割ヶ嶽城(わりがたけじょう)

割ヶ嶽城の基本情報

通称・別名

割ヶ岳城、鰐ヶ嶽城

所在地

長野県上水内郡信濃町富濃柴津

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

不明

築城年

室町時代

主な改修者

主な城主

柴津氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、虎口

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

内堀館(長野県中野市)[9.5km]
髻山城(長野県長野市)[9.9km]
飯山城(長野県飯山市)[12.2km]
若槻山城(長野県長野市)[12.7km]
中野陣屋(長野県中野市)[13.7km]
高梨氏城館(長野県中野市)[14.0km]
長沼城(長野県長野市)[14.3km]
猿橋城(新潟県妙高市)[15.5km]
葛山城(長野県長野市)[16.8km]
横山城(長野県長野市)[17.0km]

割ヶ嶽城の解説文



割ヶ嶽城(わりがたけじょう)は、長野県上水内郡信濃町大字富濃の「城山」に築かれた中世から戦国時代の日本の城(山城)。築城者や築城年代といった詳細は不明。

概要 

野尻湖に近く、飯山(飯山市)、柏原(信濃町)、牟礼(上水内郡飯綱町)、三水(同)などに通じる要衝の地である。上杉謙信方に属する城であったが、謙信が関東で北条氏康と戦っている最中の1561年(永禄4年)4月、甲斐国の武田信玄によって攻め落とされたという史料がある。

その際に、信玄の重臣である原虎胤が負傷したとされる。これによって虎胤は、直後に勃発する第四次川中島の戦いに参戦できず、信玄はそれに代わって山本勘助を参謀に起用したと伝わっている(『甲陽軍鑑』)。城址は、現在でも遺構が残り、いくつかの曲輪や空堀などが見られる。しかし、高度な縄張りではなく、戦国時代(上杉氏・武田氏の攻防)以降は廃城になったものと考えられる。

割ヶ嶽城の口コミ情報

2024年06月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
熊坂長範居址[割ヶ嶽城  周辺城郭]



熊坂長範居址は割ヶ嶽城の北西約5.6km、関川南岸(右岸)、標高767.5mの長範山山頂部に立地したとの伝承が残る屋敷です。平地にある事を前提にして居館や屋敷には比高を示した事は一度も無いが、北麓の熊坂集落中心部からの比高は235m位ある。長範山は信越国境を流れる関川に面する一山、関川を渡ればそのまま越後に入る。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「長範山」を目標に設定して下さい。前述のとおり山頂部が該地となる。国道18号から山頂部の脇を抜けて熊坂集落に至る山道が分岐しているので車で横付け出来る。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは熊坂長範です。但し、問題があり過ぎる。「信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編」に掲載があるが、信濃のお城の神は「長野県町村誌」の記述のみを頼りに調査したようだ。

「長野県町村誌」には、「熊坂長範居址」として、「本村(熊坂村)南の方十二町(約1296m)長範山絶頂にあり。長範清水、長範石等あり。久安、嘉応年間(西暦1145年〜1170年)頃、長範は越後国頚城郡曽根田村の産なり、其父は京都辺の人なり、姓名不詳。流浪して越後国曽根田村に来り住す。」とある。又、別に「長範山」として、「本村(野尻村)北の方にあり。東西二町、南北三町、熊坂四郎長範の古址なりと云伝ふ。長範は素信州の名族にして、保元の役左馬頭義朝に従ひ、根井大弥太行親等と共に二十六騎中なり。源氏敗れ平氏大権を握るにあたり、長範平氏の粟を食むを楽しまず。遂に剽掠をなすと云ふ。」とある…

まず、熊坂長範は、室町時代後期に成立した幸若舞の「烏帽子折」、謡曲の「烏帽子折」、「熊坂」等に登場する伝説上の大盗賊、従って該地を実在した物件として扱う事が極めて困難だ。ちなみに同名に纏わる伝説は全国各地に数多く残っている。

保元元年(西暦1156年)七月の「保元の乱」において、後白河天皇方となった源義朝に従う信濃武士十一騎の中に熊坂四郎の名が見える。熊坂氏は律令制下における東山道支道沿いの熊坂を本拠地とし、野尻湖周辺の高原地帯を牧野として開発した在地土豪だと推測されている。

町村誌が言う、「保元の乱」後に熊坂四郎が剽掠(盗賊)に身を落としたとする伝承だが、敢えて想像を逞しくするならば、乱後に没官した同名が熊坂に戻り、古官道を歩む平氏の官人等を一党を以て襲っていた…等の事実はあるのかもしれない。何れにせよ該地は実在する熊坂四郎と結び付けられた、信濃における熊坂長範伝説地の一つに過ぎないと言えそうだ。

単純に熊坂氏、熊坂四郎の屋敷地とした場合にも問題が残る。熊坂は東山道支道、最大の難所の一つであり、深雪地帯でもある同地に聳える長範山の山頂部に屋敷地を占地する事は理解に苦しむ。例え世に憚る盗賊だったとしてもだ。

屋敷の現況は…山中の雑木林、謂わゆる藪となっている。もはや最初からやる気が無かったので真面目に探索する気にもなれなかった…「それなりに平らな場所なのね…」等と呟いて30秒で終了〜さっさと陣払い、後悔の念は微塵も無い。

文永七年(西暦1271年)、善光寺に参籠した時宗の僧、一遍真智は次のように書いている。

「越後国府より関の山熊坂にかかりて信州へ趣給、山路に日暮ぬれば苔を払て露に臥す。」

…日が暮れて山越えが叶わず、長範山での野宿をせざるを得なかったのだろう。往古の熊坂は行人にとって大変な山道であった訳だ。

※ちなみに付近にある「長範の玉石」には長範が隠匿した財宝が埋まっているとの伝説が残っている。お宝ハンターは是非…

※写真①が対岸の越後側、関川関所付近から撮影した近景っす。手前に写る橋梁は関川に架かる一之橋、渡れば信濃だ。

※写真⑤は該地付近に建つ長範無線中継所の電波塔っす。

※写真⑥は国道18号上で佇むニホンカモシカっす。好奇心旺盛、余程近付かないと逃げない動物だ。

2024年06月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
東裏城[割ヶ嶽城  周辺城郭]



東裏城は割ヶ嶽城の西南西約3.0km、鳥居川北岸(左岸)、標高約672mの河岸台地南縁上平場に立地する要害です。南麓の鳥居川からの比高は20m位でしょか。但し、城域の西側は台地上と連続しており、此処からの比高はマイナスである。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所は周辺に建つ同じ割ヶ嶽城のリア攻めマップにある小林一茶旧宅の駐車場がよい。少し歩く事にはなるがベストである。

築城年代、築城者は不明です。該地は現在の上水内郡信濃町柏原新町に位置し、北国脇往還の宿場町、柏原宿の東端に当たる。中世にも同様の道筋が存在した事は確実なところだろう。逆に考えれば東裏城の立地がそれを裏付けているとも言えるし、同城には鳥居川の渡し場を扼す城砦て位置付けがぴったりだ。ちなみに律令制下の東山道支道は柏原を通過しない経路が推測されており、柏原宿自体も北国脇往還の開道に併せて周辺地域に散在する人家を集住させて成立した宿場町である。

…信濃町の歴史を調べているとどうしても壁にぶつかってしまう。旧石器時代から縄文時代の遺跡や遺物が極めて豊富(野尻湖遺跡群)な行政区だが、稲作に適さなかったのか、弥生時代から極端となり、近世に至るまでのものが他地域と比べると圧倒的に少ない。史料的に見ても同様であり絶望的とさえ感じる。古代には官道が通過し、信越国境を構成する重要な地域である筈だが、歴史の空白を見ているようでもあり、「信濃町誌」もこれ等については書く事が少ない。

…単純に言えば、どの勢力の下で、どんな人が住していたのかの見当が皆目付かない。信越国境には何某かの城砦跡が散在し、在地土豪の存在を裏付けるような五輪塔群が出土していたりもするのだが、居館地と推測されるような場所は未だに確認されておらず、伝承等も伝わらない。

中世には芋川庄に属する地域である。明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、その中に、「一 芋川庄内沼尻関所事」とある。特に関所を知行地として書き出した事は、関銭の徴収に当たっていた事を意味するんだろう。但し、別な租税の徴収を得ていたとは考え難く、知行地とするような田圃を持つ郷村の存在が見え難い。面として捉えるよりは点で結ばれるような地域だったと考える。何れにせよ、永禄年中(西暦1558年〜1570年)には甲越の境目であり、地域は緩衝地帯の役割を担い、人家もまばらで荒廃していたと推測出来る。

お城の縄張は、南辺が鳥居川に面し、北辺は小沢が形成する小谷に面しており、謂わゆる狭小な舌状台地を活用している。「長野県町村誌」の記述を信ずるならば、城域は西側に広大過ぎ、信濃のお城の神は寸法の誤記であろうとする。城郭遺構は見出せず台地上はただの耕作地ではあるが、城砦としての占地だけで個人的には十分に満足出来る。つまりは典型的な要害地形なのだ。ちなみに該地は「城山」の小字が残っていた場所でもある。城域内に東裏城を示す物は何も無いが、「城・山」と大書された看板が設けられているのには感動した。むしろ「東・裏・城」としなかった配慮に感謝したい。

※東裏城には、建仁元年(西暦1201年)、「建仁の乱」の際の里俗伝が伝わっているが、明らかな誤伝であると思われるので取り上げない。ちなみに縄張は東向き、南向きであり、築城者は時代不明なるも北方の勢力(越後の勢力しか思い付かない。)と推測する。

※柏原宿…人家を集住させて成立した宿場町〜小林一茶もそうした一家の生まれである。

※誰でも訪ねる事が出来る好物件にも関わらず、意外な事にネットで検索しても一切ヒットしない。

2024年06月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
二十塚旗塚群[割ヶ嶽城  周辺城郭]



さて、今回は安定の色物物件、旗塚の口コミっす。いつもだとふざけた内容に終わるか脱線するかの二択なんだけど、ある意味スペシャルな旗塚なんで今回ばかりは真面目なものにしたいと思う。

二十塚旗塚群は割ヶ嶽城の南方約2.7km、飯綱盆地の北西山塊、標高約718m地点の山稜北側緩斜面上平場を中心に立地する旗塚群です。北西麓の舟岳集落中心部からの比高は80m位でしょか。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所は何処にでも。位置さえ特定出来ていれば楽な物件、徒歩で進む距離はほんの僅かだ。

