中野陣屋(なかのじんや)
中野陣屋の基本情報
通称・別名
- 中野県庁
所在地
- 長野県中野市中央2-826他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 徳川幕府
築城年
- 元和2年(1616)
主な改修者
- -
主な城主
- 松平氏、河野氏、徳川幕府(天領)
廃城年
- 慶応4年(1868)
遺構
- 石垣、井戸
指定文化財
- 県史跡(中野県庁(中野陣屋)跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
高梨氏城館(長野県中野市)[0.4km]
内堀館(長野県中野市)[4.8km]
福島正則館(長野県上高井郡)[9.0km]
長沼城(長野県長野市)[11.2km]
髻山城(長野県長野市)[11.9km]
飯山城(長野県飯山市)[12.4km]
割ヶ嶽城(長野県上水内郡)[13.7km]
平沢城(長野県下高井郡)[13.8km]
若槻山城(長野県長野市)[15.2km]
井上城(長野県須坂市)[15.4km]
中野陣屋の解説文
中野陣屋の口コミ情報
2025年08月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
草間城(草間館)[中野陣屋 周辺城郭]
草間城(草間館)中野陣屋の西南西約5.4km、篠井川北岸(右岸)、千曲川東岸(右岸)、標高約334mの河岸台地上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は路駐で大丈夫やろ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは草間氏です。同氏については同じ中野陣屋のリア攻めマップにある、大久保館、茶臼峯砦も併せて参照して下さい。
「長野県町村誌」には「古城址」として、「本村(草間村)の西、字堀にあり東西四十七間(約85.5m)、南北廿八間(約50.9m)、回字形をなし、平地より高き事一丈(約3m)許四面遺濠あり。今は残らず民田となる。然れどもその遺跡顕然として里俗稱して草間城と云ふ。築城年月不詳、里俗傳に鷹永(西暦1394年〜1428年)の初め、御館城(在址本郡中野町)主高梨氏の幕下草間次郎(後豊後守)信良居城す。同二十七年(西暦1420年)庚子より其子草間志摩守信具、永正三年(西暦1506年)丙寅より其子草間伊豆守信俊、天文七年(西暦1538年)戊戌より其子草間主殿之助淨養等襲て之に居す。永禄二年(西暦1559年)己未武田氏兵を擧て高梨政頼を略す。此時當城も陥られ、淨養、政頼に従ひ越後に逃れ、上杉景虎に據る。尋て長尾政景の物頭となる。武田氏本城を攻むるの際本村にある烽火臺(茶臼峯砦)及び當城に火を放つ、城郭灰燼となる。以降廃城たり」とある。
町村誌にある草間主殿之助淨養等襲は、「川中島軍記」に、永禄四年(西暦1561年)辛酉九月九日、第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」において、「…甲州の臣、三枝新十郎と共に奮勇烈戦し、終に両士槍を串き討死すと見ゆ。」とあるんだそう。又、草間氏の世襲順序は、後に米沢藩藩士として存続した同氏の旧江戸在番、草間荘蔵が家譜から抜録したものを記したとも。
居館の現況は…一般住宅とその敷地等となっている。居館跡としては優れたものの中の一つであろう。町村誌の言う微高地としての形状がそのまま残っている。突撃お宅訪問でもしない限り中に入っての探索は難しいのだが、周囲から眺めるだけでもその存在感は十分に伝わってくる。びっくりする事に門戸の部分には「草間城跡」と書かれた標柱が…嬉しい配慮には感謝しかない。ちなみに該地の小字は「堀」だが、町村誌に添付された絵図には居館地を四囲する堀がしっかりと描かれている。南面に見られる、舗装道路との間の不自然な空地は堀形であろう。
