内堀館(うちぼりやかた)

内堀館の基本情報

通称・別名

所在地

長野県中野市大字上今井南山根

旧国名

信濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

飯山藩

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(水堀)

指定文化財

県史跡(内堀館跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

中野陣屋(長野県中野市)[4.8km]
高梨氏城館(長野県中野市)[5.2km]
髻山城(長野県長野市)[7.5km]
長沼城(長野県長野市)[8.4km]
割ヶ嶽城(長野県上水内郡)[9.5km]
福島正則館(長野県上高井郡)[9.7km]
若槻山城(長野県長野市)[11.1km]
飯山城(長野県飯山市)[12.5km]
井上城(長野県須坂市)[14.0km]
横山城(長野県長野市)[15.0km]

内堀館の口コミ情報

2024年11月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
手子塚城(城の森・諏訪森)[内堀館  周辺城郭]



手子塚城(城の森・諏訪森)は内堀館の南南西約2.9km、千曲川西岸(左岸)、標高約358mの河岸段丘台地上、丘陵頂部上平場を中心に立地する要害です。東麓の千曲川からの比高は35m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城域内に車も捨てられる。

築城年代、築城者は不明だが、永正十年(西暦1513年)、高梨氏との対立が決定的となった島津氏が千曲川の渡し場を押さえるために築城に及んだものと考察されている。

近世の川東道に準ずる中世の古道は、野尻から針ノ木を抜けて、舟岳、二十塚(レア物件、旗塚が残る。)、倉井を経て千曲川西岸(左岸)の浅野に至り、浅野からはやや北行して立ヶ花で千曲川を渡り、最終的には高井郡の中野に至る。この道筋中、対岸の立ヶ花に通じる渡し場を押さえているのがこの手子塚城であり、中野陣屋のリア攻めマップにある立ヶ花城とは千曲川の川面を挟んで相対している。

該地は現代人の感覚だと善光寺平から飯山へ向かう際の関門の地として捉えがちだが、少なくとも戦国時代までは東西を結ぶ横道の方が重要視されていたように思う。南北朝時代の末期、高井郡に拠った高梨氏が、千曲川の対岸に当たる水内郡内、芋川庄、東条庄、若槻庄、若槻新庄等に一門の所領を保ち、野尻湖西岸、野尻の関所で関銭を徴収していた事がそれを如実に物語る。又、永正三年(西暦1508年)八月以降、越後守護代、長尾氏と従属的盟約関係にあった高梨氏にとって、こうした道筋の重要性は更に増した事であろう。

年次不詳、七月廿四日、長尾(為景)殿宛、嶋津貞忠御報には、「就爰元之時宜、急候間、今朝関河方迄進物飛脚候キ、然処、御同前御尋、畏入候、村上、香坂領中候於号小嶋田地、中野牢人相集之由、其聞得候間、時宜無心元存候処、中野家中ニ纏子細なと々風聞候間、不誠存候、雖然渡堅申付候処、去廿二日寅剋、彼牢人衆被官依中野ニ相残候者共、露色候処、依無南口通路失利、散々罷也候間、中野へ旁追懸、或者生取、又者からめられ候由申候、」との記述がある。永正十年(西暦1513年)頃の書状と推測されているが、書状全体の内容は、島津貞忠が越後守護代、長尾為景に北信濃の情勢を報じたものであり、中野牢人衆を中心とする高梨氏への叛乱の顛末を述べている。書状の中で貞忠は、村上氏、香坂氏領の小嶋田において、中野の牢人衆が人数を集めたとの風聞を耳にして心許なくしていたが、然るといえども「渡」を堅固にするよう申し付けたところ、去る廿二日寅の刻、中野に相残りし牢人衆被官は、南口無き事により利を失い、これに方々(高梨勢)が追い懸かかり、ある者は生捕り、又、搦め取られたと言っている。この時代に手子塚城が存在していたのかは不明だが、貞忠が「渡」を押さえた事により中野牢人衆等の企てが失敗に終わった事を特に印象付けて報せている。

小丘陵の頂部に主郭、それに腰郭状の副郭を持つ段付きの縄張である。「長野県町村誌」の記述によれば「三階」であったとするが、解釈によっては城域の捉え方が変わってくる。主郭には土壇が付き、現在は壇上に諏訪社が鎮座、造宮に当たって古墳の物と思しき平石の大石(天板石)が掘り起こされた事も過去にはあったらしい。城郭遺構としては、縄張図における通称2郭の南側部分に仕切り土塁様の竪土塁、城域の北端部にはL字形の土塁に小堀切が1条付く。城域北端の堀形に関しては藪で不明、冬場でも確認は難しいだろう。全体的に見れば意外にも後世の改変は少ないのかもしれない。ちなみに髻山城のリア攻めマップにある、島津氏の要害、矢筒城の縮小版といった趣きもある。

今夏、千曲川の渡し場を何箇所か廻ってみたけど、現在でも浅瀬を形成している場所が多い事に気付かされた。立ヶ花の渡し場もその内の一つ、川幅は広いものの川床の大石が露出している箇所も見受けられた。基本的に川筋に大きな変化が無ければ渡し場の位置が変わる事はないのだろう。

※貞忠が「渡」を押さえた事により、中野牢人衆の企てが失敗に終わった事を特に印象付けて報せている〜島津貞忠の長尾為景への御報を額面どおりに受け取ってはならないのではないだろうか。この書状が発給された約一月後には、越後守護、上杉定実に同心した、井上氏、海野氏、栗田氏、島津氏等は合力して関川口から越後へ攻め寄せ、為景と干戈を交えている。個人的な推測に過ぎないが、長尾氏を後ろ盾とする高梨氏の勢力伸長を看過出来ない状況にあった島津氏は、中野牢人衆等の企てを密かに援ける立場にあったのではないだろうか。この書状には何か後ろめたいものさえ感じてしまう。

