井上城(いのうえじょう)
井上城の基本情報
通称・別名
- 井上氏城、小口山城
所在地
- 長野県須坂市井上御堀2474他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 井上氏
築城年
- 室町時代
主な改修者
- -
主な城主
- 井上氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(井上氏城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
長沼城(長野県長野市)[6.2km]
霞城(長野県長野市)[6.4km]
福島正則館(長野県上高井郡)[7.4km]
尼厳城(長野県長野市)[8.0km]
横山城(長野県長野市)[8.8km]
若槻山城(長野県長野市)[9.8km]
松代城(長野県長野市)[10.3km]
髻山城(長野県長野市)[10.8km]
旭山城(長野県長野市)[10.9km]
葛山城(長野県長野市)[11.3km]
井上城の解説文
[引用元:Wikipedia「井上城」の項目]
井上城(いのうえじょう)は、長野県須坂市にあった日本の城。この地方の豪族信濃源氏井上氏の城である。
概要
井上城は、妙徳山の麓の城館と、詰めの城として妙徳山に築かれた山城(大城、小城)から構成される。戦国時代、井上清政、井上達満は上杉氏に味方し、武田氏に味方した同族の須田信頼らと争った。武田氏によりこの地を追われたが、天正10年(1582年)に上杉景勝が川中島を領有したため、旧領に復帰した。慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に移封されると、達満も会津に移住し、城は廃城となった。
大城は標高523メートルに位置し、縦25メートル、横15メートルの本郭を中心に階段状に帯郭を配した梯郭式山城で、小城は縦10メートル、横8メートルの本郭を中心に大城と同一の縄張りで構築されている。
参考文献
- 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書3』 1993年
[続きを見る]
井上城の口コミ情報
2024年08月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
福島城[井上城 周辺城郭]
福島城は井上城の北西約2.0km、千曲川東岸(右岸)、標高約337mの平野部平場を中心に立地する要害です。平城なんで比高は0m…
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所はそこら辺でOK♪レベルだ。
該地の福島は交通の要衝である。西方に千曲川の渡し場、布野の渡しを控える他、近世に入ると北国脇往還の脇道、松代道(松代経由で稲荷山と飯山を結ぶ谷街道との重複区間でもある。)が南北に通り、宿駅である福島宿が設けられた。又、大笹街道は、善光寺から布野の渡しで千曲川を渡り、福島を起点として仁礼宿へ抜け、鳥居峠を越えて上野国吾妻郡大笹宿に至るが、この道筋は少なくとも南北朝時代には既に存在している。
築城年代は不明、築城者は須田氏とされ、城主には、須田刑部少輔信頼、その子、左衛門尉信正の名が伝えられている。
須田氏は、清和源氏頼季流、井上満実の子、為実を祖とするとされ、高井郡須田郷を本貫地とし、後には隣接する大岩郷にも勢力を伸長させた。戦国時代に一族は二分し、大岩須田氏(後の海津城城代、上杉氏に重用され、越中表での活躍で知られる須田満親で有名だ。)は上杉氏に従っている。
武田氏に従った須田信頼は、信濃先方衆の一氏として重用された形跡が窺える。福島城はこの時期において高井郡の拠点城となるべく、武田氏の肝煎りで築城された要害だったとも推測されているからだ。
弘治三年(西暦1557年)四月廿一日、色部勝長宛、長尾景虎書状には、「当地至于善光寺令着陣候、従敵方相拘候地利、山田之要害并福嶋之地打明候、除衆悉還住候、先以可御心安候、従方々申来子細も御座候条、早速御著陣待入計候、如何共御動可為祝着候、恐々謹言、」とあり、第三次川中島の戦い、通称、「上野原の戦い」の際、長尾勢が善光寺に着陣する過程において、「山田之要害并福嶋之地」が同勢によって打明られた事が判る。春日山から善光寺に入る長尾勢の通った道筋にも注意されたい。