纏まりを以て改変されたのは有難い事だ。高さ一丈の面積のある微高地は、後世においても有意義に活用され続けている。ちなみに同じ中野陣屋のリア攻めマップにある立ヶ花城とは指呼の距離にある。同城の役割を鑑みれば、草間氏が主家の高梨氏に対して果たしていた役目も自然と知れるだろう。水内郡から千曲川を立ヶ花で渡り高井郡中野郷へと至る川東道の経路上に草間氏関連の城館は集中している(知行地でもある訳だが…)。
※高梨氏が惣領制からの脱却を推し進める過程において台頭したのがこの草間氏ではないかと個人的には考えている。
※居館跡としては優れたものの中の一つ〜写真見てこりが…?て思うかもしれないんだけど、居館地がその立地故に後世に辿る運命を想像してくらさいな。山城とは訳が違うのら。
※写真には撮影日時が違う物が1枚だけ含まれている。
2025年08月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
茶臼峯砦[中野陣屋 周辺城郭]
さて、日本に一体どれくらいあるのか知らんけど、全国何処にでも見られるお山の名称が茶臼山だ。当然、山容が茶臼に似ている事からそう呼ばれていたんだとは思うんだけど、果たして本当に似ているんだろうか。おいら、ネットで茶臼を画像検索してみたんだけど、正しく縦に長い円柱形の臼であり、どう考えてもお山の形には到底成り難い代物、「う、嘘つきっ!」みたいな感じだった。
茶臼峯砦は中野陣屋の西南西約4.5km、篠井川北岸(右岸)、千曲川東岸(右岸)、標高約366mの丘陵地上平場に立地する砦です。北麓の長野県道29号、中野豊野線からの比高は15m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「日本同盟基督教団中野キリスト教会」…を目標に設定して下さい。この教会の南西側、舗装道路に囲われた一般住宅地が該地の概ねの中心地だ。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
最初に断りを入れておくが、該地の茶臼峯は白鷺団地の造成によって山稜の一部分が削り取られ、段の付いた削平地等に改変されてしまっている。運の悪い事に茶臼峯砦の城域はこの部分が殆どであり、事実上、砦は完全消滅している。
築城年代、築城者は不明だが、城主として草間氏の名が挙がる。同氏については同じ中野陣屋のリア攻めマップにある、大久保館、草間城も併せて参照して下さい。
「長野県町村誌」には「烽火臺址」として、「本村(草間村)の東、日和丘嶺上字茶臼峯にあり。東西廿間(約36.4m)、南北十五間(約27.3m)、五稜形をなす。遺壘等依然として猶存す。今に至り近傍を耕田する者、往々鐓或は鎗、鏃等の土砂蝕入したるを得るあり。」とある。
草間氏は、永禄二年(西暦1559年)三月、武田氏の信濃経略によって主家の高梨氏と共に中野地方を逐われ、以降は高梨氏の幕下として上杉氏に随身している。年次不詳、高梨氏諸士注文案には、「犬飼内浅野分 当知行草間殿」とあり、草間氏は高井郡犬飼郷内浅野に新たな知行地を得ていたようだ。
永禄十二年(西暦1559年)霜月(十一月)十三日、信濃の国人領主等は、長尾景虎が関東管領に補任された事を祝して太刀を贈っているが、その次第の中に「御使者ニて御太刀ノ衆」として、「高梨政頼ノ御使者ニ筆(草)間出羽守」とあり、草間出羽守なる人物が高梨政頼の使者であった事が判る。もしかしたら「上杉景勝自筆腰物目録」に書き上げられた、「一 くさま一もんし(草間一文字)」の太刀はこの時に贈られた一振りなのかもしれない。
砦の現況は…完全消滅、語る事は出来ない。往時の縄張は中空にあるのだ。現在の地形に拘る事はそれこそ全く意味が無い。
こんな物件だけど再訪となる。前回訪問時は資料を忘れてしまいこの砦が完全消滅している事に気付いていなかった。但し、再訪してもやる事は変わらなかってん…阿保…
