屋代城(やしろじょう)

屋代城の基本情報

通称・別名

一重山城

所在地

長野県千曲市大字屋代334-3他

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

屋代信光

築城年

永正・天文年間(1504〜1555)

主な改修者

主な城主

屋代氏

廃城年

永禄2年(1559)

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

市史跡

再建造物

説明板

周辺の城

松田家館(長野県千曲市)[3.0km]
横田城(長野県長野市)[4.8km]
荒砥城(長野県千曲市)[5.9km]
松代城(長野県長野市)[6.9km]
葛尾城(長野県埴科郡)[7.6km]
尼厳城(長野県長野市)[9.4km]
吉窪城(長野県長野市)[10.3km]
麻績城(長野県東筑摩郡)[10.6km]
霞城(長野県長野市)[10.6km]
牧之島城(長野県長野市)[12.2km]

屋代城の解説文



屋代城(やしろじょう)は、長野県千曲市屋代にあった日本の城。千曲市指定史跡[1]

概要 

村上氏の一族(代官)であった屋代氏の詰城であった。居館は城の内遺跡の位置にあったとされている。永正~天文年間に築城されたといわれている。天文22年( 1553年)、屋代正国(政国)は近隣の塩崎氏や雨宮氏などと共に真田幸隆らの調略に応じて武田氏に臣従した。このため村上氏の葛尾城は自落し、5度12年に渡る川中島の戦いの引き金となった。その後、屋代氏は武田氏の命により永禄2年(1559年)に荒砥城に領地替えとなって移る。これは弘治元年(1555年)の第2次川中島の戦いの後、越後上杉氏との前線が村上氏の旧領埴科郡から川中島まで北上したことや、永禄3年(1560年)に海津城が築城されている事、さらには長沼城が北信の本拠地として整備されるなど状況の変化によって屋代城の相対的な価値が下がり、この時期に廃城になったと思われる。しかし屋代氏が荒砥に移った後に一時は雨宮氏が拠城としたとも言われている。

地理・構造 

現在のしなの鉄道屋代駅の東側にある、一重山に築かれた山城。一重山は南の有明山から細長く延びた尾根にあたり、東西は極めて狭い地形となっている。そのため屋代城は、一重山部分(南城)と更に北にある北城に別れ、総延長は1kmにも及ぶが横幅は最大で35mほどしか無い。一番標高が高い一重山(南城)が本城にあたり、狭い鞍部で仕切られた南城が支城に相当する。このような一つの城の内部に独立した別城郭を持つ構造を「一城別郭」と呼ぶ。

同じ有明山の尾根上部には古墳時代の前方後円墳の有明山将軍塚古墳があり、隣の尾根には県内最大級の森将軍塚古墳がある。また狭い平地を挟んだ北東側の山地には、川中島の戦いで上杉軍が布陣したと伝えられる妻女山がある。

参考文献 

  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書3』 1993年

屋代城の口コミ情報

2023年01月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
明聖霊神砦[屋代城  周辺城郭]



明聖霊神砦は屋代城の東北約3.2km、標高694.6mの手城山から西方へ延びる山塊尾根上、標高約556mのピークの一つに主郭が存します。西麓の長野県道335号線、森篠ノ井線からの比高は200m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西麓の「招魂社」を目標に設定して下さい。小社の前には手城山登山道案内図があり、砦の事はスルーしてますが明聖霊神まで此処から40分と書かれています。

築城年代、築城者は不明、信濃の山城と館2、更埴・長野編にも掲載が無い。主郭には祠が鎮座しているが二段の削平地を持つ尾根上のピークで、此処を砦だとする最大の根拠は主郭東側山側背後のしっかりした1条の堀切の存在にある。

これだけじゃあれなんで…

〜雪の山城のススメ1〜(登城難度がやや高めのお城が対象です。)

