吉窪城(よしくぼじょう)
吉窪城の基本情報
通称・別名
- 吉窪山城
所在地
- 長野県長野市塩生
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 小田切氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 小田切氏
廃城年
- 弘治3年(1557)
遺構
- 曲輪、石積、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
旭山城(長野県長野市)[4.8km]
横田城(長野県長野市)[6.1km]
葛山城(長野県長野市)[6.4km]
横山城(長野県長野市)[7.3km]
福平城(長野県長野市)[9.0km]
松代城(長野県長野市)[9.3km]
霞城(長野県長野市)[9.5km]
屋代城(長野県千曲市)[10.3km]
尼厳城(長野県長野市)[10.7km]
若槻山城(長野県長野市)[11.4km]
吉窪城の口コミ情報
2025年11月24日 気分爽快日向守
吉窪城
小田切ダム北の細い道を進みます。
2郭には不思議な石積みが複数ありますが、城址の周囲に複数の古墳がありますので、これも古墳の石室だったのでしょうか?説明版だけではよくわかりませんでした。
①登城路にある大岩
②寅口(こぐち)とありますが、、、虎では?
③西端の帯郭(案内板は横堀)
④石積みのある土塁(案内板は土居)
⑤井戸と思ったら「抜穴」とのこと。何処へ?
⑥主郭南の土塁(土居)
⑦石積みの虎口でしょうか?
⑧③帯郭西の竪堀
2025年09月23日 里のシロクマ右馬頭
吉窪城
9/17 鷲尾城後、本日3城目 小田切ダムの上、比高618m吉窪城訪城。鷲尾城訪城後車のナビは山の上へ案内、小田切ダムを過ぎ県道406号から迂回して吉窪城下の集落へ、吉窪城はこちら、の案内板を見落として通過、引き返し進む。道は狭く車1台がやっと、急カーブあり、片側切り落としの道を疑いながら進む。左手に1号古墳の小さな案内板、その先に吉窪城駐車場の看板があったので間違ってなかった!駐車場の反対側に吉窪城まで400mの案内。道はしっかりしている、なんどか折り返し10分程で鳥居が見えて来た。鳥居と階段の参道の横に山道が続いているので山道を進むと「寅口跡」の案内表記、エ!虎口ではなく寅口。その横には、「空堀跡」の表記。
寅口から城内に入ると石積みの上に社が三つ神社名は不明ですが、一つの社の中にお稲荷様と閻魔大王がおられました。訪城のご挨拶と参拝。社の奥へ進むと「抜穴」の表記、地面が凹んでいる。その先には、やたらと土と石が盛られていて「土居」の表記、土居を越えると工事現場ような凸凹、でこぼこの縁には石積みが見られる、この場所は何!全体的には城跡なのだけれど?木々の間から長野市が見えていました。この後は松田家館へ向かいます。
2025年05月03日 雅楽頭あお
吉窪城
ギリギリの狭い道を進んだ駐車場からは、10分程度。主郭からは善光寺平と犀川が見下ろせます。
2024年11月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
内後館(小田切氏上屋敷・殿屋敷)[吉窪城 周辺城郭]
内後館(小田切氏上屋敷・殿屋敷)は吉窪城の南東約2.3km、犀川南岸(右岸)、標高約364mの平野部平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている東方の「浄土宗 円光寺」を目標に設定して下さい。此処に車を捨てたら後はリア攻めマップを参照しててくてく歩いて行こう。ちなみに円光寺には居館の主とその妻の墓塔が建っている。
築かれた年代は天文年間(西暦1532年〜1555年)、お住まいになられていたのは小田切氏です。同氏については同じ吉窪城のリア攻めマップにある小田切氏館を参照して下さい。アプリの登録城、葛山城に籠城して討死した小田切駿河守幸長で知られている。
小田切氏は犀川北岸(左岸)の小市郷を本貫地としていたが、後には村上氏に従い、天文年中には犀川を渡って更級郡北部へその勢力を伸長させ、今里内後には上屋敷を、今井於下には下屋敷を構えた。その上屋敷がこの口コミの内後館である。律令制下における東山道支道が犀川を渡る道筋上に当たると推測されるが、渡し場の両岸に居館を占地出来た事は村上氏の信頼が厚かった事を意味するんだろうか。明応年間(西暦1492年〜1501年)の前後、村上氏が善光寺平において勢力を大きく伸長させた背景には、小田切氏の存在が大きな役割を果たしていたと個人的には考えている。