須田氏は、武田氏の滅亡後、信長の横死後には上杉氏に従っている。天正十一年(西暦1583年)二月九日、廣田勘右衛門尉宛、須田左衛門佐信正寄進状には、「井上領寄進之事 一 井上之郷にて三貫文 一 飯田木鎌にて貳貫文 一 小布施にて弐貫文 一 六河にて弐貫文 一 雁田にて弐貫文 一 西条にて貳貫文 右彼所無相違令寄進者也、仍而如件之、」とあり、須田信正は、井上氏の旧跡の内からそれぞれを伊勢皇大神宮に寄進している。意外にも当時の須田氏の差配する地域が比較的に広大であった事が判る。
天正十二年(西暦1584年)三月廿八日、岩井備中守(信能)宛、上杉景勝書状案には、「封直江(兼続)如注進者、羽尾源六郎、去廿六丸岩之地乗入、仕置堅固申付之由、肝要候、畢竟、須田(信正)、市川(信房)粉骨故与感入候、乍此上、弥両人并吾分入念、彼地持詰候様ニ可相稼事、千言万句候、巨細直江可申越候、謹言、」とあり、上杉景勝は、須田信正と市河信房が、羽尾源六郎を援けて上州の丸岩に乗り入れた事に感じ入り、併せて岩井信能に、「彼地」の詰めを肝要にするよう求めている。両名の行動は吾妻郡へ勢力を伸長させる真田氏への牽制であった。
天正十二年卯月朔日、須田左衛門佐(信正)宛、直江兼続書状案によれば、須田信正は、安曇郡千見の在番を指図されたが、これを不服として「御断」している。
天正十三年(西暦1585年)五月八日、上条入道(宣順)宛、上杉景勝書状案によれば、須田信正は、上条宣順によって真田氏(徳川氏)へ通じた事を理由に成敗された。海津城にて誅されたとも、福島城に籠って討死したとも伝わる。同城はこの際に徹底的に破却されたらしく、既に文禄三年(西暦1594年)の福島村の絵図には跡形も無い。
お城の現況は…跡形も無い。破却された上に後世の耕地整理によって殆ど平らげられてしまっている。若干の微高地が残る程度だが、そもそも論で城域すら不明である。又、該地には、「井戸」、「御天地」、「城」、「仲間分」、「八幡社」、「番小屋」の小字が残っていたらしいが、それが何処になるのかもはっきりしない。ちなみに城跡を示す標柱が立っている。判り難くて通り過ぎたけど…
真田氏の「犬伏の別れ」に見られるように、戦国時代に一族が二分して大局に臨む事は処世の常套手段だった。綿々と続く血筋を繋ぎ、先祖代々の土地を伝領するために一族等は簡単に滅びてはならないのだ。基本的に在地土豪等に国持ち大名への出世や天下を望む野心等は毛頭無いが、近世には見られなくなる泥臭いまでの逞しさがある。意地を貫くのも自分本位、忠義なんて知らんがな。
※安曇郡千見〜仁科城のリア攻めマップにある千見城を指す。嫌がるのも解る気がする。
2022年10月04日 ファン掃部助トム治郎
井上城
長野電鉄日野駅から井上集落まで徒歩小一時間。安養寺の西側に尾根への取付き道があり30分ほどで井上城大城にたどり着く。井上山への稜線から北に浄運寺におりる道ありはじめは急な斜面だがロープあり。浄運寺から井上の里は見どころ多くかつての甲斐源氏の拠り所を感じる。最後に南東にむかって竹の城跡へ入る尾根道を八町の薬師庵へ。井上のさとだけで2時間くらいは楽しめる。
2022年05月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
源太入城(栃倉城)[井上城 周辺城郭]
源太入城(栃倉城)は井上城の東南約4.7km、標高1293.7mの妙徳山から北東へ延びる尾根の一つ、標高約780mのピークの一つに主郭が存します。北東麓の観音寺からの比高は225m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の観音寺を目標に設定して下さい。お寺さんの裏手には林道が延びているのでこれを進み、林道が2回目のヘアピンカーブを描く場所からお城の存する尾根に取り付きます。特に道は付いていないので頑張りましょう、急登ですが藪にはなっていないと思いやす。ちなみにこの林道、獣柵ゲートが設置されていますが、自分で電流柵のターミナルを外して通電を遮断、開放しなくちゃならない。ばちばちに電流が流れているのでどきどきしまくり…こんなん初めて見たわ…任せといてよいのでしょか…
築城年代、築城者は不明ですが、戦国時代にお城の存する栃倉、仁礼は井上氏の支配領域で、武田氏の勢力がこの地域に伸張した永禄五年(西暦1562年)、少輔(須田信頼か。)を寄親とする仁礼衆(衆は半士半農の地侍集団を意味する。)五十人は総計五百貫文の地を与えられました。武田氏が滅亡すると森長可に従わない井上十六騎に上杉氏の直江兼続はそれぞれに持城を構える事を認めており、その中に大狭氏の名が見られ同氏に関係するものと考えられています。又、信長横死後の天正十年(西暦1582年)七月、上杉景勝は須田対馬守等七人に本領安堵していますが、その中にも大狭氏の名が見られます。
