葛山城(かつらやまじょう)

葛山城の基本情報

通称・別名

所在地

長野県長野市鑪葛山244他

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

不明

築城年

室町時代

主な改修者

落合氏

主な城主

落合氏

廃城年

遺構

曲輪、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡

再建造物

碑、説明板

周辺の城

旭山城(長野県長野市)[1.9km]
横山城(長野県長野市)[2.5km]
若槻山城(長野県長野市)[5.1km]
吉窪城(長野県長野市)[6.4km]
髻山城(長野県長野市)[8.8km]
福平城(長野県長野市)[9.4km]
長沼城(長野県長野市)[9.7km]
霞城(長野県長野市)[9.8km]
横田城(長野県長野市)[10.9km]
井上城(長野県須坂市)[11.3km]

葛山城の解説文



葛山城(かつらやまじょう)は、信濃国水内郡長野村葛山(現・長野県長野市鑪)[1]にあった日本の城。山城。長野市指定史跡[2]

概要 

天文24年(1555年)、武田晴信に帰順した栗田氏が旭山城に籠城したため、付城(向城)として長尾景虎が裾花川対岸のこの山上に築いた。

弘治3年(1557年)、武田氏により攻略された。真田幸隆の調略により、葛山城中腹の静松寺を通じて落合一族の落合遠江守、落合三郎左衛門尉が寝返った。また、水の手などを切られ馬場信春らの攻撃で城は落城。城将落合治吉(落合備中守)、援軍の将として入城していた小田切駿河守幸長は戦死した。武田軍のあげた城兵の首は夥しい数にのぼり、落城する火勢の中で逃げ場を失った女達は峯の上から北側の谷に身を投げ全滅したと伝えられる。 落城が伝えられた長沼城の島津月下斎は北の大倉城に難を避け、戸隠山の人々も武田側と上杉方とに分裂し多くが遠く越後に逃れた。

伝承 

  • 建武年間築城、葛山衆の落合氏の居城と伝えられている。
  • 弘治3年、葛山城攻略のため馬場信春は軍勢1万7千人を率いて裾花川を塞ぎ水攻めをしたが、葛山の岸壁から滔々と流れ落ちる滝に手の施しようがなかった。既に武田軍勢に加わっていた栗田永寿 (初代)が葛山麓にある静松寺の住職を呼び寄せ、城の水利を尋ねると、「あんなところに滝などない、兵糧米を落として滝のように見せかけているのだろう」と漏らしたため、武田軍勢は火攻めを仕掛け葛山城を落とした (白米城伝説)。このため静松寺の住職は葛山に登ると狂死するのでけっして葛山に登らないという。
  • 葛山落城の際火攻めにあったため、倉跡には焼米が出るという。
  • 城に篭った婦女子らは身を葛山の絶壁に投げた。本丸北東の谷で、そこを姫谷という。
  • 端午の節句には葛山山頂に赤い旗が翻るのが松代町から見える。ただし松代町以外からは見えないという[3]

遺構 

  • 葛山城址碑 - 「市指定史跡 葛山城跡」石碑と屋根のついた木製「葛山城」説明案内板[4]
  • 主郭跡 - 周囲に土塁は見られず、旭山城とは対照的。ただし、切岸が非常に深く鋭い。山頂からすぐ隣の峰にあった大峰城を遠望できる。

交通 

  • JR北陸新幹線・長野駅からアルピコ交通バスに乗り「横棚」バス停下車、徒歩約50分
  • 上信越自動車道・長野ICから約45分

参考文献 

  • 杉村顯著『信州の口碑と伝説』信濃郷土誌刊行会、1933年
  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年
  • 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年

葛山城の口コミ情報

2024年10月14日 信濃守あお
葛山城

県道76号で葛山神社過ぎて右側に城跡への小さい看板があります。大丈夫かな?っていう未舗装路ですがセレナでも行けました。駐車場からは20分程で主郭に。道中ぬかるみがあり登山靴泥沼に水没。雨の後行くと難儀しそうです。

2024年10月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
荒安 仁科氏屋敷[葛山城  周辺城郭]



さて、今回はひょとしたら信濃国安曇郡の名族、仁科氏の惣領を継いでいたかもしれない人物が居した屋敷の口コミっす。同氏は武田信玄の名族懐柔策によって、みんな大好き五男の五郎盛信が養嗣子に入った事で知られる。その後の仁科氏は武田氏の藩屏として、特に勝頼の代には、アプリの登録城、根知城や不動山城にも在番衆を送り込む等、安曇郡、千国大道沿いの谷筋の各地域は勿論、越後国頸城郡の一部地域の差配を委ねられるまでに成長した。その陰にあって本来の仁科氏宗家は凋落、同氏の正統が武家として復権する機会は完全に失われてしまった。

