松田家館(まつだけやかた)
松田家館の基本情報
通称・別名
- 武水別神社神主松田家館
所在地
- 長野県千曲市八幡3033他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 松田氏
築城年
- 16世紀前期
主な改修者
- -
主な城主
- 松田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(武水別神社神主松田家館跡)
再建造物
- 石碑、説明板、主屋(松田邸)
周辺の城
-
屋代城(長野県千曲市)[3.0km]
荒砥城(長野県千曲市)[5.4km]
横田城(長野県長野市)[7.4km]
麻績城(長野県東筑摩郡)[7.7km]
葛尾城(長野県埴科郡)[8.1km]
松代城(長野県長野市)[9.9km]
牧之島城(長野県長野市)[10.4km]
青柳城(長野県東筑摩郡)[11.5km]
吉窪城(長野県長野市)[12.0km]
尼厳城(長野県長野市)[12.4km]
松田家館の解説文
[引用元:Wikipedia「松田家館」の項目]
武水別神社(たけみずわけじんじゃ)は、長野県千曲市八幡にある神社。式内社(名神大社)で、信濃国四宮[1]。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「八幡宮」。現在も「八幡(やわたまたははちまん)さま」「八幡神社(やわたじんじゃ)」の通称がある。
祭神
主祭神
- 武水別大神(たけみずわけのおおかみ/たけみなわけのおおかみ)[2]
- : 社伝では、善光寺平の豊穣と千曲川の氾濫防止を祈って祀られたとする。
相殿神
- 相殿神は次の3柱で、総じて八幡神にあたる。
- 誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)
- 息長足比売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)
- 比咩大神(ひめおおかみ)
歴史
概史
創建年代については社伝によると、第8代孝元天皇の時代に鎮祭されたという[3]。
国史での初見は貞観8年(866年)で、無位から一躍して従二位の神階奉授を受けている。また延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では信濃国更級郡に「武水別神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。ただしこれらが当社に比定されるに至る根拠は確かではなく[4]、他の論社として桶知大神社(長野県長野市大岡丙)が挙げられている。
武水別神社一帯は平安時代末期より石清水八幡宮の荘園(小谷荘)となっており、安和年間(968年-970年)に石清水八幡宮から八幡神(相殿の3柱)が勧請されたと伝える。八幡神は源氏の氏神としても知られ、武水別神社はこの地方随一の八幡宮寺として広く武門の崇敬を受けた。また木曾義仲が祈願したと伝えられる[5]。
保元3年(1158年)「更級郡小谷荘等の石清水八幡宮寺及び極楽寺領、多く領家、預所、下司、公文等に掠略せらる。是日官宣旨を下して悉く、之を停止せしむ。」(石清水文書)
天福元年(1233年)「石清水八幡宮寺所司等更級郡小谷荘地頭等の、同寺安居頭役等を解怠すること等を朝廷に注進。」(同上)
応長元年(1311年)「石清水八幡宮寺検校善法寺尚清、権別当康清に検校職並びに更級郡小谷荘等の所領等を譲る。」(同上)
建武2年(1335年)の中先代の乱では武水別神社神官家の四宮氏が保科氏、関屋氏、夏目氏らと共に船山守護所を襲撃(青沼合戦)して鎮圧された。これにより隆盛時には地頭と郡司をも兼ねたと云われる四宮氏は滅び、本八幡の地にあった社殿は焼かれたため現在の地に移転再建されたと伝えられている。
文明10年(1448年)朝廷と幕府の交流する連歌会で判者を務めることもある飯尾宗祇が姨捨山の月見に訪れ、時の神官邸で行われた連歌会に参加していたとされる。また文明16年(1484年)には室町幕府高官だった蜷川貞相が訪れた記録(法楽和歌)も残されている。