弘治二年(西暦1556年)十二月廿四日、西条治部少輔宛、武田晴信朱印状には、「就原、今里之儀、自香坂入道様々承旨候条、当分相違覚悟之外候、何時ニ候共、小田切方川北之本領、一両ヶ所致安堵者、任先判之旨、原、今里可相渡候、此趣雖染先書、若可有疑心之由令校量候間、重而書出所也、仍如件、」とあり、武田晴信は、西条治部少輔に、小田切氏の旧跡の内、原、今里の両所を改めて安堵している。
永禄七年(西暦1564年)十二月十九日、西条美作守宛、武田信玄宛行状案には、「為原、今里之替地、高梨領之内新保四百貫、小中田(小田中)三百貫、原、今里所務之分出置候、若有申掠旨者、重而可聞合者也、仍如件、」とあり、武田信玄は、西条美作守に、原、今里の替地として高梨氏の旧跡の内、高井郡の新保、小田中の両所を宛行っている。武田氏に出仕した小田切民部少輔に配慮した仕置だろうか。
居館の現況は耕作放棄地、空地、一般住宅地等となっている。昭和の初頭までは堀形が残っていたらしいが遺構は完全消滅している。居館地の央部に建つ一般住宅の敷地内には、主の一人、小田切駿河守幸長を祀る小田切神社が鎮座、舗装道路に面して説明板も立っており該地の特定だけは容易だ。
金蓮山来迎院円光寺の中興開山、正庭(しょうてい)は、小田切駿河守幸長の子、民部少輔の次男であり、実名は正賢と伝わる。民部少輔は、文禄元年(西暦1592)、朝鮮出兵の際、村上(山浦)国清に従って渡鮮し討死、正賢は駿河守幸長と民部少輔の菩提を弔うため仏門に入り出家した。後に正庭は円光寺の住職となり駿河守幸長夫妻の墓塔を建立、同寺には小田切氏守護と伝わる弁才天が奉納されている。
※アプリの登録城、吉窪城は小田切氏の要害だ。
※円光寺〜リア攻めマップにスポット登録して写真だけ置いておく。
2024年01月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
小田切氏館[吉窪城 周辺城郭]
小田切館は吉窪城の東方約1.8km、犀川北岸(左岸)、標高約418mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「長野市立松ヶ丘小学校」を目標に設定して下さい。この小学校の敷地を含む西側の一帯が概ねの該地となる。車はそこら辺に捨てられるけど休日に訪ねるのがよいと思う。
該地の「小市」は古代からの交通の要衝、律令制下における東山道支道が犀川を渡る場所であり、同道の駅家、「亘理の駅」が設けられた地として有力視されている。小市の犀川対岸、四ッ屋の古道が「古舟渡大道」と記されるのはその証左になるんだろうか。更級郡から犀川を渡って小市へ抜けた道筋は、山際を通って窪寺、小柴見を経て「多湖の駅」へ抜け、吉から髻山の東麓を通って野尻湖西岸の「沼辺の駅」に至る。小柴見には「大道東」、「大道西」の字名が残る。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方は小田切氏です。同氏は滋野性海野氏の一族、鎌倉時代に佐久郡小田切から当地に入部したと推測されている。嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案が文書上の初見、十二番五月會分の条には、「左頭、長池一方和田石見前司女子跡、付原宗三郎入道、小田切女子跡彦三郎左衛門尉知行分、」とあり、「小田切女子」の遺跡が小市から距離のある長池にあった事が判る。応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」の際には、「大文字一揆衆」を構成する十二氏の内の一氏となり、永享十二年(西暦1440年)の「結城合戦」における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「十五番 小田切殿 窪寺殿」とある。