※くさま一もんし(草間一文字)〜刀剣専門家の間では村上氏の被官、佐久郡内雁峰城城主、草間備前守に纏わる物だと推測されているが…少々無理があるように思う。
※写真は撮影日時が違う物が含まれている。意味の無い写真だけどこの辺が造成によって削られた部分て事で勘弁…
2025年08月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
大久保館[中野陣屋 周辺城郭]
大久保館は中野陣屋の西南西約4.5km、篠井川北岸(右岸)、千曲川東岸(右岸)、標高約364mの丘陵地斜面上平場に立地したと推測される居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「高丘公園」を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップを参照して該地を特定しよう。車はそこら辺に捨てられる。
最初に断りを入れておくが、該地は大久保にあったとされる草間氏の居館地の推測地である。信濃のお城の神が三面に窪地を控える居館地の適地として付近一帯から選び出した単なる場所に過ぎない。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは前述したとおり草間氏です。同氏は高梨氏の有力な被官衆の一氏だが、高梨氏の一族なのかは判らない。一説によれば律令制下における信濃十六牧の一つ、高位牧の牧人として古くから土着していたとも。
「長野県町村誌」、「草間村」の管轄沿革には、「古事不詳。高梨氏の幕下草間氏の領知たり。鷹永(西暦1394年〜1428年)の初め草間豊後守信良あり。五代の孫草間主殿介淨養迄相襲す。永禄二年(西暦1559年)己未三月武田信玄本郡(高井郡)を侵し、高梨政頼及び草間淨養が居城を陥る。淨養は政頼に従ひ、上杉景虎に據る。淨養尋て長尾政景の物頭となる。…」とある。
草間氏は、応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」の際には、高梨薩摩守友尊(朝高)麾下として草間大蔵が参陣している。
永正十年(西暦1513年)七月、小島氏、夜交氏が中野牢人衆と謀り、主家の高梨氏に叛いているが、企ては草間大炊助の機先を制した武略により失敗に終わっている。
居館の現況は…果樹園、空地等となっている。該地には段が付けられているが誰がどう見たってただの果樹園としか見えないだろう。敷地範囲、形状や形態を想像する事をも憚れるような物件だ。居館地の適地かどうかも微妙なところであり、素人が付近一帯を歩き廻った結果に過ぎないが、此処よりも北側に見える丘陵頂部に建つ一般住宅とその敷地の方が北方への展望も開けており遥かに適地だと思う。何れにせよ、改変著しく何かを見出す事は全く不可能である。
該地は大久保地籍に位置するが、往古には、平安時代中期に編纂された「和名類聚抄」に載る、高井郡小内郷に含まれており、後には同郡椚原庄、六川郷へと転じている。集落(後の草間村)の中心地は戦乱等により転々としており、大久保村とかつて称した時期もあったらしいが寂れてしまったらしい。従って、古い小字、小名も残っていないらしく、該地を特定する手立てが全く無い。
色物物件の探索て満足する事は決して無いんすけど、何かしらの痕跡や断片を探し出せれば御の字かなと思って手を抜かずに頑張っている。が、それすらをも許されない物件も多々ある訳でして…これもそんな内の一つ。
※高位牧〜位置に諸説があるが、該地の北東約5.6kmの位置には高位牧神社が立地している。
※写真③、④はおいらが居館地の適地と考えた場所っす。改変もあるが全然良い感じ…草間氏の砦が立地した茶臼峯とも東西に連絡している。
2025年08月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