荒安 仁科氏屋敷は葛山城の北方約1.1km、標高約772mの段丘台地上平場に立地した屋敷です。該地の南側を東西に走る舗装道路は戸隠道である。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「飯縄神社里宮(皇足穂命神社)」を目標に設定して下さい。この神社に至る石段の中段東側に広がる平場が該地となる。神社の駐車場は少し離れた場所に付いている。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは仁科氏です。但し、元は飯縄明神、千日大夫(代々世襲在俗の修験者である。)の冬屋敷であり、武田氏に誅されたとも伝わる仁科氏惣領、仁科右衛門大夫盛政(系図上は仁科五郎盛信の養父だ。)の嫡子、盛孝とその舎弟、盛清が飯縄山に逃れ、千日次郎の養嗣子となって該地に居したとするのが正しい。

弘治三年(西暦1557年)三月廿八日、飯縄之千日宛、武田晴信安堵状案には、「飯縄山之事、如父豊前守拘候時、不可有相違候、然而武運長久之祁念、不可致退轉者也、仍如件、」とあり、武田晴信は、飯縄権現神主、千日をして同所務を安堵している。又、元亀元年(西暦1570年)九月朔日、千日次郎大夫宛、春日弾正忠(虎綱)奉之、武田信玄寄進状案によれば、武田信玄は、千日次郎大夫に、社領の各所、合わせて四十七貫を安堵し、新たに「入山之内大宮」から壹貫三百、「南郷之内」から拾壹貫五百、「廣瀬之内」から七貫、総計十九貫八百を寄進している。

天正六年(西暦1578年)正月廿三日、武田勝頼名字状によれば、武田勝頼は飯縄社、千日次郎大夫の養孫(仁科盛清)に「仁科甚十郎」の姓名を賜っている。又、天正八年(西暦1580年)閏三月十日、千日太夫宛、跡部尾張守(勝資)奉之、武田勝頼安堵状案には、「定 飯縄御神領、先御印判被寄附之上者、自今已後、弥不可有御相違、畢竟、御当家御武運長久之御祁念、疎略不可有之趣、所被仰出也、」とあり、武田勝頼は、千日太夫に、飯縄社社領を安堵し、当家の武運長久の御祈念を粗略にしないようにと言っている。

屋敷の現況は…耕作地、果樹園、一般住宅とその敷地等となっている。敷地面積は約三百坪、厩や長屋が残っていたそうだが、太平洋戦争終結後に次第に廃墟となり、昭和六十年(西暦1985年)に取り壊されたんだそう。又、北側斜面には水神が祀られているが、その上段の耕作地が飯縄社里宮の旧地だ。

飯縄権現を篤く信仰したのは上杉謙信と武田信玄である。即ち、謙信は兜の前立に飯縄明神像を施し、朱印の文字にも選んでいる。信玄は戦勝を祈念して飯縄明神に願文を捧げたり、飯縄本尊と「飯縄法次第」を身に付けたりもした。飯縄山は中世後半に戸隠顕光寺の差配から脱し、「飯縄の法」と呼ばれる妖術めいた独自の修法を編み出した。飯縄権現(飯縄明神)は、狐に乗り、背に翼を持ち、火炎を纏った姿で表される。勇ましい御姿は、武運長久を願う武士等の関心を引き寄せ、軍神として熱狂的な支持を以て崇められていた。

※寺社放火魔として有名な武田勢だけど、信玄自身は神仏の信仰心に篤い人物だ。ちなみに信濃の寺社の由来は武田氏の兵火によって焼亡したとするものが本当に多い。

※「飯縄の法」と呼ばれた妖術めいた独自の修法を編み出した。〜原始的忍法ともされる。

※嘉永二年(西暦1849年)に刊行された「善光寺道名所図会」には、飯縄の里宮、奥の院と仁科氏の屋敷が一枚に描かれている。

※写真⑥、背景の山稜がアプリの登録城、葛山城っす。

※写真⑦、背景の山稜が同じ葛山城のリア攻めマップにある大峰城っす。

※写真⑧は飯縄社里宮の旧地を撮影したもの。

2024年10月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
立屋城(古城)[葛山城  周辺城郭]



