赤川城(戸川城)
赤川城(戸川城)([割ヶ嶽城 周辺城郭])
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赤川城(戸川城)の口コミ情報
2024年08月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、境目のお城て聞くと興奮する輩も多いと思うんだけど、今回紹介するお城は信越国境を目の前にしながら実にしょぼ〜んてしている。特に戦国時代において、国境がイコール勢力間の境目とは決してならない事を示す一例でもあるんだろう。定住するには自然環境が厳しく人家もまばらで、はっきりとした集落、郷村の形成が見られなかった地域でもある。堅固な要害を築く必要性が希薄であり、地勢的にも経営面からも要害の維持が困難だった事が想像される。
赤川城(戸川城)は割ヶ嶽城の北西約6.4km、池尻川西岸(左岸)、関川南岸(右岸)、標高約651mの山稜山頂から北東へ伸びる尾根端部上、標高約607m地点の平場に立地する狼煙台か物見台の類いです。北麓の関川からの比高は45m位でしょか。城域の直下にはしなの鉄道北しなの線の赤川トンネルが貫通している。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は北麓の関川の関所跡、長野県側の駐車場に捨てればよい。駐車場の目の前にトンネルの開口部の付いた山尾根が迫っているので適当な場所を選んで適当直登する。崖地を登る事を厭わない方のみ挑戦するがいいさ。ちなみに後で気付いたけど東麓の廃家屋の裏手からよじ登るのがベスト、何れにせよ苦労はさせてくれる。
軽く考えていたんで、短パンにTシャツ、VANSで登城、傷だらけになった上に藪蚊の襲撃を受けまくり…たぶん10箇所以上は刺されている。当初は比高がマイナスとなる南側の国道18号側から取り付く予定だっだけど、激藪過ぎて人類にはとても無理、何だか負けず嫌いが発動してしまい意地でも登ってやろうと考えた挙句の浅知恵が崖地の直登だった。登る直前には通過車両から、「何やってるんすか?」と不審の眼で咎められる。ただの変態なんでほっといてくれ。
築城年代、築城者は不明です。明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、その中に、「一 芋川庄内沼尻関所事」とある。時代にも左右されるが、国境の狼煙台や物見台の類いである事を考えれば、この高梨氏の普請によるものだと推測しても誰も否定は出来ないだろう。ちなみにアプリの登録城、高梨氏城館のリア攻めマップにある、同氏の普請と推測される道光砦に現況や占地、縄張がそっくりだ。まぁ、単純極まりない縄張なんで誰が普請しても結果は似た様なものになるんだろうけど…
お城の現況は…堀切を前後に配した完全無欠の単郭である。以上…堀切が無ければ何処が主郭になるのかも定かではなくなるだろう。ちなみに夏場は相当な藪城だ。辿り着くまでが一苦労、北信の藪は低雑木が多くて痛いので藪漕ぎするのも辛い。ノーマルな方はリア攻めする必要性が微塵も無い。期待していた展望も樹木に遮られて何も見えないに等しい。
狼煙台や物見台の類いである事に疑いは無いが、何処に繋いでいたのかとなると疑問が残る。当然、戦国時代における上杉氏による利用も考慮すべきだが、周囲から隔絶されており、狼煙台としてのネットワーク自体が構築されていないように思う。
鎌倉時代、該地の水内郡赤川は鎌倉幕府御家人、小早川茂平の所領であり、茂平の子、忠茂が贈与を受けている。その子、政忠の代に至り在名を名乗って赤川氏を称したが、その子、忠政の代に至ると毛利時親に従って安芸国下向に追従した。茂平や時親の没年を考えれば、赤川氏の在地は百年にも満たなかった筈だ。ちなみに同氏は毛利氏の譜代家臣として存続、赤川元保は毛利元就の元で五奉行の筆頭でもあった。
※赤川〜「長野県町村誌」に添付された村絵図によると野尻峠を跨ぐが野尻村の一集落である。
※写真①は別日に関川の対岸、一之橋付近から撮影した近景っす。撮影場所は新潟県となる。
※写真②〜⑦の草写真は主郭とか堀切を撮影したものなんだと思う。堀切は意外にも立派なんで冬場なら多少は映える筈…
※写真⑧は別日に信越国境を流れる関川を撮影したもの。近世以前には何処で関川を渡っていたのか不明である。写真向かって左側が越後国、右側が信濃国、現在も県境である。