12年間に5度争われた川中島の戦いの上杉謙信の勧請文(永禄7年1567年)などが残されている。そして武田信玄はこの地に本陣を構えたとも伝えられている。
天正3年(1575年)「上杉謙信、更級八幡宮に願文を捧げ北条氏政の討伐を祈る。」(上杉謙信願文集)
天正6年(1578年)「石清水八幡宮、蔵坊をして、同宮領更級郡小谷荘神領を注進せしむ。石清水八幡宮、同宮領小谷荘神領を注す。」(石清水文書)
天正12年(1583年)「上杉景勝、松田盛直に、更級八幡宮社領等を宛行、同郡稲荷山城に在城せしむ。また、その子、孫三郎をして仁科惣領職を嗣がしむ。」(別本歴代古案)
慶長3年(1598年)「更級八幡宮̪祇官松田盛直、上杉景勝に従い、陸奥会津に移らんとし、同宮神主職を同縫殿助に預く。」(松田家文書)
慶安元年(1648年)には、江戸幕府から朱印地200石を与えられた。
天保8年(1837年)神主家側から京都吉田家に働きかけが行われて延喜式内社「武水別神社」の社号を獲得。
明治元年(1868年)神仏分離令。松代藩への届出や神宮寺側(清水家)に掛け合うなど神主家側が主動して神宮寺は廃絶。それまで別当寺の支配下で称していた「八幡宮」から「武水別神社」の社名に復した。また、近代社格制度では当初郷社に列したが、明治41年(1908年)に県社に昇格した。
明治12年(1876年)従来は法華八講を行う仏教行事であった大頭祭が神道儀礼となり、頭人の首にかけられていた数珠は勾玉の頸飾になるなど装束も変更された。
なお、1939年に軍用馬育成のため施行された種馬統制法により日本在来種の木曽馬の種馬が廃用処分になった際、同神社の神馬として使役されていた「神明号」は処分を免れた[6]。同馬は1950年に民間へ払い下げられ、木曽馬登録事業の1号馬として種雄馬になり、同種の血統復元に貢献した。
神階
- 貞観8年(866年)6月、無位から従二位 (『日本三代実録』) - 表記は「武水別神」。
- 貞観9年(867年)3月26日、官社に列す (『日本三代実録』) - 表記は「武水別神」。
境内
18,896平方メートルの社地には、社叢としてケヤキ・スギを主として20数種が生育し、その数は400本を超える。老木も多く、「武水別神社社叢」として長野県指定天然記念物に指定されている。
南北約280m東西約70mの敷地は室町時代初期と考えられる当地への移転再建当初は正方形であったが東側を千曲川による、しばしばの洪水に削られて現在見る長方形になったと伝えられている。寛永頃の作成と見られる松田家文書の中に正方形に描かれた敷地の図面が最近発見確認された。
現在の社殿の多くは天保13年(1842年)の火災ののちに建てられたものである。本殿は、諏訪出身の立川和四郎(2代目)によって嘉永3年(1850年)に完成した。拝殿は立川和四郎の後見の下、峰村弥五郎により安政3年(1856年)に完成。なお、天保13年の火災を免れた社殿として摂社高良社の本殿がある。
別当寺の更級八幡神宮寺は顕光寺・善光寺・津金寺・光前寺と共に天台宗信濃五山の1つとされていたが、明治の廃仏毀釈の際に廃寺となった(月見の寺で名高い姨捨の長楽寺は江戸時代末の善光寺道名所図会にはこの神宮寺の支院と説明されていた。このことから長楽寺は更級八幡宮寺の支配下にあるため「田毎月」を映す四十八枚田の運用にも極めて強い関与があったものと考えられる)。それまではこの神宮寺僧侶と神社神主によって全ての祭祀を共に行い、境内南半分に仏供所、高良社の向かい側に如法堂、現在の手洗場付近に鐘楼、東側の現在の総代開館には三重の塔があったと伝える。神宮寺廃止後の仏像仏具は秘密裏に上山田町の東国寺に移されて現存。釈迦堂は解体して筏に組み、千曲川を下り笹崎で陸揚げして土口の正応寺本堂として再建。文書類については近くの大雲寺に移されたが、その後散逸したという。
摂末社
摂社
- 高良社(こうらしゃ)
- : 覆屋内にある本殿は、境内で最も古く室町時代後期16世紀頃の造営とされる。一間社流造の系統に属するが、見世棚造に類似した形式となっている。室町時代の特色を示すものとして、長野県宝に指定されている[7]。
