替佐城

替佐城([内堀館  周辺城郭])

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替佐城の口コミ情報

2025年12月12日 内記かずりヾ(・ε・。)


さて、どんな地域、地方にも謎なお城てありますよね?…文献、史料等に載らない事は勿論、伝承等に悩まされ、考えれば考える程、沼に陥ってしまうような物件…今回、紹介する替佐城もそんな内の一つ、様々な考察が為されてはいるし、長野市立図書館に行くと単独の小冊子なんかも閲覧出来たりするんだけど、どの説も変態を納得させるのには不十分、優れた山城だけにもやもやが募るばかりだ。

替佐城(対面城)は内堀館の北北西約2.4km、千曲川西岸(左岸)、標高約463mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。東麓のJR飯山線、替佐駅からの比高は130m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城跡は替佐城址公園として整備されており、登城は容易、城域内に車で進入出来るし駐車場も付いている。但し、特に未整備部分において濃い遺構が連続している事から、縄張図の全てを確認するとなると結構なアドベンチャーを強いられる。夏場の探索は激藪故に悲惨な結果を招くだろう。

築城年代、築城者は不明としよう。「長野県町村誌」には、「…前略、小畑上総介なるもの居城せしと云ふ、事跡不詳、」とあり、永禄七年(西暦1564年)頃、武田氏によって築城され、小幡上総介信貞が城代だったとする説がある。但し、上野国廿楽郡を本貫地とする同名が、替佐城の城代であったとは俄かに信じ難い。永禄七年の時点では、上野国箕輪には依然として長野氏が健在であり、同氏と武田氏が激しく争っていた時期でもある。

該地は水内郡加佐郷の内であり、文献によっては「伽佐」の文字が当てられてもいる。中世には高梨氏によって開発が進められた若槻新庄を構成する一郷であった。

鷹永七年(西暦1400年)六月二日、市河刑部大輔入道(興仙)宛、小笠原長秀安堵状には、「信濃國高井郡中野西条村内(除井上、須田知行分)并水内郡若槻新庄加佐郷内(新居分、門阿跡、)、同庄静妻郷内(北蓮分、)等事、任由緒之旨、領掌不可有相違之状如件、」とあり、信濃守護、小笠原長秀は、市河刑部大輔に、井上、須田知行分を除く、高井郡中野西条村、水内郡若槻新庄加佐郷内新居分、同庄静妻郷内北蓮分を安堵している。これ等、安堵された下地は、推測するに全て高梨氏の領する所であったろう。但し、同年七月から続いた「大塔合戦」において守護方が打ち負けた事から履行されたかについては不明である。

鷹永十一年(西暦1404年)十二月、幕府の御料所となった信濃国に代官として下向した細川慈忠に従った市河氏貞は、自らの功を書き上げて注進し、慈忠から証判、「市河氏貞軍忠状」を得ているが、その中に、「…前略、并同十一年九月高梨左馬助依背上意、為御退治、大将細河兵庫助殿奥郡御発向時、桐原、若槻、下芋河之要害責落、加佐、蓮至東条御陣、抽軍忠状、上方御見知上者、給御証判為備後代亀鏡、恐惶言上如件、」とあり、市川氏貞が細川慈忠に従って、上意に背く高梨左馬助(朝秀)と戦い、桐原、若槻、下芋河の要害を攻め落とし、加佐(替佐)、蓮(以上、全て水内郡である。)に至り、東条(高井郡)に陣を進めた旨等が証されている。加佐に要害があったとは書かれていないが、同地に人数を差し向けたのは、高梨氏の影響力を排除し、前述した小笠原長秀安堵状の内容を履行するためであったのかもしれない。