「諏訪御符禮之古書」には花會と御射山の頭役等に勤仕する小田切氏の名が度々見られ、窪寺郷には小田切安芸守清遠が、小市郷には小田切安芸守高遠、代官に徳永道頓、宮尾太郎兵衛遠重、宮尾太郎兵衛高重等の名が確認出来る。同書、寛正七年(西暦1466年)丙戌花會の条には、「一 御堂窪寺小田切安芸守高遠始而當勤仕候御符之禮合五貫六百文使曾次二郎御教書之禮同前御頭初之祈祷代二貫文此時は代官宮尾太郎兵衛遠重使曾次二郎頭役五十貫」とあり、窪寺氏の本貫地であった窪寺郷に小田切氏への領主の交代が見られる。寛正四年(西暦1463年)の時点では窪寺郷に窪寺氏が健在であった事から、この間において小田切氏の勢力の伸長があった事は疑いが無い。ちなみに同氏の諏訪社上社の神事への負担は他の頭役等と比べてみてもかなりの高額である。
室町時代後期には川中島一帯に勢力を伸長させた村上氏に従っていたらしく、「上田原の戦い」にも参陣したんだそう。村上氏の信濃退去後には共に長尾氏を頼り、弘治三年(西暦1557年)二月十五日、葛山城の落合備中守に合力して籠城した当主、小田切駿河守幸長は、室賀兵部太輔〔経俊)の被官、清兵衛が為に打ち取られた。同城落城の際に山中に隠れた駿河守幸長の子、民部少輔は後に武田氏に出仕、天正四年(西暦1576年)二月七日、武田勝頼から軍役を定められている。
居館の現況は…耕作地、耕作放棄地、空地、遊砂地、一般住宅とその敷地、小学校等となっている。何処までを館域とするかの判断が付かないが、一帯は大きく改変されており判ろう筈も無い。信濃のお城の神は山際の最上段を当主の居館地、下段を一族ないし被官衆の屋敷地と推測している。見晴らし良く武士の住まう場所としては周辺では最上だろう。一見すると遺構は何も残っていないように思えるが、西辺を形成する結構な堀形と土塁の残滓が確認出来る。東辺は小学校建設の際に消滅した権現沢の流れが推測されている。
小田切民部少輔は武田氏滅亡後に上杉氏へ出仕、ところが小田切氏は会津移封には従わず高井郡へ移り住み商家として存続、後には須坂藩堀家の御用商人となったんだそう。十二代小田切辰之助の代になると製糸業で財を成し須坂の発展に尽力(辰之助が創始した高井銀行は現在の長野県のメインバンク、八十二銀行に繋がる。)する。…やっぱし人は恥を偲んでも生きていてなんぼのもの、単純に武士の死に際に感動を覚える事もあるけど、家名を存続させて次代へ繋ぐ事にはそれ以上の価値がある。同氏が厳しい時代を歩んだ末に至った見事な選択なんじゃないでしょか。
2021年11月07日 赤かぶ【】
小松原城[吉窪城 周辺城郭]
小松原城は長野市篠ノ井小松原の天照寺さんの裏手にある山城です。行き方は天照寺を設定して下さい。
お寺から城域までは少し分かりにくいです。上手く文書に出来ないのでご容赦ください!
天照寺羅漢堂から墓地の間を通り舗装されていない道に出ます、畑の作業小屋後ろから斜面に取り付き、林の中へ、踏み跡をたどりながら登って行きます。途中倒木もありますのでご注意を!!上り切ると車道幅の道に出ます。この道を右方向に上がると廃屋が見えます。この廃屋の前を通って尾根まで上がると、すぐ下に小さな池(水の手)がある。尾根伝いに左に上がると途中から踏み跡がなくなり、目の前に急斜面が現れます。登りやすい所から斜面を直登すると城跡が見えてきます!
主郭北側には周囲を半円ほどの土塁が二重に囲んでいます♬︎主郭は平坦ではなく、岩場もあり、広さもありません。祠も祀ってありました。城郭全体は南方へ下がっている地形になっていました。
整備はされていませんが、小田切氏の要害城と考えられているお城!見ていて楽しいお城でした。
① 天照寺
② 主郭北側の土塁
③ 主郭南側の土塁
④ 主郭東側の土塁
⑤ 尾根下にある臼池
⑥ 主郭
2018年11月19日 玄蕃助がげちゃんⅡ号T型
吉窪城
吉窪城~牧之島城のR19の信州新町の道の駅そばで道路修復工事をやっていて、片側交互通行になっています。くれぐれも事故には、ご注意を・・・
2017年08月02日 安田民部卿秀俊
吉窪城
城主 小田切(駿河守)幸長の墓所は長野市川中島町今里にある円光寺にあります。
2010年10月13日 真田丸
吉窪城
クルマで近くまで行かれます。案内板も出ていますよ。
城趾まで徒歩で10分弱です。
吉窪城の周辺スポット情報
小松原城(周辺城郭)
小田切氏館(周辺城郭)
笹平城(篠平城)(周辺城郭)
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朝日山砦(周辺城郭)
円光寺(寺社・史跡)
駐車場(駐車場)
登城口(その他)









