高梨氏城館(たかなししじょうかん)

高梨氏城館の基本情報

通称・別名

高梨氏城館[高梨氏館(高梨城、高梨小館、中野小館)・鴨ヶ嶽城]

所在地

長野県中野市小舘他(地図は高梨氏館を示す)

旧国名

信濃国

分類・構造

城館遺跡群

天守構造

築城主

高梨政盛[すべて]

築城年

室町時代[すべて]

主な改修者

主な城主

高梨氏[すべて]

廃城年

慶長3年(1598)[すべて]

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)[すべて]、堀切、石積、土橋[鴨ヶ嶽城]

指定文化財

国史跡(高梨氏館跡)、県史跡(高梨氏城跡)

再建造物

碑[すべて]、説明板[すべて]

周辺の城

中野陣屋(長野県中野市)[0.4km]
内堀館(長野県中野市)[5.2km]
福島正則館(長野県上高井郡)[9.1km]
長沼城(長野県長野市)[11.5km]
髻山城(長野県長野市)[12.2km]
飯山城(長野県飯山市)[12.4km]
平沢城(長野県下高井郡)[13.7km]
割ヶ嶽城(長野県上水内郡)[14.0km]
若槻山城(長野県長野市)[15.5km]
井上城(長野県須坂市)[15.6km]

高梨氏城館の解説文



高梨氏館(たかなししやかた)は、信濃国高井郡中野[1](現・長野県中野市)にあった高梨氏一族の居館(日本の城)。国の史跡。高梨城、高梨小館、中野小館、中野御館中野城などと呼ばれることもある。

概要 

北信濃地域の豪族高梨氏の館である。背後の鴨ヶ嶽城を詰めの城としていた。戦国初期に、高梨政盛が建て始め、政頼の代に完成したといわれる。戦国時代、武田信玄の勢力が北信地方に及ぶと、高梨政頼は上杉謙信を頼った。武田氏滅亡後、本領の一部を回復したが、上杉景勝の会津移封に同行したため、城は廃城となった。 2007年(平成19年)2月6日、国の史跡に指定された。

現状 

東西約130メートル、南北約100メートルの規模で土塁、堀などが残る史跡公園「高梨館跡公園」として整備されている。 発掘調査では、門跡一棟、礎石建物跡5棟、掘立柱建物7棟、庭園跡等が確認されている。

所在地 

  • 長野県中野市小舘1069-1

交通 

  • 長野電鉄河東線・信州中野駅からバスに乗り「高梨城趾下」バス停下車
  • 上信越自動車道・信州中野ICから約15分
    • 高梨館跡公園駐車場(無料)

参考文献 

  • 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年

高梨氏城館の口コミ情報

2025年05月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
伝・尾台若狭屋敷[高梨氏城館  周辺城郭]



伝 尾台若狭屋敷は高梨氏城館(中野小館)の北東約3.9km、裏笹川西岸(右岸)、標高約540mの丘陵台地緩斜面上平場に立地したと推測される屋敷です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来んわ…車はそこら辺に捨てられるけど訪ねる人はおらんやろ…

該地は高井郡宇木に含まれる。室町時代には高梨氏の差配が及ぶ村であり、「宇木ノ左京進」なる人物が住していた事が判っている。姓名が伝わらず在名と名乗りで呼ばれるのは、高梨氏の一族、高梨姓の者だったからかもしれない。又、天正十年(西暦1582年)六月十六日、夜交左近助(頼国)が上杉景勝から宛行われた知行地の内に「うき」の名が見えるが、その始まりは隣接する夜交郷を構成する一村であったと考えられている。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは尾台若狭です。但し、あくまでも伝承に過ぎない。

「信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編」に掲載がある物件なんだけど、信濃のお城の神は「長野県町村誌」の記述のみを頼りにして調査したようだ。が、この町村誌の記述に問題があり過ぎる。てか、何言ってんだか解らん。

「二ヶ所。一は本村(夜間瀬村)の丑(北北東)の方、字宇木小名谷地の北の端に在り。尾台若狭と云人の屋蹤(おくしょう、意味は屋敷の跡らしい。)なり、今は耕地となる。年暦伝記不詳。後年由縁の人、墓碑を作る。其文に曰く、正徳六(西暦1716年)申年五月日、佐久郡下平村荒井丞兵衛とあり。又宅址より東の方へ一里許山中に若狭が堀たる溝あり。長凡十町(約1090m)若狭堰と号し、裏笹川に入り田用水とす。水源に小石龕あり。因に云ふ、上野伝左衛門と云者あり、字横倉の内小名上野に独住し、田成りを補理するにより、本田旱魃し苦情多きによりて。若狭が穿ちたる溝の少しく東脇に溝を堀たり。今此溝も伝左衛門堰と唱ひ、裏笹川に入る。」

これを基にして該地を特定しようとする神も凄いんだけど、結局は聞き込みから得た、裏笹川と若狭堰に挟まれた、「三間松(三軒松)」の辺りを推測地としている。但し、町村誌の記述との相違があるとも言っている。

やる気はねぇんすわ…尾台若狭は堰を開削した武士なんだろうけど、近世の人物て事になるしねぇ…江戸時代に佐久郡下平村から高井郡宇木村に来住した意味も不明だ(当時は天領であり、代官支配を受けていた。)。強いて調べれば、尾台若狭とは、佐久郡大井庄内小田井に拠った小田井氏の後裔なんだろうか。

屋敷の現況は…耕作放棄地、果樹園等となっている。周囲よりも僅かに高い微高地だけど、この微高地が屋敷地の形状を踏襲しているのかは知らん。該地には塚様の土盛り(土塁の残滓とか考えてはいけない。)が一つ…武士の住まう場所としては適地とはいえ、周辺は何処もかしこもがそうだと言える。林檎の花でも咲いていなかったらわざわざ訪ねなかったわ…

完全無欠の色物物件、屋敷地であった可能性すら簡単に否定出来る。正に神が信者に突き付ける踏み絵物件だ。「此処に来ないとあなた明日必ず死にます。」とでも煽られない限り訪ねる必要は全くありまてん。

※「宇木ノ左京進」〜地字から屋敷地がほぼ特定されているが…「宇木区誌」に掲載された部分的な地番地図から正確な位置を叩き出すのは極めて困難、今夏の宿題としよう。

※「三間松(三軒松)」の辺りを推測地としている〜この松を目標にして該地を探してみたんだけど、神の記述を真面目に読んだら既に調査時には枯れて跡形も無かったらしい。

※当時は天領〜増減を繰り返しているが、江戸時代の高井郡は幕府の公領であった時期が殆どである。アプリの登録城、中野陣屋もその代官所の一つ。ちなみに該地の宇木村は同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある新野陣屋が管轄していた(距離的には遠くなる。)。

