井上城(いのうえじょう)

井上城の基本情報

通称・別名

井上氏城、小口山城

所在地

長野県須坂市井上御堀2474他

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

井上氏

築城年

室町時代

主な改修者

主な城主

井上氏

廃城年

遺構

曲輪、堀切、横堀(空堀)

指定文化財

県史跡(井上氏城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

長沼城(長野県長野市)[6.2km]
霞城(長野県長野市)[6.4km]
福島正則館(長野県上高井郡)[7.4km]
尼厳城(長野県長野市)[8.0km]
横山城(長野県長野市)[8.8km]
若槻山城(長野県長野市)[9.8km]
松代城(長野県長野市)[10.3km]
髻山城(長野県長野市)[10.8km]
旭山城(長野県長野市)[10.9km]
葛山城(長野県長野市)[11.3km]

井上城の解説文



井上城(いのうえじょう)は、長野県須坂市にあった日本の城。この地方の豪族信濃源氏井上氏の城である。

概要 

井上城は、妙徳山の麓の城館と、詰めの城として妙徳山に築かれた山城(大城、小城)から構成される。戦国時代、井上清政、井上達満は上杉氏に味方し、武田氏に味方した同族の須田信頼らと争った。武田氏によりこの地を追われたが、天正10年(1582年)に上杉景勝が川中島を領有したため、旧領に復帰した。慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に移封されると、達満も会津に移住し、城は廃城となった。

大城は標高523メートルに位置し、縦25メートル、横15メートルの本郭を中心に階段状に帯郭を配した梯郭式山城で、小城は縦10メートル、横8メートルの本郭を中心に大城と同一の縄張りで構築されている。

参考文献 

  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書3』 1993年

井上城の口コミ情報

2025年05月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
高梨氏館(関山国師伝承地)[井上城  周辺城郭]



さて、信濃のお城の神は色物物件も丁寧に自著に掲載してるんだけど、度を過ぎまくった色物物件の事をおいらは踏み絵物件と呼んでいる。はっきり言ってノーマルな方は訪ねる必要性が微塵も無い。が、信者は神の辿った軌跡を自らの事として追い求めたがるもんだ。たとえ不毛な結果に終わったとしても構わないのさ。そう、求道者の心持ちだ。

高梨氏館(関山国師伝承地)は井上城の北方3.2km、千曲川東岸(右岸)、標高約336mの平野部平場に立地したと推測される居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「関山国師伝承地」を目標に設定して下さい。車も余裕で捨てられるんだけど、高梨の小字が残るこの辺が該地だ…としか言えんわ…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは高梨氏です…なんだけどとりま以下を参照してくらさいな。

まず、逆説的に高梨氏最初の居館地であったと推測されている。別称には「関山国師伝承地」てあるんだけど、これは該地が、関山国師、即ち、鎌倉時代後期から南北朝時代中期にかけての名僧、関山慧玄の出生地だと伝承されているからだ。慧玄はその半生を語りたがらない人物だった事から他の高僧に比して伝えられている事跡が殆ど無いらしいが、その出自だけははっきりしており、当人は高梨氏の人間である。つまりは、高梨氏の子として産まれた慧玄の出生地は、即ち、高梨氏の居館地でもあろうていうのが推測の根拠となっている。

該地を特定する事が不可能である。推測される伝承地は確かなものとは言えず。それこそ高梨の地名が残る場所は全て比定地に該当されると考えても決して行き過ぎではないだろう。個人的には、高梨氏初代、七郎盛光による創建と伝わる高梨神社の付近一帯を推したいが…

周辺地域は後世の改変が著しい場所であり、往時の地形は完全に失われている。城郭遺構を確認出来る筈も無く、地字も残っていない以上、探索する手立てすら無い。

付近一帯を歩き廻ってみたんだけど成果無く徒労に終わる。しょうがないので「関山国師聖誕地」て刻まれた石碑を写真に収めて陣払い。説明板も立ってるんだけど、板が銀板で写真においらの立ち姿がぼやけて写り込む…最近、プロダクションから肖像権についてのお話しがあったばかりなので投稿すんのはパスしとく。代わりに縄張図?における中心地に建つビニールハウス群の写真でもどうぞ…

門外漢だけど、関山慧玄について簡単に調べていたら仏教界の超ビッグネームだった。臨済宗妙心寺派の寺院、大本山妙心寺を開山したのはこの御方、明治四十二年(西暦1909年)四月には、明治天皇から無相大師号を追謚されてもいる。生活は極めて質素、禅風は厳格、生死の大事を問う僧を棒で叩いて追い返した逸話が伝えられている。何だか妙心寺を訪ねてみたくなったぜ。

