎を称している。

「吾妻鏡」、承久三年(西暦1221年)六月十八日の条、「六月十三日十四日宇治橋合戦手負人々」の内に、屋代兵衛尉の名が見えるのが文書上の初見、建治元年(西暦1275年)五月の「六条八幡宮造営注文」には、他の村上氏一族と共に屋代蔵人跡(この場合の「跡」は屋代蔵人の後裔を示している。名が伝わらなかったので便宜上そう呼んでいる。)の名が見え、同名は五貫文を負担している。又、未見だが、正応三年(西暦1290年)の鎌倉幕府下知状によれば、埴科郡屋代郷に隣接する同郡倉科庄の内、東条の内にも知行地を有していた。

建武元年(西暦1334年)、倉科庄雑掌が申すところから、城興寺領(倉科庄)において、屋代下条一分地頭彦四郎以下輩は、下地を押領し年貢を責取ったと雑訴決断所に訴えられ、訴状を受けた同所が、信濃守護所に対して、訴件糾明のため彦四郎以下の輩を召し進ずべきとの同年六月十六日付けの牒が「市河文書」中に残っている。

観応二年(西暦1351年)六月二日、市河十郎左衛門尉(経助)宛、足利直義御教書には、「毛見彦次郎実綱申信濃國毛見郷本栖、平澤両村地頭職事 重申状具書如此、度々触遣之処、無音伝々、太無謂、所詮、今月中企参洛可明申之旨、屋代越中守権守相共、相触木島五郎二郎、戴起請詞、可被注申之状、依仰執達如件、」とあり、高井郡毛見郷内、本栖、平澤、両村の地頭職を木島五郎二郎と毛見彦次郎実綱が争っている事が判るが、市河経助は、足利直義から、音沙汰の無い木島五郎二郎の上洛を、屋代越中守権主と相談して促すよう求められている。

屋代氏は、南北朝時代の貞和二年(西暦1363年)以降、寛正六年(西暦1465年)までの間、幕府的始の射手を頻繁に勤めており、この点においては宗家の村上氏の回数を遥かに超えている。

居館の現況は…比定地である上に立派なお寺さんだ。問題提起したように居館地の跡に寺地が移ったのでもなければ比定地として破綻してしまう。但し、要害である屋代城への登路を考えれば、現在の墓地の辺りにそれを求める事は十分に可能、墓地の一角は屋代城にかつて穿たれていた六重堀切の直下に当たっている(墓地から掘り下げ部分の竪堀の残滓が確認出来る。)。

前述した正長の養育地と思われるけど、その居館地となると所領替えされた更級郡新砥(荒砥)の内であったろう。そちらの方も今回再訪したので次の機会にでも紹介するかな。たまにはこんな純粋な動機で城廻りするのもよいものだなぁ…

※「満照寺」〜満照は正国の祖父の名である。ちなみにお寺さんには、加賀藩前田家が絡む「満照寺の赤椀」て逸話と、佐久間象山に纏わる伝承が残っている。

2025年03月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
森将軍塚古墳[屋代城  寺社・史跡]



さて、おいらはこの分野においては全くの門外漢だし、アプリユーザーには多くの先達がいる事も知っている。それでも口コミするその心底は…古墳マニアに女子が多いからとかそういう問題じゃないのさ。この口コミはあくまでも挑戦だ。素人が一夜漬けで勉強して一体どれだけの事が語れるのかていう…が、本題に入る前に一つだけ言わせてくり、おいらぐらいに山中の(崩れた、もしくは古墳とは到底思えない…)古墳を見てきた山城好きもそうはいないだろう。この点だけははっきりと自慢出来るし、たぶん皆さんの想像を遥かに超えている。

森将軍塚古墳は屋代城の東南東約0.6km、沢山川西岸(左岸)、標高651.7mの有明山から東方へ伸びる尾根中段上、標高約492m地点の平場に立地する古墳です。北西麓の千曲市森将軍塚古墳館からの比高は135m位でしょか。ちなみに「森」は地名で森さんて将軍の墳墓ではない。

行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「千曲市森将軍塚古墳館」を目標に設定して下さい。基本的にはこの資料館からバスで登るか徒歩で登るかの2択である。バス料金は中学生以上で片道300円、往復500円…山城に慣れたおいらは徒歩で登るふりをしてバスをしっかりと選んでいる。

森将軍塚古墳は埴科古墳群に含まれており、同古墳群内の、有明山将軍塚古墳(過去に通り過ぎた事がある。)、倉科将軍塚古墳(同じ屋代城のリア攻めマップにある倉科城の一郭と化しているのでじっくりと探索している。)、土口将軍塚古墳(知らん。)と共に国指定の史跡である。

