横山城(よこやまじょう)

横山城の基本情報

通称・別名

所在地

長野県長野市箱清水1-3

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

不明

築城年

南北朝時代

主な改修者

主な城主

二宮氏、細川氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

葛山城(長野県長野市)[2.5km]
旭山城(長野県長野市)[2.7km]
若槻山城(長野県長野市)[4.4km]
吉窪城(長野県長野市)[7.3km]
長沼城(長野県長野市)[7.7km]
霞城(長野県長野市)[7.9km]
髻山城(長野県長野市)[8.0km]
井上城(長野県須坂市)[8.8km]
尼厳城(長野県長野市)[10.2km]
横田城(長野県長野市)[10.5km]

横山城の解説文



横山城(よこやまじょう)は、信濃国水内郡長野村善光寺城山(現在の長野県長野市箱清水)[1]にあった日本の城。

概要 

横山城は善光寺の東側一帯の城山にある。南北朝時代に築かれたとされている。

  • 正平6年・観応2年(1351年)6月に高井郡の野辺宮原(須坂市野辺)で足利直義方の守護諏訪直頼の代官祢津宗貞が地元の井上氏を巻き込んで足利尊氏方の小笠原為経、小笠原光宗、高梨経頼らと衝突した。8月にも高井郡の米子城(須坂市米子)や野辺宮原、更級郡の富部河原(長野市篠ノ井戸部)へと転戦した。そして善光寺を攻める合戦となったとされるので、この城での攻防戦と考えられている。足利直義が北陸から関東へ移動する遠征路の確保の為といわれるが結局この城を攻め落とすことは出来ずに敗走した。しかし直義は信濃路を通過はすることができて鎌倉に至ったとされている。両陣営は翌年正月に三度び野辺宮原、米子城周辺で交戦している。
  • 正平24年・応安2年(1369年)、春山城(長野市若穂)を守備する上遠野左近蔵人は守護の入国を阻もうとする村上氏をはじめとする国人衆に2ヶ月近い長期にわたる攻撃を受けていた。このため関東管領と信濃守護を兼ねる上杉朝房が守護代の藤井下野入道の守備する善光寺(横山城?)へ向けて出陣した。そして春山城から氷鉋(長野市川中島町中氷鉋)、平柴(長野市安茂里平柴)へと陣を移して転戦した。平柴布陣の際は栗田城(長野市栗田)西木戸口での合戦と見られる。善光寺別当の栗田氏を制圧して善光寺に至った。この間に善光寺が焼失したとされているので、この戦火に巻き込まれたものと考えられている。
  • 元中4年・嘉慶元年(1387年)5月、室町幕府から任命された守護の斯波義種に反抗する村上頼国は小笠原清順や高梨朝高、長沼太郎(信濃島津氏)ら国人領主達と善光寺に挙兵した。平芝にあったとされる守護所を攻めて麓の漆田原(長野市中御所、長野駅付近)で合戦が行われている。同年8月には斯波氏の守護代二宮氏泰が籠城するこの城は国人領主らによって激戦の末、攻め落とされた。そして、この後も敗走する市河氏らを追撃して埴科郡の生仁城に転戦している。
  • 応永10年(1403年)、細川兵庫助慈忠が幕府代官として善光寺横山に入った。大塔合戦以来の信濃国の状況に対する直接統治に乗り出しての幕府の措置と考えられる。しかし村上満信や大井光矩、井上光頼、小笠原為経らをはじめ、伴野氏や須田氏らが代官の命に従わず連合して守護所を攻めようとした。このため市川氏貞らと出撃して段の原(長野市篠ノ井段の原)での合戦となった。敗走する村上氏らを追撃して生仁城や塩崎城でも攻防戦が行われて落城させた。翌年にも代官の所領実態究明に対して高梨左馬助による強い抵抗があった。このため桐原館(長野市桐原)や若槻城(長野市若槻)を攻略のため出撃している。さらには下芋河、替佐、蓮、東条などを転戦した。応永22年(1415年)に高井郡の須田為雄を鎮圧して以後は幕府の信濃支配が安定したとされている。
  • 天文24年・弘治元年(1555年)の第2次川中島の戦いでは、長尾景虎(上杉謙信)がここを本陣とした。そして犀川対岸の大堀館を本陣とする武田晴信と対峙した。景虎は武田方の旭山城を封じ込めるため、裾花川対岸に葛山城を築いたが、戦いは長期化し、両軍は200日余に渡り対陣した。今川義元に調停を依頼して和睦、旭山城の破却などを条件に兵を引いた。この頃武田の侵攻に抵抗していた長野市小市地域を本拠としていた小田切氏の与力に横山氏の名が見られることから、その居城となっていたと考えられている。
  • 永禄4年(1561年)の激戦となった第4次川中島の戦いでは、景虎改め上杉政虎は、八幡原の激戦が終わると、兵を横山城に収めたと伝えられている。