※不毛な結果に終わったとしても構わない〜最近じゃ、「おいおい、こりかょ…」みたいな感じを楽しんでいる。

※高梨氏の人間〜高梨氏の一族、高家の子か孫と伝わる。

※中心地に建つビニールハウス群〜想像を逞しくすれば三重堀切に見えるかも…もう廃人だわ…

2025年05月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
綿内の井上氏館[井上城  周辺城郭]



綿内の井上氏館は井上城の西南西約1.2km、千曲川東岸(右岸)、標高約338mの平野部平場に立地した居館です。簡単に言えば、井上城の西南麓、同じ井上城のリア攻めマップにある春山城の北麓に当たり、春山城は居館の主の要害と推測されている。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は隣接する、同じく位置登録がある「小内神社」の境内に捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは綿内(小柳・亘理)井上氏です。同氏は清和源氏頼季流井上氏の庶流家、時代不明なるも水内郡小柳郷を最初として高井郡亘理郷へ進出した有力な一家である。

井上氏は同族の自立傾向と相まって惣領制に基づく武士団の形成が遅れていた事が指摘されているが、室町時代には惣領家を主体として綿内井上氏がその一翼を担うようになった。綿内は、善光寺平、川中島における有数の穀倉地帯でもある。

「諏訪御符禮之古書」、宝徳四年(西暦1452年)壬申の条には、「一 直(亘)里井上出羽守政満御符之禮三貫三百文御教書三貫三百代官吉田能登守高秀」、享徳三年(西暦1454年)甲戌の条には、「一 小柳五月會御符之禮三貫三百文使一貫文稲田道椿」、長禄三年(西暦1459年)己卯五月會の条には、「一 賀頭小柳井上出羽守政満御符之禮三貫三百文使一貫文御教書禮同前頭役二十貫文」、長禄三年(西暦1459年)己卯御射山の条には、「一 直(亘)里井上出羽守政満御符之禮三貫三百文御教書同前出羽守政満長禄四年(西暦1460年)卯月死去頭役二十貫」、寛正五年(西暦1464年)甲申五月會の条には、「一 流鏑馬直(亘)里井上出羽守御符之禮三貫三百文御鉾本一貫三百路銭一貫同前御教書之禮如各御符頭役二十貫」、「一 加頭小柳稲田豊後守入道道椿御符之禮五貫六百御鉾本一貫三百路銭同前御教書之禮如各御符之時也使彌五郎頭役二十一貫」、應仁三年(西暦1469年)己丑花會の条には、「一 宮頭小柳井上信濃守政満御符之禮三貫三百文御教書同前使三郎御頭役二十貫」、應仁三年己丑五月會の条には、「一 右頭直(亘)里馬場信家御符之禮三貫三百三十三文御教書使孫六頭役二十貫」、文明七年(西暦1475年)乙未花會明年御頭定には、「一 加頭花會小柳井上代官稲田筑前守満重御符禮三貫三百三十六文使曾次二郎御符上御教書禮同前三貫三百頭役二十貫」、五月會明年御頭定文明七年乙未には、「左頭直(亘)里井上信濃守政清代初代官は助二郎御符禮三貫三百三十六文使曾次二郎御符上御教書禮同前三貫三百頭役二十貫」、文明十一年(西暦1479年)己亥五月會明年御頭定には、「一 五月會加頭小柳木井上信濃守政満御符祝三貫三百三十三文使四郎殿御教書祝同前頭役二拾貫」、文明十二年(西暦1480年)庚子明年花會御頭定には、「一 加頭直(亘)里井上信濃守政満御符禮三貫三百卅三文使四郎殿頭役二拾貫」、文明十六年(西暦1484年)甲辰花會明年御頭定には、「一 前宮頭小柳代官稲田大炊助義重御符禮三貫三百孫六」、文明十七年(西暦1485年)乙己花會明年頭番役事には、「一 花會直(亘)里代官駒村犬井安行御符禮三貫三百三十三文孫六」、長享三年(西暦1489年)己酉花會明年御頭定には、「一 前宮小柳御符禮三貫三百三十三文代官梨本丹後守満國使孫六」とあり、室町時代の後期には、小柳、亘理の両郷は、井上出羽守政満が知行し、その死去後には井上信濃守政満(同名だが…後に見える政清が正しいか。)が相伝していた事が判る。又、井上姓でない個人名は使いの者を除けば代官である。