末社
- 神武天皇社
- 疱瘡社
- 酒造租社
- 八剱社
- 宿祢社
- 駒形社
- 荒神社
- 十二神社
- 天神社
- 子安社
- 石祠10社:御嶽社、金刀比羅社、東照宮、妙義社、塞ノ神、道祖神、水神祠、山ノ神、秋葉社、鹿島社
祭事
年間祭事
武水別神社で行われる祭事は次の通り。特に、祈年祭(3月15日)、例大祭(9月15日)、大頭祭(新嘗祭、12月10日-14日)の3祭は「三大祭」と称される。
年間祭事一覧太字は三大祭[8]。
- 毎月
- 月次祭 (1日、5日、28日)
- 卯の日祭 (卯の日)
- 1月
- 歳旦祭 (1月1日)
- 御田植祭 (1月5日)
- 越年祭 (1月15日)
- 2月
- 節分祭 (2月節分の日)
- 紀元節祭(建国記念祭) (2月11日)
- 3月
- 祈年祭 (3月15日)
- 初卯講祭 (旧暦2月初卯の日)
- 4月
- 日岐目講社祭 (4月中旬)
- 春季祭 (4月28日)
- 6月
- 大祓式 (6月30日)
- 7月
- 柏葉祭 (7月15日)
- 9月
- 八重注連祭 (9月1日)
- 仲秋祭 (9月14日)
- 例大祭 (9月15日)
- 秋季祭 (9月24日)
- 11月
- 明治節祭 (11月3日)
- 12月
- 釜清め神事 (12月3日)
- 大頭祭(新嘗祭) (12月10日-14日)
- 天皇誕生祭 (12月23日)
- 大祓式、除夜祭 (12月31日)
大頭祭
12月10日から14日に行う新嘗祭は、「大頭祭(だいとうさい)」と通称される。祭は5人の頭人(とうにん)を中心に進行し、その三番頭を「大頭」と呼ぶことが祭の名前の由来である。歴代の頭人の氏名を記した「御頭帳」では、最古は文禄元年(1592年)にまで遡っており、400年以上続く祭とされ、国の選択無形民俗文化財に選択されている。
文化財
選択無形民俗文化財(国選択)
- 武水別神社の頭人行事 - 昭和61年12月17日選択。
長野県指定文化財
なお神官松田家の建物のうち、松田家住宅主屋が平成16年(2004年)11月22日に、松田家斎館が平成26年(2014年)2月20日にそれぞれ長野県宝(建造物)に指定されていたが、いずれも平成29年(2017年)9月6日に焼失し、平成30年(2018年)2月13日に指定解除されている[9]。
- 長野県宝(有形文化財)
- 摂社高良社本殿(建造物) - 室町時代。昭和50年7月21日指定。
- 銅製釣燈籠(工芸品) - 室町時代。昭和45年4月13日指定。
- 天然記念物
- 武水別神社社叢 - 昭和40年2月25日指定。
- 史跡
- 武水別神社松田家館跡 - 中世。現在の所有者は個人。平成18年4月20日指定。
千曲市指定文化財
- 有形文化財[10]
- 武水別神社神官松田邸 13棟(建造物) - 江戸時代から明治時代。現在の所有者は千曲市ほか。平成15年2月28日指定。
- 伎楽面 2面(彫刻) - 金剛面1面、力士面1面の2面。平安時代から鎌倉時代頃。昭和53年3月24日指定。
- 獅子面 1面(彫刻) - 鎌倉時代。昭和53年3月24日指定。
- 金銅製六角釣燈篭(工芸品) - 江戸時代。昭和48年3月15日指定。
現地情報
所在地
- 長野県千曲市八幡3012
周辺
- 稲荷山宿 - 善光寺街道(北国西街道、善光寺西街道)の宿場。
- 姨捨山
参考文献
- 神社由緒書
- 【書籍】「日本歴史地名大系 20 長野県の地名」
- 林幸好「武水別神社」(谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 9 美濃・飛騨・信濃』(白水社))
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松田家館の口コミ情報
2024年06月17日 気分爽快豊後守
小坂城[松田家館 周辺城郭]
前から気になっていた城にようやくリア攻め。
南西から蟹沢川をこえて斜面を登ると、主郭北の堀切(写真①)西側に到達します。
駐車場はなく、最寄り駅からも遠く、近所に観光名所もないので、このためだけに立ち寄ることになり、その結果あまり人が訪れないようで、北尾根の6本の堀切、南の石積みの残る段郭は見応えありました。