※写真⑧は北方の立ヶ花橋から撮影した千曲川、向かって左側のぽこりんが立ヶ花城、右側のぽこりんが手子塚城っす。

2024年11月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
大倉御屋敷[内堀館  周辺城郭]



大倉御屋敷は内堀館の南西約3.6km、千曲川西岸(左岸)、鳥居川北岸(左岸)、標高約364mの河岸段丘台地上平場に立地した屋敷です。該地は千曲川に流れ込む鳥居川が創造した扇状地の西端部上に当たり、後背北西側の山稜は城山、即ち、若槻山城のリア攻めマップにある大倉城が立地する。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「入公会堂」を目標に設定して下さい。駐車場は付いていないので車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。ちなみに屋敷地の正確な位置は不明ではあるが、概ねでリア攻めマップのスポット登録位置を中心とする一帯であると推定する。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地は中世には水内郡太田庄大倉郷に属していた。南北朝時代には金澤弥名寺が同郷の地頭職であったが、島津氏が違乱を働き下地を押領し続けた郷村である。

年次不詳、七月廿四日、長尾(為景)殿宛、嶋津貞忠御報には、「可有御安心候、河西通路之事者、愚老候ハん間ハ、涯分可申付候間、別条有間敷候、」との記述がある。永正十年(西暦1513年)頃の書状と推測されているが、書状全体の内容は、島津貞忠が越後守護代、長尾為景に北信濃の情勢を報じたものである。書状の中で貞忠は、「河西通路」は、「愚老(貞忠)」がある間に別条は無く安心してよいと言っており、千曲川の西岸地域に含まれる大倉郷は島津氏の差配する所であった事に疑いは無いだろう。

弘治三年(西暦1557年)二月十六日、色部彌三郎(勝長)宛、長尾景虎書状案には、「依之島津方も大蔵之地へ先以被相移候、」との記述がある。書状全体の内容は、長尾景虎が揚北衆の色部勝長に葛山城落去に伴う出陣と対応策を示したものである。書状の中で景虎は、アプリの登録城、長沼城にあったと推測される島津(月下斎忠直)をまず先に大蔵(倉)の地へ相移すようにと指図している。

屋敷の現況は…田地、耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。屋敷地と推測される範囲は広大、捉え方によっては国道18号によって分断されている可能性も残すが、誰が何と言おうと城山の山際の平場を無視する事だけは出来ないと考える。城郭遺構は何一つ見出せないが、一帯には、「御屋敷」、「蔵やしき」等の地名が残っている。

後背の城山に立地する大倉城は、川中島四郡を差配する森長可に対して一揆を以って抗した芋川親正が改修に及んだ古要害である。同城から飯山城に攻め寄せた一揆勢は、長可の迅速な働きによって長沼城を目指して退いたが、長沼口を押さえられた上に森勢による追い討ちを受けて敗走、残されて大倉城に立て籠った女、童等は同勢による凄惨な殺戮の対象となった。大倉御屋敷もそうした場所の一つとなったのであろう。ちなみに後日、長可は山中に逃散した郷民を還住させようと質をとったりして相働いているが、こうした往時の感覚はやはり現代人には到底、理解が及ばないものだと思う。

※古要害〜当時、既に廃城である。

※大倉城に立て籠った女、童は凄惨な殺戮の対象となった〜「信長公記」によれば、一揆勢、貮千四百五十余の頸が安土に届けられたとする。女、童が多かったのは浄土真宗門徒が多勢を占めていた事にある。一揆の首謀者、芋川親正も熱心な同宗門徒であった。

※写真⑧は「蔵やしき」の地名が残る場所から撮影した大倉城の近景っす。

2024年10月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
鐘撞堂[内堀館  周辺城郭]



さて、全国108万人の煩悩抱えた鐘撞き野郎の皆さん、お待たせしやしたっ!ワクドキでしょ〜そう、今回の口コミはみんな大好き「鐘撞」地名の御登場っすっ!お城好きならその意味を知っていて当たり前の地名、城郭用語としても「桝形」と並ぶ人気ワードの一つであり、城郭検定3級の試験問題には毎年必ず選ばれている…っぽい雰囲気を醸し出しながらも実はそうではないよとの指摘もある…んだけどはっきりさせる事も難しいとのある筋による見解が発表されたらしいて噂をある人が話しているのをかずりは低空を飛ぶジェット戦闘機の真下から間接的に耳にしている。

鐘撞堂は内堀館の南西約3.3km、千曲川西岸(左岸)、鳥居川北岸(左岸)、標高368.2mの河岸段丘台地南縁上平場に立地する狼煙台の類いです。南麓の鳥居川からの比高は20m位でしょか。該地は千曲川に流れ込む鳥居川が創造した扇状地上に当たる。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南側の「大倉チェーン着脱場トイレ」を目標に設定して下さい。当然、車も捨てられる。後は適当な場所を選んで適当に該地を目指そう。大体にして誰も行かんやろ…初出以外の情報は皆無だし、これからもそうあり続けるんだろう。

築かれた年代、築いた方は不明です。該地は中世には水内郡太田庄大倉郷に属していた。南北朝時代には金澤弥名寺が同郷の地頭職であったが、島津氏が違乱を働き下地を押領し続けた郷村である。戦国時代の一時期にも同氏の差配が及んでいた事は文書から確実視されている。

当然の知識で烏滸がましいんだけど一応説明…「鐘撞」は、中世に武士等が狼煙の替わりに陣鐘等を用いて情報の伝達を行っていた場所を示唆する地名、時間帯や天候不順によって不通となり易い狼煙よりは鐘の音で報せる方が遥かに有効な場合もあった訳だ。何かに取り憑かれた様に4つ打ちを淡々と叩く雑兵を想像すると身体も自然と揺れて来るぜ。