武田氏の信濃経略によって井上氏は二分、惣領家は上杉氏に随身したが、綿内井上氏は武田氏に従っている。弘治貳年(西暦1556年)六月二日、井上左衛門尉宛、武田晴信宛行状案には、「綿内領之内、隠居免三百五拾貫文之所進置候、恐々謹言、」とあり、武田晴信は、井上左衛門尉に、綿内の内から三百五拾貫文を隠居領として宛行っている。又、後を継いだのは井上出羽守満直であった事が別書状から確認出来る。

居館の現況は…耕作地、果樹園、一般住宅とその敷地等となっており、城郭遺構としては西辺と北辺に幅員のある堀形が残っている。周辺には、塵埃を捨てたと伝えられる「芥捨場」の小名、別に「化粧堰」と呼ばれる用水路も残っている。ちなみに新しい説明板が立っているが、その場所は居館敷地外、別区画となっている。

別の口コミで井上氏はおいらにとって特別な存在だと書いたけど、最も特別な存在がこの綿内井上氏だ。

※写真はそこら辺の畑地と果樹園の写真だと思って見てくらさい。生真面目なおいらは41枚撮ってるw

※今回の口コミ書いてて老眼が一挙に進行した気がする。地方史は一次史料、第一級史料との格闘だ。

2025年05月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
井上氏墳墓[井上城  寺社・史跡]



井上氏墳墓は井上城の西北西約0.9km、鮎川南岸(左岸)、標高約359mの平野部平場に立地する墓所です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられる。

清和源氏頼季流の井上氏の墓所となる。同氏については同じ井上城のリア攻めマップにある井上氏居館も併せて参照してくらさい。以下はその続きである。

源頼朝によって当主が誅殺され、鎌倉時代には閉塞を余儀無くされた井上氏だが、断片的な史料しか残されておらず、はっきりとした事跡にあっては体系的に語る事が難しい。南北朝時代にはその傾向が更に顕著となり、史料となると皆無に等しくなる。「観応の擾乱」の際には直義方に与した事が判っているが、同族の須田氏、高梨氏は尊氏方として活動している。

応永七年(西暦1400年)七月の「大塔合戦」の際には、反守護方として井上左馬頭光頼が、舎弟の遠江守、万年、小柳、布野、中俣等の一族、もしくは被官衆を引率し、須田伊豆守、島津刑部少輔(国忠)を従えた総勢、五百騎余を以て参陣、篠ノ井二ツ柳に張陣している。光頼が引率した各諸氏の姓は何れも在名から取られているが、これを見るとその地名は千曲川の両岸に及んでおり、善光寺平への勢力の伸長が確認出来る。特に布野には古来から同川の渡し場が設けられており、善光寺と高井郡とを一直線に結ぶ中道は布野の渡しで千曲川を渡る。

永享十二年(西暦1440年)の「結城合戦」における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「四番 井上殿」、「六番 井上彦四郎殿」とあり、惣領家と庶流家がそれぞれ参陣している。又、別に、「九番 栗田殿代井上孫次郎殿」とあり、井上氏は戸隠別当でもあった栗田氏の代官を輩出していた事も判り、孫次郎は栗田殿の代(理)として参陣している。

「諏訪御符禮之古書」を見ると、室町時代後期における井上氏の所領実態が克明に記録されており、この頃には高井郡のみならず、善光寺平の幾つかの諸郷に代官支配を実現させていた事が判る。又、本拠の井上郷は、井上十六郷、即ち、井上庄との認識も別にあり、その範囲は、井上、宇原、小坂、九反田、幸高、塩野、仙仁、栃倉、中島、仁礼、野辺、灰野、八町、福島、村山、米持等の広域が推測され、現在も多くの地名が小字としてそのまま残っている。

その一方で、鎌倉時代には既に自立の傾向が見られる、同族の須田氏、高梨氏の台頭も著しかった。応永七年に井上氏が差配していた布野は、康正年間(西暦1455年〜1457年)には大岩須田氏の為国が知行し、文明十一年(西暦1479年)には須田氏惣領家の満信が知行している。

「諏訪御符禮之古書」、寛正七年(西暦1466年)丙戌花會の条には、「一 山田(高井郡)井上安芸守満貞御射山と申候此年死去候御符之禮一貫八百文此年村上方と依弓矢御射(符)お取返申候御頭役七貫文高梨殿より御沙汰候」とあり、高井郡山田を知行する井上安芸守満貞が、此年に村上氏と合戦に及び同年に死去(討死だろう。)、御符の礼銭、一貫八百文を取り返した。頭役の七貫文については高梨殿が負担するとの御沙汰があったと言っている。

