長沼城(ながぬまじょう)

長沼城の基本情報

通称・別名

所在地

長野県長野市穂保

旧国名

信濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

長沼島津氏

築城年

室町時代

主な改修者

馬場信春

主な城主

長沼島津氏、原与左衛門・市川梅印(武田氏家臣)、各務氏(森氏家臣)、佐久間氏

廃城年

遺構

曲輪、横堀跡

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

髻山城(長野県長野市)[4.9km]
若槻山城(長野県長野市)[5.6km]
井上城(長野県須坂市)[6.2km]
福島正則館(長野県上高井郡)[6.9km]
横山城(長野県長野市)[7.7km]
内堀館(長野県中野市)[8.4km]
葛山城(長野県長野市)[9.7km]
旭山城(長野県長野市)[10.4km]
霞城(長野県長野市)[10.9km]
中野陣屋(長野県中野市)[11.2km]

長沼城の解説文



長沼城(ながぬまじょう)は、長野県長野市穂保にあった日本の城。戦国時代には上杉氏と武田氏の戦いの舞台となり、江戸時代には長沼藩の藩庁が置かれた。

概要 

築城の時期は明確ではないが、太田荘の地頭職を鎌倉時代以来相伝してきた島津氏の一族信濃島津氏が、室町時代に土着して勢力を伸ばし、最初に築いた城といわれている。築城時は堀と土塁で囲んだ館のようなものであったようである。

武田信玄方時代 

弘治3年(1557年)、武田信玄の北信濃侵攻に伴い、島津忠直 (信濃島津氏)は難を避けて北の大倉城に逃れた。弘治元年(1555年)、永禄4年(1561年)、永禄11年(1568年)の三回にわたって改修、修復が行われた馬場信春によって本格的な城郭として改築された。

武田家前進基地として 

永禄11年(1568年)、武田氏の支配下では足軽大将の原与左衛門尉勝重・市川等長(梅隠斎)らが守将として配置された。川中島の戦いから7年後、武田軍は本拠地を海津城から長沼城 (信濃国)に移して飯山城など北信濃の攻略の前線基地にしたとされる。江戸時代に描かれた「長沼古城の図」は平城で東方を千曲川で防御し、西南に武家屋敷、北方に大手門と冠木門で固める小規模ながら近世城郭に近い総構えであったとされる。

武田氏滅亡以降 

天正10年(1582年)3月、織田家の甲州征伐によって、武田氏が滅び、織田家臣の森長可が海津城に入り、その支配下の城となった。同年6月には織田信長が本能寺の変で倒れると、武田遺領を巡る天正壬午の乱となって、芋川氏など土豪一揆に攻撃されて撤退し越後から侵攻した上杉景勝の支配する城となり、天正10年(1582年)、島津忠直 (信濃島津氏)が入城した。

安土桃山時代 

慶長5年(1600年)には上杉氏の転封に伴って島津氏は会津に去り、長沼城周辺が豊臣秀吉の蔵入地となった。

== 江戸時代 ==

徳川家康によって新たに川中島藩13万6500石の領主となって海津城に入った森忠政の配下である各務元正、各務元峯親子の居城となった。江戸時代に入った慶長8年(1603年)には森氏の転封によって長沼藩1万8000石の佐久間氏が入城した。

元禄元年(1688年)に佐久間氏が幕命に従わなかったとして改易された後、佐久間氏4代で廃城となった。

構造 

東に千曲川を天然の堀とし、本丸と二の丸を持つ平城である。

遺構 

度重なる千曲川の洪水のために城址の大部分は流失してしまっている。

貞心寺の付近に小さな盛り土があり、そこが本丸跡であるといわれている。そこに「長沼城跡」と記された碑や、石塔、祠などがある。東側は千曲川まで、西側は現在の県道368号あたりまで、北側は守田神社のあたりまでが城域であったと考えられている。

長沼城の口コミ情報

2024年08月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
西厳寺[長沼城  周辺城郭]



西厳寺は長沼城の南方約1.0km、浅川東岸(右岸)、千曲川西岸(左岸)、標高約334mの平野部平場に立地する寺院です。謂わゆる千曲川の氾濫原であり、寺地の東側には同川の堤防が迫っている。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。周辺地域は寺院が隣り合う様に集中する寺町である。