信濃の城館全制覇を目指すおいらのペースが北信で停滞している。一般的に未踏の山城が多いので登城情報が基本的に皆無、何もかもが手探り状態だったりするのがその原因だ。更に言えば、激藪の城館が多い事も素因の一つ、熊笹藪、蔦藪に低雑木の密集等の混合藪はお山に入ろうとする美少年を徹底的に阻害する。この藪を何とか突破すれば…等の淡い期待はほぼ100%の確率で裏切られる。取り付きさえ判らず、城域内に辿り着ける保証が一切無い。気持ちが折れてしまい、結局は丸一日を山際で無駄にするなんて事も度々だ。今回の口コミはそんな北信の山城の一つ、上ヶ屋集落の裏山、小さなお城だからて舐めてちゃいけないぜ。

立屋城(古城)は葛山城の西北西2.2km、標高853mの山稜山頂から南方へ伸びる尾根末端部上、標高約823mの小ピークを中心に立地する要害です。東麓の長野県道453号、飯綱高原芋井線からの比高は30m位でしょか。該地の周辺は、標高1917.3mの飯縄山の南方裾野、飯綱高原が高低差のある複雑な丘陵地様地形、峡谷様地形に変わる場所でもある。ちなみに比高は低いが葛山城よりも高位標高にある。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南麓の「古沢家のイチイ」を目標に設定して下さい。北側に迫る山尾根が該地だ。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。ちなみに上水内郡小川村小根山にも同名称の要害が存在する。距離も近いので混同に注意しよう。

築城年代は不明、築城者は立屋氏と推測されている。同氏は滋野氏の一族、裾花川流域に拠った落合氏の分流とされ、在名を取って立屋氏を称した。同様の一族には、上屋氏、桜氏、鑪氏、広瀬氏があり、落合氏を惣領に葛山衆と呼ばれる武士団を構成した。

元亀元年(西暦1570年)五月朔日、立屋彦四郎宛、跡部大炊助(勝資)奉之、武田信玄安堵状案には、「本領 一七拾五貫文 櫻之内 新知行 一拾貫文 同所 已上 自㝡前参御幕下条、忠節無比類候、因玆如此被宛行候、依戦功可有御加恩旨、被仰出候者也、仍如件、」とあり、武田信玄は、立屋彦四郎に、櫻の内から本領、七十五貫文を安堵、新恩として同所から十貫文を宛行っている。

又、元亀元年(西暦1570年)九月朔日、立屋勘解由左衛門尉宛、跡部大炊助(勝資)奉之、武田信玄宛行状案によれば、立屋勘解由左衛門尉は、本領の各所、計四十三貫文を安堵された他、新知行として、「入山之内」から貳百貫文、「北郷之内」から六拾貳貫文を宛行われている。前述した彦四郎と勘解由左衛門尉の関係性については不明だ。

縄張は5郭で構成されるがコンパクトである。後世、耕作地となり細部が失われている他、縄張図における通称5郭は一般住宅とその敷地にそのまま変貌している。又、通称1郭から通称3郭までは人類の進入を阻む原生林と化しており探索自体が無意味な作業だったりもする。城下を戸隠に至る古道が通り、南麓には「立屋」の字地名が残る。

主郭部のリア攻めを諦めて帰ろうとしたら、小ピーク上には何やら白い建造物が建っている事に気が付いてしまった…突然、闘争心が湧き起こり、平均斜度70°〜75°位の崖地をよじ登る事を決断する…おいらの長所でもあり欠点でもある、確かめなきゃ気が済まない精神状態に陥ってしまった…結果として主郭を制覇する事にはなったけど、白い建物の用途は最後まで不明(倉庫様の小さな建物が2棟並んでいる。)…ちなみにこのお城、殆どが草藪と蔦藪なんで頑張れば進めるんだけど、進んだところで何すんの…得られる成果が何一つ無い。段が付いてるのは判ったんだけどねぇ…それにしても短パンと白いTシャツでの藪漕ぎは失うものが大き過ぎるわ…

※上水内郡小川村小根山にも同名称の要害が存在する〜こちらも立屋氏の要害とされる。但し、史料等乏しくはっきりさせる事が出来ないとはいえ、果たして口コミの立屋氏と同一氏族だと判断してもよいのだろうか。

※写真①は南麓から撮影した近景っす。手前に見える民家の位置が「立屋」と呼ばれる場所だ。

※写真⑧は後背地から撮影した展望、背景中央の山稜がアプリの登録城、葛山城っす。

※リア攻めは周囲から眺めるだけにしといた方が無難だ。ちなみに縄張図では無視されているが、城域は切通しの舗装道路によって分断されていると思う(西側と南側にやや広い。)。