前述の4基の古墳は比較的に大型の前方後円墳であり、同地域にこれ等が集中するのは、かつてこの場所が「科野のクニ」の中心地だったから。現在の長野県は正に此処から始まった訳だ。長野県立歴史館が県庁所在地の長野市ではなく何だか微妙?な千曲市にあるのはそういう理由なのかな。

築造年代は不明だが四世紀の中頃、古墳時代の前期後半に当たるらしい。被葬者も不明だが「科野のクニ」の王(首長)だと推測されている。根拠は古墳がでっかいから。

古墳は前方後円墳だけど、皆さんが想像するような鍵穴形状とは少し異なっており、山尾根上の限られた部分での築造が求められた結果、左右非対称、前方部と後円部の中軸線がずれて「く」の字状に少し折れた形となっている。小ちゃくすればよいじゃん…とか思っちゃうんだけど、この大きさに拘る程の人物が被葬者だった訳なんでしょうがない感じなんだろう。

築造は、盛土する際に石垣によって墳丘内部を区画する独特な工法が採られ、盛土の表面を覆う葺石によって墳丘の形状が整えられている。又、墳丘の袖部は垂直に近い角度で立ち上がっているが、これは狭い尾根上の平坦地を全て活用した事に起因しており、森将軍塚古墳の大きな特徴の一つともなっている。

石室は長大な竪穴式、東日本最大級のものであり、床面積?となると日本最大らしい。棺は確認されず、過去の盗掘により副葬品の殆どは持ち去られていたそうだが、三角縁神獣鏡が副葬されていた事が判明している。ちなみに石室は前述の千曲市森将軍塚古墳館に原寸大で再現されており、お金さえ払えば誰でも見る事が出来る。

(;´・д・)…ふぅ 、久しぶりに凄く頑張ってみたよ。慣れない文字ばかりで調べるのは凄く苦労したぜ、趣味てのは道楽だけど、一歩間違えれば苦行に近いわ…ちなみにGoogleマップの航空写真でも古墳の形状、あの「前方後円な感ぢ?」がはっきりと確認出来る。そんぐらいの規模のデカ古墳なのだ。が、なんつうかねぇ…言い難いんだけど、改めて上空から俯瞰してみると、モザイクは要らないのかな?とか心配になっちゃうような形状なのさ。後円部は正円形を成しておらず妙に不整形な楕円形だしねぇ…あ、やば、こり以上語ると埴輪で頭をかち割られると思うんで止めとこう…既に狂信的古墳マニアによって結成された闇の実行部隊、「前方後援会」の◯すリストにおいらの名前が載っているかもしれん…

※現在の姿は再現されたもの。発掘調査が行われる以前は殆ど山林だった。

※古墳圧?みたいなのが凄いんでおいらみたいな素人でも普通に楽しめる。ちなみに屋代城の主郭とはほぼ同一標高、互いを遠景として見る事が出来る。

※常に見学者が絶えない。無人の古墳を撮影するのは至難の技だ。

※四世紀〜文献は存在せず、日本史においては空白の時代なんだそう。考古学的な発見が全てな世界らしい。

2025年03月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
県山城[屋代城  周辺城郭]



県山城(あがたやまじょう)は屋代城の東南東約3.2km、沢山川東岸(右岸)、三滝川南岸(左岸)、標高841.4mの大峯山から西方へ伸びる尾根中段上、標高約559mの小ピークを中心に立地する要害です。西麓の舗装道路からの比高は185m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西麓の「株式会社渡辺工業」を目標に設定して下さい。この事務所?の背後が該当尾根となる。適当な場所を選んで適当直登するのもよいが、山尾根の南側には不鮮明ながらも山道が付いており、尾根間鞍部のこれを登って該地の南側を目指すつもりで比高を稼ぐのがベスト、頭上に送電線を認めたら北側の斜面をよじ登って山尾根に上がれば殆ど辿り着いている。中部電力の送電線の鉄塔、No.31から城域と思われるが、城郭遺構が確認出来るのは此処から尾根筋を少し下った場所からである。

「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に未掲載の物件である。旧更埴市遺跡分布図、現在の千曲市遺跡分布図にも図示されているが、信濃のお城の神が何故に見落としたのかは多いに謎とするところだ。又、まともな調査は行われていないとはいえ、幸いな事に先達が探索に入っており現在も詳細が個人ブログで確認出来る。

築城年代、築城者は不明だが、村上氏、もしくはその一族、被官衆等の普請である事に間違いは無いだろう。同じ屋代城のリア攻めマップにある入山氏森館の入山氏はその有力な候補として挙げられる。該地の南方には、千曲川の流れに沿う、五里ヶ峯系山塊を越える宮坂峠道を控えており、同川右岸地域の戸倉へ抜けた後に山際を東行して福井に至れば、村上氏の本城である葛尾城の支城、岩崎城は目と鼻の先だ。廃城時期は同氏の信濃退去後の事であろう。

