松田家館(まつだけやかた)
松田家館の基本情報
通称・別名
- 武水別神社神主松田家館
所在地
- 長野県千曲市八幡3033他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 松田氏
築城年
- 16世紀前期
主な改修者
- -
主な城主
- 松田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(武水別神社神主松田家館跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
屋代城(長野県千曲市)[3.0km]
荒砥城(長野県千曲市)[5.3km]
横田城(長野県長野市)[7.3km]
麻績城(長野県東筑摩郡)[7.7km]
葛尾城(長野県埴科郡)[8.1km]
松代城(長野県長野市)[9.9km]
牧之島城(長野県長野市)[10.4km]
青柳城(長野県東筑摩郡)[11.6km]
吉窪城(長野県長野市)[12.0km]
尼厳城(長野県長野市)[12.4km]
松田家館の解説文
[引用元:Wikipedia「松田家館」の項目]
武水別神社(たけみずわけじんじゃ)は、長野県千曲市八幡にある神社。式内社(名神大社)で、信濃国四宮[1]。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「八幡宮」。現在も「八幡(やわたまたははちまん)さま」「八幡神社(やわたじんじゃ)」の通称がある。
祭神
主祭神
- 武水別大神(たけみずわけのおおかみ/たけみなわけのおおかみ)[2]
- : 社伝では、善光寺平の豊穣と千曲川の氾濫防止を祈って祀られたとする。
相殿神
- 相殿神は次の3柱で、総じて八幡神にあたる。
- 誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)
- 息長足比売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)
- 比咩大神(ひめおおかみ)
歴史
概史
創建年代については社伝によると、第8代孝元天皇の時代に鎮祭されたという[3]。
国史での初見は貞観8年(866年)で、無位から一躍して従二位の神階奉授を受けている。また延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では信濃国更級郡に「武水別神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。ただしこれらが当社に比定されるに至る根拠は確かではなく[4]、他の論社として桶知大神社(長野県長野市大岡丙)が挙げられている。
武水別神社一帯は平安時代末期より石清水八幡宮の荘園(小谷荘)となっており、安和年間(968年-970年)に石清水八幡宮から八幡神(相殿の3柱)が勧請されたと伝える。八幡神は源氏の氏神としても知られ、武水別神社はこの地方随一の八幡宮として広く武門の崇敬を受けた。また木曾義仲が祈願したと伝えられる[5]。
保元3年(1158年)「更級郡小谷荘等の石清水八幡宮寺及び極楽寺領、多く領家、預所、下司、公文等に掠略せらる。是日官宣旨を下して悉く、之を停止せしむ。」(石清水文書)
天福元年(1233年)「石清水八幡宮寺所司等更級郡小谷荘地頭等の、同寺安居頭役等を解怠すること等を朝廷に注進。」(同上)
応長元年(1311年)「石清水八幡宮寺検校善法寺尚清、権別当康清に検校職並びに更級郡小谷荘等の所領等を譲る。」(同上)
建武2年(1335年)の中先代の乱では武水別神社神官家の四宮氏が保科氏、関屋氏らと共に船山守護所を襲撃(青沼合戦)し鎮圧された。これにより隆盛時には地頭と郡司をも兼ねたと云われる四宮氏は滅び、本八幡の地にあった社殿は焼かれたため現在の地に移転再建されたと伝えられている。
文明10年(1448年)朝廷と幕府の交流する連歌会で判者を務めることもある飯尾宗祇が姨捨山の月見に訪れ、時の神官邸で行われた連歌会に参加していたとされる。また文明16年(1484年)には室町幕府高官だった蜷川貞相が訪れた記録も残されている。
12年間に5度争われた川中島の戦いの上杉謙信の勧請文(永禄7年)などが残されている。そして武田信玄はこの地に本陣を構えたとも伝えられている。
天正3年(1575年)「上杉謙信、更級八幡宮に願文を捧げ北条氏政の討伐を祈る。」(上杉謙信願文集)