「旗塚」は読んで字の如く旗を立てるためだけの土盛りの事、支配領域の境目の目印、示威目的で使われるもの。役割としてはそれ以上でもそれ以下でもなく信濃でもレア物件の範疇に入る。

怪しいものが多いこの手の物件だけど、二十塚旗塚群は個人の日記や紀行文にも登場する古くから比較的に認知度の高い旗塚だ。延宝五年(西暦1677年)の「芋川村畑方検地帳」に「廿塚」とあるのが文書上の初見であり、この時代以前に旗塚が存在していた事は確実視される。日記に記したのは俳人の小林一茶、紀行文としては、明治時代に田山花袋が書き記した「北信の遊跡」に登場する。山中の旗塚がこれ等、行人の目に止まったのは、北国脇往還に通じる横道、川東道沿いにあった事に他ならない。

「長野縣町村誌」には、「前の番所に接續し、舊北越街道の北側にあり、塚高 五尺、周圍六間餘、其數二十、一行にあり。塚間各々五間、此邊の字を中城と云ふ、往古合戦の時籏塚ならんか。 後人の正考を俟つ」とある。

「三水村誌」には、「二十塚 番所に接続して、本村でもっとも利用され、さらに利益をもたらした川東道の北端に旧舟岳村と界を接する直前の道路添いの東側一列状態になっている。その数は二一個、各一〇mの間隔で、周囲一五m。高さ一m半の規模で上に松が植えてあり樹齢も一定しない。一番老樹でも一五〇年ぐらいで枯死して、そのつど捕植したようである。もちろん松の木のないのもある。一番興味があり大事なことは由来であるが、地名の「京洛」、「御所」にまつわる貴族の墓、川中島合戦の武将の墓とかいろいろな説があるが、川中島合戦の旗塚が有力であろう。この辺の地名を中城といって、当然その名のとおり南方の鼻見城、北方の若宮城の中央にあり、その近辺には高いところがあり、信号を送るに差しつかえがあるので、削って低くし見易くしたところがあるのでそれが無難な見方であろう。発掘調査まではゆかないが、何人もの人が鉄棒とかで検査を試みたが何も見つかっていない」とある。

…「三水村誌」の記述は最も具体性を持って書かれているのだが、纏め切れておらず読み難い。塚の数も+1だ。但し、町村誌よりも一歩踏み込んだ内容であり、塚の存在には別の目的が推測される事も教えてくれる。

盛られた年代、盛った方は不明だが、伝承には上杉勢だとするものがある。他の目的としては経塚も疑われるが、道脇に修験行者が塚を築く姿が全く想像出来ない。あくまで個人的な推測に過ぎないが、川東道の道筋を山下へ知らせるための旗を立てる塚ではなかったろうか。

この塚群は平成三十年(西暦2018年)に発掘調査が行われている。中世の遺跡である事を前提に発掘が行われたようだが、出土品の一部はそれに疑問を呈する形となり、築造時期にあっては中世から江戸時代の初頭までが推測される範囲となった。塚は築造時期が同一であり、何層にも丁寧に土を盛っては突き固める方法で構築されている事が判明し、少なくともある程度の恒久的な「何か」を狙った事は間違い無いと思われる。又、出土品に人骨が含まれていない事から、村誌が言う、「貴族の墓」、「武将の墓」説も否定してよいと思われる。

町村誌、村誌は、「番所に接続して…」と言っているのだから、番所に付随するものだとも考えられる。番所が設けられたのは近世以降だろうから、築造をこの時期とする見方も有力だろう。但し、番所が既に機能しながら、塚をわざわざ築く必要が考え難いのも事実、むしろ旗塚が築かれていたような場所だからこそ番所が置かれていたと考えるのが自然だと思われる。何れにせよ塚の目的にあっては発掘調査でも解明するには至っていない。

…この旗塚について素人なりに物凄く真面目に語ってみた。但し、実物は一列に並んだ21基のただの土盛りであり、おいらは最初の8基に気付かず素通りしている。

※写真①は西麓から撮影した遠景、撮った本人もどの辺りなのか判らん。小林一茶は旗塚の位置から西方、柏原宿を遠望しているので当時の展望は開けていた筈だ。

※ 旗塚の撮影はとんでもなく難しい…

2024年06月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
鐘山古城[割ヶ嶽城  周辺城郭]



鐘山古城は割ヶ嶽城の南南西約6.0km、鳥居川北岸(左岸)、標高約548mの河岸台地丘陵頂部に立地したと推測される砦です。南麓の国道18号からの比高は20m位でしょか。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…取り付きは北側台地上からがよいだろう。徒歩で登る比高は10mにも満たないし、車の捨て場所はそこら辺でOK♪レベルだ。

築城年代、築城者は不明です。「長野県町村誌」には、「養和年間(西暦1181年)木曽義仲旗を北国に翻すのとき、暫く爰に陣し、川入谷を経て、戸草村へ次すと云ふ。其跡今一塚を築く、高さ八尺(約2.4m)、周回三十間余(約54m)あり、近傍に馬場、駒繋石、遊山場等の名所存在せり、古老の口碑にて確呼たらす。」とある。信濃から北陸路を進んだ木曽勢は東山道支道に準ずる道筋を選んだと考えられるが、その経路上には様々な木曽義仲に纏わる伝承地が点在、これもその一つである。

多胡の駅から沼辺の駅に至る東山道支道の道筋ははっきりしていないが、鳥居川の南岸(右岸)を進んで川入谷に入り、見坂平を越えて戸草に至り、諏訪ノ原、針ノ木を経て野尻湖西岸の沼辺の駅へ向かうものがその一つとして推測されている。古老の言う事を正しいものとするならば、義仲が進んだ道筋は正にこの経路である。

該地は東山道支道の対岸に当たる事から、義仲が陣を敷いたとする伝承には少々疑問を覚える。但し、他に城館に関係する里俗伝も特に伝わらないようだ。

それ以外の里俗伝としては、太田庄地頭職、島津氏の庇護を受けた普光寺の旧地と伝わる。「鐘山」の地名は、この丘陵にかつて鐘撞堂が建っていた事に由来するらしい。信濃の中世のお寺さんは寺社放火魔、武田勢によって焼亡したものが特に多いけど、この普光寺も同勢に焼かれ、永禄二年(西暦1559年)、上段の前林に移ったとされる。

水田地帯に南北に長く伸びる丘陵は周囲から一際目立つ小山となっている。特に城郭遺構は認められないが、頂部は町村誌の記述にあるようにやや大きめの塚状地形を残す(富士塚と呼ばれ、飯綱町では経塚を疑っている。)。丘陵は南端で国道18号が掘り割って東西に走っており、それ自体が大きく削られている。往時は鳥居川の蛇行点に向かって張り出す要害地だった筈だ。従って縄張図に描かれる城域はその一部を示したものに過ぎないとも考えられる。

対岸の旧小玉村には近世の北国脇往還が通り、村内には武蔵国と加賀国の中間点を抱えていた。現在も残る「小玉道中堺碑(武州加州道中堺碑)」がそれを物語り、直近の黒柳家は加賀藩小玉小休所に定められていた。幕府によって制度化された参勤交代は結果として諸侯の財政の疲弊を招いたが、恩恵を受けたのは街道筋の宿場町である。水内郡における各宿場最大のカスタマーは大藩の加賀藩前田家であり、同藩が周辺地域に金を落としまくった事に間違いは無いだろう。

…現代に入ると大名に代わってめぐら〜が各観光地に金を落としまくる。滞在僅か数時間の隠岐島や佐渡島、種子島にワンぽちのためだけに旅客機やフェリーを使って渡り、味わう事なく急いでご当地グルメを掻き込み、ご当地の名産品が何なのかも知らない内にお土産を購入したりする。これを大名旅と言わずして何と呼ぼうか。今後は参勤交代だと思って旅をする事にする。

※小玉こどう会が発行する「小玉古道を行く」て小冊子が秀逸、文中にある「小玉道中堺碑」で拾える。ちなみにどなたか知らんけど、同所は割ヶ嶽城のリア攻めマップに碑・説明板としてスポット登録されている。

※ちなみに文章にするとまともな物件のように感じるかもしれないけど、何処にでもあるそこら辺の高い所に登ってみた…て感じのリア攻めだ。

2024年06月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
福王子氏館[割ヶ嶽城  周辺城郭]



福王子氏館は割ヶ嶽城の南方約5.5km、鳥居川北岸(左岸)、標高約537mの河岸台地丘陵地上平場に立地したと推測される居館です。該地は上水内郡飯綱町普光寺に位置するが、「普光寺」は即ち、「福王子」であり、大字であると同時に寺名でもある。

行き方はGoogleマップに位置登録されている浄土宗の寺院、「普光寺」を目標に設定して下さい。この寺院が概ねの該地である。車は隣接する普光寺公民館に捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方も不明としたい。最初に断りを入れておくが、信濃のお城の神が、川中島での軍功を褒されたていう福王子兵部少輔の存在を挙げる「三水村誌」の不確実な記述を元に、同氏の居館地として適当と思われる場所を周辺地域から選び出したのが該地である。従って実際に存在したのかさえ根拠を欠き、そもそも論で村誌が言う水内郡にあった福王子氏の存在自体が極めて不審である。

嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、十番五月會分の条には、「…黒河、福王子、長治(沼)、下浅野郷豊後左京進入道(島津宗久)跡」とあり、島津宗久の後裔、左京進光忠が、黒河郷、長沼郷、下浅野郷と共に福王子郷の地頭職であった。同名は一般的に長沼島津氏の祖とされる。

時代は下って、天正十年(西暦1582年)七月十三日、上杉景勝が島津淡路守(忠直)に宛行った「地方之覚」に記された水内郡内の領所の内に、「七百貫文 福王子」が見られる。当時としてはそれなりに裕福な郷村であったようだ。