このように、横山城は、川中島の戦いにおいて謙信の善光寺平の抑えとしての役割を果たしていた。しかし武田方の支配が北信一帯に及ぶようになると相木氏の勢力下となったとされている。

また伝説ではあるが出雲での敗戦から逃れた建御名方神がこの地に至った際に追撃する建雷命に追いつかれて応戦した。この時妻の八坂刀売神が裾花川沿いに避難した所が妻科神社であり、建御名方神は敗れ傷ついた体で上田の生島足島神社を経由して諏訪に至ったと語られている地でもある。

遺構 

現在、城址は「城山公園」として整備されており、本丸跡には1879年(明治12年)に健御名方富命彦神別神社[2](たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社の社殿が建てられ、社殿の背後には一部土塁が残っている。

交通 

  • JR北陸新幹線・長野駅からバスに乗り「城山小学校前」バス停下車、徒歩5分
  • 上信越自動車道・須坂長野東ICから約30分

横山城の口コミ情報

2024年10月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
中越居館(宮下氏古宅・内堀の家)[横山城  周辺城郭]



さて、おいらの試練、長野市市街地におけるリア攻めなんだけど、1件をこなすと10歳位は老けたような感じになる。つまりは一気に25歳位の容姿になるんで、Jr.としてアイドルを続けられるのか不安になったりもする。今回の口コミはそんな感じの老けさせ物件、精神的なダメージも滅茶苦茶大きい。そもそも論で探索する意味があるのかて感じなんだけどねぇ…

中越居館(宮下氏古宅・内堀の家)は横山城の西方約2.7km、浅川南岸(右岸)、標高約366mの平野部平場に立地した居館です。該地の大部分は現在、しなの鉄道、日本貨物鉄道が占有する北長野駅の構内となっており、居館地の中心部は高架となっている。

行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「北長野駅」を目標に設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。てか他に用事が無かったら電車に乗って行こうよ。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは別称にあるとおり宮下氏です。

該地の長野市中越は古くは「小井」と呼ばれていたようで、地名は荘園条里遺構の堰、用水を表す「古井」が転訛したものだと考えられている。嘉歴四年(西暦1329年)三月の諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、六番五月會分の条には、「左頭、北高田、河井両郷地頭等、付小井郷内木工左衛門尉入道知行分、」とあり、小井郷内に木工左衛門尉入道の知行地があった事が判る。又、同年同月の「諏訪社上社造営目録案」によれば、宇木、小居、平林は玉垣三間分を負担している。

「長野県町村誌」には、「宮下氏の古宅。本村(吉田村)南の方中越組にあり。宅地東西三十間(約54.5m)、南北二十五間(約45.4m)、内堀今猶存す。外堀内東西六十一間(約110.9m)、南北七十四間(約134.5m)回字形をなす。遺壕僅に北に残れり、祖先宮下周防守義昌は、安房国里美氏の旗下にして、上総国宮下城に居城せり。宝徳二庚午年(西暦1450年)三月八日関東に没す。長子周防守政福里見氏亡滅の際、逃れて武蔵秩父の山中に在り。然れども北条、上杉、結城、佐竹の一族互に権を争ひ、戦闘止む時なし、依て政福其臣池田四郎、古屋敷小太郎、元咲三治、青木兵衛、岡村作平の五名を具して、文明五癸巳年(西暦1473年)八月、本郡和田村へ来り、一城を築き之に居城す。永正年間(西暦1504年〜1520年)村上氏に属し、天文二十辛亥年(西暦1551年)八月一日卒す。其男修理大夫正恒襲職す。天文二十二年(西暦1553年)八月、村上義清当国退去の後政恒弓箭を収め、本村へ移転し、菜園を開き農に帰し、爾来数世連綿今日に至る。」とある。里見氏の被官であった宮下氏が善光寺平に逃れて居館出来たのは何故だろうか。

居館の現況は…なんなんだろうね…城域の央部を地下道が貫通してるんで歩いてみたけど、この辺が中心地かな…とかしか言えないわ…地表面の部分は空地、一般住宅地等となっているが、縄張図を見ると往時はその殆どが内堀であり、居館地の大部分は北長野駅の構内(軌道敷)に変貌している。そもそも論で高架なんで表面観察すら不可能な物件、用水路の一部に堀跡の名残りを…全く見れんわ。

辛たんなリア攻めだった…なんせ人通りが絶えない。写真撮影のためにその都度待機、約2時間を無駄にしている。精神的に憔悴し切ってしまい、この後の予定を全てキャンセル、近くのラーメン屋に入ってストレス食いしまくる。お山に行きたくなったぜ。