又、同書には、「同五月廿三日、井上方ト須田(雅政)弓矢出来之間、御符入候須田郷中江寄来候伝々、井上方打負多打死候、」とあり、應仁二年(西暦1468年)五月廿三日、井上氏と須田雅政が合戦に及び、井上勢が打ち負け、多数が討死したと言っている。

同じく同書、應仁三年(西暦1469年)己丑花會の条には、「一 宮頭狩田(雁田)高梨政高御符禮五貫六百文御教書同前代官原貞成使孫六神鷹神馬代三貫文井上依弓矢狩田不作候へ共如此沙汰候御頭役五拾貫」とあり、原貞成が代官を務める高梨政高の知行地、狩田(雁田)に井上勢が打ち入って合戦に及び、狩田は不作になったと言っている。

墓所は周辺地域から出土した五輪の集積である。井上氏本来の墓所は、井上氏の祈願所である大日堂の付近が推測されており、残石の多くは此処から運び出されたらしい。深く頭を垂れて五円とルー◯インホテルで貰ったサービスコインをそっと置いておく…使うのすっかり忘れていたからだ。

※南北朝時代〜同族の仁礼(楡井)氏は南朝方に与し、長きに亘る、大隈、日向、両国における活躍で知られている。アプリの登録城、志布志城の松尾城に建つ石碑は、この楡井氏の当主、頼仲の顕彰碑(明治時代における南朝正統論によるものかな。)だ。見た時には感動のあまり男泣きしたわ。

※写真①、背景の山稜が同じ井上城のリア攻めマップにある井上氏の要害、竹の城、たぶん館の城の転化だと思う。

※大日堂〜同じ井上城のリア攻めマップにスポット登録して写真だけ置いておく。

2025年05月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
井上氏居館[井上城  周辺城郭]



井上氏居館は井上城の北方約0.6km、鮎川南岸(左岸)、標高約348mの平野部平場に立地した居館です。簡単に言えば、井上城の北麓、耕作地帯の中の果樹園の一角が該地だ。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは井上氏です。同氏は清和源氏頼季流であり、源(多田)満仲の三男にして河内源氏の祖、頼信の三男、頼季を祖としている。乱世も極まると出自のはっきりとしない(怪しい…)輩が増えてくるが、井上氏はまごうことなき源氏の名門、信濃源氏の代表格として遇された時期もある。

高井郡井上郷を本拠に国人領主として発展していった井上氏だが、長久年間(西暦1040年〜1044年)には、頼季(井上三郎、乙葉三郎)、その子、満実(井上三郎太郎)は既に信濃国に住していたらしい。土着した経緯にあっては不明だが、井上郷と周辺諸郷は荘園に含まれておらず、その殆どが国衛領の内であり、国司、国衛と何らかの繋がりを持った開発領主であったと推測されている。

井上氏は、早い時期から多くの一族を分派させており、満実の子、井上五郎家光を祖とする米持氏、その流れである村山氏を輩出、同じく満実の子、盛光は高梨七郎を称し、義実は須田九郎を称している。他に、桑洞、野辺、芳美、蒔田、八重森等の諸氏があるが、これ等一族はそれぞれが、鮎川と百々川が合流して千曲川に流れ込む扇状地の扇端に位置する地の在名を称しており、古くから開発が始まっていた地域とも重複する。

治承・寿永の乱、治承四年(西暦1180年)九月七日の「市原合戦」の際には、同族、村山氏の七郎義直が、平氏方の笠原平五頼直と干戈を交えている。又、「平家物語」には、井上太郎光盛が、保科(星名)党三百余騎を従えて木曽義仲に与し、治承五年(西暦1181年)六月の「横田河原の戦い」において大きな働きを示した事が記されている。

義仲の敗死後、光盛は源頼朝に従っていたと思われるが、頼朝からは常に警戒視されており、元暦元年(西暦1184年)七月十日、京から鎌倉へ下向中、駿河国蒲原駅において、駿河御家人、吉川氏、船越氏等の手によって甲斐源氏、一条頼忠と共に誅殺された。鎌倉時代における井上氏の衰退はこれが為である。

建治元年(西暦1275年)五月の「六条八幡宮造営注文」には、井上太郎跡(この場合の「跡」は井上太郎の後裔を示す。名が伝わらなかったので便宜上そう呼んでいる。)が三貫文を負担しているが、他の御家人に比してかなりの低額であり、同氏の凋落を物語っている。所領を継いだ者がいた事に間違いが無いとはいえ、建久元年(西暦1190年)十一月、右近衛大将補任の際に上洛する頼朝の隋兵から外される等、その中枢からは完全に遠ざけられた存在となっていた。