「長野県町村誌」には、「本村(大倉村)中央字小日向にあり。東西二十間(約36.4m)、南北十間(約18.2m)創建年月不詳。一宇の鐘楼を共立し、非常の備となせしが、宝永の頃(西暦1704年〜1710年)、雷火に罹り焼失、現今水田の畔に一小丘を残すのみ。」とある。

町村誌の記述によれば、堂宇と鐘楼が共立していたとある。純粋な鐘撞の場とは異なるのかもしれない。最大の問題は創建年が不明な事…個人的には中世〜戦国時代のものではないような気がする。

現況は町村誌の記述にあるとおり田甫中の一小丘であるが、上段から見れば狭小な単なる微高地に過ぎない。これ以上特に言う事が無いや。眺めだけはすこぶる良いので鐘撞の場としては優れているんだろう。

訪問時は稲の刈入れの時期であり、多段の金色に輝く田園風景が美しかった。大倉の城山の南麓を流れ下る鳥居川から取水する大倉用水は近世に入ると改修を受けたが、元は中世から存在する井水であり、今もその恩恵を周辺地域に与え続けている。おいらは山城好きを公言しているが、これに比べれば中世の要害の発生なんて一時代における単なる一事象にしか過ぎないとさえ思えてくる。

※「鐘撞」は、中世に武士等が狼煙の替わりに陣鐘等を用いて情報の伝達を行っていた場所を示唆する地名〜この物件に関しては「鐘撞堂」の地名は存在せず、あくまで鐘撞堂跡として認識されている。

※大倉用水〜基本的に周辺地域の田地は鳥居川よりも高い段丘上にある。上流から取水してこれを灌漑しているのが同用水だ。

※人気ワードの一つ〜令和五年度かずり調べによる。偏った調査結果なので取り扱いには注意が必要だ。

※写真③、④は上段の舗装道路から撮影した近景だけど心眼で見てくらさい。

2024年09月06日 マグロ常陸介祐平
替佐城[内堀館  周辺城郭]



川中島の戦いも終盤の永禄七年(1564年)頃に、北信濃の制圧を目指す武田氏により築かれたお城です。規模や土木量から武田氏の本気度が伝わってきます。

本丸・二の丸・三の丸の三つの曲輪で構成されており、各曲輪には帯曲輪や腰曲輪が廻り、各曲輪は堀切で仕切られています。二の丸を東に下ったところには、五輪塔のある小さな曲輪がありますが、この曲輪にも堀切と帯曲輪が見られます。ここまでは、城址公園として草刈りもされ、よく整備されていますが、三の丸の南側の土塁・水堀・馬出しは、下草が酷く断念、本丸北側の堀切も薮のため見ることは出来ませんでした。

目の前まで車で行くことができ、よく整備された見やすいお城です。

2024年08月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
永江館(真宝寺館)[内堀館  周辺城郭]



永江館(真宝寺館)は内堀館の北北西約5.4km、斑川西岸(右岸)、標高約432mの河岸段丘台地東縁上平場に立地した居館です。

該地の永江は原初の東山道支道が通ったと推測される交通の要衝、中世以降には飯山道の通過点でもあった。同道の道筋は、飯山から加佐(替佐)の北方、三ツ屋(三俣)の分岐で谷筋を西行して永江に入り、その後は舟岳盆地を進んでアプリの登録城、割ヶ嶽城城下の柴津を抜ければ針ノ木に至る。更に針ノ木から野尻湖の西岸を北行すれば野尻に至り、熊坂の難所を越えて関川を渡れば越後国に入る。

行き方はGoogleマップに位置登録されている浄土真宗本願寺派の寺院、「真宝寺」を目標に設定して下さい。この寺院の境内が概ねの該地となり、車も当然捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは永井氏と伝わり、「長野県町村誌」では、永江日向守の名を館主の一人に挙げている。同氏については全く不明だが、在名を名乗る在地土豪の一氏である事に間違いは無いんだろう。ちなみに現在の住職は永井さん、周辺に建つ曹洞宗の寺院、天正寺の住職は永江さん、要らん情報だけど参考までに…

明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、その中に、「一 水内郡芋川庄三村長井郷庶子并常岩中條内小堺郷、同郡上長沼郷内并蔵井郷高梨備前入道知行分之事 彼所者、或為譜代本領、知行無相違、仍当御代下給安堵御判拝領畢、」とあり、当時の長井郷は芋川庄の内であり、高梨備前入道の知行地であった事が判る。文中にある長井郷は即ち、後の永江である。但し、応永七年(西暦1400年)五月廿七日、宛名不明(市河次郎義房)、小笠原長秀宛行状には、「信濃國水内郡若槻新庄加佐郷庶子分除飯岡、長江、名立知行分、事」とあり、僅か数年の後には長江(長井)が若槻新庄加佐郷の内となっている。単なる認識の相違であろうか。

居館の現況は立派な寺院だが、在地土豪層の居館地としては適地だろう。敷地の東辺と北辺は斑川に面する崖地であり、それなりの要害性も伴っている。遺構としては堀形と土塁が残っているが、堀形は部分で周囲よりも逆に高くなっていて縄張図に描かれなければ気が付かないレベル、土塁の方ははっきり言ってよく判らない。又、該地には地籍として、「城内」、「城下」、「壕」と呼ばれる場所が今も残っている。

境内に立つ説明板には「永井城跡」として、「江戸時代の初期につくられた館跡で元禄年間(西暦1688〜1703)に真宝寺が建立される。」とある…すっ飛ばし過ぎて潔いが、少なくとも説明にはなっていないと思う。並記された寺縁起も難解だし、読んでももやもやが増すばかりだ。居館地としては中世と近世の二期が存在すると思われる。現在の永井家とは何れの地から還住して来た一族なんだろうか。