岩船氏居館[中野陣屋 周辺城郭]
岩船氏居館は中野陣屋の西南西約1.0km、標高約355mの平野部平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「岩船南公園」を目標に設定して下さい。この公園とその付近一帯が概ねの該地であり、車はそこら辺に捨てられる。ちなみに岩船氏居館は、敷地範囲、形状、形態が不明であり、探索自体が意味の無い行動である。
該地は千曲川がもたらした堆積土が形成した中野扇状地の央部に位置し、中世には高井郡岩船郷に含まれていた。中野氏や高梨氏が拠った同郡中野郷とは隣接しており、中野地方では早くから開発が始まった地域の一つとも考えられるが、往時の夜間瀬川は中野の北方、一本木と松川(地名である。)の境から岩船と吉田の境を西流しており、同川の氾濫の危険性が少なくなかった地域でもある。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは岩船氏です。同氏は詳細が殆ど伝わらないが藤姓中野氏の一族と推測されており、居館の主は岩船藤左衛門尉ではないかとも云われている。永正十年(西暦1513年)七月には、高井郡に割拠する、夜交氏、小島氏が中野牢人衆と謀り、主家の高梨氏に叛いているが、岩船氏はこの中野牢人衆を構成していた一氏であろうか。
明鷹九年(西暦1500年)庚申十一月十五日、夜交六郎(景国)宛、高梨政盛安堵状には、「信州高井郡夜交甲斐守(高國)當知行之所、不残壱所、 一 下上条并新野之高とう在家 一 小たけ分西条、岩舟并上条ニ在之、 一 藤澤分并於于役等之儀者、可為前分、此他ニ能州ゆいしょの地在之、右、如親父之托、少もたがわす、軍役忠節等可被抽其劫(功)者也、仍領掌如件、」とあり、岩舟(船)の一部に夜交氏の知行地があった事が判る。
天正八(西暦1580年)庚辰壬三月廿三日、夜交左近丞(頼国)宛、土屋右衛門尉(昌忠)奉之、武田勝頼改替状には、「定 岩船之郷七拾貫文、当納三拾表之所、上表付而、被任御訴訟、夜交之内山脇分廿貫、当所務貳拾八俵之所、為右之御改替、被下置之由、被仰出者也、仍如件、」とあり、夜交頼国は、武田勝頼に、岩船郷七拾貫文と夜交郷山脇廿貫文の領替を願って許されている。
天正十年(西暦1582年)六月十六日、夜交左近助(頼国)宛、上杉景勝宛行状には、「今般可有忠信付而出置之覚 一 夜交之郷 一 うき 一 新野 一 岩船」とあり、岩船郷が夜交氏の知行地として再び現れる。
居館の現況は…空地、一般住宅地、前述したとおり岩船南公園等となっている。周辺一帯は住宅地として開発されており、兎に角、改変が著しい。探索は意味が無いてよりも何も出来ないてのが正解だ。
過去には「西条・岩船遺跡群」として発掘調査が行われている。平成元年(西暦1989年)の発掘調査では、木箱の中に3万4千枚の銭が百枚を単位として全てを紐で通された「緡(さし)」と呼ばれる状態のままに出土し、平成七年(西暦1995年)には、57種類、8千6百枚の銭が収められた珠洲焼の甕が出土している。最も新しい元時代の至大通宝から推測すると、埋められた時期は鎌倉時代の末期から南北朝時代が推定され、埋めた人物にあってはやはり居館の主が指摘されるんだろう。該地には居館の事については一切触れられていないが、この埋納銭に関する説明板が立っている。高梨さんが攻め寄せたので岩船さんが慌てて埋めた…とか妄想するのも個人の勝手だ。
※探索自体が意味の無い行動〜て言いながらも撮った写真は15枚…万人が認める男前でありながら真面目で几帳面な性格の持ち主でもある。ちなみにリア攻めが精神的に辛かった…若奥さんが連れている子供さんがおいらにサインを求めて近付いて来たんだけど、「そっちに行っちゃダメ!」てあり得んぐらいの大声で制止させられていた。あの調子じゃ地域の緊急情報に載ったかもしれん…
※岩船藤左衛門尉〜年次不詳、高梨氏諸士注文案によれば高梨政頼時代には下宮島を知行地としている。
