芋川氏館
芋川氏館([割ヶ嶽城 周辺城郭])
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芋川氏館の口コミ情報
2024年05月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
芋川氏館は割ヶ嶽城の南南東約4.5km、斑尾川西岸(右岸)、標高約540mの山間平野部平場に立地した居館です。南方へ緩やかに下る斑尾川が形成した小扇状地の扇央部に当たる。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。居館の敷地範囲は隣接する浄土真宗大谷派の寺院、森尾山鎌田院妙福寺と僅かだが重複している。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは芋川氏です。同氏については割ヶ嶽城のリア攻めマップにある健翁寺館、若宮城等を別に参照して下さい。
武田氏から信越国境の国人領主として重要視された芋川氏(善光寺平以北、律令制下における東山道支道の道筋に当たる地域を差配していたと推測される。上杉氏の本拠、春日山から最も近い距離にある武田氏方の在地勢力が芋川氏だ。)だが、それ故に他地域への出張が確認出来ず、信玄、勝頼の二代に亘っての活動が特に見られない。芋川氏が歴史の表舞台に登場するのは武田氏滅亡後である。
川中島四郡を差配する森武蔵守長可は北信の諸氏に去就を迫るが、これに従わなかったのが芋川右衛門尉親正だ。二次史料ではあるが、「信長公記」には次の記述がある。
「四月五日、森勝蔵(長可)川中島海津に致在城、稲葉彦六(貞通)飯山に張陣候所、一揆令蜂起、飯山を取巻之由注進候、則稲葉勘右衛門(重通)、稲葉刑部、稲葉彦一、國枝(頼母)、是等を為御加勢飯山へさし被遣、三位中将信忠卿より、團平八(忠正)、是又被差遣、然而御敵山中へ引籠、大蔵之古城拵、いも川と云者一揆致大将楯籠、」
「四月七日、御敵長沼口へ八千許にて相働候、則森勝蔵懸付、見合、瞳と切懸り、七八里之間追討に千貳百余討捕、大蔵之古城にて女童千余切捨、以上頸數貳千四百五十余有、此式候間、飯山取詰候人數勿論引拂、飯山請取、森勝蔵人數入置、稲葉彦六御本陣諏訪へ帰陣、稲葉勘右衛門、稲葉刑部、稲葉彦一、國枝、江州安土へ帰陣仕、右之趣言上也、森勝蔵山中へ日々相働、所々之人質取固、百姓共還住被申付、粉骨無是非様躰也、」
…面倒なんで解説しないけど、おいらでも原文から大意は理解出来たんで一揆の様相だけは伝わる筈…あえて簡単に言えば、稲葉貞通が在陣する飯山城を囲んだ「いも川(芋川親正)」を大将とする一揆勢は逃れて「大蔵之古城」に籠城したが、森長可の迅速な働きにより凄惨な結果に終わったて事になる。
越後に逃れた芋川親正は後に越前守を名乗り、上杉氏の下で芋川の本貫地を安堵され、アプリの登録城、牧之島城の城代を務めた。文禄三年(西暦1594年)九月の「定納員数目録」によれば、親正の知行高は四千四百八十六石であり、北信の国人領主としては須田氏、島津氏に次ぐ大身である。後には上杉氏の会津移封に従い、後嗣、元親分と合わせて八千石を知行する。又、あまり知られていないが、慶長五年(西暦1600年)の「関ヶ原の戦い」直前までの白河小峰城城主でもあった。
芋川氏館は平成十三年(西暦2001年)から翌年にかけて二次に及ぶ発掘調査が行われている。信濃のお城の神の調査はその前年であり、居館の敷地範囲には相違が見られる。表面上現存する遺構は北西角の土塁の残欠、若干の堀形のみ。他にあっては投げっぱなしで申し訳無いけど、結果報告書がネットでダウンロード出来るのでそちらをどうぞ。ちなみに堀跡からは信濃で唯一と言ってよい障子堀が検出されている。
中央の歴史から見ればその名さえ正確に伝わらない親正だが、織田氏に従う事を一揆を以て拒否した気概のある人物だったと言える。後世、人気の高い鬼武蔵より親正の心情に共感を覚えるのは関東に住まう者だからだろうか。それとも判官贔屓故だろうか。
※ 調査結果から一般的に流布している居館敷地範囲は誤りである。妙福寺北側の堀形は単なる後世の水路である事に注意されたし。
※「大蔵之古城」〜髻山城のリア攻めマップにある大倉城がこれに当たる。霊感無いけど夕方ぐらいになると誰かの視線を感じる。JKなのかな。
※写真⑧は隣接する妙福寺を撮影したもの。同寺には飯山城の移築冠木門が現存している筈だが…現在は別の物に替えられている。飯山城に復するんだろうか。
※個人的な感想だが、森長可には信長の意思を斟酌してそれを外地で実行する「小信長」の印象を持つ。それ故に性急であり苛烈でもあった訳だが、道家思想的に考えれば、若くして討死したのは因果応報て事なんだろう。