①主郭北の堀切
②①の北にある二重堀切。この先の北尾根にはもっと凄い堀切が連続している
③連続堀切最初の2本。堀切の間は虎口的な岩があり
④堀切の一つ
⑤堀切の一つ
⑥最北の堀切越しの北尾根城域の頂上
⑦段郭の南端は登りが困難な崖
⑧段郭の端には石積みが多数あり
2024年06月15日 気分爽快豊後守
塩崎城[松田家館 周辺城郭]
昔通った小学校の近所。甥っ子が遠足で行ったと聞いたので、遅ればせながら登城。
麓の長谷寺から登るらしいが、時間がなかったので林道使って、せこく北西からショートカット。
夏場なので緑が多く写真はイマイチなものばかり。やはり山城は晩秋、雪が積もる前に行かねば。
①北西の林道から行くと最初に遭遇する土塁と横堀
②二重堀切の東側は高い切岸で塞がれている
③主郭西の郭からみた主郭方面。突き当たりは主郭土塁
④③の郭南の竪堀。肉眼でははっきりと竪堀だが、写真ではただの草むら
⑤主郭の北と西には明確な土塁
⑥主郭東の郭の石垣。あまりに綺麗だが、積み方が雑なので遺構なのかも
⑦⑥の郭北には石が入った竪土塁が
⑧東側はたくさんの段郭が連なる
2024年04月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
石川城[松田家館 周辺城郭]
石川城は松田家館の北方約5.3km、聖川南岸(右岸)、標高565.8mの山稜山頂から北東へ伸びる尾根末端部上、標高約430m地点の平場を中心に立地する要害です。北麓の聖川からの比高は25m位でしょか。該地の南西方に鳥坂峠を控え、地味ながら川中島と松本平を結ぶ横道の関門の地に当たる。ちなみに信濃のお城の神は触れていないが、石川城には「山上あぶみ山城」の別称があるらしい。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは南東麓からとなり、長野市道篠ノ井南349号線からお山に入る私道が伸びている。但し、周辺に車の捨て場所は一切無いので注意が必要、己れの持つ器量で何とかしよう。
築城年代は不明、築城者は石川氏とされる。里伝には村上左衛門尉義清に従った石川大和守が拠ったとあるんだそう。同氏についてのはっきりとした事績は全く不明だ。
第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」において、茶臼山に布陣する武田勢の脇備えとして武田信廉が石川茶臼山に布陣したとする伝承がある。石川茶臼山を単純に石川城と見るのは早計かもしれないが、他に比定出来る山稜も特に無い。又、「天正壬午の乱」以降の上杉氏は稲荷山に新たに城を取り立てて重きを置くが、前述の鳥坂峠を通る道筋はこれとアプリの登録城、牧之島城(上杉氏時代にも城代が置かれている。)を最短距離で結ぶ。天保三年(西暦1832年)に松本、新町間を結ぶ犀川通船が運行を始めると峠道の重要度は更に増し、稲荷山が北国西脇往還最大の宿場町として発展したのは東西南北の道筋を集める結節点(松代、須坂を抜けて飯山に至り、越後へ向かう十日町街道に合流する谷街道の起点でもある。)であった事に他ならない。
4年ぶりの再訪となる。該地周辺地域には川柳将軍塚古墳に代表されるように数多くの古墳が点在するが、石川城の山稜も城古墳と呼ばれる古墳を内包し、私道の道脇には天板石と思われる巨石が無造作に積まれていたりもする。後世に全山耕作された他、山頂部には家屋が建っていたようで、立派な石垣、井戸跡等が残っている。このお城で悩ましいのは城域内に多数の石垣、石積み、石列が確認される事…明治時代の初頭に成立した「長野県町村誌」には既に石塁の存在を窺わせる記述が見られる。私道法面の石垣等、明らかに後世のものと判断出来るものも多いが、どれを往時のものとするかについての判別が極めて難しいし、全てのものが城郭遺構ではない可能性の方が高いような気もする。他に埋もれ気味の堀切が主郭部西側山側背後に1条付くが、これについても城郭遺構として判断出来るレベルには決してない。又、城域北側は聖川の侵食だろうか、人を寄せ付けない急崖となっている。
