葛山城(かつらやまじょう)
葛山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長野県長野市鑪葛山244他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 室町時代
主な改修者
- 落合氏
主な城主
- 落合氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
旭山城(長野県長野市)[1.9km]
横山城(長野県長野市)[2.5km]
若槻山城(長野県長野市)[5.1km]
吉窪城(長野県長野市)[6.4km]
髻山城(長野県長野市)[8.8km]
福平城(長野県長野市)[9.4km]
長沼城(長野県長野市)[9.7km]
霞城(長野県長野市)[9.8km]
横田城(長野県長野市)[10.9km]
井上城(長野県須坂市)[11.3km]
葛山城の解説文
[引用元:Wikipedia「葛山城」の項目]葛山城(かつらやまじょう)は信濃国水内郡長野村葛山(現・長野県長野市鑪)にあった日本の城。山城。長野市指定史跡。
【概要】
天文24年(1555年)、武田晴信に帰順した栗田氏が旭山城に籠城したため、付城として長尾景虎が裾花川対岸のこの山上に築いた。
弘治3年(1557年)、武田氏により攻略された。真田幸隆の調略により、葛山城中腹の静松寺を通じて落合一族の落合遠江守、落合三郎左衛門尉が寝返った。また、水の手などを切られ馬場信春らの攻撃で城は落城。城将落合治吉(落合備中守)、援軍の将として入城していた小田切駿河守幸長は戦死した。武田軍のあげた城兵の首は夥しい数にのぼり、落城する火勢の中で逃げ場を失った女達は峯の上から北側の谷に身を投げ全滅したと伝えられる。 落城が伝えられた長沼城の島津月下斎は北の大倉城に難を避け、戸隠山の人々も武田側と上杉方とに分裂し多くが遠く越後に逃れた。
籠城戦では水に苦労した城だけあって、米で馬を洗う水に見せかけたという白米伝説が残っている。
また、今でも落城の際の焼米が出土するという。
【参考文献】
・南原公平 著『信州の城と古城』 しなのき書房 2009年[続きを見る]
葛山城の口コミ情報
2019年05月27日 龍馬太閤【備中の麒麟】
葛山城
主郭東側・連続堀切☆連続堀切は全部で7本☆東側は防御の構えで構築☆築城主は上杉謙信様☆対岸にある旭山城を睨む☆写真は全て連続堀切☆奥に行くに連れ笹に覆われる☆
2019年05月26日 龍馬太閤【備中の麒麟】
葛山城
主郭下・五郭より連なる段郭(白い部分が削平地の郭)☆武田信玄様方の粟田氏が旭山城に籠城☆付城として上杉謙信様が築く☆川中島の合戦の際に両雄が対峙する☆大分藪が迫って来てますw
2018年10月09日 カデル織部正
葛山城
長野市善光寺西側から七曲りを登ります。
荒安(あらやす)の飯綱神社・里宮の鳥居を背にして立つと葛山城がよく見えます。
2018年08月08日 近江守Silvine
葛山城
長野市内からR406を西へ、頼朝山トンネル手前を左折し、県道76に入り芋井郵便局を目指します。さらに道を奥へ進むと葛山神社があり、城跡への看板もあって、ここからも登れるようですが、夏場は藪が酷く、道が見えません。
神社を通り過ぎて、さらに道を300mほど行くと葛山城跡の看板があり、右折します。未舗装路ですが、車高の高い車でなら走行可能。600mほどで駐車場の看板のある場所へ着きます。
ここからは徒歩で登山です。上がってすぐは草が生い茂っていますが、少し行くとよく整備された登山道になっています。勾配はやや厳しいですが、登ること20分で主郭に到着します。
この城の最大の見どころは主郭から東の往生寺方面へ少し下ったところにある七重の畝状阻塁でしょう。また主郭西にも大きな二重堀切があり、強固に城を防衛しています。見応えのある遺構でした。
2017年11月07日 カーネル
葛山城
長野駅前のバスセンターから73~79系統に乗車して、茂菅バス停で下車
バスの進行方向に進み、最初の交差点で右折。グネグネ走る舗装路を、アクション映画であるように直線で突っ切る
結構な傾斜を登り、静松寺を目指します
車はここまでこれます。道がよくわからなかったので、お寺のお墓を登り先へ進むと鉄塔の整備道があるので、それを辿るが、鉄塔から先は道がなくなる
そのまま直登し尾根に出ると、道がありました。本丸まで曲輪と堀が連続しており、これらを超えると本丸。バス停から1時間かかりました
帰りは尾根と斜面を下ると、いつくしみ観音入り口の石碑に出ました。ここから登りましょう。本丸までの道はキレイでした
1時間半でバス停に戻りました