天正6年(1578年)「石清水八幡宮、蔵坊をして、同宮領更級郡小谷荘神領を注進せしむ。石清水八幡宮、同宮領小谷荘神領を注す。」(石清水文書)
天正12年(1583年)「上杉景勝、松田盛直に、更級八幡宮社領等を宛行、同郡稲荷山に在城せしむ。また、その子、孫三郎をして仁科惣領職を嗣がしむ。」(別本歴代古案)
慶長3年(1598年)「更級八幡宮̪祇官松田盛直、上杉景勝に従い、陸奥会津に移らんとし、同宮神主職を同縫殿助に預く。」(松田家文書)
慶安元年(1648年)には、江戸幕府から朱印地200石を与えられた。
明治元年(1868年)神仏分離令。
明治に入り、それまで別当寺の支配下で称していた「八幡宮」から「武水別神社」の社名に復した。また、近代社格制度では当初郷社に列したが、明治41年(1908年)に県社に昇格した。
なお、1939年に軍用馬育成のため施行された種馬統制法により日本在来種の木曽馬の種馬が廃用処分になった際、同神社の神馬として使役されていた「神明号」は処分を免れた[6]。同馬は1950年に民間へ払い下げられ、木曽馬登録事業の1号馬として種雄馬になり、同種の血統復元に貢献した。
神階
- 貞観8年(866年)6月、無位から従二位 (『日本三代実録』) - 表記は「武水別神」。
- 貞観9年(867年)3月26日、官社に列す (『日本三代実録』) - 表記は「武水別神」。
境内
18,896平方メートルの社地には、社叢としてケヤキ・スギを主として20数種が生育し、その数は400本を超える。老木も多く、「武水別神社社叢」として長野県指定天然記念物に指定されている。
南北約280m東西約70mの敷地は室町時代初期と考えられる当地への移転再建当初は正方形であったが東側を千曲川による、しばしばの洪水に削られて現在見る長方形になったと伝えられている。寛永頃の作成と見られる松田家文書の中に正方形に描かれた敷地の図面が最近発見確認された。
現在の社殿の多くは天保13年(1842年)の火災ののちに建てられたものである。本殿は、諏訪出身の立川和四郎(2代目)によって嘉永3年(1850年)に完成した。拝殿は立川和四郎の後見の下、峰村弥五郎により安政3年(1856年)に完成。なお、天保13年の火災を免れた社殿として摂社高良社の本殿がある。
別当寺の更級八幡神宮寺は顕光寺・善光寺・津金寺・光前寺と共に天台宗信濃五山の1つとされていたが、明治の廃仏毀釈の際に廃寺となった(月見の寺で名高い姨捨の長楽寺は江戸時代末の善光寺道名所図会にはこの神宮寺の支院と説明されていた)。それまではこの神宮寺僧侶と神社神主によって全ての祭祀を共に行い、境内南半分に仏供所、高良社の向かい側に如法堂、現在の手洗場付近に鐘楼、東側の現在の総代開館には三重の塔があったと伝える。神宮寺廃止後の仏像仏具は秘密裏に上山田の東国寺に移されて現存。釈迦堂は解体して筏に組み、千曲川を下り笹崎で陸揚げして土口の正応寺本堂として再建。文書類については大雲寺に移されたが、その後散逸したという。
摂末社
摂社
- 高良社(こうらしゃ)
- : 覆屋内にある本殿は、境内で最も古く室町時代後期16世紀頃の造営とされる。一間社流造の系統に属するが、見世棚造に類似した形式となっている。室町時代の特色を示すものとして、長野県宝に指定されている[7]。
末社
- 神武天皇社
- 疱瘡社
- 酒造租社
- 八剱社
- 宿祢社
- 駒形社
- 荒神社
- 十二神社
- 天神社
- 子安社
- 石祠10社:御嶽社、金刀比羅社、東照宮、妙義社、塞ノ神、道祖神、水神祠、山ノ神、秋葉社、鹿島社
祭事
年間祭事
武水別神社で行われる祭事は次の通り。特に、祈年祭(3月15日)、例大祭(9月15日)、大頭祭(新嘗祭、12月10日-14日)の3祭は「三大祭」と称される。
年間祭事一覧太字は三大祭[8]。
- 毎月
- 月次祭 (1日、5日、28日)
- 卯の日祭 (卯の日)
- 1月
- 歳旦祭 (1月1日)
- 御田植祭 (1月5日)
- 越年祭 (1月15日)
- 2月
- 節分祭 (2月節分の日)
- 紀元節祭(建国記念祭) (2月11日)
- 3月
- 祈年祭 (3月15日)
- 初卯講祭 (旧暦2月初卯の日)
- 4月
- 日岐目講社祭 (4月中旬)
- 春季祭 (4月28日)
- 6月
- 大祓式 (6月30日)
- 7月
- 柏葉祭 (7月15日)
- 9月
- 八重注連祭 (9月1日)
- 仲秋祭 (9月14日)
- 例大祭 (9月15日)
- 秋季祭 (9月24日)
- 11月
- 明治節祭 (11月3日)