旧永江村出身の国文学者、高野辰之は作詞家としても有名、唱歌として全国的に歌われている「春の小川」はこの辰之の作詞である。同じく辰之作詞の唱歌、「朧月夜」の歌詞には次の一節がある。

「蛙のなくねも かねの音も さながら霞める 朧月夜」

…詞中には、「かね(鐘)の音も」とあるが、この鐘の音は一説によれば真宝寺の鐘の事だとも言われている。現在も正午と夕刻には鐘を突いて時刻を知らせているが、農事に携わる方達にとっては依然として生活の目安として有効らしい。

…訪問時には若奥様の正午の鐘突きタイムにぶち当たったんだけど、お寺さんマニアだと勘違いされたのか、「突いてもよいですよー」と勧められた。こういう時のおいらは、「実はお城マニアなんです…」等と野暮な事は決して言わない。そう、Jr.アイドルとはいえ大人なのだ。「いいんすかっ!ありがとうございますー♪」と言って勧めに従う。帰り際にはお話しを拝聴(寺縁起を語れる事に敬意を表する。)、麦茶までご馳走に…凄くありがたかったぜ。そういえば、娘さんの夏休みの自由研究の課題は決まったんだろうか。ほっこりとした1日をありがとう。

※近くには「高野辰之記念館」が建っている。流石のおいらでも国文学者には1ミリも興味を持てないんで見事にスルーした。

※「春の小川」の歌碑が居館地東側崖下、斑川沿いに建っている。写真はバスしやす。

※写真①は要るのか知らんけど南側の舗装道路から撮影した近景っす。北信の真宗系寺院は立派なものが多いと思う。

2024年08月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
古屋敷館(風呂屋敷)[内堀館  周辺城郭]



古屋敷館(風呂屋敷)は内堀館の北方約1.2km、千曲川西岸(左岸)、標高約356mの河岸段丘台地東縁部緩斜面上平場に立地した居館です。地図上で見れば千曲川沿いになるが、居館地の東側は崖地、川床からの比高は35m位である。

行き方はGoogleマップに「古屋敷」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。該地は国道117号沿いでもある。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地の現在の住所は中野市上今井、付近には「城下」の小字を残すが、この地名は、西方山中に立地する同じ内堀館のリア攻めマップにある今井北城(北信の良城っす。)の東麓である事を示しているようだ。

従って単純にこの今井北城の根小屋とする説が唱えられているが、時代によって左右されるとも思うので確実なところだとは言えないだろう。個人的には居館地の存在は要害の発生よりも以前のものだと考える。

嘉暦四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、八番五月會分の条には、「左頭、太田庄内赤治(沼)郷豊後大夫判官、小玉郷地頭等、付同庄内野村、上今井、」とあり、該地の上今井は太田庄に属する郷村であった。当時、太田庄を中心として勢力を拡大させていたのは島津氏であった事から、上今井も同氏の影響下にあったと考えてよいだろう。時代は下って、永正十年(西暦1513年)には高梨氏との対立が決定的となった島津氏だが、周辺地域は後に甲越が争った時期よりも遥かに緊張度が高かったと思われる。

居館の現況は一般住宅とその敷地、エノキ工場の跡等となっている。「長野県町村誌」に添付された絵図によれば、東辺を除く三辺を空堀に囲われた単郭の方形居館であり、居館地東側崖下、千曲川沿いには南北に古道(飯山道か。)が通っていた。現在は、西辺の堀が国道と化して埋め立てられているが、南辺と北辺には堀形様の窪地形が確認出来る。立地からすれば在地土豪層の居館跡て感じだろうか。

別称の「風呂屋敷」は銭湯みたいな感じだけど、たぶん「古屋敷(ふるやしき)」の転化なんだろう。又、里俗伝には、義仲四天王の一人、今井四郎兼平が居城とするものがあるんだけど、長野県に数多く残る「今井」の地名にかこつけた口碑に過ぎないので無視して構わない。

※写真⑧は該地から千曲川の対岸、中野陣屋のリア攻めマップにある安源寺城の方を撮影したもの。

2024年08月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
笠倉館(森の家)[内堀館  周辺城郭]



笠倉館(森の家)は内堀館の北北東約3.4km、千曲川西岸(左岸)、標高約332mの河岸台地上平場に立地した居館です。該地は千曲川が殆ど直角に東へ向きを変える場所であり、現在も洪水の危険性が高い地域である。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地に建つ笠倉公会堂の駐車場に捨てられる。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。かつて該地は水内郡若槻新庄加佐郷に含まれていた。明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、その中に、「一 若槻新庄加佐郷内飯岡村事 彼所者、高梨三郎高経為譜代本領知行之地也、」とあり、加佐郷内の飯岡村が一門の高梨三郎高経の知行地であった事が判る。該地が飯岡村に含まれるのかは調べても判らなかったが、少なくとも加佐郷自体が高梨氏の影響力の及ぶ地域であった事に間違いは無いんだろう。

応永七年(西暦1400年)五月廿七日、宛名不明、小笠原長秀宛行状には、「信濃國水内郡若槻新庄加佐郷庶子分除飯岡、長江、名立知行分、事 大内入道退治之時、為致軍忠馳参之處、依路次難儀帰国伝々、雖然於國致忠節之間、為其賞所宛行市河次郎義房也、早任先例可致沙汰之状如件、」とあり、信濃守護、小笠原長秀は、市河次郎義房に、飯岡、長江、名立を除く加佐郷庶子分の地を信濃国における忠節の賞として宛行っている。ちなみに次郎義房は、大内入道(義弘)の討伐(同年に発生した「応永の乱」の事を言っている。)の際には道に難儀して帰国してしまったようだ。