「よくもまぁ寒い冬の時期に降雪地帯の山城に行く気になるわ〜」等とよく言われるおいらですがちゃんとした理由があるのれす。山城大好きなおいらにとっての最大の敵は藪!激藪!遺構が判り難いどころか時には進入すら拒む…特に駄目なのが熊笹藪、蔦藪、椿藪でして、群生した椿なんて物理的に通過するのも困難だ。地方、地域にもよるけど降雪が始まった冬の山城は少なくとも熊笹、蔦植物に関してはしっかりと埋もれてくれるし寝かせてくれる(熊笹は数十年に渡って枯れる事はない。)。遺構が見易くなる最大のチャンスなのだ。但し…平野部での積雪が50cmを超えたら素直に諦めましょう。軽めのラッセルになるし、集落から山際に近付く事さえ困難(道筋が判らない。沢や水路に落ちる阿保もいる…)だ。登山が目的ではない山城好きにとっては苦痛でしかない。

良いところ…

①遺構が見易く余計なものが隠れる。夏場の写真と見比べてみよう。

②積雪が30cm位迄なら登城は楽に感じる。誰もお山に入らないので凍結している事はまれだ。急登も積雪がグリップになる。

③帰りは尻餅ついて滑って行ける場所があったりする。童心に還ろう。

④濡れる事はあるがあんまし汚れない。

⑤熊さんが寝ているしイノシシは積雪地帯を避けて越冬する。但しニホンジカ、ニホンカモシカ、他の小動物は元気だ。足跡は目標を目指す際の道標にもなるが、寄り道もするし時には人が行けない場所にも誘導される。

続く…

2022年12月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
唐崎山城(朝日山城・藤崎城)[屋代城  周辺城郭]



唐崎山城(朝日山城・藤崎城)は屋代城の北東約2.5km、三滝川東岸(右岸)、標高694.6mの手城山から西方へ延びる山塊尾根上、標高478.4mのピークの一つに主郭が存します。西麓の長野県道335号線、森篠ノ井線からの比高は125m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。西麓の招魂社から手城山に至る登山道が付き案内板も設置されています。

築城年代は不明、築城者は雨宮氏と伝わります。同氏は村上氏の一族で、修理亮義次の二男、摂津守義正が雨宮に住して雨宮氏を名乗ったとされる。村上氏一族で修理亮を名乗った人物は複数見られるが、手持ちの史料で義次の名は確認出来ない。雨宮氏は大塔物語に村上満信麾下として生仁大和守と共にその名が見える。又、永享十二年(西暦1440年)三月、結城合戦における結城陣番帳の二十六番には「雨宮殿 清野殿 漆田殿 生仁殿」とあり、川中島一帯の他の村上氏一族と共にその名を連ねる。戦国時代には雨宮昌秀が同族の清野清秀から三郎兵衛正利を養子として迎え、刑部を名乗った正利は村上氏に従い上田原の戦いにおいて討死、長野県上田市下之条には今も雨宮刑部正利の墓が残る。天文二十二年(西暦1553年)、正利の弟である景信が武田氏に出仕したが、以後雨宮氏の名は史料から見えなくなる。

2回目の訪問、前回は夏場で藪に塗れて通り過ぎるところだった…お城は戦国時代の改修を見ないとされるが、要害としては「頑張れる事は一応やってみたよ…」て感じじゃないでしょか。このお城に堀系を沢山増やしてもしょうもない気がする。お城の傷だらけの歴史については同じ屋代城のリア攻めマップにある生仁館を参照して下さい。ちなみに遺構は総じて薄め、主郭東側山側背後の大堀切は自然地形としか思えないのだが…

雨宮氏が後に甲斐に住して武田氏に代々仕え、江戸時代には旗本となったとするwikiの記述は誤りだろう。真面目に調べてないけど甲斐の雨宮氏は別氏族だと思われる。

2022年12月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
生仁館[屋代城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

