福王子氏館
福王子氏館([割ヶ嶽城 周辺城郭])
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福王子氏館の口コミ情報
2024年06月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
福王子氏館は割ヶ嶽城の南方約5.5km、鳥居川北岸(左岸)、標高約537mの河岸台地丘陵地上平場に立地したと推測される居館です。該地は上水内郡飯綱町普光寺に位置するが、「普光寺」は即ち、「福王子」であり、大字であると同時に寺名でもある。
行き方はGoogleマップに位置登録されている浄土宗の寺院、「普光寺」を目標に設定して下さい。この寺院が概ねの該地である。車は隣接する普光寺公民館に捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方も不明としたい。最初に断りを入れておくが、信濃のお城の神が、川中島での軍功を褒されたていう福王子兵部少輔の存在を挙げる「三水村誌」の不確実な記述を元に、同氏の居館地として適当と思われる場所を周辺地域から選び出したのが該地である。従って実際に存在したのかさえ根拠を欠き、そもそも論で村誌が言う水内郡にあった福王子氏の存在自体が極めて不審である。
嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、十番五月會分の条には、「…黒河、福王子、長治(沼)、下浅野郷豊後左京進入道(島津宗久)跡」とあり、島津宗久の後裔、左京進光忠が、黒河郷、長沼郷、下浅野郷と共に福王子郷の地頭職であった。同名は一般的に長沼島津氏の祖とされる。
時代は下って、天正十年(西暦1582年)七月十三日、上杉景勝が島津淡路守(忠直)に宛行った「地方之覚」に記された水内郡内の領所の内に、「七百貫文 福王子」が見られる。当時としてはそれなりに裕福な郷村であったようだ。
該地の中心地である性空山普光寺は現地の説明板によると、「…戦国期再度の火災と弘化年度(西暦1845年〜1848年)の地震にあい、前林、戸袋沢、現在地と移り…」とあり、寺地に数度に亘る移動が見られる。信濃のお城の神が福王子氏館の位置を普光寺に求めるのは、「豪族が自分の館地に隣接して菩提寺を建てる例は多い。まして郷名を名乗った氏族となれば、その由来する寺名と同名の氏族との関係は極めて深いと想像し、福王子氏の館地はこのあたりと想定する。…」との推測による。又、寺地に移動があるのならば、元の福王子氏の居館地に普光寺が移ったものとも考えられるだろう。
居館の現況は…リア攻めが殆ど成立しないのでどうしようもない。個人的には普光寺本堂北側後背丘陵地上の耕作地と墓地が適地だと考える。そもそも論で存在したのかすら判らない物件なのだからそれ以上の事は頑張っても語れない。ちなみに周辺一帯は改変があるとはいえ、居館地としての適地が無数に存在する。
飯綱町の遺跡分布図には、大字としての普光寺に、「古城遺跡」、「堀の内居館跡」が記されている。どちらも中世の城館に関わるものと思われるが、発掘調査自体は未だに行われていないようだ。個人的にはこちらの方を信濃のお城の神に調査して欲しかった…位置の確認は終えているので次回に訪ねてみようかなと考えている。人に任せず自分でやろう。
※戦国時代には、越後守護代の長尾氏、次いで上杉氏に従う福王子氏が確認出来る。長くなるので詳細は語らないが、「三水村誌」が言うところの福王子氏との関係性は無いに等しい筈である。ちなみにアプリの登録城、越後国頸城郡の箕冠城を訪ねた際の帰り道に、「謙信公根越三城将供養堂」なる御堂を偶然にも見付けた。三城将の一人に名を連ねるのが福王子彦八郎孝重であり、現地の説明板には、同名が頸城郡福王子に位置する御殿平城城主であった事が記されている。
※福王子氏はともかく、長沼島津氏一族等の居館地が福王子郷にあった事は疑える。但し、該地がそうであったて根拠は何処にも存在しない。文中にある「堀の内居館跡」が全てを解決してくれるとは思うのだが、こちらの方も史料、伝承等を一切欠く。
※ 居館地としての適地が無数に存在する〜例を挙げれば写真⑧の様な場所がそれだ。
※撮影日が異なる写真が4枚ある…判ったら凄いや。