応永十一年(西暦1404年)十二月、幕府の御料所となった信濃国に代官として下向した細川慈忠に従った市河氏貞は、自らの功を書き上げて注進し、慈忠から証判、「市河氏貞軍忠状」を得ている。長くなるので割愛するが、その中に、「…并同十一年九月高梨左馬助依背上意、為御退治、大将細河兵庫助殿奥郡御発向時、桐原、若槻、下芋河之要害責落、加佐、蓮至東条御陣、抽軍忠状、上方御見知上者、給御証判為備後代亀鏡、恐惶言上如件、」とあり、細川兵庫助慈忠が、高梨左馬助(朝秀)の討伐に際して加佐郷にも陣を進めている事が判る。同郷の一部、飯岡村等が依然として高梨氏一門の知行地であったからだろう。

笠倉館は、こうした勢力に関係する、南北朝時代から室町時代にかけての在地土豪、もしくは代官等の居館地であろうか。戦国時代に同じ内堀館のリア攻めマップにある替佐城(北信の良城っす。)の根小屋だったとする説もあるが、個人的には時代が合わないと考える。又、飯山城の押さえとも伝わる替佐城よりも北方に位置している点においても疑問が残る。

居館の現況は…概ねで笠倉公会堂の敷地となっている。改変著しく旧態を見ないが、信濃のお城の神の調査時に残っていたL字形の土塁も現在は完全に消滅してしまったようだ。又、最近の笠倉地区築堤事業の完成により、居館敷地範囲は東側の部分で大幅に狭められている。縄張図を見て期待もしていたのだがリア攻めは少々残念な結果に終わってしまった。

南北朝時代における高梨氏の知行地の分布を地図上で見れば一目瞭然だが、同氏の勢力範囲は北信四郡の各地に及び、千曲川の西岸地域にまで伸長している。当時常識だった荘園条里制度の枠組みを遥かに超えてその勢力を拡大させていった訳だ。高梨氏に倣ったのか知らんけど、現在の長野県中野市の市域も千曲川の両岸に及んでおり、大河を境に行政範囲を区分しない市町村の存在は全国的に見ても珍しいと思う。該地は近年まで長野県下水内郡豊田村に属していたが、村が合併先に飯山市や長野市を選ばす、千曲川の対岸、中野市を選んだのは何故なんだろうか。両岸に及ぶ広範な治水事業が影響していたとも考えられるが、この辺りの事情を御教授して頂ける方をかずりは心待ちにしておりやす。

※水内郡若槻新庄加佐郷〜現在は大字として残り、「替佐」の字が当てられている。JR飯山線、替佐駅の周辺一帯を中心とし、斑尾川沿いに開発が進められた郷域は比較的に広大であった。

※別称にある「森の家」の意味が調べても解らなかった。「森」は「杜」に通じていると思うのだが…

※写真⑧は該地から蛇行する千曲川を撮影したもの。

2024年07月13日 こうじ左兵衛督
内堀館

なかなか風情があって歴史を感じる雰囲気をかもしだしてます。

2024年06月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
桜井屋敷[内堀館  周辺城郭]



桜井屋敷は内堀館の西方約4.1km、標高約535mの丘陵地上平場に立地した屋敷です。該地はダイレクトに「桜井屋敷」の小字が残る場所である。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。該地と周辺一帯は果樹園となっており、何処からアプローチしても未舗装の農道を徒歩で進む事になる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは伝承から桜井某とされる。「長野県町村誌」には、「桜井屋敷」として、「村(川谷村)の北方字桜井屋敷にあり、桜井某なるもの此に居すと云ふ。同氏は大倉与一長澄の家臣なり、近傍の田甫より城具陶器を出し、又柱の根土底に残りあり。」とある。又、別に「古宅地」として、「本村(倉井村)巽(南東)の方字桜井屋敷にあり。里俗伝に承久年間(西暦1219年〜1221年)小笠原与一長澄大倉城主たりし頃、其臣桜井某此処に居住すと云、後事跡不詳。又矢倉の地名あり、今に土人畑を鋤し古器物を得る。」とある。

町村誌が言う、小笠原(大倉)与一長澄は信濃小笠原氏の祖、小笠原長清の一子、その家臣が居したとの記述を信ずるならば、時代は鎌倉時代の初期にまで遡る屋敷跡である。リア攻め当日にお会いした該地の所有者に尋ねたところ、この場所が代々に亘って「桜井屋敷」と呼ばれていた事に間違いは無く、古い武士の屋敷跡であるとする言い伝えも確かに聞いているとのお話しだった。

屋敷の現況は一面の果樹園、縄張図を見ると遺構として井戸跡、土塁が描かれているが、井戸跡にあっては埋め立てられて跡形も無く、立派過ぎる土塁の残欠のみが果樹園中に残っている。又、「桜井屋敷」の西側には、町村誌が言う、「やぐら(矢倉)」て呼ばれる台地様の微高地が地形として残っており、屋敷地に隣接する櫓台の存在を窺わせている。

…屋敷地に残る土塁は、「三水村誌」にも記述がある城郭遺構とされているが、前述の該地の所有者の方にこの土塁について尋ねたところ衝撃の事実を教えてくれた。以下、北信方言に変換してお読み下さっても結構です。

「あ〜この土塁な〜みんな土塁て言うんだけどな、本当は違うんだわ…この辺りの果樹園はみんな昔は田んぼだったんだけど、用水路の高さが決まっちゃってるもんだから、親父や兄貴が田んぼやるために土地を削って全部低くしたんだわ。その時の余った土をそこに積み上げただけなんで土塁なんてもんじゃないんだわ。三水村誌にも載っちゃたんでそのままになってるんだけど、訂正するにも村がもう無いからどうしょうもないんだわ。」…