※元時代の至大通宝〜当時は貨幣の鋳造が行われておらず、流通する物は全て輸入銭であった。
2025年08月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
西条陣屋[中野陣屋 周辺城郭]
さて、信濃のお城の神が著したおいらのバイブル、「信濃の山城と館」なんだけど、近世の物件は限り無くスルーしていて、そのメインは中世、戦国時代の物件に殆ど限られていると言ってよいと思う。
…なんだけど、神の気紛れなのか、僅かながらも所々で近世の物件もぶち込んでいる。松代城や松本城ですら無視するくせに、陣屋や屋敷には愛着が湧くのか、趣旨から外れる事が少々見受けられる。ちなみにおいらはこれ等を総じて逸脱物件と呼んでいる。
西条陣屋は中野陣屋の南西約1.0km、標高約352mの平野部平場に立地した陣屋です。更級郡稲荷山から埴科郡松代、高井郡中野を経て水内郡飯山へと抜ける近世の谷街道は陣屋の西側で鉤の手を作る。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「旧西条陣屋移築裏門」を目標に設定して下さい。この裏門(長屋門)の建つ一般住宅地の中の一角が該地である。ちなみに「西条陣屋跡」としても位置登録があるがピンの位置は陣屋の敷地外、別区画となっている。
築かれた年代は寛永元年(西暦1624年)、主な代官として、設楽長兵衛能業、設楽孫兵衛能武の名が挙がる。ちなみにこの(八王子)設楽氏だが、江戸時代に入ると各地の代官を多数輩出、少なくとも九人が数えられるんだそう。
陣屋は高井郡を領した高井野藩福島家の改易後に成立、大名、旗本等の諸私領を除いた同郡の天領を差配した一つである。廃止されたのは天和元年(西暦1681年)、慶安三年(西暦1650年)に成立していたアプリの登録城、中野陣屋に統合された。
陣屋の現況は…耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。陣屋敷地は殆どが舗装道路で囲われており纏まりが大変良い。改変著しく見るべきものは少ないが、当時の陣屋の裏門の部分が移築され、一般住宅の表門として現在再利用されているらしい。
…福島正則て言えば誰でも粗暴な脳筋キャラを想像すると思うんだけど、おいらはもっと高く評価されるべき人物だと思う。広島藩時代には検地を行いその結果を領民に披露して実高に見合った年貢の取り立てを行う等、実はリベラルな行政家としての側面を持っていたりもする。
改易された後の高井野藩時代には、新田の開発に勤しみ善政に努め、その恩徳は現在でも追慕され続けている。須坂市や中野市、上高井郡高山村で彼の事を悪く言う人は一人もいない。
さるの(元和六年、西暦1620年)壬十二月十九日、間山村(高井郡)勘右衛門との宛、瀧正太、小泉九郎右衛門、水谷又右衛門連署手形には、「以上 西條村(高井郡、即ち、後に西条陣屋が置かれた村である。)⬜︎ひらきの儀、其方へ申付候間、精を出しひらき可被申候、田畠ひらき候年より三年やすみニ申付候者也、」とあり、福島正則の老臣三名は、間山村の勘右衛門が、西條村の荒地の開墾に精を出すと述べた事を鑑みて、田畠を開いた年より三年の間は休む事を申し付け、これを手形としている。凋落したとはいえ、これが一大名が庄屋クラスの人物に与える手形の内容だとは俄かに信じ難いものがある。
若い頃には粗暴だったのかもしれないが、晩年には達観した感さえ備わる福島正則には人間としての成長が強く感じられる。エリ限第三十一弾を前にしてアレだが、同じく高井郡を一時期領した森忠政とは人として雲泥の差があると思う。
※森忠政〜実兄、長可の旧領である川中島等四郡を願って入部したが、その治政は苛政であった。検地(結果が「信濃国川中島四郡検地打立之帳」として残る。)によって石高は増大したが実高との相違が甚だしく年貢に苦しみ、検地のやり直しを求めて全領一揆が発生、忠政はこれに対しても苛烈な処断で臨んでいる。