2024年01月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
鑪葛山神社館(落合氏館)[葛山城  周辺城郭]



鑪葛山神社館(落合氏館)は葛山城の北西約0.5km、標高812mの葛山北西支尾根末端部直下、標高約641mの丘陵地上平場に立地する居館です。気合いと根性が必要だけど、居館背後の葛山北西支尾根を辿れば時間はともかく最短距離で葛山城の主郭に辿り着ける筈…

行き方はGoogleマップに位置登録されている「葛山神社」を目標に設定して下さい。この神社の境内、もしくは神社東側の雑木林が概ねの該地と比定されている。但し、本殿が国指定の重要文化財、「葛山落合神社」と混同しないように。ちなみにこの神社が謎過ぎる。あんまし頑張ってないけど史料が全く探し出せず、祭神が何なのかも不明だったりする。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは落合氏です。該地は広瀬荘に属する「多々良之郷」に含まれ、天正六年(西暦1578年)の「下諏訪秋宮造営帳」には、造営料を負担する広瀬荘に属する郷村の内にその名が見られる。同荘には「承久の乱」の後に経緯不明なるも佐久郡落合から滋野氏系落合氏が新補地頭として入部した。アプリの登録城、葛山城は建武年間(西暦1334年〜1336年)に同氏が築いた要害がその発生と推測されている。又、落合氏は広瀬荘内に一族を分派させ、上野氏、桜氏、鑪(たたら)氏、立岩氏等を輩出、これ等、「葛山衆」は「葛山七騎」として米沢藩で存続している。

落合氏は応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」に先立ち、反守護方勢力である大文字一揆衆を形成する十二氏の内の一氏となった。事跡に恵まれない同氏だが、後の「大文字一揆注進状」にもその名を連ねる。

弘治二年(西暦1556年)三月十一日、静松寺宛、武田晴信書状には、「落合遠江守、同名三郎左衛門尉、従最前筋目不相替、可抽忠信之旨被申候哉、猶以感入存候、縦惣領二郎左衛門尉方雖被属当手候、封両所弥可懇切申候、此趣可被仰届候、恐々謹言、」とあり、武田晴信は静松寺から、調略した落合遠江守、落合三郎左衛門尉が筋目を変えず忠信を遂げる旨を申した事を聞いて感じ入り、例え惣領の二郎左衛門尉が当方に属したとしても両名へはいよいよいよ懇切にする事を約し、この趣意を両名へ申し伝えるよう同寺に依頼している。

…弘治三年(西暦1557年)二月の葛山城攻めに先立つ書状だが、当時の葛山城城主、落合氏の惣領が二郎左衛門尉(備中守治吉か。)である事、同氏には遠江守、三郎左衛門尉(舎弟か。)の両名があった事が判る。又、武田氏は葛山城攻めに先立つ事、約一年前から調略を進めて一族間の切り崩しを図っていた事も判り、どうやらその下拵えは万全であったようだ。この書状の約二ヶ月後の五月十二日、牧城(アプリの登録城、牧之島城の前身である。)城主である香坂筑前守は更級郡牧之島から埴科郡八郎丸之郷に所領替(宛行状には「相残所者、速可奉納者也、」とある。速やかに…高圧的と言える。)となり、その後に入ったのが葛山城攻めの際に武田勢を引率した馬場民部少輔信房だ。落合遠江守、同三郎左衛門尉の同心が確かなものとなった事から決断に踏み切ったものとも考えられる。

居館の現況は前述のとおり神社の境内と雑木林となっている。信濃のお城の神は神社の境内が居館地としては手狭に過ぎる事を問題視しており、その答えを求めた結果が東側に隣接する緩斜面上の雑木林だ。神社の境内には土塁の残欠様の高まりが見られる他、雑木林の外縁部にも土塁様の土の高まりが見られる。後世の改変の可能性が高いが気にはなる代物だ。他に遺構らしきものは確認出来ない。ちなみに雑木林は夏場だったら入る気が失せると思う。


