石川城

石川城([松田家館  周辺城郭])

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石川城の口コミ情報

2024年04月29日 内記かずりヾ(・ε・。)


石川城は松田家館の北方約5.3km、聖川南岸(右岸)、標高565.8mの山稜山頂から北東へ伸びる尾根末端部上、標高約430m地点の平場を中心に立地する要害です。北麓の聖川からの比高は25m位でしょか。該地の南西方に鳥坂峠を控え、地味ながら川中島と松本平を結ぶ横道の関門の地に当たる。ちなみに信濃のお城の神は触れていないが、石川城には「山上あぶみ山城」の別称があるらしい。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは南東麓からとなり、長野市道篠ノ井南349号線からお山に入る私道が伸びている。但し、周辺に車の捨て場所は一切無いので注意が必要、己れの持つ器量で何とかしよう。

築城年代は不明、築城者は石川氏とされる。里伝には村上左衛門尉義清に従った石川大和守が拠ったとあるんだそう。同氏についてのはっきりとした事績は全く不明だ。

第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」において、茶臼山に布陣する武田勢の脇備えとして武田信廉が石川茶臼山に布陣したとする伝承がある。石川茶臼山を単純に石川城と見るのは早計かもしれないが、他に比定出来る山稜も特に無い。又、「天正壬午の乱」以降の上杉氏は稲荷山に新たに城を取り立てて重きを置くが、前述の鳥坂峠を通る道筋はこれとアプリの登録城、牧之島城(上杉氏時代にも城代が置かれている。)を最短距離で結ぶ。天保三年(西暦1832年)に松本、新町間を結ぶ犀川通船が運行を始めると峠道の重要度は更に増し、稲荷山が北国西脇往還最大の宿場町として発展したのは東西南北の道筋を集める結節点(松代、須坂を抜けて飯山に至り、越後へ向かう十日町街道に合流する谷街道の起点でもある。)であった事に他ならない。

4年ぶりの再訪となる。該地周辺地域には川柳将軍塚古墳に代表されるように数多くの古墳が点在するが、石川城の山稜も城古墳と呼ばれる古墳を内包し、私道の道脇には天板石と思われる巨石が無造作に積まれていたりもする。後世に全山耕作された他、山頂部には家屋が建っていたようで、立派な石垣、井戸跡等が残っている。このお城で悩ましいのは城域内に多数の石垣、石積み、石列が確認される事…明治時代の初頭に成立した「長野県町村誌」には既に石塁の存在を窺わせる記述が見られる。私道法面の石垣等、明らかに後世のものと判断出来るものも多いが、どれを往時のものとするかについての判別が極めて難しいし、全てのものが城郭遺構ではない可能性の方が高いような気もする。他に埋もれ気味の堀切が主郭部西側山側背後に1条付くが、これについても城郭遺構として判断出来るレベルには決してない。又、城域北側は聖川の侵食だろうか、人を寄せ付けない急崖となっている。

聖川は天保七年(西暦1836年)八月十七日、該地周辺で災厄をもたらす。即ち、連日の大雨で上流域の字三ツ石の溜池の土手が決壊、聖川北岸(左岸)の水車小屋、二戸を押し流し下流に漂着させる。当時、この水車小屋には精米を待つ米が八十俵から九十俵積まれており、水車番は回収のために村人に応援を求める事に…時あたかも「天保の大飢饉」の最中でもあり、大切な米を守ろうと村人多数が川端に集まったその時に北側の山稜が突如として崩落、土石流は聖川を下って多くの村人を呑み込む結果に…その死者、行方不明は四十二人を数え、村人は供養塔(四十二人供養塔)を建てて追悼し、今もお彼岸を命日としてその供養が続けられているんだそう。典型的な二次災害だが、大雨や台風の時には川に近づくなて古くからの教えは、河川自体の増水を懸念するよりもこうした結果を危惧しての事なのかもしれない。

※写真⑧が城域北辺を洗う聖川っす。

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