聖川は天保七年(西暦1836年)八月十七日、該地周辺で災厄をもたらす。即ち、連日の大雨で上流域の字三ツ石の溜池の土手が決壊、聖川北岸(左岸)の水車小屋、二戸を押し流し下流に漂着させる。当時、この水車小屋には精米を待つ米が八十俵から九十俵積まれており、水車番は回収のために村人に応援を求める事に…時あたかも「天保の大飢饉」の最中でもあり、大切な米を守ろうと村人多数が川端に集まったその時に北側の山稜が突如として崩落、土石流は聖川を下って多くの村人を呑み込む結果に…その死者、行方不明は四十二人を数え、村人は供養塔(四十二人供養塔)を建てて追悼し、今もお彼岸を命日としてその供養が続けられているんだそう。典型的な二次災害だが、大雨や台風の時には川に近づくなて古くからの教えは、河川自体の増水を懸念するよりもこうした結果を危惧しての事なのかもしれない。
※写真⑧が城域北辺を洗う聖川っす。
2024年04月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
佐野山城(古家館)[松田家館 周辺城郭]
佐野山城(古家館)は松田家館の西方約3.5km、佐野川北岸(左岸)、標高1166.6mの高雄山前衛山塊を構成する一つ、標高約687mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。南東麓の登城路入口からの比高は105m位でしょか。山稜は南北を滝の沢とじいだれ沢に挟まれ、滝の沢の水は不動滝として落ち佐野川に流れ込む。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。林道不動滝線を車で進み案内板の所で車を捨てる。前述の不動滝から登城路がしっかりと付いているので迷わない。
築城年代は不明、築城者は桑原氏とされる。同氏は「諏訪御符禮之古書」、康正二年(西暦1456年)丙子五月會の条に、「桑原藤原幸光御符之禮五貫八百文頭役三十貫文祝達に別五貫文」とあるのが文書上の初見、又、同書によれば、四宮庄にあった桑原六郎次郎源貞光が、文明十七年(西暦1485年)乙巳花會明年頭番役事の条では塩崎源貞光を称している。以後、桑原氏の名は同書に見られなくなる事から、塩崎氏とは桑原氏から出たものだと推測されている。
このお城、谷筋の奥まった場所に位置し、現在は非常に地味で寂しい印象だが、一次資料にも登場し、周辺地域も含めて廃城まで常に重要視されてきた要害である。天文二十二年(西暦1553年)、武田氏は村上氏の拠るアプリの登録城、葛尾城を攻める際、更級郡に割拠する屋代氏、塩崎氏を調略、四月五日には同心し、葛尾城自落の四月九日に両氏は出仕している。義清に葛尾城退去を決意させたのは両氏の離反である事に疑いは無い。又、天文二十四年(西暦1555年)四月廿五日、内田監物宛、武田晴信朱印状案には、「就佐野山在城、其方知行北大監廿三人之前、押立公事令免許者也、仍如件、」とあり、武田晴信は内田監物に佐野山在城を命じ、併せて同名の知行地における被官衆の諸役を免じている。佐野山城は少なくとも一時期において武田氏直轄の要害であり、更級郡と筑摩郡を結ぶ道筋、猿ヶ馬場峠道を扼し、アプリの登録城、牧之島城(城代=郡代が置かれていた。)へも通じる交通の要衝に立地する同城は、後の「川中島の戦い」においても重要な役割を担った事だろう。
「天正壬午の乱」の際には、屋代左衛門尉秀正、塩崎六郎次郎の両名が更級郡において上杉氏を離反している。「歴代古案」には、「逆徒居城荒砥、佐野山両地不経五三日自落、無行方為射候」とあり、アプリの登録城、荒砥城と佐野山城がその舞台であった事が判る。両城は五三日〜数日を経ずして自落したとあるので戦いがあったようには思えないが、徳川家康感状等によれば、佐野山城に拠ったのは塩崎六郎次郎である。武田氏被官時代を経ても、屋代氏と塩崎氏は常に相談、同心する間柄にあったようにも思える。
お城は再訪となる。初回訪問時は夕刻を過ぎてしまった上に、言葉では言い表せない不気味さみたいなものを感じてしまい主郭に辿り着く前に敗走した。霊感ゼロで何を見た訳でもないんだけど、此処から離れた方がよいと強く思ったのは事実だ。山麓から見れば要害地形である事は一目瞭然、佐野川と両沢による侵食だろうか、岩盤層の露出した三方急崖の山陵はそれだけで要害として成立する。
