稲荷山城
稲荷山城([松田家館 周辺城郭])
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稲荷山城の口コミ情報
2025年08月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
稲荷山城は松田家館の北方約1.9km、佐野川北岸(左岸)、千曲川西岸(左岸)、標高約359mの平野部平場に立地する要害です。従って現在の比高は無いが、往時の該地は周囲よりも一段高い微高地、城域の東側は往古の千曲川が創造した川道の侵食崖、西側後背地は氾濫原の湿地帯であり、同川の自然堤防上の北端に位置している。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「稲荷山城跡(櫓台)」を目標に設定して下さい。この場所とその周辺が推定城域の概ねの中心地である。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築城年代は天正十年(西暦1582年)、その翌年には普請を終えたと考えられている。築城者は上杉氏、普請奉行は屋代氏の寄騎、須崎三河守である。当初の城主もこの三河守であり、二ノ郭には小出和泉守、三ノ郭には松田織部佐(仁科氏の分流、丸山氏の流れ、日岐盛武の舎弟、盛直である。)が入ったとも伝わる。ちなみに推定城域の南側に位置する浄土宗の寺院、光明山無量院極楽寺の境内に建つ「袴腰の鐘楼」の天井には「天正十一年(西暦1583年)須崎三河守建立」と書かれた棟札がそのまま残っているんだそう。
該地の稲荷山は更級郡における交通の要衝であった。律令制下における東山道支道は、一本松峠越え、古峠越え、猿ヶ馬場峠越えの三筋が推定されているが、何れの道筋も稲荷山付近を通過して善光寺へと至る。
近世の北国西往還も稲荷山を経路に選んでおり、廃された城地を中心に宿場が設けられて繁栄した。又、埴科郡松代を経て、高井郡中野、水内郡飯山へ抜けて市川谷を進み、最終的には越後国魚沼郡へと至る谷街道の起点でもある。
鳥坂峠道等、筑摩郡から犀川沿いを北行した後に東行する横道を集める場所でもあり、天保三年(西暦1832年)、犀川通船が運行を始めると宿場としての稲荷山の重要度は更に増した。
稲荷山城は明確な意図を以て築城された上杉氏の拠点城である。同城は天正壬午の乱の際に北進を続けた小笠原氏に対する備えであり、稲荷山、桑原等を切所口として猿ヶ馬場峠を扼する重要な役割を担っていた。新発田表に傾注せざるを得なかった当時の上杉氏は更級郡以南の経略を次第に放棄していった節さえ窺える。
天正十二年(西暦1584年)五月十七日、松田民部助(更級八幡宮神官である。)宛、上杉景勝朱印状には、「就稲荷之地在城申付、八幡神領一圓預置候、晝夜走廻不可有油断者也、仍如件、」とあり、上杉景勝は、松田民部助に、「稲荷之地」の在城を申し付け、併せて八幡の神領一園を同名に預け、昼夜違わず走り廻り油断無きようにと指図している。
天正十二年六月廿七日、松田織部宛、上杉景勝宛行状案には、「仁科本意之間、松田分并八幡領、一圓預置候、修造祭礼、如恒例厳重可相勤候、次稲荷之地、在城申付之間、同城之者共令入魂、用心普請不可有油断者也、仍如件、」、続く文章では宛名を仁科孫三郎に変えて、「老父織部佐、松田名跡申付之条、仁科惣領職、其方相続、不可有異議者也、仍如件、」とあり、上杉景勝は、松田織部に、「稲荷之地」の在城を申し付け、併せて松田分並びに八幡領一園を同名に預け、稲荷山城の城番衆と入魂にし、同城の普請、用心を油断無きようにと指図している。又、続く文章では、仁科孫三郎(松田織部の子である。)に、父の織部佐に松田の名跡を嗣ぐ事を申し付けたので、其方が仁科の惣領職を相続する事に異議は無いとも言っている。日岐盛直は松田の名跡を相続したが、景勝は滅亡した仁科氏の惣領職をその子が相続する事も認めている。
お城の現況は…耕作地、空地、商業地、一般住宅地等となっている。探索は街中遺構ハントになるのだが、城域は確定しておらず城郭遺構も完全消滅、推定堀跡を辿るぐらいが関の山だ。ちなみに稲荷山は蔵の街としても知られているのでそちらの風情を楽しんだ方が遥かに有意義だと思う。
江戸時代に稲荷山宿本陣を務めた松木家の先祖は、稲荷山城の普請奉行、須崎三河守の娘婿だったらしい。主郭の居館は稲荷山代官所を経て後に松木家の所有となったが、問屋を兼ねた同家は幕府より年貢免除、無役の田畑を拝領し、苗字帯刀を許され御目見え以上の家格を有していた。ちなみに弘化四年(西暦1847年)三月二十四日に発災した善光寺地震の際に同家の表門は火災によって焼失したそうだが、元は稲荷山城主郭の裏門でもあったんだそう。
※写真④は松木家を撮影した物っす。冠木門は古いけど江戸時代の再建なんだそう。
※写真⑦は「城小路の井戸」を撮影した物っす。名称からすれば城域外だ。
※写真⑧は文中にある浄土宗の寺院、光明山無量院極楽寺を撮影した物っす。鬼門除けとして五日町にあったが洪水のために現在地に移転したんだそう。
2020年08月18日 Marky武蔵守
上杉景勝が築城した平城。