信濃の一要害としては破格の規模である。複雑な縄張は、図を見ているだけでも幸せな気持ちにさせてくれるが、主郭も含めて各郭の面積が大きく、千人以上の大人数による籠城が十分に可能だ。この点においては武田氏による築城、改修等が念頭に置かれるだろう。城域は殆ど一山に及び、特に堀系が縦横無尽に配された西側部分の遺構の濾さには誰でも圧倒される事間違い無し。但し、冬でもそれ相当の藪に塗れ、元々の地形と相まって探索には根性が必要、堀系のアップダウンを繰り返す他、倒木等にも悩まされる事になる。それなりの覚悟と用意が無ければ、公園化された部分の探索に徹しよう。俯瞰的に縄張の主要部を見通す事が可能、これだけでも十分な感動を得られる筈だ。

個人的には、南北朝時代の高梨氏の要害を発生とし、甲越が争った時期に飯山等との境目に備える要害として大規模な改修が進められたものと考えている。但し、町村誌にある「小畑上総介」とは何らかの誤伝ではないだろうか、感覚的なものに過ぎないが、水内郡小河庄を本拠とした「大日向(おびなた)上総介(直武)」だったとしたら伝承として納得もするのだが…

※小幡上総介信貞〜原隼人佐に差し出された、生島足島神社文書中の起請文では、小幡右衛門尉信実を名乗っている。「甲陽軍鑑」によれば、同名の軍役は武田家中最大の五百騎、素晴らしきアプリの登録城、国峰城の城主でもあった。

2024年09月06日 マグロ常陸介祐平


川中島の戦いも終盤の永禄七年(1564年)頃に、北信濃の制圧を目指す武田氏により築かれたお城です。規模や土木量から武田氏の本気度が伝わってきます。

本丸・二の丸・三の丸の三つの曲輪で構成されており、各曲輪には帯曲輪や腰曲輪が廻り、各曲輪は堀切で仕切られています。二の丸を東に下ったところには、五輪塔のある小さな曲輪がありますが、この曲輪にも堀切と帯曲輪が見られます。ここまでは、城址公園として草刈りもされ、よく整備されていますが、三の丸の南側の土塁・水堀・馬出しは、下草が酷く断念、本丸北側の堀切も薮のため見ることは出来ませんでした。

目の前まで車で行くことができ、よく整備された見やすいお城です。

2023年03月20日 ともっち♪因幡守
替佐城行ってきました(о´∀`о)ノ公園までの道はせまいですが公園として整備されてますのである程度まではお手軽に行けます♪

壊れた遊歩道を行こうとするとお手軽範囲ではなくなりますがー水堀があったりします♪また、整備してくれないのかなぁと思いますが、難しいのかなぁ🤔💦

水堀には竪堀がついてたりしてそこだけ、土橋?になってたりもしてどのような戦い方を想定したのかなと想像してしまいます

さらに遊歩道を、奥までぽてぽて歩くと主郭をはさんで反対側にも竪堀横堀あったりします♪

さらに奥にある沢の手前を、水郭と考えると、もう少し城域が広いような気もします🤔💦また、訪れてみたいお城でした🍀

2021年03月26日 赤かぶ【】


このお城は川中島の戦い当時の武田方の前線基地として川向うの壁田城と共に飯山に通じる谷街道を押さえ、さらに上杉方の国境野尻城にも備える重要な役割を果たしたとされています。
行き方はGoogleマップで検索すると出てきます!
国道117号からわき道を登って行きますが、路肩は狭いのでご注意下さいませ!
登った突き当たりに駐車場があり、簡易トイレも設置されています。
構造としては本丸、二の丸、三の丸の三つの曲輪と、それを取り巻く帯曲輪や堀切からなっています!
駐車場から各曲輪まで10分以内で行く事が出来ます。
本丸には東屋があり、三の丸にはだいぶ朽ち果てた木製のテーブルとイスがあります‪w
二の丸と三の丸の間の堀切の幅広く♪
本丸と二の丸の間の堀切は幅・深さもあり見応えありですよ♬︎
登城道の勾配も急ではないので、お手軽に行けるお城だと思いますよ☀︎
① 三の丸
② 三の丸南側の帯曲輪
③ 本丸の切岸
④ 本丸から見た二の丸
⑤ 本丸と二の丸の間の堀切

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