風間館(鷹狩屋敷)
風間館(鷹狩屋敷)([横山城 周辺城郭])
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風間館(鷹狩屋敷)の口コミ情報
2024年10月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、巷で大人気の「逃げ若」こと「逃げ上手の若君」だけど、作中にはお稲荷さんみたいな格好をした風間玄蕃なる人物が北条時行の郎党として登場する。当然、架空の人物ではあるんだけど、玄蕃が出自とする風間氏自体は実在の氏族だ。玄蕃のルーツモデルとなったであろうこの風間氏の居館跡が今回の口コミだ。
風間館(鷹狩屋敷)は横山城の南東約4.2km、標高約342mの平野部平場に立地した居館です。別称の鷹狩屋敷は、真田信之の三男、信重が風間村を知行し、鷹狩の際の茶屋を該地に設けたのがその由来である。
行き方はGoogleマップに位置登録されている浄土真宗大谷派の寺院、「常福寺」を目標に設定して下さい。この寺院の境内が該地となり、当然、車も捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは風間氏です。同氏は諏訪氏系の一族とされ、式内社である風間神社の神司となったのがその発祥と推測されている。その一方で、風間氏と風間神社に関係は無いとし、諏訪氏の一族、矢崎家直の一子が風間郷に移り住み、在名を取って風間忠直を名乗ったのが始まりとも伝わる。神社はその際に諏訪社に改められたんだそう。これについては現在の風間神社の神主さんがそう言っている。
応永七年(西暦1400.年)の「大塔合戦」の際には、村上満信麾下として、近隣の千田、吉益等の諸氏と共に風間宮内少輔の名が見られる。
「諏訪御符禮之古書」、寛正二年(西暦1461年)辛巳五月會の条には、「一 左頭風間同風間安芸守光貞代官原大和守近光御符之禮三貫三百 使孫六二郎五郎 頭役六貫」、応仁二年(西暦1468年)戌子御射山の条には、「一 左頭風間安芸守光貞御符之禮三貫三百三十三文使一貫文 曾次二郎 又代官原大和守近光頭役十貫」、文明五年(西暦1473年)癸巳御射山明年御頭定の条には、「一 右頭風間殿知行代官原大和入道有源御符二貫二百三十三文にて候を当年二貫八百出候使曾次次郎御教書禮同前路餞別出候御教書禮兎角大和入道申候て此罰風間殿頓死家中も因死去頭役七貫」、文明十七年(西暦1485年)乙巳御射山明年御頭定の条には、「加頭御射山風間代官原大和入道有源御符禮二貫三百使孫六本は三貫三百今年初二貫三百御教書禮同前」とある。文明五年の条では、「風間殿」が罰(神罰)を受けて頓死、家中にも不幸が及んだ事が述べられているが、何の為に罰を受けたのかは意味がよく解らない。
伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「長沼分」には、「かさまの大夫式部少輔殿 のし廿本 茶五つ」とあり、武田氏時代にも風間氏があった事が判る。
居館の現況は…前述のとおり常福寺の境内となっている。居館敷地範囲は不明だが、周囲を取り巻く舗装道路の一部に堀跡を求める事ぐらいは可能かもしれない。又、近年まで水堀が残っていたそうで、冬場になると子供達がスケートを楽しんでいたんだそう。
該地の西南西約0.9kmの位置には前述の風間神社が鎮座する。その付近にはGoogleマップにも位置登録されている、「風間氏発祥の地 碑」が建っている。どちらもスポット登録しといたけど、口コミすんのが面倒なんで興味があったらGoogleマップの3Dで仮想リア攻めしてくらさい。
※現在の風間神社の主祭神は級長津彦命、神社は伊勢津彦命と共に風の神を祀っている。風間神社が、神社と諏訪氏系の一族とされる風間氏との関係性を否定するのも頷けるし、何よりも居館地と離れ過ぎではないだろうか。