誰が井上太郎跡なのかも問題だが、「尊卑分脈」によれば、太郎光盛の甥に当たる矢井守(八重森)太郎忠長が井上氏を相伝したとあり、その子、長直が井上太郎を名乗ったとある。建長二年(西暦1250年)三月一日、幕府は、閑院内裏造営の際の負担を注しているが、この中に、押小路南から油小路西に至る築地十一本の内の一本を負担した井上太郎の名が見られ、同名はこの長直に比定されている。

居館の現況は…果樹園、一般住宅とその敷地等となっている。一般住宅の前には新旧の説明板が2枚立っているので該地の特定も容易だ。敷地範囲は明確であり、南辺には幅員のある堀形の一部が残っている。縄張は単郭方形、形状は正方形に近い長方形だが、西南角は隅切られ裏鬼門除けの入角となっている。ちなみに居館地の南側では過去に発掘調査が行われ、堀跡が検出された他、人骨等が出土している。

該地の南側には更級郡稲荷山を起点として千曲川の右岸地域を北上、高井郡の中野を通って飯山に至る近世の谷街道が、北側には善光寺平と上州とを結ぶ近世の大笹街道がそれぞれ東西に走っている。両道の道筋は近世以前から既に存在しており、特に大笹道は古くから軍勢の通過が多かった道である。現在だと周りの風景に誤魔化されて気付き難いが、井上氏の居館地は両道を扼す交通の要衝に築かれていた事になる訳だ。

この井上氏て数年前からおいらにとっては特別な存在なんすよ。此処を訪ねるのは今回で3回目になるんだけど、故郷に帰って来た様な感覚にも襲われるようになった。暫くは完全に自分の為、生真面目な口コミが続くけどどうか勘弁してね。

※生真面目〜みんな誤解しているけど、本来は凄〜く几帳面で真面目な人だ。付き合いの古い人からは、融通の利かない堅物眼鏡て呼ばれてる。誰も知らんけど。

※写真⑥、背景に写る山稜が標高771.4mの井上山っす。

2024年08月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
福島城[井上城  周辺城郭]



福島城は井上城の北西約2.0km、千曲川東岸(右岸)、標高約337mの平野部平場を中心に立地する要害です。平城なんで比高は0m…

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所はそこら辺でOK♪レベルだ。

該地の福島は交通の要衝である。西方に千曲川の渡し場、布野の渡しを控える他、近世に入ると北国脇往還の脇道、松代道(松代経由で稲荷山と飯山を結ぶ谷街道との重複区間でもある。)が南北に通り、宿駅である福島宿が設けられた。又、大笹街道は、善光寺から布野の渡しで千曲川を渡り、福島を起点として仁礼宿へ抜け、鳥居峠を越えて上野国吾妻郡大笹宿に至るが、この道筋は少なくとも南北朝時代には既に存在している。

築城年代は不明、築城者は須田氏とされ、城主には、須田刑部少輔信頼、その子、左衛門尉信正の名が伝えられている。

須田氏は、清和源氏頼季流、井上満実の子、為実を祖とするとされ、高井郡須田郷を本貫地とし、後には隣接する大岩郷にも勢力を伸長させた。戦国時代に一族は二分し、大岩須田氏(後の海津城城代、上杉氏に重用され、越中表での活躍で知られる須田満親で有名だ。)は上杉氏に従っている。

武田氏に従った須田信頼は、信濃先方衆の一氏として重用された形跡が窺える。福島城はこの時期において高井郡の拠点城となるべく、武田氏の肝煎りで築城された要害だったとも推測されているからだ。

弘治三年(西暦1557年)四月廿一日、色部勝長宛、長尾景虎書状には、「当地至于善光寺令着陣候、従敵方相拘候地利、山田之要害并福嶋之地打明候、除衆悉還住候、先以可御心安候、従方々申来子細も御座候条、早速御著陣待入計候、如何共御動可為祝着候、恐々謹言、」とあり、第三次川中島の戦い、通称、「上野原の戦い」の際、長尾勢が善光寺に着陣する過程において、「山田之要害并福嶋之地」が同勢によって打明られた事が判る。春日山から善光寺に入る長尾勢の通った道筋にも注意されたい。