生仁館(なまにやかた)は屋代城の北東約2.1km、三滝川西岸(左岸)、標高約355mの台地上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「湛水防除事業・五十里川排水機場」を目標に設定して下さい。この堰の南側一帯の住宅地が概ねの該地です。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは生仁氏です。同氏の詳細は不明だが、村上氏の一族であるとする。長野県町村誌には「生身館跡」で掲載があり、「方正にして唯堀一重を廻らし、回字形をなし一門を開きたるのみ、形勢全く屋敷構なり。」とある。応永年間(西暦1394年〜1427年)に生身(生仁)大和守の居館だったらしく、大和守は大塔物語に村上満信麾下として雨宮孫五郎と共にその名が見える。又、永享十二年(西暦1440年)三月、結城合戦における結城陣番帳の二十六番には「雨宮殿 清野殿 漆田殿 生仁殿」とあり、川中島一帯の他の村上氏一族と共にその名を連ねる。

居館の現況は耕作地と一般住宅地で旧態は全く想像出来ない。水路に往時の堀形を求めるのが関の山だが、該地は僅かな微高地であったかもしれない。居館の東方、標高694.6mの手城山の西方尾根端部上には同じ屋代城のリア攻めマップにある要害の唐崎山城(朝日山城・藤崎城)が築かれている。

居館の北西約0.6kmに位置する雨宮の渡しは千曲川渡渉の要路であり、生仁館と唐崎山城は度々戦火に晒されている。信濃史料中、至徳四年(西暦1387年)、市河文書に「…村上頼国等は守護所水内郡平芝を攻めんとす、市河頼房、信濃守護代二宮氏泰の子同種氏に属し、同郡漆田に之を禦ぐ、尋で、信濃守護斯波義種、頼房の功を賞す、」とあり、頼国等は漆田で打ち負けた後、この生仁城に籠ったが落城に及んだとされる。要害が落ちたのだから生仁館はたぶんぼこぼこにされた事でしょう。又、応永十年(西暦1403年)、信濃国代官(この時期、信濃国は将軍家御領国となった。)、細川慈忠が入部の際、反抗姿勢を強める村上満信等の国人衆と合戦に及び、慈忠は檀原でこれ等を破る。敗走した村上勢等は再び生仁城に籠ったが落城に及んだそう。この際に参陣した市河氏貞等一族の功を賞した市河刑部大輔入道(興仙・頼房)宛、応永十年八月十八日付、足利義満御判御教書が現存する。

2022年12月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
屋代古城(城ノ内)[屋代城  周辺城郭]



屋代古城(堀ノ内)は屋代城の北東約2.1km、標高約356mの河岸台地上平場に城域が存します。該地は長野自動車道と上信越自動車道が接続する更埴JCT南西側の工業団地に含まれます。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「中部電力パワーグリッド(株)雨宮変電所」を目標に設定して下さい。変電所とその周辺が概ねの該地です。

築城年代は不明、築城者は清和源氏頼清流村上氏の庶流、屋代氏です。同氏は村上為国の子、経業(明国)に始まり、経業の孫、家盛が屋代二郎を、仲基が屋代大夫を、仲継が屋代五郎を、経仲と景仲が屋代六郎を称している。屋代氏は承久の乱の宇治橋合戦の手負交名内に屋代兵衛尉の名が見え、乱において一族は鎌倉幕府方として参陣している事が判る。建治元年(西暦1275年)五月の六条八幡宮造営注文では他の村上氏一族と共に屋代蔵人の名が見え、蔵人は五貫文を負担している。市河家文書によれば九条城興寺領(倉科荘)の年貢を建武元年(西暦1334年)に屋代一分地頭の小四郎が掠め取ったと訴えられており城興寺側(真言宗)と如意寺側(天台宗)との相論となったが、この翌年に周辺で青沼合戦が発生して沙汰止みとなっている。

お城の現況は工業団地として改変されていて何がどうだか…「よくもまぁこんなだだっ広い場所にお城を築いたものだなぁ…」とは思うけど、調べてみたら現在の千曲川の川筋は往古より北方へ約0.9km移動しているそうなので、往時の流れは丁度この古城の北辺を洗っていたのかもしれない。周辺は今も変わらぬ交通の要衝、謂わゆる兵家必争の地、第四次川中島の戦いで上杉勢が渡河したとされる雨宮の渡しは屋代古城の東方約0.8kmに位置する。