2025年05月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
夜交氏横倉館[高梨氏城館  周辺城郭]



夜交氏横倉館は高梨氏城館(中野小館)の北東約4.0km、笹川北岸(右岸)標高約556mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南側の「横倉集会所」を目標に設定して下さい。この集会所の、舗装道路を挟んだ北側の一角が該地であり車も捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは夜交氏です。同氏は中野小館に拠った中野氏の分流、鎮守府将軍、俵藤太、藤原秀郷の後裔を自称する。同氏については同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある、夜交氏本郷館、夜交氏の墳墓も併せて参照して下さいまし。以下はそれ等の続きである。

永禄五年(西暦1562年)八月四日、夜交千代松(満国)宛、武田信玄安堵状には、「親父為忠信生害候間、近年被抱来候知行等相渡候、若有無主之地者新恩不可有別状候、」とあり、武田信玄は、夜交満国に、近年まで知行していた旧領を安堵している。満国は高梨氏に叛いて生害したと伝わる左近尉景国の子であり、信玄は、親父の忠信による生害のためであると文頭に記している。但し、景国が叛いたのは、永正十年(西暦1513年)七月の事であり、この時点において武田氏との関係が一切無いのは明らかである。わざわざこの事を持ち出したのは、敵の敵は味方て考えからであろうか。

天正八(西暦1580年)庚辰壬三月廿三日、夜交左近丞(頼国)宛、土屋右衛門尉(昌忠)奉之、武田勝頼改替状には、「定 岩船之郷七拾貫文、当納三拾表之所、上表付而、被任御訴訟、夜交之内山脇分廿貫、当所務貳拾八俵之所、為右之御改替、被下置之由、被仰出者也、仍如件、」とあり、夜交頼国は、武田勝頼に、岩船郷七拾貫文と夜交郷山脇廿貫文の領替を願って許されている。改替の知行地の貫高にかなりの差があるが、遠隔地よりも本貫地に近い場所を望んでいる事は注目に値する。

その一方で上杉氏に随身した夜交氏の者もいる。夜交民部左衛門、同九郎三郎がそれであり、天正六年(西暦1578年)三月から続いた「御館の乱」の際には、景虎方としての活動が確認出来る。乱後の消息は明らかではないが、少なくとも「無事」ではないだろう。

武田氏滅亡後の、天正十(西暦1582年)卯月十五日には、夜交左近(頼国)が、川中島四郡を差配する森勝三(長可)から安堵状を受けている。又、信長の横死後には、北信国人の王道パターン、上杉氏に服属、天正十年六月十六日、夜交左近助(頼国)宛、上杉景勝宛行状には、「今般可有忠信付而出置之覚 一 夜交之郷 一 うき 一 新野 一 岩船」とあり、その知行地を改めて宛行われている。

居館の現況は…完全無欠の一般住宅地、探索が別の意味で困難な物件だ。改変著しく旧態は見ないので詳細にする必要も無いが、東辺と南辺の道形は堀跡を踏襲している。又、びっくりする事に夜交氏の居館地である事を示す石碑(地番付き…)が転がっているので参考までに…ちなみに居館地の中心地は「お屋敷」て呼ばれている。

最後に…天正十四年(西暦1586年)、上杉氏時代における夜交氏の軍役定数を見てみよう。

夜交

十六丁 此の中たしなみ二丁 鑓

三騎 馬上

五丁 たしなみ 鉄砲

三本 小旗

以上三十二自分共に

勘定が合わないけど、多いと見るか、少ないと見るかはそれぞれが判断してくらさい。ちなみに「たしなみ」は自分勝手に用意した物、定数外である。鉄砲伝来から僅かに四十年、フルコピから始まって西洋人もびっくりする程の改良を進めながら、北信の小さな在地土豪が「たしなみ」で五丁用意出来るまでにその産業が成長していた事も知れる。日本て当時から凄い国だったんだなぁ…

※写真⑧は居館地付近から撮影した夜交氏の要害、夜交氏山城の近景っす。

※ちなみに写真の内、4枚は去年の同時期の物、判ったら凄いや。

2025年05月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
夜交氏本郷館[高梨氏城館  周辺城郭]



夜交氏本郷館は高梨氏城館(中野小館)の北東約2.6km、夜間瀬川東岸(右岸)、標高約493mの河岸段丘台地西縁部緩斜面上平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「小野沢産業」を目標に設定して下さい。この事業所が縄張図における通称2郭となっている。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは夜交氏です。同氏は中野小館に拠った中野氏の分流、鎮守府将軍、俵藤太、藤原秀郷の後裔を自称する。

戦国時代、該地は高井郡夜交郷の内であり、本郷(中心地)であった事は地名からも一目瞭然(ずばり本郷だ。)である。但し、明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて幕府に注進しているが、この中では、「一 同(高井)郡北笠原上條郷内夜交村之事」とあり、南北朝時代の末期には高井郡上條郷に属する一村に過ぎなかった。又、続く文章には、「彼所者、正平七年(西暦1362年)二月十三日、祖父経頼法名性阿、拝領畢、然而中野弥六契約、于今為給恩知行處、忽亡譜代芳恩、令向背号本主及異儀者也、有尋御沙汰、欲承安堵御成敗焉、」とあり、正平七年二月十三日に朝高の祖父、経頼が拝領した所だが、中野弥六が本主と号して今も知行しており、安堵の成敗を承りたいと言っている。「中野弥六」とは、世間瀬家に伝わる「藤原姓夜交氏系図略叙」に見られる頼秀の事であろう。

明鷹九年(西暦1500年)庚申十一月十五日、夜交六郎(景国)宛、高梨政盛安堵状には、「信州高井郡夜交甲斐守(高國)當知行之所、不残壱所、 一 下上条并新野之高とう在家 一 小たけ分西条、岩舟并上条ニ在之、 一 藤澤分并於于役等之儀者、可為前分、此他ニ能州ゆいしょの地在之、右、如親父之托、少もたがわす、軍役忠節等可被抽其劫(功)者也、仍領掌如件、」とあり、夜交氏は、中野氏の一族でありながら、景国の代には高梨氏から安堵状を受ける立場に転じている。宗家の中野氏さえ圧迫、高井郡において強勢を誇る高梨氏の被官化は決定的だ。

永正九年(西暦1512年)壬申十二月廿六日、夜交左近尉(景国)宛、高梨摂津守政盛安堵状では、新恩としての増分が一切無く、知行地についても前安堵状と全くの同内容である(高梨氏による宗家、中野氏の滅亡はこの安堵状の前後が推測されている。)。