該地の中心地である性空山普光寺は現地の説明板によると、「…戦国期再度の火災と弘化年度(西暦1845年〜1848年)の地震にあい、前林、戸袋沢、現在地と移り…」とあり、寺地に数度に亘る移動が見られる。信濃のお城の神が福王子氏館の位置を普光寺に求めるのは、「豪族が自分の館地に隣接して菩提寺を建てる例は多い。まして郷名を名乗った氏族となれば、その由来する寺名と同名の氏族との関係は極めて深いと想像し、福王子氏の館地はこのあたりと想定する。…」との推測による。又、寺地に移動があるのならば、元の福王子氏の居館地に普光寺が移ったものとも考えられるだろう。

居館の現況は…リア攻めが殆ど成立しないのでどうしようもない。個人的には普光寺本堂北側後背丘陵地上の耕作地と墓地が適地だと考える。そもそも論で存在したのかすら判らない物件なのだからそれ以上の事は頑張っても語れない。ちなみに周辺一帯は改変があるとはいえ、居館地としての適地が無数に存在する。

飯綱町の遺跡分布図には、大字としての普光寺に、「古城遺跡」、「堀の内居館跡」が記されている。どちらも中世の城館に関わるものと思われるが、発掘調査自体は未だに行われていないようだ。個人的にはこちらの方を信濃のお城の神に調査して欲しかった…位置の確認は終えているので次回に訪ねてみようかなと考えている。人に任せず自分でやろう。

※戦国時代には、越後守護代の長尾氏、次いで上杉氏に従う福王子氏が確認出来る。長くなるので詳細は語らないが、「三水村誌」が言うところの福王子氏との関係性は無いに等しい筈である。ちなみにアプリの登録城、越後国頸城郡の箕冠城を訪ねた際の帰り道に、「謙信公根越三城将供養堂」なる御堂を偶然にも見付けた。三城将の一人に名を連ねるのが福王子彦八郎孝重であり、現地の説明板には、同名が頸城郡福王子に位置する御殿平城城主であった事が記されている。

※福王子氏はともかく、長沼島津氏一族等の居館地が福王子郷にあった事は疑える。但し、該地がそうであったて根拠は何処にも存在しない。文中にある「堀の内居館跡」が全てを解決してくれるとは思うのだが、こちらの方も史料、伝承等を一切欠く。

※ 居館地としての適地が無数に存在する〜例を挙げれば写真⑧の様な場所がそれだ。

※撮影日が異なる写真が4枚ある…判ったら凄いや。

2024年05月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
小八郎屋敷[割ヶ嶽城  周辺城郭]



小八郎屋敷は割ヶ嶽城の南方約4.1km、標高722.6mの鼻見城山の南西裾野、標高約592mの斜面上平場に立地したとの伝承が残る屋敷です。該地は上水内郡飯綱町普光寺塩ノ入地籍に属するが、塩ノ入の大字は謂わゆる越後からの「塩の道」に関係する地名だろうか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北西側の「(有)清水工務所」を目標に設定して下さい。小八郎屋敷は小字でもありその範囲は広大、現地を訪ねても概ねの場所としか把握出来ない。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは片切小八郎景重とされるが、実際には養嗣子の太郎為廉の屋敷と考えるのが正解だろう。「信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編」に掲載があるが、信濃のお城の神も情熱を持てなかったのか特に突っ込む事もなく「長野県町村誌」の記述を引用するのみ。非常にあっさりとしている。

養父である小八郎景重は、「保元物語」、「平治物語」にも登場する一角の者(鎌倉時代の武士の理想像とも。)、平治元年(西暦1159年)の「平治の乱」において、東国へ落ち延びる義朝、頼朝父子を逃すべく六条河原で奮戦し討死した武士として特に名高い。

伊那郡片切郷を本貫地とする片切氏は養嗣子の為廉が家督を継ぐが乱後に没官となり、二十数年間に亘って流寓する。寿永三年(西暦1184年)、頼朝によって鎌倉に召し出され、平家没官領となっていた旧跡を憐憫の情を以て宛行われた。従って小八郎屋敷は為廉が旧領に復するまでの間の流寓先である。ちなみに「吾妻鏡」には、為安(廉)を信濃の国から召し寄せたとの記述があるので、該地が突拍子も無い伝承地だとも言えないだろう。

まず、該地の特定に1時間強を要した。明確なランドマークが無い事に加え、周辺の町道、農道の道筋が信濃のお城の神の調査時とも大幅に変わってしまっている事がその理由だ。縄張図に描かれる概ねの中心地をだだっ広い水田や耕作地の中から選び出す気の遠くなる作業(最初は縄張図に描かれる方位を誤って読んでしまい現地との整合性が全く取れなかった…発狂するかと思った。)、久々に別の意味での難物件にぶち当たった気がする。ちなみに特定しても何もよい事は起きないのでノーマルな方は近付く必要性が微塵も無い。

屋敷の現況は…もう個人的評価すら拒む完全無欠の水田、耕作地、耕作放棄地なんで感想を語ったら負けのような気がする。おいらは「小八郎屋敷」の中心地を求めたけど、大体にして本当に正確なのかの判断が今でも付かない。リア攻めてよりは位置を確認しただけてのが正直なところだ。強いて感想を言えば、「眺めが良い。」て事ぐらいの色物物件っすわ。

現在の長野県下伊那郡松川町上片桐には標高1470.4mの小八郎岳てお山があるんすけど、山名は片切小八郎景重が避暑のために訪れていたて伝説に由来する。山上は山城跡との不確実な伝承もあるらしいが…まぁ…この山を制覇しないとあなたの貯金が百万円目減りしますよてな状況にでも追い込まれない限りは登らねぇっす。

※片切(片桐)氏は南信、伊那郡において清和源氏満快流を自称する武家の名族、同氏とその一族、一党は戦国時代にも多岐に亘る活動が見られる。片切氏の嫡流は景重の養嗣子、為廉が継いだが、実子の方は名子氏を称している。アプリの登録城、大島城と船山城は何れも同氏関連のお城と言えるんでそこんとこ夜露死苦〜

※賤ヶ岳七本槍で有名な後の板挟み亡国の家老、片桐且元はこの片切氏の末流である。ちなみにどんなに誠意を尽くして知恵を働かせようとも、良き同僚に恵まれず、仕える主人が阿保な限りは一切報われる事がないて現実を彼の後半生が教えてくれる。

※写真①、②、⑤、背景のぽこりんが同じ割ヶ嶽城のリア攻めマップにある鼻見城っす。

※写真⑧は要るのか知らんけど東方から撮影した近景っす。この一帯て事で勘弁して…

※写真は見事なまでの田んぼと畑写真、撮影する意味がおいらにも不明だ。

2024年05月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
芋川氏館[割ヶ嶽城  周辺城郭]



芋川氏館は割ヶ嶽城の南南東約4.5km、斑尾川西岸(右岸)、標高約540mの山間平野部平場に立地した居館です。南方へ緩やかに下る斑尾川が形成した小扇状地の扇央部に当たる。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。居館の敷地範囲は隣接する浄土真宗大谷派の寺院、森尾山鎌田院妙福寺と僅かだが重複している。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは芋川氏です。同氏については割ヶ嶽城のリア攻めマップにある健翁寺館、若宮城等を別に参照して下さい。

武田氏から信越国境の国人領主として重要視された芋川氏(善光寺平以北、律令制下における東山道支道の道筋に当たる地域を差配していたと推測される。上杉氏の本拠、春日山から最も近い距離にある武田氏方の在地勢力が芋川氏だ。)だが、それ故に他地域への出張が確認出来ず、信玄、勝頼の二代に亘っての活動が特に見られない。芋川氏が歴史の表舞台に登場するのは武田氏滅亡後である。

川中島四郡を差配する森武蔵守長可は北信の諸氏に去就を迫るが、これに従わなかったのが芋川右衛門尉親正だ。二次史料ではあるが、「信長公記」には次の記述がある。

「四月五日、森勝蔵(長可)川中島海津に致在城、稲葉彦六(貞通)飯山に張陣候所、一揆令蜂起、飯山を取巻之由注進候、則稲葉勘右衛門(重通)、稲葉刑部、稲葉彦一、國枝(頼母)、是等を為御加勢飯山へさし被遣、三位中将信忠卿より、團平八(忠正)、是又被差遣、然而御敵山中へ引籠、大蔵之古城拵、いも川と云者一揆致大将楯籠、」

「四月七日、御敵長沼口へ八千許にて相働候、則森勝蔵懸付、見合、瞳と切懸り、七八里之間追討に千貳百余討捕、大蔵之古城にて女童千余切捨、以上頸數貳千四百五十余有、此式候間、飯山取詰候人數勿論引拂、飯山請取、森勝蔵人數入置、稲葉彦六御本陣諏訪へ帰陣、稲葉勘右衛門、稲葉刑部、稲葉彦一、國枝、江州安土へ帰陣仕、右之趣言上也、森勝蔵山中へ日々相働、所々之人質取固、百姓共還住被申付、粉骨無是非様躰也、」

…面倒なんで解説しないけど、おいらでも原文から大意は理解出来たんで一揆の様相だけは伝わる筈…あえて簡単に言えば、稲葉貞通が在陣する飯山城を囲んだ「いも川(芋川親正)」を大将とする一揆勢は逃れて「大蔵之古城」に籠城したが、森長可の迅速な働きにより凄惨な結果に終わったて事になる。

越後に逃れた芋川親正は後に越前守を名乗り、上杉氏の下で芋川の本貫地を安堵され、アプリの登録城、牧之島城の城代を務めた。文禄三年(西暦1594年)九月の「定納員数目録」によれば、親正の知行高は四千四百八十六石であり、北信の国人領主としては須田氏、島津氏に次ぐ大身である。後には上杉氏の会津移封に従い、後嗣、元親分と合わせて八千石を知行する。又、あまり知られていないが、慶長五年(西暦1600年)の「関ヶ原の戦い」直前までの白河小峰城城主でもあった。

芋川氏館は平成十三年(西暦2001年)から翌年にかけて二次に及ぶ発掘調査が行われている。信濃のお城の神の調査はその前年であり、居館の敷地範囲には相違が見られる。表面上現存する遺構は北西角の土塁の残欠、若干の堀形のみ。他にあっては投げっぱなしで申し訳無いけど、結果報告書がネットでダウンロード出来るのでそちらをどうぞ。ちなみに堀跡からは信濃で唯一と言ってよい障子堀が検出されている。

中央の歴史から見ればその名さえ正確に伝わらない親正だが、織田氏に従う事を一揆を以て拒否した気概のある人物だったと言える。後世、人気の高い鬼武蔵より親正の心情に共感を覚えるのは関東に住まう者だからだろうか。それとも判官贔屓故だろうか。