※写真①、②は陸橋上から撮影した近景っす。何処ら辺になるのかは知らん。

※写真⑤は地下道で撮影した居館地中心部、段が付いてるけどそもそも地下なんで…この直上に宮下氏は居していた…もぅどうでもええわ…

※こんな意識が遠のくような物件だけど、もの凄く真面目にリア攻めして写真撮影している。二回目は絶対に無いからだ。

2024年10月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
風間館(鷹狩屋敷)[横山城  周辺城郭]



さて、巷で大人気の「逃げ若」こと「逃げ上手の若君」だけど、作中にはお稲荷さんみたいな格好をした風間玄蕃なる人物が北条時行の郎党として登場する。当然、架空の人物ではあるんだけど、玄蕃が出自とする風間氏自体は実在の氏族だ。玄蕃のルーツモデルとなったであろうこの風間氏の居館跡が今回の口コミだ。

風間館(鷹狩屋敷)は横山城の南東約4.2km、標高約342mの平野部平場に立地した居館です。別称の鷹狩屋敷は、真田信之の三男、信重が風間村を知行し、鷹狩の際の茶屋を該地に設けたのがその由来である。

行き方はGoogleマップに位置登録されている浄土真宗大谷派の寺院、「常福寺」を目標に設定して下さい。この寺院の境内が該地となり、当然、車も捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは風間氏です。同氏は諏訪氏系の一族とされ、式内社である風間神社の神司となったのがその発祥と推測されている。その一方で、風間氏と風間神社に関係は無いとし、諏訪氏の一族、矢崎家直の一子が風間郷に移り住み、在名を取って風間忠直を名乗ったのが始まりとも伝わる。神社はその際に諏訪社に改められたんだそう。これについては現在の風間神社の神主さんがそう言っている。

応永七年(西暦1400.年)の「大塔合戦」の際には、村上満信麾下として、近隣の千田、吉益等の諸氏と共に風間宮内少輔の名が見られる。

「諏訪御符禮之古書」、寛正二年(西暦1461年)辛巳五月會の条には、「一 左頭風間同風間安芸守光貞代官原大和守近光御符之禮三貫三百 使孫六二郎五郎 頭役六貫」、応仁二年(西暦1468年)戌子御射山の条には、「一 左頭風間安芸守光貞御符之禮三貫三百三十三文使一貫文 曾次二郎 又代官原大和守近光頭役十貫」、文明五年(西暦1473年)癸巳御射山明年御頭定の条には、「一 右頭風間殿知行代官原大和入道有源御符二貫二百三十三文にて候を当年二貫八百出候使曾次次郎御教書禮同前路餞別出候御教書禮兎角大和入道申候て此罰風間殿頓死家中も因死去頭役七貫」、文明十七年(西暦1485年)乙巳御射山明年御頭定の条には、「加頭御射山風間代官原大和入道有源御符禮二貫三百使孫六本は三貫三百今年初二貫三百御教書禮同前」とある。文明五年の条では、「風間殿」が罰(神罰)を受けて頓死、家中にも不幸が及んだ事が述べられているが、何の為に罰を受けたのかは意味がよく判らない。

伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「長沼分」には、「かさまの大夫式部少輔殿 のし廿本 茶五つ」とあり、武田氏時代にも風間氏があった事が判る。

居館の現況は…前述のとおり常福寺の境内となっている。居館敷地範囲は不明だが、周囲を取り巻く舗装道路の一部に堀跡を求める事ぐらいは可能かもしれない。又、近年まで水堀が残っていたそうで、冬場になると子供達がスケートを楽しんでいたんだそう。

該地の西南西約0.9kmの位置には前述の風間神社が鎮座する。その付近にはGoogleマップにも位置登録されている、「風間氏発祥の地 碑」が建っている。どちらもスポット登録しといたけど、口コミすんのが面倒なんで興味があったらGoogleマップの3Dで仮想リア攻めしてくらさい。

※現在の風間神社の主祭神は級長津彦命、神社は伊勢津彦命と共に風の神を祀っている。風間神社が、神社と諏訪氏系の一族とされる風間氏との関係性を否定するのも頷けるし、何よりも居館地と離れ過ぎではないだろうか。

2024年09月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
中沢城[横山城  周辺城郭]



中沢城は横山城の南東約2.4km、千曲川西岸(左岸)、標高約354mの平野部平場に立地した居館です。城域は長野県道58号、長野須坂インター線に分断されている。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。駐車場は近くに沢山あるんだけどねぇ…

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方には中澤氏が推測されている。該地は中世には水内郡南高田郷に属していた。