該地は「いいづなリゾートスキー場」、「飯綱高原スキー場」で有名な飯綱高原の一部である。高原は標高1917.3mの飯縄山の裾野でもあり、同山は小菅山、戸隠山と共に奥信濃三山と称される修験道の霊山の一つである。歴史的には旧石器時代後期から縄文時代初期の遺跡が点在する地域であり、むしろ人の定住は高原から始まり、環境の変化に伴い後に低地へ移動したものと考えられている。又、戸隠古道の一部が通る他、戸隠神社の一の鳥居は高原内に建つ。城廻りが一段落したら新城発見の野望を胸に秘めつつ信濃の中世古道をゆっくりと全て歩いて廻りたいな等と考えているんだけど、戸隠神社一の鳥居から戸隠神社奥社までの距離でさえ約12.5km…行動に移すには相当な覚悟が必要だなぁ…

2024年01月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
頼朝山砦[葛山城  周辺城郭]



頼朝山砦は葛山城の南方約0.7km、標高644mの頼朝山(八幡山)に立地する砦です。南麓の裾花川からの比高は250m位でしょか。善光寺から戸隠神社に至る戸隠古道は三筋あり、頼朝山の中段を通る道筋はその内二筋の重複区間である。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。葛山南面中腹に建つ浄土宗の寺院、静松寺が登山道入口となる筈…おいらはこのルートを選んでないけど、お寺さんに車を捨てたら5分位で辿り着けると思う。

頼朝山は前述の静松寺の由来によると、征夷大将軍源頼朝が建久八年(西暦1197年)に善光寺へ参詣した際に、以前源氏再興のため諸国遍歴の途中、この寺で没した家臣の菩提を弔うために、寺に田地山林を寄進しみずから「頼朝山法性浄院静松寺」と名づけた…とあるそうで、将軍自らがお寺さんに寄進した由緒あるお山なんだそう。おいらが当時の住職だったら、「こんなもん寄進されてもなぁ…」みたいな感じにはなると思うんだけど、他に寺領として田莆も寄進されてる筈なんで安心してつかぁさい。

八幡山とも呼ばれる訳だが、かつて静松寺の鎮守社として八幡宮が鎮座していた。昭和十三年(西暦1938年)に社は焼失し、現在は巨石上に石祠が残るのみである。弘化年間(西暦1845年〜1848年)には八代松代藩主、真田幸貫が鬼門除の守護社として祭祀したそうで、別に鎮護峰とも呼ばれるらしい。

「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に掲載がある。頼朝山を中世の砦跡とする認識は「長野市史」に書かれるのみらしく、史料、伝承等を欠き、本当にそうだったのかは確証が得られないようだ。又、最も問題なのは該地に鎮座していた八幡宮の創建年が不明な事、あんまし頑張って調べてないけど、これによって見方が大きく変わってしまうと思う。

砦の現況は…土檀様の主郭とその下段に半周する腰郭を持つだけの単純な縄張、葛山に至る主郭からの北側尾根には堀切が2条残るとされるが、現況、この段差を遺構と判断するのは非常に難しくなっている。この堀切、見える人には土橋まで見えるらしいんだけど、眼を凝らしてもそんなもん何処にも見当たらない。又、葛山と頼朝山を隔てる鞍部には見事なまでの竪堀様地形が確認出来るが、まぁ違うやろ…静松寺へ通じる古い道筋に付く尾根の乗り越し、八幡宮への参道の一つであったと考える。

砦感は十分だし、旭山城を覗くには最良の場所、葛山城の支砦としても機能するが、今に残る遺構っぽいものの全て砦の普請と判断する事も難しいだろう。但し、葛山城を攻めるならば無視出来ない地勢にあるのも事実、頼朝山に兵を入れたとする推測については異議を差し挟まない。葛山城の水の手は静松寺の旧地に求められていたともされるので重要な場所である。

色物物件の一つだけど、おいらはそれなりに楽しめた。葛山の下段故に展望は限定されるが、旭山城の動きは逆に手に取るように見える。中二病的に葛山城籠城衆の一人として往時の雰囲気を味わおう。葛山城攻めの取り付きは正にこの頼朝山だったのかもしれない。

※山城好きにとっては単独目標に成り難い物件、葛山城との比高差は175m位にもなるので、車をデポしていなければ同時リア攻めが非常に面倒、葛山城のリア攻めを終えたら駐車場所に戻り、改めて前述のルートで登るのが正解だ。

※写真③に映る東屋は「頼朝亭」…一つも心休まらねぃ…

2024年01月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
葛山城



〜葛山城攻城編〜

該地は長野県長野市鑪(たたら)に位置し、古代には水内郡芋井郷の一部と推測され、平安時代には水内郡広瀬荘に属する「田々良之郷」に含まれる。「承久の乱」の後には経緯不明なるも佐久郡落合から滋野氏系落合氏が同荘に入部した。鎌倉幕府の有力御家人、滋野姓海野氏は幸氏の代に至ると信濃各地に一族を分派、急速に勢力を拡大させるが、他の滋野氏系諸氏と同様に広瀬荘、もしくはその一部に地頭職を得たものと推測される(家譜等諸説有り。)。落合氏は同荘内に上野氏、桜氏、鑪氏、立岩氏等を輩出、一族は「葛山衆」、「山一族衆」等と呼ばれる事になる。

