中野陣屋(なかのじんや)
中野陣屋の基本情報
通称・別名
- 中野県庁
所在地
- 長野県中野市中央2-826他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 徳川幕府
築城年
- 元和2年(1616)
主な改修者
- -
主な城主
- 松平氏、河野氏、徳川幕府(天領)
廃城年
- 慶応4年(1868)
遺構
- 石垣、井戸
指定文化財
- 県史跡(中野県庁(中野陣屋)跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
高梨氏城館(長野県中野市)[0.4km]
内堀館(長野県中野市)[4.8km]
福島正則館(長野県上高井郡)[9.0km]
長沼城(長野県長野市)[11.2km]
髻山城(長野県長野市)[11.9km]
飯山城(長野県飯山市)[12.4km]
割ヶ嶽城(長野県上水内郡)[13.7km]
平沢城(長野県下高井郡)[13.8km]
若槻山城(長野県長野市)[15.2km]
井上城(長野県須坂市)[15.4km]
中野陣屋の解説文
中野陣屋の口コミ情報
2024年10月09日 尼崎城駿河守一口城主
中野陣屋
[前編]
10/5、高梨氏館跡見学後、すぐ近くの中野陣屋(写真①②)の見学に向かいました。陣屋跡/県庁跡(写真③④)の石碑両面を撮って入館。館内には信州中野の歴史の資料展示室がありました。展示室内に陣屋・県庁記念館周辺復元模型型(写真⑤)があり、陣屋と高梨古城跡(写真⑥:中央やや左が陣屋、右端中段辺りに高梨古城跡)の位置関係がよく分かります。
当日は夜行バスで長野に移動したため、記念館内のカフェ陣屋で早めの昼ごはんで陣屋カレー🍛を頂きました😋早めの昼ごはんでカフェには信州の武道家🥋さんと私だけでカフェも余裕があったためか、こちらで館内の方に陣屋の解説や周辺の案内を丁寧にして頂けました‼️中野はかつては越後との街道があり人や物が行き交う場所だったため幕府が天領としたことや記念館のパンフレットに載っていた陣屋の遺構の井戸、石垣、陣屋稲荷で井戸のすぐ近くの鈴泉寺(れいせんじ)に陣屋の門が移築されていることなど教えて頂きました。アドバイスをもらって陣屋の石垣(写真⑦)を撮って、まず陣屋稲荷(写真⑧)をお参りに行きました⛩️
2024年10月09日 尼崎城駿河守一口城主
中野陣屋
[後編]陣屋記念館を見学後に記念館周辺の遺構散策に出発。
陣屋稲荷⛩️参拝後に陣屋井戸(写真①②)説明板(写真③)の終盤に記載の井戸枠の「忘」の本字の刻印も撮影(写真④)
井戸の斜め向かいにあるのが鈴泉寺(写真⑤:井戸の説明板の左斜め前方にある石碑が鈴泉寺の寺標)で鈴泉寺の山門(写真⑥)を見学に行きました。
山門見学に訪れた際、丁度お寺の方がいらっしゃったので話を聞かせて頂いたところ、山門(写真⑥⑦)は飯山城→中野陣屋→鈴泉寺の順に移築されていったとのことでした。中野陣屋から鈴泉寺の移築は陣屋の方が鈴泉寺の檀家さんだった縁で譲り受けたようです。写真③の説明板の前半部分に<明治3年(1870)12月に起きた中野騒動のため庁舎のほとんどが消失してしまい〜>とあったので、移築されていなかったら騒動に巻き込まれて焼けてしまった可能性もあったかも知れず、令和の今日も見ることが出来て移築時の檀家さんに感謝でした🙇🏻♂️
山門見学後、陣屋に戻りましたがその際、陣屋付近で<天領陣屋跡>の石碑(写真⑧)も発見。徳川幕府の天領だったこともあってか徳川恒孝氏の書でした🖌️
2024年09月10日 まう右近衛少将
中野陣屋
駅から高梨氏館跡を目指す途中で、リア攻めしました。現在は、中野陣屋・中野県庁記念館になっていて、歴史資料や有志の方の絵画が展示されているようです。歩きで、12、3分掛かります🚶
まだ開館してたのですが、暗くなる前に高梨氏館攻めたく、中には入っていません。。
2024年09月05日 マグロ常陸介祐平
壁田城[中野陣屋 周辺城郭]
日本土人形資料館で鴨ヶ嶽城の所要時間を尋ねた際に、お城が好きなら壁田城と替佐城をセットで見ることを薦められ、訪れてみました。
壁田と書いて「へきだ」と読みます。奈良時代は「火置田(ひきだ)」と書き、蝦夷地開拓に関係する狼火台として使用されたと伝わるようです。
戦国期になると高梨氏の家臣、山田豊前守がお城を築いています。その後、山田氏は武田氏に降伏し、武田方の城として上杉方の飯山城の抑えの役割をはたしたようです。