縄張は東西に長く展開し、その間は約0.5kmである。主郭は土塁付き、その東側山側背後には連続堀切を穿ち、一部には竪堀としての落とし込みの部分も見られる。主郭部の副郭から一段下がった場所には不明瞭ながらも4〜5段程度の段郭が設けられ、これ等を過ぎると散漫な尾根筋へと急に変わる。該当尾根末端部の削平地には東側山側背後に明瞭な堀切、この部分を推測するに物見の郭であろうか。

期待していなかったが、意外にもはっきりとした城郭遺構が確認出来た事には驚かされた。前記した理由から訪ねる人も殆どいない山城だが、小品としては今も十分な魅力を放っている。

「信濃の山城と館」をバイブルとして信濃の全城館制覇を目指すおいらだけど、未掲載の物件は神ブランドから外れたような気がしてどうしても後回しにしてしまう。実は近隣の長野市篠ノ井塩崎にも1件、そうした物件があるんだけど、既に訪城計画を立てて置きながら2年近くを無為に過ごしている。行かず嫌いはよくないや、県山城の訪問が弾みにもなった事だし今度こそ行ってみる。

※該地の南麓には「殿入」、南西麓には「小路」の字地名が残っており、居館地等の存在が疑われる。

※戸倉へ抜けた後に東行し福井に至れば〜戸蔵(戸倉)と福井は、永禄二年(西暦1559年)の所領替えにより、屋代城の城主であった屋代氏が知行地とした郷村である。武田氏時代の同氏は新砥(荒砥)に居館したと伝わるが、その知行地は大河である千曲川の左右両岸に及んでいた事になる。

※写真⑧は南麓から撮影した近景っす。

2025年03月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
屋代城



さて、信濃の山城てアプリユーザーには敬遠される傾向にあると思うんだけど、やっぱしイメージが良くないんだろうな。険しい山地の要害を誰でも想像するだろうし、それは決して間違いでは無いんだけれども、どんな地域、地方にもその軽重みたいなもんはある訳で…今回、紹介するアプリの登録城、屋代城は、そんな「軽い」方の物件に含まれるお城、だからと言って遺構がプアーな訳じゃない。信濃の山城入門編にはぴったりな駅近物件でもあるんで、せめて写真投稿数が300枚を超えるぐらいには盛り上がって欲しいなぁ…

屋代城(一重山城)は千曲川東岸(右岸)、標高651.7mの有明山から北西へ伸びる尾根中段上、標高458mの一重山山頂部を中心に立地する要害です。西麓のしなの鉄道線屋代駅からの比高は95m位でしょか。有明山の北方支尾根中段上には、古墳マニアが狂喜乱舞する長野県最大の前方後円墳、森将軍塚古墳が立地する。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは北西麓からとなり車も捨てられる。まごうことなき一本尾根にはしっかりとした登山道が付いており、熊さんの心配をする必要も全く無いだろう。又、毎年開催される「科野の国ラウンドトレイル」のコース上でもあるんで走って登れるし、その際は5分位で主郭に辿り着く事も十分に可能、歩いて登れば疲れる事も無いと思うさ。

訪ねるなら冬場を選ぼう。お山の樹木は殆どが葉落ちするし下草も殆ど無くなる。このお城は両側急峻な細尾根上に南北に長く城域が続いており、山麓からでもはっきりとその形状が判る稀有な山城だ。正に俯瞰図を見ているに等しいとも言えるだろう。

築城年代は不明、築城者は屋代氏です。同氏は平安時代末期から続く、清和源氏頼清流村上氏の分流だ。同氏については別の口コミで既に紹介済みだが内容を再検討したいと考えている。少なくとも簡単に語れる一族ではない。

該地とその周辺地域は一目瞭然の交通の要衝であり、川中島、善光寺平への関門の地に当たる。屋代城の北東約2.4kmには、千曲川を渡る「雨宮の渡」が位置している。

屋代城は、武田氏時代の永禄二年(西暦1559年)に、屋代氏の所領替え(更級郡の新砥の内、山田庄内の中内河、埴科郡の内、戸蔵、福井を宛行われている。)に伴い放棄、廃城されたと推測されている。交通の要衝故に不思議な事だが、武田氏は周辺において千曲川の右岸地域をさほど重要視していなかった節がある。