村上氏宗家もそうだが、屋代氏は本流の流れが経業系から頼国系に変わる。経緯は不明だが、宗家の流れに伴い再編があったと考えるのは自然だろう。永享十二年(西暦1440年)三月、結城合戦における結城陣番帳の八番には「村上殿代屋代殿」と見え、宗家の代役を務めて参陣している事が判る。屋代氏は寛正年間(西暦1460年〜1466年)に一重山にアプリ登録城である屋代城を築くが、屋代城自体は屋代郷ではなく船山郷に立地する。

2022年05月27日 RED副将軍
鷲尾城[屋代城  周辺城郭]



素晴らしい石積み、二重堀切、三重堀切等の見所多数な信濃の名城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代等の詳細不明。
村上一族の倉科氏が城主であったと考えられています。
武田氏の侵攻によって村上義清が越後へ逃れると倉科氏も従っていった様です。
その後、清野氏によって支配された後は、鷲尾城も清野氏の支配下となり、鞍骨城の支城として機能したと云われています。

見所
板状の石を利用した牛蒡積みは信濃特有で、主郭を全周しています。南側に虎口が開口し犬走りが併設されています。
さらに主郭背後は二重堀切で遮断、更に二郭を越えると三重堀切されています。
その先には倉科将軍塚古墳を利用した郭があり、その先は堀切が二条で防御線を張っています。

行き方は、城域南にある大日堂から登山道が付いています。
近くに倉科の里広場という公園があり、そこに駐車をして登りました。
斜度はありますが、その分比高を稼げるので20分で主郭に辿り着きました。

写真
①②③主郭を巡る石積み
④主郭の石塁
⑤⑥主郭背後の二重堀切
⑦⑧二郭背後の三重堀切

2022年05月15日 RED副将軍
屋代城



よく整備され、堀切、石積み遺構も残るオススメの山城です

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。村上氏一族の屋代氏によって築かれた詰城と云われます。
屋代氏は、屋代家盛が祖とされ、村上氏の重臣であり、村上義清に属していました。

1553年に、武田信玄が侵攻してくると当主の屋代正国は直ぐに降伏します。村上義清は居城の葛尾城を失い、越後の長尾氏を頼って落ちてしまいます。屋代氏は荒砥城に居城を移されますが、12年に渡る川中島の戦いが始まり、武田氏の拠点として屋代城はしばらくは使用されたのでしょうか。やはり現在の遺構は武田色を少し感じました。

1582年、織田信長により武田氏が滅亡。織田家臣の森長可の支配下となりますが、信長が本能寺の変で没すると森氏は撤退。代わって越後の上杉氏の勢力が伸びてきたため上杉氏に属します。

1584年、当主の屋代秀正は上杉氏を離反。荒砥城に籠もりますが、上杉氏の攻撃により秀正は家康を頼って落ちのびます。関ヶ原合戦では東軍に属した上杉氏に対して、その後は徳川家に仕え続けた屋代氏は幕末まで旗本として存続し続けました。

千曲川沿いの要衝に位置し、有力者の所領の境目であったため、村上氏、武田氏、織田氏、上杉氏、徳川氏と情勢に応じて主君を代えて行きました。屋代氏は絶妙なパワーバランスを見極めて幕末を迎えたと思います。

見所
現在は一重山公園として整備。
採土により主郭南側、北側も城域中央部は消失していますが、駅近の市街地に素晴らしい遺構が残ります。
一番の見所は、二郭下には堀切がありますが、堀切の遮蔽効果を高めるために、前面に土塁が盛られています。
主郭側面には石積みも巡らされています。
多数の堀切、竪堀、土橋が配されており、主郭まで楽しみながら登ることができます。
また側面斜面にも無数の腰曲輪が敷設されていることも特筆です。

写真を撮っていると、整備をされている一重山みらい会議の方にいろいろと教えていただきました。
山城の整備ボランティアを頂いている方々にはホントに感謝感謝です🙇‍♂️