※ 調査結果から一般的に流布している居館敷地範囲は誤りである。妙福寺北側の堀形は単なる後世の水路である事に注意されたし。

※「大蔵之古城」〜髻山城のリア攻めマップにある大倉城がこれに当たる。霊感無いけど夕方ぐらいになると誰かの視線を感じる。JKなのかな。

※写真⑧は隣接する妙福寺を撮影したもの。同寺には飯山城の移築冠木門が現存している筈だが…現在は別の物に替えられている。飯山城に復するんだろうか。

※個人的な感想だが、森長可には信長の意思を斟酌してそれを外地で実行する「小信長」の印象を持つ。それ故に性急であり苛烈でもあった訳だが、道家思想的に考えれば、若くして討死したのは因果応報て事なんだろう。

2024年05月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
健翁寺館[割ヶ嶽城  周辺城郭]



健翁寺館は割ヶ嶽城の南南東約4.5km、斑尾川西岸(右岸)、標高722.6mの鼻見城山の南東裾野に当たる小扇状地、標高約545mの段丘台地斜面上平場に立地した居館です。該地は近世の北国脇往還の横道、川東道に面する交通の要衝、同道は、野尻から針ノ木を抜けて、舟岳、二十塚(レア物件、旗塚が残る。)、倉井を経て千曲川西岸(左岸)の浅野に至り、浅野からはやや北行して立ヶ花で千曲川を渡り、最終的には高井郡の中野に至る。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。曹洞宗の寺院、健翁寺が該地であり車も捨てられる。ちなみに山号は富峯山、元は真言宗の寺院だったんだそう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは芋川氏とされる。天保年間(西暦1831年〜1845年)に成立した「芋川氏累世譜録」によると、芋川氏の祖は藤原氏で、藤原鎌足十七世の孫、芋川弥次郎兼定であったとするが確証を得ない。別に芋河荘の地頭職であった大中臣氏を祖とする説も存在し、個人的には後者の可能性の方が遥かに高いように思う。又、芋川氏は芋河庄の上下地頭であったとも言っているがその時代は不明である。そもそも論で譜録の記述は信憑性に乏しい。

芋川氏の文書上の初見は遅く、永禄十二年(西暦1569年)二月廿四日、芋河右衛門尉(親正)宛、武田信玄書状であり、武田氏被官時代が最初である。書状には、「就于当國出陣、態音問祝著候、如露先書候、逐日任于存分候、就中松平蔵人向遠州懸川詰陣、織田弾正忠為合力、近日出陣之由候、彼等ニ当表之備相任、消雪候者、至于越府可及行候、猶其堺無事ニ候哉承度候、恐々謹言、」とあり、武田信玄は、芋川親正に遠江表の近況(松平勢による掛川城攻めの事を言っている。織田勢が合力するので、彼等に当表の備えを任せるとも言っている。)を報せると共に、雪解けを待って越府(春日山)へ出陣する旨を伝え、併せて信越国境の様子を尋ねている。信越国境を本貫地とする芋川氏は、武田氏にとって志久見口を押さえる野沢温泉(当時からの地名である。)に退去した市河氏と共に常に重要視されており、書状の始まりは丁寧、気の遣いようが窺える。

「健翁寺安置霊仏略縁起」によると、健翁寺は、鼻見城山の「じょうせんぼう」にあった「常懺法道場浄泉院」が、天文十九年(西暦1550年)、山津波によって流出、後に郷民が埋没した懸仏を掘り出し、天正元年(西暦1573年)、健翁院と改称して現在地に再建されたとある。開基となったのは芋川氏と推測されているが、縁起の記述を正しいものとするならば、同氏が同じ割ヶ嶽城のリア攻めマップにある芋川氏館に移り住む以前の居館であったと考えるのが適当だ。縁起には、ある時代には芋川氏の館であろうとする。

居館の現況は…名称のとおり現在はお寺さんの境内となっており旧態は想像出来ない。段の付いた境内の敷地は後世の改変だろうか、周辺地形と同様である。城館跡としての遺構は確認出来ず(参道は一部で土橋様となっており、堀跡の存在は疑える。)、探索は不毛な作業に終わる。但し、お寺さんとしての佇まいが凄く素敵、居館跡てよりは健翁寺を訪ねに来たと考えれば慰められるだろう。

健翁寺館は飯綱町において埋蔵文化財としての登録が無い。健翁寺を芋川氏の居館跡とする史料が同寺の縁起にしか求める事が出来ないからだろう。又、同縁起によれば古代の県主、小野連の館跡ともしている。

※該地一帯は中世の城下町である。現在の町(地名である。)集落には市神が鎮座し、遊女町の名残りである「茶の子町」の地名が残っていたんだそう。

※ 常懺法浄泉院には、善光寺が現在地に移る以前、皇極天皇二年(西暦643年)より天智天皇八年(西暦669年)までの二十七年間、善光寺如来像が安置されていたとの伝承がある。後身の健翁寺は中世における新善光寺の一つであり、現存する「虎御前の墓」と称する多宝塔は善光寺遺跡の一つでもある。

※善光寺を調べてたら「全国善光寺会」て団体がある事を知った。善光寺信仰恐るべし…

2024年05月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
伝・県主居館(小野連館)[割ヶ嶽城  周辺城郭]



伝・県主居館(小野連館)は割ヶ嶽城の南南東約4.1km、斑尾川東岸(左岸)、標高約546mの山間平野部平場に立地したとの伝承が残る居館です。伝承てよりは伝説に近いかもしれない。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南西側の「芋川防災センター」を目標に設定して下さい。車も捨てられる。此処から斑尾川を渡った北側の耕作地一帯が該地である。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小野連です。「長野県町村誌」には、「村(芋川村)の中央北方東西十七間一尺二寸(約31m)南北十二間三尺(約22.5m)、耕地の中にあり、字小野と云ふ。此地今は神社なり。里俗口碑に往古小野連(おののむらじ)県主(あがたぬし)たりし時、此地に居住し邸地に健御名方富命(諏訪明神)を建立し崇敬す。後世社を小野神社と称す。按に県主に小野連と云ふ名、覚束なし、後考を俟つ。」とある…

…調べてみると、「県主」は古代ヤマト政権下の首長であり、「連」は「臣」と共に高位の豪族が所持した称号て事らしい。中世をすっ飛ばして古代にまで遡る居館跡になるので門外漢としたいんだけど、「信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編」に掲載があるので仕方が無い。該地は後の芋河庄の枢地に当たる(現在の大字は「芋川中村」だ。)ので居館地等としたのは小野連だけとは限らない可能性もあるしね。

居館の現況は一面の耕作地、難し過ぎる…居館地に鎮座していたとされる小野神社の旧地すら平らげられてしまっている。かつて一帯は斑尾川の氾濫が好発する地域、土地の構造改革で地形、川筋、道筋も変わっており、敷地範囲すら不明、もはやリア攻めする術が無い。「この辺なのかな…」が関の山だ。

該地の一部は小野遺跡に含まれており、過去に発掘調査が行われている。結果報告書を見ていないので何とも言えないが、発掘のメインは縄文時代の遺跡らしく、居館に繋がる手掛かりは殆ど掴めないと思われる。但し、一帯からは約180個の柱穴が検出されており、規模の大きさから荘園政所跡とも推測される。

※謂わゆるどうする事も出来ない色物物件だ。「長野県町村誌」には居館敷地範囲が明確に記述されるが、たぶん小野神社の境内を指しているものと思われる。

※邸地にあったとされる小野神社の祭神は現在、芋川神社に合祀されているんだそう。

※写真①、水田の奥の辺りが小野神社旧地っす。

※写真③、向かって右端に写るのが斑尾川、芋河庄とは基本的に同川から引水して開田が進められた荘園である。

※見事なまでの田園風景写真、怪しまれて当然の異邦人、何やってるんすかね…

2024年05月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
御所館[割ヶ嶽城  周辺城郭]



御所館は割ヶ嶽城の南南東約3.6km、斑尾川西岸(右岸)、標高約575mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。該地の大字は芋川御所ノ入である。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「御所之入公会堂」を目標に設定して下さい。車も捨てられる。但し、居館の位置は特定されておらず、信濃のお城の神がこの公会堂の南側の一帯をそれと推測しているに過ぎない。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。「長野県町村誌」には、「村(芋川村)の西の方畝傍山にあり。東西三十五間(63.636m)、南北九間(16.364m)松大樹寸一株あり、此辺を字御所平と云ふ。蓋高貴の人の居跡なりと其伝を知らず。」とあり、「三水村誌」では、鎌倉時代に芋川荘地頭職だった信濃権守、大中臣盛実等の居館跡ではなかったかと推測する。何れにせよ「御所」の名が付く館の主は高貴な人物だった事に間違いは無いんだろう。治承二年(西暦1178年)正月廿七日には大中臣朝臣盛実が信濃権守に補せられており(「玉葉」)、元亨二年(西暦1322年)には地頭、大仲臣盛家が戸隠山中院に法華経印板を納めている。

「三水村誌」には、御所平の西の丘、芋川用水に臨む場所に「御所の寺」と呼ばれる塚があり、周辺には「屋敷」と呼ばれる平地があるとの記述があるが、肝心な「御所平」の地字が何処になるのかがはっきりしない。信濃のお城の神は「御所の寺」東側の窪地に御所館の位置を一応推測している。従ってリア攻めはそれを踏襲する以外に術は無い。

「御所の寺」の塚には地蔵二体がひっそりと藪の中に佇んでいる。今となっては近傍の方の認識にも無いがかつては大切にされてきた筈である。今回のリア攻めは不毛な作業に終わったけど、それでもこのお地蔵さんに出会えた事で満足だった。時代は変われど静かに時を刻み続けるその御姿に柄にもなく一目惚れ。好きー

※写真②は要るのか知らんけど北方から撮影した近景っす。

※写真⑤、⑥、⑦が文中にある「御所の寺」を撮影したもの。

※写真⑧が文中にある「屋敷」の場所、正確には「中屋敷」らしい。写真は今冬に通り掛かった際に撮影したもの。当日のリア攻めの6件目だったんで探索は諦めてしまった。

※ちなみに最近のおいらは該地の長野県上水内郡飯綱町に住みたいなと思い始めている。

2024年05月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
小林一茶旧宅[割ヶ嶽城  寺社・史跡]



