永江館(真宝寺館)
永江館(真宝寺館)([内堀館 周辺城郭])
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永江館(真宝寺館)の口コミ情報
2024年08月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
永江館(真宝寺館)は内堀館の北北西約5.4km、斑川西岸(右岸)、標高約432mの河岸段丘台地東縁上平場に立地した居館です。
該地の永江は原初の東山道支道が通ったと推測される交通の要衝、中世以降には飯山道の通過点でもあった。同道の道筋は、飯山から加佐(替佐)の北方、三ツ屋(三俣)の分岐で谷筋を西行して永江に入り、その後は舟岳盆地を進んでアプリの登録城、割ヶ嶽城城下の柴津を抜ければ針ノ木に至る。更に針ノ木から野尻湖の西岸を北行すれば野尻に至り、熊坂の難所を越えて関川を渡れば越後国に入る。
行き方はGoogleマップに位置登録されている浄土真宗本願寺派の寺院、「真宝寺」を目標に設定して下さい。この寺院の境内が概ねの該地となり、車も当然捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは永井氏と伝わり、「長野県町村誌」では、永江日向守の名を館主の一人に挙げている。同氏については全く不明だが、在名を名乗る在地土豪の一氏である事に間違いは無いんだろう。ちなみに現在の住職は永井さん、周辺に建つ曹洞宗の寺院、天正寺の住職は永江さん、要らん情報だけど参考までに…
明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、その中に、「一 水内郡芋川庄三村長井郷庶子并常岩中條内小堺郷、同郡上長沼郷内并蔵井郷高梨備前入道知行分之事 彼所者、或為譜代本領、知行無相違、仍当御代下給安堵御判拝領畢、」とあり、当時の長井郷は芋川庄の内であり、高梨備前入道の知行地であった事が判る。文中にある長井郷は即ち、後の永江である。但し、応永七年(西暦1400年)五月廿七日、宛名不明(市河次郎義房)、小笠原長秀宛行状には、「信濃國水内郡若槻新庄加佐郷庶子分除飯岡、長江、名立知行分、事」とあり、僅か数年の後には長江(長井)が若槻新庄加佐郷の内となっている。単なる認識の相違であろうか。
居館の現況は立派な寺院だが、在地土豪層の居館地としては適地だろう。敷地の東辺と北辺は斑川に面する崖地であり、それなりの要害性も伴っている。遺構としては堀形と土塁が残っているが、堀形は部分で周囲よりも逆に高くなっていて縄張図に描かれなければ気が付かないレベル、土塁の方ははっきり言ってよく判らない。又、該地には地籍として、「城内」、「城下」、「壕」と呼ばれる場所が今も残っている。
境内に立つ説明板には「永井城跡」として、「江戸時代の初期につくられた館跡で元禄年間(西暦1688〜1703)に真宝寺が建立される。」とある…すっ飛ばし過ぎて潔いが、少なくとも説明にはなっていないと思う。並記された寺縁起も難解だし、読んでももやもやが増すばかりだ。居館地としては中世と近世の二期が存在すると思われる。現在の永井家とは何れの地から還住して来た一族なんだろうか。
旧永江村出身の国文学者、高野辰之は作詞家としても有名、唱歌として全国的に歌われている「春の小川」はこの辰之の作詞である。同じく辰之作詞の唱歌、「朧月夜」の歌詞には次の一節がある。
「蛙のなくねも かねの音も さながら霞める 朧月夜」
…詞中には、「かね(鐘)の音も」とあるが、この鐘の音は一説によれば真宝寺の鐘の事だとも言われている。現在も正午と夕刻には鐘を突いて時刻を知らせているが、農事に携わる方達にとっては依然として生活の目安として有効らしい。
…訪問時には若奥様の正午の鐘突きタイムにぶち当たったんだけど、お寺さんマニアだと勘違いされたのか、「突いてもよいですよー」と勧められた。こういう時のおいらは、「実はお城マニアなんです…」等と野暮な事は決して言わない。そう、Jr.アイドルとはいえ大人なのだ。「いいんすかっ!ありがとうございますー♪」と言って勧めに従う。帰り際にはお話しを拝聴(寺縁起を語れる事に敬意を表する。)、麦茶までご馳走に…凄くありがたかったぜ。そういえば、娘さんの夏休みの自由研究の課題は決まったんだろうか。ほっこりとした1日をありがとう。
※近くには「高野辰之記念館」が建っている。流石のおいらでも国文学者には1ミリも興味を持てないんで見事にスルーした。
※「春の小川」の歌碑が居館地東側崖下、斑川沿いに建っている。写真はバスしやす。
※写真①は要るのか知らんけど南側の舗装道路から撮影した近景っす。北信の真宗系寺院は立派なものが多いと思う。