屋代古城(城ノ内)
屋代古城(城ノ内)([屋代城 周辺城郭])
屋代城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「屋代古城(城ノ内)」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
屋代古城(城ノ内)の口コミ情報
2025年08月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、アプリの登録城としてかずぽん推しの屋代氏の要害、屋代城なんだけど、同氏が埴科郡船山郷に本拠を移す以前の居城と伝わるのが今回紹介する屋代古城だ。実は過去に口コミしている物件なんだけど、最近になって発掘調査結果報告書を探し出す事が出来たので改めて訪問、これを元にして新鮮な気持ちでリア攻めしてみた。口コミもこれに併せて当然、REDUX!!
屋代古城(城ノ内)は屋代城の北北東約2.1km、千曲川南岸(右岸)、標高約357mの平野部平場に立地した居館城です。該地は上信越自動車道と長野自動車道が接続する更埴JCTの南西側、屋代工業団地の一部分である。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「サクラ精機(株)長野屋代工場」を目標に設定して下さい。屋代古城は縄張はおろか城域すら確定しておらず、形状、形態も不明である。目標とする工場は発掘調査によって検出された内堀の内側に位置しており、城域の中心地の一部分(南東隅が推定出来ると思う。)であったと考えられる。
築城年代は不明、築城者は屋代氏です。同氏については同じ屋代城のリア攻めマップにある屋代氏居館や荒砥城のリア攻めマップにある屋代氏館を参照して下さい。ちなみに千曲市の有形文化財に指定されている、個人寄贈の「屋代家文書」全89点は非公開、見てみたいものれすな。
まず、最初に断っておくけど、ノーマルな方にとってはリア攻め自体が意味の無い行動だ。理由は簡単、前述したとおり、該地は屋代工業団地の一部分であり、改変どころか全てが平らげられてしまっている。付近一帯の道形は殆どが堀跡を踏襲していないし、各工場の敷地も推定郭を跨いでおり参考になる事は全く無い。それでもおいらが再訪を決意したのは、発掘調査結果報告書の存在によって以前の適当な探索に納得がいかなくなってしまったから…そう、前回のリア攻め認定?を取り消し、個人的充足感を得るためだけだ。
報告書に添付された図面から堀跡を現地に落とし込んで探索する訳だが、各工場の敷地への立ち入りには無理があるので大変な苦労をさせられた。信じられないかもしれないが、前回のリア攻めは10分程度、今回は2時間強を要している。正に異常者だけが為せる正常ではない所業だ。
発掘調査は部分的なものに留まっているが、検出された外堀の一部から推定すれば城域は相当な広範囲が推測される。規模からすると千曲川対岸のアプリの登録城、横田城にも似た環濠集落の中の居館城が想像出来るだろう。一国人領主のものとしては破格であり、抱いていたイメージを遥かに凌駕してしまった。
探索自体は非常に難しいのだが、前述したサクラ精機の工場敷地は内堀の南東隅に面しており、改変でなければ僅かながらの堀形の様な窪みが確認出来る。又、外堀の外側には中世のものと推測される別の居館跡2箇所が検出された堀跡を以て確認されており、その内の1箇所にあっては雑木林としてその形状を保っている。
以前、Jr.の候補生だった10歳の時に、懇親会の席で地形段差マニアの城友さんを変態だと揶揄した事があったんすけど、もう、あれから早5年…かずぽん、この領域に達するまでのスピードが速過ぎましたわ…今では街中の何気ない起伏にも自然と意味を求めてしまう始末…おいらは何処へと向かっているんだろう。
※城域の北辺は往時の千曲川に面していたと考えている。ちなみに該地の埴科郡屋代郷は平安時代中期に編纂された「和名類聚抄」が文書上の初見だ。但し、郷域には諸説がある。
※城域は特に西辺で不明である。個人的推測に過ぎないが、東西約400m、南北約300mが概ねの範囲だと考える。
※当日の気温は37℃だった…熱中症は心配するよりも予防策を講じる事が大切だと思う。そう、気合と根性、精神力で何とかするぜ。太陽とタイマン勝負だ。
※発掘調査結果報告書〜該地の地籍を冠した「城之内遺跡」として報告されている。時代を限定しない発掘調査であり、屋代古城に関しての記述もあくまでその部分である。探しても見付からなかった訳だ…
※写真⑧は文中にある別の居館跡2箇所の内の一つである。写真手前の畑地は堀跡だ。