…聞き込みて大切っすね。「この土塁凄いや…」とか呟きながら既に写真5枚位撮っちゃてたよ…

※三水村は平成十七年(西暦2005年)、牟礼村と合併し飯綱町へと発展解消、消滅した。

※写真⑧は文中にある土塁…を撮影したもの。つまりは後世の削平残土の高まりである。

2024年06月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
殿上[内堀館  周辺城郭]



殿上は内堀館の西方約3.7km、標高約531mの丘陵地上平場に立地した何かです。南東麓の大久保集落中心部からの比高は20m位でしょか。該地は丘陵の東縁部がなだらかな斜面上に小さく張り出す場所であり、東方への展望は比較的に優れている。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「大久保神社」を目標に設定して下さい。この神社と西側の一帯が概ねの該地です。但し、周囲は全て果樹園となっており、何処からアプローチしても未舗装の農道を徒歩で進む事になる。

築城年代、築城者は不明、史料、伝承等も無い。「三水村誌」には、「大久保のお宮の上を殿上(でんじょう)と呼んでいるがこれもやはり山城であろう。大久保はもと立屋といい、これも館から来た地名といわれる。」とある。

信濃のお城の神は村誌の記述のみを頼りに調査したようだが、「立屋」はともかく、「殿上」を山城とする根拠が不明だ。現在の大久保集落の位置に「立屋(館屋)」があり、その上段の地を「殿上」と呼ぶのは理解出来るが、これだけでは城砦の類いが存在したとする理由としては不足ではないだろうか。敢えて村誌の説を補強して言うならば、武士の居館の上段を占地する「何か」には、それ相応のもの(山城)でなければならないて事を言いたいのだろうか。

…謂わゆる色物物件なのであっさりと片付ける。殿上の現況は果樹園と神社、城郭遺構は何一つ見出せない。該地に鎮座する大久保神社の祭神は不明、縁起でも残っていれば何かの足しにはなると思うのだが…ちなみに社殿は部分で損壊している。

雑木林の中の大久保神社を探索中に、果樹園で作業する所有者の方を直近に見留めた。別に悪い事してる訳じゃないのに身体は反射的に社殿の陰に…最近のおいらは何やってんすかね…

2024年06月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
毛野城(城の腰)[内堀館  周辺城郭]



毛野城(城の腰)は内堀館の北西約3.9km、斑尾川西岸(右岸)、標高約494mの丘陵地上に立地する要害です。南麓の舗装道路からの比高は10m位でしょか。該地の北東約0.3kmには同じ内堀館のリア攻めマップにある毛野館が位置する。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、この場所を一応の目標としたが、毛野城は前述の毛野館と共に城砦跡として色々と問題を抱えている。理由にあっては後述する。

築城年代、築城者は不明です。「長野県町村誌」には、「東西三十間(約54m)、南北二十間(約36m)、平地より一層高くして南方に土階あり、慶安中(西暦1648年〜1651年)領主松平遠江守(飯山藩松平家初代、忠倶)、検地の際耕地となる。里俗伝に古毛野某居城の墟と云ふ。事跡不詳。」とある。城主とされる毛野某については全く不明だ。

毛野城の名称は信濃のお城の神が仮称したもの。本来の該地は「城の腰」と呼ばれる場所であり、信濃ではよく小字として残っている地名だ。示唆するものは中世城館の左右の地であり、城館の主郭部を示すものではない。

即ち、該地は主郭部を中心とする城域の端部を表しており、町村誌が言う「城の腰」、信濃のお城の神が言う毛野城とは、本来の城域の一部分にしか過ぎない可能性が極めて高い。

該地の北東には同じ内堀館のリア攻めマップにある毛野館が位置すると前置きしたが、毛野館の位置は平安時代中期から諏訪社が鎮座する高台であり、これを中世武士の居館地とするのは不審である。同社の説明板によれば、社殿は鬼門除けとして建立されたとある事から、単純に考えれば居館地は同社の南西に位置すると考えるのが自然である。即ち、同社と「城の腰」の中間点が想像出来る場所となり、毛野城と毛野館が本来は同一物件であるとの推測に至る。一般的に毛野館とは別に捉えられる毛野城だが、これに従えば毛野館の外郭を構成する一部分に過ぎないと考えられる。

毛野城を単独で見れば、丘陵地上の高まりであり、その西側には幅員のある堀形が確認出来る。堀形は高まりを主郭部として捉えるのが不自然な程に大きなもので、やはり城域は北東方を中心にして広がりを持っていたと考えるのが自然だと思う。これに従えば、高まりは土塁の残欠、もしくは櫓台の類いであろうか。何れにせよ改変著しく城域を判定するのは困難ではあるが、同城の現況が個人的には毛野城と毛野館が同一物件であると推測するに十分な判断材料となった。

城歴が伝えられておらず、城主は深掘り出来無い毛野某さん、口コミも楽に終わらせよかなと思ってたけど、色々と考察してたら結果を無視する事が出来なくなった。興味を持つ人がいるのか知らんけど、併せて毛野館の口コミも見て頂けたらより理解が進むかもしれん。

※写真⑥は該地を含む上水内郡飯綱町赤塩を撮影したもの。中世には赤塩郷と呼ばれた郷村であり、戦国時代には薩摩島津氏の後裔が知行地の一所とした時期もある(島津淡路守忠直、後には上杉氏の会津移封に従っている。考えてみれば転封て過酷な処断だと思う。今となっては帰農する武士の気持ちがよく理解出来る。)。素敵な風景だなぁ…都会の喧騒と人混みには戻りたくないや(最近は人混みを避けるために遠回りさえ辞さないようになってきたw)。ちなみに背景の山稜は北信五岳の一山、標高2053mの黒姫山、信濃富士とも呼ばれている。頼まれても登らんけど。