城跡としては不遇な城歴を持つ。埋め立てに使われる土砂の採取のために、城域の央部、南端部が広く深く削られ、何れも山尾根中の鞍部を形成している。特に残念なのが南端部であり、この部分には大堀切を含む六重堀切がかつて穿たれていたらしい。マニアが狂喜乱舞する山城のハイライトが完全に失われている訳だ。又、城山は現在も民有地となっており、後世には全山耕作されていた可能性が指摘され、削平地の一部は城郭遺構との判別が極めて難しくなっている。

縄張は山尾根上を南北に約0.6kmの範囲で展開する。小郭も含めれば12郭で構成されており、郭間の要所を堀切と竪堀で断ち切っている。現在のハイライトは比較的に緩やかな連郭となる主郭部の北側谷側前面に付く2条の堀切と竪堀、特に堀切の落とし込み部分となる長大な竪堀が美しい。この竪堀間には雛段状の腰郭群が設けられ、導線とも成り得る竪堀に守りの一手を加える。又、主郭の西側斜面の上段には土留めの石積みが確認出来たりもする。往時はかなり派手目な要害だったと推測するが殆どがその役割を終えており、現在は自らが崩落石として山肌上に散らばっている。

主郭からの展望も素晴らしい。川中島の西部地域を眼下に収め、遠く北方には飯縄山の山頂部を見事なまでに眺望出来る。甲越が激しく争った時期にこのロケーションを捨てたとは俄かに信じ難いものがあるが、「天正壬午の乱」の際の上杉氏も千曲川の左岸地域を重要視している事から、善光寺平へ通ずる主要道の道筋には千曲川を渡らない経路が好まれたのかもしれない。

今回の口コミは純粋な気持ちでお城を宣伝するピュアな口コミ、ピュアコミだ。おいらは自分が空腹でも他人には満腹になって欲しいと常に願っているようなピュアなJr.アイドル、つまりはピュアな人間が書くピュアコミなんでピュアピュアコミだとも言える。平素から目の前の人間が食べている物に執着してしまうような不埒な輩にはこの口コミの文字はきっと見えないであろう…

※しっかりとした登山道〜近傍の方が散歩がてらに有明山まで登ったりもする。

※訪ねるなら冬場を選ぼう〜しなの鉄道線屋代駅のホーム上から竪堀が視認出来る。全国でもこのお城だけだと思う。

2024年08月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
薬師山物見[屋代城  周辺城郭]



薬師山物見は屋代城の南東約2.4km、標高約404mの薬師山山頂部を中心に立地したと推測される物見台です。東麓の舗装道路からの比高は20m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「あんずの里 薬師山展望公園」を目標に設定して下さい。この公園が概ねの該地となる。車は南麓に隣接する浄土宗の寺院、興正寺に捨てるとよい。

薬師山は、西方山塊から同じ屋代城のリア攻めマップにある入山氏森館の北側に張り出す山稜であり、物見台は、位置関係から信濃のお城の神が居館地に付随し存在したと提起する色物物件に過ぎない。

「信濃の山城と館2、更埴・長野編」の入山氏森館の項に記述がある。入山氏森館自体が問題のある物件だが、居館地の正確な位置が判っていない以上、薬師山物見についても現況以外は何も語れない。

築城年代は不明、築城者は入山氏になるんだろう。同氏については入山氏森館の口コミを参照して下さい。出自は清和源氏頼清流、村上氏の一族、寄合氏の分流である。

凄まじくあっさりと片付ける。物見台の現況は段の付いた展望台である。当然、削平もされているが、これが往時のものなのかどうかも判らない。眺めが良い事ぐらいが関の山だ。又、神によって物見台とされているが、眺望は村上氏の支配領域のみに限定されている。

該地の埴科郡森村と村上氏の本拠、埴科郡坂城郷とは、北西へ向かって長く伸びる五里ヶ峯系山塊で隔てられているが、森村の南端にはこの山塊の山尾根を越える越道が付いていた。道筋の最高点は宮坂峠と呼ばれ、同じ屋代城のリア攻めマップにある宮坂峠小屋が番所の役割りを果たしていたとも推測されている。「上山田町史」にある、「宗家村上氏の重臣の列に入って葛尾城の北辺を守る。」との記述もあながち間違いでは無いのだろう。事実、入山氏が森村を知行地とした事はその役割を必然的に担っていた事に他ならないからだ。

…よく、戦国大名化を果たす一歩手前だったて言われる村上氏だが、間違った認識だと思っている。何を以て戦国大名と呼ぶのかにも左右されるが、少なくとも鎌倉時代から続く旧態依然の領国経営のまま戦国時代を迎えてしまった節がある。村上氏は今に残る文書が極端に少なく決定的な判断材料には乏しいのだが、惣領制からの脱却が図れなかった古い体質の国人領主だったと考えている。その勢力基盤は意外な程に脆弱だった訳だ。