「諏訪御符禮之古書」、文明十一年(西暦1479年)己亥五月會明年御頭役定の条には、「一 南高田代官中澤源左衛門尉家重御符祝三貫三百北高田代官三河守式重美濃守成以廣田興三郎宇木入道御符祝三貫三百三十三文使孫六御教書祝同前頭役両郷四拾貫」、文明十六年(西暦1484年)甲辰花會明年御頭定の条には、「一 加頭南高田郷井上知行代官中澤源左衛門國吉御符禮三貫三百三十三文使孫六頭役二拾貫」とあり、当時の南高田郷が井上氏の知行地であった事、その代官が中澤源左衛門尉家重、中澤源左衛門國吉であった事が判る。居館の主であろうか。

元亀元年(西暦1570年)九月十七日、関大蔵左衛門尉宛、春日虎綱奉之、武田信玄安堵状案には、「先忠神妙ニ候、然者、南高田郷五百貫、為本領拘来之由候間、無相違可致知行之旨、被仰出者也、仍如件、」とあり、武田信玄は、関大蔵左衛門尉に、本領として南高田郷の内から五百貫を安堵している。甲越が争った時期には、あるいはこうした人達が居館の主だったんだろうか。

該地は、高田西方、通称、「じょう」と呼ばれている。明治時代初頭、地租改正直後の図面によると城域は微高地であり、空堀を含んで、東西約三十七間(約63m)、南北約五十九間(約108m)、台地の広さは三反二畝二十二歩(約3240㎡)、当時、空堀は全てが水田として耕作され、水田と台地面との差は六尺(約1.8m)あったんだそう。

居館の現況は…一般住宅地、事業所等となっている。大正年間(西暦1912年〜1926年)には、既に県道により大きく二分されていたらしい。居館敷地範囲は不明確、遺構は完全消滅、堀跡を追う事も殆ど出来なかった。ちなみに該地には今も中沢さんがお住まい。中澤氏の後裔だろうか。

謂わゆる国道、県道二分系の城館、市街地での探索は交通量が多くて反対側へ渡るのに苦労する。長野市の居館廻りを郊外から始めた訳なんだけど、段々と中心部に近づいて来てしまった。駅近物件も相当数あるので今後は更なる辛いリア攻めが予想される。それっぽい服着て測量会社の作業員を装うかなとか真剣に考えている。

※関大蔵左衛門尉〜善光寺平における関氏は、武田氏時代に同族、同姓を以て各郷の代官等を多数輩出(関内蔵助〜西尾張部、北高田、南長池、北長池代官等)している。「同名衆数多候」とまで言われていたんだそう。

2024年09月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
尾張城[横山城  周辺城郭]



尾張城は横山城の東南東約3.8km、標高約343mの平野部平場に立地する居館城です。城域は東西に走る長野市道、古牧朝陽線に分断されている。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

築城年代、築城者は不明です。「長野県町村誌」には、「本村(尾張部村)午(南)の方字村南にあり、本丸址東西五十三間(約96.4m)南北四十七間(約85.5m)、二の郭址東西六十五間(約118.2m)南北三十八間(約69.1m) 字形拾も曲尺の如し 内濠外濠馬出し回字形をなす。築城年月及城主姓名不詳。天正年間(西暦1573年〜1592年)尾張備中守住せしと云ふ。近古まで城跡其の高き事平地より七八尺に過たり、耕耘不便なるにより剔削して、今耕地となる。人々適々土を穿ち兵器の類を得ることあり。」とある。

町村誌、北尾張村の管轄沿革には、「永正中(西暦1504年〜1521年)村上顕国本郡を侵す、諸将皆降る。里俗伝に村上氏の幕下尾張部三郎之を領すと云ふ不詳。」とあり、「科野佐々礼石」には、「尾張部三郎がここに居館して、当所一村を支配していたが永禄のはじめに武田氏に降って、この屋敷を引き払った。」とあるんだそう。

該地の長野市西尾張部の大宇は、律令制下において尾張氏の部民が住していた事に由来するらしい。元来、尾張郷には尾張氏があった訳だ。同氏は永正年間に村上氏に従うが、後には武田氏に従うも凋落した…て考えるのが自然だと思う。

Googleマップのピンの位置は、城跡碑の建つ「尾張城公園」内に登録されている。信濃のお城の神の縄張図もこれを中心に城域を捉えているが、「尾張城跡」の発掘調査結果報告書によれば、主郭の中心位置は公園から北東に約0.1kmの場所に求められる(未確認だが「城」の地籍が残っているようだ。)。精査した訳ではないが、公園は明らかに主郭の敷地範囲から外れており、むしろ回字形の外郭(二の郭)に相当する部分であったと推測する。

お城の現況は…区間整理等で何もかもが平らげられてしまっており、表面調査すら不可能な物件である。西辺には近年まで明瞭な堀形が残っていたらしいが今は何も…主郭の中心位置は、Googleマップにも位置登録されている「ハイカムール城」となるが、この共同住宅が、「城(じょう)」と名付けられていた事には感動した。ちなみに前述のとおり、尾張城公園内には立派な城跡碑が建っている。但し、個人的には黒御影石の城跡碑はあらゆる場所で望んでいない(万人に見せる気が無いように思えるのさ。)。