さて、全国13人のISSAファンの皆さん、お待たせしやしたっ!ワクドキでしょ〜そう、今回の口コミはみんな大好き小林一茶の旧宅っす。ISSAて言えば、「かえるぴょこぴょこみぴょこぴょこ、あわせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ」の早口言葉で有名な江戸時代中期のリズム芸人、BASHO、BUSONと共に819大喜利コーナーの常連でもあり、座布団を全部持ってかれるのはいつもISSAだった。あんまし知られていないけど、出身地は沖縄県沖縄市ではなく現在の長野県上水内郡信濃町柏原、今回は別物件を訪ねた際に目の前を通り掛かったんでついでにリア攻めしてみた。

小林一茶旧宅は割ヶ嶽城の西方約3.2km、鳥居川北岸(左岸)、標高約675mの河岸段丘台地上平場に立地する土蔵です。一茶の実家は北国脇往還の宿場町、柏原宿内に立地し、比較的裕福な中農クラスで勤勉な父は、公の奉公を勤める事で地子免除の特典を持つ者だけが住む事を許される宿場内の土手の内側、伝馬屋敷に居を構えていた。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。国道18号沿いでアクセス容易、大型バスも余裕で捨てられるぐらいの駐車場も付いている。

一茶は実母、祖母の死去から自身の死に至るまでの間、ずっと不幸であった。継母と折り合いが悪く江戸へ奉公へ出され、俳人として成功した後も二人の関係が改善する事は決してなかった。父の死後は遺産の相続で継母、一茶と実弟、仙六の三者で骨肉の争いを演じてもいる。

五十二歳で初婚となり、四人の子供を儲けたが(強ぇ…)何れも夭折、妻とは離縁する。六十五歳で亡くなる数ヶ月前には柏原宿の大火により自家を焼失、焼け残った仮住まいの土蔵で最期を迎えその波乱の生涯を終える。

…おいらは一茶の旧宅と聞いて庄屋屋敷みたいなもんを想像してたんだけど、訪ねてみてびっくり!文中にあるようにただの土蔵だったんすわ…土間に筵を敷いただけの粗末な造り、座敷牢の方が全然立派、見たまんまのワンルームっすわ…土蔵の南側には不仲だった実弟、仙六の屋敷が此れ見よがしに建っており、対象的なその佇まいと比べると涙無しには見れないや。

典型的なFAMILY BREAKDOWNが最後まで尾を引いた訳だけど、これがなかったら俳人としてその名を残す事も無かったろう。そして故郷の柏原も一茶にとっては慰めにならなかった。一茶は遺産相続の影響により周囲からも疎外されていたらしく、一茶自身も終生被害者意識を持ち続けていたとされる。

俳人としては二万句以上を残したそうで、今もなお新たな句が発見されたりするらしい。駄作も多いらしいんだけど、擬音系の言い回しを多用する作風に擬音だらけの毎日を送るおいらは親近感を抱いたりもする。故郷は一茶にとって居心地のよい場所ではなかったようだけど、現在の信濃町は完全に一茶推しの町、周辺の小丸山公園の隣りには「一茶記念館」なんてのも建っている。ちなみに山城好きなら「小丸山」と聞いて興奮しない輩はいないだろう…と思いたい…

おいらは別に山城ばかり廻ってる訳じゃなくて信濃に限って言えば、色んな史跡、名勝なんかも丁寧に訪ねていたりする。お城廃人だとは思われたくないもんだ。夏場の時期にお山に入ってぼろぼろになるよりは遥かに有意義な一日を送れたりもする。「♪カモンベイビー信濃町♪」なんだぜ。

※「かえるぴょこぴょこ…」〜脳内変換すると、「やせがえる まけるな 一茶これにあり」てなる。上高井郡小布施町雁田に建つ曹洞宗の寺院、岩松院の池の蛙がモチーフ、同寺は福島正則霊廟でも有名だ。

※柏原宿の大火〜文政十年(西暦1827年)六月発災、焼失戸数は九十二軒だった。柏原宿本陣跡は別にスポット登録して写真だけ置いておく。本陣となったのは中村六左衛門家、参勤交代する加賀藩前田家も御用達だった。

※「丸山」は見た目そのままの山稜を示す地名である事が多いが、古墳跡、城砦跡を示唆する地名である事も少なくない。

※写真③は一茶の実弟、仙六の屋敷っす。

2024年05月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
虚空蔵山砦[割ヶ嶽城  周辺城郭]



さて、おいらはよく色物物件て言葉を用いるんだけど、改めてこの場を借りてその定義を説明しよかなと思う。誤解されがちだが遺構の薄い物件を表したものでは決してない。

色物物件とは、存在自体が疑われるもの、位置が不明確なもの、地名によって導き出されたもの、伝承のみによって伝わるもの、もしくは新たに提起されたもの等の物件の事を言っている。総じて遺構は確認出来ないか不明瞭で、実際に現地に赴いてももやもや感が増すばかり…兎に角、城館跡としては非常に悩ましい物件の事を指している。

言ってみれば推測地、推定地、比定地の事であり、遺構が確認出来ない以上、リア攻めはどうしようもない結果に終わる。但し、信濃に限って言えばおいらは無視する事無く丁寧に訪ねている。なんだかんだで結構楽しんでるのさ。藪が酷くなる時期にはもってこいの物件でもあるしね。基本的にこれ等に淡い期待も抱いていないのでそれでもいいのさ。

虚空蔵山砦は割ヶ嶽城の南南東約5.3km、斑尾川東岸(左岸)、標高約600mの山稜山頂から南西へ伸びる尾根中段上、標高約563m地点の平場に立地する砦です。南麓の倉井神社からの比高は35m位でしょか。該当尾根は斑尾川の屈曲点へ向けて張り出し、南方へ流れる同川は山稜に沿って東方へ急に向きを変える。

行き方はびっくりする事にGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。尾根を登る町道が通っているので城域に車で横付け出来る。後は舗装道路の法面を登れそうな所から一段上がればよいだけだ。

築城年代、築城者は不明です。該地の東方には古道が通り、芋川の関門の地に当たる事から同地に拠った者とするのが正解なんだろう。「信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編」に掲載がある。「飯綱町遺跡詳細分布調査報告書」にも記載があり、埋蔵文化財としての認識はあるようだが、「伝虚空蔵砦跡」とし、別に「伝倉井神社旧地」ともする。

倉井神社は「長野県町村誌」によると、「本村(倉井村)乾(北西)方字宮平山麓にあり、祭神健南方富彦神別命。里俗伝に往古社地は字宮平山の頂、虚空蔵砦地にあり、養和年間(西暦1181年〜1182年)山麓平地、今の神領地へ遷す。…」とある。町村誌の記述を信ずるならば、珍しい事に神社の跡地に砦が普請された事になる。

砦の現況は…南辺を欠くコの字形の土塁の残滓、人工の跡が確認出来る。が、砦のものてよりは倉井神社のものなんだろう、同様のものを同じ割ヶ嶽城のリア攻めマップにある薬師岳の薬師堂に見る事が出来る。又、小祠1基が鎮座するが中身は空で祭祀は途絶えて久しいようだ。ちなみに該地には旗塚の存在もあったそうだが、町道整備によって尾根自体が相当に削られて消滅したと思われる。全体的には砦てよりは狼煙台か物見台の印象だ。

Jr.アイドルの王道出世パターンを突き進むおいらは事務所から色物芸人との絡みを固く禁じられているんだけど、色物物件との絡みだけはどうしても諦める事が出来ない。誰かの馬の蹄石とか誰かが座った腰掛け石とか誰かが手植えした大木とか誰かが祈ったら湧き出た水場なんかよりは遥かにリアルな代物だ。色物上等、こりからも絡みまくるぜ。

※旗塚の存在〜飯綱町では「倉井の虚空蔵山にある十三塚」とする。立地と数から塚は旗塚ではない可能性が残る。

※写真見て頂けたら解ると思うけど特に頑張る必要が無い物件だ。おいらは旗塚探しで1時間弱彷徨ってたけど…

※写真①は要るのか知らんけど町道から撮影した近景っす。

2024年02月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
若宮城[割ヶ嶽城  周辺城郭]



〜若宮城(芋川城・城山)攻城編〜

お城は一般的な北信の山城とは一線を画していて城域は尾根筋にだけ留まらない。拡張を繰り返したのか主郭部を中心に、「南小屋」、「北小屋」、「舟竹小屋(西方、舟岳集落との繋がりとも。)」、「西園寺屋敷」等の根小屋を内包し、外郭等でそれ等を取り囲む。

登城は主郭部までは容易だが、大手筋を外すと藪に塗れるので冬場以外での探索は諦める部分も多くなると思う。鑑賞に耐える時期も通年でごく僅か、チャンスが出来たら優先して訪ねよう。又、1日に複数城をリア攻めする方は、当日、最初のリア攻めである事を心掛けた方が無難、遺構を全て確認するにはどんな猛者でも最低3〜4時間は掛かる。ちなみにおいらは7時30分位から登り始めて下山は12時30分位、写真撮影に合計2時間を割いていたとしても相当な時間を要している。

登り始めたら既に城域内、正に若宮集落の裏山なのだが、主郭から派生する尾根筋は支尾根を含めて7方向に及ぶ。謂わゆる一文字書きが出来ないお城、城域内でアップダウンや行ったり来たりを繰り返す事になる。楽な総リア攻めの正解は無いに等しいが、大手筋を無視して縄張図における最も北側に位置する東尾根の遺構群を辿って主郭に入るのが最上だと思う。但し、東尾根は藪度が極めて高い部分なので夏場等だと侵入そのものを拒むかもしれない。

兎に角、遺構がよく残っている。耕作地となっている部分は元々が根小屋等の削平地を活用しているようなので改変は少ないと考える。各尾根筋には無数の小郭を段郭状に連ねる他、要所に堀切と竪堀を穿ち、谷側へ向けては所々に土塁が付く。急な斜面を除けば一山全てが人工と言っても過言では無い。