武田晴信を二度までも破った村上義清だが、戸石城失陥後のあっけない凋落は注目に値する。調略によるものだろうが一族等の離反を相次いで招いている。宗家に従う事で一定の独立権限を有していた一族等は、武田氏による所領安堵を担保に村上氏を簡単に見限っている。元来、外城として機能していたこれ等諸氏の離反は、逆に村上氏を坂城郷に封じ込める結果となり、後詰も期待出来ず既に継戦能力を失った義清に残された道は退去して後日を期すしかなかった。

入山氏がこの際にどのような働きをしたのかは不明だが(一説によれば、それ以前に埴科郡清野郷に拠った村上氏の一族、清野氏の差配を受けていたとも。)、やはり外城としての役割を果たせなかったのはその結果を見れば明らかであろう。

※山塊の山尾根を越える越道〜道筋に変化はあるが、今も誰も知らない舗装林道として往来が可能であり、宮坂峠には標柱も立っている。ちなみに2年程前においらは峠で若い雄猫を保護した。今も峠道沿いの戸倉キティパークで殆どを野良猫として生活している。野生の子猫の生存率は概ねで10%位らしいけど、果たしておいらのした事が正しい事なのかは未だに判らない。名前は「峠」て付けてあるんで、キティパークに来る事があったら是非呼んでみて下さいまし。あ、猫の写真はインスタにアップしてるんで参考までに…

※写真①、背景手前の山稜は大峯山、同じ屋代城のリア攻めマップにある県山城が立地する。

※写真④は薬師山物見からの展望、一帯は「あんずの里」と呼ばれている。

2024年08月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
入山氏森館[屋代城  周辺城郭]



入山氏森館は屋代城の南東約2.4km、標高約385mの山間平野部平場に立地した居館です。該地の千曲市森は、標高651.7mの有明山系山塊と標高841.4mの大峯山系山塊に挟まれた地域であり、名産の杏に因んで「あんずの里」と呼ばれている。

行き方はGoogleマップに位置登録されている浄土宗の寺院、「興正寺」を目標に設定して下さい。この寺院の周辺が概ねの該地となる。車も当然捨てられる。

「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に掲載があるが問題のある物件だと思う。決して信濃のお城の神に抗う訳ではないが理由にあっては文中で述べていく。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは入山氏と伝わる。同氏は清和源氏頼清流村上氏の一族、寄合氏の分流とされる。「上山田町史」には、「入山氏基輔基時その子実村その子蔵人信村にいたり威頗る振い、宗家村上氏の重臣の列に入って葛尾城の北辺を守る。即ち自ら埴科郡森村に森氏の跡を受けてそこに進出し大豪族の一に加わった。その居館は現興正寺附近だという。…」とある…

…信濃のお城の神が描いた縄張図は興正寺を中心に据えているが、実際は寺地の付近に居館地が求められる訳だ。更に言えばその正確な位置は不明である。但し、同寺は度々戦火に遭い、生萱、清野、土口と寺地に移動があり、現在地の森には弘治元年(西暦1555年)に移ったとされるので、居館地の旧地に堂宇が再建された可能性も残す。

…上記理由からまともにリア攻めする気も失くすよな物件…おいらは辻に面する寺地の北東側の一角を疑うけど、素人なんでこり以上は知らんがな…折角なんで興正寺でもお参りしてとっとと帰ろうよ。

該地の大字は「清水堂」だが、東方約0.8kmの大峯山西麓には、「小路」、「殿入」の大字を残す。そもそも論で、根本的に位置に大きな誤りがあるのかもしれない。大峯山の西方尾根には、同じ屋代城のリア攻めマップにある県山城が立地するし、こちらの方が遥かに適地だと思えるのだが…

「あんずの里」は、元禄年間(西暦1688年〜1704年)に、宇和島藩藩主、伊達宗利の息女、豊姫が、松代藩藩主、真田幸道に輿入れの際、故郷を懐かしみ持ち込んだ杏の種が元となったらしい。なだらかな傾斜地に杏畑が広がり、ひと目で多くの花が見渡せることから、「一目(ひとめ)十万本」、「日本一のあんずの里」と謳われている。「千曲市 あんずの里観光会館」で売ってる杏ソフトは2個喰い出来る程の美味さなんで皆様も是非…ちなみにゆるキャラグランプリにも参加する公式キャラクター、「あん姫」が凄く可愛らしいんでこちらの方も宜しく。桜の咲く少し前の時期が杏の花の見頃だ。

※最寄り駅はしなの鉄道の屋代駅、屋代駅前通り商店街のゆるキャラ、「ヤシロウ」は設定自体が謎でしかないヤンキーであり、ゆるキャラグランプリ参加865キャラ中、808位の不名誉な結果に終わっている。商店街の会合で反対意見は出なかったんだろうか…ちなみにサングラスをかけて木刀を持っているんで仲良くするのは大変難しい。