薄いどころか何にも残っていない訳だけど、発掘調査結果報告書の発見が初回リア攻め後となってしまい、これ読んで納得がいかなくなったおいらは再訪する事に…ここで問題となったのはやっぱし主郭の位置特定、市道古牧朝陽線道路改良事業、長野市西尾張部土地区画整理事業によって、当時と現在の地図との相違が大きく発生し、現在の地図上で確認する事が非常に困難となっていた。市道の位置、建物の位置、用水路の位置等、あらゆるものが変わり果ててしまい、両地図を重ね合わせる事に相当な苦労をした。

問題を解決したのは、地図上にぎりぎり記載されていた西北方の八幡神社と北東方の真宗大谷派の寺院、光蓮寺だった。両者の位置関係から主郭の中心地を叩き出す事が出来た訳だ。神社さん、お寺さん、もやもやを解消してくれてありがちょ。

※北東方の真宗大谷派の寺院、光蓮寺〜調べてみると歴史好きにも十分訴える由緒を持つ。光蓮寺は磯部六ヶ寺の一つ、元は水内郡西久保にあった柳原山勝善寺、開基の了禅は、親鸞の弟子でもあり、長沼城のリア攻めマップにある中俣城の口コミで言及した柳嶋山勝善寺の開基、明空の実弟でもある。十一世、了順は、本山の危難を救うべく柳嶋山勝善寺の教了と共に摂津石山城に入城し討死、十二世、行心は、後に教如から蓮如の一字を賜り寺号を光蓮寺と改称した。信濃の浄土真宗寺院は顕如の石山城籠城を積極的に助けており、特に磯部六ヶ寺は様々な形で合力していた事が各種文書から確認出来る。ちなみに西久保からの寺地の移動は「川中島の戦い」を避けての事だが、当初の場所は現在地の南西側にあったとされる。正に尾張城の旧地だったとは言えないのだろうか。

※律令制下において尾張氏の部民が住していた〜後の尾張氏がこの系統に属するのかの答えは永遠に出ないだろう。

※発掘調査結果報告書はネットでダウンロード出来る。ちゃんと読んでないけど、空堀が検出された他、平安時代から中世にかけての陶器、かわらけが出まくりだったようだ。

※縄張は町村誌に添付された「尾張城跡之図」が最も判り易い。

2024年09月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
南堀館(堀の内・小田切主水館・穂里城)[横山城  周辺城郭]



南堀館(堀の内・小田切主水館・穂里城)は横山城の東方約4.3km、浅川南岸(右岸)、千曲川西岸(左岸)、標高約345mの平野部平場に立地した居館です。北側には長野電鉄長野線の朝陽駅が位置する駅近物件である。該地とその周辺は甲州系の姓(金丸、土屋、横田等)を名乗る方が今も多いんだそう。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。完全無血の一般住宅地である。悩むぐらいだったら軌道敷を跨ぐ必要があるが、朝陽駅の駐車場にでも捨てるのが無難…

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方ははっきりしない。里俗伝によれば、戦国時代、村上氏に従う小田切主水正之が居したとも。同名については不詳だが、「諏訪御符禮之古書」、寛正七年(西暦1469年)丙戌花會の条によれば、香坂氏が知行する近隣の和田に、同氏の代官、小田切下総貞遠があった事から、この貞遠の縁者であったとも考察されている。

明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、これによれば該地の堀郷は高梨与一の知行地の一つであった。同郷は中世の六ヶ郷用水の末流域に当たり、同用水の開発主体を同名に求める事も十分に可能だろう。又、南北朝時代の末期には、既に「堀郷」と呼ばれていた事に注意されたい。少なくとも居館地がこれ以前には存在していた事を示す裏付けにはなるだろう。

冒頭で該地には甲州系の姓を名乗る方が多いて書いたが、それ故に武田氏による二次利用が推測されている。役割としては拠点城に出仕する在番衆等の、町村に比肩する屋敷地だろうか。単なる在地土豪等の居館地としては破格の規模でもある。出仕先はアプリの登録城、長沼城か。

居館の現況は…一般住宅地となっている。写真見て頂けたら解ると思うけど、兎に角、リア攻めが地獄、人や車も通るし、大体にしてこんな場所の写真を撮ってる事自体が異常者の所業だわ。一刻も早く立ち去りたかったんだけど、リア攻めに納得が出来なければ終われない損な性分でもある。結局は全ての堀跡を確認して廻る羽目に…あ、南堀館ね、縄張は二重の空堀で主郭を囲ったもの。前述のとおり居館地としての規模が大きい。城郭遺構は完全に消滅しているが、内堀、外堀の堀跡の殆どを現在の舗装道路に求める事が出来る。内堀内には、小田切大明神の石碑が建ち、その隣りには南堀館の説明板が立っている。