西厳寺は、鎌倉幕府第四代征夷大将軍、藤原頼経に従って下総国に下向した成田下総守政晴が仏道に帰依し、後に親鸞の関東滞在中にその弟子となり出家、空晴を号し、建武八年(西暦1256年)、同国磯部に西厳寺を創建したのが始まりである。元弘元年(西暦1331年)、三世空念の時代に関東の戦火で焼失、延元元年(西暦1336年)、駒沢兵部少輔が当地に招いて再建した。宝徳元年(西暦1449年)には蓮如が訪れ、文明二年(西暦1472年)には二ヶ月程滞在、その跡は「蓮如堂」として今に残っている。

永禄十一年(西暦1568年)には武田信玄が寺領四十貫を安堵し、上杉勢が攻め寄せる際には海津城に入り、越後口に兵を出す際には野伏一人を同道させる事を求めている。天正五年(西暦1577年)には一向宗門徒が籠城する摂津石山城へ兵糧米七十三俵を送った記録が残る。

「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に掲載があるが、信濃のお城の神は城郭寺院として西厳寺を見ているようだ。武田氏は、浄土真宗と盟約関係にあり、領内の同宗寺院に対して一定の軍事的協力関係を求める事が出来る立場にあった。

城郭遺構は見出せないが、門外漢にも寺院として訪れる価値が十分にある。北信、特に太田庄内において浄土真宗を広めたのは西厳寺であるとするのも頷ける。太鼓楼(本證寺の鼓楼に似た花頭窓が印象的だ。)の脇を抜けて石畳を歩き、蓮如堂を右手に見ながら進めば大きな本堂が眼前に現れる。正直、こんな立派な寺院が千曲川の堤防脇にあった事にびっくりした。春には堤防上の桜(桜づつみ)も咲き乱れるらしいので、季節を選んで訪ねるのもよいだろう。又、情報確認不足で未見だが、真宗大谷派第十二代法主、教如光寿の長女である智光院妙空禅尼(朝倉義景の娘である三位殿との間に儲けられた女子である。)の墓があるらしい。

※ 摂津石山城へ兵糧米七十三俵を送った〜この手の話をいつも疑問に思うのだが、遠隔地に兵糧米を直接担いで運び入れたとはとても思えない…為替によるものなんだろうか。

※ 磯部六ヶ寺の一つである。現在は真宗大谷派、山号は成田山、安養院西厳寺となっている。

※西厳寺に隣接して、西光寺、証各寺、勝念寺、徳乗寺の四寺が建ち並ぶ。元は全て西厳寺の塔頭であり、現在も真宗系の寺院である。かつての西厳寺の寺地は広大だった。

※写真③、背景の堂宇は西厳寺の南側に建つ東本願寺単立の寺院、西光寺の本堂、山号は山崎山である。

2024年07月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
佐久間氏館(佐久間長助居館)[長沼城  周辺城郭]



佐久間氏館(佐久間長助居館)は長沼城の北方約1.4km、浅川東岸(右岸)、千曲川西岸(左岸)、標高約332mの平野部平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「蓮正寺跡」を目標に設定して下さい。この寺院跡が概ねの該地となり、車も何とか捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは佐久間長助(「長野県町村誌」)だが、「寛政重修諸家譜」には見られない人物である。

元和二年(西暦1616年)十二月六日、佐久間大膳亮勝之が、長沼を中心とする一万八千石を拝領し長沼藩を立藩、佐久間家は、貞享五年(西暦1688年)五月十八日、改易となるまでの四代、七十二年間に亘って同地で存続した。大膳亮勝之は佐久間久右衛門盛次の四男で、兄には玄蕃助盛政(「賤ヶ岳の戦い」で有名だ。)、久右衛門安政、柴田三左衛門勝政がいる。当人は、柴田勝家の養子を初めとして、後には佐々成政の婿養子、成政が秀吉に服すると妻を離縁して関東へ赴き後北条氏に仕え、その滅亡後には秀吉の命で蒲生氏郷に仕えている。