須田氏は、武田氏の滅亡後、信長の横死後には上杉氏に従っている。天正十一年(西暦1583年)二月九日、廣田勘右衛門尉宛、須田左衛門佐信正寄進状には、「井上領寄進之事 一 井上之郷にて三貫文 一 飯田木鎌にて貳貫文 一 小布施にて弐貫文 一 六河にて弐貫文 一 雁田にて弐貫文 一 西条にて貳貫文 右彼所無相違令寄進者也、仍而如件之、」とあり、須田信正は、井上氏の旧跡の内からそれぞれを伊勢皇大神宮に寄進している。意外にも当時の須田氏の差配する地域が比較的に広大であった事が判る。

天正十二年(西暦1584年)三月廿八日、岩井備中守(信能)宛、上杉景勝書状案には、「封直江(兼続)如注進者、羽尾源六郎、去廿六丸岩之地乗入、仕置堅固申付之由、肝要候、畢竟、須田(信正)、市川(信房)粉骨故与感入候、乍此上、弥両人并吾分入念、彼地持詰候様ニ可相稼事、千言万句候、巨細直江可申越候、謹言、」とあり、上杉景勝は、須田信正と市河信房が、羽尾源六郎を援けて上州の丸岩に乗り入れた事に感じ入り、併せて岩井信能に、「彼地」の詰めを肝要にするよう求めている。両名の行動は吾妻郡へ勢力を伸長させる真田氏への牽制であった。

天正十二年卯月朔日、須田左衛門佐(信正)宛、直江兼続書状案によれば、須田信正は、安曇郡千見の在番を指図されたが、これを不服として「御断」している。

天正十三年(西暦1585年)五月八日、上条入道(宣順)宛、上杉景勝書状案によれば、須田信正は、上条宣順によって真田氏(徳川氏)へ通じた事を理由に成敗された。海津城にて誅されたとも、福島城に籠って討死したとも伝わる。同城はこの際に徹底的に破却されたらしく、既に文禄三年(西暦1594年)の福島村の絵図には跡形も無い。

お城の現況は…跡形も無い。破却された上に後世の耕地整理によって殆ど平らげられてしまっている。若干の微高地が残る程度だが、そもそも論で城域すら不明である。又、該地には、「井戸」、「御天地」、「城」、「仲間分」、「八幡社」、「番小屋」の小字が残っていたらしいが、それが何処になるのかもはっきりしない。ちなみに城跡を示す標柱が立っている。判り難くて通り過ぎたけど…

真田氏の「犬伏の別れ」に見られるように、戦国時代に一族が二分して大局に臨む事は処世の常套手段だった。綿々と続く血筋を繋ぎ、先祖代々の土地を伝領するために一族等は簡単に滅びてはならないのだ。基本的に在地土豪等に国持ち大名への出世や天下を望む野心等は毛頭無いが、近世には見られなくなる泥臭いまでの逞しさがある。意地を貫くのも自分本位、忠義なんて知らんがな。

※安曇郡千見〜仁科城のリア攻めマップにある千見城を指す。嫌がるのも解る気がする。

2022年10月04日 ファン掃部助トム治郎
井上城



長野電鉄日野駅から井上集落まで徒歩小一時間。安養寺の西側に尾根への取付き道があり30分ほどで井上城大城にたどり着く。井上山への稜線から北に浄運寺におりる道ありはじめは急な斜面だがロープあり。浄運寺から井上の里は見どころ多くかつての甲斐源氏の拠り所を感じる。最後に南東にむかって竹の城跡へ入る尾根道を八町の薬師庵へ。井上のさとだけで2時間くらいは楽しめる。

2022年05月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
源太入城(栃倉城)[井上城  周辺城郭]



源太入城(栃倉城)は井上城の東南約4.7km、標高1293.7mの妙徳山から北東へ延びる尾根の一つ、標高約780mのピークの一つに主郭が存します。北東麓の観音寺からの比高は225m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の観音寺を目標に設定して下さい。お寺さんの裏手には林道が延びているのでこれを進み、林道が2回目のヘアピンカーブを描く場所からお城の存する尾根に取り付きます。特に道は付いていないので頑張りましょう、急登ですが藪にはなっていないと思いやす。ちなみにこの林道、獣柵ゲートが設置されていますが、自分で電流柵のターミナルを外して通電を遮断、開放しなくちゃならない。ばちばちに電流が流れているのでどきどきしまくり…こんなん初めて見たわ…任せといてよいのでしょか…

