岩船氏居館
岩船氏居館([中野陣屋 周辺城郭])
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岩船氏居館の口コミ情報
2025年08月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
岩船氏居館は中野陣屋の西南西約1.0km、標高約355mの平野部平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「岩船南公園」を目標に設定して下さい。この公園とその付近一帯が概ねの該地であり、車はそこら辺に捨てられる。ちなみに岩船氏居館は、敷地範囲、形状、形態が不明であり、探索自体が意味の無い行動である。
該地は千曲川がもたらした堆積土が形成した中野扇状地の央部に位置し、中世には高井郡岩船郷に含まれていた。中野氏や高梨氏が拠った同郡中野郷とは隣接しており、中野地方では早くから開発が始まった地域の一つとも考えられるが、往時の夜間瀬川は中野の北方、一本木と松川(地名である。)の境から岩船と吉田の境を西流しており、同川の氾濫の危険性が少なくなかった地域でもある。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは岩船氏です。同氏は詳細が殆ど伝わらないが藤姓中野氏の一族と推測されており、居館の主は岩船藤左衛門尉ではないかとも云われている。永正十年(西暦1513年)七月には、高井郡に割拠する、夜交氏、小島氏が中野牢人衆と謀り、主家の高梨氏に叛いているが、岩船氏はこの中野牢人衆を構成していた一氏であろうか。
明鷹九年(西暦1500年)庚申十一月十五日、夜交六郎(景国)宛、高梨政盛安堵状には、「信州高井郡夜交甲斐守(高國)當知行之所、不残壱所、 一 下上条并新野之高とう在家 一 小たけ分西条、岩舟并上条ニ在之、 一 藤澤分并於于役等之儀者、可為前分、此他ニ能州ゆいしょの地在之、右、如親父之托、少もたがわす、軍役忠節等可被抽其劫(功)者也、仍領掌如件、」とあり、岩舟(船)の一部に夜交氏の知行地があった事が判る。
天正八(西暦1580年)庚辰壬三月廿三日、夜交左近丞(頼国)宛、土屋右衛門尉(昌忠)奉之、武田勝頼改替状には、「定 岩船之郷七拾貫文、当納三拾表之所、上表付而、被任御訴訟、夜交之内山脇分廿貫、当所務貳拾八俵之所、為右之御改替、被下置之由、被仰出者也、仍如件、」とあり、夜交頼国は、武田勝頼に、岩船郷七拾貫文と夜交郷山脇廿貫文の領替を願って許されている。
天正十年(西暦1582年)六月十六日、夜交左近助(頼国)宛、上杉景勝宛行状には、「今般可有忠信付而出置之覚 一 夜交之郷 一 うき 一 新野 一 岩船」とあり、岩船郷が夜交氏の知行地として再び現れる。
居館の現況は…空地、一般住宅地、前述したとおり岩船南公園等となっている。周辺一帯は住宅地として開発されており、兎に角、改変が著しい。探索は意味が無いてよりも何も出来ないてのが正解だ。
過去には「西条・岩船遺跡群」として発掘調査が行われている。平成元年(西暦1989年)の発掘調査では、木箱の中に3万4千枚の銭が百枚を単位として全てを紐で通された「緡(さし)」と呼ばれる状態のままに出土し、平成七年(西暦1995年)には、57種類、8千6百枚の銭が収められた珠洲焼の甕が出土している。最も新しい元時代の至大通宝から推測すると、埋められた時期は鎌倉時代の末期から南北朝時代が推定され、埋めた人物にあってはやはり居館の主が指摘されるんだろう。該地には居館の事については一切触れられていないが、この埋納銭に関する説明板が立っている。高梨さんが攻め寄せたので岩船さんが慌てて埋めた…とか妄想するのも個人の勝手だ。
※探索自体が意味の無い行動〜て言いながらも撮った写真は15枚…万人が認める男前でありながら真面目で几帳面な性格の持ち主でもある。ちなみにリア攻めが精神的に辛かった…若奥さんが連れている子供さんがおいらにサインを求めて近付いて来たんだけど、「そっちに行っちゃダメ!」てあり得んぐらいの大声で制止させられていた。あの調子じゃ地域の緊急情報に載ったかもしれん…
※岩船藤左衛門尉〜年次不詳、高梨氏諸士注文案によれば高梨政頼時代には下宮島を知行地としている。
※元時代の至大通宝〜当時は貨幣の鋳造が行われておらず、流通する物は全て輸入銭であった。