※県山城〜神本未掲載の物件だ。写真の賞味期限がとっくに切れてるので口コミはいつの事になるやら…

※他を撮ってもしょうもないんで写真は興正寺でもどうぞ。居館地として完全否定出来る訳でもないしね。それっぽくはある。

※写真⑥、背景の山稜が同じ屋代城のリア攻めマップにある薬師山物見、色物物件だが…

2024年01月27日 気分爽快右大臣
屋代城



昔から知っている山でしたが、城址とは知らず遅ればせながら攻城してきました。
南北に長く伸びた尾根筋に、郭、堀切の順に並んでいるので、飽きずに主郭まで登れます。主郭の眼下には屋代駅が見えていますが、北から大回りして遺構をみながら登るのがお勧めです。
途中、土砂が削り取られ鞍部となっているため、北側と南側に分かれた状態となり、ちょっと残念な城址です。
①お墓を抜けて、いよいよ城址らしくなってきた郭
②堀切の先に郭。この連続。
③ここの堀切と土橋は明瞭。
④郭5から郭4を見上げる
⑤郭3の先には武者隠し土塁
⑥⑤の土塁の先の竪堀。落ちたら登れない。
⑦郭2から堀切と土塁と郭3を見下す。
⑧主郭の周りには、一部に土留めの石垣あり

2023年01月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
明聖霊神砦[屋代城  周辺城郭]



明聖霊神砦は屋代城の東北約3.2km、標高694.6mの手城山から西方へ延びる山塊尾根上、標高約556mのピークの一つに主郭が存します。西麓の長野県道335号線、森篠ノ井線からの比高は200m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西麓の「招魂社」を目標に設定して下さい。小社の前には手城山登山道案内図があり、砦の事はスルーしてますが明聖霊神まで此処から40分と書かれています。

築城年代、築城者は不明、信濃の山城と館2、更埴・長野編にも掲載が無い。主郭には祠が鎮座しているが二段の削平地を持つ尾根上のピークで、此処を砦だとする最大の根拠は主郭東側山側背後のしっかりした1条の堀切の存在にある。

これだけじゃあれなんで…

〜雪の山城のススメ1〜(登城難度がやや高めのお城が対象です。)

「よくもまぁ寒い冬の時期に降雪地帯の山城に行く気になるわ〜」等とよく言われるおいらですがちゃんとした理由があるのれす。山城大好きなおいらにとっての最大の敵は藪!激藪!遺構が判り難いどころか時には進入すら拒む…特に駄目なのが熊笹藪、蔦藪、椿藪でして、群生した椿なんて物理的に通過するのも困難だ。地方、地域にもよるけど降雪が始まった冬の山城は少なくとも熊笹、蔦植物に関してはしっかりと埋もれてくれるし寝かせてくれる(熊笹は数十年に渡って枯れる事はない。)。遺構が見易くなる最大のチャンスなのだ。但し…平野部での積雪が50cmを超えたら素直に諦めましょう。軽めのラッセルになるし、集落から山際に近付く事さえ困難(道筋が判らない。沢や水路に落ちる阿保もいる…)だ。登山が目的ではない山城好きにとっては苦痛でしかない。

良いところ…

①遺構が見易く余計なものが隠れる。夏場の写真と見比べてみよう。

②積雪が30cm位迄なら登城は楽に感じる。誰もお山に入らないので凍結している事はまれだ。急登も積雪がグリップになる。

③帰りは尻餅ついて滑って行ける場所があったりする。童心に還ろう。

④濡れる事はあるがあんまし汚れない。

⑤熊さんが寝ているしイノシシは積雪地帯を避けて越冬する。但しニホンジカ、ニホンカモシカ、他の小動物は元気だ。足跡は目標を目指す際の道標にもなるが、寄り道もするし時には人が行けない場所にも誘導される。

続く…

2022年12月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
唐崎山城(朝日山城・藤崎城)[屋代城  周辺城郭]



唐崎山城(朝日山城・藤崎城)は屋代城の北東約2.5km、三滝川東岸(右岸)、標高694.6mの手城山から西方へ延びる山塊尾根上、標高478.4mのピークの一つに主郭が存します。西麓の長野県道335号線、森篠ノ井線からの比高は125m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。西麓の招魂社から手城山に至る登山道が付き案内板も設置されています。