永正十年(西暦1513年)七月には、景国が、近隣の小島氏、中野牢人衆と謀り、主家の高梨氏に叛いている。企ては高梨氏の被官、草間大炊助の機先を制した武略により失敗に終わり、景国は山中で生害したと伝わる。これ以降、永禄五年(西暦1562年)までの間、同氏は文書上から完全に姿を消す。

居館の現況は…耕作地、果樹園、空地、一般住宅地、事業所等となっており、探索が別の意味で困難な物件だ。改変著しく旧態を見ないが、南端部の幅員のある堀跡の一部が耕作地にそのまま変貌している。城域の東辺に沿う市道には市神が置かれ、その傍らには秋葉大権現と高札場の跡、近世の夜交村でも中心地であった事に間違いは無い。気になるのは、中野から本郷を通って上條郷へ通じる古道よりもやや低所に立地している事…地形に改変があるのかもしれないが参考までに…

夜交氏の居館跡は下高井郡山ノ内町夜間瀬の横倉集落内にも別に存在し、夜交氏、最初の居館地と伝わる。こちらの方も今回訪ねてみたので次回にでも紹介するかな。ちなみにこの時期の高原地域は探索していて実に気持ちが良い。緑豊かな風景に身も心も癒される。何が飛び出すかも分からない鬱蒼とした山城を訪ねるよりも遥かに有意義だと感じる。

※同(高井)郡北笠原上條郷内夜交村〜笠原は「延喜式」に載る信濃十六牧の一つ、笠原牧が置かれた地と推測されている。「吾妻鏡」、文治二年(西暦1186年)三月十二日庚寅の条、「乃貢未済庄々注文」の中に、「前略…笠原牧南条、同北条、…後略」とあり、北笠原とは笠原牧北条の旧地を意味するのかもしれない。

2025年05月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
佐野堀之内館[高梨氏城館  周辺城郭]



佐野堀之内館は高梨氏城館(中野小館)の東南東約3.1km、夜間瀬川南岸(左岸)、標高約593mの段丘台地上平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「旧興隆寺跡」を目標に設定して下さい。この寺院跡(耕作放棄地)が該地であり、車はそこら辺に捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小島氏です。同氏は中野小館に拠った高梨氏の分流である。近世には庄屋だったらしく、松代藩にも貸付する等、富農として在地で存続、今も該地は小島氏本家の土地であり、周辺には分家を多数輩出している。

該地は高井郡須毛郷に含まれる。嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の大宮造営の際の負担を注した鎌倉幕府下知状案、「大宮御造営之目録」に、「玉垣五間 須毛、戸狩」とあるのが文書上の初見だ。

「諏訪御符禮之古書」、寛正四年(西暦1463年)癸未御射山の条には、「一 上𡑭須毛小嶋高梨伊豆守景頼御符之禮五貫六百御教書同前使曾次二郎頭役二十貫文」、文正二年(西暦1467年)丁亥五月會の条には、「一 加頭須毛小嶋左衛門尉景貞初當候両度御符禮五貫六百文使三郎御教書同前頭役二十貫文」とあり、須毛郷には、高梨氏の一族、小嶋伊豆守景頼、小嶋左衛門尉景貞があり、その知行地であった事が判る。

須毛郷には上郷と下之郷があり、本家の伊豆守景頼は上郷を知行、同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある菅の館に居し、文明年間(西暦1469年〜1487年)、舎弟の左衛門尉景貞に下之郷を分知、景貞は佐野に居館したと伝わる。つまりは佐野堀之内館とは、この景貞の居館地が始まりであり、該地には小島氏の分家が居していた訳だ。

永正十年(西暦1513年)七月には、本家の高盛が、近隣の夜交氏、中野牢人衆と謀り、宗家の高梨氏に叛いている。企ては高梨氏の被官、草間大炊助の機先を制した武略により失敗に終わり、館(菅の館)、内之町。諏訪社を焼き払われた上にその身は磔に処せられ晒された。このため事後の小島氏は分家が本流となっている。

年次不詳だが、高梨政頼時代と思われる、天文年間(西暦1532年〜1555年)、中野小館の大門普請を記した文書には、「大門次第之事 門之広サ一丈三尺(約3.9m) 一 柱一本 後小嶋殿之届…後略」とあり、小島氏は、宗家の求めに応じて、大門に使われる柱一本を負担し中野へ届けている。

小島氏は後に武田氏に出仕しているが、高梨氏の高井郡退去後には同氏の居館地であった中野小館に居していたらしい。武田氏の滅亡後、信長の横死後、高梨氏は中野に還住を果たすが、その際には居館を譲り渡し、以降、両氏の蟠りは殆ど消えたとも伝わる(小島氏はこの時に同族紋幕を用いる事を許されている。)。

居館の現況は…前述したとおり耕作放棄地となっている。隣りの果樹園で作業中の分家の方に話を聞いたら、「草刈りには来るけど農業はもうやってないんだわ。」て事らしい。改変著しく旧態は見ないが、前述のとおり該地は曹洞宗の寺院、萬松山興隆寺の旧地でもあり、「古寺屋敷」の地字が残っているんだそう。ちなみに居館地周囲の道形は堀跡を踏襲しているのかもしれない。

小島さんの本家には土蔵が3棟…分家の方に聞いたら、その全てに過去数百年分の古文書が保管されているらしい。今までも偉い先生方が閲覧を希望して訪ねて来た事があったらしいんだけど、その都度、お断りされてきたていう代物だ。なんとか世に出せないもんかな…不明な事だらけのこの地方の歴史に一筋の光明が差すと思うんだけど…おいらガチに権威ある関係機関の協力を仰いで説得に当たろうかなて考えてる。

※宗家の高梨氏に叛いている〜高梨氏の一族でありながら叛いた理由は不明だが、当時は高梨氏が惣領制からの脱却を推し進めていた時代である。

※「古寺屋敷」〜元禄十年(西暦1697年)の「佐野村検地帳」等によれば、地字は「北田堀之内古寺屋敷」であり、併せて興隆寺分とあるんだそう。

※写真⑦は「古寺屋敷」の地字が残る場所を撮影した物っす。

※写真⑧は居館地付近から撮影した湯田中温泉街、背景の山稜は小島氏と共に高梨氏に叛いた夜交氏の要害、夜交氏山城っす。登城は猛者でも厳しいけど、かずぽん、楽に登れるルートを開拓してある。

※分家のお爺ちゃんと昼飯時なのに1時間30分強を話し込んだ。「あんたの顔は覚えた。次に来る時は家で話そう。」て言ってもらえて嬉しかった。ありがとう。

2025年05月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
夜交氏の墳墓(甲斐森)[高梨氏城館  寺社・史跡]



