源太入城(栃倉城)
源太入城(栃倉城)([井上城 周辺城郭])
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源太入城(栃倉城)の口コミ情報
2022年05月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
源太入城(栃倉城)は井上城の東南約4.7km、標高1293.7mの妙徳山から北東へ延びる尾根の一つ、標高約780mのピークの一つに主郭が存します。北東麓の観音寺からの比高は225m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の観音寺を目標に設定して下さい。お寺さんの裏手には林道が延びているのでこれを進み、林道が2回目のヘアピンカーブを描く場所からお城の存する尾根に取り付きます。特に道は付いていないので頑張りましょう、急登ですが藪にはなっていないと思いやす。ちなみにこの林道、獣柵ゲートが設置されていますが、自分で電流柵のターミナルを外して通電を遮断、開放しなくちゃならない。ばちばちに電流が流れているのでどきどきしまくり…こんなん初めて見たわ…任せといてよいのでしょか…
築城年代、築城者は不明ですが、戦国時代にお城の存する栃倉、仁礼は井上氏の支配領域で、武田氏の勢力がこの地域に伸張した永禄五年(西暦1562年)、少輔(須田信頼か。)を寄親とする仁礼衆(衆は半士半農の地侍集団を意味する。)五十人は総計五百貫文の地を与えられました。武田氏が滅亡すると森長可に従わない井上十六騎に上杉氏の直江兼続はそれぞれに持城を構える事を認めており、その中に大狭氏の名が見られ同氏に関係するものと考えられています。又、信長横死後の天正十年(西暦1582年)七月、上杉景勝は須田対馬守等七人に本領安堵していますが、その中にも大狭氏の名が見られます。
お城はコンパクト、急峻な尾根を利用し要所に堀切と竪堀を設けた信濃スタンダードと言えるものです。かずりはこれが大変お好み、いかにも在地土豪の要害て感じ。人が入らない山の中で素敵な堀切に出会う事は何事にも代えられない至福の時間すね。何で源太なのか知らんけど。
隣りの尾根には鷹羽城てやっぱり似たような趣旨を持つお城が存するのですが、妙徳山系山塊には井上氏に関連するお城が複数存在します。ちなみに鷹羽城は苦労対効果が凄まじく酷いお城で誰も行きたがらないです。薄い堀切1条と引き換えに比高約265m、距離にして約1.5kmを頑張れる阿保は是非、凄く暇な時に口コミ作成します。