- 12月
- 釜清め神事 (12月3日)
- 大頭祭(新嘗祭) (12月10日-14日)
- 天皇誕生祭 (12月23日)
- 大祓式、除夜祭 (12月31日)
大頭祭
12月10日から14日に行う新嘗祭は、「大頭祭(だいとうさい)」と通称される。祭は5人の頭人(とうにん)を中心に進行し、その三番頭を「大頭」と呼ぶことが祭の名前の由来である。歴代の頭人の氏名を記した「御頭帳」では、最古は文禄元年(1592年)にまで遡っており、400年以上続く祭とされ、国の選択無形民俗文化財に選択されている。
文化財
選択無形民俗文化財(国選択)
- 武水別神社の頭人行事 - 昭和61年12月17日選択。
長野県指定文化財
なお神官松田家の建物のうち、松田家住宅主屋が平成16年(2004年)11月22日に、松田家斎館が平成26年(2014年)2月20日にそれぞれ長野県宝(建造物)に指定されていたが、いずれも平成29年(2017年)9月6日に焼失し、平成30年(2018年)2月13日に指定解除されている[9]。
- 長野県宝(有形文化財)
- 摂社高良社本殿(建造物) - 室町時代。昭和50年7月21日指定。
- 銅製釣燈籠(工芸品) - 室町時代。昭和45年4月13日指定。
- 天然記念物
- 武水別神社社叢 - 昭和40年2月25日指定。
- 史跡
- 武水別神社松田家館跡 - 中世。現在の所有者は個人。平成18年4月20日指定。
千曲市指定文化財
- 有形文化財[10]
- 武水別神社神官松田邸 13棟(建造物) - 江戸時代から明治時代。現在の所有者は千曲市ほか。平成15年2月28日指定。
- 伎楽面 2面(彫刻) - 金剛面1面、力士面1面の2面。平安時代から鎌倉時代頃。昭和53年3月24日指定。
- 獅子面 1面(彫刻) - 鎌倉時代。昭和53年3月24日指定。
- 金銅製六角釣燈篭(工芸品) - 江戸時代。昭和48年3月15日指定。
現地情報
所在地
- 長野県千曲市八幡3012
周辺
- 稲荷山宿 - 善光寺街道(北国西街道、善光寺西街道)の宿場。
- 姨捨山
参考文献
- 神社由緒書
- 【書籍】「日本歴史地名大系 20 長野県の地名」
- 林幸好「武水別神社」(谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 9 美濃・飛騨・信濃』(白水社))
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松田家館の口コミ情報
2021年03月10日 赤かぶ【】
赤沢城[松田家館 周辺城郭]
塩崎城とともに武田軍の川中島進出拠点とされたお城!
別名 塩崎新城とも呼ばれております、現地の案内版は赤沢城になっています。
登城ルートはいくつかあるようですが、今回は飯綱稲荷神社からの登城しました!
登城口は飯綱稲荷神社の脇にある道を上がって行くとJR篠ノ井線の線路が見えてきます、城跡の下を通るレンガ造りの古いトンネルで風情がありました。
トンネル横の坂を登って行きます。途中赤沢城まで7分という標識と石切場上の崖が見えてきます。展望は良いですが崖なので踏み込み過ぎないよう注意して下さいませ!
そこからまた上がって行くとまた標識がありそれに従い右へ、堀切が見えてきます♪
その堀切の中を尾根筋まで登って下さい!
左右に郭が見えますが、笹薮が酷い状態です⤵︎
そこから北側へ行くと主郭が見えてきます。手前には土塁・堀切・竪堀が確認出来ますよ♬︎
主郭はそんなに広くはないんですが笹薮で更に狭く感じます⤵︎
主郭から更に北には鉄塔を経て郭があります。
こちらはかなり広大で僅かな土塁・堀切が見て取れます。最北端からは長野自動車道も見る事が出来ます。
さて赤沢城の南側には越将軍塚古墳があります!
先程の赤沢城右の標識を左に進めとたどり着く事が出来ます!
古墳好きの方はお城とセットでどうぞ☀︎
① 登城口
② 城郭南側の堀切
③ 主郭の南側
④ 主郭手前の土塁
⑤ 城郭北側の土塁
⑥ 城郭最北端の郭
2021年03月06日 赤かぶ【】
塩崎城[松田家館 周辺城郭]
長野市篠ノ井にある長谷寺の背後にある山城で川中島の合戦で武田方の最前線の拠点として重要視されたお城とされています!
車は長谷寺の駐車場をお借りしました<(_ _٥)>
登城口は観音堂の脇の階段から山道へ入って行きます。
ジグザグの山道には三十三観音石仏と呼ばれる石仏が立ち並んでおりますので、眺めながら行くと上り坂の苦労も多少は紛れるかもしれません?!