このお城、最大の見所は主郭北西側山側背後の三重堀切+竪堀にある。城域内最高所の主郭から凄まじい角度の切岸の落差を置いて穿たれ、主郭からこの三重堀切に下りるだけでも一苦労、今でもトラバースが必要だ。振り返って堀底から主郭を見上げれば誰でも笑うしかないだろう。高石垣を登れない絶望感と同じ感覚を味わえる。削って掘った奴等は本当の阿保だ。

城域内を移動する度に、「芋川〜、お前何やっちゃてくれてんだよ〜イカれてるぜ〜」等と呟く。次々と現れる遺構の連続には呆れるばかり。前述のとおり北信の山城としては珍しい縄張だけど、外郭に相当する東尾根と南西尾根の遺構群、根小屋部分を除けば本来の姿が見えてくるかもしれない。

主郭には「湊川神社逢拝所」の石碑、「楠祖社」が建つ。楠木色に染まりまくりだが、応永十一年(西暦1404年)、自害に及んだ芋川氏当主、長知の息女が楠木正成の孫に当たる正秀(殆ど系図上のみの人物である。)に嫁ぎ、後に芋川氏を再興したとする伝承がその云われ。事の真偽は不明だが、事実ならば、応永六年(西暦1399年)の「応永の乱」の際に繋がりでも出来たのであろうか。又、「長野県町村誌」には、「…但石壁等は永禄の頃、兵火に罹り皆焼石となれり。今に至り土をうがつ者、往々古城具を得る、又蔵屋敷跡より焼米を出す。…」とあり、蔵屋敷の位置は不明だが、若宮城が焼亡している事、かつて土留めの石積みが付いていた事も窺わせる。ここで言う「永禄の頃」の兵火を信ずるならば、少なくとも二度の落城を経験している可能性もある訳だ。

※探索は大変、城域内の移動はアドベンチャーになるので縄張図の用意は必須だ。

※城域内には墓所もある集落の裏山だが、積雪には熊さんの明瞭な足跡、真新しい痕跡が残されていた。油断無きように…おいらは油断しまくっていた。

※おいらが写真撮影に時間を要するのはコンデジ君だからw望遠機能を使っていないので全て体力勝負、人力で画角を決定している。1枚撮るだけでも結構大変なのさ。

2024年02月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
若宮城[割ヶ嶽城  周辺城郭]



〜若宮城(芋川城・城山)登城編〜

むしろ登城が楽ちんなお城なんだけど、信越国境の名城(あくまで個人的主観っす。)を1回の口コミで終わらすのも気が引ける。おいらの推し城でもあるしね。故に2回に分けて紹介したい。

若宮城(芋川城・城山)は割ヶ嶽城の南東約2.4km、斑尾川西岸(右岸)、標高約695mの城山山頂部を中心に立地する要害です。東麓の長野県道60号、荒瀬原線からの比高は90m位でしょか。信濃の山城としてはド派手な縄張を持っている事で知られる。

実は初めての訪問、理由は個人的なものなんすけど、大きな縄張を持つ山城を後回しにする傾向がおいらにはある。訪ねたら訪ねたで縄張図の全てを廻らないと気が済まないのでそれなりの覚悟が必要なのれす。又、部分的には結構な藪城でもあり、深雪地帯故に冬場の訪問にも限度がある(去年は見事に諦めた。)。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南東麓の「若宮城大手登城口」を目標に設定して下さい。登り始めたら直ぐに城域に入る。但し、民家の軒先をかすめて行くよな取り付きなので家人を見掛けたら一声掛けておこう、歓迎してくれる。又、周辺には空地が沢山あるとはいえ意外にも車の捨て場所に困ったりする。リア攻め時間を要するので近在の方の許可を得た方が安心だ。

城山の比高は低いが複雑に山尾根が四方八方に展開する。縄張は一山全てに及ぶので探索は苦労するだろう。「長野県町村誌」によると、飯山藩初代藩主、松平遠江守忠倶の治世には城山で既に耕作が始められ、現在も城域内の一部は耕作地である。但し、元々が根小屋の様な部分なので気にならない。

築城年代は不明、築城者は芋川氏とされる。芋川氏は謎が多い一族で、文書上の初見は、永禄十二年(西暦1569年)二月廿四日、芋河右衛門尉(親正)宛、武田信玄書状であり、武田氏被官時代が最初である。芋川氏の事跡については長くなるので別の機会に譲るが、それ以前の同氏は島津氏、高梨氏等、近隣の有力国人領主に従う事で命脈を保っていたものと推測される。芋川氏が信越国境の有力国人領主へと成長を遂げるのは永禄年間(西暦1558年〜1570年)中の事であり、それ以前の文書が探し出せない事は少なくとも対外的には必要の無い立場にあったものとも解釈出来る。飛躍を可能としたのは武田氏による北信濃経略によるものであり、同時に島津氏、高梨氏等の影響下から脱した事を意味する。

応永十一年(西暦1404年)十二月、幕府の御料所となった信濃国に代官として下向した細川慈忠に従った市河氏貞は、自らの功を書き上げて注進し、慈忠から証判、「市河氏貞軍忠状」を得ている。長くなるので割愛するが、その中に、「…并同十一年九月高梨左馬助依背上意、為御退治、大将細河兵庫助殿奥郡御発向時、桐原、若槻、下芋河之要害責落、加佐、蓮至東条御陣、抽軍忠状、上方御見知上者、給御証判為備後代亀鏡、恐惶言上如件、」とあり、「下芋河之要害」が落城している事が判る。要害は鼻見城、若宮城の何れかが比定され、「芋川氏累世譜録」によれば、高梨氏に従った当主、芋川長知は自害に及び、一族は一時断絶する憂き目にあったらしい。

武田氏滅亡後には北信濃を差配する森長可に出仕せず、天正十年(西暦1582年)四月五日、上杉氏に同心して一揆に及ぶが凄惨な結果に終わる。又、信長横死後、天正十年七月九日、芋川越前守(親正)、同縫殿頭、西方(片)次郎右衛門尉(房家)、平林蔵人(正恒)宛、上杉景勝書状案には、「福島掃部助帰路、其元仕置堅固之由肝要ニ候、併普請一向無之由申候、兼日之儀ハ不入、当分手前之儀ニ候条、無嫌夜日普請可申付候、五三日中ニ可遣検使候条、不可有油断候、謹言、」とあり、上杉景勝は、福島掃部助の報告を受けて、普請が一向に進まない宛人等の要害を昼夜分かたず堅固にするよう励まし、数日の後には検使を遣わすので油断無きように求めている。後にはアプリの登録城、牧之島城城代となる親正だが、時期的にはそれ以前の書状と推測され、要害の名は書かれないが若宮城の事を言っている可能性が十分にある。

その発生は南北朝時代の後期にまで遡る事も可能だが、地勢的に国境の要害として戦国時代にも普請が続けられた事は間違い無いだろう。若宮城にも大勢力による改修説が常に付き纏うが、少なくとも景勝はこれ等要害の普請に関しては当人任せであり、検使を遣わして進捗状況や普請の結果の報告を受けるのみである。

2024年02月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
入道館[割ヶ嶽城  周辺城郭]



入道館は割ヶ嶽城の南東約2.7km、斑尾川東岸(左岸)、標高約633mの山間鞍部段丘台地上平場に立地したと推定される居館です。標高755.9mの戸谷峰の北方支尾根直下でもあり、同じ割ヶ嶽城のリア攻めマップにある若宮城とは斑尾川を東西に挟んで相対する。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「社会福祉法人 林檎の里」を目標に設定して下さい。「入道」は小字でもあり、この福祉施設を中心とする一帯が概ねの該地となる。ちなみに前述のとおり色物物件、推定地である。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは芋川正親と伝えられる。「信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編」に掲載があり、長野県町村誌」には「古宅址」として、「村(旧芋川村)の北東、入道ヶ峯にあり。永禄の頃 芋川正任の二男正親 入道して此所に居ると云ふ。今耕作地 林となる。」とあるんだそう。どうやら信濃のお城の神は町村誌の記述のみを頼りに調査に入ったようだ。但し、「飯綱町遺跡詳細分布調査報告書」には記載が無く、同町は埋蔵文化財として認識していない。

…まず、物凄くやる気が無かった。若宮城の目と鼻の先なんで訪ねてみたけど、ノーマルな方ならすっ飛ばして当たり前の物件だと思う。福祉施設の周辺を彷徨くのも居心地悪いし、文字通り走りながらリア攻めした。滞在時間は2分に満たないと思う。

町村誌によれば「入道ヶ峯」に位置する事になるが、信濃のお城の神は居館地が山上にあるのを不審とし、水場にも困らず若宮城に近接する「入道」にその位置を求めている。故に推定地であり続け、該地が居館地であるとの確証は全く得られない。又、入道ヶ峯の場所を特定出来なかったとも言っている。

居館の現況は…もはや福祉施設としか見られず、遺構とかそんなレベルには全くない。耕作地としての改変があり、福祉施設建設に伴う改変も一帯にはある訳だ。「入道」は当然出家を意味するが、山間鞍部の立地は適当な場所だったとは思う。それ以上の感想は特に無い。

町村誌の記述を信ずるならば、永禄年間(西暦1558年〜1570.年)に入道した正親なる人物が芋川氏においてどんな立場にあったのかは不明である。この時期の当主は右衛門尉親正なので、その叔父か舎弟には該当すると考える。詳細が不明な人物の居館跡は様々な想像も許されず、ましてや推定地ともなれば尚更の事だ。

※リア攻め時間は2分未満だが、こり書くのに添削含めて約1時間20分を要した。阿保なんでしょか。

※写真①は要るのか知らんけど斑尾川対岸から撮影した近景っす。ちなみに居館地は全く見えていない。

※写真②〜④は小字、「入道」を撮影したもの。写真②には若宮城の近景が写る。だからどうしたて感じの写真群…ちなみに悪い事していないんだけど、走りながらの撮影だったからか怪しまれて福祉施設から職員が出て来てしまう。誰何もされなかったので気付かないふりして堂々と歩いて逃亡…

2024年02月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
割ヶ嶽城



さて、今回はアプリの登録城、割ヶ嶽城っす。今までに投稿された城郭写真は僅かに11枚…信濃の山城ファンとしては実に寂しい限りだけど、此処は信越国境、野尻湖南岸地域、訪ねる季節も限られていると思うので仕方が無い感じもする。