※苛烈な処断〜真偽は不明だが、善光寺に残る「千人塚」はこの際に誅された犠牲者を弔うために造立されたとも。巨大な石塔には赤字で犠牲者の名がびっしりと刻まれている。善光寺さまを参詣する際には是非…
2025年07月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
立ヶ花城(城山)[中野陣屋 周辺城郭]
立ヶ花城(城山)は中野陣屋の西南西約5.9km、篠井川北岸(右岸)、千曲川東岸(右岸)、両川の合流点へ向かって張り出す標高約375mの丘陵台地突端部上平場に立地する砦です。西麓の千曲川からの比高は50m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録がある「東日本旅客鉄道(株)新長野変電所」を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップを参照して該地を特定しよう。取り付きは東側からとなり、激藪に埋もれた土橋様地形を突破するか私有地に建てられたビニールハウス群を突破するかの二択、後者を選択すれば主郭に建てられた送電線の鉄塔用の保安道が付いている。但し、道形は不明瞭、入口も藪に塗れて非常に判り難い。誰でも「えっ、こりっすか?」とか呟く筈だ。
実はめぐら〜の中には知らずの内にこの城山を通過している方も多いだろう。即ち、JR長野駅を出発した北陸新幹線は、JR飯山駅へ向かう途中、第四千曲川橋梁上を走って千曲川を渡り直ぐに長いトンネルへと入るが、このトンネルの出入口となっているのが立ヶ花城の城山だ。登録城だったらトンネルに入る前にぽちればリア攻めが自然に付くと思うさ。
築城年代、築城者は不明だが、高梨氏に関係する砦である事に間違いは無いだろう。城主には同氏の被官、草間氏が推測出来る。立ヶ花城の東方約1.0kmの篠井川沿いには同氏の居館跡が立地している。
該地の立ヶ花は高井郡と水内郡とを東西に結ぶ川東道の経路上にあり、往時も千曲川の重要な渡し場である。立ヶ花城はこの水運を扼する高井郡側の一砦、内堀館のリア攻めマップにある、島津氏の築城と推測される手子塚城とは千曲川の川面を挟んで相対している。
縄張図を見ると5郭で構成されているが実際には3郭でよいと思う。前述したとおり主郭には送電線の鉄塔が建ち改変も疑われるが、少なくとも表面的な遺構の損壊だけは免れているようだ。主郭の東西には何れも堀切、堀切縁には竪土塁が部分で付いているそうだが確認は難しい。ちなみに縄張図における通称3郭は耕作地(現在は前述のビニールハウス群となっている。)の造成のために半分以上が削り取られている。
現在の防御力が半端無ぇ…城域の大半は激藪であり、冬場でも藪度は殆ど変わらないだろう。主郭を横断する事が躊躇われたので切岸?の斜面をトラバースしてみたんだけど、急峻過ぎて横移動が大変難しい…そして苦労して辿り着いた先の小郭もやっぱし藪…全縄張を確認するのはとても無理な話だ。コンパクトな縄張とはいえ、人が入れるポイントが限られているのが悩ましい。主郭東側背後の堀切は結構な代物だけど、これ以外を探索する事はそれこそ不毛な作業、この堀切を確認したらそのまま帰るのが正解、あらゆるダメージを最小限に抑えられる。
何度となく近くを通る事はあったんだけど、楽に片付けられる物件だと思い込みで勘違いしてやしたわ…この立ヶ花城が当日の1件目だったんだけど、1時間程の探索で身体も心もぼろぼろに…北信の物件はキツいもんが多いぜ…
※写真③は何かを狙って撮影したもんなんだろうけどそれが何だったのかは覚えていない。
※写真⑧が文中にある第四千曲川橋梁、城域の央部をトンネルは貫通している。
2024年10月09日 尼崎城摂津守一口城主
中野陣屋
[前編]
