大倉御屋敷
大倉御屋敷([内堀館 周辺城郭])
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大倉御屋敷の口コミ情報
2024年11月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
大倉御屋敷は内堀館の南西約3.6km、千曲川西岸(左岸)、鳥居川北岸(左岸)、標高約364mの河岸段丘台地上平場に立地した屋敷です。該地は千曲川に流れ込む鳥居川が創造した扇状地の西端部上に当たり、後背北西側の山稜は城山、即ち、若槻山城のリア攻めマップにある大倉城が立地する。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「入公会堂」を目標に設定して下さい。駐車場は付いていないので車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。ちなみに屋敷地の正確な位置は不明ではあるが、概ねでリア攻めマップのスポット登録位置を中心とする一帯であると推定する。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地は中世には水内郡太田庄大倉郷に属していた。南北朝時代には金澤弥名寺が同郷の地頭職であったが、島津氏が違乱を働き下地を押領し続けた郷村である。
年次不詳、七月廿四日、長尾(為景)殿宛、嶋津貞忠御報には、「可有御安心候、河西通路之事者、愚老候ハん間ハ、涯分可申付候間、別条有間敷候、」との記述がある。永正十年(西暦1513年)頃の書状と推測されているが、書状全体の内容は、島津貞忠が越後守護代、長尾為景に北信濃の情勢を報じたものである。書状の中で貞忠は、「河西通路」は、「愚老(貞忠)」がある間に別条は無く安心してよいと言っており、千曲川の西岸地域に含まれる大倉郷は島津氏の差配する所であった事に疑いは無いだろう。
弘治三年(西暦1557年)二月十六日、色部彌三郎(勝長)宛、長尾景虎書状案には、「依之島津方も大蔵之地へ先以被相移候、」との記述がある。書状全体の内容は、長尾景虎が揚北衆の色部勝長に葛山城落去に伴う出陣と対応策を示したものである。書状の中で景虎は、アプリの登録城、長沼城にあったと推測される島津(月下斎忠直)をまず先に大蔵(倉)の地へ相移すようにと指図している。
屋敷の現況は…田地、耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。屋敷地と推測される範囲は広大、捉え方によっては国道18号によって分断されている可能性も残すが、誰が何と言おうと城山の山際の平場を無視する事だけは出来ないと考える。城郭遺構は何一つ見出せないが、一帯には、「御屋敷」、「蔵やしき」等の地名が残っている。
後背の城山に立地する大倉城は、川中島四郡を差配する森長可に対して一揆を以って抗した芋川親正が改修に及んだ古要害である。同城から飯山城に攻め寄せた一揆勢は、長可の迅速な働きによって長沼城を目指して退いたが、長沼口を押さえられた上に森勢による追い討ちを受けて敗走、残されて大倉城に立て籠った女、童等は同勢による凄惨な殺戮の対象となった。大倉御屋敷もそうした場所の一つとなったのであろう。ちなみに後日、長可は山中に逃散した郷民を還住させようと質をとったりして相働いているが、こうした往時の感覚はやはり現代人には到底、理解が及ばないものだと思う。
※古要害〜当時、既に廃城である。
※大倉城に立て籠った女、童は凄惨な殺戮の対象となった〜「信長公記」によれば、一揆勢、貮千四百五十余の頸が安土に届けられたとする。女、童が多かったのは浄土真宗門徒が多勢を占めていた事にある。一揆の首謀者、芋川親正も熱心な同宗門徒であった。
※写真⑧は「蔵やしき」の地名が残る場所から撮影した大倉城の近景っす。