笠倉館(森の家)
笠倉館(森の家)([内堀館 周辺城郭])
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笠倉館(森の家)の口コミ情報
2024年08月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
笠倉館(森の家)は内堀館の北北東約3.4km、千曲川西岸(左岸)、標高約332mの河岸台地上平場に立地した居館です。該地は千曲川が殆ど直角に東へ向きを変える場所であり、現在も洪水の危険性が高い地域である。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地に建つ笠倉公会堂の駐車場に捨てられる。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。かつて該地は水内郡若槻新庄加佐郷に含まれていた。明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、その中に、「一 若槻新庄加佐郷内飯岡村事 彼所者、高梨三郎高経為譜代本領知行之地也、」とあり、加佐郷内の飯岡村が一門の高梨三郎高経の知行地であった事が判る。該地が飯岡村に含まれるのかは調べても判らなかったが、少なくとも加佐郷自体が高梨氏の影響力の及ぶ地域であった事に間違いは無いんだろう。
応永七年(西暦1400年)五月廿七日、宛名不明、小笠原長秀宛行状には、「信濃國水内郡若槻新庄加佐郷庶子分除飯岡、長江、名立知行分、事 大内入道退治之時、為致軍忠馳参之處、依路次難儀帰国伝々、雖然於國致忠節之間、為其賞所宛行市河次郎義房也、早任先例可致沙汰之状如件、」とあり、信濃守護、小笠原長秀は、市河次郎義房に、飯岡、長江、名立を除く加佐郷庶子分の地を信濃国における忠節の賞として宛行っている。ちなみに次郎義房は、大内入道(義弘)の討伐(同年に発生した「応永の乱」の事を言っている。)の際には道に難儀して帰国してしまったようだ。
応永十一年(西暦1404年)十二月、幕府の御料所となった信濃国に代官として下向した細川慈忠に従った市河氏貞は、自らの功を書き上げて注進し、慈忠から証判、「市河氏貞軍忠状」を得ている。長くなるので割愛するが、その中に、「…并同十一年九月高梨左馬助依背上意、為御退治、大将細河兵庫助殿奥郡御発向時、桐原、若槻、下芋河之要害責落、加佐、蓮至東条御陣、抽軍忠状、上方御見知上者、給御証判為備後代亀鏡、恐惶言上如件、」とあり、細川兵庫助慈忠が、高梨左馬助(朝秀)の討伐に際して加佐郷にも陣を進めている事が判る。同郷の一部、飯岡村等が依然として高梨氏一門の知行地であったからだろう。
笠倉館は、こうした勢力に関係する、南北朝時代から室町時代にかけての在地土豪、もしくは代官等の居館地であろうか。戦国時代に同じ内堀館のリア攻めマップにある替佐城(北信の良城っす。)の根小屋だったとする説もあるが、個人的には時代が合わないと考える。又、飯山城の押さえとも伝わる替佐城よりも北方に位置している点においても疑問が残る。
居館の現況は…概ねで笠倉公会堂の敷地となっている。改変著しく旧態を見ないが、信濃のお城の神の調査時に残っていたL字形の土塁も現在は完全に消滅してしまったようだ。又、最近の笠倉地区築堤事業の完成により、居館敷地範囲は東側の部分で大幅に狭められている。縄張図を見て期待もしていたのだがリア攻めは少々残念な結果に終わってしまった。
南北朝時代における高梨氏の知行地の分布を地図上で見れば一目瞭然だが、同氏の勢力範囲は北信四郡の各地に及び、千曲川の西岸地域にまで伸長している。当時常識だった荘園条里制度の枠組みを遥かに超えてその勢力を拡大させていった訳だ。高梨氏に倣ったのか知らんけど、現在の長野県中野市の市域も千曲川の両岸に及んでおり、大河を境に行政範囲を区分しない市町村の存在は全国的に見ても珍しいと思う。該地は近年まで長野県下水内郡豊田村に属していたが、村が合併先に飯山市や長野市を選ばす、千曲川の対岸、中野市を選んだのは何故なんだろうか。両岸に及ぶ広範な治水事業が影響していたとも考えられるが、この辺りの事情を御教授して頂ける方をかずりは心待ちにしておりやす。
※水内郡若槻新庄加佐郷〜現在は大字として残り、「替佐」の字が当てられている。JR飯山線、替佐駅の周辺一帯を中心とし、斑尾川沿いに開発が進められた郷域は比較的に広大であった。
※別称にある「森の家」の意味が調べても解らなかった。「森」は「杜」に通じていると思うのだが…
※写真⑧は該地から蛇行する千曲川を撮影したもの。