薬師山物見
薬師山物見([屋代城 周辺城郭])
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薬師山物見の口コミ情報
2024年08月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
薬師山物見は屋代城の南東約2.4km、標高約404mの薬師山山頂部を中心に立地したと推測される物見台です。東麓の舗装道路からの比高は20m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「あんずの里 薬師山展望公園」を目標に設定して下さい。この公園が概ねの該地となる。車は南麓に隣接する浄土宗の寺院、興正寺に捨てるとよい。
薬師山は、西方山塊から同じ屋代城のリア攻めマップにある入山氏森館の北側に張り出す山稜であり、物見台は、位置関係から信濃のお城の神が居館地に付随し存在したと提起する色物物件に過ぎない。
「信濃の山城と館2、更埴・長野編」の入山氏森館の項に記述がある。入山氏森館自体が問題のある物件だが、居館地の正確な位置が判っていない以上、薬師山物見についても現況以外は何も語れない。
築城年代は不明、築城者は入山氏になるんだろう。同氏については入山氏森館の口コミを参照して下さい。出自は清和源氏頼清流、村上氏の一族、寄合氏の分流である。
凄まじくあっさりと片付ける。物見台の現況は段の付いた展望台である。当然、削平もされているが、これが往時のものなのかどうかも判らない。眺めが良い事ぐらいが関の山だ。又、神によって物見台とされているが、眺望は村上氏の支配領域のみに限定されている。
該地の埴科郡森村と村上氏の本拠、埴科郡坂城郷とは、北西へ向かって長く伸びる五里ヶ峯系山塊で隔てられているが、森村の南端にはこの山塊の山尾根を越える越道が付いていた。道筋の最高点は宮坂峠と呼ばれ、同じ屋代城のリア攻めマップにある宮坂峠小屋が番所の役割りを果たしていたとも推測されている。「上山田町史」にある、「宗家村上氏の重臣の列に入って葛尾城の北辺を守る。」との記述もあながち間違いでは無いのだろう。事実、入山氏が森村を知行地とした事はその役割を必然的に担っていた事に他ならないからだ。
…よく、戦国大名化を果たす一歩手前だったて言われる村上氏だが、間違った認識だと思っている。何を以て戦国大名と呼ぶのかにも左右されるが、少なくとも鎌倉時代から続く旧態依然の領国経営のまま戦国時代を迎えてしまった節がある。村上氏は今に残る文書が極端に少なく決定的な判断材料には乏しいのだが、惣領制からの脱却が図れなかった古い体質の国人領主だったと考えている。その勢力基盤は意外な程に脆弱だった訳だ。
武田晴信を二度までも破った村上義清だが、戸石城失陥後のあっけない凋落は注目に値する。調略によるものだろうが一族等の離反を相次いで招いている。宗家に従う事で一定の独立権限を有していた一族等は、武田氏による所領安堵を担保に村上氏を簡単に見限っている。元来、外城として機能していたこれ等諸氏の離反は、逆に村上氏を坂城郷に封じ込める結果となり、後詰も期待出来ず既に継戦能力を失った義清に残された道は退去して後日を期すしかなかった。
入山氏がこの際にどのような働きをしたのかは不明だが(一説によれば、それ以前に埴科郡清野郷に拠った村上氏の一族、清野氏の差配を受けていたとも。)、やはり外城としての役割を果たせなかったのはその結果を見れば明らかであろう。
※山塊の山尾根を越える越道〜道筋に変化はあるが、今も誰も知らない舗装林道として往来が可能であり、宮坂峠には標柱も立っている。ちなみに2年程前においらは峠で若い雄猫を保護した。今も峠道沿いの戸倉キティパークで殆どを野良猫として生活している。野生の子猫の生存率は概ねで10%位らしいけど、果たしておいらのした事が正しい事なのかは未だに判らない。名前は「峠」て付けてあるんで、キティパークに来る事があったら是非呼んでみて下さいまし。あ、猫の写真はインスタにアップしてるんで参考までに…
※写真①、背景手前の山稜は大峯山、同じ屋代城のリア攻めマップにある県山城が立地する。
※写真④は薬師山物見からの展望、一帯は「あんずの里」と呼ばれている。