お城はコンパクト、急峻な尾根を利用し要所に堀切と竪堀を設けた信濃スタンダードと言えるものです。かずりはこれが大変お好み、いかにも在地土豪の要害て感じ。人が入らない山の中で素敵な堀切に出会う事は何事にも代えられない至福の時間すね。何で源太なのか知らんけど。
隣りの尾根には鷹羽城てやっぱり似たような趣旨を持つお城が存するのですが、妙徳山系山塊には井上氏に関連するお城が複数存在します。ちなみに鷹羽城は苦労対効果が凄まじく酷いお城で誰も行きたがらないです。薄い堀切1条と引き換えに比高約265m、距離にして約1.5kmを頑張れる阿保は是非、凄く暇な時に口コミ作成します。
2022年03月12日 摂政丸
須田古城[井上城 周辺城郭]
鎌倉時代から戦国時代まで一帯を支配した須田氏築いた城跡です。本拠は本郷にある大岩城とその麓、現在の蓮生寺辺りと推定され、その出城と思われるそうです。
臥竜公園内のぐるっと1周コースやのんびりロマンチックコースが経由します。須坂から長野方面の街並みが一望できます。
少し降りたところには須坂藩堀家墓所があります。時代が変わっても重要な地だったのでしょうね。
2021年06月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
仙仁城[井上城 周辺城郭]
仙仁城(せにじょう)は井上城の東南約6.5km、宇原川と仙仁川に挟まれた標高907mの山塊山頂に主郭が存します。西麓の仙仁温泉岩の湯からの比高は220m位でしょか。
行き方はとりまGoogleマップに位置登録されている西麓の仙仁温泉岩の湯(秘湯として大人気らしいっすね。)を目標に設定して下さい。この温泉から国道406号線を100m位南下した所にパス転回場があり、国道に「峰の原高原あと10km」の案内板が出ていますので、この看板の裏手がお城へ通じる林道の入口となっています。が、パス転回場に車を捨てるとぶっ飛ばされると思うので駐車するなら温泉周辺の駐車場を利用して下さい。
林道入口は藪っていますが少し進めば藪は消えて歩き易いです。この林道を進み送電線の鉄塔整備用保安道に入りNo.60鉄塔を目指します。要所で鉄塔への案内板が立っていますので迷う事は無いでしょう。鉄塔に到着したら南側山側の尾根を少しだけ登れば城域に入ります。
道は比較的緩やかな方だと思いますが、山に分け入る感じで少し怖かったです。というのも令和2年中の7月から8月の短い期間、このお城の半径2km圏内で10件の熊さん目撃情報がありました。そしてその内の3件は正に今歩いているお山だったからです。熊鈴×2+ホイッスルで対応しましたが、自分ホイッスルを吹くと知らぬ間にサンバホイッスルになってしまうのは何故でしょか。
お城は完全単郭の物見台規模の縄張です。しかし気合の入った堀切+竪堀が2条(堀切は合計3条ある。)確認出来るので御の字でしょう。又、主郭には帯郭状の腰郭が付いてます。
築城年代、築城者は不明ですが、室町時代には小笠原氏の一族とされる仙仁氏が城主だったようです。信濃守護小笠原長秀がぼこられた大塔合戦の直前、仙仁朝康が朝廷より駿河守に受領官途を得た事を示す後小松天皇の口宣案が残されており、菅平を経て上州へ抜ける大笹道口(南北に長い信濃は交通の要衝を多く抱える。南北朝時代、室町時代前期には上方と関東の争乱の場、そして緩衝地帯でもあり、後に小規模な国人勢力が独立乱立する一因となる。)を押さえる仙仁氏は守護方として特別の配慮を受けていました。
2021年06月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
城山城[井上城 周辺城郭]
城山城(瀬之脇城)は井上城の東南約5.5km、標高1293.7mの妙徳山から東西に延びる山塊支尾根上、標高約695mのピークの一つに主郭が存します。東麓の国道406号線からの比高は100m位でしょか。
築城年代、築城者は不明ですが、戦国時代にお城の存する高井郡仁礼(にれ)は井上氏の支配領域で、武田氏の勢力がこの地域に伸張した永禄五年(西暦1562年)、少輔(須田信頼か。)を寄親とする仁礼衆(衆は半士半農の地侍集団を意味する。)五十人は総計五百貫文の地を与えられました。武田氏が滅亡すると森長可に従わない井上十六騎に上杉氏の直江兼続はそれぞれに持城を構える事を認めており、その中に大狭氏(お城のある場所に地名が残る。武田氏時代に井上城の支城、竹の城城主と推測される。)の名が見られ同氏に関係するものと考えられています。又、信長横死後の天正十年(西暦1582年)七月、上杉景勝は須田対馬守等7人に本領安堵していますが、その中にも大狭氏の名が見られます。