さて、おいらは生粋の五輪塔マニア、星になったら墓石は要らないんで五輪塔の下に葬ってほしいて常々思っている。いつの日にかそれはばらばらになるんだろうけど、少なくとも大切な「何か」として再び一纏めにされる事だろう。

夜交氏の墳墓(甲斐森)は高梨氏城館(中野小館)の北東約3.9km、笹川北岸(右岸)、標高約553mの段丘台地南縁部上平場に立地する墓所です。ちなみに下高井郡山ノ内町の指定史跡である。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいな。こんなんマップコード以外では上手く説明出来んわ…車は該地の北側、Googleマップに位置登録がある「横倉集会所」に捨てるのがよい。

「夜交」は「よませ」て読ませる。アダルティな雰囲気が漂よう姓だけど、おいらは数年前まで「やこう」て読んでいた。高井郡北笠原上條郷内夜交村の在名を取って称した氏族、中野小館に拠った中野氏の分流と伝わるので本姓は藤原姓だ。

夜交氏については居館跡が2箇所に存在するのでその際にでも。紆余曲折を経ながらも厳しい時代を乗り越え、最終的には米沢藩藩士として明治維新を迎えた一族、重大局面には同族が二分、悲劇を伴いながらも逞しく乱世を生き延びた同氏の処世には頭が下がる思いだ。どんな戦国出世譚よりも遥かに共感を覚える。

墓所は「甲斐森」とも呼ばれている訳だが、五輪塔、宝篋印塔の一部が、戦国時代初頭の当主、甲斐守高廣、甲斐守高國の物と伝わるからだ。

詳細は不明だが、墓所とはいえ該地から出土した残石の集積なのかな。夜交氏の物とする確証も無いらしいが、様式は完全に中世のものであり、それ以外には考え難いて事なんだろう。纏まって出土している点でも十分な裏付けにはなると思う。

居館跡を訪ねるよりもこちらの方が当日のメインだった。夜交氏の事跡を勉強してからその思いはより一層強くなった。物言わぬ墓塔の前で頭を垂れよう。

※「夜交」〜現在は地名に「夜間瀬」の文字が当てられており、長野電鉄長野線の駅名でもある。長野駅と湯田中駅を結ぶ3両編成の特急電車、通称、スノーモンキーは見事に通り過ぎる。

※東京都に在住の子孫の方は「世間瀬」と称している。

※夜交氏は、同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある、夜交氏山城(大城・小城)を要害としていた。登城困難のためあまり知られていないがお気に入りの山城の一つ。インスタにはアップしている。

2025年01月09日 ほりーないと信濃守
鴨ヶ嶽城[高梨氏城館  周辺城郭]



初めて行く山城はドキドキするものです。北信(長野県北部)の雪化粧した鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城へ行ってきました。説明板の縄張り図のとおり、この二つのお城は尾根続きにあります。口コミを読むと登るのが厳しい山城だと思いましたが、ウォーキングコースとして整備されていて、城友様たちのおかげでスンナリと登城できました。何人も登山客さんにお会いしました。
鴨ヶ嶽城の二の曲輪にはベンチがあり中野市街地の眺望を楽しめます。悩みの藪は雪にうまく覆われ、堀切が美しかったです。程良い積雪量だったので鎌ヶ嶽城の石塁をしっかり見ることができました。この山城を築城したとされる高梨氏の強さを感じました。

雪のお話
長野県は雪深い所とイメージする人が多いと思います。長野県はとても広く気候も歴史も地域によって全く違います。雪が多く降るのは一部の地域です。高梨氏城館・鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城がある中野市の積雪は交通に大きく影響する程ではありません。きちんと除雪されていて高速道路からも近いです。雪の中では誰かの足跡を辿ると良いと聞いていたので、城友様の足跡を追いかけました。体力消耗を押さえることができて歩きやすかったです。強い寒波などでは雪が普段降らない所も降るので、事前の天候確認は大事だと思います。

ご一緒した城友様たちに感謝です♪ このような城攻めができるのは城めぐの繋がりがあるからだと思います♪ 今回の北信の山城が城初めでした。今年も素敵なお城&お城好きの皆様との出会いがいっぱいありますように…

2024年10月09日 尼崎城近江守一口城主
高梨氏城館



[外周編]10月5日、信州の武道家さんに、案内して頂き登城。駐車場側に新旧の石碑があったので両方撮影(写真①②)※古い方の石碑(写真①)奥に写っている木橋から入城してみたいところでしたが橋の入口にロープが張ってあったので断念して写真②に写る入口から入城。
入城門前に説明板(写真③)があり、<高梨氏は頼季流信濃源氏の有力武士団である>とあったので、甲斐源氏の信玄公と戦ったのは源氏同士の戦いだったんだなぁと分かりました。こちらの説明板の裏には館跡遺構配置図(写真④)があります⚠️(私は下城時に気付きました)
次に館に入ろうとしたところ、築地塀断面図(写真⑤)があり、今は写真⑥の通り土塁に見えるものの土塁が造られる以前に築地塀が存在していたとのことでした。
館の外周も散策してみました。草刈りなど綺麗に整備して頂いていて、中世の趣のある館の雰囲気がより引き立てられていました(写真⑦⑧)

2024年10月09日 尼崎城近江守一口城主
高梨氏城館



[館散策編]
館跡を散策したところ、説明板(写真①②)の通り館には庭園(写真③)があり優雅な様子であったことが伺えました✨
水路(写真④)や建物の跡(写真⑤⑥)などを見学。
館跡の土塁側を散策中、石積み(写真⑦⑧)も見られ丸石が多く使われているのが印象的でした。

2024年09月09日 まう右近衛少将
高梨氏城館



駅から中野陣屋まできたので、もう少し足を伸ばしました。公園になってるようです。

2024年09月05日 マグロ常陸介祐平
鴨ヶ嶽城[高梨氏城館  周辺城郭]



高梨氏城館の東側にある標高668.3mの山上に築かれた(比高差約300m)詰め城です。山頂の説明板には「この城は、室町時代から戦国時代にかけて、中野地域を根拠とした勢力(高梨氏など)が築き・・・」とあり、築城に関しての資料は見つかっていないようです。弘治元年(1555年)に、周辺の小島氏、夜交氏らが武田氏の軍門にくだりますが、高梨氏は鴨ヶ嶽城に籠ることもなく飯山城に退去したようです。