堀切は主郭部西側山側背後に僅か1条、信濃の山城としては珍しい部類に入る。守りの要は主郭東側、急な斜面に設けられた帯郭状の腰郭群だ。下段から見上げた際の威圧感は流石と言うべき。初回訪問時は後世の改変とも感じたが、今となっては城郭遺構と断じて差し支えないと思う。又、虎口様の地形が数箇所に見られる他、腰郭の一段には山の神が鎮座、おいらはこの山の神感MAXの佇まいが本当に好きー、但し、里山の山の神は他人が祈ってもしょうもないものばかりなので挨拶のみ。
登城路入口の不動滝は西行法師、小峠英二…もとい、正岡子規も訪れた事のある名勝、小さな滝ではあるんだけど、両名が訪ねる事が出来たのはそれぞれが行程とする往時のメインルートから寄り道出来る距離にあったからこそだろう。周辺における近世以前の道筋は調べてもよく判らないものが殆どなので、詳しい方が御教授下さる事を切に願っておりやす…
※桑原氏は本姓、藤原氏を称したが、後には源姓となっている。
※内田監物は佐野山在城を命じられたが、知行地そのものは諏訪郡の内であり、該地の桑原を知行地としていない。詳細が伝わらない人物だが、後には海津城に在城した事が知られている。又、個人に在城を命ずる書状は珍しいと思う。
※屋代氏、塩崎氏の上杉氏離反、徳川氏への同心は景勝に衝撃を与え、同年の新発田攻めを中断に追い込んでいる。
※写真⑧は不動滝、凍り付いてるけど…
2024年04月01日 しげる安房守
松田家館
日曜日は休館日ですので訪問の際はお気を付け下さい。
2024年01月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
小坂城[松田家館 周辺城郭]
さて、今回は以前口コミしながらもスポット登録位置に微妙な誤りがあって削除してしまった小坂城の御紹介〜川中島周辺の山城では最も優れたものの一つ、信濃全体でも滅多にお目に掛かれないレベルの遺構を今に残す。初回訪問時は初夏の季節、藪で見れない箇所も多かったんだけど、新鮮な気持ちで再訪(今年に入って2回のリア攻め…)してみたらやっぱり凄いお城だなと改めて実感、これこそが多くの人が信濃に求めている山城の一つなんじゃないかな。
小坂城は松田家館の北西約2.2km、標高660.8mの小坂山山頂から南方へ伸びる尾根中段上、標高約574m地点の平場を中心に立地する要害です。南東麓の曹洞宗の寺院、龍洞院からの比高は155m位でしょか。比高はそこまで高くないが、該当尾根の東西は滝沢川と蟹沢川の流れにより深く削られる。該地は南方に猿ヶ馬場峠を控え、筑摩郡の麻績を経て府中へ抜ける交通の要衝、アプリの登録城、屋代城とは東西に千曲川を挟んで相対する。
行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「龍洞院」を目標に設定して下さい。車を捨てたら境内から設置された案内板に従って登るだけ。登城路がしっかりと付いている。南西麓の蟹沢川からも登城路が付いているがワイルドなんで推奨しない。
築城年代は不明、築城者は在地土豪の桑原氏と伝わるがはっきりしない。少なくともお城の縄張は在地土豪が必要とする規模を遥かに超える。城歴については謎な部分が多く、現地説明板には、天文二十二年(西暦1553年)以降、武田氏の被官、保科弾正義昌が小坂城に入り管轄したてあるが、この説明板の記述自体に破綻が見られる。
武田氏時代には保科政則の舎弟、保科左近尉(左近将監)が小坂城に入ったとされ、「天正壬午の乱」の際には桑原を安堵された保科豊後守が上杉氏に従い、府中の小笠原氏に備えて猿ヶ馬場衆の一人として在番したのではないかと推測されている。保科氏は後の会津藩へと繋がる氏族だが意外にもはっきりとした系譜を持たず、保科弾正忠正俊以前の事跡となると殆ど不明である。ましてや分流の話となれば尚更の事なので上記の事柄も根拠を欠く。
