戸草城(木曽殿館)
戸草城(木曽殿館)([割ヶ嶽城 周辺城郭])
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戸草城(木曽殿館)の口コミ情報
2024年08月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
戸草城(木曽殿館)は割ヶ嶽城の南南西約3.0km、鳥居川東岸(左岸)、同川の蛇行点へ向かって西方へ張り出す標高約619mの丘陵地上平場に立地する要害です。比高は無いに等しい。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地に建つ戸草公会堂に捨てられる。
律令制下における東山道支道の道筋は周辺地域において二つの経路が推測されている。一つは、御坂(見坂)を越えて戸草を通り、諏訪ノ原、針ノ木を経て沼辺の駅家に至るもの。もう一つは、近世の北国脇往還に近い道筋であり、途上の落影の北方には、「大道上」、「大道下」、「大道端」の地名を残し、街道以前の古い官道の存在を窺わせている。
現在の戸草城の住所は、上水内郡信濃町富濃戸草の内だが、そもそも論で往時が戸草に含まれる地域であったのかは大いに疑問とするところだ。農業集落境界データセットによると、戸車集落の東限は鳥居川を境としており、対岸に当たる該地はこの範囲から外れている。個人的には古間の南端に当たる地域であったと考えているのだが…
築城年代、築城者は不明です。別称にあるとおり、養和元年(西暦1181年)、北陸路に勢力を拡大する木曽義仲が人数を留めて人馬を鍛えた仮城であるとの伝承があり、城域内の一部は義仲を祀る護国庵の旧地でもある。当然、同年に発生した「横田河原の戦い」以降の出来事だと思われるが真偽については多くを語らない。
お城は山稜に囲われた窪地に立地し、南側は鳥居川に面している。改変著しく旧態は見ないが、かつて電化されるまでの信越本線は城域の央部を南北に走っていた。北辺には幅員のある堀形、西辺には空堀と大土塁が残り、推定城域を考えると相当に立派な縄張であった事が窺える。又、該地は基本的に開発から取り残された地域であったと推測され、中世における在地土豪等の存在を裏付けるような史料等が一切存在しない。個人的には比較的大きな勢力による道押さえの要害として普請に及んだものだと考える。
立地が謎でもある。敢えて義仲が築いた仮城とするならば、山地を前と左右にし、河川を後ろとする占地は如何なものなんだろう。東山道支道等の古い道筋が正確に何処を通っていたのかは不明だが、これ等を直接扼していたとしても不審である。個人的には北方の勢力によって築かれたと考えるのが妥当だと思うのだが…
…近世に入ると、該地の北方約0.9kmの位置には北国脇往還の宿駅、古間宿(信州鎌で有名、東方、柏原宿と合宿である。)が設けられた。北国脇往還の横道として往来が盛んだった川東道にも通じる地味ながらも交通の要衝である。
天正十年(西暦1582年)七月十三日、上杉景勝が島津淡路守(忠直)に宛行った「地方之覚」に記された領所の内に、「三百貫文 古間」が見られる。宛行われたのは長沼島津氏の旧領故だろう。
天正十一年(西暦1583年)三月十三日、ふる間(古間村)宛、備中守(岩井信能)、上野介(黒金景信)連署覚書には、「覚 一 てん馬宿をくり御用捨事 一 御普請人足御用捨事」等とあり、覚書には古間村の伝馬役、普請人足を免ずる旨が記されている。信長横死後、信濃との連絡を常に密にする必要性に迫られた上杉氏は、この時期に後の宿駅の原型となる伝馬駅の整備を推し進めていた訳だ。古間村の諸役を特に免じたのは、伝馬駅を開くに当たって、逃散を防ぎ定住を促す為政者としての思惑が働いたのかもしれない。
※城域を取り巻いて流れる「戸草・芋川用水」はゲンジボタルの生息地として知られている。
※写真⑧は日本で最初に掘削された山岳トンネルである旧戸草トンネル、城域北側の山稜を抜ける。完成は明治二十年(西暦1887年〉十一月だが、信越本線の電化に伴いその役割を新トンネルに譲った。現在は一般道路として利用されているとはいえ、夜間に一人で通るのは勇気が要る事だと思う。ちなみに戸草城の空堀の殆どはこのトンネルの掘削残土を用いて埋め立てられている。