お城へは、日本土人形資料館を見学後に、妙法寺の裏の防獣柵を開け、ハイキングコースを登りました。登りきった場所が説明板と井戸と東山神社のある水の手郭に出ます。北側にはすぐに大きな堀切があり、その先が最高部の本郭となります。本郭には南側のみ土塁が見られます。本郭の北側の堀切を越えると小さな段郭が並びやや下ったところに堀切があります。この堀切で引き返し、水の手郭の南側へと進みます。ここからは道はありますが、かなりの薮となります。尾根道を緩やかに下ると堀切があり、その先の郭は西側を除き土塁が囲み、主郭よりも広さを感じます。この郭の南側には迫力のある二重堀切があり、その先には小さな段郭が並びます。段郭を下ると堀切があり、鎌ヶ嶽城と呼ばれるあまり平坦ではない広い郭に出ます(出城ではなく、鴨ヶ嶽城の一部という感じです)。その南側にも大きな堀切があり、石塁があるようですが、堀底まで降りたにも関わらず、石塁に気が付かないという失態をおかしてしまいました。説明板の縄張り図を写真に撮り回ったのですが、石塁のことも書いておいて欲しかったです。(前もって調べないのが最大の原因ですね)

連郭式の山城で堀切だらけのお城です。堀切好きな方にはオススメです。土人形資料館から説明板の城域を見て往復90分でした。

2023年12月19日 源山城守ポンコ2…
高梨氏城館



中野陣屋跡からも徒歩5分弱と近く、市街地に残る土塁や空堀に興味あって登城しました。

●空堀
発掘調査報告書によれば、北側の空堀は、本来7㍍の掘幅が想定されるも住宅地により幅が狭くなっており、また堀底から約3㍍ほど埋められているとのことです。それでも整備されたのか、なかなかの険しさが感じられます。
南側・西側の空堀も、本来の堀底から石礫や陶器・土器など混じった土砂で2.7㍍ほど埋められており、往時は土塁から堀底までかなりの落差があったようです。いずれも見た目は、V字の薬研掘が感じられます。発掘されなかったものの東側の空堀も、だいぶ埋まっているのかなと類推できました。

●土塁
東西130㍍、南北100㍍の四周にわたる土塁ですが、西北隅の土塁はやや高く、同報告書によれば、井楼か隅櫓の存在が想定されています。また、南北隅も以前は高かったが、今は削平されて低くなったと言われているとあり、ここにも櫓の存在した可能性に言及されています。どちらも他の土塁より肉厚というか重厚のようにも感じられました。
土塁の所々に、犬走を思わせる段差のようなものもあったりします。郭内を歩くと、北面の土塁が最も高く残っているようでした。
北面・南面の発掘調査では堀側や郭内の下部に焼土とともに、西側北虎口で確認できるような土留めの河原石の石積がみつかっており、土塁そのものも砂利層と土層が交互に7層にたたきしめられているとのことです。また、南側の土塁は堀底から4㍍ちょいありそうですが、案内板のように土塁の基底幅9㍍の中央に幅1.2㍍・高さ2.2㍍の漆喰のついた築地塀が見つかっています。
元々の中世の頃は堀や土塁がなかった状態から、戦国期に入り守りを固めるために、堀やそこから扇状地特有の砂利層を掻き上げた残土を、築地塀に被せるように盛土して土塁を普請したようで、そういった変遷があるのも興味深く感じられました。

●虎口
虎口は、南側に2ヵ所、西側に2カ所、東側に1ヵ所ありますが、そのうち南の2ヵ所について、発掘では土塁が普請された時期としての入口は確認できなかったとのことです。
西側の2ヵ所のうち北の虎口は、両袖に高さ約1㍍の土塁土留めの石積みが見られ、抜け石で転がってた石は上に積まれモルタルで補強されてました。また、北の虎口の内側と外側に、それぞれ2カ所の礎石も見つかり、石積みの一部に焼け跡があるとのことです。
北の虎口前の土橋は、南側下半分が虎口の石積みと同じ積み方で石積みされており、反対の北側は落し積みの石積みになっており、後世に修復されているようでした。西側のもう1カ所の南側虎口は、発掘で底部に石積みや排水溝の石列が見つかり、両袖の幅も北より広くなっていて、大手はここなのかもと思ってしまいました。
東側の虎口は、両袖の土塁がだいぶ崩れているようですが、この方向に詰城の鴨ヶ嶽城跡があることから、古地図でも続く道が書かれており、搦手の役割かと思われます。

●郭内
郭内は、東側半分に複数の建物跡や庭園が集中しており、西側には冬季閉鎖のトイレなどが設けられてました。庭園がある南の方が北より少し低くなっているようです。建物と庭園の間に嘉永年間に改築の碑文のある井戸も残っています。
低い位置にある庭園は、近くに水路も見つかっており池の周りの並んだ石につながっていて、北から水を流しているのかなと思いました。庭石は、明治に入りいくつか持ち出されたと伝わっており、それでも立石などいくつか残っており、整備された庭園でもそのまま使われているそうです。当時の高梨氏は、京都志向が強かったとのことで、連歌師の飯尾宗祇の来館や三条西実隆との交流、朝廷への献金などがあり、庭園を眺めながら和歌や連歌を嗜んでいたのかもしれません。

●なぜ市街地に良好に遺構が残ったのか…
同報告書を読むと、なんとなくヒントがありました。廃城後から明治に入るまで今よりも旧状をよく残していたらしく、明治9年に官有地から民間に払い下げが行われた際に、畔上源兵衛という方が世話人となり、尾張藩士になっていた高梨一族の方を館跡に招聘し、以降その後裔の方が郭内中央に住んでおられたそうです。高梨氏が越後上杉氏の会津転封で去った後、一時期を除いて幕府天領で支配が続いていたことにより、ここでは殿様として慕われ続けてきたことが保存につながったのではと思わされました。

無料駐車場も完備されており、公共交通機関でも徒歩圏ですので、近くにお越しの際のご参考までに記載しました。

参考資料:発掘調査報告書(1990年中野市教育委員会)

2023年06月19日 ᴿᴱᴰ 副将軍
高梨氏城館



北信の有力土豪である高梨氏の居城🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。室町時代に高梨政盛により築かれた高梨氏の居城と云われます。
高梨氏は、清和源氏の系譜で源頼季の孫である高梨盛光が高梨郷に土着し高梨氏を称したのが始まりとされます。
源平合戦では木曽義仲の重臣として各地で転戦、鎌倉時代は御家人となり、室町時代には南朝方に付き勢力を拡大し、北信における有力土豪となりました。
1512年、高梨政盛は北へ侵攻し中野郷の中野氏を攻略。本拠を北へ移し築いたのが高梨氏館とされます。
1553年、武田信玄による北信侵攻が活発となり、川中島の戦いが勃発。高梨政頼は危機的な状態となり飯山城へ後退し、越後の上杉謙信を頼ります。
1578年に上杉謙信が没すると家督争いの御館の乱が勃発。上杉景勝は武田勝頼と和睦し、上杉景虎に勝利したため北信は武田氏の支配下となります。
1582年に武田氏が滅亡し、本能寺の変で織田信長が没すると北信は上杉景勝の支配下となり、高梨氏も旧領に復帰しました。
しかし、1598年に上杉景勝が会津へ転封となると高梨氏も会津へ移り廃城となりました。