築城年代、築城者は不明ですが、戦国時代にお城の存する栃倉、仁礼は井上氏の支配領域で、武田氏の勢力がこの地域に伸張した永禄五年(西暦1562年)、少輔(須田信頼か。)を寄親とする仁礼衆(衆は半士半農の地侍集団を意味する。)五十人は総計五百貫文の地を与えられました。武田氏が滅亡すると森長可に従わない井上十六騎に上杉氏の直江兼続はそれぞれに持城を構える事を認めており、その中に大狭氏の名が見られ同氏に関係するものと考えられています。又、信長横死後の天正十年(西暦1582年)七月、上杉景勝は須田対馬守等七人に本領安堵していますが、その中にも大狭氏の名が見られます。

お城はコンパクト、急峻な尾根を利用し要所に堀切と竪堀を設けた信濃スタンダードと言えるものです。かずりはこれが大変お好み、いかにも在地土豪の要害て感じ。人が入らない山の中で素敵な堀切に出会う事は何事にも代えられない至福の時間すね。何で源太なのか知らんけど。

隣りの尾根には鷹羽城てやっぱり似たような趣旨を持つお城が存するのですが、妙徳山系山塊には井上氏に関連するお城が複数存在します。ちなみに鷹羽城は苦労対効果が凄まじく酷いお城で誰も行きたがらないです。薄い堀切1条と引き換えに比高約265m、距離にして約1.5kmを頑張れる阿保は是非、凄く暇な時に口コミ作成します。

2022年03月12日 摂政
須田古城[井上城  周辺城郭]

鎌倉時代から戦国時代まで一帯を支配した須田氏築いた城跡です。本拠は本郷にある大岩城とその麓、現在の蓮生寺辺りと推定され、その出城と思われるそうです。

臥竜公園内のぐるっと1周コースやのんびりロマンチックコースが経由します。須坂から長野方面の街並みが一望できます。

少し降りたところには須坂藩堀家墓所があります。時代が変わっても重要な地だったのでしょうね。

2021年06月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
仙仁城[井上城  周辺城郭]



仙仁城(せにじょう)は井上城の東南約6.5km、宇原川と仙仁川に挟まれた標高907mの山塊山頂に主郭が存します。西麓の仙仁温泉岩の湯からの比高は220m位でしょか。

行き方はとりまGoogleマップに位置登録されている西麓の仙仁温泉岩の湯(秘湯として大人気らしいっすね。)を目標に設定して下さい。この温泉から国道406号線を100m位南下した所にパス転回場があり、国道に「峰の原高原あと10km」の案内板が出ていますので、この看板の裏手がお城へ通じる林道の入口となっています。が、パス転回場に車を捨てるとぶっ飛ばされると思うので駐車するなら温泉周辺の駐車場を利用して下さい。

林道入口は藪っていますが少し進めば藪は消えて歩き易いです。この林道を進み送電線の鉄塔整備用保安道に入りNo.60鉄塔を目指します。要所で鉄塔への案内板が立っていますので迷う事は無いでしょう。鉄塔に到着したら南側山側の尾根を少しだけ登れば城域に入ります。

道は比較的緩やかな方だと思いますが、山に分け入る感じで少し怖かったです。というのも令和2年中の7月から8月の短い期間、このお城の半径2km圏内で10件の熊さん目撃情報がありました。そしてその内の3件は正に今歩いているお山だったからです。熊鈴×2+ホイッスルで対応しましたが、自分ホイッスルを吹くと知らぬ間にサンバホイッスルになってしまうのは何故でしょか。

お城は完全単郭の物見台規模の縄張です。しかし気合の入った堀切+竪堀が2条(堀切は合計3条ある。)確認出来るので御の字でしょう。又、主郭には帯郭状の腰郭が付いてます。

築城年代、築城者は不明ですが、室町時代には小笠原氏の一族とされる仙仁氏が城主だったようです。信濃守護小笠原長秀がぼこられた大塔合戦の直前、仙仁朝康が朝廷より駿河守に受領官途を得た事を示す後小松天皇の口宣案が残されており、菅平を経て上州へ抜ける大笹道口(南北に長い信濃は交通の要衝を多く抱える。南北朝時代、室町時代前期には上方と関東の争乱の場、そして緩衝地帯でもあり、後に小規模な国人勢力が独立乱立する一因となる。)を押さえる仙仁氏は守護方として特別の配慮を受けていました。

2021年06月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
城山城[井上城  周辺城郭]



城山城(瀬之脇城)は井上城の東南約5.5km、標高1293.7mの妙徳山から東西に延びる山塊支尾根上、標高約695mのピークの一つに主郭が存します。東麓の国道406号線からの比高は100m位でしょか。