行き方はGoogleマップに位置登録されている北麓の高顕寺を目標に設定して下さい。墓地の東側から尾根に取り付けば直ぐに城域に入ります。
お城は物見台規模の縄張ですが、連続堀切と堀切+竪堀で尾根をぶった斬り、主郭は段付きでL字形の土塁が付いてます。小粒ではありますが、きっと見る者の目を楽しませてくれる事でしょう。
南北朝時代、畠山忠顕に従い日向で事跡が見られる楡井頼理、志布志城(松尾城)城主であったその子頼仲は信濃源氏井上氏の庶流と推測され、城山城のある高井郡仁礼の地名を取って名字としました。遠い日向の地で信濃から高僧玉山玄堤を招き大慈寺を開基しその地に眠る当人を思うととても感慨深いものがありますね。
2021年04月13日 赤かぶ【】
城山城[井上城 周辺城郭]
須坂市仁礼にある城山城は別名 瀬之脇城とも呼ばれており高顕寺さんの裏山(南側)に築かれたお城です。
明確な登城口はなく、観音堂から上がるor墓地の左端から尾根に這い上がるみたいな感じです。
今回は墓地の左端から登城しました。まず尾根へ上がるのに薮がひどいく登るのが大変!踏み跡もなく急斜面を直登して行きます。滑りやすいので木々に掴まりながら這い上がって行きます。15~20分ほどで主郭にたどり着きます。
主郭には土塁その背後には二の曲輪との間の大堀切を見ることが♬︎
二の曲輪と三の曲輪の間の堀切はだいぶ埋まってました。
三の曲輪と四の曲輪の間の堀切は明瞭に見れますよ♪
四の曲輪の先はかなり笹薮に覆われており観音堂からの道に出れる事が出来ますが、こちらも道がなく薮まみれになっています。
麓の高顕寺さんには有名な桜があるとの事です。興味のある方は合わせ訪れて見てはいかがでしょうか☀︎
① 登城道
② 主郭土塁
③ 主郭背後の大堀切を下から
④ 主郭背後の大堀切を上から
⑤ 三の曲輪と四の曲輪の間の堀切
⑥ 四の曲輪
2020年12月01日 八咫右近衛中将千織
井上城
浄運寺さんからの登城口は倒木多数の為、通行止でしたが、他にも登城口があるのでそこから登れます。
岩がゴロゴロしている上にかなり急です。一気に登ったら心臓がバクバクでした。
付近には井上氏居館跡、角張屋敷跡、竹の城などあります。
2020年05月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
井上氏墳墓[井上城 寺社・史跡]
井上氏墳墓は清和源氏頼季流井上氏の一族等の墓塔を集めた場所です。開墾によって発掘されたものを一纏めにしたそうで誰のものなのかは全く判らないそうです。
今まで山城ばかり口コミしてきましたが、突然お墓に興味を持った訳では決してありません。個人的な話になりますが、実家に伝わる家系図をつい最近まともに見る機会があったんす。自分家が江戸時代に半士半農(そんなもん江戸時代にあるの?と思われる方も多いと思いますが、同心の身分で俸禄が無いので農業で生計を立てていたというのが正解です。八王子市千人町近辺にお住まいの方なら解るかと…)の身分であったことは以前から知ってはいました。小さい頃に実家に伝わる陣笠とか着けて写真を撮られたような記憶がありますしw…話は逸れましたが、それ以前の事には特に興味も無く大人になってしまった感じです。でも歳を重ねると何となく知りたくなるじゃないですか〜「いったい何処から来て、何処へ行くのか。」そう、ブレードランナーです。レプリカントです。
さて、比較的近世の事なら信憑性もある家系図ですが、制作者は何を血迷ったのか、遡るとこの井上氏(綿内井上氏)にぶち当たるように作ってあるんです。全く信じてないけど、ひょっとしたら先祖が住んでいたかもしれないこの地を一度は拝んでおこうと思い立ちました。ただそれだけの口コミですw
※2回読まれる方はまずいないと思いますが追記です。1枚目の写真、背景の山は井上城の支城とされる竹の城です。口コミしたいけど、プアーな写真しか撮れなかったので考え中〜
2012年01月25日 赤いRVR甲斐守@松本
井上城
須坂インター東に聳える山城。登城路は麓のお寺横からついていますが、結構急峻。大城と小城とに分かれ、さらに山塊の西端には砦もあります。城の北側には館跡、また井上集落の東には竹の城もあります。見どころ満載の井上地区です。後は行ってのお楽しみ!