石仏群を過ぎると鉄塔・岩場のある急斜面(足元注意です)を上がって行くと、いよいよ明瞭な遺構が見えてきます。
東側には小規模な段郭がいくつも築かれてました。更に西側へと進みます。
二の郭には石垣♬︎北側と南側には登り石垣?!と見られる石垣などが目を楽しませてくれます♪
二の郭から更に西へ進むと主郭です!
主郭西側には高い土塁が築かれており、その背後には郭を経て3条の堀切があります!外側2条は二重堀切になっており、主郭からの高低差もかなりあって見応えありですよ♪
麓にある長谷寺は奈良・鎌倉と並ぶ「日本三所長谷観音」とされております。
お城と併せて散策されて見てはいかがでしょうか☀︎
① 登城口
② 段郭
③ 二の郭 北側の登り石垣
④ 二の郭 南側の登り石垣
⑤ 二の郭石垣
⑥ 主郭西側の土塁
⑦ 城域西端の二重堀切
2020年12月18日 右衛門督夜蘭
松田家館
駐車場は武水別神社を利用できました。
館自体は道路を挟んであったのですが、火災により消失したことにより中はみれませんでした。
武水別神社は信州三大神社の1つでかなり立派、川中島の戦いの初戦の地とのことでした。
2020年08月18日 Marky武蔵守
稲荷山城[松田家館 周辺城郭]
上杉景勝が築城した平城。
2020年05月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
小坂城[松田家館 周辺城郭]
小坂城は松田家館の北西約2.2km、小坂山山頂から南方へ延びる尾根上、標高約574mのピークの一つにに主郭が存します。南東麓の龍洞院からの比高は160m位でしょか。お城のある尾根は長野自動車道のトンネルが貫通しています。
築城年代は不明ですが、築城者は在地土豪の桑原氏と伝わります。
松田家館付近にある武水別神社の神官家は四宮氏でしたが、建武二年(西暦1335年)に信濃守護小笠原貞宗によって滅ぼされ、その一族の赤沢氏がこの地に入ります。赤沢氏は塩崎城を本拠としますが、桑原氏に小坂城を築かせて一円支配を強化しました。小坂城は武田氏時代にも利用があったとされ、保科弾正義昌が城代であったと伝わります。
お城は凄いっす。主郭部には石積みなんかも見られるお洒落さんですが、主郭北側山側背後の大堀切、小さな二重堀切を経て更に北方へと延びて行く尾根を進めば唖然とするのは確実ですよ!二重堀切1条を含む6条の堀切で尾根をぶった斬ってますが、そのどれもがマッシブです!途中には岩場の虎口みたいな場所もあったりなんかして萌えたりすることも出来ますね。又、私見ですが小坂山山頂にも何かがあったように思えます。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南東麓の龍洞院を目標に設定して下さい。墓地の南西側最高所から竹藪に覆われた登城路が付いてます。北東側にもそれらしき階段が付いてますが、行っても戻ることになるので注意です。とか言いながら自分はお城の西側を流れる蟹沢(自然の障壁でもある。)を渡って登城しました。道は一応付いていて案内板もありますが、不安しか感じないのでやめときましょう。
2017年09月25日 赤いRVR甲斐守@松本
松田家館
平成29年9月6日の火災で、主屋などが焼失してしまいました。
2014年07月21日 中務卿一之介
松田家館
JR姨捨駅からも少ない本数ながらバスがあります。しかし、日曜祝日と年末年始は運休なので、ご注意ください。
2012年07月06日 はせちゃん弾正忠
松田家館
発掘調査現地説明会が、7/8 10:00〜 13:30〜実施されますよ
近くの方は是非どうぞ
2012年06月03日 まるさん伊豆守小町時間割
松田家館
公共交通機関を利用して行くには…
しなの鉄道屋代駅前から市内循環バスの
大循環線(ちくま号)時計回りと反時計周りがあります。
姨捨線(めいげつ号)
に乗車して八幡又は鳥居前で降りたらすぐ近くになります。
なお、大循環線は反時計周りに乗った方が屋代駅前からは早く着けます。
また、大循環線は千曲駅、戸倉駅も通りますからそちらからでも
それに上山田温泉も通りますので…
余談ではありますが、城山入口で降車すると荒砥城跡へも行けます。
料金は1回乗車で200円で1日乗車券500円もあるようです。
2012年02月23日 赤いRVR甲斐守@松本
松田家館
武水別神社と県道を挟んだ西側にあるが、少し分かりづらい。県道から狭い道を少し西に入ったところ。駐車場は神社のを利用するしかないか。