大正年間(西暦1912年〜1926年)まで、居館地の四隅には、春日社(南西)、山王社(東北)、諏訪社(南東)、八幡社(北西)が鎮座していたらしい。又、昭和三十年(西暦1955年)頃までは、堀と土塁の一部が残っていたとも。信濃のお城の神の聞き込みによれば、内堀の幅は約2m、冬場はスケートが出来たんだそう。引水されていたんだろうか。

※南堀館の説明板〜高さを1.5m位下げて欲しいなぁ…探しちゃったよw

※この手の物件を再訪する気は毛頭無い。リア攻めを1回で終わらせるために今回は通報されても構わないぐらいの覚悟で臨んでいる。職質されたら当然、闘う(丸め込む)つもりだったw

2024年09月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
石渡館(高山氏館)[横山城  周辺城郭]



石渡館(高山氏館)は横山城の西方約4.0km、千曲川西岸(左岸)、標高約344mの平野部平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南側の「ハイツ サンブライト」を目標に設定して下さい。舗装道路を挟んだ北側の一角が該地となる。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。完全無血の一般住宅地である。

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方ははっきりしない。別称にある高山氏館は、同氏が近世に入ってから住した事による。

該地の石渡(石渡戸)は、嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、五番五月會分の条に、「右頭、東条庄内和田郷和田三河入道、付石渡戸、三和条、富武地頭等、」とあるのが文書上の初見、又、明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、これによれば石渡戸郷は高梨与一の知行地の一つであった。

応永七年(西暦1400.年)四月廿一日、小笠原長秀証判、市河興仙軍忠状によれば、市河刑部大輔入道奥仙(興仙)は、応永六年(西暦1399年)十月廿一日、島津太郎国忠退治のために、赤沢対馬守秀国、櫛置石見守入道清忠(両名は信濃守護、小笠原長秀の代官である。)の元に馳せ参じ、石渡において両名の手に属して国忠を攻め立てている。当時の島津氏は高梨氏と一揆を結んで信濃守護に抗していた。

「諏訪御符禮之古書」、文安五年(西暦1448年)戌辰花會の条には、「今井石渡戸頭役二十貫文次年御教書之禮一貫文今井範貞讃岐守未範御符禮三貫三百」、宝徳四年(西暦1452年)壬申の条には、「一 今井石渡戸満範御教書一貫文今井は山中伊賀守持源頭役二十貫文」、文明十五年(西暦1483年)亥卯明年花會御頭定の条には、「一 宮頭今井石渡戸今井貞範石渡戸安範御符禮三貫三百三十三文御頭役二拾貫御教書禮三貫三百」とある。石渡戸は今井とに別れ、それぞれに在名を名乗る武士(今井貞範、石渡戸安範等、同族だろう。)の存在があった事が判る。

居館の現況は…耕作地、一般住宅地等となっている。昭和の初頭まで東辺、西辺、北辺の空堀が残っていたそうだが、現在、城郭遺構として確認出来るのは、北西隅の堀形と小祠の鎮座する土塁の残欠のみである。ちなみに昭和四十八年(西暦1973年)時の写真を見ると、西辺には明瞭な堀形が依然として残っていた。

該地の北東側には六ヶ郷用水の分水口が設けられている。同用水は和田氏の開削に始まり、南北朝時代に東条庄に進出し、石渡戸郷等を知行地とした高梨氏が完成させた。乏水地帯に水を引く六ヶ郷用水の開削は、東条庄内における高梨氏一門の知行地、全てに直接の恩恵を与えている。今に見る流路や分水口が往時からその位置にあったと断定する事は出来ないが、同様の場所は堰の至る所に設けられたであろう事は想像に難くない。

石渡戸は今井とに別れたと前述したが、「今井」の地名は、鐘鋳堰を「古井」とした、六ヶ郷用水(今井)の地名化とも考察されている。全国各地、何処にでも見られる「今井」だが、古い地名には必ず意味があるものだ。

※石渡〜現在の読み方は「いしわた」である。深読みして「いさわど」かと思ってた。

※近くには幼稚園も建ってたりしてリア攻めが凄く辛かった…奥ゆかしさに溢れるおいらは初回訪問時の探索を諦めている。

※写真⑧は文中にある六ヶ郷用水の分水口を撮影したもの。近世に入ると用水の利用に当たっては条目が定められている。石渡の下流域、南堀、北堀では一日置き、夜間にしか引水が認められなかった事から、該当日にはこうした分水口に蚊帳を吊るして「寝番」を置くのが常だった。又、堰筋を歩いて上り、小さな分水口から水を盗まれないように見張る事を「堰上り」と言った。六ヶ郷用水から引水する各郷村間では水争いがあり、最終的には郷村内、隣家との争いにまで発展する。これ等、諸問題が完全に解決するのは昭和に入ってからの話だ。