10/5、高梨氏館跡見学後、すぐ近くの中野陣屋(写真①②)の見学に向かいました。陣屋跡/県庁跡(写真③④)の石碑両面を撮って入館。館内には信州中野の歴史の資料展示室がありました。展示室内に陣屋・県庁記念館周辺復元模型型(写真⑤)があり、陣屋と高梨古城跡(写真⑥:中央やや左が陣屋、右端中段辺りに高梨古城跡)の位置関係がよく分かります。
当日は夜行バスで長野に移動したため、記念館内のカフェ陣屋で早めの昼ごはんで陣屋カレー🍛を頂きました😋早めの昼ごはんでカフェには信州の武道家🥋さんと私だけでカフェも余裕があったためか、こちらで館内の方に陣屋の解説や周辺の案内を丁寧にして頂けました‼️中野はかつては越後との街道があり人や物が行き交う場所だったため幕府が天領としたことや記念館のパンフレットに載っていた陣屋の遺構の井戸、石垣、陣屋稲荷で井戸のすぐ近くの鈴泉寺(れいせんじ)に陣屋の門が移築されていることなど教えて頂きました。アドバイスをもらって陣屋の石垣(写真⑦)を撮って、まず陣屋稲荷(写真⑧)をお参りに行きました⛩️
2024年10月09日 尼崎城摂津守一口城主
中野陣屋
[後編]陣屋記念館を見学後に記念館周辺の遺構散策に出発。
陣屋稲荷⛩️参拝後に陣屋井戸(写真①②)説明板(写真③)の終盤に記載の井戸枠の「忘」の本字の刻印も撮影(写真④)
井戸の斜め向かいにあるのが鈴泉寺(写真⑤:井戸の説明板の左斜め前方にある石碑が鈴泉寺の寺標)で鈴泉寺の山門(写真⑥)を見学に行きました。
山門見学に訪れた際、丁度お寺の方がいらっしゃったので話を聞かせて頂いたところ、山門(写真⑥⑦)は飯山城→中野陣屋→鈴泉寺の順に移築されていったとのことでした。中野陣屋から鈴泉寺の移築は陣屋の方が鈴泉寺の檀家さんだった縁で譲り受けたようです。写真③の説明板の前半部分に<明治3年(1870)12月に起きた中野騒動のため庁舎のほとんどが消失してしまい〜>とあったので、移築されていなかったら騒動に巻き込まれて焼けてしまった可能性もあったかも知れず、令和の今日も見ることが出来て移築時の檀家さんに感謝でした🙇🏻♂️
山門見学後、陣屋に戻りましたがその際、陣屋付近で<天領陣屋跡>の石碑(写真⑧)も発見。徳川幕府の天領だったこともあってか徳川恒孝氏の書でした🖌️
2024年09月10日 まう右近衛少将
中野陣屋
駅から高梨氏館跡を目指す途中で、リア攻めしました。現在は、中野陣屋・中野県庁記念館になっていて、歴史資料や有志の方の絵画が展示されているようです。歩きで、12、3分掛かります🚶
まだ開館してたのですが、暗くなる前に高梨氏館攻めたく、中には入っていません。。
2024年09月05日 マグロ常陸介祐平
壁田城[中野陣屋 周辺城郭]
日本土人形資料館で鴨ヶ嶽城の所要時間を尋ねた際に、お城が好きなら壁田城と替佐城をセットで見ることを薦められ、訪れてみました。
壁田と書いて「へきだ」と読みます。奈良時代は「火置田(ひきだ)」と書き、蝦夷地開拓に関係する狼火台として使用されたと伝わるようです。
戦国期になると高梨氏の家臣、山田豊前守がお城を築いています。その後、山田氏は武田氏に降伏し、武田方の城として上杉方の飯山城の抑えの役割をはたしたようです。
駐車場のすぐ先から、堀切が連続する光景が間の前に現れます。遊歩道を作る際に改変されているようですが、なかなかのものです(写真1,4枚目)。その先には長丘神社が鎮座する帯郭に囲まれた本丸があり(写真2,8枚目,8枚目は虎口)、拝殿の壁には謙信、信玄一騎打ちの絵馬風の説明板が見られます(写真5枚目)。本丸の南側には東屋のある段になった曲輪があり、その先には2つの堀切があります(写真6,7枚目)。南側の堀切は、後世の改変があるかもしれませんが、切り通しの通路となっていて、その先には段状の郭が並びます。
発掘調査(トレンチ)の結果では、山城に関する遺構・遺物は検出されず、東側斜面の段々の平地は、後世の畑地として造成されたものと確認されたようです。
実際に廻って見ると、小規模ですが、見応えのあるお城でした。