三代藩主、勝豊は寛永十九年(西暦1642年)九月、三千石を舎弟、勝興(長助とも。)に分知し、勝興は赤沼に新館(赤沼知行所)を建てたが、その居館地が該地である。正保四年(西暦1647年)三月、幕府に提出された「信濃国郷村帳」には、「金箱村、上駒沢村、富竹村、下駒沢村、津野村、赤沼村」とあり、六ヶ村、二千五百石を信濃国における知行地とした。不足分は国外他所(近江国高島郡内)で補っていたと思われる。

勝興は、寛文四年(西暦1664年)に病死し、初代長沼藩藩主、勝之の三男、勝種の二男、盛遠が養子に入り、同年十二月に家督を相続したが、天和三年(西暦1683年)八月、実父である勝種は大島に流され、連座した盛遠も所領を没収され赤沼知行所は廃絶した。ちなみに同知行所は苛政で知られ、寛文十年(西暦1670年)、所内の惣百姓は幕府に越訴を以ってこれを訴えている。訴状には、高免、高役によって百姓は立ち行かないとして、十七ヵ条に及ぶ治政の非道が列挙された。勝種は幼年の盛遠に代わって知行所を差配する執政でもあった事から、これが遠流の遠因ともされている。

居館の現況は…果樹園、墓地、地区の公民館とその敷地、延命地蔵尊等となっている。居館地の旧地にあった蓮生寺も廃寺となっており、遺構は完全消滅、その敷地範囲すら定かではない。正直、個人的な話だが近世に入ってからの物件に情熱を傾けられない。「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に掲載があるとはいえ、神本の趣旨からすれば本来ならば対象外となる筈だ。

長沼藩初代藩主、大膳亮勝之はお化け灯籠メーカー(阿保…)として有名、京都府京都市の臨済宗南禅寺派の寺院、瑞龍山南禅寺、愛知県名古屋市の熱田神宮、東京都台東区の上野東照宮の三基の大灯籠は日本三大灯籠と呼ばれるが全てこの勝之の奉納である。

2024年07月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
小島古城(砂田城・焼き場)[長沼城  周辺城郭]



さて、信濃のお城の神は信者に踏み絵を突き付ける事も度々だとどっかの口コミで書いた気がするけど、今回の口コミはそんな踏み絵物件の一つ…先月訪ねたお城なんすけど、この蒸し暑い中でのリア攻めは平城といえども容赦無し。日陰が欲しかったぜ。

小島古城(砂田城・焼き場)は長沼城の南西約2.8km、浅川東岸(右岸)、千曲川西岸(左岸)、標高約337mの平野部平場に立地する居館城です。ちなみに該地は信濃のお城の神が導き出した比定地である。

該地の長野市小島を平野部平場と書いたが、往古は浅川や北八幡川の本流等、千曲川に流れ込む大小河川が創造した扇状地上の島状微高地であったとされ、地名の「小島」にその名残りを残す。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所はそこら辺でどうにでもなる。ちなみにやる気の無い方には該地の特定が難しい…

築城年代は不明、築城者は小島氏になるんだろうか。「長野県町村誌」には、「古城址」として、「村(小島村)の正北にあり、小島氏代々之に居る。応永七年(西暦1400年)九月小笠原長秀本国守護職を奉す。諸将長秀の命に随わず、更級郡布施郷に於て合戦に及ぶ、小島刑部少輔、村上満信に従ひ出陣す。天文二十二年(西暦1553年)村上義清、武田晴信と小県郡上田原に戦ふ、義清敗れて越後に走る。義清の幕下小島権之丞奮戦して死す、後廃城となる。」とある。

町村誌の記述には誤りがあるが、村上氏に従った小島氏の居館城であった事は判る。文中には、「義清の幕下小島権之丞奮戦して死す、…」とあるが、同名の五輪塔は「小島権兵衛の墓」として今も上田市下之条壱丁田に残っている。又、一族と推測される小島兵庫助は、葛尾城のリア攻めマップにある狐落城において大須賀久兵衛尉の離反がために討死した。

該地の小島は「吾妻鏡」によれば、当初は太田庄に属する郷村であり、同庄を構成する六郷、「神代、石村南、小嶋、津乃、大倉、石村」の内の一つである。太田庄地頭職、島津氏の影響下にあった地域ではあるが、小島に村上氏が進出した時期にあっては不明である。