※堰マニアの方、城友さんになってくらさい。伝言お願いします。

2024年09月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
東和田館[横山城  周辺城郭]



さて、居館廻りを続けていると、時には想像を遥かに超える「成れの果て」にぶつかる事がある。水田や耕作地、一般住宅地、学校や寺社なんかはまだましな方、居館敷地範囲をなぞれる場合も多かったりするし、むしろ纏まりを以て改変に及んだ物件なら良物件だとさえ思っている。そんな寛大で変態のおいらでも凄く困るのが、謂わゆる大規模建築物に変貌した物件だ。建築物自体の建面積が居館敷地範囲を遥かに超えてしまい、リア攻め自体がどうしようもなくなる。今回、紹介する物件はおいらも初めて目にする「成れの果て」だった…

和田城(東和田館)は横山城の東方約3.6km、千曲川西岸(左岸)、標高約347mの平野部平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「長野県営野球場」を目標に設定して下さい。長野オリンピックの会場の一つでもあった長野運動公園の一部でもあり、数百台は捨てられそうな駐車場も付いている。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは和田氏と推測されているが…

「長野県町村誌」には、「東西九間四尺八寸(約17.7m)、南北十八間一尺二寸(約32.4m)、平地より五尺(約1.4m)許高地にして四方に外郭あり、城と外郭の間空濠を続す、南に追手あり、今ともに畑となる。西の方より城地へ用水を通せし跡あり 里俗伝に宮下周防守政福居之天文八年(西暦1539年)八月一日卒すと云ふ その男修理太夫政恒世襲す。天文二十二年(西暦1553年)八月村上氏に従ひ小県郡上田に出陣し、武田氏の為敗績し、逃れて農に昄すと云ふ。後平林城主原美濃守該城を補理し属将をして之を守らしむと云ふ。不詳。」とある…

…明治時代の初頭には既に耕地となっていたとはいえ、敷地範囲が判る程の「何か」が残っていたのだろう。又、「不詳」と言いながらも結構な里俗伝が書かれている事に草…

源氏だらけの信濃だが、該地を含む水内郡東条荘和田郷には、桓武平氏の一流である和田氏があった。平安時代末期に東条荘の領主職にあったのは平繁雅であるが、式部大輔に任官していた事から在京が推測され、一族の者を荘園経営のために土着させていたと考察されている。

「吾妻鏡」、文永二年(西暦1265年)大廿日甲寅、善光寺奉行人の一人に、和田石見入道佛阿が定められている。

六条八幡宮(現在の京都府京都市東山区五条の若宮八幡宮社である。)は、文永十一年(西暦1274年)、火災によって焼失するが、この再建に当たって造営費用を主に負担したのが全国の鎌倉幕府御家人である。建治元年(西暦1275年)五月の「六条八幡宮造営注文」には、和田肥前入道の名が見られ、入道は、出家して信濃国に移り住んだ平繁雅の従兄弟、繁継に比定されている。

善光寺奉行人に定められた和田石見入道佛阿は高岡に屋敷を構えており、「とはずがたり」の作者、後深草院女房の二条を善光寺参詣に呼び寄せて自身の屋敷に逗留させている。「高岡」の地名は現在残っていないが、該地とその周辺であったと推測され、東和田館がその屋敷に比定されている。

居館の現況は…野球場となっている。信濃のお城の神は縄張図に点線枠で居館敷地範囲を示しているが、これによれば、長野県営野球場のレフトの定位置から、甲子園球場で言うところの、三塁側アルプススタンドにかけての場所であり、中心地は三塁側ブルペンに求められる。但し、別史料に添付された縄張図によれば、中心地はセカンドベースからセンターの定位置間であり、両者には明らかな相違が見られる(後者が正しい。)。そもそも論で野球場として掘り下げられてしまっているので表面調査すら不可能な物件、流石の阿保でも探索は無理っすわ…

居館地の南側には六ヶ郷用水が流れている。現在の流路は北側に寄っているらしいが、同用水は和田氏の開削に始まり、南北朝時代に東条庄に進出し、和田郷等を知行地とした高梨氏が引き継ぎ完成させた。中世の地頭、在地土豪等には地域の開発領主としての側面がある。堰に隣接する居館地は、これ等、水源を管理する番所機能を有していたとも見て取れる。

※おいらは和田氏の旧跡を知行地とした高梨氏の城館の一つでもあったと考えている。

※「とはずがたり」〜宮内庁書陵部所蔵の桂宮家蔵書に含まれる桂宮本五冊のみが現存する天下の孤本、「The Confessions Of Lady Nijo」のタイトルで英訳もされている。

※別史料は後日に探し出したのでリア攻めは神の縄張図に準じた。まぁ…どっちにしたって球場内なんだけど…ちなみにおいらは外郭の位置を微高地となっているバックスクリーン付近に求めている。もぅどうでもええわ…