葛山城の築城はこの落合氏によるものとされるが、縄張から判断するに甲越が争った時期の改修、拡張が明らかである。天文二十四年〔西暦1555年)、旭山城に対する付城として長尾勢が普請に及んだものとの推測はほぼ疑いが無いだろう。同時に葛山衆等が御詰の着到まで籠城する要害でもあった筈だ。

弘治三年〔西暦1557年)二月、武田勢による葛山城攻めの実際は、静松寺を通じた調略を除けば一次史料を欠きその詳細は不明である。但し、伝えられているもの等を検証すれば、一族の離反(静松寺宛、武田晴信書状によれば、落合遠江守、落合三郎衛門尉の両名が調略により同心している。)があった事、同城が水の手に窮した事、焼き討ちされた事については同じである。葛山南面中腹の静松寺が焼亡し、倉跡から焼米が出土するとの伝承はその裏付けになるのだろうか。又、合力した滋野姓海野氏系小田切氏当主、小田切駿河守幸長もこの際に討死、弘治三年〔西暦1557年)三月廿日、室賀兵部太輔宛、武田晴信感状には、室賀兵部太輔〔経俊)の被官、清兵衛が小田切駿河守を討ち取った旨が記され、「於信州水内郡葛山之城」と明記される。又、感状からは落城日が二月十五日であった事が窺える。籠城方にとって越後からの後詰は当初から期待出来ない状況にあった訳だ。

お城は葛山山頂の主郭を中心に東西北、三方の山尾根に縄張が展開する。主郭からの北側尾根は段郭群、要所に堀切と竪堀も見られるが総じて熊笹藪に埋もれ気味、確認不可能なものさえある。西側尾根は3郭で構成される広めの郭群、細かな小郭が段郭状に腰郭として付くが不明瞭なものが大多数を占めている。主郭とを隔てるのは二重堀切+堀切だ。最も濃い遺構が残るのは東側尾根、見方にもよるが、主郭から二重堀切、三重堀切と続き、高低差の無い同一面には四重の畝状阻塞が設けられている。これ等が連続する有様は正に圧巻の光景だ。但し、よく解らないのが四重の畝状阻塞で、恐らくは元々が削平された郭であった筈…畝状阻塞は多重の堀切とも呼べるものだが、腰郭様の平場が下段に付いてしまっている。横矢を受けるが畝状阻塞を通らなくても一向に構わないような気がする。

城域内、他の部分に付く堀切や竪堀、畝状竪堀は埋まり気味のものも多いのも事実、それでも主郭周りの遺構だけで見る者を十分満足させてくれるだろう。境目のお城には緊張感が満ち溢れている。又、前回訪ねた時よりも整備範囲が拡大されているようにも思える。畝状阻塞の熊笹藪には刈り取られた痕跡が積雪から垣間見れた。

おいらは雪の山城が大好きだけど、別に変わった事をしたいて訳じゃなく、見たいものを見てみたい…て欲求がその根底にある。想像を遥かに超える時もあれば、積雪が酷過ぎて「なんじゃこりゃ…」みたいな時も当然ある。この辺の塩梅は自然界との戦いなので実際に現地に赴いてなんぼのもの…一か八かでもあるんだけど葛山城なら賭けてみる価値は十分にある。

2024年01月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
葛山城



〜葛山城登城編〜

さて、今回の口コミはアプリの登録城、葛山城っす。当日は積雪のために別物件を諦め、何処に行こうか悩んだ末に選んだのがこのお城、比較的名が知られていると思うんだけど、写真投稿数は現在のところ92枚、信濃の山城はやっぱし敬遠されてんのかな…登城は楽な方だと思うし、みんな大好き鬼美濃が落城させたお城でもある。未見の方には是非訪ねて頂きたい山城だ。

葛山城は標高812mの葛山山頂部を中心に立地する要害です。北麓の「葛山城跡駐車場」からの比高は155m位でしょか。葛山南面中腹、「古屋敷」地籍は浄土宗の寺院、静松寺の故地(兵火により焼失)でもあり、現在地のお寺さんには葛山城城主、落合備中守の位牌、「清浄院殿光山勇仙大居士備中守」が納められている。ちなみに城攻めに至る直接の発端は、武田勢が静松寺を通じて調略を進め、城主一族間の切り崩しを図った事による。故に同寺の住職は葛山に登ると狂死するて伝承が生まれている。