行き方は、しなの鉄道 屋代駅から直ぐ近くで大日堂の裏から登ることができます。
車ならば、城域北端部に不動尊があり、その下に駐車スペースもあるので、そこから南へ尾根筋を登るのがオススメです。

2021年08月10日 ファン掃部助トム治郎
屋代城



有明霊園側の登山口から頂上まで10分くらいです。更埴地方を見渡すことができます。

2019年12月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
鷲尾城[屋代城  周辺城郭]



鷲尾城は屋代城の東方約2.7km、南西へ延びる山塊尾根上、標高約516mのピークの一つに主郭が存します。南西麓からの比高は150m位でしょか。

築城年代は不明ですが、築城者は村上氏庶流の倉科氏とされています。登城前にこの付近一帯の標柱を作成しているという方に偶然お会いしまして色々なお話を聞けたのですが、倉科氏は武田氏の北信濃侵攻の際に安曇郡に脱出した一族があるそうです。その後この地に帰還を果たし、それを記念した善光寺住職書による生還碑がこの地にあるみたいでして、今でも倉科姓を名乗る家が三軒程あるんだとか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている真田信之次女泰子姫建立と伝わる大日堂を目標に設定して下さい。お堂の裏手が登城路となっています。少しだけ登るとこれまた泰子姫開基の大善寺跡がありますが、遙か昔に土砂で流出、今は石積みが少しだけ残る二段程の削平地となっていますのでコアな六文銭ファンは是非。

お城へは急坂を一気に登る感じ。15分弱で主郭部に到達します。主郭部は通称武者返しと呼ばれる石積みにまず圧倒されます!たぶん主郭全周と腰郭の一部に施されていたと思われ、その量たるや相当なものです。虎口、土塁付きの主郭の北東側山側背後は大堀切となっていますが、堀切底部に土塁を設けて二重堀切を形成しています。更に進むと三連続堀切があり、此処から少しだけ登って行くとこのお城最大の名物が現れます!それは郭の全てが倉科将軍塚古墳という罰当たりな部分でして、古墳と言っても石室があるとかそういうレベルじゃなくて、あの前方後円墳があるんです!全長100m強の古墳はエッジを失くしているとはいえ、皆が想像するあの前方後円?みたいな感じが今も残っています!更に前方?の部分で大堀切の切岸を形成していたりしてこんなん他では見れませんわ。お城付近には綺麗に復元された有名な森将軍塚古墳がありますが、こちらの方は県内最高位にある古墳みたいですので、古墳ファンをも虜に出来るでしょう。

川中島周辺のお城としては、住宅地の裏山的な感じで気軽に行けるのも魅力です。屋代城に来る事がありましたら是非訪ねてみて下さいまし。

2019年11月11日 上田原合戦無名戦死左衛門尉
屋代城



本郭の堀切を探索していたらカモシカの親子に遭遇。市街地にかなり近い山城なのにビックリ!!
写真、見にくくてすいません(笑)

2019年05月08日 くらやみ遠江守☘️
屋代城



主郭西側の石積み。山頂部の急斜面なので、土留めの役割が大きいと思われる。

2012年03月03日 赤いRVR甲斐守@松本
屋代城

屋代駅横の山が城跡。冬場なら電車の窓から堀切が見える。駐車場はほとんどないので、県立歴史館に止めて、そこと森将軍塚古墳、記念館と全部見たらどうでしょうか。登城口は長野電鉄踏切脇から、コンクリ道を歩けば、それほど高い山ではないので、数分で主郭です。その先は、過去の土取りで失われています。

屋代城の周辺スポット情報

 屋代城登城口(碑・説明板)

 鷲尾城(周辺城郭)

 屋代古城(城ノ内)(周辺城郭)

 生仁館(周辺城郭)

 明聖霊神砦(周辺城郭)

 唐崎山城(朝日山城・藤崎城)(周辺城郭)

 屋代氏居館(周辺城郭)

 入山氏森館(周辺城郭)

 薬師山物見(周辺城郭)

 県山城(周辺城郭)

 小船山館(周辺城郭)

 駐車スペース(駐車場)

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