桜井屋敷
桜井屋敷([内堀館 周辺城郭])
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桜井屋敷の口コミ情報
2024年06月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
桜井屋敷は内堀館の西方約4.1km、標高約535mの丘陵地上平場に立地した屋敷です。該地はダイレクトに「桜井屋敷」の小字が残る場所である。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。該地と周辺一帯は果樹園となっており、何処からアプローチしても未舗装の農道を徒歩で進む事になる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは伝承から桜井某とされる。「長野県町村誌」には、「桜井屋敷」として、「村(川谷村)の北方字桜井屋敷にあり、桜井某なるもの此に居すと云ふ。同氏は大倉与一長澄の家臣なり、近傍の田甫より城具陶器を出し、又柱の根土底に残りあり。」とある。又、別に「古宅地」として、「本村(倉井村)巽(南東)の方字桜井屋敷にあり。里俗伝に承久年間(西暦1219年〜1221年)小笠原与一長澄大倉城主たりし頃、其臣桜井某此処に居住すと云、後事跡不詳。又矢倉の地名あり、今に土人畑を鋤し古器物を得る。」とある。
町村誌が言う、小笠原(大倉)与一長澄は信濃小笠原氏の祖、小笠原長清の一子、その家臣が居したとの記述を信ずるならば、時代は鎌倉時代の初期にまで遡る屋敷跡である。リア攻め当日にお会いした該地の所有者に尋ねたところ、この場所が代々に亘って「桜井屋敷」と呼ばれていた事に間違いは無く、古い武士の屋敷跡であるとする言い伝えも確かに聞いているとのお話しだった。
屋敷の現況は一面の果樹園、縄張図を見ると遺構として井戸跡、土塁が描かれているが、井戸跡にあっては埋め立てられて跡形も無く、立派過ぎる土塁の残欠のみが果樹園中に残っている。又、「桜井屋敷」の西側には、町村誌が言う、「やぐら(矢倉)」て呼ばれる台地様の微高地が地形として残っており、屋敷地に隣接する櫓台の存在を窺わせている。
…屋敷地に残る土塁は、「三水村誌」にも記述がある城郭遺構とされているが、前述の該地の所有者の方にこの土塁について尋ねたところ衝撃の事実を教えてくれた。以下、北信方言に変換してお読み下さっても結構です。
「あ〜この土塁な〜みんな土塁て言うんだけどな、本当は違うんだわ…この辺りの果樹園はみんな昔は田んぼだったんだけど、用水路の高さが決まっちゃってるもんだから、親父や兄貴が田んぼやるために土地を削って全部低くしたんだわ。その時の余った土をそこに積み上げただけなんで土塁なんてもんじゃないんだわ。三水村誌にも載っちゃたんでそのままになってるんだけど、訂正するにも村がもう無いからどうしょうもないんだわ。」…
…聞き込みて大切っすね。「この土塁凄いや…」とか呟きながら既に写真5枚位撮っちゃてたよ…
※三水村は平成十七年(西暦2005年)、牟礼村と合併し飯綱町へと発展解消、消滅した。
※写真⑧は文中にある土塁…を撮影したもの。つまりは後世の削平残土の高まりである。