お城は大変素晴らしい。縄張図では細かなものも含めて11郭で構成、主郭部と南側へ向けた段郭、北側へ向けた堀切群に大別される。段郭はエッジも立ち段々感は今も健在、主郭へと連なる郭群は下段から見上げれば堅固な事この上無し。堀切は細かなものも含めて10条を数える。大堀切は兎に角、マッシブ、滝沢川と蟹沢川の谷筋へ向けて落とし込まれる竪堀も長大、山城好きが求めているのは正にこれだろう。特に主郭部とは距離を置いた岩盤虎口に始まる六連続堀切には開いた口が塞がらない感じ、現在も横移動すら難儀だが、これ以上の道とか付けるのは頼むから勘弁してくれ、山城は探索し難くて当たり前の筈だ。又、このお城、確認出来る土塁は僅かだが、主郭部の西面、南面を中心に相当量の土留めの石積みが付いている(石塁に近いものも見られる。)。城域内では後世、耕作が行われていたそうなので全ての石積みを往時のものと判断する事は出来ないが、主郭の鉢巻石積みに代表される農事に影響しない比較的上段のものはそうだと言える。
おいらの推し城だ。比高も大して無く登城は楽な部類に入る。城域内の探索は大変な面もあるが苦労対効果は最大級に優れ、堀切や竪堀の効果を知るには最良の教材の一つだ。おいらは竪堀の写真を撮ろうとして山尾根西側斜面を横断中、滑り出したら止まらなくなってしまい背面四つん這いのまま20m強を落とされる…笑っちゃう程楽しかった♪
※猿ヶ馬場峠には、僅かな治世となった川中島四郡を放棄した森長可による凄惨な伝承が残る。証人(人質)を盾に川中島を抜けて峠に至ると用済みとばかりにその全てを殺生したと伝わる。後世人気の高い「鬼武蔵」だが、芋川親正の一揆に対する苛烈な処断と共に北信では恨みを買いまくった人物である。
※何処でもそうだが、信濃の山城だから堀切が優れていて当たり前て訳じゃない。そんな山城は全体から見ればごく少数だ。
※信濃のお城の神と現地説明板は龍洞院からの登城路を大手筋と推測しているが、個人的には疑問を抱く(改変でなければ南西麓の蟹沢川を渡り鞍部を登って通称10郭の下段に入るものだと考える。)。
※写真は堀切ばかりだが撮影日時が違うものがある。見所は他にも沢山あるので現地で確認してみて下さいまし。
2023年10月30日 RED副将軍
松田家館
武水別神社で代々神主を勤める松田氏の館跡
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
武水別神社は、平安時代の安和年間(968年〜970年)に京都の石清水八幡宮より勧進された延喜式社とされ、江戸時代までは八幡宮と呼ばれていました。
松田家は、鎮府将軍である藤原秀郷の庶流とされ相模郡松田郷を領して松田氏を称したのが始まりとされ、その子孫が当地を領して八幡宮に仕えて
代々神主を勤めてきました。
戦国時代には、村上氏、武田氏、上杉氏に仕えていたとされます。松田氏は上杉景勝から在城と八幡神領の管理を命じられ、この頃に松田家館が築かれた様です。
1598年に上杉景勝が会津に転封となった際には、当主の松田織部佐もそれに従い、弟の松田縫殿助に神職を譲りました。以降は神主として代々続きました。
見所
方形の敷地内に土塁や堀跡が残ります。
江戸時代中期から明治時代にかけての建物群が現存していましたが、2017年の火災により主屋、斎館等5棟が焼失。火災原因は蜂の巣駆除による煙幕の引火とみられており、教育委員会が委託した駆除業者は未登録業者であったという全く笑えない話😢
現在は、博物館として「武水別神社神官松田邸」が復元されています。
写真
①復元された水堀と門
②武水別神社本殿
③武水別神社拝殿
2021年03月10日 赤かぶ【】
赤沢城[松田家館 周辺城郭]
塩崎城とともに武田軍の川中島進出拠点とされたお城!
別名 塩崎新城とも呼ばれております、現地の案内版は赤沢城になっています。
登城ルートはいくつかあるようですが、今回は飯綱稲荷神社からの登城しました!
登城口は飯綱稲荷神社の脇にある道を上がって行くとJR篠ノ井線の線路が見えてきます、城跡の下を通るレンガ造りの古いトンネルで風情がありました。
トンネル横の坂を登って行きます。途中赤沢城まで7分という標識と石切場上の崖が見えてきます。展望は良いですが崖なので踏み込み過ぎないよう注意して下さいませ!