割ヶ嶽城(城山)は標高約767.8mの城山山頂部を中心に立地する要害です。南麓の長野県道・新潟県道96号、飯山妙高高原線からの比高は120m位でしょか。該地の柴津は、中世の飯山道が谷筋に入る場所であり、道筋は正に城山の南麓を通る交通の要衝である。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。前述の県道脇には案内板も立っている。但し、民家の軒先をかすめて行くよな取り付きなので家人を見掛けたら一声掛けておこう。要所にも案内板が立っているので迷う事も無い。

築城年代、築城者は不明、伝承では在地土豪、柴津為信の要害がその発生と伝わるが、養和年間(西暦1181年〜1182年)、木曽義仲が為に滅亡したとされるので無視してもよいと思う。各種史料を当たってみても誰が築いたのか、誰が城主だったのか謎なお城だが、問題なのは信越国境に位置する事から該地が特に中世において、いつの時期にどの勢力の差配を受けていたのかが判然としない点にある。

芋川荘に属する地域だが、同荘は長承三年(西暦1134年)、摂関家領の関白、藤原忠実の息女、高陽院領として成立、その後は近衛家領として伝領、長く維持されていたらしい。元亨二年(西暦1322年)には地頭、大仲臣(藤原)盛家が戸隠山中院に法華経印板を納めている。又、後の芋川荘には時代不明なるも同荘の荘司が祖と推測される藤原姓を称する芋川氏が現れる。

明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、その中に、「一 芋川庄内沼尻関所事」、「一 芋川庄内三村長井郷庶子幷常岩中條内小境郷、同郡上長沼内并蔵井郷高梨備前入道知行分事」とある。「沼尻」は「野尻」で、かつて東山道支道の駅家が置かれた野尻湖西岸、「沼辺」と呼ばれた地であり、熊坂の難所を控えた信越国境の関門の地に当たる。高梨氏が本拠から遠く離れた沼尻で関銭の徴収を行っていた事は疑いが無いだろう。又、「三村上長井郷(上村長井郷)」は「永江」であり、時代的な変遷も伴うが、芋川荘の荘域が東西に広大であった事も判る。

…芋川荘の範囲ははっきりしていないが、現在の長野県上水内郡信濃町の大部分を荘域に含んでいたと推測され、当時において既に高梨氏の影響力が及ぶ地域だった事は疑いが無い。該地の柴津は注進状に書かれる「沼尻関所」と「三村上長井郷」の中間点に当たり、割ヶ嶽城が築かれた城山は両者を結ぶ飯山道を扼する位置にある。

縄張はコンパクト、3つの郭で構成され、城域の東端部と西端部には段郭、縄張図における通称1郭と通称2郭の南側には腰郭が付く。通称1郭と通称3郭を隔てる三連続堀切がこのお城のハイライト、ぽこぽこ感は控え目とはいえ今も十分な存在感を放つ。又、通称2郭から北西方に野尻湖が眺望出来るのには感動した。ちなみに俯瞰図なんかを見ると喫水線から上のフェリーみたいな印象がある。

割ヶ嶽城の城歴ではっきりしているのは、永禄四年(西暦1561年)四月、武田勢によって落城している事実のみである。個人的には武田氏時代にも何らかの形で機能していた事は確実だと考えるが、この時期、周辺地域において在地勢力、武田氏被官として歴史の表舞台に登場するのは、水内郡芋川を本貫地とする前述の芋川氏、即ち、芋川右衛門尉親正である。永禄十二年(西暦1569年)二月廿四日、芋河右衛門尉(親正)宛、武田信玄書状には、「就于当國出陣、態音問祝著候、如露先書候、逐日任于存分候、就中松平蔵人向遠州懸川詰陣、織田弾正忠為合力、近日出陣之由候、彼等ニ当表之備相任、消雪候者、至于越府可及行候、猶其堺無事ニ候哉承度候、恐々謹言、」とあり、武田信玄は、芋川親正に遠江表の近況(松平勢による掛川城攻めの事を言っている。織田勢が合力するので、彼等に当表の備えを任せるとも言っている。)を報せると共に、雪解けを待って越府(春日山)へ出陣する旨を伝え、併せて信越国境の様子を尋ねている。

※割ヶ嶽城の城歴については確たる答えが永遠に出ないと思うが、背景を知る事で各人が想像する事は出来る。よって後究の余地のある事柄のみを挙げてみた。

※一般的に流布している割ヶ嶽城落城の詳細は「甲陽軍鑑」がベースだ。軍艦の全てを否定するものではないが、記述の内、攻城に及んだ経緯には誤りが見られる。

※写真①は南西麓の町道から撮影した近景っす。

2024年02月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
蛇声天神山[割ヶ嶽城  周辺城郭]



蛇声天神山(じゃごえてんじんやま)は割ヶ嶽城の南東約2.6km、斑尾川西岸(右岸)に位置する標高702.6mの山稜です…東麓の長野県道60号、荒瀬原線からの比高は110m位でしょか。南麓には芋川集落と舟岳集落を東西に結ぶ林道が通る。この物件、なんて言ったらよいのかよく解らないんすけど、このままだとただのお山の紹介になってしまう…とりまこれから説明するんで諦めずに付いて来てね。

「信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編」に掲載がある。信濃のお城の神の著述によると、「…天神山は、若宮城と鼻見城の間にあり、この二城が見通せるように天神山へ堀割りを入れたという伝承があるという。」て事になる。

但し、城砦の類いだとは一言も言っていない。ただの山稜に物見のために堀を掘っただけて事になる。でもねぇ…信濃の全城館制覇を生涯お城目標に掲げるおいらにとっては無視も出来ない物件ではある。神も調査に入った事だし、全然乗り気じゃなかったけど頑張る事にした。

行き方はびっくりする事にGoogleマップに「蛇声天神山砦跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは前述の県道からだが、適当な場所から適当な尾根を選んで適当に見当を付けて適当に登る。おいらも今となっては何処から登ったのかを説明出来ない。道は付いてるような感じがするけど、現況は獣道に等しいと思う。

誰が堀を掘ったのかは知らんけど、該地を知行地としたのは在地土豪の芋川氏なんでそうだと言えるんだろう。但し、応永十一年(西暦1404年)、幕府の御料所となった信濃国に代官として下向した細川兵庫助慈忠は高梨左馬助朝秀と戦い「下芋河之要害」を落城させている事が文書から明らかである。下芋河の要害は同じ割ヶ嶽城のリア攻めマップにある、鼻見城、若宮城の何れかが比定され、想像すればこの際に幕府方の物見場として掘られたものとする事も可能だろう。

蛇声天神山の山頂には三角点が置かれるのみだが、その南東側の小ピークとの中間点、尾根稜線上には確かに堀切が1条確認出来る。南側斜面には竪堀としての落とし込みもあり、埋もれ気味とはいえ立派なものだ。但し、他に城郭遺構は一切見当たらず、東西になだらかな尾根筋は砦として見るには頼り無さ過ぎ、大体にして鼻見城と若宮城を覗くなら山頂部のみで事足りるような気がする。ポジティブに考えるなら、比高の低い若宮城の狼煙場か物見場とした方がよっぽどリアルだと思うけど、そもそも論で伝承にある、両城を一度に覗ける堀割りの意味が現地でも不明だ。

…ネガティブな口コミに感じるでしょ、なんせ初出以外の情報が一切ヒットしない物件、おいらも最初はやる気が全く起きなかった。が、この地山には確かに堀切が1条残っている…「何でこんな場所に?何か意味あるの?何を考えて?」…その突拍子も無い佇まいに萌えまくり、別の意味で感動した。

※ジモティーによると「蛇声」は崩落地を、「天神山」は雷の落ち易い山を意味するらしい…本当なんか…

※下山は登って来た道筋を見事に間違えたので適当に南麓へ下りた。付近に社殿は見当たらなかったが、びっくりする事に山際には鳥居が建っていた(写真⑧)。お山自体が何らかの信仰の対象なのかもしれない。

※写真①は南東麓、御所之入集落付近から撮影した遠景、何処が蛇声天神山の山頂なんだか撮った本人もさっぱり判らん…ちなみに「御所之入」の地名にぴんと来た方は同志だと思う。

2024年02月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
割ヶ嶽城主火葬場跡[割ヶ嶽城  寺社・史跡]



割ヶ嶽城主火葬場跡は割ヶ嶽城の西方約0.3km、割ヶ嶽城の立地する標高767.8mの城山西尾根末端部直下、標高約649mの山間平野部上平場に残る火葬場の跡です。…難しい説明したけど簡単に言えば割ヶ嶽城の西麓っす。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南側の「姫の泣き石」を目標に設定して下さい。此処から北に農道を歩いて約20秒で到着する。但し、案内板とかは立っていないので通り過ぎ注意っす。ちなみに目標の方も今回スポット登録しといた。

火葬場っすわ…正確に言えば火葬した場所でしかない。墓所は今までに何回か投稿した事があるんだけど、火葬場は今回で2回目の筈…以前のおいらだったら見向きもしないこの手の物件、要らん方向に進化し続けるおいらの趣味、趣向が自分でもよく解らん…

そもそも論で割ヶ嶽城の城主が誰なのか不明、時期的には、永禄四年(西暦1561年)四月、武田勢によって落城した際のものなんだろうか。どっから飛び出したのか知らんけど、当時の城主の名を割ヶ嶽図書介とする説があるらしい。が、在名を名乗らないそんな都合のよい姓があろう筈も無い。

荼毘に付された場所は土塁様の土の高まりに囲われている。耕作を逃れ、農道からも外れているのは伝承地故だろうか。「ふ〜ん…」としか感想が出て来ない。それよりも御遺骨が何処に埋葬されたのかの方が気になった。

信越国境に位置する該地の柴津周辺は縄文時代から人の定住が認められる地域だが、戦国時代に至ると集落の殆どが荒廃している。その証左に挙げられるものの一つが、現在の長野県上水内郡信濃町の各所に残る「新田」地名であり、石橋新田(稲付枝郷)、板橋新田、落合新田、御料新田、戸草新田(落影枝郷)、中島新田、原新田、宮之腰新田(辻屋枝郷)等は、近世に入って逃散した農民等を北国脇往還沿いに散在させて新たに開発が進められた田甫である。又、飯縄山の一峰、霊仙寺山の東麓にかつて存在した鎌倉時代の創建と伝わる霊仙寺も焼亡している事から、周辺地域における寺社もその多くが荒廃していたものと推測される。割ヶ嶽城の周辺では五輪塔の出土が多く認められるそうだが、寺地に葬られる事なく亡骸はそこら辺に埋葬されたものかと想像出来る。