2024年06月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
毛野館[内堀館  周辺城郭]



毛野館は内堀館の北西約3.8km、斑尾川西岸(右岸)、標高約494mの丘陵地上平場に立地した居館です。現在の上水内郡飯綱町赤塩毛野に位置するが、「毛野」の大字は作物の豊かな土地、「食(け)野」を意味するんだろうか。該地の南西約0.3kmには同じ内堀館のリア攻めマップにある毛野城が位置する。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。該地は現在、諏訪社が鎮座する高台である。但し、この場所を一応の目標としたが、毛野館は前述の毛野城と共に城館跡として色々と問題を抱えている。理由にあっては後述する。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。「長野県町村誌」は諏訪社について、「村社 社地東西十五間(約27m)南北二十三間(約41.4m)面積反別一反九畝五歩(約1901㎡)、村の中央にあり。祭神健御名方命、創建年月不詳、…」とある。又、同社の説明板によれば、「天喜四年(西暦1056年)藤原氏の末裔清水某が奥州阿部頼時の戦乱にあたり、鬼門除として、この地に社殿を建立したと伝承されている。」とあり、更には、「…広大な屋敷跡で当時は隣りの寺院も屋敷の一環と思われる、西側に土塁が築かれてあり、現在も六百余坪の水平地は相当な豪族の屋敷跡と思われる。」とある…

…町村誌の記述はともかくとして説明板の記述が難解だ。諏訪社が鬼門除けとして建立されたとあるが、何処の鬼門に当たるのかが書かれていない。ごく狭い範囲から地域を跨ぐような広域までが推測出来てしまう。同社の位置を中世武士の屋敷跡であろうとするのは「三水村誌」も同様だが、説明板、村誌の双方何れもその根拠を示していない。そもそも論で諏訪社の建立年が平安時代中期にまで遡るのだから、武士の屋敷地との共存が成立しない。鬼門除けとして建立された同社に社地の移動があるとも考え難く、この場所に毛野館を求めるのは少々無理がありそうだ。

諏訪社を単純に毛野館の鬼門除けだったと考えれば、居館地の位置をある程度の範囲で推測出来る。つまりは同社から南西の一帯となり、毛野城を西限、南限とする高台がその敷地範囲ではなかったろうか。信濃のお城の神に準じて毛野城と毛野館を別に捉え、リア攻めマップのスポット登録でもそれに倣ったが、本来は同一物件として扱われるべき存在ではないだろうか。

…てな訳なんで、諏訪社をリア攻めしてもしょうもない感じなんだけど、信濃のお城の神は疑問を呈しながらも同社を中心に話を進めているのでこれに従う事にした。高台の中の微高地に鎮座する神社である…としか言いようがないけど、居館地としても確かに適地であり、神社の遺構とはいえしっかりとした土塁が確認出来る。

後世、寺社と化した城館は、本来ならリア攻めの際にあれこれ悩まなくて済む物件、今回は色んな事を頭に入れる前に探索してしまい、後々になって一筋縄ではいかない物件である事に気付かされた。件数控えてると疎かになりがちだけど、やっぱし事前情報て大切だなぁ…ちなみに毛野城についても問題があるて文中で述べたけど、そちらについては毛野城の口コミを参照して下さいまし。

※写真①、②は要るのか知らんけど近景っす。但し、文中で述べたようにむしろ写真向かって左側の一帯が本来の毛野館、居館地である可能性が高い。

※写真中、目立つ赤い屋根の建物が諏訪社の東側に建つ浄土真宗本願寺派の寺院、勝教寺っす。諏方社の説明板によれば、「…隣りの寺院も屋敷の一環と思われる、」とあるのだが…ちなみに飯綱町は浄土真宗のお寺さんが滅茶苦茶多い。

2024年06月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
黒田城(赤塩城)[内堀館  周辺城郭]



黒田城(赤塩城)は内堀館の西方約2.4km、標高約517mの丘陵地上平場に立地した居館城です。該地の北方を東西に走る長野県道505号、三水中野線を東行すると、同じ内堀館のリア攻めマップにある今井南城、今井北城(北信の良城っす。)の間を抜けて千曲川西岸(左岸)の上今井に至る。中世には川東道から分岐する県道の道筋に準ずる間道の存在が推測出来るだろう。ちなみに黒田城は「くろのたじょう」と読ませる。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南西側に建つ木工場、「WOODFACTOR ウッドファクター」を目標に設定して下さい。この木工場から林道をそのまま車で進めば10秒以内で該地となる。ちなみにストリートビューを使えば仮想リア攻めが誰でも出来る。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは里俗伝から赤塩某とされる。「長野県町村誌」には、「本村(赤塩村)の巽(南東)の方にあり。山上一平地東西四十間(約72m)、南北六十間(約108m)、凹字形をなす。東は山に接し、西北断崖数十丈、南は平坦にして追手あり。里俗伝に年月不詳、赤塩某居城せしと云ふ、事蹟不詳。慶安中(西暦1648年〜1651年)松平遠江守(飯山藩松平家初代、忠倶)検地の際林地となる。」とある。

該地の赤塩郷は、嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、御射山の条に、「右頭、下浅野並小嶋、付大隅孫三郎入道知行分、太(大)倉郷大隅彦四郎知行分、赤塩郷地頭等、」とあるのが文書上の初見、赤塩郷地頭の名は書かれないが、孫三郎と彦四郎は島津氏の一族と推測されており、これ等と同一条に纏められた事を斟酌すれば、島津氏が地頭職であった太田庄に属する郷村と考えて間違いは無いだろう。彦四郎の知行地、大倉郷に南接する地域でもある。何れにせよ赤塩郷に地頭職があった事は確実なところであり、町村誌が言う赤塩氏とはこうした地頭が在名を名乗った氏族なのかもしれない。又、天正十年(西暦1582年)七月十三日、上杉景勝が島津淡路守(忠直)に宛行った「地方之覚」に記された領所の内に、「七百貫文 赤塩」が見られる。宛行われたのは長沼島津氏の旧領故だろう。