該地は今に残る小島地区の表面条里遺構のほぼ中心に位置し、古代には善光寺と千曲川の対岸、高井郡とを結ぶ道筋、通称、「中道(なかみち)」が通過する交通の要衝だったと推測されている。即ち、中世の善光寺の東門、本堂(現在の仁王門付近である。)付近に端を発した道筋は、東行して和田(古牧)を通り、小島を経て布野(柳原)の渡しで千曲川を渡る。東和田には、「中道東」、「中道西」の地名が残り、高井郡家と水内郡家を東西に一直線で結ぶ伝路とも考察されている。更にこの小島付近では北上する別の道筋も推測されており、経路上の富竹には、「山道東」、「山道西」の地名が残る。「山道」は東山道沿いによく見える地名である事から、この道筋が往古の官道であったとも考察されている。

お城の現況は…何も言えねぇ…そもそも論で比定地だしね。地区で管理されている「焼き場」と呼ばれる田甫中の空地と隣接する果樹園がその中心地、野焼きの火葬場だったと思われるけど、この地名は近代に入ってからのものだろう。城郭遺構なんてある筈も無く、正直、何の感慨も湧いて来ない。町村誌の絵図は良い感じなんだけどねぇ…とっとと帰ろう。

一応、長野市では埋蔵文化財としての登録がある(砂田城)。但し、概ねの位置を把握しているのみと思われ、該地の特定には至っていないようだ。

※「中道(なかみち)」〜北陸新幹線の建設工事に伴う浅川扇状地遺跡群の発掘調査において、この中道の経路上に古代の道の側溝と思われる溝が検出されている。

※高井郡家、水内郡家の場所にあっては特定されていないが、前者は長者屋敷遺跡に、後者は現在の長野市県町、もしくは善光寺の周辺が推定されている。

※写真①は要るのか知らんけど東方から撮影した近景っす。

※リア攻めは殆ど通り過ぎただけの内容だけど、こり書くのにトータル4時間位…阿保なんでしょか。

2024年07月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
中俣城[長沼城  周辺城郭]



中俣城は長沼城の南南西約3.3km、北八幡川西岸(左岸)、標高約337mの平野部平場に立地する居館城です。該地は西方から流れる北八幡川が北方へ急に向きを変える場所であり、同川が天然の堀の役割を果たしている。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地の駐車場に捨てられるが何のための駐車場なのかは知らん。

築城年代は応永三十一年(西暦1424年)、築城者は井上氏とされ、城主に井上左馬助光頼の舎弟、井上遠江守の名が伝わる。

「長野県町村誌」には、「古城跡」として、「本村(柳原村)午未(南南西)の方一町にして字堀組にあり、中俣城と云ふ。本丸跡東西三十二間三尺六寸(約58.5m)、南北五十三間(約95.4m)東の方に接し、二ノ丸跡東西二十七間一尺(約49m)、南北五十間(約90m)、西北へ連続し、三ノ丸跡東西三十八間一尺(約68.7m)、南北三十三間(約59.4m)、回字形をなす。今耕宅地となる。芦立長十四間(約25.2m)、巾一間三尺(約2.7m)、水溜長三百廿一間(約577.8m)、巾一間三尺六寸(約2.9m)あり。築城年月及城主不詳。里俗伝に応永中(西暦1394年〜1427年)、井上左馬介光頼舎弟遠江守居住し、後村上氏の幕下となる、事跡不詳。弘治永禄(西暦1550年〜1570年)に至り武田氏の所有となり、其臣交代して居住すと云ふ。…慶長七年(西暦1602年)八月十日の検地帳に堀端、木の下、下馬出し等の字あり。」とある。

天正十年(西暦1582年)には、上杉氏被官、本田安房守の居城となったらしいが、後に上杉氏が会津に移封されると本田氏もこれに従い城は廃されたんだそう。

お城は三つ葉のクローバー的に3郭が隣り合う縄張、城域の北西隅は国道18号に削り取られているとはいえ、現在の舗装道路は堀形を殆ど踏襲しているらしい。遺構は完全消滅しているが、昭和の初期頃までは空堀と身の丈程の土塁が残っていたんだそう。又、縄張図における通称本丸には城山稲荷が鎮座、鳥居の前にはお城の説明板も立っている。