駐車場のすぐ先から、堀切が連続する光景が間の前に現れます。遊歩道を作る際に改変されているようですが、なかなかのものです(写真1,4枚目)。その先には長丘神社が鎮座する帯郭に囲まれた本丸があり(写真2,8枚目,8枚目は虎口)、拝殿の壁には謙信、信玄一騎打ちの絵馬風の説明板が見られます(写真5枚目)。本丸の南側には東屋のある段になった曲輪があり、その先には2つの堀切があります(写真6,7枚目)。南側の堀切は、後世の改変があるかもしれませんが、切り通しの通路となっていて、その先には段状の郭が並びます。
発掘調査(トレンチ)の結果では、山城に関する遺構・遺物は検出されず、東側斜面の段々の平地は、後世の畑地として造成されたものと確認されたようです。
実際に廻って見ると、小規模ですが、見応えのあるお城でした。
2024年09月03日 マグロ常陸介祐平
中野陣屋
元和2年(1616年)に天領支配のために置かれた陣屋で、一時期、旗本領や板倉氏の坂木藩領となりますが、享保9年(1724年)には、北信濃の天領陣屋が中野に統合され明治維新まで続きました。維新後は、尾張藩の取締役所(天朝御料尾州取締所)、伊那県中野局となり、明治3年に中野県が設置され県庁が置かれますが、2000人が集結し28人が死罪となった中野騒動により県庁舎が焼かれ、お隣の法蓮寺(写真4枚目)を仮庁舎とするも、結局は長野に県庁を移し、中野県は僅か10ヶ月で消滅しています。
陣屋跡は中野県庁跡(中野陣屋跡)として県の史跡に指定されていますが、遺構は西側の石垣(写真7枚目)と井戸(写真6枚目)のみのようです。
現在陣屋跡に建つ「中野陣屋・県庁記念館」は昭和11年に中野町役場として建てられたもので、資料室では陣屋~県庁の歴史を展示しています。また、隣の高級割烹前には、徳川恒孝氏揮毫の石碑(写真2枚目)が建っています。
2022年07月07日 RED副将軍
中野陣屋
江戸幕府によって築かれた天領陣屋跡🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
徳川家康の六男である松平忠輝は、信濃国川中島藩と越後国高田藩の45万石を領する大名でしたが、1616年に大坂夏の陣に際して遅参および軍法違反をしたことにより改易、流罪となります。
それに伴い北信濃に天領が生じたため、同年に江戸幕府により天領陣屋が築かれました。
1724年には、周辺の天領陣屋が統廃合され中野陣屋に一元化。
1868年、大政奉還により陣屋は廃止され、伊那県中野局となります。
1870年には中野県が設置されましたが、増税や経済の混乱に対する不満で一揆(中野騒動)が勃発し、中野県庁舎は焼失しました。
1871年に一揆は鎮圧されましたが、中野での県庁再建は断念。県庁は長野に移転し長野県が成立しました。
見所
現在は、跡地に中野陣屋県庁記念館が建てられており、天領陣屋に関する展示場となっています。入場料は無料でした。
2019年04月29日 みふ信濃守
鈴泉寺山門[中野陣屋 遺構・復元物]
飯山城から中野陣屋へ移されたといわれる豪壮な薬医門。
2019年04月29日 みふ信濃守
陣屋井戸[中野陣屋 遺構・復元物]
陣屋敷地内に残る数少ない遺構。井戸石組には「不忘井」の刻字がある。屋形は後世の復興。
2019年04月28日 笑門来猫
中野陣屋
明治維新後に起きた中野騒動で炎上した中野県庁跡にある資料館。目の前にのびる柳通りがいい雰囲気でした。
元和2年(1616)に北信地域の大半を領有していた松平忠輝が改易されたため、北信地域に初めて幕府領が成立し、高井郡中野村に陣屋が置かれた。中野陣屋は長野県内でも江戸時代を通じて長く設置されていた陣屋の1つで、時期によって差はあるが、おおよそ5~6万石の幕府領を支配していた。
中野陣屋は何度か火災にあって焼失しているが、天保11年(1840)の大火のあと再建された陣屋の敷地は、東西48間(約87m)・南北36間(約65m)の規模であった。陣屋の建築費や修理費は、中野陣屋管轄下の村むらが負担している。
明治3年(1870)9月に東信・北信地域の旧幕府領を管轄する中野県が設置され、旧中野陣屋には県庁が置かれた。しかし、同年12月の中野騒動によって県庁は焼失したため、明治4年(1871)6月に中野県は長野県と改称されてわずか11ヶ月の中野県の歴史に幕がおろされ、翌月には県庁が水内郡善光寺町(長野市)に移転した。
明治以後の中野県庁跡は研智学校・中野学校の敷地として利用され、昭和11年(1936)に下高井郡中野町役場(現在の建物)が建てられた。その後、昭和38年(1963)の中野市役所新庁舎完成にともなって公民館となり、中野市立図書館を経て、現在は中野陣屋・県庁記念館として利用されている。