お城の現況は耕作放棄地等となっている。該地は信濃のお城の神が町村誌の記述を元に選び出した比定地であり、神は此処からやや北寄りの場所であった可能性についても言及している。但し、「凹字形をなす。」からすれば、個人的にはやや南東寄りの耕作地や果樹園の位置がこれに比定されると思うのだが…信者としては背後から刺されて当然のあるまじき考えだろうか。林道整備(城域は削られて分断している。)等、後世の改変著しく城郭遺構は見出せないが、南辺の一部に堀形様の地形が確認出来る。が、飯綱町の果樹園は水田を転用したものが多いそうなので、単純に後世の用水路の跡とも見て取れる。

…帰り際には腹ぺことなったので前述の木工場まで戻り豆腐食品の自動販売機で、5個入り豆腐ドーナッツ、揚げ出し豆腐2丁、豆腐1丁を購入、HARDLINE VEGANも真っ青な昼食に…ドーナッツはともかく箸が付いてなかったのでワイルドに手掴みで食す…見兼ねた木工場の方が走って割り箸を持って来てくれたけど既に手遅れ、完食じゃ。

…山城に登るようになってからか、以前だったら躊躇してた事が今では何の疑問も持たずに平気で出来るようになった。今後がとても不安です…

あ、黒田城はどうでもよいけど、オーダーメイドの家具が欲しくなったら前述の木工場、WOODFACTORさんを訪ねるとよい。「いいづな歴史ふれあい館」にも立体地形模型の納入実績があるフレンドリーな職人さん一家だ。沢山の楽しいお話しをありがとう。

※豆腐を手掴みで食べる時はパックから手の平に全部出した後にかぶりつこう。パックから細かく摘んで食べてると失敗する。醤油をかけるタイミングも手の平に出してからがよい。何れにせよ口の周りは豆腐だらけになるので、羞恥心の必要が無い山中、もしくはそれに準ずる場所での摂取を基本としよう。又、指先とかに怪我をしていると醤油が染みて痛痒い。怪我をしていない方の手を使おう。

※何の口コミなのかは知らん。

2023年05月22日 マグロ常陸介祐平
内堀館



長野県の史跡に指定されている単郭の館で、江戸時代は本陣として使用されていました。郭内は今でも住宅として使用されている為、中に入ることは出来ませんが、北側の水堀跡や虎口周辺の土塁は確認できます。

2023年03月20日 ともっち♪河内守
替佐城[内堀館  周辺城郭]

替佐城行ってきました(о´∀`о)ノ公園までの道はせまいですが公園として整備されてますのである程度まではお手軽に行けます♪

壊れた遊歩道を行こうとするとお手軽範囲ではなくなりますがー水堀があったりします♪また、整備してくれないのかなぁと思いますが、難しいのかなぁ🤔💦

水堀には竪堀がついてたりしてそこだけ、土橋?になってたりもしてどのような戦い方を想定したのかなと想像してしまいます

さらに遊歩道を、奥までぽてぽて歩くと主郭をはさんで反対側にも竪堀横堀あったりします♪

さらに奥にある沢の手前を、水郭と考えると、もう少し城域が広いような気もします🤔💦また、訪れてみたいお城でした🍀

2021年03月26日 赤かぶ【】
替佐城[内堀館  周辺城郭]



このお城は川中島の戦い当時の武田方の前線基地として川向うの壁田城と共に飯山に通じる谷街道を押さえ、さらに上杉方の国境野尻城にも備える重要な役割を果たしたとされています。
行き方はGoogleマップで検索すると出てきます!
国道117号からわき道を登って行きますが、路肩は狭いのでご注意下さいませ!
登った突き当たりに駐車場があり、簡易トイレも設置されています。
構造としては本丸、二の丸、三の丸の三つの曲輪と、それを取り巻く帯曲輪や堀切からなっています!
駐車場から各曲輪まで10分以内で行く事が出来ます。
本丸には東屋があり、三の丸にはだいぶ朽ち果てた木製のテーブルとイスがあります‪w
二の丸と三の丸の間の堀切の幅広く♪
本丸と二の丸の間の堀切は幅・深さもあり見応えありですよ♬︎
登城道の勾配も急ではないので、お手軽に行けるお城だと思いますよ☀︎
① 三の丸
② 三の丸南側の帯曲輪
③ 本丸の切岸
④ 本丸から見た二の丸
⑤ 本丸と二の丸の間の堀切

内堀館の周辺スポット情報

 替佐城(周辺城郭)

 狐山旗塚群(周辺城郭)

 手子塚城(城の森・諏訪森)(周辺城郭)

 蟻ヶ崎城(周辺城郭)

 鐘撞堂(周辺城郭)

 黒田ののろし山(周辺城郭)

 殿上(周辺城郭)

 与四郎屋敷(周辺城郭)

 毛野館(周辺城郭)

 毛野城(城の腰)(周辺城郭)

 今井南城(南城山)(周辺城郭)

 今井北城(北城山・上今井城)(周辺城郭)

 古屋敷館(風呂屋敷)(周辺城郭)

 深沢城(城山)(周辺城郭)

 天上山城(永江城・城山)(周辺城郭)

 硲城(城の峯城)(周辺城郭)

 黒田城(赤塩城)(周辺城郭)

 桜井屋敷(周辺城郭)

 笠倉館(森の家)(周辺城郭)

 永江館(真宝寺館)(周辺城郭)

 大倉御屋敷(周辺城郭)

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