築城年代は不明、築城者は雨宮氏と伝わります。同氏は村上氏の一族で、修理亮義次の二男、摂津守義正が雨宮に住して雨宮氏を名乗ったとされる。村上氏一族で修理亮を名乗った人物は複数見られるが、手持ちの史料で義次の名は確認出来ない。雨宮氏は大塔物語に村上満信麾下として生仁大和守と共にその名が見える。又、永享十二年(西暦1440年)三月、結城合戦における結城陣番帳の二十六番には「雨宮殿 清野殿 漆田殿 生仁殿」とあり、川中島一帯の他の村上氏一族と共にその名を連ねる。戦国時代には雨宮昌秀が同族の清野清秀から三郎兵衛正利を養子として迎え、刑部を名乗った正利は村上氏に従い上田原の戦いにおいて討死、長野県上田市下之条には今も雨宮刑部正利の墓が残る。天文二十二年(西暦1553年)、正利の弟である景信が武田氏に出仕したが、以後雨宮氏の名は史料から見えなくなる。

2回目の訪問、前回は夏場で藪に塗れて通り過ぎるところだった…お城は戦国時代の改修を見ないとされるが、要害としては「頑張れる事は一応やってみたよ…」て感じじゃないでしょか。このお城に堀系を沢山増やしてもしょうもない気がする。お城の傷だらけの歴史については同じ屋代城のリア攻めマップにある生仁館を参照して下さい。ちなみに遺構は総じて薄め、主郭東側山側背後の大堀切は自然地形としか思えないのだが…

雨宮氏が後に甲斐に住して武田氏に代々仕え、江戸時代には旗本となったとするwikiの記述は誤りだろう。真面目に調べてないけど甲斐の雨宮氏は別氏族だと思われる。

2022年05月27日 ᴿᴱᴰ 副将軍
鷲尾城[屋代城  周辺城郭]



素晴らしい石積み、二重堀切、三重堀切等の見所多数な信濃の名城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代等の詳細不明。
村上一族の倉科氏が城主であったと考えられています。
武田氏の侵攻によって村上義清が越後へ逃れると倉科氏も従っていった様です。
その後、清野氏によって支配された後は、鷲尾城も清野氏の支配下となり、鞍骨城の支城として機能したと云われています。

見所
板状の石を利用した牛蒡積みは信濃特有で、主郭を全周しています。南側に虎口が開口し犬走りが併設されています。
さらに主郭背後は二重堀切で遮断、更に二郭を越えると三重堀切されています。
その先には倉科将軍塚古墳を利用した郭があり、その先は堀切が二条で防御線を張っています。

行き方は、城域南にある大日堂から登山道が付いています。
近くに倉科の里広場という公園があり、そこに駐車をして登りました。
斜度はありますが、その分比高を稼げるので20分で主郭に辿り着きました。

写真
①②③主郭を巡る石積み
④主郭の石塁
⑤⑥主郭背後の二重堀切
⑦⑧二郭背後の三重堀切

2022年05月15日 ᴿᴱᴰ 副将軍
屋代城



よく整備され、堀切、石積み遺構も残るオススメの山城です

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。村上氏一族の屋代氏によって築かれた詰城と云われます。
屋代氏は、屋代家盛が祖とされ、村上氏の重臣であり、村上義清に属していました。

1553年に、武田信玄が侵攻してくると当主の屋代正国は直ぐに降伏します。村上義清は居城の葛尾城を失い、越後の長尾氏を頼って落ちてしまいます。屋代氏は荒砥城に居城を移されますが、12年に渡る川中島の戦いが始まり、武田氏の拠点として屋代城はしばらくは使用されたのでしょうか。やはり現在の遺構は武田色を少し感じました。

1582年、織田信長により武田氏が滅亡。織田家臣の森長可の支配下となりますが、信長が本能寺の変で没すると森氏は撤退。代わって越後の上杉氏の勢力が伸びてきたため上杉氏に属します。

1584年、当主の屋代秀正は上杉氏を離反。荒砥城に籠もりますが、上杉氏の攻撃により秀正は家康を頼って落ちのびます。関ヶ原合戦では東軍に属した上杉氏に対して、その後は徳川家に仕え続けた屋代氏は幕末まで旗本として存続し続けました。

千曲川沿いの要衝に位置し、有力者の所領の境目であったため、村上氏、武田氏、織田氏、上杉氏、徳川氏と情勢に応じて主君を代えて行きました。屋代氏は絶妙なパワーバランスを見極めて幕末を迎えたと思います。

見所
現在は一重山公園として整備。
採土により主郭南側、北側も城域中央部は消失していますが、駅近の市街地に素晴らしい遺構が残ります。
一番の見所は、二郭下には堀切がありますが、堀切の遮蔽効果を高めるために、前面に土塁が盛られています。
主郭側面には石積みも巡らされています。
多数の堀切、竪堀、土橋が配されており、主郭まで楽しみながら登ることができます。
また側面斜面にも無数の腰曲輪が敷設されていることも特筆です。

