福島城
福島城([井上城 周辺城郭])
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福島城の口コミ情報
2024年08月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
福島城は井上城の北西約2.0km、千曲川東岸(右岸)、標高約337mの平野部平場を中心に立地する要害です。平城なんで比高は0m…
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所はそこら辺でOK♪レベルだ。
該地の福島は交通の要衝である。西方に千曲川の渡し場、布野の渡しを控える他、近世に入ると北国脇往還の脇道、松代道(松代経由で稲荷山と飯山を結ぶ谷街道との重複区間でもある。)が南北に通り、宿駅である福島宿が設けられた。又、大笹街道は、善光寺から布野の渡しで千曲川を渡り、福島を起点として仁礼宿へ抜け、鳥居峠を越えて上野国吾妻郡大笹宿に至るが、この道筋は少なくとも南北朝時代には既に存在している。
築城年代は不明、築城者は須田氏とされ、城主には、須田刑部少輔信頼、その子、左衛門尉信正の名が伝えられている。
須田氏は、清和源氏頼季流、井上満実の子、為実を祖とするとされ、高井郡須田郷を本貫地とし、後には隣接する大岩郷にも勢力を伸長させた。戦国時代に一族は二分し、大岩須田氏(後の海津城城代、上杉氏に重用され、越中表での活躍で知られる須田満親で有名だ。)は上杉氏に従っている。
武田氏に従った須田信頼は、信濃先方衆の一氏として重用された形跡が窺える。福島城はこの時期において高井郡の拠点城となるべく、武田氏の肝煎りで築城された要害だったとも推測されているからだ。
弘治三年(西暦1557年)四月廿一日、色部勝長宛、長尾景虎書状には、「当地至于善光寺令着陣候、従敵方相拘候地利、山田之要害并福嶋之地打明候、除衆悉還住候、先以可御心安候、従方々申来子細も御座候条、早速御著陣待入計候、如何共御動可為祝着候、恐々謹言、」とあり、第三次川中島の戦い、通称、「上野原の戦い」の際、長尾勢が善光寺に着陣する過程において、「山田之要害并福嶋之地」が同勢によって打明られた事が判る。春日山から善光寺に入る長尾勢の通った道筋にも注意されたい。
須田氏は、武田氏の滅亡後、信長の横死後には上杉氏に従っている。天正十一年(西暦1583年)二月九日、廣田勘右衛門尉宛、須田左衛門佐信正寄進状には、「井上領寄進之事 一 井上之郷にて三貫文 一 飯田木鎌にて貳貫文 一 小布施にて弐貫文 一 六河にて弐貫文 一 雁田にて弐貫文 一 西条にて貳貫文 右彼所無相違令寄進者也、仍而如件之、」とあり、須田信正は、井上氏の旧跡の内からそれぞれを伊勢皇大神宮に寄進している。意外にも当時の須田氏の差配する地域が比較的に広大であった事が判る。
天正十二年(西暦1584年)三月廿八日、岩井備中守(信能)宛、上杉景勝書状案には、「封直江(兼続)如注進者、羽尾源六郎、去廿六丸岩之地乗入、仕置堅固申付之由、肝要候、畢竟、須田(信正)、市川(信房)粉骨故与感入候、乍此上、弥両人并吾分入念、彼地持詰候様ニ可相稼事、千言万句候、巨細直江可申越候、謹言、」とあり、上杉景勝は、須田信正と市河信房が、羽尾源六郎を援けて上州の丸岩に乗り入れた事に感じ入り、併せて岩井信能に、「彼地」の詰めを肝要にするよう求めている。両名の行動は吾妻郡へ勢力を伸長させる真田氏への牽制であった。
天正十二年卯月朔日、須田左衛門佐(信正)宛、直江兼続書状案によれば、須田信正は、安曇郡千見の在番を指図されたが、これを不服として「御断」している。
天正十三年(西暦1585年)五月八日、上条入道(宣順)宛、上杉景勝書状案によれば、須田信正は、上条宣順によって真田氏(徳川氏)へ通じた事を理由に成敗された。海津城にて誅されたとも、福島城に籠って討死したとも伝わる。同城はこの際に徹底的に破却されたらしく、既に文禄三年(西暦1594年)の福島村の絵図には跡形も無い。
お城の現況は…跡形も無い。破却された上に後世の耕地整理によって殆ど平らげられてしまっている。若干の微高地が残る程度だが、そもそも論で城域すら不明である。又、該地には、「井戸」、「御天地」、「城」、「仲間分」、「八幡社」、「番小屋」の小字が残っていたらしいが、それが何処になるのかもはっきりしない。ちなみに城跡を示す標柱が立っている。判り難くて通り過ぎたけど…
真田氏の「犬伏の別れ」に見られるように、戦国時代に一族が二分して大局に臨む事は処世の常套手段だった。綿々と続く血筋を繋ぎ、先祖代々の土地を伝領するために一族等は簡単に滅びてはならないのだ。基本的に在地土豪等に国持ち大名への出世や天下を望む野心等は毛頭無いが、近世には見られなくなる泥臭いまでの逞しさがある。意地を貫くのも自分本位、忠義なんて知らんがな。
※安曇郡千見〜仁科城のリア攻めマップにある千見城を指す。嫌がるのも解る気がする。