東裏城
東裏城([割ヶ嶽城 周辺城郭])
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東裏城の口コミ情報
2024年06月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
東裏城は割ヶ嶽城の西南西約3.0km、鳥居川北岸(左岸)、標高約672mの河岸台地南縁上平場に立地する要害です。南麓の鳥居川からの比高は20m位でしょか。但し、城域の西側は台地上と連続しており、此処からの比高はマイナスである。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所は周辺に建つ同じ割ヶ嶽城のリア攻めマップにある小林一茶旧宅の駐車場がよい。少し歩く事にはなるがベストである。
築城年代、築城者は不明です。該地は現在の上水内郡信濃町柏原新町に位置し、北国脇往還の宿場、柏原宿の東端に当たる。中世にも同様の道筋が存在した事は確実なところだろう。逆に考えれば東裏城の立地がそれを裏付けているとも言えるし、同城には鳥居川の渡し場を扼す城砦て位置付けがぴったりだ。ちなみに律令制下の東山道支道は柏原を通過しない経路が推測されており、柏原宿自体も北国脇往還の開道に併せて周辺地域に散在する人家を集住させて成立した宿場町である。
…信濃町の歴史を調べているとどうしても壁にぶつかってしまう。旧石器時代から縄文時代の遺跡や遺物が極めて豊富(野尻湖遺跡群)な行政区だが、稲作に適さなかったのか、弥生時代から極端となり、近世に至るまでのものが他地域と比べると圧倒的に少ない。史料的に見ても同様であり絶望的とさえ感じる。古代には官道が通過し、信越国境を構成する重要な地域である筈だが、歴史の空白を見ているようでもあり、「信濃町誌」もこれ等については書く事が少ない。
…単純に言えば、どの勢力の下で、どんな人が住していたのかの見当が皆目付かない。信越国境には何某かの城砦跡が散在し、在地土豪の存在を裏付けるような五輪塔群が出土していたりもするのだが、居館地と推測されるような場所は未だに確認されておらず、伝承等も伝わらない。
中世には芋川庄に属する地域である。明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、その中に、「一 芋川庄内沼尻関所事」とある。特に関所を知行地として書き出した事は、関銭の徴収に当たっていた事を意味するんだろう。但し、別な租税の徴収を得ていたとは考え難く、知行地とするような田圃を持つ郷村の存在が見え難い。面として捉えるよりは点で結ばれるような地域だったと考える。何れにせよ、永禄年中(西暦1558年〜1570年)には甲越の境目であり、地域は緩衝地帯の役割を担い、人家もまばらで荒廃していたと推測出来る。
お城の縄張は、南辺が鳥居川に面し、北辺は小沢が形成する小谷に面しており、謂わゆる狭小な舌状台地を活用している。「長野県町村誌」の記述を信ずるならば、城域は西側に広大過ぎ、信濃のお城の神は寸法の誤記であろうとする。城郭遺構は見出せず台地上はただの耕作地ではあるが、城砦としての占地だけで個人的には十分に満足出来る。つまりは典型的な要害地形なのだ。ちなみに該地は「城山」の小字が残っていた場所でもある。城域内に東裏城を示す物は何も無いが、「城・山」と大書された看板が設けられているのには感動した。むしろ「東・裏・城」としなかった配慮に感謝したい。
※東裏城には、建仁元年(西暦1201年)、「建仁の乱」の際の里俗伝が伝わっているが、明らかな誤伝であると思われるので取り上げない。ちなみに縄張は東向き、南向きであり、築城者は時代不明なるも北方の勢力(越後の勢力しか思い付かない。)と推測する。
※柏原宿…人家を集住させて成立した宿場町〜小林一茶もそうした一家の生まれである。
※誰でも訪ねる事が出来る好物件にも関わらず、意外な事にネットで検索しても一切ヒットしない。