写真を撮っていると、整備をされている一重山みらい会議の方にいろいろと教えていただきました。
山城の整備ボランティアを頂いている方々にはホントに感謝感謝です🙇‍♂️

行き方は、しなの鉄道 屋代駅から直ぐ近くで大日堂の裏から登ることができます。
車ならば、城域北端部に不動尊があり、その下に駐車スペースもあるので、そこから南へ尾根筋を登るのがオススメです。

2021年08月10日 ファン掃部助トム治郎
屋代城



有明霊園側の登山口から頂上まで10分くらいです。更埴地方を見渡すことができます。

2019年12月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
鷲尾城[屋代城  周辺城郭]



鷲尾城は屋代城の東方約2.7km、南西へ延びる山塊尾根上、標高約516mのピークの一つに主郭が存します。南西麓からの比高は150m位でしょか。

築城年代は不明ですが、築城者は村上氏庶流の倉科氏とされています。登城前にこの付近一帯の標柱を作成しているという方に偶然お会いしまして色々なお話を聞けたのですが、倉科氏は武田氏の北信濃侵攻の際に安曇郡に脱出した一族があるそうです。その後この地に帰還を果たし、それを記念した善光寺住職書による生還碑がこの地にあるみたいでして、今でも倉科姓を名乗る家が三軒程あるんだとか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている真田信之次女泰子姫建立と伝わる大日堂を目標に設定して下さい。お堂の裏手が登城路となっています。少しだけ登るとこれまた泰子姫開基の大善寺跡がありますが、遙か昔に土砂で流出、今は石積みが少しだけ残る二段程の削平地となっていますのでコアな六文銭ファンは是非。

お城へは急坂を一気に登る感じ。15分弱で主郭部に到達します。主郭部は通称武者返しと呼ばれる石積みにまず圧倒されます!たぶん主郭全周と腰郭の一部に施されていたと思われ、その量たるや相当なものです。虎口、土塁付きの主郭の北東側山側背後は大堀切となっていますが、堀切底部に土塁を設けて二重堀切を形成しています。更に進むと三連続堀切があり、此処から少しだけ登って行くとこのお城最大の名物が現れます!それは郭の全てが倉科将軍塚古墳という罰当たりな部分でして、古墳と言っても石室があるとかそういうレベルじゃなくて、あの前方後円墳があるんです!全長100m強の古墳はエッジを失くしているとはいえ、皆が想像するあの前方後円?みたいな感じが今も残っています!更に前方?の部分で大堀切の切岸を形成していたりしてこんなん他では見れませんわ。お城付近には綺麗に復元された有名な森将軍塚古墳がありますが、こちらの方は県内最高位にある古墳みたいですので、古墳ファンをも虜に出来るでしょう。

川中島周辺のお城としては、住宅地の裏山的な感じで気軽に行けるのも魅力です。屋代城に来る事がありましたら是非訪ねてみて下さいまし。

2019年11月11日 上田原合戦無名戦死左衛門尉
屋代城



本郭の堀切を探索していたらカモシカの親子に遭遇。市街地にかなり近い山城なのにビックリ!!
写真、見にくくてすいません(笑)

2019年05月08日 くらやみ美濃守☘️
屋代城



主郭西側の石積み。山頂部の急斜面なので、土留めの役割が大きいと思われる。

2012年03月03日 赤いRVR甲斐守@松本
屋代城

屋代駅横の山が城跡。冬場なら電車の窓から堀切が見える。駐車場はほとんどないので、県立歴史館に止めて、そこと森将軍塚古墳、記念館と全部見たらどうでしょうか。登城口は長野電鉄踏切脇から、コンクリ道を歩けば、それほど高い山ではないので、数分で主郭です。その先は、過去の土取りで失われています。

屋代城の周辺スポット情報

 屋代城登城口(碑・説明板)

 鷲尾城(周辺城郭)

 生仁館(周辺城郭)

 明聖霊神砦(周辺城郭)

 唐崎山城(朝日山城・藤崎城)(周辺城郭)

 柏王の鐘撞場(周辺城郭)

 宮坂峠小屋(周辺城郭)

 堅井城(比定地B)(周辺城郭)

 堅井城(比定地A)(周辺城郭)

 柏王の鐘打田(鐘つけ田)(周辺城郭)

 薬師山物見(周辺城郭)

 屋代氏居館(周辺城郭)

 小船山館(周辺城郭)

 入山氏森館(周辺城郭)

 県山城(周辺城郭)

 大善寺城(周辺城郭)

 屋代古城(城ノ内)(周辺城郭)

 森将軍塚古墳(寺社・史跡)

 有明山将軍塚古墳(寺社・史跡)

 雨宮の渡(寺社・史跡)

 駐車スペース(駐車場)

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