見所
東西約130m、南北約100mの北信最大規模の館跡です。
四方を空堀、土塁が巡り、内部には井戸や庭園跡が良好に残っています。空堀には太鼓橋が復元されています。

国史跡に指定されており、駐車場も完備でよく整備されています。

2023年05月21日 マグロ常陸介祐平
高梨氏城館



慶長三年に廃城となったようですが、市街地にありながら驚く程に遺構が残っています。
記録に残っていなくとも、江戸時代に中野陣屋として使用されていたのではないかと疑ってしまいます。
発掘しているのでそんなことはありませんが、お隣の陣屋とは対照的すぎですね。

2023年01月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
間山館(石動の館)[高梨氏城館  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

間山館(石動の館)は標高約394mの山間部台地緩斜面上平場に存したと推測される居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「津島公会堂」を目標に設定して下さい。この公会堂の東側に鎮座する石動神社とその周辺が推測される該地です。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは高梨氏と推測されます。

永正七年(西暦1510年)、上杉定実を擁した越後守護代長尾為景は越後から退去する関東管領上杉顕定を追って越後長森原でこれと戦い為景は大勝する。長尾勢に合力した高梨政盛は顕定を討ち取る等功を立てるが、その際に凱旋した場所がこの石動の館とされる。即ち、「政盛の軍は牛頭天王の社前(石動神とも。)で戦捷を祝し、それから間山の館へ帰る。石動の構えなり。」との記録が残るのがこれだ。

政盛が中野氏を滅ぼし中野郷を掌握して中野小館を築いたのは永正十年(西暦1513年)頃と推測されており、それ以前は間山を本拠としていた可能性が高い。当時は高梨氏の最盛期で時代的変遷もあるが「諏訪御符礼之古書」には高梨本郷、高梨本郷橡原、高梨中村、須毛、犬飼、富武郷、小島郷、新保、江部、狩田、和田、安田、大熊等の各郷が高梨氏本領とその一門の所領として列挙される。

居館の現況は位置が特定出来ていないので何とも…信濃のお城の神は東南方、菅峠を背後に控える山塊中腹、中世に修験寺として栄えた天台宗の寺院、間沢山普門院建応寺の周辺だったかもしれないとも推測している。建応寺は七堂伽藍十二坊を数える大寺であったが川中島の戦いで悉く焼失、廃寺となる。跡地は中野市指定史跡(過去に発掘調査が行われている。)ではあるけど山中の原野に近い平場なので悪しからず…

高梨氏て全国的には無名だけど北信では村上氏に拮抗し得る有力な国人領主、越後守護代長尾氏と独立性を保ちながらも従属的同盟関係を構築してその勢力を拡大していく(逆に見れば高梨氏は信濃における長尾氏の外城勢力の一つである。)事に成功、一時期には越後国頸城郡の各所にも所領を得ており、その内には越後国衙領すら含まれていた。

2023年01月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
小曽崖城[高梨氏城館  周辺城郭]



小曽崖(地元の方は「おそがい」と読むんだそう。)城は高梨氏城館の南方約3.5km、南北に延びる山塊尾根上、標高590mのピークの一つ(竜宮山)に主郭が存します。北麓の中山晋平記念館からの比高は225m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「美はらし林道石碑」を目標に設定して下さい。此処まで車も入れる林道が延びています。この石碑のある場所は主郭からの東側尾根の中腹に当たるので緩やかな尾根筋をそのまま登れば楽に城域に至ります。

築城年代は不明ですが、築城者は在地土豪の新野氏が推測される。同氏は寛正四年(西暦1463年)に越後守護上杉氏と結んで近隣の大熊氏と共に高梨氏(守護と対立する越後守護代長尾氏と深い関係を保っていた。)に抗したが、高橋(不明)で打ち負け滅ぼされている。それ以降は高梨氏の持分として南方への押さえ、間道の監視を兼任していたと推測される。

縄張は山頂部の主郭を中心に尾根上を三方へ展開する。特に西側尾根の「のろし台」に至るまでが長大で面倒極まりない。主郭には最低でも3回は登り返さなくちゃならない事になる。主郭は土塁が残るが元々削れている上に積雪で不明瞭、南側尾根を連続堀切(土橋付き)、北側尾根も連続堀切で断ち切っていて腰郭も含めて主郭部は濃い地形だ。北側尾根は大手筋とされる。執拗な段郭が設けられ要所を堀切で断ち切っているが堀切は浅い上に不明確なものも多い。この尾根の最北端には腰郭の付いた旗塚(旗を立てるためだけの土盛り…)が残る。疑問なのは緩やかな東側尾根に遺構が何も確認出来ない事で、林道整備によるお山自体の改変もあるのかも知れないが東方からの侵入は想定していなかった事になる。

高梨氏関連のお城とも言える訳だが、周辺の山城は縄張を全て見て廻るのが面倒(総じて急峻な細尾根に長く縄張が展開する。)なものばかり…このお城の狼煙台なんて一城別郭と言ってもよいだろう。小雪が散らつく空模様、気温は零下を超えてしまったけど時間も押してしまい文字通り駆け足で廻ったリア攻め、汗をかいた身体に北信の北風は凍える程冷たかったぜ…

※鉄塔整備等、人が入るお山だけど夏場は結構な藪城っす。

2023年01月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
沼ノ入城[高梨氏城館  周辺城郭]



沼ノ入城は高梨氏城館の南方約4.6km、東西に延びる山塊尾根上、標高約776mのピークの一つに主郭が存します。南麓の林道矢崎線起点からの比高は210m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「間山峠」を目標に設定して下さい。前述の林道矢崎線から間山峠に至る分岐があり、この峠までマウンテンバイクで登った猛者も存在する。城域は間山峠を東端とし、西端を間山古峠とするもやもやしない縄張なので気持ち的には比較的楽かなと。ちなみに間山古峠道は川中島の戦いにおいて上杉勢が利用した通称「謙信道」と呼ばれる軍道の一つに比定され、第三次川中島の戦いにおいて桝形城(山田城)を屠った上杉勢もこの峠道を通過した事でしょう。

築城年代、築城者は不明です。同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある小曽崖城に関連するものとされ、新野氏が築城者だとの推測がある。同氏は寛正四年(西暦1463年)に高梨氏に滅ぼされているので、それ以降は高梨氏の持分として南方への押さえ、間道の監視を兼任していたと推測される。

境目のお城は緊張感があるが、縄張は細尾根上を東西に長く展開する。主郭には浅間社の小祠が鎮座するが面積は極僅かだ。縄張図を見ると堀切は総計で10条を数えるけど一部に不明瞭なものも含む。信濃のお城の神は「主郭の規模に対して、堀の数が異常なほど多い。」と異常城の烙印を押す。堀切は大きなものは無く急峻故か竪堀への掘り下げも無い。そこまで言わなくても…感はあるので安心してつかぁさい。ちなみに堀切よりも間山峠、間山古峠の切り通し(スポット登録と写真だけ載せやした。)の方がびっとしています。

帰りは間山古峠道を歩いてみたくて北方の小曽崖城を目指す。中間点には同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある662m峰の砦が存する。主郭からの道筋は登山系アプリを活用すれば迷う事は無いが、山中の峠道(今は獣道程度っす。)としては不安感MAXでした。ちなみに城域東端を通る間山峠道は近年まで生活道としての利用があり、高山村中山田のある方は大正十三年(西暦1924年)に山田高等小学校を卒業すると、この峠道を使って中野の下高井農学校まで春夏秋冬休まず毎日通っていたんだそう。直線距離で往復12km強、山城の一つや二つで根を上げてちゃおいらもまだまだだなぁ…その日常の軌跡に深々と頭を垂れよう。

2023年01月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
坪井城[高梨氏城館  周辺城郭]



坪井城は高梨氏城館の南東約5.1km、東西に延びる山塊尾根上、標高899mのピークの一つに主郭が存します。南西麓の坪井のしだれ桜からの比高は290m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「坪井のしだれ桜」を目標に設定して下さい。此処から北方へ延びる林道を登り詰め、林道が消失したら尾根稜線上へ向けて見当を付けて平均斜度50°位の斜面を比高約150m分直登して下さい。某登山系アプリの地図には道筋が付いてますが絶対嘘、おいらも現地で「うっ、嘘つき!」とか呟きました。ちなみにこの林道の道筋は長野県道54号線、須坂中野線の未通区間で、トンネル掘らなきゃ延伸は無理だょ…て感じで工事は中断、たぶん永遠に開通しないと思います。そのトンネル掘らなきゃ無理な場所を直登する事になる。

築城年代は不明、築城者は高梨氏が推測されています。信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編に掲載があるのですが、史料、伝承等無く現地調査により城が存在したとの提言がなされている。該地の東西に延びる尾根筋は中山田から間山へ抜ける幾つかの乗越しのあった場所で戦国時代には間道が通っていたと推測されており、坪井城から北方へ道無き尾根筋を進むと同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある真山城(城ノ山)に至る。

縄張図を見るとそれっぼく描かれていますが実際に現地に赴くと殆ど地山の印象、通称2郭の土塁を除けば見るべきものはありません。ただ風を避ける為か尾根稜線上から一段下がった北側斜面には小屋掛け出来そうな平場が幾つか確認出来たりします。痩せ尾根と言ってもよい城域は個人的にはそれだけで充分楽しめるものなんですが…

某登山系アプリの道筋に従って北方にある真山城を目指しましたが、果てしない平均斜度50°位の斜面(今度は下る…)を前にして相当悩みました。夏場だったら藪で簡単に諦めてると思うけど、少なくとも見通しだけは良いので進む事を決断、滑って下りたらあっと言う間にクリア出来ました。北方へ延びる尾根筋を更に進んで行くと動物の足跡に混じって人の足形が積雪に沢山付いている…こんな場所を極最近通った人がいる事に驚愕しましたが、後で気付いたけど猟師と勢子が行き来してたみたい。

※坪井城と真山城の中間点に根小屋の様な平場がある。

2023年01月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
662m峰の砦[高梨氏城館  周辺城郭]



662m峰の砦は高梨氏城館の南西約4.0km、南北に延びる山塊尾根上、標高662mのピークの一つに主郭が存します。西北麓の大円寺からの比高は250m位でしょか。

行き方は同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある沼ノ入城を参照して下さい。沼ノ入城の主郭から北端郭を抜けてひたすら尾根筋を北方へ進めば辿り着きます。他にも行き方はありそうだけど確認してないのでパス。ちなみに周辺は熊さんの巣窟て間山集落の方は言ってました。

築城年代、築城者は不明です。信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編に掲載がある小曽崖城の項に記述がある。たぶん信濃のお城の神が偶然発見したものなんでしょか。自分も新城発見!等と色めき立ちましたが、神はちゃんと縄張図まで描いてました。

砦は主郭に腰郭が付くだけの小さなものですが、三方が堀切でしっかり区切られ土塁も確認出来ます。実に小気味良い縄張、ただ名称ぐらいは付けて欲しいなぁ…ちなみに砦は間山古峠道沿いに立地し、戦国時代には中山田から間山に至る間道が通っていたようだ。間山古峠道は明治六年(西暦1873年)に荷馬の通行困難を理由に新峠道が整備され廃道となるが今も一部区間に道形が残る。

〜雪の山城のススメ3〜

※ 1については屋代城のリア攻めマップにある明聖霊神砦を参照して下さい。2については同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある夜交氏山城(横倉城・夜交城)遠見を参照して下さい。

苦労は厭わないが少しでも冬の山城を快適にリア攻めしたいとは常に思っている。レインウェア、ネックウォーマー、ニットの帽子、藪漕ぎ用の作業用手袋、スマホが操作出来る手袋はザックかポケットに必ず詰めておく。風の影響を受け易い尾根稜線上等はレインウェアを上から着れば極端に冷える事はないし藪漕ぎにも味方する(レインウェアのズボンは最初から履いておこう、長靴と+すれば雪の侵入は100%防げる。)。ネックウォーマー、ニットの帽子の必要性は言わずもがな、頚部、頭部には重要血管(体温低下に繋がる。)が通っているのでこれを冷やさない事が大切、暑ければ離脱すればよいだけの事…又、写真撮影を頻繁に行うのでスマホが操作出来る手袋は実に重宝(素手だと一瞬にして悴む…)する。それから携帯の予備バッテリーは必ず用意しよう、携帯頼りの低登山、使用不能では命取りになる。

続く…

2023年01月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
夜交氏山城(横倉城・夜交城)遠見[高梨氏城館  周辺城郭]



夜交氏山城(横倉城・夜交城)遠見は高梨氏城館の東北約5.0km、標高1020mの山塊山頂部に城域が存します。西北麓、横倉集落内林道入口からの比高は400m位でしょか。

行き方は同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある夜交氏山城(横倉城・夜交城)小城(女城)を参照して下さい。

築城年代は不明、築城者は夜交氏です。同氏については同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある夜交氏横倉館を参照して下さい。信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編に掲載がある夜交氏山城(横倉城・夜交城・城山)の項の最後に「…急な尾根筋を登り詰めると、幅広い平らな所に出る。削平したらしい所があり、逃げ込むには適した所である。その上の小さな突起の所が遠見と呼ばれる所であろうか。」との記述がある。