そこからまた上がって行くとまた標識がありそれに従い右へ、堀切が見えてきます♪
その堀切の中を尾根筋まで登って下さい!
左右に郭が見えますが、笹薮が酷い状態です⤵︎
そこから北側へ行くと主郭が見えてきます。手前には土塁・堀切・竪堀が確認出来ますよ♬︎
主郭はそんなに広くはないんですが笹薮で更に狭く感じます⤵︎
主郭から更に北には鉄塔を経て郭があります。
こちらはかなり広大で僅かな土塁・堀切が見て取れます。最北端からは長野自動車道も見る事が出来ます。
さて赤沢城の南側には越将軍塚古墳があります!
先程の赤沢城右の標識を左に進めとたどり着く事が出来ます!
古墳好きの方はお城とセットでどうぞ☀︎
① 登城口
② 城郭南側の堀切
③ 主郭の南側
④ 主郭手前の土塁
⑤ 城郭北側の土塁
⑥ 城郭最北端の郭
2021年03月06日 赤かぶ【】
塩崎城[松田家館 周辺城郭]
長野市篠ノ井にある長谷寺の背後にある山城で川中島の合戦で武田方の最前線の拠点として重要視されたお城とされています!
車は長谷寺の駐車場をお借りしました<(_ _٥)>
登城口は観音堂の脇の階段から山道へ入って行きます。
ジグザグの山道には三十三観音石仏と呼ばれる石仏が立ち並んでおりますので、眺めながら行くと上り坂の苦労も多少は紛れるかもしれません?!
石仏群を過ぎると鉄塔・岩場のある急斜面(足元注意です)を上がって行くと、いよいよ明瞭な遺構が見えてきます。
東側には小規模な段郭がいくつも築かれてました。更に西側へと進みます。
二の郭には石垣♬︎北側と南側には登り石垣?!と見られる石垣などが目を楽しませてくれます♪
二の郭から更に西へ進むと主郭です!
主郭西側には高い土塁が築かれており、その背後には郭を経て3条の堀切があります!外側2条は二重堀切になっており、主郭からの高低差もかなりあって見応えありですよ♪
麓にある長谷寺は奈良・鎌倉と並ぶ「日本三所長谷観音」とされております。
お城と併せて散策されて見てはいかがでしょうか☀︎
① 登城口
② 段郭
③ 二の郭 北側の登り石垣
④ 二の郭 南側の登り石垣
⑤ 二の郭石垣
⑥ 主郭西側の土塁
⑦ 城域西端の二重堀切
2020年12月18日 八咫右近衛中将千織
松田家館
駐車場は武水別神社を利用できました。
館自体は道路を挟んであったのですが、火災により消失したことにより中はみれませんでした。
武水別神社は信州三大神社の1つでかなり立派、川中島の戦いの初戦の地とのことでした。
2020年08月18日 Marky武蔵守
稲荷山城[松田家館 周辺城郭]
上杉景勝が築城した平城。
2017年09月25日 赤いRVR甲斐守@松本
松田家館
平成29年9月6日の火災で、主屋などが焼失してしまいました。
2014年07月21日 中務卿一之介
松田家館
JR姨捨駅からも少ない本数ながらバスがあります。しかし、日曜祝日と年末年始は運休なので、ご注意ください。
2012年07月06日 はせちゃん弾正忠
松田家館
発掘調査現地説明会が、7/8 10:00〜 13:30〜実施されますよ
近くの方は是非どうぞ
2012年06月03日 まるさん伊豆守小町時間割
松田家館
公共交通機関を利用して行くには…
しなの鉄道屋代駅前から市内循環バスの
大循環線(ちくま号)時計回りと反時計周りがあります。
姨捨線(めいげつ号)
に乗車して八幡又は鳥居前で降りたらすぐ近くになります。
なお、大循環線は反時計周りに乗った方が屋代駅前からは早く着けます。
また、大循環線は千曲駅、戸倉駅も通りますからそちらからでも
それに上山田温泉も通りますので…
余談ではありますが、城山入口で降車すると荒砥城跡へも行けます。
料金は1回乗車で200円で1日乗車券500円もあるようです。
2012年02月23日 赤いRVR甲斐守@松本
松田家館
武水別神社と県道を挟んだ西側にあるが、少し分かりづらい。県道から狭い道を少し西に入ったところ。駐車場は神社のを利用するしかないか。