大久保館
大久保館([中野陣屋 周辺城郭])
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大久保館の口コミ情報
2025年08月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
大久保館は中野陣屋の西南西約4.5km、篠井川北岸(右岸)、千曲川東岸(右岸)、標高約364mの丘陵地斜面上平場に立地したと推測される居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「高丘公園」を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップを参照して該地を特定しよう。車はそこら辺に捨てられる。
最初に断りを入れておくが、該地は大久保にあったとされる草間氏の居館地の推測地である。信濃のお城の神が三面に窪地を控える居館地の適地として付近一帯から選び出した単なる場所に過ぎない。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは前述したとおり草間氏です。同氏は高梨氏の有力な被官衆の一氏だが、高梨氏の一族なのかは判らない。一説によれば律令制下における信濃十六牧の一つ、高位牧の牧人として古くから土着していたとも。
「長野県町村誌」、「草間村」の管轄沿革には、「古事不詳。高梨氏の幕下草間氏の領知たり。鷹永(西暦1394年〜1428年)の初め草間豊後守信良あり。五代の孫草間主殿介淨養迄相襲す。永禄二年(西暦1559年)己未三月武田信玄本郡(高井郡)を侵し、高梨政頼及び草間淨養が居城を陥る。淨養は政頼に従ひ、上杉景虎に據る。淨養尋て長尾政景の物頭となる。…」とある。
草間氏は、応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」の際には、高梨薩摩守友尊(朝高)麾下として草間大蔵が参陣している。
永正十年(西暦1513年)七月、小島氏、夜交氏が中野牢人衆と謀り、主家の高梨氏に叛いているが、企ては草間大炊助の機先を制した武略により失敗に終わっている。
居館の現況は…果樹園、空地等となっている。該地には段が付けられているが誰がどう見たってただの果樹園としか見えないだろう。敷地範囲、形状や形態を想像する事をも憚れるような物件だ。居館地の適地かどうかも微妙なところであり、素人が付近一帯を歩き廻った結果に過ぎないが、此処よりも北側に見える丘陵頂部に建つ一般住宅とその敷地の方が北方への展望も開けており遥かに適地だと思う。何れにせよ、改変著しく何かを見出す事は全く不可能である。
該地は大久保地籍に位置するが、往古には、平安時代中期に編纂された「和名類聚抄」に載る、高井郡小内郷に含まれており、後には同郡椚原庄、六川郷へと転じている。集落(後の草間村)の中心地は戦乱等により転々としており、大久保村とかつて称した時期もあったらしいが寂れてしまったらしい。従って、古い小字、小名も残っていないらしく、該地を特定する手立てが全く無い。
色物物件の探索て満足する事は決して無いんすけど、何かしらの痕跡や断片を探し出せれば御の字かなと思って手を抜かずに頑張っている。が、それすらをも許されない物件も多々ある訳でして…これもそんな内の一つ。
※高位牧〜位置に諸説があるが、該地の北東約5.6kmの位置には高位牧神社が立地している。
※写真③、④はおいらが居館地の適地と考えた場所っす。改変もあるが全然良い感じ…草間氏の砦が立地した茶臼峯とも東西に連絡している。