※写真⑧は要るのか知らんけど運動公園内から撮影した近景っす。

2023年12月04日 あら内蔵頭いいわ
横山城



説明板は向かいの公民館の入口にありました。これはなかなかわかりません。

2022年11月15日 pika北見守
横山城



11月12日のブラタモリ「善光寺はなぜ多くの人を引きつける?」で紹介されていたのはこの横山城です。ここから、善光寺をはさみ、その奥にある旭山城の武田勢とにらみ合いを続けたと説明されていました。

①JR長野駅善光寺口バス1番乗り場から、アルピコ交通バス 11系統 善光寺経由 宇木行、16系統 善光寺・若槻団地経由若槻東条行、 17系統善光寺・西条経由若槻東条行で「善光寺北」下車 (所要 時間約15分)。徒歩5分。
②JR長野駅善光寺口バス1番又は7番乗り場から、善光寺経由のバス、もしくは善光寺行き「びんずる号」で 「善光寺大門」下車(所要時間約13分)。善光寺のお参りを兼ねて徒歩20分。

2022年05月07日 尼崎城駿河守一口城主
横山城



5月1日、善光寺をお参りした際に登城。
善光寺近くにある城山公園でリア攻めを試みるも失敗。なだらかな坂を上がり健御名方富命彦神別神社⛩の境内でようやくリア攻め認定してもらえました。
善光寺の参道や境内に頼朝公の駒返り橋や義経公家来の佐藤兄弟のお墓があったの載せておきます。大河の今後の展開が楽しみです。

2022年04月12日 縹
横山城

急坂の頂上。城山動物園に向かうと谷。善光寺は坂の下。でも駐車場となりだから行きやすい

2021年08月07日 ファン掃部助トム治郎
横山城



善光寺の横の城山です。裏に無料の駐車場があります。善光寺及び善光寺平を抑えやすい地形だと感じられます。

2021年04月16日 ssac 日向守
横山城



遺構としては本殿後ろに土塁の一部が残るくらいだが、城山展望公園から長野地方気象台にかけて南北に長い縄張の跡としての地形が明確に読み取れ、訪れて見て歩く事が面白い価値の有る城跡と思う。

2019年04月25日 源山城守@ポンコ2…㉔㉕
横山城



善光寺から東へ徒歩5分。神社になっており、社殿のあるとこが本丸のようです。
ここからは木がなければ善光寺平が一望でき、川中島など抑えの役割を果たしていたのがよくわかりました。
フォトは二ノ丸から本丸見上げて。

2018年02月12日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
横山城

善光寺本堂の東側の丘一帯が城跡~ひえ~広い!ここにはアシカくんのいる無料で入れる動物園に、プール、テニスコート、新しい公園、トイレ、2階建ての無料駐車場が完備され、お子さま連れに最適です!改築予定の噴水の大きな公園、東山魁夷で有名な県立美術館、お嬢様学校の清泉女学院高校もあり、これだけでも相当な広さである。東側隅の坂を上りきったところをかつての主郭部と神社のある丘が挟み込んでおり、ここら辺は城の面影を残す…善光寺参りと一緒にリア攻めしてみて下さい!駐車場裏手崖下にある住吉さんのうなぎの蒲焼きは絶品です!

2010年08月25日 傾奇揚げ仙兵衛
横山城

牛に引かれて善光寺参り、城山公園の立体駐車場は無料、善光寺の周りは2時間500なのに

横山城の周辺スポット情報

 風間氏発祥の地 碑(碑・説明板)

 相木城(周辺城郭)

 中沢城(周辺城郭)

 平林本城(周辺城郭)

 東和田館(周辺城郭)

 西和田城(周辺城郭)

 栗田城(周辺城郭)

 尾張城(周辺城郭)

 中御所守護館(周辺城郭)

 三戸部氏屋敷(三戸部市左衛門宅)(周辺城郭)

 金子氏屋敷(千田の千本松)(周辺城郭)

 千田城(周辺城郭)

 風間館(鷹狩屋敷)(周辺城郭)

 中越居館(宮下氏古宅・内堀の家)(周辺城郭)

 石渡館(高山氏館)(周辺城郭)

 南堀館(堀の内・小田切主水館・穂里城)(周辺城郭)

 押鐘城(本城)(周辺城郭)

 善敬寺(周辺城郭)

 桐原城(桐原要害・高野氏古城)(周辺城郭)

 彦神別神社(寺社・史跡)

 城山本願寺(寺社・史跡)

 上杉謙信物見の岩(寺社・史跡)

 善光寺(寺社・史跡)

 風間神社(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 城山公園(関連施設)

 長野県立美術館(関連施設)

 信州善光寺仲見世通り(その他)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore