高梨氏城館(たかなししじょうかん)

高梨氏城館の基本情報

通称・別名

高梨氏城館[高梨氏館(高梨城、高梨小館、中野小館)・鴨ヶ嶽城]

所在地

長野県中野市小舘他(地図は高梨氏館を示す)

旧国名

信濃国

分類・構造

城館遺跡群

天守構造

築城主

高梨政盛[すべて]

築城年

室町時代[すべて]

主な改修者

主な城主

高梨氏[すべて]

廃城年

慶長3年(1598)[すべて]

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)[すべて]、堀切、石積、土橋[鴨ヶ嶽城]

指定文化財

国史跡(高梨氏館跡)、県史跡(高梨氏城跡)

再建造物

碑[すべて]、説明板[すべて]

周辺の城

中野陣屋(長野県中野市)[0.4km]
内堀館(長野県中野市)[5.2km]
福島正則館(長野県上高井郡)[9.1km]
長沼城(長野県長野市)[11.5km]
髻山城(長野県長野市)[12.2km]
飯山城(長野県飯山市)[12.4km]
平沢城(長野県下高井郡)[13.7km]
割ヶ嶽城(長野県上水内郡)[14.0km]
若槻山城(長野県長野市)[15.5km]
井上城(長野県須坂市)[15.6km]

高梨氏城館の解説文



高梨氏館(たかなししやかた)は信濃国高井郡中野[1](現・長野県中野市)にあった高梨氏一族の居館(日本の城)。国の史跡。高梨城、高梨小館、中野小館、中野御館中野城などと呼ばれることもある。

概要 

北信濃地域の豪族高梨氏の館である。背後の鴨ヶ嶽城を詰めの城としていた。戦国初期に、高梨政盛が建て始め、政頼の代に完成したといわれる。戦国時代、武田信玄の勢力が北信地方に及ぶと、高梨政頼は上杉謙信を頼った。武田氏滅亡後、本領の一部を回復したが、上杉景勝の会津移封に同行したため、城は廃城となった。 2007年(平成19年)2月6日、国の史跡に指定された。

現状 

東西約130メートル、南北約100メートルの規模で土塁、堀などが残る史跡公園「高梨館跡公園」として整備されている。 発掘調査では、門跡一棟、礎石建物跡5棟、掘立柱建物7棟、庭園跡等が確認されている。

所在地 

  • 長野県中野市小舘1069-1

交通 

  • 長野電鉄河東線・信州中野駅からバスに乗り「高梨城趾下」バス停下車
  • 上信越自動車道・信州中野ICから約15分
    • 高梨館跡公園駐車場(無料)

参考文献 

  • 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年

高梨氏城館の口コミ情報

2023年01月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
間山館(石動の館)[高梨氏城館  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

間山館(石動の館)は標高約394mの山間部台地緩斜面上平場に存したと推測される居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「津島公会堂」を目標に設定して下さい。この公会堂の東側に鎮座する石動神社とその周辺が推測される該地です。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは高梨氏と推測されます。

永正七年(西暦1510年)、上杉定実を擁した越後守護代長尾為景は越後から退去する関東管領上杉顕定を追って越後長森原でこれと戦い為景は大勝する。長尾勢に合力した高梨政盛は顕定を討ち取る等功を立てるが、その際に凱旋した場所がこの石動の館とされる。即ち、「政盛の軍は牛頭天王の社前(石動神とも。)で戦捷を祝し、それから間山の館へ帰る。石動の構えなり。」との記録が残るのがこれだ。

政盛が中野氏を滅ぼし中野郷を掌握して中野小館を築いたのは永正十年(西暦1513年)頃と推測されており、それ以前は間山を本拠としていた可能性が高い。当時は高梨氏の最盛期で時代的変遷もあるが「諏訪御符礼之古書」には高梨本郷、高梨本郷橡原、高梨中村、須毛、犬飼、富武郷、小島郷、新保、江部、狩田、和田、安田、大熊等の各郷が高梨氏本領とその一門の所領として列挙される。

居館の現況は位置が特定出来ていないので何とも…信濃のお城の神は東南方、菅峠を背後に控える山塊中腹、中世に修験寺として栄えた天台宗の寺院、間沢山普門院健応寺の周辺だったかもしれないとも推測している。健応寺は七堂伽藍十二坊を数える大寺であったが川中島の戦いで悉く焼失、廃寺となる。跡地は中野市指定史跡(過去に発掘調査が行われている。)ではあるけど山中の原野に近い平場なので悪しからず…

高梨氏て全国的には無名だけど北信では村上氏に拮抗し得る有力な国人領主、越後守護代長尾氏と独立性を保ちながらも従属的同盟関係を構築してその勢力を拡大していく(逆に見れば高梨氏は信濃における長尾氏の外城勢力の一つである。)事に成功、一時期には越後国頸城郡の各所にも所領を得ており、その内には越後国衙領すら含まれていた。

2023年01月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
新野陣屋[高梨氏城館  周辺城郭]



新野陣屋は高梨氏城館の南方約2.8km、標高590mの通称竜宮山の北麓、標高約365mの緩斜面上平場に存した陣屋です。同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある小曽崖城の北麓でもある。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ピンの位置は東西に走る舗装道路北側の一般住宅を示していますが、該地はこの舗装道路南側の一帯なので注意して下さい。

長野県町村誌によれば、天和元年(西暦1681年)、徳川氏代官、設楽孫兵衛管轄の内、山ノ手十五箇村大二万石を以て尾張氏の二男、松平義孝(尾張藩主、徳川綱誠の十五男)の封地とし、義孝は陣屋を構えて重臣が交代して管理していたんだそう。封地は元禄十三年(西暦1700年)、義孝の徒封により再び幕府直轄領に帰したともあるが、義孝の生年が元禄七年(西暦1694年)九月十七日なので、町村誌の記述は養父、義行(信濃高井藩主、後に美濃高須藩主)の事跡と混同があるようだ。難しい事言わなくても単純に高井藩の一陣屋であった事は間違い無いだろう。

陣屋の立地は小曽崖城の大手筋(北側尾根)に当たる。町村誌では小曽崖城を高梨氏の築くところとし、城主として新野朝安、原主計、秀長、原弥次郎高秀、吉田某等の名を挙げている。陣屋はこの新野氏、原氏等の根小屋跡に構えたものと推測され、敷地内には旗杭井戸(武田勢に攻められた際に、城方の者が旗の杭を井戸に投げ込んで逃げたとする伝承がある。小曽崖城の北側尾根末端には旗塚が1基残る。)と呼ばれる水の手がある。

陣屋の現況は耕作地、廃屋、一般住宅とその敷地等となっている。前述の井戸を確認して杭を掘り出したかったけど完全に他所様のお家の庭にあるので諦めました。又、信濃のお城の神は語らないが敷地範囲内には土塁様の土盛りが幾つか確認出来る。写真にある石積みなんかは後世のものなんだろうか。

日もそろそろ暮れそうだったので今回は突撃お宅訪問も無し。寒い冬の時期は家人が外に出ている事も稀だし、自分自身も億劫になったりする(この季節の居館リア攻めは自分が着込んでいる事も手伝って側から見たら怪しさ満点だ。)。ちなみにかつての旗杭井戸は洶々と水が湧き出し小川を成し田畑に灌漑出来る程の湧水だったんだそう、見たかったなぁ…ただの井戸だけど。

※写真8、向かって左側、一段高い場所が陣屋の辺り。

2023年01月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
小曽崖城[高梨氏城館  周辺城郭]



小曽崖(地元の方は「おそがい」と読むんだそう。)城は高梨氏城館の南方約3.5km、南北に延びる山塊尾根上、標高590mのピークの一つ(竜宮山)に主郭が存します。北麓の中山晋平記念館からの比高は225m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「美はらし林道石碑」を目標に設定して下さい。此処まで車も入れる林道が延びています。この石碑のある場所は主郭からの東側尾根の中腹に当たるので緩やかな尾根筋をそのまま登れば楽に城域に至ります。

築城年代は不明ですが、築城者は在地土豪の新野氏が推測される。同氏は寛正四年(西暦1463年)に越後守護上杉氏と結んで近隣の大熊氏と共に高梨氏(守護と対立する越後守護代長尾氏と深い関係を保っていた。)に抗したが、高橋(不明)で打ち負け滅ぼされている。それ以降は高梨氏の持分として南方への押さえ、間道の監視を兼任していたと推測される。

縄張は山頂部の主郭を中心に尾根上を三方へ展開する。特に西側尾根の「のろし台」に至るまでが長大で面倒極まりない。主郭には最低でも3回は登り返さなくちゃならない事になる。主郭は土塁が残るが元々削れている上に積雪で不明瞭、南側尾根を連続堀切(土橋付き)、北側尾根も連続堀切で断ち切っていて腰郭も含めて主郭部は濃い地形だ。北側尾根は大手筋とされる。執拗な段郭が設けられ要所を堀切で断ち切っているが堀切は浅い上に不明確なものも多い。この尾根の最北端には腰郭の付いた旗塚(旗を立てるためだけの土盛り…)が残る。疑問なのは緩やかな東側尾根に遺構が何も確認出来ない事で、林道整備によるお山自体の改変もあるのかも知れないが東方からの侵入は想定していなかった事になる。

高梨氏関連のお城とも言える訳だが、周辺の山城は縄張を全て見て廻るのが面倒(総じて急峻な細尾根に長く縄張が展開する。)なものばかり…このお城の狼煙台なんて一城別郭と言ってもよいだろう。小雪が散らつく空模様、気温は零下を超えてしまったけど時間も押してしまい文字通り駆け足で廻ったリア攻め、汗をかいた身体に北信の北風は凍える程冷たかったぜ…

※鉄塔整備等、人が入るお山だけど夏場は結構な藪城っす。

2023年01月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
沼ノ入城[高梨氏城館  周辺城郭]



沼ノ入城は高梨氏城館の南方約4.6km、東西に延びる山塊尾根上、標高約788mのピークの一つに主郭が存します。南麓の林道矢崎線起点からの比高は225m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「間山峠」を目標に設定して下さい。前述の林道矢崎線から間山峠に至る分岐があり、この峠までマウンテンバイクで登った猛者も存在する。城域は間山峠を東端とし、西端を間山古峠とするもやもやしない縄張なので気持ち的には比較的楽かなと。ちなみに間山古峠道は川中島の戦いにおいて上杉勢が利用した通称「謙信道」と呼ばれる軍道の一つに比定され、第三次川中島の戦いにおいて桝形城(山田城)を屠った上杉勢もこの峠道を通過した事でしょう。

築城年代、築城者は不明です。同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある小曽崖城に関連するものとされ、新野氏が築城者だとの推測がある。同氏は寛正四年(西暦1463年)に高梨氏に滅ぼされているので、それ以降は高梨氏の持分として南方への押さえ、間道の監視を兼任していたと推測される。

境目のお城は緊張感があるが、縄張は細尾根上を東西に長く展開する。主郭には浅間社の小祠が鎮座するが面積は極僅かだ。縄張図を見ると堀切は総計で10条を数えるけど一部に不明瞭なものも含む。信濃のお城の神は「主郭の規模に対して、堀の数が異常なほど多い。」と異常城の烙印を押す。堀切は大きなものは無く急峻故か竪堀への掘り下げも無い。そこまで言わなくても…感はあるので安心してつかぁさい。ちなみに堀切よりも間山峠、間山古峠の切り通し(スポット登録と写真だけ載せやした。)の方がびっとしています。

帰りは間山古峠道を歩いてみたくて北方の小曽崖城を目指す。中間点には同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある662m峰の砦が存する。主郭からの道筋は登山系アプリを活用すれば迷う事は無いが、山中の峠道(今は獣道程度っす。)としては不安感MAXでした。ちなみに城域東端を通る間山峠道は近年まで生活道としての利用があり、高山村中山田のある方は大正十三年(西暦1924年)に山田高等小学校を卒業すると、この峠道を使って中野の下高井農学校まで春夏秋冬休まず毎日通っていたんだそう。直線距離で往復12km強、山城の一つや二つで根を上げてちゃおいらもまだまだだなぁ…その日常の軌跡に深々と頭を垂れよう。

2023年01月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
坪井城[高梨氏城館  周辺城郭]



坪井城は高梨氏城館の南東約5.1km、東西に延びる山塊尾根上、標高899mのピークの一つに主郭が存します。南西麓の坪井のしだれ桜からの比高は290m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「坪井のしだれ桜」を目標に設定して下さい。此処から北方へ延びる林道を登り詰め、林道が消失したら尾根稜線上へ向けて見当を付けて平均斜度50°位の斜面を比高約150m分直登して下さい。某登山系アプリの地図には道筋が付いてますが絶対嘘、おいらも現地で「うっ、嘘つき!」とか呟きました。ちなみにこの林道の道筋は長野県道54号線、須坂中野線の未通区間で、トンネル掘らなきゃ延伸は無理だょ…て感じで工事は中断、たぶん永遠に開通しないと思います。そのトンネル掘らなきゃ無理な場所を直登する事になる。

築城年代は不明、築城者は高梨氏が推測されています。信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編に掲載があるのですが、史料、伝承等無く現地調査により城が存在したとの提言がなされている。該地の東西に延びる尾根筋は中山田から間山へ抜ける幾つかの乗越しのあった場所で戦国時代には間道が通っていたと推測されており、坪井城から北方へ道無き尾根筋を進むと同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある真山城(城ノ山)に至る。

縄張図を見るとそれっぼく描かれていますが実際に現地に赴くと殆ど地山の印象、通称2郭の土塁を除けば見るべきものはありません。ただ風を避ける為か尾根稜線上から一段下がった北側斜面には小屋掛け出来そうな平場が幾つか確認出来たりします。痩せ尾根と言ってもよい城域は個人的にはそれだけで充分楽しめるものなんですが…

某登山系アプリの道筋に従って北方にある真山城を目指しましたが、果てしない平均斜度50°位の斜面(今度は下る…)を前にして相当悩みました。夏場だったら藪で簡単に諦めてると思うけど、少なくとも見通しだけは良いので進む事を決断、滑って下りたらあっと言う間にクリア出来ました。北方へ延びる尾根筋を更に進んで行くと動物の足跡に混じって人の足形が積雪に沢山付いている…こんな場所を極最近通った人がいる事に驚愕しましたが、後で気付いたけど猟師と勢子が行き来してたみたい。

※坪井城と真山城の中間点に根小屋の様な平場がある。

2023年01月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
662m峰の砦[高梨氏城館  周辺城郭]



662m峰の砦は高梨氏城館の南西約4.0km、南北に延びる山塊尾根上、標高662mのピークの一つに主郭が存します。西北麓の大円寺からの比高は250m位でしょか。

行き方は同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある沼ノ入城を参照して下さい。沼ノ入城の主郭から北端郭を抜けてひたすら尾根筋を北方へ進めば辿り着きます。他にも行き方はありそうだけど確認してないのでパス。ちなみに周辺は熊さんの巣窟て間山集落の方は言ってました。

築城年代、築城者は不明です。信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編に掲載がある小曽崖城の項に記述がある。たぶん信濃のお城の神が偶然発見したものなんでしょか。自分も新城発見!等と色めき立ちましたが、神はちゃんと縄張図まで描いてました。

砦は主郭に腰郭が付くだけの小さなものですが、三方が堀切でしっかり区切られ土塁も確認出来ます。実に小気味良い縄張、ただ名称ぐらいは付けて欲しいなぁ…ちなみに砦は間山古峠道沿いに立地し、戦国時代には中山田から間山に至る間道が通っていたようだ。間山古峠道は明治六年(西暦1873年)に荷馬の通行困難を理由に新峠道が整備され廃道となるが今も一部区間に道形が残る。

〜雪の山城のススメ3〜

※ 1については屋代城のリア攻めマップにある明聖霊神砦を参照して下さい。2については同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある夜交氏山城(横倉城・夜交城)遠見を参照して下さい。

苦労は厭わないが少しでも冬の山城を快適にリア攻めしたいとは常に思っている。レインウェア、ネックウォーマー、ニットの帽子、藪漕ぎ用の作業用手袋、スマホが操作出来る手袋はザックかポケットに必ず詰めておく。風の影響を受け易い尾根稜線上等はレインウェアを上から着れば極端に冷える事はないし藪漕ぎにも味方する(レインウェアのズボンは最初から履いておこう、長靴と+すれば雪の侵入は100%防げる。)。ネックウォーマー、ニットの帽子の必要性は言わずもがな、頚部、頭部には重要血管(体温低下に繋がる。)が通っているのでこれを冷やさない事が大切、暑ければ離脱すればよいだけの事…又、写真撮影を頻繁に行うのでスマホが操作出来る手袋は実に重宝(素手だと一瞬にして悴む…)する。それから携帯の予備バッテリーは必ず用意しよう、携帯頼りの低登山、使用不能では命取りになる。

続く…

2023年01月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
夜交氏山城(横倉城・夜交城)遠見[高梨氏城館  周辺城郭]



夜交氏山城(横倉城・夜交城)遠見は高梨氏城館の東北約5.0km、標高1020mの山塊山頂部に城域が存します。西北麓、横倉集落内林道入口からの比高は400m位でしょか。

行き方は同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある夜交氏山城(横倉城・夜交城)小城(女城)を参照して下さい。

築城年代は不明、築城者は夜交氏です。同氏については同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある夜交氏横倉館を参照して下さい。信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編に掲載がある夜交氏山城(横倉城・夜交城・城山)の項の最後に「…急な尾根筋を登り詰めると、幅広い平らな所に出る。削平したらしい所があり、逃げ込むには適した所である。その上の小さな突起の所が遠見と呼ばれる所であろうか。」との記述がある。

遠見の現況は信濃のお城の神が著述したとおり。逃げ込み城と物見台の複合用途、削平はしっかりしてると思うが殆ど地山の印象、もしかしたら遠見には腰郭ぐらいは付いていたかもしれないが…広めの削平地と遠見を結ぶ尾根筋は土橋状の痩せ尾根だ。
 
〜雪の山城のススメ2〜

※1については屋代城のリア攻めマップにある明聖霊神砦を参照して下さい。

良くないところ…

①繊細な遺構が雪に埋もれる。低土塁や石積み等には致命的だ。

②兎に角寒い…凍死する事は無いと思うけど気持ち的には寒死?て感ぢ?風の吹き方一つでお山の様相が変わる。降雪が始まったら陣払いしよう、雪山登山家じゃないんだし…又、日没も早いので時間にも注意しよう。

③掴む物も消え去るので直登は基本四足歩行になる。濡れても大丈夫な手袋を装着しよう、素手での藪漕ぎは厳禁だ。

④尾根筋を外すと道筋が判らなくなる。直登は帰りに自分が下りて行ける場所を選択しよう。ログを追える登山系アプリは必須だ。少なくとも行動不能に陥らなければ確実に帰れる。

⑤電子機器のバッテリー消耗が早い。理由は知らん。

冬だからってやり過ぎな装備は特に必要無い。基本低山なのだからその危険性を理解し迷わないための登山系アプリを仕込む事と防寒対策だけをしっかりしてれば大丈夫だと思う。自分は秋の装備に+して着込むのを基本とし、足元は磯用の長靴に使い捨てカイロを詰めている。お高い登山靴を枯れ枝の藪漕ぎで痛める必要は全く無い。

続く…(次回は装備品を…)

2022年08月07日 長けた 治部大輔 進言
高梨氏城館



躑躅ヶ崎館と同じく方形の単郭でした。あちらと比べるとやや小さく見えます。駐車場は有りますが、早朝だった為ガラガラでしたがピーク時は不明です。広さは関東南部のコンビニほど。普通車、バス?、二輪用 で区画分けしているようです。

2022年04月22日 らっちゃん
高梨氏城館

土塁が桜の絨毯と化し、癒されました。整備された庭園の礎石で屋敷の広さが感じられます。駐車場もトイレもあるので、ここに停めて徒歩十分程の中野陣屋跡と共に訪れると良いかと思います。

2021年06月06日 陸奥守新九郎
高梨氏城館



タイミングが悪いと残念ですが、草刈りをして頂いた後に訪れると戦国期武家居館の見事な庭園遺構が見られます。

2021年05月03日 池田信濃守輝幸【若】
高梨氏城館



中野市内にあります。街中というかんじです!
駐車場があるので車で来ても良いですし駅も近いので交通の便は良いです。
木製の太鼓橋は5/3現在渡れません。城内は意外と広く野球をやっている人もいました。石垣っぽいところもありました。

2020年11月19日 右衛門督Óðinn
鴨ヶ嶽城[高梨氏城館  周辺城郭]

鴨ヶ嶽城専用駐車場はありませんが、日本土人形資料館の駐車場や付近に駐車スペースがあり、利用できます。城へは如法寺大悲閣観音堂の裏に進むと獣対策のフェンスと電気柵があるので、そこを進みます。あとは看板通りに進んでいくと辿り着けますが、足元は石がゴロゴロしており、歩きにくいです。

最初の方はただの登山になります。鴨ヶ嶽城本丸手前の堀切や本丸からの景色を見たら疲れが飛びます。そこから尾根続きにある鴨ヶ嶽城の支城、鎌ヶ嶽城に行くまでは素晴らしい堀切達が待ってくれています。笹藪がヒドイ所もありますが、頑張って突破してください、堀切と石積が待っています(石積の辺りでスズメバチが飛んでいたので気を付けて下さい)。

他に尾根続きで、箱山城もあるそうですが、こちらは縦走するより箱山城単体で行った方が良いと行かれた方が言ってました。

2019年05月08日 みふ上野介
王日神社[高梨氏城館  寺社・史跡]



高梨館鬼門に位置。鴨ヶ嶽築城時に山頂から移されたといわれる。

2019年03月09日 中務卿一之介
高梨氏城館

長野電鉄信州中野駅から歩いて18分ほどで着きます。高梨館跡公園として、よく整備されています。想像以上の深い空堀で、素晴らしいと思いました。たまたま出会った地元の方と立ち話したのですが、春の桜の季節が特に見事だそうです。
敷地内にトイレはありますが、冬季は凍結防止のため閉鎖されているので、注意してください。

2012年02月17日 赤いRVR甲斐守@松本
高梨氏城館

大きな看板があるのでわかります。駐車場も広い。東に聳える山城が鴨ヶ嶽城です。

高梨氏城館の周辺スポット情報

 築地塀(遺構・復元物)

 空堀(遺構・復元物)

 庭園跡(遺構・復元物)

 東側虎口(遺構・復元物)

 説明書(碑・説明板)

 鴨ヶ嶽城(周辺城郭)

 鎌ヶ嶽城(周辺城郭)

 夜交氏山城(横倉城・夜交城)大城(男城)(周辺城郭)

 夜交氏山城(横倉城・夜交城)小城(女城)(周辺城郭)

 夜交氏山城(横倉城・夜交城)遠見(周辺城郭)

 662m峰の砦(周辺城郭)

 坪井城(周辺城郭)

 沼ノ入城(周辺城郭)

 小曽崖城(周辺城郭)

 真山城(城ノ山)(周辺城郭)

 新野陣屋(周辺城郭)

 間山館(石動の館)(周辺城郭)

 箱山城(周辺城郭)

 竹のところ(周辺城郭)

 菅の山城(菅城・間崎城)(周辺城郭)

 堂光砦(周辺城郭)

 菅峠物見(石尊山)(周辺城郭)

 赤尾坂砦(周辺城郭)

 菅の館(堀之内)(周辺城郭)

 更科峠旗塚(周辺城郭)

 王日神社(寺社・史跡)

 間山峠(寺社・史跡)

 間山古峠(寺社・史跡)

 菅峠(寺社・史跡)

 更科峠(寺社・史跡)

 無料の駐車場(駐車場)

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