築城年代、築城者は不明ですが、戦国時代にお城の存する高井郡仁礼(にれ)は井上氏の支配領域で、武田氏の勢力がこの地域に伸張した永禄五年(西暦1562年)、少輔(須田信頼か。)を寄親とする仁礼衆(衆は半士半農の地侍集団を意味する。)五十人は総計五百貫文の地を与えられました。武田氏が滅亡すると森長可に従わない井上十六騎に上杉氏の直江兼続はそれぞれに持城を構える事を認めており、その中に大狭氏(お城のある場所に地名が残る。武田氏時代に井上城の支城、竹の城城主と推測される。)の名が見られ同氏に関係するものと考えられています。又、信長横死後の天正十年(西暦1582年)七月、上杉景勝は須田対馬守等7人に本領安堵していますが、その中にも大狭氏の名が見られます。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北麓の高顕寺を目標に設定して下さい。墓地の東側から尾根に取り付けば直ぐに城域に入ります。

お城は物見台規模の縄張ですが、連続堀切と堀切+竪堀で尾根をぶった斬り、主郭は段付きでL字形の土塁が付いてます。小粒ではありますが、きっと見る者の目を楽しませてくれる事でしょう。

南北朝時代、畠山忠顕に従い日向で事跡が見られる楡井頼理、志布志城(松尾城)城主であったその子頼仲は信濃源氏井上氏の庶流と推測され、城山城のある高井郡仁礼の地名を取って名字としました。遠い日向の地で信濃から高僧玉山玄堤を招き大慈寺を開基しその地に眠る当人を思うととても感慨深いものがありますね。

2021年04月13日 赤かぶ【】
城山城[井上城  周辺城郭]



須坂市仁礼にある城山城は別名 瀬之脇城とも呼ばれており高顕寺さんの裏山(南側)に築かれたお城です。

明確な登城口はなく、観音堂から上がるor墓地の左端から尾根に這い上がるみたいな感じです。

今回は墓地の左端から登城しました。まず尾根へ上がるのに薮がひどいく登るのが大変!踏み跡もなく急斜面を直登して行きます。滑りやすいので木々に掴まりながら這い上がって行きます。15~20分ほどで主郭にたどり着きます。
主郭には土塁その背後には二の曲輪との間の大堀切を見ることが♬︎
二の曲輪と三の曲輪の間の堀切はだいぶ埋まってました。
三の曲輪と四の曲輪の間の堀切は明瞭に見れますよ♪
四の曲輪の先はかなり笹薮に覆われており観音堂からの道に出れる事が出来ますが、こちらも道がなく薮まみれになっています。

麓の高顕寺さんには有名な桜があるとの事です。興味のある方は合わせ訪れて見てはいかがでしょうか☀︎
① 登城道
② 主郭土塁
③ 主郭背後の大堀切を下から
④ 主郭背後の大堀切を上から
⑤ 三の曲輪と四の曲輪の間の堀切
⑥ 四の曲輪

2020年12月01日 八咫右近衛中将千織
井上城



浄運寺さんからの登城口は倒木多数の為、通行止でしたが、他にも登城口があるのでそこから登れます。

岩がゴロゴロしている上にかなり急です。一気に登ったら心臓がバクバクでした。

付近には井上氏居館跡、角張屋敷跡、竹の城などあります。

2012年01月25日 赤いRVR甲斐守@松本
井上城

須坂インター東に聳える山城。登城路は麓のお寺横からついていますが、結構急峻。大城と小城とに分かれ、さらに山塊の西端には砦もあります。城の北側には館跡、また井上集落の東には竹の城もあります。見どころ満載の井上地区です。後は行ってのお楽しみ!

井上城の周辺スポット情報

 小城跡(遺構・復元物)

 三重堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 説明図(碑・説明板)

 竹の城(周辺城郭)

 城山城(周辺城郭)

 仙仁城(周辺城郭)

 須田古城(周辺城郭)

 源太入城(栃倉城)(周辺城郭)

 春山城(車坂城・綿内要害・綿内城)(周辺城郭)

 十九塙城(周辺城郭)

 井上氏居館(周辺城郭)

 小坂神社館(周辺城郭)

 角張屋敷(周辺城郭)

 堀内家屋敷(郷士屋敷)(周辺城郭)

 鷹羽城(周辺城郭)

 福島城(周辺城郭)

 綿内の井上氏館(周辺城郭)

 高梨氏館(関山国師伝承地)(周辺城郭)

 井上氏墳墓(寺社・史跡)

 大日堂跡(寺社・史跡)

 駐車スペース(駐車場)

 春山城 駐車場 蓮台寺仁王門(駐車場)

 井上城登城口(その他)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore