中沢城

中沢城([横山城  周辺城郭])

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中沢城の口コミ情報

2024年09月20日 内記かずりヾ(・ε・。)


中沢城は横山城の南東約2.4km、千曲川西岸(左岸)、標高約354mの平野部平場に立地した居館です。城域は長野県道58号、長野須坂インター線に分断されている。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。駐車場は近くに沢山あるんだけどねぇ…

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方には中澤氏が推測されている。該地は中世には水内郡南高田郷に属していた。

「諏訪御符禮之古書」、文明十一年(西暦1479年)己亥五月會明年御頭役定の条には、「一 南高田代官中澤源左衛門尉家重御符祝三貫三百北高田代官三河守式重美濃守成以廣田興三郎宇木入道御符祝三貫三百三十三文使孫六御教書祝同前頭役両郷四拾貫」、文明十六年(西暦1484年)甲辰花會明年御頭定の条には、「一 加頭南高田郷井上知行代官中澤源左衛門國吉御符禮三貫三百三十三文使孫六頭役二拾貫」とあり、当時の南高田郷が井上氏の知行地であった事、その代官が中澤源左衛門尉家重、中澤源左衛門國吉であった事が判る。居館の主であろうか。

元亀元年(西暦1570年)九月十七日、関大蔵左衛門尉宛、春日虎綱奉之、武田信玄安堵状案には、「先忠神妙ニ候、然者、南高田郷五百貫、為本領拘来之由候間、無相違可致知行之旨、被仰出者也、仍如件、」とあり、武田信玄は、関大蔵左衛門尉に、本領として南高田郷の内から五百貫を安堵している。甲越が争った時期には、あるいはこうした人達が居館の主だったんだろうか。

該地は、高田西方、通称、「じょう」と呼ばれている。明治時代初頭、地租改正直後の図面によると城域は微高地であり、空堀を含んで、東西約三十七間(約63m)、南北約五十九間(約108m)、台地の広さは三反二畝二十二歩(約3240㎡)、当時、空堀は全てが水田として耕作され、水田と台地面との差は六尺(約1.8m)あったんだそう。

居館の現況は…一般住宅地、事業所等となっている。大正年間(西暦1912年〜1926年)には、既に県道により大きく二分されていたらしい。居館敷地範囲は不明確、遺構は完全消滅、堀跡を追う事も殆ど出来なかった。ちなみに該地には今も中沢さんがお住まい。中澤氏の後裔だろうか。

謂わゆる国道、県道二分系の城館、市街地での探索は交通量が多くて反対側へ渡るのに苦労する。長野市の居館廻りを郊外から始めた訳なんだけど、段々と中心部に近づいて来てしまった。駅近物件も相当数あるので今後は更なる辛いリア攻めが予想される。それっぽい服着て測量会社の作業員を装うかなとか真剣に考えている。

※関大蔵左衛門尉〜善光寺平における関氏は、武田氏時代に同族、同姓を以て各郷の代官等を多数輩出(関内蔵助〜西尾張部、北高田、南長池、北長池代官等)している。「同名衆数多候」とまで言われていたんだそう。

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