行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「葛山城跡駐車場」を目標に設定して下さい。車を捨てたら案内板に従って登るだけ、登城路がしっかりと付いている。但し、遺構の一部はこの為に削り取られてもいる。城域の探索も楽な部類に入ると思うが、全縄張の確認には季節を選ぶし一部は諦めざるを得ない。

今回のおいらは贅沢なリア攻めを行なった。なんせ積雪、路面凍結で駐車場まで車がちゃんと入れるか不安だったからだ。よってタクシーを使って行ける所まで進み、そこからは登城路入口までを歩く事にした。帰りは葛山東方下段の頼朝山を経て戸隠古道を下りて新諏訪町へ抜ける計画を立てる。ちなみに逆パターンで登ると距離は倍増、比高は375m位になるので推奨しない。

案の定、タクシーは路面凍結のため約1.0kmを残して進めなくなる。財布から万札を渡し、「釣りは要らないよ。」等と言ったかどうかは知らんけど、此処まで運んでくれただけでもありがたい。降車場所の少し先には色物物件もあるんで丁度良かったりもする。

当日、こんな苦労してまで訪ねたかったのには理由がある。どうしても積雪の葛山城を経験したかったからだ。このお城を知っている人には理解出来るだろう。最も肝心な遺構の部分が熊笹藪で覆われている山城なのだ。つまりは熊笹が積雪で寝ている事を期待した訳だ。アプリの城郭写真には城友さんの見事な畝状阻塞の写真が投稿されているが、これを撮るためにどれだけの苦労をしたのかが痛い程に理解出来る。

積雪は20cm位、一昨日降った雪はパウダースノーで登城はむしろ快適だった。但し、積雪の下は落葉であり、踏み固められていない雪は時折ぷち表層雪崩を引き起こす。お陰様で股関節が今もちょと痛い。登城のご褒美は主郭からの展望だ。アプリの登録城、旭山城は勿論、周辺諸城多数を視界に収め、眺望すれば海津城をも眼下に収める。天候が良ければ旭山城の堀切さえ確認出来るだろう。裾花川に遮られているとはいえ、武田勢と長尾勢は極く至近で対峙していたて事を改めて実感する。

五度に及ぶ「川中島の戦い」の様相を理解するには机上では不可能である。周辺にはそれこそ要害が連続する。長尾勢は度々長躯して武田氏支配領域の奥深くまで軍勢を進めているが、これ等がその都度どんな役割を果たしていたのかは常に疑問となる。想像するに決戦を避ける武田勢が採る方策は無人とする事(在番衆として拠点城に出仕する。)だったろう。最終的な川中島の確保こそが常に問題であり、大勢力にとって小勢しか籠もれず籠城期間も限定される山地の要害は既に陳腐化しつつある。事実、後に善光寺平の支配に選ばれたのは平城である海津城である。武田氏の信濃における拠点城を今一度思い浮かべよう。高遠城、深志城、岡城、海津城、長沼城等々…全て山地を避けている。甲州流築城術てもんがあるのか知らんけど、近世に繋がる築城技術のエポックメイキングな発露と発達は平地の要害にこそ求められるもんだと考える。

※深志城代、馬場民部少輔信房が牧城(アプリの登録城、牧之島城の前身である。)に入ったのは弘治二年(西暦1556年)、葛山城の落城はその翌年である。しっかり仕事をする人、信頼されて当たり前だ。但し、率いた人数一万七千は極めて不審、誇張だろう。

※写真①は葛山城から撮影した葛山城のリア攻めマップにある大峰城、葛山城の失陥により一時期において重要となる。

※写真④は葛山東方下段、頼朝山山頂部から撮影した旭山城、東麓から見た山稜とは別物に感じる。スーパー拡大すれば堀切が見えるかも…

2022年10月14日 左近衛少将軍曹
桝形城[葛山城  周辺城郭]

善光寺の裏山で地附山公園の北側をある山城。西に大峰城、葛山城が連なる。道路は地滑りで廃道となっているが通行可。むしろ車が通らないので快適だった。遺構は完全な状態で残り案内板もあり。歴史は不明ながら川中島の戦いに関連した城か。