中俣城に隣接した西側の一帯は、正治元年(西暦1199年)、井上又太郎頼綱の子、与四郎頼重が建久四年(西暦1193年)、叡山に出家した後、明空を号して開基した柳嶋山勝善寺の旧地、同寺は磯辺六ヶ寺の一寺でもあり、数世を経た後、慶長三年(西暦1598年)、高井郡へ寺地は移動し当地での歴史を終えた。井上氏は仏門に入る者が多かったそうなので、頼重もそうした一人だったと言えるんだろう。同名は親鸞聖人直弟子六人の内の一人だが、出家年を考えると親鸞とは同世代の人物である。

一説によれば、中俣城の通称本丸には勝善寺の本坊が、通称二の丸や三の丸には五ヶ寺や寺侍の屋敷があったとも伝わり、寺地と一体となった城館であったとの想像も出来る。何れにせよ両者が無縁ではなかった事は確かだろう。

天正五年(西暦1577年)貳月十八日、勝善寺の住職、順西は、摂津石山城に籠城中の本願寺顕如光佐に金子を送り、同年三月廿五日には、有名なバトル坊主、下間刑部卿法眼頼廉がこれを謝している。又、天正六年(西暦1578年)七月十九日、順西は、武田氏家臣、今井新左衛門尉(信衡)、武藤三河守(常昭)宛に、寺領年貢を書き上げて注進している。

※今井新左衛門尉(信衡)、武藤三河守(常昭)〜生島足島神社文書中、「武藤神右衛門尉常昭起請文」には、「一自今以後、今井次郎左衛門尉与入魂致間敷候、…」、「一向後朋友之調并徒党立仕間敷事」とあり、武藤神右衛門尉常昭は、今後、今井新左衛門尉と仲良くしない。勝手に仲間を作って徒党を組んだりしない旨等を誓わされている。奉行人としての中立性を求められたのだろう。

2023年05月22日 マグロ常陸介祐平
長沼城



川中島の戦いの前線基地となったお城で、江戸時代は長沼藩の陣屋として使用され、元禄期に藩主佐久間氏の改易により廃城となっています。

本丸部分が千曲川の堤防の下敷きになっていますが、それ以外を広範囲にわたり発掘調査をしていました。

城域に建立された貞心寺には、藩主嫡子佐久間勝年の墓があります。

2020年08月31日 ガルガリ「弾正大弼」博士
長沼城

JAアグリ長沼の駐車場に車を止めて徒歩10分くらいで行かれます。本丸跡は千曲川の堤防になっており、二の丸に石碑がありました。19年の台風19号の堤防決壊箇所はどうやら長沼城址の所のようです。

2019年06月23日 笑門来猫
長沼城



川中島の戦いの舞台の1つ。遺構として、天王宮の土丘があります。一方、本丸跡、櫓台跡、三ノ丸跡など案内板が設置されてるのですが、当時の姿を思い描くのが難しい。

2015年10月18日 カデル織部正
長沼城

10月19日(月)放映、長野県テレビ信州15時50分~ゆうがたGet!にて「ナゼ無い長野市幻の城」

2015年09月02日 カデル織部正
長沼城

「長沼城復元絵図」
2015年9月1(火)~6日(日)の期間
長沼りんごホール(長沼公民館)で開く特別企画展「長沼城と長沼藩1万8千石」で展示されるそうです。

2012年11月08日 まるさん伊豆守小町時間割
長沼城

国道18号線を原チャリで走行中に『長沼小学校』の入り口案内板をたまたま見つけて…


長沼城跡が近いのかな?と思って寄ってみました。


この長沼地区は城跡を含めた整備に力を入れているようで…

その一環として、今年3月に長沼城の遺構の存在していた各地に説明看板が設置されていました!


ちなみに、長沼公民館の男性職員の方は長沼城跡などに関しての知識も深いようですので…

公民館開館日に来られた方は公民館に寄ってみることもオススメします。

長沼城の周辺スポット情報

 長沼城跡 碑(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 小布施陣屋(周辺城郭)

 中俣城(周辺城郭)

 小島古城(砂田城・焼き場)(周辺城郭)

 佐久間氏館(佐久間長助居館)(周辺城郭)

 西厳寺(周辺城郭)

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