遠見の現況は信濃のお城の神が著述したとおり。逃げ込み城と物見台の複合用途、削平はしっかりしてると思うが殆ど地山の印象、もしかしたら遠見には腰郭ぐらいは付いていたかもしれないが…広めの削平地と遠見を結ぶ尾根筋は土橋状の痩せ尾根だ。
 
〜雪の山城のススメ2〜

※1については屋代城のリア攻めマップにある明聖霊神砦を参照して下さい。

良くないところ…

①繊細な遺構が雪に埋もれる。低土塁や石積み等には致命的だ。

②兎に角寒い…凍死する事は無いと思うけど気持ち的には寒死?て感ぢ?風の吹き方一つでお山の様相が変わる。降雪が始まったら陣払いしよう、雪山登山家じゃないんだし…又、日没も早いので時間にも注意しよう。

③掴む物も消え去るので直登は基本四足歩行になる。濡れても大丈夫な手袋を装着しよう、素手での藪漕ぎは厳禁だ。

④尾根筋を外すと道筋が判らなくなる。直登は帰りに自分が下りて行ける場所を選択しよう。ログを追える登山系アプリは必須だ。少なくとも行動不能に陥らなければ確実に帰れる。

⑤電子機器のバッテリー消耗が早い。理由は知らん。

冬だからってやり過ぎな装備は特に必要無い。基本低山なのだからその危険性を理解し迷わないための登山系アプリを仕込む事と防寒対策だけをしっかりしてれば大丈夫だと思う。自分は秋の装備に+して着込むのを基本とし、足元は磯用の長靴に使い捨てカイロを詰めている。お高い登山靴を枯れ枝の藪漕ぎで痛める必要は全く無い。

続く…(次回は装備品を…)

2022年08月07日 長けた 左兵衛督 進言
高梨氏城館



躑躅ヶ崎館と同じく方形の単郭でした。あちらと比べるとやや小さく見えます。駐車場は有りますが、早朝だった為ガラガラでしたがピーク時は不明です。広さは関東南部のコンビニほど。普通車、バス?、二輪用 で区画分けしているようです。

2022年04月22日 らっちゃん
高梨氏城館

土塁が桜の絨毯と化し、癒されました。整備された庭園の礎石で屋敷の広さが感じられます。駐車場もトイレもあるので、ここに停めて徒歩十分程の中野陣屋跡と共に訪れると良いかと思います。

2021年06月06日 陸奥守新九郎
高梨氏城館



タイミングが悪いと残念ですが、草刈りをして頂いた後に訪れると戦国期武家居館の見事な庭園遺構が見られます。

2021年05月03日 池田信濃守輝幸【若】
高梨氏城館



中野市内にあります。街中というかんじです!
駐車場があるので車で来ても良いですし駅も近いので交通の便は良いです。
木製の太鼓橋は5/3現在渡れません。城内は意外と広く野球をやっている人もいました。石垣っぽいところもありました。

2020年11月19日 八咫右近衛中将千織
鴨ヶ嶽城[高梨氏城館  周辺城郭]

鴨ヶ嶽城専用駐車場はありませんが、日本土人形資料館の駐車場や付近に駐車スペースがあり、利用できます。城へは如法寺大悲閣観音堂の裏に進むと獣対策のフェンスと電気柵があるので、そこを進みます。あとは看板通りに進んでいくと辿り着けますが、足元は石がゴロゴロしており、歩きにくいです。

最初の方はただの登山になります。鴨ヶ嶽城本丸手前の堀切や本丸からの景色を見たら疲れが飛びます。そこから尾根続きにある鴨ヶ嶽城の支城、鎌ヶ嶽城に行くまでは素晴らしい堀切達が待ってくれています。笹藪がヒドイ所もありますが、頑張って突破してください、堀切と石積が待っています(石積の辺りでスズメバチが飛んでいたので気を付けて下さい)。

他に尾根続きで、箱山城もあるそうですが、こちらは縦走するより箱山城単体で行った方が良いと行かれた方が言ってました。

2019年05月08日 みふ信濃守
王日神社[高梨氏城館  寺社・史跡]



高梨館鬼門に位置。鴨ヶ嶽築城時に山頂から移されたといわれる。

2019年03月09日 中務卿一之介
高梨氏城館

長野電鉄信州中野駅から歩いて18分ほどで着きます。高梨館跡公園として、よく整備されています。想像以上の深い空堀で、素晴らしいと思いました。たまたま出会った地元の方と立ち話したのですが、春の桜の季節が特に見事だそうです。
敷地内にトイレはありますが、冬季は凍結防止のため閉鎖されているので、注意してください。

2012年02月17日 赤いRVR甲斐守@松本
高梨氏城館

大きな看板があるのでわかります。駐車場も広い。東に聳える山城が鴨ヶ嶽城です。

高梨氏城館の周辺スポット情報

 築地塀(遺構・復元物)

 空堀(遺構・復元物)

 庭園跡(遺構・復元物)

 東側虎口(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 石積(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 説明書(碑・説明板)

 鴨ヶ嶽城(周辺城郭)

 鎌ヶ嶽城(周辺城郭)

 夜交氏山城(横倉城・夜交城)大城(男城)(周辺城郭)

 夜交氏山城(横倉城・夜交城)小城(女城)(周辺城郭)

 夜交氏山城(横倉城・夜交城)遠見(周辺城郭)

 662m峰の砦(周辺城郭)

 坪井城(周辺城郭)

 沼ノ入城(周辺城郭)

 小曽崖城(周辺城郭)

 真山城(城ノ山)(周辺城郭)

 間山館(石動の館)(周辺城郭)

 菅の山城(菅城・間崎城)(周辺城郭)

 菅峠物見(石尊山)(周辺城郭)

 赤尾坂砦(周辺城郭)

 菅の館(堀之内)(周辺城郭)

 更科峠旗塚(周辺城郭)

 新野陣屋(周辺城郭)

 道光砦(周辺城郭)

 夜交氏横倉館(周辺城郭)

 菅砦(小島氏詰城)(周辺城郭)

 箱山城(周辺城郭)

 竹のところ(周辺城郭)

 七面山砦(周辺城郭)

 佐野堀之内館(周辺城郭)

 夜交氏本郷館(周辺城郭)

 伝・尾台若狭屋敷(周辺城郭)

 王日神社(寺社・史跡)

 更科峠(寺社・史跡)

 夜交氏の墳墓(甲斐森)(寺社・史跡)

 無料の駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 菅峠(その他)

 間山峠(その他)

 間山古峠(その他)

 分岐点(その他)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

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