…六坪位の火葬場を何とか実りのある訪問に昇華させようとするかずりは長野市立図書館で必死に調べまくる…城廻りに要らん情報かもしれないけど、副産物として上水内郡信濃町の古代から近世に至るまでの歴史がよく理解出来た。再訪問する際にはきっと役立つ筈だし見方も変わってくるだろう。

そりから、最近の図書館て若い方の利用が凄く増えているのね。学習室とか入ると塾みたいな印象さえある(通った事無いけど…)。必死に各市町村史を読み漁っていたら、おいらの隣りで勉強してるJCが突然の独り笑い…余りにも笑い続けるもんだからこっちも可笑しくなってきて、「何笑っとんねんっ!」と思わず突っ込みを入れる。「ごめんなさ〜い、落書きが面白過ぎなんですよ〜」とその本を見せてくれる。ほっこりするなぁ…

2024年02月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
薬師岳(舟岳山)[割ヶ嶽城  周辺城郭]



薬師岳(舟岳山)は割ヶ嶽城の南南西約1.2km、鳥居川東岸(左岸)、標高819mの薬師岳山頂部に立地したとの伝承が残る狼煙台か物見台の類いです。南麓の舟岳集落中心部からの比高は180m位でしょか。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…薬師岳は独立峰、一際目立つお山なので該地の特定は容易だ。取り付きは南東麓、町道脇に建つ薬師堂からとなる。

築城年代、築城者は不明、てかそもそも論で烽火台の伝承地である。「信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編」に掲載があるが、信濃のお城の神も城砦として認める訳にはいかなかったのだろう、「薬師岳」と山名で書かれるのみである。但し、無視も出来ない地勢にあるのは確かで、狼煙の中継点、物見の場として活用されたとしても何ら不思議では無い。

「長野県町村誌」には「舟岳山」として記述があるが、烽火台の伝承については一言も書かれない。「薬師岳」とも呼ばれるのは、かつて山頂部に薬師堂が勧進されたからである。現在、御堂は南東麓に移され、山頂部には堂宇が残るのみである。ちなみに割ヶ嶽城の南方への展望を妨げているのがこのお山だ。

色物物件すわ…正直、今回ばかりは乗り気になれなかった。アクセス良好な色物物件なら全然OK♪なんすけど、お山は結構急峻な山稜、登る比高も平均的な山城と変わらない(割ヶ嶽城よりも高所である。)。道筋は参道でもあり流石にしっかりとしているが、九十九折れの一辺が長く設定されているのには閉口した。気持ちが後ろ向きな分、物凄くだるかった。

山頂部は東西に長い平場、それなりの面積を持つ。周囲より掘り下げられ、コの字形の土塁に囲まれた削平地が2箇所、その一つには前述の薬師堂が建っている。堂宇は一部が損壊し野生動物侵入の痕跡が残っていた。眼を閉じて心眼を活用しても山頂部に城郭遺構は見出せない。又、薬師堂の西側には「井戸」の案内板が立っているが、積雪故に何処にあるのかは最後まで判らず終い、位置の特定が出来ない井戸の存在は探索する側にとっては恐怖でしかない。

薬師岳の北西約1.4km、針ノ木には「飯山道と川東道の分岐」が控える。「川東道」は、野尻から針ノ木を抜けて、舟岳、二十塚(レア物件、旗塚が残る。)、倉井を経て千曲川西岸(左岸)の浅野に至り、浅野からはやや北行して立ヶ花で千曲川を渡り、最終的には高井郡の中野に至る。「飯山道」は、野尻から柏原を通って針ノ木を抜け、柴津、永江を経て飯山に至る。両道は古くから存在し、律令制下で整備された東山道支道に準ずる道筋へ通じる間道であったと推測され、近世には北国街道(正式名称は北国脇往還である。)へ通じる裏道でもあった。

…天正十一年(西暦1583年)三月、上杉景勝制札には、「制礼 右、信州、越國往復之人民、経横道之事、堅令停止畢、所詮自牟礼香白坂を直ニ長沼ヘ可令往還之由、仰出、被成御朱印者也、仍如件、」とあり、景勝は人民に、越後から水内郡長沼への「横道」を堅く禁じ、水内郡牟礼の香白坂を通って直に長沼に至るよう定めている。制札に書かれる「横道」は前述の「川東道」に比定され、行人に牟礼の香白坂を通る事なく長沼に至る道筋が好まれたのは、番所等で改められるのを憚っての事だと推測されている。別に悪い事してる訳じゃないけど、検問を嫌って別の橋を渡ろうとする現代人と感覚は同じなんだろう。

※写真①は南麓、舟岳集落から撮影した薬師岳の近景、物件としてはアレだけど文中にあるとおり結構な山稜だったりする。

2021年06月26日 赤かぶ【】
若宮城[割ヶ嶽城  周辺城郭]



若宮城は別名 芋川城とも呼ばれており、芋川氏の本城とされているお城です。南方約2㌔の所には支城の鼻見城があります。

行き方としては国道18号牟礼駅入口の交差点から県道6号を北側に約4.7㌔走ると案内板と縄張図があります。そこから西へ約100m歩いて行くと遊歩道入口の看板がありますので、そこが登城口になります!民家と民家の間を通る感じです。
登ってすぐ位に西園寺堀という横堀があります♪
主郭に行くには堀のすぐ上の道を登って行きます。
急階段を上がると四の曲輪は二段になっていて、下段は西園寺屋敷跡です。
土塁・堀切・曲輪を繰り返し長い階段を登りきると主郭です!
主郭は楕円形で中ほどが一段高く石祠・社・石碑などがあります。
東尾根・北西尾根にそれぞれ堀切があるが主郭からかなりの急斜面を下る事になります!下手すると滑落する勢いですので、しっかりと装備して行って下さいね!
今回自分は準備不足という事もあり東尾根の堀切しか見に行きませんでしたが、かなりハードでした⤵︎

遊歩道とありましたが、この時期という事もあり草伸び放題、階段朽ちている所ありとあまり整備はされていない感じでしたので、しっかりとした装備でお願い致します☀︎

① 登城口
② 西園寺堀
③ 四の曲輪と三の曲輪の間の堀切
④ 主郭
⑤ 主郭東側の堀切1
⑥ 主郭東側の堀切2

2021年06月21日 赤かぶ【】
鼻見城[割ヶ嶽城  周辺城郭]



鼻見城は飯綱町三水芋川にある鼻見城山に築かれたお城です。
奥信濃で大きな勢力を持った芋川氏の本城である若宮城の支城とされています。

登城ルートはいくつかあるようです。
今回は城郭の近くまで車を乗り入れる事が出来る北側ルートを選択しました‪w
林道の入口には案内板も出ているので分かりやすいと思います。
入口から数百メートル進むと舗装されていない林道に入ります、途中鼻見城山という案内板がありますので更に奥に進みます。また数百メートル進むと右側に開けた所があるのでそこが駐車スペースです!
駐車スペースから数十メートルで山頂の案内板がありますので、その通り進むと10分以内で腰曲輪に着きます!道も緩やかな登りですので比較的に簡単に登城出来ますよ♪
主郭北側の腰曲輪には井戸跡があり、切岸を見る事が出来ます♬︎
主郭には石祠と屋根付きベンチがあります。
南側は開けていて景色は良いです♪
西側には主郭と二の曲輪を断ち切る大堀切がど~ん!朽ち果てた階段がありますので降りる時は注意して下さいませ!
南側の切岸も見応えありです♬︎
6月に訪れましたが草も苅ってあり遺構も見やすかったです。訪れやすいお城だと思います☀︎
① 林道入口案内板
② 林道の途中の案内板
③ 登城口
④ 主郭
⑤ 主郭北側の腰曲輪と井戸跡
⑥ 主郭からの眺め
⑦ 主郭西側の大堀切
⑧ 主郭南側の腰曲輪

2019年01月21日 弾込め完了征夷大将軍クララ姫
割ヶ嶽城

【犬連れ宿泊情報】
城下の長野県信濃町(黒姫高原)にあるペンション『BOW』バウさん、こちらは犬連れが宿泊条件の生粋の犬宿。新潟県上越市や長野市内・戸隠にも近くて便利。美女と野獣のご夫婦が美味しい食事を約束してくれます。冬場はスタッドレスタイヤ装着が必須です。

2011年05月02日 真田丸
割ヶ嶽城

リアル攻めするには、民家の間の細い道から、裏山に登るようになります。民家の方に一声かけたほうが良いでしょう

割ヶ嶽城の周辺スポット情報

 武州加州道中堺の碑(碑・説明板)

 北国街道牟礼宿・説明板(碑・説明板)

 飯山道・川東道分岐説明板(碑・説明板)

 琵琶島城(周辺城郭)

 鼻見城(周辺城郭)

 野尻新城(周辺城郭)

 若宮城(周辺城郭)

 土橋城(周辺城郭)

 入道館(周辺城郭)

 蛇声天神山(周辺城郭)

 福王子氏館(周辺城郭)

 虚空蔵山砦(周辺城郭)

 健翁寺館(周辺城郭)

 東裏城(周辺城郭)

 戸草城(木曽殿館)(周辺城郭)

 赤川城(戸川城)(周辺城郭)

 古海城(城山)(周辺城郭)

 狢倉城(周辺城郭)

 薬師岳(舟岳山)(周辺城郭)

 御所館(周辺城郭)

 伝・県主居館(小野連館)(周辺城郭)

 芋川氏館(周辺城郭)

 小八郎屋敷(周辺城郭)

 鐘山古城(周辺城郭)

 二十塚旗塚群(周辺城郭)

 熊坂長範居址(周辺城郭)

 宇佐美定行の墓(寺社・史跡)

 小玉一里塚跡(寺社・史跡)

 倉井神社(寺社・史跡)

 四ツ屋一里塚(寺社・史跡)

 割ヶ嶽城主火葬場跡(寺社・史跡)

 姫の泣き石(寺社・史跡)

 小林一茶旧宅(寺社・史跡)

 柏原宿本陣跡(寺社・史跡)

 関川関所(寺社・史跡)

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