2022年04月25日 ソウタニア
葛山城

静松寺方面からの登城ルートが分かりにくいため補記します。静松寺(右下り)といつくしみ観音(左上り)の分岐はいつくしみ観音の方に進み、道なりに果樹園の脇を上っていきます。

観音様から300mほど進むと舗装された道(左)と山道(右)の分岐(トレイルラン用(?)の番号が表示された杭あり)があり、その山道が登城ルートです。
※舗装道路は100mほど先で行き止まりになります。
登城ルート自体は整備されており、とても上りやすいので初心者の方にもお勧めです。

2021年06月14日 pika北見守
葛山城



往生寺から観音山経由で登りました。スタート地点からすぐのところで倒木のためコースが塞がれてました。回り込んで進みましたが、所々倒木がありました。山に慣れていない方にはお勧めできない状況でした。葛山から頼朝山経由で下山しましたが、こちらは全く問題なしでした。

2021年05月15日 おかっぴき
葛山城



葛山城は長野市指定史跡
説明板と石碑が主郭にある。
駐車場はあるが、良く見ておかないと駐車場を通り過ぎてしまうので気をつけたい。
駐車場から20分もあれば主郭に到着出来る。合わせて旭山城もセットで行くと良いです。

2019年05月27日 龍馬太閤【懸り乱れ龍Z】
葛山城



主郭東側・連続堀切☆連続堀切は全部で7本☆東側は防御の構えで構築☆築城主は上杉謙信様☆対岸にある旭山城を睨む☆写真は全て連続堀切☆奥に行くに連れ笹に覆われる☆

2019年05月26日 龍馬太閤【懸り乱れ龍Z】
葛山城



主郭下・五郭より連なる段郭(白い部分が削平地の郭)☆武田信玄様方の粟田氏が旭山城に籠城☆付城として上杉謙信様が築く☆川中島の合戦の際に両雄が対峙する☆大分藪が迫って来てますw

2018年10月09日 カデル織部正
葛山城

長野市善光寺西側から七曲りを登ります。
荒安(あらやす)の飯綱神社・里宮の鳥居を背にして立つと葛山城がよく見えます。

2018年08月08日 梅鉢近江守Silvine
葛山城

長野市内からR406を西へ、頼朝山トンネル手前を左折し、県道76に入り芋井郵便局を目指します。さらに道を奥へ進むと葛山神社があり、城跡への看板もあって、ここからも登れるようですが、夏場は藪が酷く、道が見えません。
神社を通り過ぎて、さらに道を300mほど行くと葛山城跡の看板があり、右折します。未舗装路ですが、車高の高い車でなら走行可能。600mほどで駐車場の看板のある場所へ着きます。
ここからは徒歩で登山です。上がってすぐは草が生い茂っていますが、少し行くとよく整備された登山道になっています。勾配はやや厳しいですが、登ること20分で主郭に到着します。
この城の最大の見どころは主郭から東の往生寺方面へ少し下ったところにある七重の畝状阻塁でしょう。また主郭西にも大きな二重堀切があり、強固に城を防衛しています。見応えのある遺構でした。

2017年11月07日 カーネル
葛山城

長野駅前のバスセンターから73~79系統に乗車して、茂菅バス停で下車

バスの進行方向に進み、最初の交差点で右折。グネグネ走る舗装路を、アクション映画であるように直線で突っ切る

結構な傾斜を登り、静松寺を目指します
車はここまでこれます。道がよくわからなかったので、お寺のお墓を登り先へ進むと鉄塔の整備道があるので、それを辿るが、鉄塔から先は道がなくなる

そのまま直登し尾根に出ると、道がありました。本丸まで曲輪と堀が連続しており、これらを超えると本丸。バス停から1時間かかりました

帰りは尾根と斜面を下ると、いつくしみ観音入り口の石碑に出ました。ここから登りましょう。本丸までの道はキレイでした

1時間半でバス停に戻りました

葛山城の周辺スポット情報

 桝形城(周辺城郭)

 頼朝山砦(周辺城郭)

 大峰城(周辺城郭)

 立屋城(古城)(周辺城郭)

 広瀬氏館(城山)(周辺城郭)

 北郷本城(城山・向山)(周辺城郭)

 北郷古城(城・城の山)(周辺城郭)

 上の平 城の腰砦(城岩)(周辺城郭)

 上の平 鈴木三郎屋敷(法泉房)(周辺城郭)

 鑪葛山神社館(落合氏館)(周辺城郭)

 荒安 仁科氏屋敷(周辺城郭)

 霊山寺(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 葛山城駐車場入口(その他)

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