2024年09月03日 マグロ常陸介祐平
中野陣屋
元和2年(1616年)に天領支配のために置かれた陣屋で、一時期、旗本領や板倉氏の坂木藩領となりますが、享保9年(1724年)には、北信濃の天領陣屋が中野に統合され明治維新まで続きました。維新後は、尾張藩の取締役所(天朝御料尾州取締所)、伊那県中野局となり、明治3年に中野県が設置され県庁が置かれますが、2000人が集結し28人が死罪となった中野騒動により県庁舎が焼かれ、お隣の法蓮寺(写真4枚目)を仮庁舎とするも、結局は長野に県庁を移し、中野県は僅か10ヶ月で消滅しています。
陣屋跡は中野県庁跡(中野陣屋跡)として県の史跡に指定されていますが、遺構は西側の石垣(写真7枚目)と井戸(写真6枚目)のみのようです。
現在陣屋跡に建つ「中野陣屋・県庁記念館」は昭和11年に中野町役場として建てられたもので、資料室では陣屋~県庁の歴史を展示しています。また、隣の高級割烹前には、徳川恒孝氏揮毫の石碑(写真2枚目)が建っています。
2022年07月07日 ᴿᴱᴰ 副将軍
中野陣屋
江戸幕府によって築かれた天領陣屋跡🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
徳川家康の六男である松平忠輝は、信濃国川中島藩と越後国高田藩の45万石を領する大名でしたが、1616年に大坂夏の陣に際して遅参および軍法違反をしたことにより改易、流罪となります。
それに伴い北信濃に天領が生じたため、同年に江戸幕府により天領陣屋が築かれました。
1724年には、周辺の天領陣屋が統廃合され中野陣屋に一元化。
1868年、大政奉還により陣屋は廃止され、伊那県中野局となります。
1870年には中野県が設置されましたが、増税や経済の混乱に対する不満で一揆(中野騒動)が勃発し、中野県庁舎は焼失しました。
1871年に一揆は鎮圧されましたが、中野での県庁再建は断念。県庁は長野に移転し長野県が成立しました。
見所
現在は、跡地に中野陣屋県庁記念館が建てられており、天領陣屋に関する展示場となっています。入場料は無料でした。
2019年04月29日 みふ信濃守
鈴泉寺山門[中野陣屋 遺構・復元物]
飯山城から中野陣屋へ移されたといわれる豪壮な薬医門。
2019年04月29日 みふ信濃守
陣屋井戸[中野陣屋 遺構・復元物]
陣屋敷地内に残る数少ない遺構。井戸石組には「不忘井」の刻字がある。屋形は後世の復興。
2019年04月28日 笑門来猫
中野陣屋
明治維新後に起きた中野騒動で炎上した中野県庁跡にある資料館。目の前にのびる柳通りがいい雰囲気でした。
元和2年(1616)に北信地域の大半を領有していた松平忠輝が改易されたため、北信地域に初めて幕府領が成立し、高井郡中野村に陣屋が置かれた。中野陣屋は長野県内でも江戸時代を通じて長く設置されていた陣屋の1つで、時期によって差はあるが、おおよそ5~6万石の幕府領を支配していた。
中野陣屋は何度か火災にあって焼失しているが、天保11年(1840)の大火のあと再建された陣屋の敷地は、東西48間(約87m)・南北36間(約65m)の規模であった。陣屋の建築費や修理費は、中野陣屋管轄下の村むらが負担している。
明治3年(1870)9月に東信・北信地域の旧幕府領を管轄する中野県が設置され、旧中野陣屋には県庁が置かれた。しかし、同年12月の中野騒動によって県庁は焼失したため、明治4年(1871)6月に中野県は長野県と改称されてわずか11ヶ月の中野県の歴史に幕がおろされ、翌月には県庁が水内郡善光寺町(長野市)に移転した。
明治以後の中野県庁跡は研智学校・中野学校の敷地として利用され、昭和11年(1936)に下高井郡中野町役場(現在の建物)が建てられた。その後、昭和38年(1963)の中野市役所新庁舎完成にともなって公民館となり、中野市立図書館を経て、現在は中野陣屋・県庁記念館として利用されている。